藍の隘路に哀と愛
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「ねえ見てアルハイゼン、凄い賑わってる!」
古本市場の開催に相応しい青天、オルモス港の普段以上の活気を前にサージュが嬉々とした声を上げる。
「そうだな」
数歩遅れて追従するアルハイゼンが同意を示し、多くの人々が本を求める様を見て感慨に耽る。
アーカーシャが十全に稼働していた以前は、知識を得る為に読書をする人間はそう多くは居らず、紙の本そのものの必要性というものがあまり高くなかった。
が、籠の中から救出され、大賢者に代わり新たな国の指導者となった草神の意向を踏まえ、民を隷属させる危険を秘めた種はその役割を終えることとなる。
そうして学問の導入として手っ取り早いものがひとつ失われたことで、必然的に学術書や指南本の需要は大きく増し、このような蚤 の市が開かれるようになったのだった。
「これ全部本屋なんだもんね。うーん、どこから回ろっか…あ!」
未知なる出逢いへの期待を隠し切れない様子で呟いて、目に付いた露天商の元へと駆け出そうとする少女。
同行者たる男は彼女をすかさず呼び止め、迷子になるのを避けるべく手を差し伸べる。
それは傍目には至って泰然とした所作だったが、内心では自らの意思と相反する積極性に気を揉んでいた。
「待てサージュ、これだけの人だ。はぐれないよう、俺から離れるな」
以前までは常に受動的な態度を保っていた筈のこの書記官が、何故突如として一歩踏み込むような真似をしたか。
その理由は、数日前に開かれたいつもの四人によるランバド酒場での一幕にあった。
アルコールによる高揚感が齎した場では、女性陣には到底聞かせられない尾籠 な話が繰り広げられていた。
そこで男とサージュが互いに想いを寄せつつも現状の着かず離れずの関係性から脱却出来ない、否、させる気がないことを知った仲間達は、もっと能動的に好意を示すべきだと口々に告げた。
売り言葉に買い言葉、アルハイゼンは渋々ながらも彼らの主張を認め、恋愛に於ける駆け引きの初歩を実践するべく今日の交遊に臨んでいた。
「っと、そうだよね…ご、ごめん。つい…気が逸りすぎちゃった」
少女は緊張の面持ちで手を取り、寸前までの快活さが嘘のように頬を赤らめ立ち尽くす。
咄嗟に逸らした視線は地へと向けられ、とても市場を堪能するどころではなくなっているようで。
初々しい反応に確かな好感触を得られたと感じた男は朗笑を浮かべ、握っていた手を離した。
「興奮する気持ちはわからなくもない。何せ俺も、本を専門とした行商がこれほどまでに大挙する様を見るのは初めてだからな」
折角掴んだ好機を自ら手放したのは、彼自身の羞恥心が意中の相手との長期的な接触に耐えられないと脳内で警鐘が鳴り響いたが故に。
そして何より、先のやり取りで既にサージュがこちらを意識するという第一の目的は果たされた。
まずは身内の言う通り気を引くことに成功した以上、後は当初の予定に従い本を見て回るべきだと間近の賑わいを一瞥する。
「ふむ…人が多いあの場所はどうやら、稲妻の娯楽小説を取り扱っているようだな。ある程度客が散ったら寄ってみるか?」
「そうだね、もし沈秋拾剣録の新刊があったら読みたいから…後で行こっか」
アルハイゼンが初めに指したのは、ある有名な娯楽小説シリーズの表紙絵を用いた旗が立てられたスペース。
八重堂から発行されたそれら新時代の文芸作品は、一般的な小説と異なる奇抜さが個性のひとつで、学びを得るのにはあまり適してはいないが、晦渋 な文章を読むことに不慣れな人間にとっては入門として適しているとも言われるものだった。
彼女はその中でも特にここ数年で話題沸騰の人気小説に興味を示しこそしたものの、優先度はあまり高くはないらしく返答は極めて落ち着いていた。
どうやら眼差しを追う限りでは寧ろ、八重堂出張所の隣で打ちひしがれる砂漠の民の方に関心を抱いているらしく。
「あの男がどうかしたのか」
「ん…何だか見たことある顔な気がして。多分、前に冒険者協会で依頼受けた人じゃないかなぁ…」
遠目には全く特徴的な部分のないスメール人、しかし彼女にとってはどうにも既視感があるように思えてならないらしい姿に、男は胸の内が騒めくのを自覚する。
最愛の少女をどこの馬の骨とも知れぬ相手に奪われてなるものか――とまでは言わずとも、心証の悪さをどうしても払拭出来ず、不服を前面に出した嘆息を零す。
「…そうか」
冒険者協会での依頼、と脳裏で反芻してすぐに、酒宴でのルームメイトの語り口が想起される。
かの青年によればサージュの冒険者としての実力は相応に高く、依頼人からの信用も厚いという。
これまではその評価を自分のことのように誇らしく思っていたアルハイゼンだったが、今日ばかりはそれに翻意し、"行くな"と腕を引き寄せたいとさえ思う程で。
が、そのような独占欲を見せ、狭量な人間だと幻滅される悲痛な未来だけは、是が非でも回避せねばならない。
苦渋の決断で知人の元へ出向くよう促して、直視したくない現実から顔を背けるも、彼女は。
「なら、暇そうにしている内に行くといい。その間に俺は他を…」
「待って。はぐれないようにって最初に言ったの、アルハイゼンの方でしょ?」
一度触れたことで遠慮が無くなったのか、あるいは。固く握られた男の拳を両手で優しく包み、告げられた諫言と反する行動に口を尖らせる。
含羞に満ちた赤面は惚れた欲目がなくとも愛々しいもので、指先から伝わる感触も込みで自涜の供には困らないと本能が俄に活気付き始めていた。
「それに…今日はキミと一緒に見て回りたいから誘ったの。なのに別行動なんて勿体ないよ」
騒然と沸き立つ心に追い討ちを掛ける誘引の言に、アルハイゼンの思考は爆発寸前となる。
半ば無意識にとは言え"押して駄目なら引いてみる"恋愛心理戦のセオリー通りに動いた結果が、こうも覿面に効くとは予想だにせず、鼓動が厭に煩く耳に響く。
「先にあっち見よう。フォンテーヌ発の本ならクロックワーク技巧の資料集やミステリー小説、科学院が出してるプネウムシアに関する専門書とか…面白いもの沢山あるだろうから」
「…うん」
思わぬアプローチにまともなことを言えないままの同行者を先導し、水国からの来訪者が呼び込みしている区画へ足を踏み出す少女。
隠し切れずに漏れ出た憤懣を、彼女は気付いた上で険悪な空気にならないよう努めて明るく振る舞っているのか否か。
手を引く背中からは読み解けない心情を推し量り、男はらしくもなく幼稚な一面を見せたと自戒に眉根を寄せる。
「って、あれ…思ったよりレパートリー少ないというか、傾向が違うというか」
やがて辿り着いたスペース、平積みされていたのは文字がびっしり詰まった自分達の想像した書物ではなく、かの国の大スターでもある水神礼讃の写真集だった。
確かにこれもまた歴 とした"本"には違いないのだからと一人納得して、男は見本誌として立て掛けられていた一冊を手に取る。
「ごめんねアルハイゼン、キミにとっては期待外れだったんじゃ…」
「いや、そうでもない。思わぬ形で他国の神の尊顔を見れた以上、足を運んだ甲斐はあったと言える」
消沈した様子で非を詫びるサージュへ宥免を伝え、クラクサナリデビ とは全く異なる風貌をその目に焼き付ける。
――否、そこまで注視している訳ではなかったが、ページを捲る度に自然と視界の殆どを占有する様は、成程これが歌劇場の象徴かと感心したくなるもので。
「…そっか、なら良かった」
微笑に隠れた寂寞を見逃さず、アルハイゼンは既に充分満足したと見本誌を元の位置に戻す。
「だが残念なことに、家の本棚の隙間を埋めるには適さないな。少なくとも俺には無用の長物だ」
蓋 し、芸術愛好家の同居人が欲しがる可能性はなくもないが。男はそう心の中で呟いて、隣でぼんやりとしていた少女を一瞥する。
魔神への信仰を専攻とする彼女にとっては、一見ただの写真集でも貴重な資料となり得るのではと薦めるも、返ってきた答えは想定よりも随分と残酷な言い回しをしていて。
「君はどうする? もし買うのであれば、誘いの礼に代金はこちらで持とう」
「えっ、要らな…」
店主の愕然とした表情を横目に失言を悟り、慌てて訂正するサージュ。冒険者として自ら日銭を稼ぐ苦労を知る身の矜持か、金銭面での甘えは断固として許さず、力強く首を振って彼からの厚意の申し出を否む。
「あぁえっと、本のことじゃなくて…奢りはダメだよ。いくらキミとの収入には大きな差があるって言っても、そこは譲れない」
腕を組んでの突っ慳貪 な音吐には、微かに悲憤が込められているようにも聞こえた。
対等であることを求めたいが故の虚勢か、もしくは複雑な乙女心から来る煩悶だろうか。
たった一度の大きな失敗を経て以後、人の忌諱に触れるのを過敏に警戒するようになったアルハイゼンには、彼女の本心を正しく知る手段はなかったが、少なくともこの局面では、素直に財布を仕舞うのが最善であることだけは理解していた。
「わかった。君の意思を尊重する」
「えへへ、ありがと」
観念した様子を見たサージュは莞爾 として頷き、研究資料としての一冊分の購入を済ませる。
紙袋に入れられたそれを小脇に挟み、次なる目的地として定めたのは、変わらず繁盛しきりの八重堂出張所でも、知人らしき人物の元でもなく。
「今度はキミの見たいところがいいな。璃月の義侠小説コーナーも盛り上がってるし、フォンテーヌで流行りのミステリーを改めて探すのもありかな。ああでも…モンドは童話が多いだろうから微妙?」
周囲を見渡して候補を挙げ、しかし各国で流行している文学の傾向を鑑みると択は絞られるかと困ったように微笑む。
悩ましい選択肢に一抹の不安を見せる彼女を安堵させるべく、アルハイゼンが導き出した答えは。
「童話か…あそこの国のものは、それらしい子供受けを軸に見せかけて、実際は大人が読んでもいい訓戒になる寓話と呼ぶ方が相応しいものも数多くあると聞いた。カーヴェに読ませれば、あの向こう見ずな金銭感覚も多少は是正されるんじゃないか」
「ぷっ! あはは、アルハイゼン…ふふ、っ…流石にそれは…先輩が可哀想だよ…」
冗談にしてはあまりにも秀逸かつ突飛な着眼点に堪らず噴き出して、暫く治まることなく抱腹する。
気を鎮めるべく深々と息を吸って、ようやく落ち着きを取り戻した彼女は晴れがましい笑みを浮かべ、新たな行き先へと歩み出した。
「…はあ。でも、それぐらい軽い気持ちでふらっと見るのもいいかもね。行こっか」
様々な書を取り扱う店を傍目に、アルハイゼン達はモンド産の童話ないし寓話の置かれる書店を探す。
それなりの距離を歩いてようやく見つけたその場所では、店主から露骨に怪訝な顔を向けられることとなった。
一見しただけでは子供向けの本には無縁な者同士、強盗と疑われたか、あるいは。
不躾にも程がある一挙手一投足を窺うような視線は無視して、二人は並べられたラインナップに感嘆を告げる。
「あ、蒲公英の海の狐! 懐かしいなぁ…童話じゃないけど、こっちには犬と二分の一? アルハイゼン、すごい品揃えいいよここ」
「そうだな。イノシシプリンセスという名前だけなら、俺でも聞いたことがある」
口々に作品名を語り絶賛する姿を前に、店主は即座に警戒を解き、正しく接客する気構えを見せる。
態度こそ褒められたものではなかったが、実際にバリエーションに富んだ著名な書籍の並びは、彼女達にとって相応に魅力的なもので。
「…」
サージュは最初に見つけた長編童話シリーズがどうしても気になるらしく、小さな呻きを漏らしながらそれを眺める。
"懐かしい"という言葉の通り、幼い頃の記憶が蘇ったことで、再読を願う心が生まれたのだと顧慮した男は、迷うことなくその十一巻セットを指し、そして。
「店長、この童話を全巻まとめて包んでくれ」
「え、キミがこれを読むの?」
「それも悪くはない選択肢だが…主な目的はまた別にある」
代金を支払い、十一冊にも及ぶ超大作を両手で受け取ったアルハイゼンは、慈愛に満ちた眼差しで微笑する。
少女は柔らかな視線を訝しげに見つめ返すも、彼女がその笑みに隠された温情を真の意味で知るのはまた先の話。
用を終えて店を離れ、男は他の買い物客の邪魔にならない道の外れに手招きし、小休憩の提案と共に近場の木箱に腰掛けた。
「大丈夫?」
人混みで長時間滞在していたことによる疲労を案じているのだろうサージュが、心配そうに同行人の顔を覗き込む。
が、当の本人は意中の相手と二人きりのショッピングに満悦至極、不安を全くものともせず、本来彼女が問うた意図とは少し外れた首肯を以て応える。
「ああ。数は多いが、一巻ごとの重みはあまりないからな。それに、いざとなれば荷車を借りるのも視野に入れている」
「そだね、まだ全然見て回れてないもん。手押し台車いっぱい買い込むくらい、沢山気になる本があっても不思議じゃないよね」
両拳を握り締めて前のめりになって、少女はまだまだ探求心は尽きないと喜悦を示す。
彼女も彼女で歩き続けて疲れているのではとも思わなくもなかったが、表情にはそういった懸念を抱かせる翳りは全くなく。
花が綻ぶかのような笑みは日陰の中でも確かな輝きを放っていて、その笑顔こそが魅力の最たるものだと実感する。
そうして見つめ合う内に男の胸の内からは慈しみの念が溢れ出し、気付いた時には想いを伝えねばと唇を震わせていた。
「サージュ」
アルハイゼンが名前を呼んだのとほぼ同じタイミングで、不意に一陣の風が吹く。
揺らぐ前髪が払われ、双眸が露わになったその瞬間、彼はここぞとばかりに真摯な瞳を向け二の句を紡ぐ。
「今日の本市に俺を誘ってくれたこと、欣幸 の至りだ。ありがとう」
「え…あっ?」
普段は意識の外に追いやりがちな秀麗な顔立ち、あまり耳慣れない単語、そして自らの感情を滅多に言葉にしない彼からの心の籠った謝意。
慮外の事態が連続しすぐには反応を返せず、サージュは目を丸々と見開いて頬を赤らめる。
「…ううん、お礼なんて…私も楽しんでるし。キミと来れて良かった」
それでもどうにか想念を懸命に紡ぎ、何度目かの破顔をアルハイゼンへと向ける少女。
友人達の助言が全く以て正しかったと痛感した男は、掴んだ好機をここで無為にすることなく活かすと誓う。
「ああ。もしよければ、次の機会には俺から誘わせてくれ」
「ん、わかった。楽しみにしてる」
サージュは申し出に対しごく自然に頷いて、それからますます閑散とは縁遠くなった市場の風景を指す。
盛況の最中には、どんな書物が眠っているか楽しみで仕方がない。そう言いたげな笑顔と共に、彼女は。
「あぁでも、まだ今日が終わった訳じゃないからね。アルハイゼン、次はどの国の本を見に行く?」
古本市場の開催に相応しい青天、オルモス港の普段以上の活気を前にサージュが嬉々とした声を上げる。
「そうだな」
数歩遅れて追従するアルハイゼンが同意を示し、多くの人々が本を求める様を見て感慨に耽る。
アーカーシャが十全に稼働していた以前は、知識を得る為に読書をする人間はそう多くは居らず、紙の本そのものの必要性というものがあまり高くなかった。
が、籠の中から救出され、大賢者に代わり新たな国の指導者となった草神の意向を踏まえ、民を隷属させる危険を秘めた種はその役割を終えることとなる。
そうして学問の導入として手っ取り早いものがひとつ失われたことで、必然的に学術書や指南本の需要は大きく増し、このような
「これ全部本屋なんだもんね。うーん、どこから回ろっか…あ!」
未知なる出逢いへの期待を隠し切れない様子で呟いて、目に付いた露天商の元へと駆け出そうとする少女。
同行者たる男は彼女をすかさず呼び止め、迷子になるのを避けるべく手を差し伸べる。
それは傍目には至って泰然とした所作だったが、内心では自らの意思と相反する積極性に気を揉んでいた。
「待てサージュ、これだけの人だ。はぐれないよう、俺から離れるな」
以前までは常に受動的な態度を保っていた筈のこの書記官が、何故突如として一歩踏み込むような真似をしたか。
その理由は、数日前に開かれたいつもの四人によるランバド酒場での一幕にあった。
アルコールによる高揚感が齎した場では、女性陣には到底聞かせられない
そこで男とサージュが互いに想いを寄せつつも現状の着かず離れずの関係性から脱却出来ない、否、させる気がないことを知った仲間達は、もっと能動的に好意を示すべきだと口々に告げた。
売り言葉に買い言葉、アルハイゼンは渋々ながらも彼らの主張を認め、恋愛に於ける駆け引きの初歩を実践するべく今日の交遊に臨んでいた。
「っと、そうだよね…ご、ごめん。つい…気が逸りすぎちゃった」
少女は緊張の面持ちで手を取り、寸前までの快活さが嘘のように頬を赤らめ立ち尽くす。
咄嗟に逸らした視線は地へと向けられ、とても市場を堪能するどころではなくなっているようで。
初々しい反応に確かな好感触を得られたと感じた男は朗笑を浮かべ、握っていた手を離した。
「興奮する気持ちはわからなくもない。何せ俺も、本を専門とした行商がこれほどまでに大挙する様を見るのは初めてだからな」
折角掴んだ好機を自ら手放したのは、彼自身の羞恥心が意中の相手との長期的な接触に耐えられないと脳内で警鐘が鳴り響いたが故に。
そして何より、先のやり取りで既にサージュがこちらを意識するという第一の目的は果たされた。
まずは身内の言う通り気を引くことに成功した以上、後は当初の予定に従い本を見て回るべきだと間近の賑わいを一瞥する。
「ふむ…人が多いあの場所はどうやら、稲妻の娯楽小説を取り扱っているようだな。ある程度客が散ったら寄ってみるか?」
「そうだね、もし沈秋拾剣録の新刊があったら読みたいから…後で行こっか」
アルハイゼンが初めに指したのは、ある有名な娯楽小説シリーズの表紙絵を用いた旗が立てられたスペース。
八重堂から発行されたそれら新時代の文芸作品は、一般的な小説と異なる奇抜さが個性のひとつで、学びを得るのにはあまり適してはいないが、
彼女はその中でも特にここ数年で話題沸騰の人気小説に興味を示しこそしたものの、優先度はあまり高くはないらしく返答は極めて落ち着いていた。
どうやら眼差しを追う限りでは寧ろ、八重堂出張所の隣で打ちひしがれる砂漠の民の方に関心を抱いているらしく。
「あの男がどうかしたのか」
「ん…何だか見たことある顔な気がして。多分、前に冒険者協会で依頼受けた人じゃないかなぁ…」
遠目には全く特徴的な部分のないスメール人、しかし彼女にとってはどうにも既視感があるように思えてならないらしい姿に、男は胸の内が騒めくのを自覚する。
最愛の少女をどこの馬の骨とも知れぬ相手に奪われてなるものか――とまでは言わずとも、心証の悪さをどうしても払拭出来ず、不服を前面に出した嘆息を零す。
「…そうか」
冒険者協会での依頼、と脳裏で反芻してすぐに、酒宴でのルームメイトの語り口が想起される。
かの青年によればサージュの冒険者としての実力は相応に高く、依頼人からの信用も厚いという。
これまではその評価を自分のことのように誇らしく思っていたアルハイゼンだったが、今日ばかりはそれに翻意し、"行くな"と腕を引き寄せたいとさえ思う程で。
が、そのような独占欲を見せ、狭量な人間だと幻滅される悲痛な未来だけは、是が非でも回避せねばならない。
苦渋の決断で知人の元へ出向くよう促して、直視したくない現実から顔を背けるも、彼女は。
「なら、暇そうにしている内に行くといい。その間に俺は他を…」
「待って。はぐれないようにって最初に言ったの、アルハイゼンの方でしょ?」
一度触れたことで遠慮が無くなったのか、あるいは。固く握られた男の拳を両手で優しく包み、告げられた諫言と反する行動に口を尖らせる。
含羞に満ちた赤面は惚れた欲目がなくとも愛々しいもので、指先から伝わる感触も込みで自涜の供には困らないと本能が俄に活気付き始めていた。
「それに…今日はキミと一緒に見て回りたいから誘ったの。なのに別行動なんて勿体ないよ」
騒然と沸き立つ心に追い討ちを掛ける誘引の言に、アルハイゼンの思考は爆発寸前となる。
半ば無意識にとは言え"押して駄目なら引いてみる"恋愛心理戦のセオリー通りに動いた結果が、こうも覿面に効くとは予想だにせず、鼓動が厭に煩く耳に響く。
「先にあっち見よう。フォンテーヌ発の本ならクロックワーク技巧の資料集やミステリー小説、科学院が出してるプネウムシアに関する専門書とか…面白いもの沢山あるだろうから」
「…うん」
思わぬアプローチにまともなことを言えないままの同行者を先導し、水国からの来訪者が呼び込みしている区画へ足を踏み出す少女。
隠し切れずに漏れ出た憤懣を、彼女は気付いた上で険悪な空気にならないよう努めて明るく振る舞っているのか否か。
手を引く背中からは読み解けない心情を推し量り、男はらしくもなく幼稚な一面を見せたと自戒に眉根を寄せる。
「って、あれ…思ったよりレパートリー少ないというか、傾向が違うというか」
やがて辿り着いたスペース、平積みされていたのは文字がびっしり詰まった自分達の想像した書物ではなく、かの国の大スターでもある水神礼讃の写真集だった。
確かにこれもまた
「ごめんねアルハイゼン、キミにとっては期待外れだったんじゃ…」
「いや、そうでもない。思わぬ形で他国の神の尊顔を見れた以上、足を運んだ甲斐はあったと言える」
消沈した様子で非を詫びるサージュへ宥免を伝え、
――否、そこまで注視している訳ではなかったが、ページを捲る度に自然と視界の殆どを占有する様は、成程これが歌劇場の象徴かと感心したくなるもので。
「…そっか、なら良かった」
微笑に隠れた寂寞を見逃さず、アルハイゼンは既に充分満足したと見本誌を元の位置に戻す。
「だが残念なことに、家の本棚の隙間を埋めるには適さないな。少なくとも俺には無用の長物だ」
魔神への信仰を専攻とする彼女にとっては、一見ただの写真集でも貴重な資料となり得るのではと薦めるも、返ってきた答えは想定よりも随分と残酷な言い回しをしていて。
「君はどうする? もし買うのであれば、誘いの礼に代金はこちらで持とう」
「えっ、要らな…」
店主の愕然とした表情を横目に失言を悟り、慌てて訂正するサージュ。冒険者として自ら日銭を稼ぐ苦労を知る身の矜持か、金銭面での甘えは断固として許さず、力強く首を振って彼からの厚意の申し出を否む。
「あぁえっと、本のことじゃなくて…奢りはダメだよ。いくらキミとの収入には大きな差があるって言っても、そこは譲れない」
腕を組んでの突っ
対等であることを求めたいが故の虚勢か、もしくは複雑な乙女心から来る煩悶だろうか。
たった一度の大きな失敗を経て以後、人の忌諱に触れるのを過敏に警戒するようになったアルハイゼンには、彼女の本心を正しく知る手段はなかったが、少なくともこの局面では、素直に財布を仕舞うのが最善であることだけは理解していた。
「わかった。君の意思を尊重する」
「えへへ、ありがと」
観念した様子を見たサージュは
紙袋に入れられたそれを小脇に挟み、次なる目的地として定めたのは、変わらず繁盛しきりの八重堂出張所でも、知人らしき人物の元でもなく。
「今度はキミの見たいところがいいな。璃月の義侠小説コーナーも盛り上がってるし、フォンテーヌで流行りのミステリーを改めて探すのもありかな。ああでも…モンドは童話が多いだろうから微妙?」
周囲を見渡して候補を挙げ、しかし各国で流行している文学の傾向を鑑みると択は絞られるかと困ったように微笑む。
悩ましい選択肢に一抹の不安を見せる彼女を安堵させるべく、アルハイゼンが導き出した答えは。
「童話か…あそこの国のものは、それらしい子供受けを軸に見せかけて、実際は大人が読んでもいい訓戒になる寓話と呼ぶ方が相応しいものも数多くあると聞いた。カーヴェに読ませれば、あの向こう見ずな金銭感覚も多少は是正されるんじゃないか」
「ぷっ! あはは、アルハイゼン…ふふ、っ…流石にそれは…先輩が可哀想だよ…」
冗談にしてはあまりにも秀逸かつ突飛な着眼点に堪らず噴き出して、暫く治まることなく抱腹する。
気を鎮めるべく深々と息を吸って、ようやく落ち着きを取り戻した彼女は晴れがましい笑みを浮かべ、新たな行き先へと歩み出した。
「…はあ。でも、それぐらい軽い気持ちでふらっと見るのもいいかもね。行こっか」
様々な書を取り扱う店を傍目に、アルハイゼン達はモンド産の童話ないし寓話の置かれる書店を探す。
それなりの距離を歩いてようやく見つけたその場所では、店主から露骨に怪訝な顔を向けられることとなった。
一見しただけでは子供向けの本には無縁な者同士、強盗と疑われたか、あるいは。
不躾にも程がある一挙手一投足を窺うような視線は無視して、二人は並べられたラインナップに感嘆を告げる。
「あ、蒲公英の海の狐! 懐かしいなぁ…童話じゃないけど、こっちには犬と二分の一? アルハイゼン、すごい品揃えいいよここ」
「そうだな。イノシシプリンセスという名前だけなら、俺でも聞いたことがある」
口々に作品名を語り絶賛する姿を前に、店主は即座に警戒を解き、正しく接客する気構えを見せる。
態度こそ褒められたものではなかったが、実際にバリエーションに富んだ著名な書籍の並びは、彼女達にとって相応に魅力的なもので。
「…」
サージュは最初に見つけた長編童話シリーズがどうしても気になるらしく、小さな呻きを漏らしながらそれを眺める。
"懐かしい"という言葉の通り、幼い頃の記憶が蘇ったことで、再読を願う心が生まれたのだと顧慮した男は、迷うことなくその十一巻セットを指し、そして。
「店長、この童話を全巻まとめて包んでくれ」
「え、キミがこれを読むの?」
「それも悪くはない選択肢だが…主な目的はまた別にある」
代金を支払い、十一冊にも及ぶ超大作を両手で受け取ったアルハイゼンは、慈愛に満ちた眼差しで微笑する。
少女は柔らかな視線を訝しげに見つめ返すも、彼女がその笑みに隠された温情を真の意味で知るのはまた先の話。
用を終えて店を離れ、男は他の買い物客の邪魔にならない道の外れに手招きし、小休憩の提案と共に近場の木箱に腰掛けた。
「大丈夫?」
人混みで長時間滞在していたことによる疲労を案じているのだろうサージュが、心配そうに同行人の顔を覗き込む。
が、当の本人は意中の相手と二人きりのショッピングに満悦至極、不安を全くものともせず、本来彼女が問うた意図とは少し外れた首肯を以て応える。
「ああ。数は多いが、一巻ごとの重みはあまりないからな。それに、いざとなれば荷車を借りるのも視野に入れている」
「そだね、まだ全然見て回れてないもん。手押し台車いっぱい買い込むくらい、沢山気になる本があっても不思議じゃないよね」
両拳を握り締めて前のめりになって、少女はまだまだ探求心は尽きないと喜悦を示す。
彼女も彼女で歩き続けて疲れているのではとも思わなくもなかったが、表情にはそういった懸念を抱かせる翳りは全くなく。
花が綻ぶかのような笑みは日陰の中でも確かな輝きを放っていて、その笑顔こそが魅力の最たるものだと実感する。
そうして見つめ合う内に男の胸の内からは慈しみの念が溢れ出し、気付いた時には想いを伝えねばと唇を震わせていた。
「サージュ」
アルハイゼンが名前を呼んだのとほぼ同じタイミングで、不意に一陣の風が吹く。
揺らぐ前髪が払われ、双眸が露わになったその瞬間、彼はここぞとばかりに真摯な瞳を向け二の句を紡ぐ。
「今日の本市に俺を誘ってくれたこと、
「え…あっ?」
普段は意識の外に追いやりがちな秀麗な顔立ち、あまり耳慣れない単語、そして自らの感情を滅多に言葉にしない彼からの心の籠った謝意。
慮外の事態が連続しすぐには反応を返せず、サージュは目を丸々と見開いて頬を赤らめる。
「…ううん、お礼なんて…私も楽しんでるし。キミと来れて良かった」
それでもどうにか想念を懸命に紡ぎ、何度目かの破顔をアルハイゼンへと向ける少女。
友人達の助言が全く以て正しかったと痛感した男は、掴んだ好機をここで無為にすることなく活かすと誓う。
「ああ。もしよければ、次の機会には俺から誘わせてくれ」
「ん、わかった。楽しみにしてる」
サージュは申し出に対しごく自然に頷いて、それからますます閑散とは縁遠くなった市場の風景を指す。
盛況の最中には、どんな書物が眠っているか楽しみで仕方がない。そう言いたげな笑顔と共に、彼女は。
「あぁでも、まだ今日が終わった訳じゃないからね。アルハイゼン、次はどの国の本を見に行く?」
無二の仁愛
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