リベサガ短編
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「ふぅむ…参ったな」
ある日、軍師に用があり帝国大学を訪れていた皇帝ジルベールは、想い人へ渡して欲しいと生徒らしい少年から一通の手紙を押し付けられる。
このアバロンを、引いては世界すらも手中に収めんとする皇帝たる男に言付けを頼むとは何たる不敬――と憤る気持ちは全くなく、寧ろ甚く慕われている証と喜ばしいことではあった。
が、如何せん内容が内容だけに安易な欣幸を抱く訳にもいかず、この文をどうしたものかと嘆息を吐く。
「"親愛なる我が師、アリス様へ"」
何故か便箋ではなく封筒の表面に大々的に書かれている書き出しの文章を読み上げ、その筆跡から漂う緊張とこれを受け取った際に少年が見せていた焦慮を思い起こす。
定まらない視線や捲し立てるような早口、そして承諾すら得ず逃げ去る足の速さ。それらを勘案する限りでは、十中八九この手紙は懸想文と称するべきものなのだろう。
この大学で教鞭を執る立場にある彼女――アリスが、生徒からそのような恋慕を向けられること自体は、避けようがない必然と予測は立てていた。
ただ、天下の皇帝ともあろう己にその覚悟が足りていなかったとは思えず、ジルベールの眉間にはいくつもの皺が寄せられていく。
「これは…等しく愛すべき臣民の幼気な願いと言えど、叶える訳には行かないな」
皇帝陛下が此度の一件を憂う唯一にして絶対的な理由、それは他でもないアリスが彼の許嫁という身分であるが故に。
つまり今この手に握られた恋文は、彼にとっては読んで欲しいと希う相手の元には決して届けてはならない代物となる。
何せこのバレンヌ帝国最終皇帝ジルベールという男は、伝承法により先代達の力と記憶を受け継いだ今、彼女への眷恋のみが歴々の皇帝との彼我を分ける精神的支柱にも等しいと思っているほどで。
「…ジル?」
噂をすれば影、授業が終わったらしいアリスが、そんな逡巡の真っ只中にいる皇帝の姿を見つける。
ぽつりと呟かれた昔ながらの愛称を聞き漏らさず、彼はくしゃくしゃに握り潰す寸前となっていた文をすっと懐にしまい、愛しい許嫁の方へ視線を向けた。
「アリス。今日も先生として頑張っているみたいだな」
「あら陛下、ご機嫌麗しゅう。わたくし達がこうして知識の伝授に専念出来るのも、陛下の尽力の賜物ですから」
許婚を相手にしているにしては余所余所しいとさえ感じる口調に、もう慣れたと思いつつも微かな寂寞を抱く。
アリスは予てより公私をきっぱり分ける性格で、この応答も今ここに立つ自分はあくまで一介の教諭であるという意思表示に他ならない。
尤も、そういった毅然とした態度と人々を教え導く身からなる優しさによるギャップに惚れ込む者が居るというのも、彼女に思慕を寄せる男としてわからなくもないとは認めざるを得ず。
「それで…皇帝陛下ともあろうお方が市井に降りて来たのは、どういったご要件で?」
不意の邂逅を経たアリスにとってはごく自然な問いに、ここへ来た本懐をすっかり忘れていた男ははっと息を呑む。
それから努めて平静を装って、"能ある鷹は爪を隠す"を体現する不真面目な学生の姿を探す。
「あぁ、軍師に話があって来たんだ。彼はまた授業をサボっているのかな」
「モウトクさんですか? 本日は珍しく勉強熱心な様子で机に齧り付いておられましたよ。御用でしたら、こちらに赴くようお呼びいたしますね」
「いやいい、私も同行させてもらおう」
臣下として振る舞うのなら最適解とも言える申し出。しかし先の懸想文の件もあって許嫁が他の異性と関わる瞬間を少しでも減らしたいと思ってしまったジルベールは、妙に前のめりになって彼女へ並び立ち、教室へと足を向ける。
「…? わかりました。では参りましょう」
声、あるいは眼差しか。不自然な否に違和感があったのだろうアリスが、一度足を止め不思議そうに首を傾げた後に了承を示す。
その表情には笑みこそ確かにあれど、どことなく眉が下がっているようにも見え、一時でもそのような愁いを抱かせたことに罪悪感が芽生える。
今夜こそはゆっくり話がしたい――皇帝として果たさねばならぬ務めとの狭間で、彼は自身の想いを必死に押し隠し、軍師の元へ歩みを進めた。
「モウトク」
「ややっ! これは陛下、私めの名を覚えて下さっていたとは光栄です」
アリスから事前に聞けていたことで、"今"この時代に軍師という役職に就く者の名を正しく認識出来ていた皇帝の呼名に、そうとは知らぬ彼が驚嘆を露わにする。
一歩遅れてやって来た彼女はその反応を前にして、皇帝陛下たる者が重用する臣下の名を記憶していないとはどういう了見だと言わんばかりに目を見開かせる。
突き刺さる視線に堪えかねたジルベールは、釈明にもならないとは理解しつつも苦渋の想いで自らの内情を吐露し、軍師の驚きについてを説明する。
「…継承から日が浅いせいで記憶が混濁し、彼の先祖達と名前が混ざってしまうんだ。本当に申し訳ないとは思っている」
「あ…」
"皇帝"の名が持つ重みを突きつけられた彼女は非礼を詫びることも出来ず、咄嗟に視線を逸らすしかなく。
「陛下、それからアリス先生。ここでは何です、場所を変えましょう。この時間帯のアバロンの園は、風が心地いいんですよ」
沈鬱な空気を払拭するのは、軍師による鶴の一声。用があると明確に伝える前だったのを利用し、本来は部外者となる筈のアリスを巻き込んでの移動の提案に彼女は目を丸める。
何故自分が、と驚くその反応を余所に二人で男達はひっそりと結託し、率先してジルベールが手を差し伸べた。
「えっ? いえその、わたくしは偶然この場に居合わせただけで…」
「構いません。と、言うより…私はまず御二方と話がしたい。陛下のご用件を聞くのはそれからでも遅くありませんよね」
「彼の言う通りだ。アリス、一緒に行こう」
皇帝による熱心な説得と瞳の力強さに根負けした彼女はおずおずとその手を取り、穏やかな笑みを浮かべた。
「…では、お言葉に甘えて」
こうして軍師と皇帝に大学教諭という奇妙な組み合わせによる小さな行軍が誕生し、周囲の人々からは疑念に満ちた眼差しが向けられることとなる。
既に次なる策を勘案しているらしい軍師は鼻歌交じりの上機嫌で廊下を歩み、こちらを案じようともしない。
恐らくそれが彼なりの配慮なのだろうと察したジルベールは、緊張の面持ちで最後尾に着く許嫁をエスコートし、そっと指を絡め密やかに囁いた。
「安心してくれ。私がそばに居る」
「ジルったら、またそんな恐い顔をして…モウトクさんは危険人物などではありませんよ」
「…はぁ」
くすくすと笑う様は、耳打ちした言葉の本質を全く理解していないことを如実に表していて。
そもそも大学の敷地に着いて早々に、彼女の慕われ具合は想定を遥かに超えていると痛感させられたジルベールからしてみれば、既に生徒だろうが同僚だろうが等しく警戒対象となっているのだ。
にも拘らず彼女は、と悲嘆を吐きたくなる気持ちをぐっと堪え、そうした物腰の柔和さも魅力のひとつだと強引に認識を置換させる。
「さて、ここならば気兼ねなく談笑が可能かと」
ジルベールが煩悶に頭を悩ませている内に、一行は強靭な根が石造りの広場をも貫く大樹の聳えるアバロンの園へと辿り着く。
「どうです、気持ちの良い風でしょう」
「ええ、本当に…日々の忙しさから、あまり足を運んだことはなかったのですが、こんなに素敵な場所でしたのね」
流れる穏やかな風にアリスが驚嘆を零す一方で、高い術の資質を持つジルベールはすぐさま違和感に気付き、顔を顰める。
天術と風術を組み合わせることで、優れた術師であれば仲間の傷を癒し不調を整える風を吹かせることが出来る。
レストレーション――極めて微弱ではあるものの、その術の波動を感知した彼は、許嫁を庇うようにして腕を振り上げた。
「アリス、騙されてはいけない。彼は合成術を用いて自らが告げた光景を作為的に演出している」
「まあ!」
「流石は陛下、ちゃちな小細工など効きませんでしたか」
仰々しく肩を竦め、存外あっさりと認めるモウトク。しかし一体何が目的でこのような権謀術数を巡らせたかがまるで読めず、ジルベールは語気を強めて問う。
「いつの間に術の詠唱を済ませた? もしや道中の鼻歌か」
「ええ、ですが大したことはありません。これは私から御二方へのプレゼントのようなものです」
木漏れ日を見上げ、モウトクは口を三日月に歪める。皇帝に、ひいてはアバロン帝国に仕える臣下として、彼は自身の役回りを十二分に理解しているようだった。
流石はこの国が誇る帝国大学に於ける唯一無二の神童の血筋、と感服する以外になくなったジルベールは、かの策士の言葉に深々と頷いた。
「陛下。アリス先生は我々生徒からの人望も篤く、さぞ気を揉まれていることでしょうが…ご安心を、陛下の愛には敵いません」
「そうだな。少なくとも、君のように既に私の想いの強さを知る者の前でなら…敢えて誤魔化したり隠したりする必要ももうないのだろう」
その語調からして、彼にはとうの昔に己がアリスへ抱く想いを見抜かれていたのだと諦念と共に破顔し、皇帝は傍らの許嫁の腰を引き寄せる。
「へっ、陛下…!? いけません、ここは公共の場で…!」
油断しきっていたところに密着され、許婚と言えどと慌てて咎めようとするアリスだったが、正面から鳴り響く拍手によって遮られてしまう。
特殊な眼鏡によってその瞳がどのような想いを持っているか読み取れない中、軍師は喜悦を露わに二人を祝福するのだった。
「いやあ眼福眼福! このモウトク、御二方の仲睦まじい姿を拝見出来て光栄の至りです」
三日月だった口角はすっかり半円になり、皇帝陛下直々の誇示が余程の歓びだったのだと察せられる。
これまで一介の教師を演じられていると信じ切っていた彼女は、何が何だか訳が分からずぐるぐると目を回し始めていた。
「み…見世物ではありませんっ、そうやって揶揄うのはやめてください…」
やっとのことで言えたのは、弱々しい懇願のみで。教師としての威厳は忽然と消え失せ、皇帝陛下に溺愛される一人の女性となった彼女へ、モウトクは即座に非を詫び、そして。
「おや、これは失礼。されどご心配なく、大学構内では今まで通りに接すると誓いましょう。故にアリス先生も、そのようにしていただければと」
「…いいや。今回の件を機に、改めて彼女との盟約について考え直す必要があると感じていてね。重臣達と相談した結果によっては、今後は彼女の薬指に私の許嫁である証を身に着けてもらう可能性も往々にしてあり得る」
「そうですね、私もそれが最善だと思います」
懐の懸想文のことは巧妙に隠匿した上で、やはり彼女を害虫から護るには現状維持では限界があると示す。
渦中の根源たるアリス本人は今もまだどこか釈然としていない様子だったが、多勢に無勢、軍師からの肯定に口を挟む余地を失う。
「アリス先生は、大学内でも多くの人に慕われていますから。我々学生は勿論、客員教授としていらっしゃる術研の方々などからも評判がいいんですよ」
続け様に軍師は半ば内偵のような立ち位置からの目線で、大学教諭の凛然たる姿を男へと吹聴する。
やはりそうかという納得と、まさか術法研究所の人間にさえ彼女の魅力が伝わっているのかと兢々とした想いが入り混じる皇帝に、隣から大慌ての訂正が飛んで来た。
「とんでもない、それは過大評価です…! わたくしは与えられた職務を果たしているだけに過ぎません」
「そう謙遜する必要はないよ、アリス。君が何かを教えることの上手さは、私が誰よりもよく知っている」
芯の籠った瞳が向ける力強い賛辞は、幼い頃より共に育ったこの身に刻まれた戦闘技術が何よりの証拠で。
皇帝となるまでの日々、研鑽を重ねて来れたのは、偏に愛しい存在による学びを得られたからであるとジルベールは自負していた。
次第に溢れ出す恋情を抑え切れず、目の前で軍師がこちらを見ているのも構わずそっと頭を撫でてやると、彼女は茹で蛸のように顔を赤らめた。
「へ…陛下ったら…もぅ」
「さあて、そろそろ私は戻るとしますか」
これでもかと翻弄され照れる師の尊顔を見て十二分に満足したらしく、モウトクがくるりと踵を返す。
去っていく背を見てようやく我に返った彼女は、逃げられてしまうのは困ると言わんばかりに呼び止めようとするも、皇帝はゆっくりと首を振ってそれを制止する。
「あっその、お待ちくださいモウトクさん、陛下のご用がまだ…」
「行かせてやってくれ。きっと彼は、私に日を改めさせる為に君をここに連れ出したのだろうから」
会話が聞こえていたのか、背中を向けたままヒラヒラと手を振る軍師。彼なりの謝意を受け取り、ジルベールはようやく二人きりになれたと許嫁の頬に手を添える。
「アリス」
「は、はい」
緊張から身を強張らせ、ぎこちなく返事を告げるアリス。淑やかな所作を心掛ける余裕もない隙を突いて、男は彼女の唇を奪った。
「愛している」
ある日、軍師に用があり帝国大学を訪れていた皇帝ジルベールは、想い人へ渡して欲しいと生徒らしい少年から一通の手紙を押し付けられる。
このアバロンを、引いては世界すらも手中に収めんとする皇帝たる男に言付けを頼むとは何たる不敬――と憤る気持ちは全くなく、寧ろ甚く慕われている証と喜ばしいことではあった。
が、如何せん内容が内容だけに安易な欣幸を抱く訳にもいかず、この文をどうしたものかと嘆息を吐く。
「"親愛なる我が師、アリス様へ"」
何故か便箋ではなく封筒の表面に大々的に書かれている書き出しの文章を読み上げ、その筆跡から漂う緊張とこれを受け取った際に少年が見せていた焦慮を思い起こす。
定まらない視線や捲し立てるような早口、そして承諾すら得ず逃げ去る足の速さ。それらを勘案する限りでは、十中八九この手紙は懸想文と称するべきものなのだろう。
この大学で教鞭を執る立場にある彼女――アリスが、生徒からそのような恋慕を向けられること自体は、避けようがない必然と予測は立てていた。
ただ、天下の皇帝ともあろう己にその覚悟が足りていなかったとは思えず、ジルベールの眉間にはいくつもの皺が寄せられていく。
「これは…等しく愛すべき臣民の幼気な願いと言えど、叶える訳には行かないな」
皇帝陛下が此度の一件を憂う唯一にして絶対的な理由、それは他でもないアリスが彼の許嫁という身分であるが故に。
つまり今この手に握られた恋文は、彼にとっては読んで欲しいと希う相手の元には決して届けてはならない代物となる。
何せこのバレンヌ帝国最終皇帝ジルベールという男は、伝承法により先代達の力と記憶を受け継いだ今、彼女への眷恋のみが歴々の皇帝との彼我を分ける精神的支柱にも等しいと思っているほどで。
「…ジル?」
噂をすれば影、授業が終わったらしいアリスが、そんな逡巡の真っ只中にいる皇帝の姿を見つける。
ぽつりと呟かれた昔ながらの愛称を聞き漏らさず、彼はくしゃくしゃに握り潰す寸前となっていた文をすっと懐にしまい、愛しい許嫁の方へ視線を向けた。
「アリス。今日も先生として頑張っているみたいだな」
「あら陛下、ご機嫌麗しゅう。わたくし達がこうして知識の伝授に専念出来るのも、陛下の尽力の賜物ですから」
許婚を相手にしているにしては余所余所しいとさえ感じる口調に、もう慣れたと思いつつも微かな寂寞を抱く。
アリスは予てより公私をきっぱり分ける性格で、この応答も今ここに立つ自分はあくまで一介の教諭であるという意思表示に他ならない。
尤も、そういった毅然とした態度と人々を教え導く身からなる優しさによるギャップに惚れ込む者が居るというのも、彼女に思慕を寄せる男としてわからなくもないとは認めざるを得ず。
「それで…皇帝陛下ともあろうお方が市井に降りて来たのは、どういったご要件で?」
不意の邂逅を経たアリスにとってはごく自然な問いに、ここへ来た本懐をすっかり忘れていた男ははっと息を呑む。
それから努めて平静を装って、"能ある鷹は爪を隠す"を体現する不真面目な学生の姿を探す。
「あぁ、軍師に話があって来たんだ。彼はまた授業をサボっているのかな」
「モウトクさんですか? 本日は珍しく勉強熱心な様子で机に齧り付いておられましたよ。御用でしたら、こちらに赴くようお呼びいたしますね」
「いやいい、私も同行させてもらおう」
臣下として振る舞うのなら最適解とも言える申し出。しかし先の懸想文の件もあって許嫁が他の異性と関わる瞬間を少しでも減らしたいと思ってしまったジルベールは、妙に前のめりになって彼女へ並び立ち、教室へと足を向ける。
「…? わかりました。では参りましょう」
声、あるいは眼差しか。不自然な否に違和感があったのだろうアリスが、一度足を止め不思議そうに首を傾げた後に了承を示す。
その表情には笑みこそ確かにあれど、どことなく眉が下がっているようにも見え、一時でもそのような愁いを抱かせたことに罪悪感が芽生える。
今夜こそはゆっくり話がしたい――皇帝として果たさねばならぬ務めとの狭間で、彼は自身の想いを必死に押し隠し、軍師の元へ歩みを進めた。
「モウトク」
「ややっ! これは陛下、私めの名を覚えて下さっていたとは光栄です」
アリスから事前に聞けていたことで、"今"この時代に軍師という役職に就く者の名を正しく認識出来ていた皇帝の呼名に、そうとは知らぬ彼が驚嘆を露わにする。
一歩遅れてやって来た彼女はその反応を前にして、皇帝陛下たる者が重用する臣下の名を記憶していないとはどういう了見だと言わんばかりに目を見開かせる。
突き刺さる視線に堪えかねたジルベールは、釈明にもならないとは理解しつつも苦渋の想いで自らの内情を吐露し、軍師の驚きについてを説明する。
「…継承から日が浅いせいで記憶が混濁し、彼の先祖達と名前が混ざってしまうんだ。本当に申し訳ないとは思っている」
「あ…」
"皇帝"の名が持つ重みを突きつけられた彼女は非礼を詫びることも出来ず、咄嗟に視線を逸らすしかなく。
「陛下、それからアリス先生。ここでは何です、場所を変えましょう。この時間帯のアバロンの園は、風が心地いいんですよ」
沈鬱な空気を払拭するのは、軍師による鶴の一声。用があると明確に伝える前だったのを利用し、本来は部外者となる筈のアリスを巻き込んでの移動の提案に彼女は目を丸める。
何故自分が、と驚くその反応を余所に二人で男達はひっそりと結託し、率先してジルベールが手を差し伸べた。
「えっ? いえその、わたくしは偶然この場に居合わせただけで…」
「構いません。と、言うより…私はまず御二方と話がしたい。陛下のご用件を聞くのはそれからでも遅くありませんよね」
「彼の言う通りだ。アリス、一緒に行こう」
皇帝による熱心な説得と瞳の力強さに根負けした彼女はおずおずとその手を取り、穏やかな笑みを浮かべた。
「…では、お言葉に甘えて」
こうして軍師と皇帝に大学教諭という奇妙な組み合わせによる小さな行軍が誕生し、周囲の人々からは疑念に満ちた眼差しが向けられることとなる。
既に次なる策を勘案しているらしい軍師は鼻歌交じりの上機嫌で廊下を歩み、こちらを案じようともしない。
恐らくそれが彼なりの配慮なのだろうと察したジルベールは、緊張の面持ちで最後尾に着く許嫁をエスコートし、そっと指を絡め密やかに囁いた。
「安心してくれ。私がそばに居る」
「ジルったら、またそんな恐い顔をして…モウトクさんは危険人物などではありませんよ」
「…はぁ」
くすくすと笑う様は、耳打ちした言葉の本質を全く理解していないことを如実に表していて。
そもそも大学の敷地に着いて早々に、彼女の慕われ具合は想定を遥かに超えていると痛感させられたジルベールからしてみれば、既に生徒だろうが同僚だろうが等しく警戒対象となっているのだ。
にも拘らず彼女は、と悲嘆を吐きたくなる気持ちをぐっと堪え、そうした物腰の柔和さも魅力のひとつだと強引に認識を置換させる。
「さて、ここならば気兼ねなく談笑が可能かと」
ジルベールが煩悶に頭を悩ませている内に、一行は強靭な根が石造りの広場をも貫く大樹の聳えるアバロンの園へと辿り着く。
「どうです、気持ちの良い風でしょう」
「ええ、本当に…日々の忙しさから、あまり足を運んだことはなかったのですが、こんなに素敵な場所でしたのね」
流れる穏やかな風にアリスが驚嘆を零す一方で、高い術の資質を持つジルベールはすぐさま違和感に気付き、顔を顰める。
天術と風術を組み合わせることで、優れた術師であれば仲間の傷を癒し不調を整える風を吹かせることが出来る。
レストレーション――極めて微弱ではあるものの、その術の波動を感知した彼は、許嫁を庇うようにして腕を振り上げた。
「アリス、騙されてはいけない。彼は合成術を用いて自らが告げた光景を作為的に演出している」
「まあ!」
「流石は陛下、ちゃちな小細工など効きませんでしたか」
仰々しく肩を竦め、存外あっさりと認めるモウトク。しかし一体何が目的でこのような権謀術数を巡らせたかがまるで読めず、ジルベールは語気を強めて問う。
「いつの間に術の詠唱を済ませた? もしや道中の鼻歌か」
「ええ、ですが大したことはありません。これは私から御二方へのプレゼントのようなものです」
木漏れ日を見上げ、モウトクは口を三日月に歪める。皇帝に、ひいてはアバロン帝国に仕える臣下として、彼は自身の役回りを十二分に理解しているようだった。
流石はこの国が誇る帝国大学に於ける唯一無二の神童の血筋、と感服する以外になくなったジルベールは、かの策士の言葉に深々と頷いた。
「陛下。アリス先生は我々生徒からの人望も篤く、さぞ気を揉まれていることでしょうが…ご安心を、陛下の愛には敵いません」
「そうだな。少なくとも、君のように既に私の想いの強さを知る者の前でなら…敢えて誤魔化したり隠したりする必要ももうないのだろう」
その語調からして、彼にはとうの昔に己がアリスへ抱く想いを見抜かれていたのだと諦念と共に破顔し、皇帝は傍らの許嫁の腰を引き寄せる。
「へっ、陛下…!? いけません、ここは公共の場で…!」
油断しきっていたところに密着され、許婚と言えどと慌てて咎めようとするアリスだったが、正面から鳴り響く拍手によって遮られてしまう。
特殊な眼鏡によってその瞳がどのような想いを持っているか読み取れない中、軍師は喜悦を露わに二人を祝福するのだった。
「いやあ眼福眼福! このモウトク、御二方の仲睦まじい姿を拝見出来て光栄の至りです」
三日月だった口角はすっかり半円になり、皇帝陛下直々の誇示が余程の歓びだったのだと察せられる。
これまで一介の教師を演じられていると信じ切っていた彼女は、何が何だか訳が分からずぐるぐると目を回し始めていた。
「み…見世物ではありませんっ、そうやって揶揄うのはやめてください…」
やっとのことで言えたのは、弱々しい懇願のみで。教師としての威厳は忽然と消え失せ、皇帝陛下に溺愛される一人の女性となった彼女へ、モウトクは即座に非を詫び、そして。
「おや、これは失礼。されどご心配なく、大学構内では今まで通りに接すると誓いましょう。故にアリス先生も、そのようにしていただければと」
「…いいや。今回の件を機に、改めて彼女との盟約について考え直す必要があると感じていてね。重臣達と相談した結果によっては、今後は彼女の薬指に私の許嫁である証を身に着けてもらう可能性も往々にしてあり得る」
「そうですね、私もそれが最善だと思います」
懐の懸想文のことは巧妙に隠匿した上で、やはり彼女を害虫から護るには現状維持では限界があると示す。
渦中の根源たるアリス本人は今もまだどこか釈然としていない様子だったが、多勢に無勢、軍師からの肯定に口を挟む余地を失う。
「アリス先生は、大学内でも多くの人に慕われていますから。我々学生は勿論、客員教授としていらっしゃる術研の方々などからも評判がいいんですよ」
続け様に軍師は半ば内偵のような立ち位置からの目線で、大学教諭の凛然たる姿を男へと吹聴する。
やはりそうかという納得と、まさか術法研究所の人間にさえ彼女の魅力が伝わっているのかと兢々とした想いが入り混じる皇帝に、隣から大慌ての訂正が飛んで来た。
「とんでもない、それは過大評価です…! わたくしは与えられた職務を果たしているだけに過ぎません」
「そう謙遜する必要はないよ、アリス。君が何かを教えることの上手さは、私が誰よりもよく知っている」
芯の籠った瞳が向ける力強い賛辞は、幼い頃より共に育ったこの身に刻まれた戦闘技術が何よりの証拠で。
皇帝となるまでの日々、研鑽を重ねて来れたのは、偏に愛しい存在による学びを得られたからであるとジルベールは自負していた。
次第に溢れ出す恋情を抑え切れず、目の前で軍師がこちらを見ているのも構わずそっと頭を撫でてやると、彼女は茹で蛸のように顔を赤らめた。
「へ…陛下ったら…もぅ」
「さあて、そろそろ私は戻るとしますか」
これでもかと翻弄され照れる師の尊顔を見て十二分に満足したらしく、モウトクがくるりと踵を返す。
去っていく背を見てようやく我に返った彼女は、逃げられてしまうのは困ると言わんばかりに呼び止めようとするも、皇帝はゆっくりと首を振ってそれを制止する。
「あっその、お待ちくださいモウトクさん、陛下のご用がまだ…」
「行かせてやってくれ。きっと彼は、私に日を改めさせる為に君をここに連れ出したのだろうから」
会話が聞こえていたのか、背中を向けたままヒラヒラと手を振る軍師。彼なりの謝意を受け取り、ジルベールはようやく二人きりになれたと許嫁の頬に手を添える。
「アリス」
「は、はい」
緊張から身を強張らせ、ぎこちなく返事を告げるアリス。淑やかな所作を心掛ける余裕もない隙を突いて、男は彼女の唇を奪った。
「愛している」