リベサガ短編
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帝国大学・音楽室にて。設置された蓄音機では誰もが自由に音楽を聴くことが出来、アリスも例に漏れずそれを愛用する者の一人であった。
が、いつものように人の少ない早朝の始業前に訪れたところ、今日は珍しくも先客が居る日のようで。
「あら…スカイアさま」
蓄音機のそばに置かれたロッキングチェアに座すは、イーリスの少女。巨大な羽根を器用に折り畳み、まるで殻に籠るようにすやすやと眠りに就いていた。
「心地よさそうに寝ておられますが…どうしましょう、起こした方がいいのでしょうか」
小さく聞こえる寝息に合わせた小声で呟き、この自由な有翼族に退いてもらうべきか逡巡する。
人気 がない時間帯とは言えここはあくまで公共の場、私物化は厳禁だと咎める権利を有する身としては無理矢理にでも叩き起こすのが最善ではあるのだろう。
しかしこうも幸せそうな笑みを見ても尚、非道な振る舞いを行えるほどアリスも鬼ではなく、眉を顰めつつもその寝顔を見守ることしか出来なかった。
「…」
帝国領地の中でも最も南東に位置する、ヤウダ地方のチカパ山を本来の住処とする彼女達。
何代か前の皇帝と彼女の祖先が出逢った経緯もまた、詩人の楽器による演奏に釣られてのことだったという。
つまるところ生粋の音楽好きな種族なのだろうかと考えてから、全てのイーリスがそうとは限らないと首を振る。
打倒ワグナスの志を共にし、世代を跨いで長い期間をかけて交友を深めた今もまだ、その生態については謎が多く、寝姿さえある種の神秘性を持っていると淑女は思わず息を呑む。
「んぅ…」
小さな呻きと共に、スカイアがちょうど姿勢を変えたその瞬間。ゆったりとしたメロディが終わり、全く別の賑やかな音楽が流れ始める。
突然の変転に目を覚ました彼女は驚いて羽根を広げ飛び上がり、視界に見えた指導教員へと咄嗟に謝罪を告げた。
「わっ?! あ…アリス先生、すみません…」
「いえ、お気になさらないでください。今はまだ始業前ですから」
宥免を伝えながら慣れた手付きで蓄音機を操作して、元々流れていたものとは別のスローテンポの曲を選ぶ。
再びの眠りを誘うような雰囲気にイーリスの少女は一瞬だけ舟を漕ぎそうになるも、慌てて拳を握り眠気を払い、改めて頭を深く下げる。
「ありがとうございます…先生の顔を見た瞬間、怒られるかとばかり」
どうやら𠮟責を恐れていたらしく、教師として彼女にそこまで厳しくしていたかと密かに消沈するアリス。
確かに、指導に於いて妥協出来ない部分については無茶をさせた自覚が無きにしも非ずだったものの、教え子に怖がられるまでとは思っておらず胸の奥がチクリと痛む。
が、続け様に零れ落ちた旧懐を聞く限りでは、その寂寥には誤解が多分に含まれているようだった。
「先生が覚えているかはわかりませんが…五年くらい前にも、同じようにここで眠っていたことがあったんです。その時のアリス先生は、私が風邪をひくんじゃないかって剣幕になって…」
スカイアが語るのは、今よりももっと幼い頃の追憶。次代を担うべく学びの機会を得た彼女は当時、教師となったばかりのアリスに見つかり"叱られた"のだとはにかむ。
「アバロンに来て間もない私でも、心配してもらえるんだと嬉しかったのを…よく覚えています」
「…ああ、あの時の小さな女の子がスカイアさまだったのですね」
話を聞くうちに記憶が蘇り、帝国の礎となるべくがむしゃらに働かねばと気負っていた頃のことを思い出す。
日々の激務に明け暮れる中の一幕を鮮明に覚えてこそいなかったが、それでも大事な教え子を守ろうと躍起になっていた気持ちに嘘はなく。
「はい。私たちイーリスは、元々は麓の人間とはあまり関わりを持たない種族でした。だから、帝国の皆さんと同じように大学で勉強をすると決まった際は、緊張と不安で胸が一杯だったんです。そんな風に考えていたとき、アリス先生と出逢って…翼があっても、全身が鱗に覆われていても…それぞれ皆、同じ"人"なのだと実感しました」
有翼はスカイア自身や同族、体が鱗にというのはコムルーン地方のサラマンダー達を指しているのだろうか。
その他モール族やネレイドなど、どれだけ人間と異なる特徴を持っていようとも、皆等しく帝国の臣民であり、七英雄を倒すという志を同じくする仲間でもある。
元は小さな帝国だったバレンヌが彼らの協力を得られたのは、先代を始めとした数々の皇帝と国民の尽力あってのこと。
歴史を学び紐解く教員の一人として、アリスは如何に多くの人々が未来の為に身命を賭したか思いを馳せずにはいられなくなり、胸元をきつく押さえる。
「ええ、仰る通りです。陛下だけでなく、歴々の皇帝の皆さまが紡いだ絆があるからこそ、わたくし達も皆ごく自然に帝国の為に尽くそうと思える…その一員であることを、わたくしは誇りに思っています」
目を閉じて流れる音楽に耳を傾け、緊張を解すべくふっと息を吐く。半ば職業病にも程近い教え導く身としての訓戒を語ったものの、この室へ赴いた本懐はイーリスの少女と同じなのだと、彼女は。
「ですが、根を詰め過ぎていては元も子もなくなってしまいますからね。音楽を堪能して心を休めるという優れたリフレッシュ方法を、わたくしは否定するつもりはありませんよ」
「うふふ…ありがとうございます。あ、そういえば…アリス先生も音楽を聴きたくてここに来たんですよね? 座りますか?」
「いえいえ、お構いなく。愛する生徒から、たったひとつしかない特等席を奪うなんて出来ませんもの」
スカイアからの申し出を固辞し、音楽教師が弾くことが主となるピアノに目を向けるアリス。
芸術科目は本来全くの専門ではなかったが、ふと自分でもメロディを奏でたくなって、埃を被らないよう下ろされていた蓋を開く。
「ええと、確か初めのフレーズは…」
朧気な記憶を辿り、幼い頃に気に入っていた曲の音階を探す。物覚えのいい友人がいれば迷わずに弾けただろうにと脳裏に過ったその刹那、謎の呪文のような言葉が扉の方から聞こえてきた。
「シレファシソファミレミレド。人には耳にタコが出来るくらい言い聞かせていた癖に、自分は忘れちゃったの?」
現れたのは、帝国軽装歩兵の才女イングリット。代々帝国に仕える由緒正しい家系に生まれた一人で、アリスとは家が近い旧知の仲であった。
そんな縁もあっての気さくな姉御肌による歯に衣着せぬ物言いに、イーリスの少女は驚いて声も出なくなっていた。
「ち、違います。鍵盤のどこがどの音階かを数えていただけで…」
「だとしたら余計質が悪いわよ。あなたも名家の出なのだから、音に触れる機会はいくらでもあったはずでしょう」
「それはそうですが…耳で聴くのと自ら奏でるのでは何もかもが異なります」
咄嗟の言い訳も一蹴され、どんどん劣勢になっていく恩師を見かね、スカイアが翼で二人を遮るようにして割り入る。
「あの…っ。お二人は仲が悪いのですか?」
「え? ああ、さっきのやり取りのことね。そんなことないわ、寧ろ逆。仲が良いからこそ、何を言っても許される間柄ってワケ」
少女を安心させるよう努めて優しく笑み、イングリットが友好の証と幼馴染に手を伸ばす。
だが差し出された手は見向きもされず、アリスの視線は愛すべき生徒へと一直線。彼女を反面教師に仕立て上げようと言わんばかりの辛辣な口調で語る。
「彼女の言葉を鵜呑みにしてはいけませんからね、スカイアさま。親しき仲にも礼儀あり、どんなに気心の知れた相手でも言ってはならないことがあります」
「言ってはならないこと、ねえ…あなたが小さい頃は、今よりもっとお転婆だったこととか?」
「グリディ、どうしてあなたはいつもそうやって、意地悪なことばかり…」
昔ながらの愛称が飛び出してきたことで、アリスが明確に心を乱されているのを察知するスカイア。
師の窮地を救わねばともう一度飛び出そうとしたところで、まさかの本人から制止を受けることとなる。
「先生」
「…大丈夫ですよ。過去の汚点を指摘されたとて、それが事実である以上は…彼女を責めることは出来ませんもの」
背中越しに見えた苦笑には、若気の至りに対する恥じらいだけではない悔恨が宿っているようにも思えて。
包み隠さず暴露しているようで、その実イングリットは本当に知られたくない秘密は意図して明かさずにいるのだと気付き、少女はこの軽装歩兵に敵意を持つべきではないと改め小さく頭を下げる。
その動作を以て二人もまた緊迫した空気から解放され、良い機だと考えたアリスは自身の口から彼女の言う"お転婆"だった頃についてを告げた。
「今からですと、二十年近く前のことでしょうか。大木から降りられなくなった猫を助けようとして、わたくしの方が川に落ちてしまいまして」
「陛下もちょうどその場に居合わせてたんだけど、お陰でもう大騒ぎよ。あの一件があって以来、陛下ご本人か帝国精鋭の誰かが必ずアリスを見守るようにってお達しが…あ」
饒舌になって興が乗り過ぎてしまったのか、イングリットは本来他言してはならない密約についてをも漏らす。
それは彼女が突然ここに現れた理由にも通じ、アリスはだから常に誰かの視線を受けていたのかと密かに得心する。
一方で何も知らず言い淀みに対する純粋な疑問から首を傾げるイーリスの娘をどうにか誤魔化して、軽装歩兵の才女は幼馴染へと向き直る。
「イングリットさん?」
「ま、まあそれはともかく。彼女、誰かが見てないと本当に危なっかしい子だから…あなたも余裕があるときは"アリス先生"を気に掛けてあげてくれるかしら」
「はい! 頑張りますっ」
戦闘面での先輩とも呼べる軽装歩兵にすっかり言い包められ、スカイアは晴れやかな笑顔で意気込む。
見守られる側であるアリスにとっては過保護だと咎めたい気持ちがなくもなかったが、元凶が己である以上何を言っても焼け石に水だろうと口を噤む。
そもそもの話、彼女を始め兵の皆がそうするように仕向けたのは他でもない許婚の仕業であり、ここでの反論自体が無意味であった。
「…はぁ。これでも最近は、なるべく弁えるようにしていますのに」
「なるべくっていうのが最初から間違ってるのよ。仮にも皇帝陛下の許嫁なら、もっと慎み深くしてもらわないと」
それでも憤懣を抑えきれず愚痴を零したところに、すかさず幼馴染による悪態が飛んでくる。
尤もらしい諌言でこそあれど、誰に対しても遠慮のない態度の彼女からでは、説得力は皆無と言ってよく。
「私はアリス先生の思い切りの良さ、好きですよ」
言われたい放題の恩師の腕に絡みついて、自分だけは全面的に味方であると示すスカイア。
軽装歩兵はまるでこちらが悪者扱いのようだと怪訝そうな呻きを上げるも、後ろ盾を得たアリスから更なる追撃を浴びせられどんどん追い詰められていく。
「えぇ~…? こんな子が教師で、本当に大丈夫かしら…」
「優秀な教え子は誰のどのようなところを尊敬すべきか、きちんと見てくれているという証拠です」
「うふふ。あっでも、イングリットさんの剣捌きもとても格好いいですよね。連携するとき、いつも素敵だなって思いながら後ろから見てます」
かと思いきや、師よりも更に上手に飴と鞭を使い分けられる少女は帝国兵の先輩を巧みな話術で煽 ててみせ、まんまと魅了されてしまうのだった。
「! スカイア、あなた意外と口が達者ね…テンプテーションにでもかかったかと思ったわ」
エイルネップを制圧していた七英雄の紅一点、ロックブーケの代名詞と言ってもいい秘技、テンプテーション。
かつて彼女を討伐した女傑クリームヒルト帝が見切り、既に帝国では対策法が広く知れ渡っている無害な技ではあるが、可愛い後輩から似たような行為を突然されれば、帝国きっての多才イングリットも流石に気圧されるがままで。
「あら。グリディ、あなたが顔を赤らめている瞬間を見るなんて何年ぶりでしょう。もしかして、殿方よりも同性の方が…?」
冗談めかしてそう笑うアリスに、軽装歩兵の才女は堪えきれず手が出そうになるほど憤慨する。
が、仮にも護衛としてこの場に立つ身、万が一にも加害者になる訳にはいくまいと、即座に話題を切り替え幼馴染の気を逸らす。
「そんなわけないでしょ、もう…! ほら、そろそろ授業が始まる時間じゃないの? 教師が遅刻なんてしたら、生徒たちに示しがつかないわよ」
「はい、はい。でもその前に、ワンフレーズだけ弾かせてください。スカイアさまにも聞いて欲しいですし…」
「だめ」
我儘に対する容赦ない否に見せ掛けて、その実彼女もまた真に厳しくはなれず、寧ろ完奏しろとピアノを顎で指す始末。
その許諾を受けたアリスは、せがまれたからにはと意気揚々とはにかんで、鍵盤へと指を載せる。
「ワンフレーズだけじゃなくて、しっかり一曲弾ききってからでいいわよ。というかそうしてちょうだい」
「ふふ…ありがとう、グリディ。では、お言葉に甘えて」
小さく深呼吸して緊張を鎮め、淑女は何度弾いたか知れぬ思い出の曲を奏で始める。
覚束無い指の動きによる単音続きのメロディと不安定なテンポ、そんな酷く稚拙な演奏でも、スカイアにとっては心揺さぶられるもので。
「満足した?」
「…はい」
子供の我儘に応えた母のような、慈しみと呆れの混じった問い掛けに、アリスが肩を竦め微笑する。
それから真っ赤に染まった頬を覆い、イーリスの少女へ向き直って清聴させたことへの謝罪を零す。
「すみませんスカイアさま、やはり久しぶりだとどうしても聞き苦しいものになってしまいますね…」
「いえ、今の演奏でも素敵な曲であることはわかりました。いつか一緒に、アンサンブルをしてみたいと思うくらいに」
けれどスカイアは頑として首を縦には振らず、胸元に両手を折り重ねて感慨を告げる。
「あなたってば、本当にアリスのこと好きねぇ。あの演奏から、そんな優等生みたいな感想が出てくるなんて」
「アリス先生は私にとって、帝国の皆さんと仲良くなる勇気をくれた人ですから」
微かに嫉視を含んでいるようにも取れるイングリットの揶揄、それでも少女の意思は変わらず恩師への感謝に満ちていた。
眩いほどの志に当てられた彼女は潔くその真摯さを認め、いつの間にか立派な指導者となっていた幼馴染の肩に肘を掛ける。
「…よかったわね。教え子がこんなに慕ってくれるなんて」
「ええ、教師冥利に尽きます」
晴れ晴れとした笑みで頷いて、彼女は名残惜しみつつもピアノの蓋を閉じ、ようやく席を立つ。
「さて、そろそろ予鈴も鳴りますし…今度こそ行きましょう」
そう言って二人を先導し、いつも以上に軽やかな足取りで大教室へと向かうアリス。
既に準備万端で待っている生徒たちを扉越しに見つめ、彼らもまたスカイアのように自分が師で良かったと心から思える授業をしたい――そう決意を新たに一歩を踏み出した。
が、いつものように人の少ない早朝の始業前に訪れたところ、今日は珍しくも先客が居る日のようで。
「あら…スカイアさま」
蓄音機のそばに置かれたロッキングチェアに座すは、イーリスの少女。巨大な羽根を器用に折り畳み、まるで殻に籠るようにすやすやと眠りに就いていた。
「心地よさそうに寝ておられますが…どうしましょう、起こした方がいいのでしょうか」
小さく聞こえる寝息に合わせた小声で呟き、この自由な有翼族に退いてもらうべきか逡巡する。
しかしこうも幸せそうな笑みを見ても尚、非道な振る舞いを行えるほどアリスも鬼ではなく、眉を顰めつつもその寝顔を見守ることしか出来なかった。
「…」
帝国領地の中でも最も南東に位置する、ヤウダ地方のチカパ山を本来の住処とする彼女達。
何代か前の皇帝と彼女の祖先が出逢った経緯もまた、詩人の楽器による演奏に釣られてのことだったという。
つまるところ生粋の音楽好きな種族なのだろうかと考えてから、全てのイーリスがそうとは限らないと首を振る。
打倒ワグナスの志を共にし、世代を跨いで長い期間をかけて交友を深めた今もまだ、その生態については謎が多く、寝姿さえある種の神秘性を持っていると淑女は思わず息を呑む。
「んぅ…」
小さな呻きと共に、スカイアがちょうど姿勢を変えたその瞬間。ゆったりとしたメロディが終わり、全く別の賑やかな音楽が流れ始める。
突然の変転に目を覚ました彼女は驚いて羽根を広げ飛び上がり、視界に見えた指導教員へと咄嗟に謝罪を告げた。
「わっ?! あ…アリス先生、すみません…」
「いえ、お気になさらないでください。今はまだ始業前ですから」
宥免を伝えながら慣れた手付きで蓄音機を操作して、元々流れていたものとは別のスローテンポの曲を選ぶ。
再びの眠りを誘うような雰囲気にイーリスの少女は一瞬だけ舟を漕ぎそうになるも、慌てて拳を握り眠気を払い、改めて頭を深く下げる。
「ありがとうございます…先生の顔を見た瞬間、怒られるかとばかり」
どうやら𠮟責を恐れていたらしく、教師として彼女にそこまで厳しくしていたかと密かに消沈するアリス。
確かに、指導に於いて妥協出来ない部分については無茶をさせた自覚が無きにしも非ずだったものの、教え子に怖がられるまでとは思っておらず胸の奥がチクリと痛む。
が、続け様に零れ落ちた旧懐を聞く限りでは、その寂寥には誤解が多分に含まれているようだった。
「先生が覚えているかはわかりませんが…五年くらい前にも、同じようにここで眠っていたことがあったんです。その時のアリス先生は、私が風邪をひくんじゃないかって剣幕になって…」
スカイアが語るのは、今よりももっと幼い頃の追憶。次代を担うべく学びの機会を得た彼女は当時、教師となったばかりのアリスに見つかり"叱られた"のだとはにかむ。
「アバロンに来て間もない私でも、心配してもらえるんだと嬉しかったのを…よく覚えています」
「…ああ、あの時の小さな女の子がスカイアさまだったのですね」
話を聞くうちに記憶が蘇り、帝国の礎となるべくがむしゃらに働かねばと気負っていた頃のことを思い出す。
日々の激務に明け暮れる中の一幕を鮮明に覚えてこそいなかったが、それでも大事な教え子を守ろうと躍起になっていた気持ちに嘘はなく。
「はい。私たちイーリスは、元々は麓の人間とはあまり関わりを持たない種族でした。だから、帝国の皆さんと同じように大学で勉強をすると決まった際は、緊張と不安で胸が一杯だったんです。そんな風に考えていたとき、アリス先生と出逢って…翼があっても、全身が鱗に覆われていても…それぞれ皆、同じ"人"なのだと実感しました」
有翼はスカイア自身や同族、体が鱗にというのはコムルーン地方のサラマンダー達を指しているのだろうか。
その他モール族やネレイドなど、どれだけ人間と異なる特徴を持っていようとも、皆等しく帝国の臣民であり、七英雄を倒すという志を同じくする仲間でもある。
元は小さな帝国だったバレンヌが彼らの協力を得られたのは、先代を始めとした数々の皇帝と国民の尽力あってのこと。
歴史を学び紐解く教員の一人として、アリスは如何に多くの人々が未来の為に身命を賭したか思いを馳せずにはいられなくなり、胸元をきつく押さえる。
「ええ、仰る通りです。陛下だけでなく、歴々の皇帝の皆さまが紡いだ絆があるからこそ、わたくし達も皆ごく自然に帝国の為に尽くそうと思える…その一員であることを、わたくしは誇りに思っています」
目を閉じて流れる音楽に耳を傾け、緊張を解すべくふっと息を吐く。半ば職業病にも程近い教え導く身としての訓戒を語ったものの、この室へ赴いた本懐はイーリスの少女と同じなのだと、彼女は。
「ですが、根を詰め過ぎていては元も子もなくなってしまいますからね。音楽を堪能して心を休めるという優れたリフレッシュ方法を、わたくしは否定するつもりはありませんよ」
「うふふ…ありがとうございます。あ、そういえば…アリス先生も音楽を聴きたくてここに来たんですよね? 座りますか?」
「いえいえ、お構いなく。愛する生徒から、たったひとつしかない特等席を奪うなんて出来ませんもの」
スカイアからの申し出を固辞し、音楽教師が弾くことが主となるピアノに目を向けるアリス。
芸術科目は本来全くの専門ではなかったが、ふと自分でもメロディを奏でたくなって、埃を被らないよう下ろされていた蓋を開く。
「ええと、確か初めのフレーズは…」
朧気な記憶を辿り、幼い頃に気に入っていた曲の音階を探す。物覚えのいい友人がいれば迷わずに弾けただろうにと脳裏に過ったその刹那、謎の呪文のような言葉が扉の方から聞こえてきた。
「シレファシソファミレミレド。人には耳にタコが出来るくらい言い聞かせていた癖に、自分は忘れちゃったの?」
現れたのは、帝国軽装歩兵の才女イングリット。代々帝国に仕える由緒正しい家系に生まれた一人で、アリスとは家が近い旧知の仲であった。
そんな縁もあっての気さくな姉御肌による歯に衣着せぬ物言いに、イーリスの少女は驚いて声も出なくなっていた。
「ち、違います。鍵盤のどこがどの音階かを数えていただけで…」
「だとしたら余計質が悪いわよ。あなたも名家の出なのだから、音に触れる機会はいくらでもあったはずでしょう」
「それはそうですが…耳で聴くのと自ら奏でるのでは何もかもが異なります」
咄嗟の言い訳も一蹴され、どんどん劣勢になっていく恩師を見かね、スカイアが翼で二人を遮るようにして割り入る。
「あの…っ。お二人は仲が悪いのですか?」
「え? ああ、さっきのやり取りのことね。そんなことないわ、寧ろ逆。仲が良いからこそ、何を言っても許される間柄ってワケ」
少女を安心させるよう努めて優しく笑み、イングリットが友好の証と幼馴染に手を伸ばす。
だが差し出された手は見向きもされず、アリスの視線は愛すべき生徒へと一直線。彼女を反面教師に仕立て上げようと言わんばかりの辛辣な口調で語る。
「彼女の言葉を鵜呑みにしてはいけませんからね、スカイアさま。親しき仲にも礼儀あり、どんなに気心の知れた相手でも言ってはならないことがあります」
「言ってはならないこと、ねえ…あなたが小さい頃は、今よりもっとお転婆だったこととか?」
「グリディ、どうしてあなたはいつもそうやって、意地悪なことばかり…」
昔ながらの愛称が飛び出してきたことで、アリスが明確に心を乱されているのを察知するスカイア。
師の窮地を救わねばともう一度飛び出そうとしたところで、まさかの本人から制止を受けることとなる。
「先生」
「…大丈夫ですよ。過去の汚点を指摘されたとて、それが事実である以上は…彼女を責めることは出来ませんもの」
背中越しに見えた苦笑には、若気の至りに対する恥じらいだけではない悔恨が宿っているようにも思えて。
包み隠さず暴露しているようで、その実イングリットは本当に知られたくない秘密は意図して明かさずにいるのだと気付き、少女はこの軽装歩兵に敵意を持つべきではないと改め小さく頭を下げる。
その動作を以て二人もまた緊迫した空気から解放され、良い機だと考えたアリスは自身の口から彼女の言う"お転婆"だった頃についてを告げた。
「今からですと、二十年近く前のことでしょうか。大木から降りられなくなった猫を助けようとして、わたくしの方が川に落ちてしまいまして」
「陛下もちょうどその場に居合わせてたんだけど、お陰でもう大騒ぎよ。あの一件があって以来、陛下ご本人か帝国精鋭の誰かが必ずアリスを見守るようにってお達しが…あ」
饒舌になって興が乗り過ぎてしまったのか、イングリットは本来他言してはならない密約についてをも漏らす。
それは彼女が突然ここに現れた理由にも通じ、アリスはだから常に誰かの視線を受けていたのかと密かに得心する。
一方で何も知らず言い淀みに対する純粋な疑問から首を傾げるイーリスの娘をどうにか誤魔化して、軽装歩兵の才女は幼馴染へと向き直る。
「イングリットさん?」
「ま、まあそれはともかく。彼女、誰かが見てないと本当に危なっかしい子だから…あなたも余裕があるときは"アリス先生"を気に掛けてあげてくれるかしら」
「はい! 頑張りますっ」
戦闘面での先輩とも呼べる軽装歩兵にすっかり言い包められ、スカイアは晴れやかな笑顔で意気込む。
見守られる側であるアリスにとっては過保護だと咎めたい気持ちがなくもなかったが、元凶が己である以上何を言っても焼け石に水だろうと口を噤む。
そもそもの話、彼女を始め兵の皆がそうするように仕向けたのは他でもない許婚の仕業であり、ここでの反論自体が無意味であった。
「…はぁ。これでも最近は、なるべく弁えるようにしていますのに」
「なるべくっていうのが最初から間違ってるのよ。仮にも皇帝陛下の許嫁なら、もっと慎み深くしてもらわないと」
それでも憤懣を抑えきれず愚痴を零したところに、すかさず幼馴染による悪態が飛んでくる。
尤もらしい諌言でこそあれど、誰に対しても遠慮のない態度の彼女からでは、説得力は皆無と言ってよく。
「私はアリス先生の思い切りの良さ、好きですよ」
言われたい放題の恩師の腕に絡みついて、自分だけは全面的に味方であると示すスカイア。
軽装歩兵はまるでこちらが悪者扱いのようだと怪訝そうな呻きを上げるも、後ろ盾を得たアリスから更なる追撃を浴びせられどんどん追い詰められていく。
「えぇ~…? こんな子が教師で、本当に大丈夫かしら…」
「優秀な教え子は誰のどのようなところを尊敬すべきか、きちんと見てくれているという証拠です」
「うふふ。あっでも、イングリットさんの剣捌きもとても格好いいですよね。連携するとき、いつも素敵だなって思いながら後ろから見てます」
かと思いきや、師よりも更に上手に飴と鞭を使い分けられる少女は帝国兵の先輩を巧みな話術で
「! スカイア、あなた意外と口が達者ね…テンプテーションにでもかかったかと思ったわ」
エイルネップを制圧していた七英雄の紅一点、ロックブーケの代名詞と言ってもいい秘技、テンプテーション。
かつて彼女を討伐した女傑クリームヒルト帝が見切り、既に帝国では対策法が広く知れ渡っている無害な技ではあるが、可愛い後輩から似たような行為を突然されれば、帝国きっての多才イングリットも流石に気圧されるがままで。
「あら。グリディ、あなたが顔を赤らめている瞬間を見るなんて何年ぶりでしょう。もしかして、殿方よりも同性の方が…?」
冗談めかしてそう笑うアリスに、軽装歩兵の才女は堪えきれず手が出そうになるほど憤慨する。
が、仮にも護衛としてこの場に立つ身、万が一にも加害者になる訳にはいくまいと、即座に話題を切り替え幼馴染の気を逸らす。
「そんなわけないでしょ、もう…! ほら、そろそろ授業が始まる時間じゃないの? 教師が遅刻なんてしたら、生徒たちに示しがつかないわよ」
「はい、はい。でもその前に、ワンフレーズだけ弾かせてください。スカイアさまにも聞いて欲しいですし…」
「だめ」
我儘に対する容赦ない否に見せ掛けて、その実彼女もまた真に厳しくはなれず、寧ろ完奏しろとピアノを顎で指す始末。
その許諾を受けたアリスは、せがまれたからにはと意気揚々とはにかんで、鍵盤へと指を載せる。
「ワンフレーズだけじゃなくて、しっかり一曲弾ききってからでいいわよ。というかそうしてちょうだい」
「ふふ…ありがとう、グリディ。では、お言葉に甘えて」
小さく深呼吸して緊張を鎮め、淑女は何度弾いたか知れぬ思い出の曲を奏で始める。
覚束無い指の動きによる単音続きのメロディと不安定なテンポ、そんな酷く稚拙な演奏でも、スカイアにとっては心揺さぶられるもので。
「満足した?」
「…はい」
子供の我儘に応えた母のような、慈しみと呆れの混じった問い掛けに、アリスが肩を竦め微笑する。
それから真っ赤に染まった頬を覆い、イーリスの少女へ向き直って清聴させたことへの謝罪を零す。
「すみませんスカイアさま、やはり久しぶりだとどうしても聞き苦しいものになってしまいますね…」
「いえ、今の演奏でも素敵な曲であることはわかりました。いつか一緒に、アンサンブルをしてみたいと思うくらいに」
けれどスカイアは頑として首を縦には振らず、胸元に両手を折り重ねて感慨を告げる。
「あなたってば、本当にアリスのこと好きねぇ。あの演奏から、そんな優等生みたいな感想が出てくるなんて」
「アリス先生は私にとって、帝国の皆さんと仲良くなる勇気をくれた人ですから」
微かに嫉視を含んでいるようにも取れるイングリットの揶揄、それでも少女の意思は変わらず恩師への感謝に満ちていた。
眩いほどの志に当てられた彼女は潔くその真摯さを認め、いつの間にか立派な指導者となっていた幼馴染の肩に肘を掛ける。
「…よかったわね。教え子がこんなに慕ってくれるなんて」
「ええ、教師冥利に尽きます」
晴れ晴れとした笑みで頷いて、彼女は名残惜しみつつもピアノの蓋を閉じ、ようやく席を立つ。
「さて、そろそろ予鈴も鳴りますし…今度こそ行きましょう」
そう言って二人を先導し、いつも以上に軽やかな足取りで大教室へと向かうアリス。
既に準備万端で待っている生徒たちを扉越しに見つめ、彼らもまたスカイアのように自分が師で良かったと心から思える授業をしたい――そう決意を新たに一歩を踏み出した。
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