リベサガ短編
夢小説設定
普段はしゃかりきになって教職という務めを果たす精力溢れるアリスでも、実態は他の人々と何ら変わらぬごく普通の人間で。
疲労と心理的負荷が祟り体調を崩した彼女は、許婚の計らいで派兵されたフリーファイター・ディアネイラによる付きっきりの看病を受けていた。
「…不思議な気分です。頭では職務を果たさねばと思っているのに、身体が全く言うことを聞いてくれません」
寝台の上、眠り続けるにも限界だと凝り固まった身体を解すべく半身を起こした淑女が、意思に反して頑なに動こうとしない膝を抱え顔を埋める。
「人間誰しも、そういう日が一度はあります。アリス様は普段から働きすぎなくらいですし、たまにはゆっくり休んでもいいんですよ」
「ですが、わたくしが病床に臥すことで、今のディアネイラさまのように迷惑を被る方が…」
「いいえ、迷惑だなんてことはありません。戦地に行こうが護衛をしようが、陛下から頂く賃金は同じですから」
気負い過ぎるあまり要らぬ心配をし始めるアリスの言葉を遮って、女傭兵は敢えて被雇用者としての立場からの苦悩を吐く。
先祖代々みなが帝国に仕える帝国兵や、打倒七英雄の志に共鳴し各領地から集った精鋭達ともまた異なる、切っても切れない腐れ縁のような彼女の血筋は、常にその代の皇帝と直に契約を結び、金銭を以て初めて帝国に助太刀するという奇妙な関係を続けてきた間柄であった。
が、実際には既に金の力など必要なくなって久しく、ディアネイラもまた純粋にアバロンを愛する想いから雇用主こと皇帝ジルベール、ひいてはその許嫁と良好な交友を築く仲となっていた。
「それに、あちこち歩き回って不穏な事件に巻き込まれるくらいなら…こうして寝室でのんびり過ごしてくれる方が、ずっと気が楽です」
このような溜息混じりの諫言も、ひとえにアリスという個人を大切に思うが故に。
帝国最後の切り札の許嫁というだけでなく、元より帝国の上流階級という身分も相俟って、何かと危険に晒される可能性の高い彼女のこと、懸念事項は少ないに越したことはなく。
「…」
心情を照射するが如く膝が沈んでいき、そのままアリスは女傭兵から背を向けベッドに雪崩込む。
非を詫びる気力すらもない精神的疲弊の中では、平時であれば軽口混じりに受け流せる言葉さえも苦く、シーツの端を握り締め呻くしか出来なかった。
「ごめんなさい、言い方が悪かったわ…貴方を責めている訳じゃないの。ただ、休むべきときはしっかり休むのも大事だと伝えたくて」
「はい…ありがとう、ございます」
しどろもどろになるディアネイラ、淑女は向けていた背を翻して微笑み、ゆっくりと目を閉じる。
それから長い間誰にも言えずにいた胸の内を吐露し、理想と現実のギャップを嘆く。
「ディアネイラさま。わたくしが日々帝国の為に尽力しているのは…身命を賭して死地に赴く陛下に相応しい妻になりたいからなのです」
行き過ぎた利他主義、それは言い換えれば究極の利己主義にも通じかねないものとなる。
まさにその理論を体現したかのような発言に、一介の傭兵は何も言えず相槌を打つのみで。
「ですが、わたくしには剣を握る力も術法の才能もありません。生徒の皆さまに、自分では出来もしない無理難題を課し、陛下と共に肩を並べて戦うことも儘ならない苦しみから目を背けているのです」
「…そう」
懊悩が自責に変容している現状は、想定していたよりもずっと深刻だと判断せざるを得ず。
実態はただの適材適所、優れた指導者であるという評価は誇るべきものであるにも拘らず、彼女はそれを他力本願と誤認しているようにも見える。
少なくとも、個人が感覚で編み出した技を理解し紐解き、誰でも同じ動きを再現出来るようにするという、今のアリス達が当たり前に行っている極意化も、かつての帝国では長い歳月と多くの人員を要していた。
つまり、その聡明さによって学術発展に大きく貢献し帝国の一助となっている自覚が皆無である――そう捉えたフリーファイターは、無垢な狂人の横っ面を叩きたい衝動を抑え、代わりにその頭を引き寄せ胸元で押し潰す勢いで抱き締める。
「!?」
「人に物事を教えるには、三倍の理解力が必要だと言います。アリス様、あなたはそれ以上の深い造詣があるから、私達のような学のない傭兵にもわかるように教えられるのでしょう?」
"学がない"敢えて自虐的な言い回しを用いて、消沈しきっている淑女に発破をかける。
しかし当の本人は彼女の豊満な胸囲の圧迫に気圧され、とてもまともな受け答えが出来るような状態ではなかった。
「だからもっと自信を持ってください。胸を張ってください。あなたが教えてくれるなら、と思えたから…私は陛下と契約を結んだんですよ」
そうして一頻り思いの丈を吐き出して、抱擁する腕の力を更に強めていくディアネイラ。
その声は情の深さに比例するように柔らかく、慈愛に満ちていたものの、呼吸すら危うい淑女の耳には届いておらず。
「く、苦し…」
「あっ…ご、ごめんなさい。アリス様、大丈夫ですか?」
慌てて抱擁を解き、非礼を詫びなければと跪く彼女。息を整える間アリスはそれを大袈裟だと否もうとも思えども、今回ばかりは自省を促すべきだと考えを改め静々と問い掛けに答えるのみに留めた。
「…ご心配なく。ディアネイラさまのお気持ちはよく伝わりました」
深々と嘆息を吐いて、強く慕われていること自体は感謝すべき欣幸だと微笑を浮かべる。
だが、その純粋な敬愛そのものが今のアリスにとっては重荷にもなりかねないもので。
「すみません、少し窓を開けてもらえませんか?」
「ええ、わかりました」
新鮮な空気で沈鬱さを紛らそうと、重く閉じられた窓を視線で指す。乞われた通りにディアネイラが窓を開けると、外から誰かがこちらに迫る音がふたつ聞こえて来た。
「ん…? この足音は…」
「ひとつは陛下と…もう一名は軍靴ではないので、陛下が遠征にお連れになった精鋭の方なのでしょうけれど、そこまでしか…」
歩き方と靴の種類からそれぞれを耳で聴き分け、かなり限定的な部分までを絞り込むも、個人を特定するには至らず。
とはいえ今し方知り得た限りでも、最も大切な存在である許婚が来ているのは明白。アリスは慌ただしく身なりを整え、緊張に頬を赤らめ始める。
「乙女…」
「?」
「いえ、何も。今回の遠征メンバーは誰だったか、考えていたところです」
そのいじらしい姿に思わず漏れ出た胸の高鳴りを咄嗟に誤魔化して、彼女が提示した選択肢の内、一体誰が屋敷までの同行を申し出たのだろうかと推測を立てるフリーファイター。
数多くの仲間が自分と同じようにアリスを慕ってこそいるものの、体調不良を見舞うほどとなると限られるのではと思っていたところ、どうやら足音の主は皇帝陛下たっての願いでこちらに赴いたらしい話し声が廊下から響いてきた。
「ねえ陛下…薬を渡すのなら、ちゃんとしたお医者様に調合してもらった方が…」
「いいんだ。ステップで採れる薬草と君の持つ知識があれば、きっとアリスもすぐに元気を取り戻してくれるはずだ」
「…はあ、わかりました。でしたら、スープを作る為に厨房をお借りしないと」
兢々とした遠慮がちな提言と、彼女とは真逆の頑固者による希望的観測に、傍から聞いていたアリスが驚きを露わにする。
けれども談笑の様子から察するに二人は部屋には直行して来ず、使用人に導かれキッチンの方へと向かっていったようだった。
「なるほど、一緒に来たのはアズィーザだったのね」
扉越しの声から、それが誰であるか確信を得たディアネイラがそう呟いて、皇帝陛下も罪な男だと息を呑む。
アズィーザ。ステップの遊牧民ノーマッドの少女で、弓や斧の扱いに長けた勇敢な戦士だが、負けん気が強く、男性顔負けの積極性を持っていた。
そして何より厄介なことに、かの恋多き娘は現在ジルベールへと密かに淡い想いを抱いており、当然許嫁のこともライバル視しているのだった。
「アズィーザさま、ですか。わたくし、お会いするのは初めてです…どんな方かご存知ですか?」
「えっ! ええと…」
敵意の対象となっていることなど露知らず、アリスは自分の為に時間を割いてくれた少女への期待を問う。
まさかそこまで興味津々とは予想だにしていなかった傭兵が一瞬だけ肩を跳ねさせて、どう言い繕ったものか視線を泳がせる。
「悪い子ではないし、実際私も背中を任せられると思える強さを有する相手ではあるのだけれど…アリス様とは少しそりが合わないかもしれません」
極端な否定のみに終始しないよう懸命に言葉を選びつつ、それとなく察してほしい旨を言外に語る。
すると彼女は教師としての持ち前の観察力からか、ディアネイラが想定していた以上の理解力を示し、そこから更に連想させ嫌悪があるのなら献身には結びつかないのではと首を傾げた。
「…万人に好かれるのは不可能ですからね。もし嫌われているのであれば、それも覚悟の上。ただ、だとすれば何故アズィーザさまは、わたくしの為にスープをと…?」
「陛下に恩を売る為か、あるいは…彼女の考えがどうであれ、念の為私が毒味をさせていただきます」
「いえ…打倒七英雄の志を共にするお方を疑いたくはありません。それに、今は陛下が目を光らせているでしょうから…万が一不穏な動きを見せれば、即刻この屋敷からつまみ出されるかと」
毒味、と仲間内で本来飛び出してはならないワードにも、アリスは驚くことなく冷静に否む。
その上で、ノーマッドの少女が皇帝を裏切る真似をするのであれば、彼自身が制裁を与えるだろうと信頼を吐く。
「フフ、それもそうですね」
堂々とした惚気に満面の笑みで同意して、近付いてくる足音を出迎えるディアネイラ。
意図的に音を立てたり話し声を響かせたりして来訪を目立たせ、待ち構えられていることを事前に察知していたジルベールは、病床に臥せる許嫁を前にしたにしては妙に落ち着いた様子で看病の結果を問い掛けた。
「ディアネイラ、彼女の具合はどうだ?」
「顔色はだいぶ良くなりました。あとは美味しいものを食べてゆっくり寝れば、その内快復するかと」
「なら、彼女のスープを飲めば万事解決だな」
一歩遅れて入って来た少女を視線で促し、その手に握られている器が手渡される瞬間を見守る。
事前に敵意があると聞かされていたアリスは、何をされてもおかしくはないと密かに警戒していたものの、予想に反して彼女は何をするでもなく素直にスープを差し出すのだった。
「…どうぞ」
「ありがとうございます、アズィーザさま」
誠意を受け取り、勢いに任せて一口啜ったその瞬間、覚悟はしていた苦さとは別の刺激が舌にやってきて、調理を見守っていたジルベール含め、少女以外の全員が眉を顰める。
「苦…! いや、辛い…?」
「薬草のスープが苦いのは当然としても、辛いとは? アズィーザ、何を入れたの?」
「唐辛子よ。血の巡りを良くして、体内から熱を起こすの。疲れにはこれが一番よく効くんだから」
一同を代表しての傭兵の問いに、アズィーザは高揚感に満ちたしたり顔でそう答える。
代謝の向上による老廃物の排出、それによるストレスの低減など、ステップでの暮らしで培われた理路整然とした主張には、全員が納得するほかなく。
「なるほど…確かに、次第に身体がぽかぽかしてきたような気がいたします」
鼓動がみるみる活力を増していくのを感じ、言葉の通り暖かくなっていく胸元を押さえるアリス。
ノーマッドの少女は幸甚を噛み締めるそんな彼女の顔へと間近に迫り、高らかに宣戦布告を叫んでは、そそくさと去っていくのだった。
「アリスさん。私、負けないから!」
「…アズィーザ?」
何も知らぬジルベールが呼び止めようとして、ある意味で二人からは板挟みな立ち位置となってしまった傭兵がそっと首を振る。
歴代の皇帝たちの記憶が助けとなったのか、彼はその表情である程度は察しがついたらしく、困ったように微笑んで肩を竦め許嫁へと寄り添う。
「どういう理由があれ、彼女の想いを察せなかったのは私の不手際だ。驚かせてしまってすまない」
「いえ、わたくしは大丈夫です。それよりも、アズィーザさまが…」
「心配要りません。あのくらいの歳の子は多感で、ちょっとした傷心なんてすぐに乗り越えますよ」
不安げに窓の外へ視線を向ける淑女に対し、ディアネイラが気にするほどのことではないと少しだけ語気を強める。
が、諌められた彼女は尚も怪訝そうな面持ちで、多感であるからこそ気を配るべきではと眉を下げ続けていて。
「だといいのですが…」
「そもそもの話、陛下がアリス様以外の女性に靡くことなど、天地がひっくり返ってもあり得ないんですから。ねぇ陛下」
それでもディアネイラは彼女の懸念を杞憂だと切り捨て、あまつさえ雇用主に同意を求める始末。
ジルベールは乾いた笑みで是を告げ、その認識は確固たるものでもあるにも拘らず、何故あの少女が自分にと内省を試みる。
「はは…そうだな」
考えども考えども答えは出ず、これではまた同じ轍を踏むのではないかと焦燥が芽生え始める。
歯噛みするその様にアリスがそっと手を伸ばし、敢えて女戦士の眼前でも構わず彼の名前を囁いた。
「わたくしはあなたを信じていますよ、ジルベール」
「…うん」
確かな信愛をしかと受け取り、頬を綻ばせるジルベール。柔らかな微笑を伴う睦み合いに傭兵はわざとらしく手を叩いて、看病の役目を終える宣告を言い放つ。
「さて、お邪魔になるでしょうから私はそろそろ退散します。陛下、アリス様にあまり無理を強いてはなりませんよ」
隠し切れない、否、隠す気のさらさらない満面の笑みに、何を言わんとしているか察知したアリスが急速に顔を赤らめる。
釘を刺されたジルベールはどこか不服そうにそっぽを向いて、速やかに出ていくようにと横目で訴えた。
「言われずとも弁えている。我々のことはいいから通常業務に戻ってくれ」
「はいはい。ではアリス様、私はこれで失礼します」
すっかり泥を被せられたディアネイラが去ったのち、扉がゆっくりと閉じられ、二人きりの空間に沈黙が訪れる。
改めて面と向かってまじまじと見つめられ、淑女の体内を駆け巡る熱が増していく中、彼は徐に許嫁の名を呼び、仁愛とも寂寥ともつかぬ表情を浮かべてみせた。
「アリス」
「どうしましたか、ジル。泣きそうですよ」
「…君の瞳には、今の私はそのように見えるのだな」
淡々と客観視の結果を分析して、ようやくそこで己が自らに失望を抱いていると知るジルベール。
不甲斐ないと落胆が募り心を暗鬱に染め上げていくのを的確に見抜いたアリスが力強く首を振り、人望もまた帝国を束ねるには必要不可欠なものだと慰めの言葉をかける。
「そう落ち込まないでください。あなたが人々に慕われる皇帝となれたこと…わたくしは、誇らしいとも思っています」
「あぁ…ありがとう」
許嫁の身をそっと抱き寄せ、前髪を払い額に口付けを落とす。最愛の相手から肯定を受けたその瞳には愁いはなく、慈しみに満ちた声は確固たる自信を取り戻していた。
疲労と心理的負荷が祟り体調を崩した彼女は、許婚の計らいで派兵されたフリーファイター・ディアネイラによる付きっきりの看病を受けていた。
「…不思議な気分です。頭では職務を果たさねばと思っているのに、身体が全く言うことを聞いてくれません」
寝台の上、眠り続けるにも限界だと凝り固まった身体を解すべく半身を起こした淑女が、意思に反して頑なに動こうとしない膝を抱え顔を埋める。
「人間誰しも、そういう日が一度はあります。アリス様は普段から働きすぎなくらいですし、たまにはゆっくり休んでもいいんですよ」
「ですが、わたくしが病床に臥すことで、今のディアネイラさまのように迷惑を被る方が…」
「いいえ、迷惑だなんてことはありません。戦地に行こうが護衛をしようが、陛下から頂く賃金は同じですから」
気負い過ぎるあまり要らぬ心配をし始めるアリスの言葉を遮って、女傭兵は敢えて被雇用者としての立場からの苦悩を吐く。
先祖代々みなが帝国に仕える帝国兵や、打倒七英雄の志に共鳴し各領地から集った精鋭達ともまた異なる、切っても切れない腐れ縁のような彼女の血筋は、常にその代の皇帝と直に契約を結び、金銭を以て初めて帝国に助太刀するという奇妙な関係を続けてきた間柄であった。
が、実際には既に金の力など必要なくなって久しく、ディアネイラもまた純粋にアバロンを愛する想いから雇用主こと皇帝ジルベール、ひいてはその許嫁と良好な交友を築く仲となっていた。
「それに、あちこち歩き回って不穏な事件に巻き込まれるくらいなら…こうして寝室でのんびり過ごしてくれる方が、ずっと気が楽です」
このような溜息混じりの諫言も、ひとえにアリスという個人を大切に思うが故に。
帝国最後の切り札の許嫁というだけでなく、元より帝国の上流階級という身分も相俟って、何かと危険に晒される可能性の高い彼女のこと、懸念事項は少ないに越したことはなく。
「…」
心情を照射するが如く膝が沈んでいき、そのままアリスは女傭兵から背を向けベッドに雪崩込む。
非を詫びる気力すらもない精神的疲弊の中では、平時であれば軽口混じりに受け流せる言葉さえも苦く、シーツの端を握り締め呻くしか出来なかった。
「ごめんなさい、言い方が悪かったわ…貴方を責めている訳じゃないの。ただ、休むべきときはしっかり休むのも大事だと伝えたくて」
「はい…ありがとう、ございます」
しどろもどろになるディアネイラ、淑女は向けていた背を翻して微笑み、ゆっくりと目を閉じる。
それから長い間誰にも言えずにいた胸の内を吐露し、理想と現実のギャップを嘆く。
「ディアネイラさま。わたくしが日々帝国の為に尽力しているのは…身命を賭して死地に赴く陛下に相応しい妻になりたいからなのです」
行き過ぎた利他主義、それは言い換えれば究極の利己主義にも通じかねないものとなる。
まさにその理論を体現したかのような発言に、一介の傭兵は何も言えず相槌を打つのみで。
「ですが、わたくしには剣を握る力も術法の才能もありません。生徒の皆さまに、自分では出来もしない無理難題を課し、陛下と共に肩を並べて戦うことも儘ならない苦しみから目を背けているのです」
「…そう」
懊悩が自責に変容している現状は、想定していたよりもずっと深刻だと判断せざるを得ず。
実態はただの適材適所、優れた指導者であるという評価は誇るべきものであるにも拘らず、彼女はそれを他力本願と誤認しているようにも見える。
少なくとも、個人が感覚で編み出した技を理解し紐解き、誰でも同じ動きを再現出来るようにするという、今のアリス達が当たり前に行っている極意化も、かつての帝国では長い歳月と多くの人員を要していた。
つまり、その聡明さによって学術発展に大きく貢献し帝国の一助となっている自覚が皆無である――そう捉えたフリーファイターは、無垢な狂人の横っ面を叩きたい衝動を抑え、代わりにその頭を引き寄せ胸元で押し潰す勢いで抱き締める。
「!?」
「人に物事を教えるには、三倍の理解力が必要だと言います。アリス様、あなたはそれ以上の深い造詣があるから、私達のような学のない傭兵にもわかるように教えられるのでしょう?」
"学がない"敢えて自虐的な言い回しを用いて、消沈しきっている淑女に発破をかける。
しかし当の本人は彼女の豊満な胸囲の圧迫に気圧され、とてもまともな受け答えが出来るような状態ではなかった。
「だからもっと自信を持ってください。胸を張ってください。あなたが教えてくれるなら、と思えたから…私は陛下と契約を結んだんですよ」
そうして一頻り思いの丈を吐き出して、抱擁する腕の力を更に強めていくディアネイラ。
その声は情の深さに比例するように柔らかく、慈愛に満ちていたものの、呼吸すら危うい淑女の耳には届いておらず。
「く、苦し…」
「あっ…ご、ごめんなさい。アリス様、大丈夫ですか?」
慌てて抱擁を解き、非礼を詫びなければと跪く彼女。息を整える間アリスはそれを大袈裟だと否もうとも思えども、今回ばかりは自省を促すべきだと考えを改め静々と問い掛けに答えるのみに留めた。
「…ご心配なく。ディアネイラさまのお気持ちはよく伝わりました」
深々と嘆息を吐いて、強く慕われていること自体は感謝すべき欣幸だと微笑を浮かべる。
だが、その純粋な敬愛そのものが今のアリスにとっては重荷にもなりかねないもので。
「すみません、少し窓を開けてもらえませんか?」
「ええ、わかりました」
新鮮な空気で沈鬱さを紛らそうと、重く閉じられた窓を視線で指す。乞われた通りにディアネイラが窓を開けると、外から誰かがこちらに迫る音がふたつ聞こえて来た。
「ん…? この足音は…」
「ひとつは陛下と…もう一名は軍靴ではないので、陛下が遠征にお連れになった精鋭の方なのでしょうけれど、そこまでしか…」
歩き方と靴の種類からそれぞれを耳で聴き分け、かなり限定的な部分までを絞り込むも、個人を特定するには至らず。
とはいえ今し方知り得た限りでも、最も大切な存在である許婚が来ているのは明白。アリスは慌ただしく身なりを整え、緊張に頬を赤らめ始める。
「乙女…」
「?」
「いえ、何も。今回の遠征メンバーは誰だったか、考えていたところです」
そのいじらしい姿に思わず漏れ出た胸の高鳴りを咄嗟に誤魔化して、彼女が提示した選択肢の内、一体誰が屋敷までの同行を申し出たのだろうかと推測を立てるフリーファイター。
数多くの仲間が自分と同じようにアリスを慕ってこそいるものの、体調不良を見舞うほどとなると限られるのではと思っていたところ、どうやら足音の主は皇帝陛下たっての願いでこちらに赴いたらしい話し声が廊下から響いてきた。
「ねえ陛下…薬を渡すのなら、ちゃんとしたお医者様に調合してもらった方が…」
「いいんだ。ステップで採れる薬草と君の持つ知識があれば、きっとアリスもすぐに元気を取り戻してくれるはずだ」
「…はあ、わかりました。でしたら、スープを作る為に厨房をお借りしないと」
兢々とした遠慮がちな提言と、彼女とは真逆の頑固者による希望的観測に、傍から聞いていたアリスが驚きを露わにする。
けれども談笑の様子から察するに二人は部屋には直行して来ず、使用人に導かれキッチンの方へと向かっていったようだった。
「なるほど、一緒に来たのはアズィーザだったのね」
扉越しの声から、それが誰であるか確信を得たディアネイラがそう呟いて、皇帝陛下も罪な男だと息を呑む。
アズィーザ。ステップの遊牧民ノーマッドの少女で、弓や斧の扱いに長けた勇敢な戦士だが、負けん気が強く、男性顔負けの積極性を持っていた。
そして何より厄介なことに、かの恋多き娘は現在ジルベールへと密かに淡い想いを抱いており、当然許嫁のこともライバル視しているのだった。
「アズィーザさま、ですか。わたくし、お会いするのは初めてです…どんな方かご存知ですか?」
「えっ! ええと…」
敵意の対象となっていることなど露知らず、アリスは自分の為に時間を割いてくれた少女への期待を問う。
まさかそこまで興味津々とは予想だにしていなかった傭兵が一瞬だけ肩を跳ねさせて、どう言い繕ったものか視線を泳がせる。
「悪い子ではないし、実際私も背中を任せられると思える強さを有する相手ではあるのだけれど…アリス様とは少しそりが合わないかもしれません」
極端な否定のみに終始しないよう懸命に言葉を選びつつ、それとなく察してほしい旨を言外に語る。
すると彼女は教師としての持ち前の観察力からか、ディアネイラが想定していた以上の理解力を示し、そこから更に連想させ嫌悪があるのなら献身には結びつかないのではと首を傾げた。
「…万人に好かれるのは不可能ですからね。もし嫌われているのであれば、それも覚悟の上。ただ、だとすれば何故アズィーザさまは、わたくしの為にスープをと…?」
「陛下に恩を売る為か、あるいは…彼女の考えがどうであれ、念の為私が毒味をさせていただきます」
「いえ…打倒七英雄の志を共にするお方を疑いたくはありません。それに、今は陛下が目を光らせているでしょうから…万が一不穏な動きを見せれば、即刻この屋敷からつまみ出されるかと」
毒味、と仲間内で本来飛び出してはならないワードにも、アリスは驚くことなく冷静に否む。
その上で、ノーマッドの少女が皇帝を裏切る真似をするのであれば、彼自身が制裁を与えるだろうと信頼を吐く。
「フフ、それもそうですね」
堂々とした惚気に満面の笑みで同意して、近付いてくる足音を出迎えるディアネイラ。
意図的に音を立てたり話し声を響かせたりして来訪を目立たせ、待ち構えられていることを事前に察知していたジルベールは、病床に臥せる許嫁を前にしたにしては妙に落ち着いた様子で看病の結果を問い掛けた。
「ディアネイラ、彼女の具合はどうだ?」
「顔色はだいぶ良くなりました。あとは美味しいものを食べてゆっくり寝れば、その内快復するかと」
「なら、彼女のスープを飲めば万事解決だな」
一歩遅れて入って来た少女を視線で促し、その手に握られている器が手渡される瞬間を見守る。
事前に敵意があると聞かされていたアリスは、何をされてもおかしくはないと密かに警戒していたものの、予想に反して彼女は何をするでもなく素直にスープを差し出すのだった。
「…どうぞ」
「ありがとうございます、アズィーザさま」
誠意を受け取り、勢いに任せて一口啜ったその瞬間、覚悟はしていた苦さとは別の刺激が舌にやってきて、調理を見守っていたジルベール含め、少女以外の全員が眉を顰める。
「苦…! いや、辛い…?」
「薬草のスープが苦いのは当然としても、辛いとは? アズィーザ、何を入れたの?」
「唐辛子よ。血の巡りを良くして、体内から熱を起こすの。疲れにはこれが一番よく効くんだから」
一同を代表しての傭兵の問いに、アズィーザは高揚感に満ちたしたり顔でそう答える。
代謝の向上による老廃物の排出、それによるストレスの低減など、ステップでの暮らしで培われた理路整然とした主張には、全員が納得するほかなく。
「なるほど…確かに、次第に身体がぽかぽかしてきたような気がいたします」
鼓動がみるみる活力を増していくのを感じ、言葉の通り暖かくなっていく胸元を押さえるアリス。
ノーマッドの少女は幸甚を噛み締めるそんな彼女の顔へと間近に迫り、高らかに宣戦布告を叫んでは、そそくさと去っていくのだった。
「アリスさん。私、負けないから!」
「…アズィーザ?」
何も知らぬジルベールが呼び止めようとして、ある意味で二人からは板挟みな立ち位置となってしまった傭兵がそっと首を振る。
歴代の皇帝たちの記憶が助けとなったのか、彼はその表情である程度は察しがついたらしく、困ったように微笑んで肩を竦め許嫁へと寄り添う。
「どういう理由があれ、彼女の想いを察せなかったのは私の不手際だ。驚かせてしまってすまない」
「いえ、わたくしは大丈夫です。それよりも、アズィーザさまが…」
「心配要りません。あのくらいの歳の子は多感で、ちょっとした傷心なんてすぐに乗り越えますよ」
不安げに窓の外へ視線を向ける淑女に対し、ディアネイラが気にするほどのことではないと少しだけ語気を強める。
が、諌められた彼女は尚も怪訝そうな面持ちで、多感であるからこそ気を配るべきではと眉を下げ続けていて。
「だといいのですが…」
「そもそもの話、陛下がアリス様以外の女性に靡くことなど、天地がひっくり返ってもあり得ないんですから。ねぇ陛下」
それでもディアネイラは彼女の懸念を杞憂だと切り捨て、あまつさえ雇用主に同意を求める始末。
ジルベールは乾いた笑みで是を告げ、その認識は確固たるものでもあるにも拘らず、何故あの少女が自分にと内省を試みる。
「はは…そうだな」
考えども考えども答えは出ず、これではまた同じ轍を踏むのではないかと焦燥が芽生え始める。
歯噛みするその様にアリスがそっと手を伸ばし、敢えて女戦士の眼前でも構わず彼の名前を囁いた。
「わたくしはあなたを信じていますよ、ジルベール」
「…うん」
確かな信愛をしかと受け取り、頬を綻ばせるジルベール。柔らかな微笑を伴う睦み合いに傭兵はわざとらしく手を叩いて、看病の役目を終える宣告を言い放つ。
「さて、お邪魔になるでしょうから私はそろそろ退散します。陛下、アリス様にあまり無理を強いてはなりませんよ」
隠し切れない、否、隠す気のさらさらない満面の笑みに、何を言わんとしているか察知したアリスが急速に顔を赤らめる。
釘を刺されたジルベールはどこか不服そうにそっぽを向いて、速やかに出ていくようにと横目で訴えた。
「言われずとも弁えている。我々のことはいいから通常業務に戻ってくれ」
「はいはい。ではアリス様、私はこれで失礼します」
すっかり泥を被せられたディアネイラが去ったのち、扉がゆっくりと閉じられ、二人きりの空間に沈黙が訪れる。
改めて面と向かってまじまじと見つめられ、淑女の体内を駆け巡る熱が増していく中、彼は徐に許嫁の名を呼び、仁愛とも寂寥ともつかぬ表情を浮かべてみせた。
「アリス」
「どうしましたか、ジル。泣きそうですよ」
「…君の瞳には、今の私はそのように見えるのだな」
淡々と客観視の結果を分析して、ようやくそこで己が自らに失望を抱いていると知るジルベール。
不甲斐ないと落胆が募り心を暗鬱に染め上げていくのを的確に見抜いたアリスが力強く首を振り、人望もまた帝国を束ねるには必要不可欠なものだと慰めの言葉をかける。
「そう落ち込まないでください。あなたが人々に慕われる皇帝となれたこと…わたくしは、誇らしいとも思っています」
「あぁ…ありがとう」
許嫁の身をそっと抱き寄せ、前髪を払い額に口付けを落とす。最愛の相手から肯定を受けたその瞳には愁いはなく、慈しみに満ちた声は確固たる自信を取り戻していた。