藍の隘路に哀と愛
夢小説設定
教令院から徒歩数分、好立地の書記官宅にて。晴れ晴れとした空模様とは裏腹に、招かれた客人は沈鬱な面持ちでカウチに正座していた。
「サージュ。緊張するのも無理はないが…その姿勢を続けていては足が痺れるだろう、遠慮せず楽にするといい」
「で、でも…うぅ」
アルハイゼンは少しでも時間を有意義に過ごして欲しい一心でそう促すも、少女は小さく呻くのみで従わず。
尤も、彼女の憂苦も自然なものではあった。何故なら本来、この家にはもう一人の住人が居り、二人きりという状況になる可能性自体が予想外のことなのだ。
この家に来るよう誘いを申し出た際も、居候ことカーヴェは今日も今日とて自室で修羅場に立ち向かっている、という前提でようやく頷かせることに成功したのだった。
が、直前になってその前提条件は覆され、少女は来るなり青年が入れ替わりで慌ただしく出て行く様を見送るしかなく。
「…」
遠回しな提案への拒絶に、家主は沈黙せざるを得なくなる。考え得る限りでは最悪のパターン、聡明な思考力も想定外の連続をすぐさまリカバリーは出来ず。
何も言えぬまま互いの呼吸音が厭に響き、いくら自宅で過ごすからとはいえヘッドホンを外して彼女を出迎えたことを後悔し始めていた。
「あの、さ」
身を縮め長らく閉口していたサージュだったが、やがて本当に足が痺れ始めたのか少しずつリラックスした姿勢に移って、その勢いに乗じて声を上げる。
「どうした?」
「え、えっと…かっ、カーヴェ先輩…大変そうだねって」
「…そうだな。だが、ああして元気に走り回っていられるだけ、一時と比べれば随分と良くなったと言っていいだろう」
焦燥を如実に伝える吃音と共に切り出されたのは、当然と言うべきかルームメイトについての話題。
アルハイゼンは折角のひと時に他の男について語らうなど、と眉根を寄せたくなるも、彼に在宅を願ったのは他でもない己自身。
初めからこうなることも想定しておく必要があったと自戒を秘め、渋々話を合わせることにする。
「やっぱり、この家に住むようになってすぐは…もっと酷かった?」
「あいつの浮き沈みの激しさは、今に始まったことじゃない。君も知っての通りだ」
好奇心、よりは純然たる心配からなる問い掛けに首肯を以て答え、不安に思う必要などないと諭す。
少女は彼の嫉妬からなる微かな苛立ちには気付いていない様子で、憂いを含んだ眼差しで玄関ドアの方角へ視線を向ける。
「ん…そう、だね」
それきり再び押し黙って、サージュは少しずつ首の角度を下へ下へと傾かせていく。
在学中はそこまで深い交友関係を築くまでには至っていなかったと言えど、やはり今は彼の友であり後輩として思うところがあるのだろうか。
途切れた以上は早々に話題を転換させるべきと悟った男は徐に立ち上がり、キッチンへと向かうと告げる。
「コーヒーを淹れてくる。君も同じでいいか?」
「うっ、うん。あ…砂糖は欲しいかな、ブラックは流石に私には苦いや」
慌ただしい了承、それに加えて甘味の要求。予想通りの反応に安心して、アルハイゼンは事前に沸かしていたケトルの元に歩みを進めた。
「わかった」
程なくして辿り着いたキッチン、そこにはケトルだけでなく同居人が去り際に用意したのであろう茶請けが置かれていた。
来客と家主の好みをそれぞれ把握したバランスの良いラインナップに、余計なお世話をという反発心とストレートな謝意が交錯する。
が、今はこの精一杯のアシストが自分にとって大きな救いとなっているのだと実感し、コーヒーと共にそれをリビングへ運び込む。
「ありがとうアルハイゼン…わっ、お菓子もたくさん! えへへ、実はちょっと小腹が空いてたんだよね…」
「そうか。なら俺の分は気にせず好きに食べてくれて構わないよ」
コーヒーを持って来てくれたことに感謝を伝えようとした少女が、トレーの横には色とりどりの菓子が入った器も付随していることに気付く。
男はこれらを一見しただけで表情がここまで晴れがましくなる程かと自分まで嬉しくなって、二人の中央ではなく彼女により近い位置へとその茶請けを置いた。
「ほんと? じゃあ遠慮なく…いただきます」
目を輝かせ喜悦を露わに、けれど礼節は忘れてはならないと彼女は眼前で両手を合わせる。
スメールでは馴染みのない食前の挨拶と相俟って、不思議な感覚を抱いたアルハイゼンはその所作をじっと見守っていると、柔らかな視線が返ってきた。
「ん、あぁ…今のはね、稲妻で何かを食べる前の礼儀作法なの。それを用意してくれた人は勿論、使われた食材…命への敬意を表する儀式みたいなものかな」
「成程」
適当な相槌を打って、サージュが感慨深げにそう語るのを聞き入る素振りを見せる。
こうして少女から各国にまつわる蘊蓄 を聞くのは、男の密かな趣味のひとつでもあり。
久々に味わった普段通りのやり取りに、掛け替えのないものを取り戻したような幸甚が芽生えていた。
「えへへ…」
照れ臭そうに笑って、もうひとつ別の甘味を口に含む少女。家に招かれたことによる緊張は既に充分解れたと解釈したアルハイゼンは、意を決して身を乗り出した。
「サージュ。ここ数日、何故俺を避け続けていたか…理由を説明してもらえるか」
「ぅあ、それは…その。た…たまたま! そう、偶然が重なっただけで、他意は…」
驚愕して両手を振り、接触を拒む形になったのが意図したものではないと否定しようとするサージュ。
しかしすぐに"そんな付け焼き刃な虚偽の申告が通じるものか"と言わんばかりの視線に消沈し、事の経緯を説明し始めた。
「…ごめん嘘。本当はね、最近キミと顔を合わせると緊張で頭が真っ白になっちゃって…何日か前、会った直後に筆記の小テストがあったんだけど、全然問題が解けなくてさ」
そう言って彼女は鞄を漁り、見るも無惨な結果となった答案用紙を証拠として提示する。
「ほう? 確かに、君が無回答の設問を生じさせるとは…俄かには信じられないな」
「あはは…情けないよね、友達にちょっと揶揄われたくらいで、こんな…」
高い知能と優れた記憶力を持ち、筆記試験では無敵の娘にしては珍しいと感嘆を零す。
すると少女は自嘲を吐きながら俯いて、ここ数日間の異変には正しく理由があったことを吐露する。
その僅かな隙を逃さずアルハイゼンが訝しげな声を上げると、彼女は眉を下げてテストが奮わなかったもうひとつの理由を白状した。
「何かあったのか」
「この前の本市に、レ…仲のいい子も来てたみたいでさ。"どうして書記官と一緒だったの?"って聞かれて、言葉に詰まっちゃって」
「ふむ」
余所余所しさの原因、その犯人扱いされることを忌避してか、言いかけた名称をぼかしてそう告げる。
けれども少女の話している相手は長年片恋を患ってきた歴戦の書記官、交友関係からそれが誰を指しているかなどとうに把握済みで。
明論派のレイラ。奇しくも二人は同じ氷元素使いで、異端児のサージュにとって彼女は学院の中で数少ない味方とも言える存在だった。
そうした信を置く人物からの何気ない問いに、改めて自分達の関係性を再確認しようとしたことで、普段は気にも留めずにいた恥じらいが当惑を引き起こしたのだろう。
それでも今日の招待を断らなかったのは、生来の義理堅さ故か、あるいは。希望的観測が脳裏を過り、男の煩悩がめくるめく妄想に期待を膨らませ始める。
「…」
「アルハイゼン、その…ごめんね。ずっと謝らなきゃって思ってたんだ」
そんな煩悶を知ってか知らずか。艶やかな瞳を向けての謝罪に、咄嗟に返せたのは虚勢。
実際には友人達にさえ焦慮を露見させていた彼だったが、想い人の前ではあくまで泰然とした姿を保つ気概で。
「いや、いい。俺は気にしてない」
怖がらせぬよう微笑して宥免を伝えたところで、ふとこの対応は失敗だったのではという邪念が沸き起こる。
罪悪感に迫りサージュの良心に訴えかけ、そのまま更なる要求を了承させられれば、今回のような些細な問題に頭を悩ませることもなくなるのではないか、と。
尤もこれは彼女の意思を完全に無視した悪魔的発想であり、実行に移すつもりは微塵もなかったが。
「…ん、ありがと」
ぎこちなく頷いて、まだ甘さを調整していないブラックコーヒーに手を伸ばしカップに口をつける。
アルハイゼンは寸でで止めようとしたものの惜しくも間に合わず、彼女の表情が苦悶に歪む。
「待てサージュ、それは…」
「苦っ!?」
「自分で味を整えてもらうつもりで砂糖を用意していたが…すまない、最初に話しておくべきだったか」
「ううん、大丈夫…シュガーポットが真横にあるのに気付かなかった私も悪いから、お互い様ってことで」
幸い飲んだのはほんの一口だけで、大事には至らず。軽口を叩きつつ視界に入っていなかったらしい砂糖瓶を差し出すと、彼女は頬を膨らませて反抗心を露わにしてきた。
「そうだな。君の粗忽さを失念していた俺にも責はある」
「ちょっ、それは酷くない? はぁ…ま、いいけど」
だが、舌の根も乾かぬ内に肩を竦め憤りを撤回し、吹っ切れたような晴れがましい笑みを見せる。
ここ数日の無礼について、"気にしていない"という確証を得たことで多少なりとも自信を取り戻したようで、少女の表情も少しずつ穏やかなものへと変容していた。
その好転は態度にも表れており、彼女は続けて茶請けとなる菓子を摘まみ、美味しそうに頬張っては喜悦を露わにする。
「! さっきは気付かなかったけど…もしかしてこれ、プスパカフェの新商品? わぁ…ちょっと値が張るとは言え、こんなに美味しいなんて」
うんうんと何度も深く頷き、目を輝かせて清貧な生活からは縁遠い高級品への感動を示す。
だが、キッチンからただそれを運んだだけの家主は仔細を知らず、実際には甘党の同居人による手製か、市販品かは確かめようがなかった。
「そうか、満足したなら何よりだ」
どうか後者であってくれと願いながら、個包装されたクッキーを手に取り封を開けるアルハイゼン。
彼女が食したものとは異なり控えめな甘さのそれは、普段から慣れ親しんだ味であると確かめ、恐らくは己の願った通りだと秘かに安堵の息を吐く。
「…」
想定以上の団欒、それはまるで晩年の夫婦の如く。互いに何も言わずとも心を通わせていると錯覚しそうになる憩いに、この時間が永遠に続けとさえ祈りたくなる。
しかしそう思っていたのはアルハイゼンの方だけで、少女はまた別の考えを持っていたらしく。
コーヒー片手に遠慮がちに俯いては、来訪までに抱いていた憂慮を吐き出すのだった。
「実を言うとね、本当は今日…お邪魔していいのかなって不安でドキドキしてた」
口語でこそあれ正しいとは言えない二重表現に、彼女の中にまだ若干の蟠りが残っていると悟るも、今ここでその誤りを指摘するのは野暮というもの。
想い人が勇気を出して少しずつ言葉を紡ぐ姿を目に焼き付け、男は静々とそれに耳を傾ける。
「この家ってさ、名義上はキミの所有物件ではあるけど…今は名実共にカーヴェ先輩と二人で暮らしてる場所じゃない。そんなところに私が来て、忙しくする先輩の横で我が物顔で寛ぐのも申し訳ないな…とか色々考えちゃったんだよね」
半分程中身を残したコーヒーカップを机に戻し、膝を抱えてぽつりぽつりと熟考の結果を語っていく。
男はすぐにでもその過剰な不安を打ち消したい我欲をどうにか抑え、彼女がどのようにして煩悶を払拭したかを問う。
「では何故、誘いを断らなかったんだ?」
「…だって、嬉しかったことには違いないんだもん」
すっかり膝の中に顔を埋め、くぐもった声でそう答えるサージュ。流石にあからさまな好意を面と向かって告げるには羞恥が勝るのか、彼女はその後も言葉を重ねこそすれ、顔を上げる様子はなかった。
「たとえ大事な話があっても、仲良くもないのに家に招待してもらえることなんて絶対ないでしょ。ましてや自分の家が大好きで、他人に対して無関心なキミなら尚更。だから…その気持ちにはちゃんと応えたかった」
「サージュ」
一聴して愛の告白としか思えない熱の籠った想いを聞かされ、アルハイゼンが男として耐えられる筈もなく。
隠し切れない劣情の灯った声音で彼女の名を呼び、衝動に任せ接近しては退路を断つ。
如何わしい空気に堪らず顔を上げた少女は兢々と肩を跳ねさせるも、逃げ出したり嫌悪したりする様子はなかった。
憂いを帯びた瞳で見上げ、行為の意図を問おうと呼名したところで、玄関から響いた乱暴に扉が開かれる音に遮られる。
「え、あ…アル、ハイゼ」
「すまないアルハイゼン、今戻ったぞ。それで、サージュはもう帰っ…」
それは、言うまでもなく同居人の帰宅を示す合図。何も知らずにリビングへと舞い戻ってしまった彼は、一目見ただけで異様だとわかる場面に声も出ず。
「!」
咄嗟に全員がそれぞれ目を逸らすも、時既に遅し。サージュは顔を真っ赤にして狼狽し、間近で硬直する男を突き飛ばす。
そしてカウチから転げ落ちる勢いで逃げ出し、脇目も振らずカーヴェの横を通り抜けていった。
「わっ、そ…その、わ、わた…っ…かかか、帰るね!」
硬い座面に投げ出される前に受け身を取って、けれど成す術なく茫然と天井を仰ぐアルハイゼン。
少女が去り、扉が叩き付けられる音が響き渡った後にも暫しの沈黙が続いたが、やがて怨嗟に満ちた限りなく低い声が彼の口から漏れ出す。
「カーヴェ」
「な、なんだ? い…言っておくが、僕は悪くないからな」
即刻荷物を纏めて出て行かなければならない、ともすれば直接手に掛けられるのではとさえ感じさせる音吐。
青年はその悍ましさに全身を震わせるも、先の惨状はあくまで彼が強引に迫ったからだと責任を押し付ける。
言われるまでもなく理解しているとアルハイゼンはこれ以上ない深い嘆息を吐いて、ゆっくりと身を起こし、そして。
「セノに声を掛けて来てくれ、今晩は酒場に行く。ああ、当然支払いは君持ちだ。まさかと思うが異論はあるまい?」
有無を言わせぬ威圧。相当に立腹しているのが手に取るように察せられ、不慮の事故とはいえそうさせる事態を引き起こしたカーヴェに断るという選択肢はなかった。
「サージュ。緊張するのも無理はないが…その姿勢を続けていては足が痺れるだろう、遠慮せず楽にするといい」
「で、でも…うぅ」
アルハイゼンは少しでも時間を有意義に過ごして欲しい一心でそう促すも、少女は小さく呻くのみで従わず。
尤も、彼女の憂苦も自然なものではあった。何故なら本来、この家にはもう一人の住人が居り、二人きりという状況になる可能性自体が予想外のことなのだ。
この家に来るよう誘いを申し出た際も、居候ことカーヴェは今日も今日とて自室で修羅場に立ち向かっている、という前提でようやく頷かせることに成功したのだった。
が、直前になってその前提条件は覆され、少女は来るなり青年が入れ替わりで慌ただしく出て行く様を見送るしかなく。
「…」
遠回しな提案への拒絶に、家主は沈黙せざるを得なくなる。考え得る限りでは最悪のパターン、聡明な思考力も想定外の連続をすぐさまリカバリーは出来ず。
何も言えぬまま互いの呼吸音が厭に響き、いくら自宅で過ごすからとはいえヘッドホンを外して彼女を出迎えたことを後悔し始めていた。
「あの、さ」
身を縮め長らく閉口していたサージュだったが、やがて本当に足が痺れ始めたのか少しずつリラックスした姿勢に移って、その勢いに乗じて声を上げる。
「どうした?」
「え、えっと…かっ、カーヴェ先輩…大変そうだねって」
「…そうだな。だが、ああして元気に走り回っていられるだけ、一時と比べれば随分と良くなったと言っていいだろう」
焦燥を如実に伝える吃音と共に切り出されたのは、当然と言うべきかルームメイトについての話題。
アルハイゼンは折角のひと時に他の男について語らうなど、と眉根を寄せたくなるも、彼に在宅を願ったのは他でもない己自身。
初めからこうなることも想定しておく必要があったと自戒を秘め、渋々話を合わせることにする。
「やっぱり、この家に住むようになってすぐは…もっと酷かった?」
「あいつの浮き沈みの激しさは、今に始まったことじゃない。君も知っての通りだ」
好奇心、よりは純然たる心配からなる問い掛けに首肯を以て答え、不安に思う必要などないと諭す。
少女は彼の嫉妬からなる微かな苛立ちには気付いていない様子で、憂いを含んだ眼差しで玄関ドアの方角へ視線を向ける。
「ん…そう、だね」
それきり再び押し黙って、サージュは少しずつ首の角度を下へ下へと傾かせていく。
在学中はそこまで深い交友関係を築くまでには至っていなかったと言えど、やはり今は彼の友であり後輩として思うところがあるのだろうか。
途切れた以上は早々に話題を転換させるべきと悟った男は徐に立ち上がり、キッチンへと向かうと告げる。
「コーヒーを淹れてくる。君も同じでいいか?」
「うっ、うん。あ…砂糖は欲しいかな、ブラックは流石に私には苦いや」
慌ただしい了承、それに加えて甘味の要求。予想通りの反応に安心して、アルハイゼンは事前に沸かしていたケトルの元に歩みを進めた。
「わかった」
程なくして辿り着いたキッチン、そこにはケトルだけでなく同居人が去り際に用意したのであろう茶請けが置かれていた。
来客と家主の好みをそれぞれ把握したバランスの良いラインナップに、余計なお世話をという反発心とストレートな謝意が交錯する。
が、今はこの精一杯のアシストが自分にとって大きな救いとなっているのだと実感し、コーヒーと共にそれをリビングへ運び込む。
「ありがとうアルハイゼン…わっ、お菓子もたくさん! えへへ、実はちょっと小腹が空いてたんだよね…」
「そうか。なら俺の分は気にせず好きに食べてくれて構わないよ」
コーヒーを持って来てくれたことに感謝を伝えようとした少女が、トレーの横には色とりどりの菓子が入った器も付随していることに気付く。
男はこれらを一見しただけで表情がここまで晴れがましくなる程かと自分まで嬉しくなって、二人の中央ではなく彼女により近い位置へとその茶請けを置いた。
「ほんと? じゃあ遠慮なく…いただきます」
目を輝かせ喜悦を露わに、けれど礼節は忘れてはならないと彼女は眼前で両手を合わせる。
スメールでは馴染みのない食前の挨拶と相俟って、不思議な感覚を抱いたアルハイゼンはその所作をじっと見守っていると、柔らかな視線が返ってきた。
「ん、あぁ…今のはね、稲妻で何かを食べる前の礼儀作法なの。それを用意してくれた人は勿論、使われた食材…命への敬意を表する儀式みたいなものかな」
「成程」
適当な相槌を打って、サージュが感慨深げにそう語るのを聞き入る素振りを見せる。
こうして少女から各国にまつわる
久々に味わった普段通りのやり取りに、掛け替えのないものを取り戻したような幸甚が芽生えていた。
「えへへ…」
照れ臭そうに笑って、もうひとつ別の甘味を口に含む少女。家に招かれたことによる緊張は既に充分解れたと解釈したアルハイゼンは、意を決して身を乗り出した。
「サージュ。ここ数日、何故俺を避け続けていたか…理由を説明してもらえるか」
「ぅあ、それは…その。た…たまたま! そう、偶然が重なっただけで、他意は…」
驚愕して両手を振り、接触を拒む形になったのが意図したものではないと否定しようとするサージュ。
しかしすぐに"そんな付け焼き刃な虚偽の申告が通じるものか"と言わんばかりの視線に消沈し、事の経緯を説明し始めた。
「…ごめん嘘。本当はね、最近キミと顔を合わせると緊張で頭が真っ白になっちゃって…何日か前、会った直後に筆記の小テストがあったんだけど、全然問題が解けなくてさ」
そう言って彼女は鞄を漁り、見るも無惨な結果となった答案用紙を証拠として提示する。
「ほう? 確かに、君が無回答の設問を生じさせるとは…俄かには信じられないな」
「あはは…情けないよね、友達にちょっと揶揄われたくらいで、こんな…」
高い知能と優れた記憶力を持ち、筆記試験では無敵の娘にしては珍しいと感嘆を零す。
すると少女は自嘲を吐きながら俯いて、ここ数日間の異変には正しく理由があったことを吐露する。
その僅かな隙を逃さずアルハイゼンが訝しげな声を上げると、彼女は眉を下げてテストが奮わなかったもうひとつの理由を白状した。
「何かあったのか」
「この前の本市に、レ…仲のいい子も来てたみたいでさ。"どうして書記官と一緒だったの?"って聞かれて、言葉に詰まっちゃって」
「ふむ」
余所余所しさの原因、その犯人扱いされることを忌避してか、言いかけた名称をぼかしてそう告げる。
けれども少女の話している相手は長年片恋を患ってきた歴戦の書記官、交友関係からそれが誰を指しているかなどとうに把握済みで。
明論派のレイラ。奇しくも二人は同じ氷元素使いで、異端児のサージュにとって彼女は学院の中で数少ない味方とも言える存在だった。
そうした信を置く人物からの何気ない問いに、改めて自分達の関係性を再確認しようとしたことで、普段は気にも留めずにいた恥じらいが当惑を引き起こしたのだろう。
それでも今日の招待を断らなかったのは、生来の義理堅さ故か、あるいは。希望的観測が脳裏を過り、男の煩悩がめくるめく妄想に期待を膨らませ始める。
「…」
「アルハイゼン、その…ごめんね。ずっと謝らなきゃって思ってたんだ」
そんな煩悶を知ってか知らずか。艶やかな瞳を向けての謝罪に、咄嗟に返せたのは虚勢。
実際には友人達にさえ焦慮を露見させていた彼だったが、想い人の前ではあくまで泰然とした姿を保つ気概で。
「いや、いい。俺は気にしてない」
怖がらせぬよう微笑して宥免を伝えたところで、ふとこの対応は失敗だったのではという邪念が沸き起こる。
罪悪感に迫りサージュの良心に訴えかけ、そのまま更なる要求を了承させられれば、今回のような些細な問題に頭を悩ませることもなくなるのではないか、と。
尤もこれは彼女の意思を完全に無視した悪魔的発想であり、実行に移すつもりは微塵もなかったが。
「…ん、ありがと」
ぎこちなく頷いて、まだ甘さを調整していないブラックコーヒーに手を伸ばしカップに口をつける。
アルハイゼンは寸でで止めようとしたものの惜しくも間に合わず、彼女の表情が苦悶に歪む。
「待てサージュ、それは…」
「苦っ!?」
「自分で味を整えてもらうつもりで砂糖を用意していたが…すまない、最初に話しておくべきだったか」
「ううん、大丈夫…シュガーポットが真横にあるのに気付かなかった私も悪いから、お互い様ってことで」
幸い飲んだのはほんの一口だけで、大事には至らず。軽口を叩きつつ視界に入っていなかったらしい砂糖瓶を差し出すと、彼女は頬を膨らませて反抗心を露わにしてきた。
「そうだな。君の粗忽さを失念していた俺にも責はある」
「ちょっ、それは酷くない? はぁ…ま、いいけど」
だが、舌の根も乾かぬ内に肩を竦め憤りを撤回し、吹っ切れたような晴れがましい笑みを見せる。
ここ数日の無礼について、"気にしていない"という確証を得たことで多少なりとも自信を取り戻したようで、少女の表情も少しずつ穏やかなものへと変容していた。
その好転は態度にも表れており、彼女は続けて茶請けとなる菓子を摘まみ、美味しそうに頬張っては喜悦を露わにする。
「! さっきは気付かなかったけど…もしかしてこれ、プスパカフェの新商品? わぁ…ちょっと値が張るとは言え、こんなに美味しいなんて」
うんうんと何度も深く頷き、目を輝かせて清貧な生活からは縁遠い高級品への感動を示す。
だが、キッチンからただそれを運んだだけの家主は仔細を知らず、実際には甘党の同居人による手製か、市販品かは確かめようがなかった。
「そうか、満足したなら何よりだ」
どうか後者であってくれと願いながら、個包装されたクッキーを手に取り封を開けるアルハイゼン。
彼女が食したものとは異なり控えめな甘さのそれは、普段から慣れ親しんだ味であると確かめ、恐らくは己の願った通りだと秘かに安堵の息を吐く。
「…」
想定以上の団欒、それはまるで晩年の夫婦の如く。互いに何も言わずとも心を通わせていると錯覚しそうになる憩いに、この時間が永遠に続けとさえ祈りたくなる。
しかしそう思っていたのはアルハイゼンの方だけで、少女はまた別の考えを持っていたらしく。
コーヒー片手に遠慮がちに俯いては、来訪までに抱いていた憂慮を吐き出すのだった。
「実を言うとね、本当は今日…お邪魔していいのかなって不安でドキドキしてた」
口語でこそあれ正しいとは言えない二重表現に、彼女の中にまだ若干の蟠りが残っていると悟るも、今ここでその誤りを指摘するのは野暮というもの。
想い人が勇気を出して少しずつ言葉を紡ぐ姿を目に焼き付け、男は静々とそれに耳を傾ける。
「この家ってさ、名義上はキミの所有物件ではあるけど…今は名実共にカーヴェ先輩と二人で暮らしてる場所じゃない。そんなところに私が来て、忙しくする先輩の横で我が物顔で寛ぐのも申し訳ないな…とか色々考えちゃったんだよね」
半分程中身を残したコーヒーカップを机に戻し、膝を抱えてぽつりぽつりと熟考の結果を語っていく。
男はすぐにでもその過剰な不安を打ち消したい我欲をどうにか抑え、彼女がどのようにして煩悶を払拭したかを問う。
「では何故、誘いを断らなかったんだ?」
「…だって、嬉しかったことには違いないんだもん」
すっかり膝の中に顔を埋め、くぐもった声でそう答えるサージュ。流石にあからさまな好意を面と向かって告げるには羞恥が勝るのか、彼女はその後も言葉を重ねこそすれ、顔を上げる様子はなかった。
「たとえ大事な話があっても、仲良くもないのに家に招待してもらえることなんて絶対ないでしょ。ましてや自分の家が大好きで、他人に対して無関心なキミなら尚更。だから…その気持ちにはちゃんと応えたかった」
「サージュ」
一聴して愛の告白としか思えない熱の籠った想いを聞かされ、アルハイゼンが男として耐えられる筈もなく。
隠し切れない劣情の灯った声音で彼女の名を呼び、衝動に任せ接近しては退路を断つ。
如何わしい空気に堪らず顔を上げた少女は兢々と肩を跳ねさせるも、逃げ出したり嫌悪したりする様子はなかった。
憂いを帯びた瞳で見上げ、行為の意図を問おうと呼名したところで、玄関から響いた乱暴に扉が開かれる音に遮られる。
「え、あ…アル、ハイゼ」
「すまないアルハイゼン、今戻ったぞ。それで、サージュはもう帰っ…」
それは、言うまでもなく同居人の帰宅を示す合図。何も知らずにリビングへと舞い戻ってしまった彼は、一目見ただけで異様だとわかる場面に声も出ず。
「!」
咄嗟に全員がそれぞれ目を逸らすも、時既に遅し。サージュは顔を真っ赤にして狼狽し、間近で硬直する男を突き飛ばす。
そしてカウチから転げ落ちる勢いで逃げ出し、脇目も振らずカーヴェの横を通り抜けていった。
「わっ、そ…その、わ、わた…っ…かかか、帰るね!」
硬い座面に投げ出される前に受け身を取って、けれど成す術なく茫然と天井を仰ぐアルハイゼン。
少女が去り、扉が叩き付けられる音が響き渡った後にも暫しの沈黙が続いたが、やがて怨嗟に満ちた限りなく低い声が彼の口から漏れ出す。
「カーヴェ」
「な、なんだ? い…言っておくが、僕は悪くないからな」
即刻荷物を纏めて出て行かなければならない、ともすれば直接手に掛けられるのではとさえ感じさせる音吐。
青年はその悍ましさに全身を震わせるも、先の惨状はあくまで彼が強引に迫ったからだと責任を押し付ける。
言われるまでもなく理解しているとアルハイゼンはこれ以上ない深い嘆息を吐いて、ゆっくりと身を起こし、そして。
「セノに声を掛けて来てくれ、今晩は酒場に行く。ああ、当然支払いは君持ちだ。まさかと思うが異論はあるまい?」
有無を言わせぬ威圧。相当に立腹しているのが手に取るように察せられ、不慮の事故とはいえそうさせる事態を引き起こしたカーヴェに断るという選択肢はなかった。
試算は四散する