花浜匙の花束
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
うだるような暑さが続く日々が嘘のような涼しい朝、いつ壊れても不思議ではない古びたアパートの一室の前に険しい表情をした男が二人。
それぞれ名を近藤勲、土方十四郎と言う。泣く子も黙る警察組織真選組のツートップであるが、今日の彼らはその身分を忘れ亡くした旧友に会いに行くためにここに立っていた。
「おう祈莉、生きてるか」
十四郎が戸を叩いたのを聞きつけ、名を呼ばれた娘が玄関口に顔を出す。彼女のフルネームは新見祈莉。
真選組の中心として共に道を歩んだ旧友こと新見一識、彼の遺したたった一人の妹。それが彼女だった。
二人にとって親友と呼ぶに相応しい間柄にあった一識だけでなく、彼らは祈莉自身とも古い付き合いであり、互いに気心の知れた相手だと認識している。
故に十四郎は墓参りに向かうというこの日に、この上なく相応しくない口上で戸を叩き、祈莉もそれに対し怒ることなく微笑むのだった。
「おはようございます土方さん。ちゃんと生きてますよ。近藤さんも、朝早くからすみません」
「他ならぬお前の頼みだ、かまわんさ。それに日帰りで武州に向かうとなるとこのぐらいに起きんと明日がキツイしな」
家を発つ準備は既に出来ていたらしい祈莉が、滑るように玄関からその身を出して男らに小さく頭を下げる。
顔にこそ出さないものの、今日という日が誰よりも憂鬱であろう彼女に気を遣わせまいと勲は笑いながら、それ以外には何も言わずに歩き出す。
そう遠くない場所に置かれた車に三人で乗り込んで、運転を任された十四郎がエンジンを掛ける。
それとほぼ同時に愛用の煙草を一本口にし、火を灯そうとライターに指を掛けたところで、助手席に座った勲に制止されてしまう。
「今日は我慢しろ。祈莉も居るし…何より一識が嫌がるだろうよ」
「あぁ…そうだった。悪ィな祈莉」
その制止に、いつかの夏に新見家の両親が早世した理由を一識から聞いたことを思い出す十四郎。
それはどちらも、煙草がもたらす害によるものだった。十四郎など比ではない重度の中毒者 の父と、その煙を一身に受けた故に肺を患ってしまった母。
祈莉達の両親が五体満足のまま老いることが出来るほど、地球の文明は当時は発達していなかった。
尤も、それは天人の襲来によって急速に科学の発展を経た今もそう変わらない。この細長い紙巻が自らを蝕むのだと頭では理解していながらも、十四郎はその嗜好を断ち切るには至れずにいた。
「そんな土方さん、私は大丈夫なんで気を遣わないでください」
十四郎が煙草を箱に戻そうとするのを見た祈莉が、慌てた様子で手を振り、喫煙を勧める。
彼女も煙自体得意ではないが、両親の記憶も死因も朧気にしか覚えていないらしく、生前の一識ほど強く嫌悪感を抱いてはいなかった。
「違ェーよ。おめーの為じゃねェ、吸っちまうとエアコンかけらんねーのを忘れてたんだよ」
空調を指して、そのままその指で冷房のスイッチを入れる。冷えすぎないように温度を調節して、ようやく彼らを乗せた車は発車する。
実の所、十四郎の弁は言い訳にしかならない戯言では決してない。車の備え付けの空調を使うとなると冷気を逃がさぬよう必然的に窓を開けることが憚られ、煙が車内に充満してしまう。
それは乗車人員の健康を害するのは勿論、運転にも多大な影響を及ぼしかねない。
一識との本当の意味での再会はまだ先送りにしたい彼らにとって、自らや仲間たちを危険に晒すのはなんとしても避けるべきであった。
「…わかりました、じゃあ今日はそういうことにしておきます」
「おう、頼むわ」
十四郎の無為な強がりはそうして肯定され、会話の区切りを迎えた車内は暫しの静寂に包まれる。
その静けさに睡魔が忍び寄るのを感じた祈莉が、気を紛らわせる意も込めて今日来ることが叶わなかった少年の名を挙げ話を広げようと画策する。
「今日…総悟くんも来られたら良かったんですけどね」
「残念だが仕方あるまい。仕事も理由にあるはあるんだが…総悟自身、一識の墓の前に立つにゃまだ気持ちの整理が着かんようだな」
「どうだか。朝早くから出るのが面倒で適当言ってるだけだと俺ァ思うが」
十四郎が雑な想像で切り捨てるものの、少年の内で燻る後悔を知る勲はそれには同意出来ない様子で眉を顰める。
友と家族、無謀にもそのどちらをも護ろうとし散って行った一識と剣を交え、彼の最期を看取ったのは他ならぬ総悟である。
生前の一識と総悟がどれだけ親しくしていたかを熟知している勲にしてみれば、その事実が総悟の肩に重くのしかかっているかは想像に難くなく、故に十四郎が告げるような生半可な気持ちで今日の同行を拒んだとはとても思えなかった。
「二人のやりとりを聞いてて思ったんですけど…たぶん、どっちも違うんじゃないかな」
しかし勲や十四郎が知らない少年の一面を傍で何度となく見てきた祈莉は、二人の意見を元に彼らとは全く異なる見解を示す。
「お兄が居ない今の真選組で、近藤さんと土方さんが不在のときに何かあった際、二人なら誰に任せますか?」
「…そりゃあ、総悟しか居らんだろう」
悩み抜いた末、勲は隊士を纏められるだけの人望を持ち実力も自分以上と認めているほぼ唯一の存在として総悟を挙げる。
勲の脳裏には他にも数名の候補が上がってこそいたものの、いずれも隊を任せるには何かしらの不安が残る者ばかりだった。
「皮肉なモンだが、俺もそこは近藤さんと同意見だ。俺らが出払ってる時に一番上が山崎や原田じゃ不安すぎる」
ハンドルを握る男の指が、一定間隔でリズムを刻む。どうやらニコチン不足での運転によるストレスから、苛立ちが隠しきれなくなっている様子だった。
そんな彼でも勲の意見には深く同意し、局長が考慮に浮かべつつ否と考えるしか出来なかった面子の名を出して彼らの頼りなさを祈莉に示す。
「でしょう? きっと今日も…そういう理由で来なかったのかなって。そう思わないと寂しいってのもありますが」
「…そうかねェ。祈莉の考えも一理あんのかもしんねーが…俺にはアイツがそんなこと考えて留守番するような、そこまで殊勝なタマにゃ見えねー」
公私問わず常日頃から散々な目に遭わされているせいか、総悟の隊長格としての成長を意地でも認めたくないらしい十四郎。
頑固さは総悟も十四郎も同じ程度だと認識する勲は、困ったように笑みつつ、鏡越しに後部座席の祈莉と肩を竦め合った。
「ああそうだ、そろそろ高速ですよね。お金出しますんで今の内に…」
仕事で通い慣れた景色から、祈莉が自分たちを乗せたこの車が有料道路に差し掛かろうとしていることを感知する。
個人的に事情で出してもらっている以上は移動費を払わねば筋が通らないだろうと財布を出そうとする彼女だったが、勲が振り向いてそれを止める。
「心配ない。経費で落とすからな」
「ん?」
「いやー実は今日の武州行きなんだが、隊士募集の為の出張扱いにしててな。そうすりゃ都合もつけやすい。だから下手にお前に金出される方が困るってわけだ」
勲からの衝撃的な告白に、祈莉はその悪知恵が元は誰の立案かを察し静かに項垂れる。
「あぁ…お兄の入れ知恵でしょう、それ」
「はっはっは、流石アイツの妹だ。一瞬でバレちまった」
生前の一識が破天荒な仲間たちや理不尽な上官の尻拭いをする為に身につけざるを得なかった処世術のひとつが、今回のような手法である。
当然発覚すれば批難は避けられない、誤魔化しようもない横領そのものなのだが、その恩恵を享受してしまっている祈莉には既に彼らの悪業を咎める権利はなく。
「ダメですよそんな悪いところ真似しちゃ…って、何も気にせずこの車に乗った私が言えたことじゃないか。すみません」
「ま、そういうこった。大人しく共犯になってもらうぜ」
一識の遺した知恵を受け継ぎ、悪びれる様子もなく笑う十四郎。目前に見えた料金所を停まることなく素通りして、それと同時に無機質な機械音声が流れた。
「えっ、あれ? 停まらなくてもいいんですか?」
もう間もなく有料道路に入るにも関わらず、停まることすらなく一切手続きをしていないことに驚き、汚職に汚職を重ねているのかと焦る祈莉。
慌てる彼女を宥めながら、既にこのシステムの知識を持つ勲が運転に集中している十四郎に代わり改めて説明する。
「そうだ、車に勝手に料金を払ってくれる機械…なんて名だったかな、ともかくソレをつけてりゃ高速もすんなり通れるって寸法よ」
「よかった、だから停まらずに通れるんですね。てっきり料金所のおじさんが買収されてるのかと焦りましたよ…でもさすがに、その辺は国家権力を持つ組織だけあってハイテクですねえ。いいなあ」
仕事柄、車を活用して東奔西走する機会の多い祈莉にとって、長距離を走る際には有料道路の利用が欠かせない。
その際にいちいち料金所で停まる煩わしさが丸々無くなるという最新技術の発展を目の当たりにし、彼女は羨望の眼差しを向ける。
「今はまだ試用段階だそうだが、使ってる身としちゃ相当便利だからそう遠くない内に一般にも普及するだろうな」
「ほんとですか! 期待してます」
「だがよォ近藤さん、こりゃ確かに便利なのは間違いねーんだが…減速しねーヤツが増えて事故の危険も増えそうだぜ」
軌道に乗りいくらか気持ちの落ち着いたらしい十四郎が、先の自動支払い機能の欠点を指摘する。
「うーん、それは確かにありそうですね。運転マナー悪い人は本当に酷いからなあ」
「だとさ。言われてんぞトシ」
冗談めかして笑う勲に、自覚がある十四郎はそれを本気にしたらしく鏡に見えた祈莉を睨みつける。
とばっちりを受けた彼女は困惑気味に弁明して、それを聞いた運転手はようやく平静を取り戻し彼女の意見に同調した。
「あっいや、土方さんじゃなくて。ほら、仕事で走ってるとたまに怖いくらいくっついてくる車とか居るんで…」
「あぁ…そっちか。そういう輩もチマチマ取り締まってはいるんだが、やっぱりキリがねェ」
安全運転で走行している筈の車を煽動する危険行為。当然の事ながらそれは交通法で厳しく取り締まるに値する違反である。
そんな不安に仲間が日々晒されていると聞き、十四郎と勲の胸中にはやり切れない想いが増していく。
「…ごめんなさい、湿っぽくなっちゃいました」
気まずく重苦しい空気に耐えきれず、自己嫌悪に俯く祈莉。そんな車内とは真逆に外の太陽は燦々と輝き、夏至を越えた後とはとても思えぬ猛暑を感じさせた。
「気にしてねーよ。だからお前も気にすんな」
「ありがとうございます。あぁ土方さん、次で高速降りられますか? 大通りを行くよりそっちの方が楽ですよ」
「ほーん、流石に仕事で何度もこっちまで来てるだけあるな。助かる」
仕事で培った知識からなる祈莉の有能なナビゲーションに、十四郎が感嘆と共に感謝を彼女に伝える。
出入口の料金所でも停まることなくスムーズに抜ける様を見て、祈莉はドライバーにとって新しい時代がもうすぐそこまで来ているのを再び感じ期待に胸を馳せた。
「そしたら祈莉、この先しばらくは俺らじゃ道がわからん。案内頼めるか」
「はい、お任せあれ。じゃあ早速ですがその交差点、右行ってください」
「今からかよ!? 無茶苦茶言ってんじゃねェてめー、そういうのはもっと早く言え!」
つい先刻まで危険運転の話題だったとは思えない急な車線変更を要求する祈莉に、十四郎は容赦なく吼える。
「あははっ! すみません土方さん、冗談です。そこの道はすんなり行けば速いは速いんですけど、狭いし入り組んでて…この車の大きさじゃ対向車とすれ違えないかも」
「なんだそりゃ…そんな道、今聞いても困るだろうが」
「いや、もしかしたらトシなら一人で来ることもあるだろう」
「…そんな暇が作れりゃいいけどな」
唯一の家族とも呼べる愛情を与えてくれた異母兄の為五郎や、片恋のままこの世を去った想い人のミツバ。
一識以外にもその墓前に立ちたい相手が幾人も思い当たる十四郎は、当分叶いそうにない願望を静かに零して、段々と見知った景色に変わりゆく道を進む。
案内の必要が減るにつれ祈莉も早起きすぎる故の体内時計の狂いに眠気が増していき、瞼がゆっくりと船を漕ぎ始めていた。
「そういや腹減っただろ祈莉、先に朝飯食うか?」
「ふぁーい…」
傍らに見えた軽食屋を指して、勲が完全に眠ってしまいそうになっていた祈莉に問いかける。
寝ぼけ眼を擦りつつ賛成の意を応える彼女だが、彼の提案は開店時間という障害によって空回りしてしまう。
「近藤さん、まだ朝早すぎてどこも開いてねーだろ」
「おっと…すまん。じゃあコンビニにでも寄るか」
「このド田舎の僻地にそんなモンあんのかねェ」
勲が軽食屋の次に代替案として挙げたのは、二十四時間営業が前提となるコンビニエンスストア。
だが江戸の街ならばともかく、田舎である武州においてそんな高度なものがあるのかと訝しむ十四郎に、再び祈莉が懸命に欠伸を隠しつつ二人に微笑んでみせる。
「ありますよぉ。今来た道を少しだけ戻るか、結構先まで行くかのどっちかになりますけど」
「ほーん…だが、戻るよか前に行った方が楽なんだよな。二人ともそれでもいいか?」
「俺は構わんぞ。運転手のトシに任せる」
祈莉も共に頷いて、三人を乗せた車は引き返すことなく前へと進む。開けた道を行けども早朝の為か殆ど車の通りはなくすんなり進み、程なくして最初の目的地へと辿り着いた。
「…ここか。見るからにボロいが…まぁやってりゃ何でもいいか」
「そうですー、品揃えもちゃんとしてますよ」
ぞろぞろと降車して、長時間の車内滞在で縮こまった身体をそれぞれ思い思いに解す。
気の抜けた入店メロディを背にコンビニへ入り、祈莉は慣れた素振りで奥の陳列棚へと向かっていき、二人もそれに倣って着いていく。
「車の中で食べるとなると、零しかねない汁物は厳禁ですよね」
「そこまで気にすることでもないぞ。ウチの馬鹿共はどんなに注意してもしょっちゅう汚してやがるからなァ」
遠慮がちな祈莉を後押しするかのように気兼ねなく自分が食べたいものを選び、その上で部下達の素行の悪さについて愚痴を零す勲。
「いやいや、それを聞いたら尚更綺麗に使わなきゃってなりますよ。よし、今日はあんぱんにしよっと」
「本当にブレねーなそれも。いつ頃からだったか?」
レジに並ぶ最中、この武州で暮らしていた頃から変わらない祈莉の糖分愛好に気付いた十四郎が問う。
彼女は改めて記憶の糸を辿りながらも、自分がいつからこれほどまでに甘い物に目がない性分になっていたかは終ぞ思い出せそうもなかった。
「うーん…最初に思ったのはいつだろう? 総悟くんと一緒に金平糖食べた時かなあ、それとも誕生日のケーキか…あ、お兄がこっそり買ってくれたチョコレートかも?」
「…いや、もういい。聞いてるだけで朝から胃がもたれそうだ」
際限なく提示される甘味のバリエーションに、油分と違い糖分にはあまり耐性のない十四郎は頭を抱え話を遮る。
しかし購入した弁当の量には明らかにそぐわない本数のマヨネーズをしっかりと携えており、祈莉の甘党に関して彼が何かを言う資格はなかった。
「トシ、悪いが俺からしたらどっちも変わらんぞ…」
勲の指摘は三人の退店と共に流れるメロディに虚しく掻き消され、まだ辛うじて熱の籠りきらない車内に乗り込み各々買ってきた食事を広げる。
食べ零しを出さぬよう緊張した面持ちで食べる祈莉と、何も気にせず平然としている二人との対比は、傍から見れば面白可笑しくさえ感じられた。
「…んじゃ、行くか」
「はい」
食べ終えた頃合を見計らい、十四郎が後部座席に声を掛ける。祈莉が食事を終えた後の合掌と共に頷くのを合図に、エンジン音が早朝のコンビニに鳴り響いた。
それぞれ名を近藤勲、土方十四郎と言う。泣く子も黙る警察組織真選組のツートップであるが、今日の彼らはその身分を忘れ亡くした旧友に会いに行くためにここに立っていた。
「おう祈莉、生きてるか」
十四郎が戸を叩いたのを聞きつけ、名を呼ばれた娘が玄関口に顔を出す。彼女のフルネームは新見祈莉。
真選組の中心として共に道を歩んだ旧友こと新見一識、彼の遺したたった一人の妹。それが彼女だった。
二人にとって親友と呼ぶに相応しい間柄にあった一識だけでなく、彼らは祈莉自身とも古い付き合いであり、互いに気心の知れた相手だと認識している。
故に十四郎は墓参りに向かうというこの日に、この上なく相応しくない口上で戸を叩き、祈莉もそれに対し怒ることなく微笑むのだった。
「おはようございます土方さん。ちゃんと生きてますよ。近藤さんも、朝早くからすみません」
「他ならぬお前の頼みだ、かまわんさ。それに日帰りで武州に向かうとなるとこのぐらいに起きんと明日がキツイしな」
家を発つ準備は既に出来ていたらしい祈莉が、滑るように玄関からその身を出して男らに小さく頭を下げる。
顔にこそ出さないものの、今日という日が誰よりも憂鬱であろう彼女に気を遣わせまいと勲は笑いながら、それ以外には何も言わずに歩き出す。
そう遠くない場所に置かれた車に三人で乗り込んで、運転を任された十四郎がエンジンを掛ける。
それとほぼ同時に愛用の煙草を一本口にし、火を灯そうとライターに指を掛けたところで、助手席に座った勲に制止されてしまう。
「今日は我慢しろ。祈莉も居るし…何より一識が嫌がるだろうよ」
「あぁ…そうだった。悪ィな祈莉」
その制止に、いつかの夏に新見家の両親が早世した理由を一識から聞いたことを思い出す十四郎。
それはどちらも、煙草がもたらす害によるものだった。十四郎など比ではない
祈莉達の両親が五体満足のまま老いることが出来るほど、地球の文明は当時は発達していなかった。
尤も、それは天人の襲来によって急速に科学の発展を経た今もそう変わらない。この細長い紙巻が自らを蝕むのだと頭では理解していながらも、十四郎はその嗜好を断ち切るには至れずにいた。
「そんな土方さん、私は大丈夫なんで気を遣わないでください」
十四郎が煙草を箱に戻そうとするのを見た祈莉が、慌てた様子で手を振り、喫煙を勧める。
彼女も煙自体得意ではないが、両親の記憶も死因も朧気にしか覚えていないらしく、生前の一識ほど強く嫌悪感を抱いてはいなかった。
「違ェーよ。おめーの為じゃねェ、吸っちまうとエアコンかけらんねーのを忘れてたんだよ」
空調を指して、そのままその指で冷房のスイッチを入れる。冷えすぎないように温度を調節して、ようやく彼らを乗せた車は発車する。
実の所、十四郎の弁は言い訳にしかならない戯言では決してない。車の備え付けの空調を使うとなると冷気を逃がさぬよう必然的に窓を開けることが憚られ、煙が車内に充満してしまう。
それは乗車人員の健康を害するのは勿論、運転にも多大な影響を及ぼしかねない。
一識との本当の意味での再会はまだ先送りにしたい彼らにとって、自らや仲間たちを危険に晒すのはなんとしても避けるべきであった。
「…わかりました、じゃあ今日はそういうことにしておきます」
「おう、頼むわ」
十四郎の無為な強がりはそうして肯定され、会話の区切りを迎えた車内は暫しの静寂に包まれる。
その静けさに睡魔が忍び寄るのを感じた祈莉が、気を紛らわせる意も込めて今日来ることが叶わなかった少年の名を挙げ話を広げようと画策する。
「今日…総悟くんも来られたら良かったんですけどね」
「残念だが仕方あるまい。仕事も理由にあるはあるんだが…総悟自身、一識の墓の前に立つにゃまだ気持ちの整理が着かんようだな」
「どうだか。朝早くから出るのが面倒で適当言ってるだけだと俺ァ思うが」
十四郎が雑な想像で切り捨てるものの、少年の内で燻る後悔を知る勲はそれには同意出来ない様子で眉を顰める。
友と家族、無謀にもそのどちらをも護ろうとし散って行った一識と剣を交え、彼の最期を看取ったのは他ならぬ総悟である。
生前の一識と総悟がどれだけ親しくしていたかを熟知している勲にしてみれば、その事実が総悟の肩に重くのしかかっているかは想像に難くなく、故に十四郎が告げるような生半可な気持ちで今日の同行を拒んだとはとても思えなかった。
「二人のやりとりを聞いてて思ったんですけど…たぶん、どっちも違うんじゃないかな」
しかし勲や十四郎が知らない少年の一面を傍で何度となく見てきた祈莉は、二人の意見を元に彼らとは全く異なる見解を示す。
「お兄が居ない今の真選組で、近藤さんと土方さんが不在のときに何かあった際、二人なら誰に任せますか?」
「…そりゃあ、総悟しか居らんだろう」
悩み抜いた末、勲は隊士を纏められるだけの人望を持ち実力も自分以上と認めているほぼ唯一の存在として総悟を挙げる。
勲の脳裏には他にも数名の候補が上がってこそいたものの、いずれも隊を任せるには何かしらの不安が残る者ばかりだった。
「皮肉なモンだが、俺もそこは近藤さんと同意見だ。俺らが出払ってる時に一番上が山崎や原田じゃ不安すぎる」
ハンドルを握る男の指が、一定間隔でリズムを刻む。どうやらニコチン不足での運転によるストレスから、苛立ちが隠しきれなくなっている様子だった。
そんな彼でも勲の意見には深く同意し、局長が考慮に浮かべつつ否と考えるしか出来なかった面子の名を出して彼らの頼りなさを祈莉に示す。
「でしょう? きっと今日も…そういう理由で来なかったのかなって。そう思わないと寂しいってのもありますが」
「…そうかねェ。祈莉の考えも一理あんのかもしんねーが…俺にはアイツがそんなこと考えて留守番するような、そこまで殊勝なタマにゃ見えねー」
公私問わず常日頃から散々な目に遭わされているせいか、総悟の隊長格としての成長を意地でも認めたくないらしい十四郎。
頑固さは総悟も十四郎も同じ程度だと認識する勲は、困ったように笑みつつ、鏡越しに後部座席の祈莉と肩を竦め合った。
「ああそうだ、そろそろ高速ですよね。お金出しますんで今の内に…」
仕事で通い慣れた景色から、祈莉が自分たちを乗せたこの車が有料道路に差し掛かろうとしていることを感知する。
個人的に事情で出してもらっている以上は移動費を払わねば筋が通らないだろうと財布を出そうとする彼女だったが、勲が振り向いてそれを止める。
「心配ない。経費で落とすからな」
「ん?」
「いやー実は今日の武州行きなんだが、隊士募集の為の出張扱いにしててな。そうすりゃ都合もつけやすい。だから下手にお前に金出される方が困るってわけだ」
勲からの衝撃的な告白に、祈莉はその悪知恵が元は誰の立案かを察し静かに項垂れる。
「あぁ…お兄の入れ知恵でしょう、それ」
「はっはっは、流石アイツの妹だ。一瞬でバレちまった」
生前の一識が破天荒な仲間たちや理不尽な上官の尻拭いをする為に身につけざるを得なかった処世術のひとつが、今回のような手法である。
当然発覚すれば批難は避けられない、誤魔化しようもない横領そのものなのだが、その恩恵を享受してしまっている祈莉には既に彼らの悪業を咎める権利はなく。
「ダメですよそんな悪いところ真似しちゃ…って、何も気にせずこの車に乗った私が言えたことじゃないか。すみません」
「ま、そういうこった。大人しく共犯になってもらうぜ」
一識の遺した知恵を受け継ぎ、悪びれる様子もなく笑う十四郎。目前に見えた料金所を停まることなく素通りして、それと同時に無機質な機械音声が流れた。
「えっ、あれ? 停まらなくてもいいんですか?」
もう間もなく有料道路に入るにも関わらず、停まることすらなく一切手続きをしていないことに驚き、汚職に汚職を重ねているのかと焦る祈莉。
慌てる彼女を宥めながら、既にこのシステムの知識を持つ勲が運転に集中している十四郎に代わり改めて説明する。
「そうだ、車に勝手に料金を払ってくれる機械…なんて名だったかな、ともかくソレをつけてりゃ高速もすんなり通れるって寸法よ」
「よかった、だから停まらずに通れるんですね。てっきり料金所のおじさんが買収されてるのかと焦りましたよ…でもさすがに、その辺は国家権力を持つ組織だけあってハイテクですねえ。いいなあ」
仕事柄、車を活用して東奔西走する機会の多い祈莉にとって、長距離を走る際には有料道路の利用が欠かせない。
その際にいちいち料金所で停まる煩わしさが丸々無くなるという最新技術の発展を目の当たりにし、彼女は羨望の眼差しを向ける。
「今はまだ試用段階だそうだが、使ってる身としちゃ相当便利だからそう遠くない内に一般にも普及するだろうな」
「ほんとですか! 期待してます」
「だがよォ近藤さん、こりゃ確かに便利なのは間違いねーんだが…減速しねーヤツが増えて事故の危険も増えそうだぜ」
軌道に乗りいくらか気持ちの落ち着いたらしい十四郎が、先の自動支払い機能の欠点を指摘する。
「うーん、それは確かにありそうですね。運転マナー悪い人は本当に酷いからなあ」
「だとさ。言われてんぞトシ」
冗談めかして笑う勲に、自覚がある十四郎はそれを本気にしたらしく鏡に見えた祈莉を睨みつける。
とばっちりを受けた彼女は困惑気味に弁明して、それを聞いた運転手はようやく平静を取り戻し彼女の意見に同調した。
「あっいや、土方さんじゃなくて。ほら、仕事で走ってるとたまに怖いくらいくっついてくる車とか居るんで…」
「あぁ…そっちか。そういう輩もチマチマ取り締まってはいるんだが、やっぱりキリがねェ」
安全運転で走行している筈の車を煽動する危険行為。当然の事ながらそれは交通法で厳しく取り締まるに値する違反である。
そんな不安に仲間が日々晒されていると聞き、十四郎と勲の胸中にはやり切れない想いが増していく。
「…ごめんなさい、湿っぽくなっちゃいました」
気まずく重苦しい空気に耐えきれず、自己嫌悪に俯く祈莉。そんな車内とは真逆に外の太陽は燦々と輝き、夏至を越えた後とはとても思えぬ猛暑を感じさせた。
「気にしてねーよ。だからお前も気にすんな」
「ありがとうございます。あぁ土方さん、次で高速降りられますか? 大通りを行くよりそっちの方が楽ですよ」
「ほーん、流石に仕事で何度もこっちまで来てるだけあるな。助かる」
仕事で培った知識からなる祈莉の有能なナビゲーションに、十四郎が感嘆と共に感謝を彼女に伝える。
出入口の料金所でも停まることなくスムーズに抜ける様を見て、祈莉はドライバーにとって新しい時代がもうすぐそこまで来ているのを再び感じ期待に胸を馳せた。
「そしたら祈莉、この先しばらくは俺らじゃ道がわからん。案内頼めるか」
「はい、お任せあれ。じゃあ早速ですがその交差点、右行ってください」
「今からかよ!? 無茶苦茶言ってんじゃねェてめー、そういうのはもっと早く言え!」
つい先刻まで危険運転の話題だったとは思えない急な車線変更を要求する祈莉に、十四郎は容赦なく吼える。
「あははっ! すみません土方さん、冗談です。そこの道はすんなり行けば速いは速いんですけど、狭いし入り組んでて…この車の大きさじゃ対向車とすれ違えないかも」
「なんだそりゃ…そんな道、今聞いても困るだろうが」
「いや、もしかしたらトシなら一人で来ることもあるだろう」
「…そんな暇が作れりゃいいけどな」
唯一の家族とも呼べる愛情を与えてくれた異母兄の為五郎や、片恋のままこの世を去った想い人のミツバ。
一識以外にもその墓前に立ちたい相手が幾人も思い当たる十四郎は、当分叶いそうにない願望を静かに零して、段々と見知った景色に変わりゆく道を進む。
案内の必要が減るにつれ祈莉も早起きすぎる故の体内時計の狂いに眠気が増していき、瞼がゆっくりと船を漕ぎ始めていた。
「そういや腹減っただろ祈莉、先に朝飯食うか?」
「ふぁーい…」
傍らに見えた軽食屋を指して、勲が完全に眠ってしまいそうになっていた祈莉に問いかける。
寝ぼけ眼を擦りつつ賛成の意を応える彼女だが、彼の提案は開店時間という障害によって空回りしてしまう。
「近藤さん、まだ朝早すぎてどこも開いてねーだろ」
「おっと…すまん。じゃあコンビニにでも寄るか」
「このド田舎の僻地にそんなモンあんのかねェ」
勲が軽食屋の次に代替案として挙げたのは、二十四時間営業が前提となるコンビニエンスストア。
だが江戸の街ならばともかく、田舎である武州においてそんな高度なものがあるのかと訝しむ十四郎に、再び祈莉が懸命に欠伸を隠しつつ二人に微笑んでみせる。
「ありますよぉ。今来た道を少しだけ戻るか、結構先まで行くかのどっちかになりますけど」
「ほーん…だが、戻るよか前に行った方が楽なんだよな。二人ともそれでもいいか?」
「俺は構わんぞ。運転手のトシに任せる」
祈莉も共に頷いて、三人を乗せた車は引き返すことなく前へと進む。開けた道を行けども早朝の為か殆ど車の通りはなくすんなり進み、程なくして最初の目的地へと辿り着いた。
「…ここか。見るからにボロいが…まぁやってりゃ何でもいいか」
「そうですー、品揃えもちゃんとしてますよ」
ぞろぞろと降車して、長時間の車内滞在で縮こまった身体をそれぞれ思い思いに解す。
気の抜けた入店メロディを背にコンビニへ入り、祈莉は慣れた素振りで奥の陳列棚へと向かっていき、二人もそれに倣って着いていく。
「車の中で食べるとなると、零しかねない汁物は厳禁ですよね」
「そこまで気にすることでもないぞ。ウチの馬鹿共はどんなに注意してもしょっちゅう汚してやがるからなァ」
遠慮がちな祈莉を後押しするかのように気兼ねなく自分が食べたいものを選び、その上で部下達の素行の悪さについて愚痴を零す勲。
「いやいや、それを聞いたら尚更綺麗に使わなきゃってなりますよ。よし、今日はあんぱんにしよっと」
「本当にブレねーなそれも。いつ頃からだったか?」
レジに並ぶ最中、この武州で暮らしていた頃から変わらない祈莉の糖分愛好に気付いた十四郎が問う。
彼女は改めて記憶の糸を辿りながらも、自分がいつからこれほどまでに甘い物に目がない性分になっていたかは終ぞ思い出せそうもなかった。
「うーん…最初に思ったのはいつだろう? 総悟くんと一緒に金平糖食べた時かなあ、それとも誕生日のケーキか…あ、お兄がこっそり買ってくれたチョコレートかも?」
「…いや、もういい。聞いてるだけで朝から胃がもたれそうだ」
際限なく提示される甘味のバリエーションに、油分と違い糖分にはあまり耐性のない十四郎は頭を抱え話を遮る。
しかし購入した弁当の量には明らかにそぐわない本数のマヨネーズをしっかりと携えており、祈莉の甘党に関して彼が何かを言う資格はなかった。
「トシ、悪いが俺からしたらどっちも変わらんぞ…」
勲の指摘は三人の退店と共に流れるメロディに虚しく掻き消され、まだ辛うじて熱の籠りきらない車内に乗り込み各々買ってきた食事を広げる。
食べ零しを出さぬよう緊張した面持ちで食べる祈莉と、何も気にせず平然としている二人との対比は、傍から見れば面白可笑しくさえ感じられた。
「…んじゃ、行くか」
「はい」
食べ終えた頃合を見計らい、十四郎が後部座席に声を掛ける。祈莉が食事を終えた後の合掌と共に頷くのを合図に、エンジン音が早朝のコンビニに鳴り響いた。
1/2ページ