魔性の島





「すまねェ、水を一杯くれねェか」
その夜、倒れたルフィをサヤのベッドに寝かせ、ゾロは傍らでルフィが目覚めるのを待った。
倒れたと言っても熱があるわけでもなく、顔色が悪いわけでもなく、苦しそうにしているわけでもない。
「ルフィ、目を覚ましたの?」
「ああ、そうなんだが……」
歯切れの悪いゾロがちらりとルフィを見やるので、サヤは何だろうとゾロの肩越しに自分のベッドに潜ったままのルフィを覗いた。
ルフィは不機嫌そうな顔を隠しもせず口をへの字に曲げ、自分を覗き込むサヤに目線を合わせるなりぷっくりと頬を膨らませる。
そしてプイ、と反らせてしまった。
「ルフィ? 具合は? 今水持って来るよ」
そう言って背を向けようとしたサヤの腕をゾロが掴んだ。
「待ってくれ、おれが行く。ルフィ見ててくれるか?」
その言葉にいち早く反応したのはもちろんルフィで、ガバリとシーツを剥いで上体を起こす。
「でも……」
嫌われてるのだろうと、サヤは思うのだ。
ルフィは自分を嫌っている。
ゾロがいつも考えてた彼の想い人は、決して自分には笑顔を向けないのだから。
「いいから……」
何がいいのか、ゾロはルフィに一瞬目配せすると寝室を出て行った。
当然の沈黙がすぐにやってくる。
「あの……」
沈黙の後の第一声は、皮肉にも二人同時のものだった。
「あ……」
またハモる。
「何?」
そう聞いたのはサヤの方。
先ほど自分に向けられていたキツさが、今のルフィからは伺えなくなったからだ。
ルフィは完全に上体を起こし、サヤに向かって胡座をかいて座り直すと膝に両手を突き、サヤの顔をじっと見据えた。
それから、当惑するサヤに深々と頭を下げた。
「ごめんなさい!」
「え?」
「助けてくれてありがとう。それからメシ食わなくてごめん。えーっと、とにかく色々ごめんなさい……」
「べ、別に謝ることなんか……」
「駄目か? 許してくれねェか?」
「許すも何も、怒ってないし、気にしてないよ」
「ほんとにか?」
疑うような眼差しを向けられ、サヤは思わず「うんうん」と大きく頷いてみせる。ついでに手を振った。
「全然、ほんと」
途端にルフィの表情がぱぁっと明るくなった。サヤの棲む闇色の森には到底似つかわしくない、眩しい色の笑顔。
サヤは「ああ、なるほど」と納得せずにはいられない。
ルフィには、人を惹き付ける大事な何かがある。
それは大勢にいっぺんに与える力ではなく、一人一人の夢や苦役を背負える力だ。
ゾロも彼に魅入られた一人に違いないと、サヤはそう感じる。
「よかったァー!!」
「そっか」
嬉しそうなルフィの様子にサヤはようやく胸をなで下ろした。
「でさ、サヤ」
「うん」
「腹減った!!」
「はい?」
「何日も水も飲めなかったから気が遠くなっちまった。おまけに寝不足だ」
「だから倒れたとか……」
「おう! そうだ!!」
堂々と言ってのけるこの態度は何だろう。とは思うが、サヤは「腹減った、腹減った」と連呼するルフィにあっと言う間に根負けしてしまう。
「わわ、解った! なんか作るから落ち着いて!!」
「うううう、うん」
そう頷くもののルフィはひっきりなしに膝をジタバタさせていて、サヤはその幼い様子に思わずブッと噴き出してしまった。
笑われた理由のわからないルフィが口を尖らせると首を直角に傾ける。
それがまた可笑しくて、サヤは更に声を立てて笑った。
「楽しそうだな」
ルフィは止まらないサヤの笑い声に怒るでもなく、釣られてニッと白い歯を見せている。
「だって、ルフィっておもしろい……!」
「そうか? お前はイイ奴だな!」
「え? おれが?」
涙を拭き拭きサヤはどうしてルフィがそう思うのか不思議でならない。
「だからゾロはサヤが好きなんだな」
「は?」
更に発せられたルフィの意外な台詞に、サヤは亜然とするしかなく。しかし困ったような眉をして唇を尖らせたルフィにまた可笑しさが込み上げてきた。
「ぶっ……! 何でそうなんの?」
「なんだよ、そこで笑うな!」
「だって……!」
サヤはまた笑いの虫が沸いたかのごとく笑い始める。
「何かやらかしたのか、ルフィ」
戸口に立って、ゾロが水の入ったコップを乗せたトレイ片手ににやりと笑った。
「水!」
またジタバタと体で表現するルフィに、ゾロはコップを手渡し、ルフィが水を飲み干す頃にはやっとサヤの笑いは止まっていた。
「じゃ、おれ何か作ってくるよ」
「おう!」
ルフィが掌を開いたり閉じたりしながらサヤを見送った後、ゾロはベッドサイドに置かれた椅子に腰掛けルフィの手からコップを取ると、トレイと一緒に傍らへ置く。
「お前、凄ェな」
「ん? そうか?」
「ああ、サヤが笑った。おれはここへ来てから一度もサヤが笑ったところを見たことがねェ」
「へぇ……」
目を細めるゾロをちらりと見上げ、ルフィはまた口をへの字に戻した。
「でも、明日は船に帰るんだぞ」
「あ? ああ……」
ぽそりとそんなこと言うルフィにやはり、ゾロはいつもと違う何かを感じずにはいられない。
そしてようやくあることに気付き、自分の無頓着さを思い知った。
「帽子、被ってこなかったんだな」
違和感の正体。彼の宝が彼の手にない、それは今まであり得ないことで。
ピクリとシーツの上のルフィの指が動く。
何も答えないルフィにゾロはどう言って良いのか解らず、手を伸ばすと寒そうな黒髪に触れた。
ルフィが見上げてくる瞳も受け止めて、ゾロは黙って優しく撫でた。
見かけにそぐわない真綿の黒髪。
ゾロが指に絡ませて梳くと、ルフィは気持ちよさそうに目を瞑った。
「あんま無防備にすんな」
彼の自信と夢の象徴がそこにないだけで、ゾロには酷くルフィが弱く儚げに見えた。
その常人にない強さと心を、誰より知っているのに。
ゾロは髪を梳く手を離してスプリングの効いたベッドに突くと、身を乗り出して目を閉じたままのルフィにそっと唇を押し当てる。
触れるだけのぬくもりは、やはりどこか頼りないものだった。
唇を離すと、ゆっくり開いたルフィの目とぶつかり、ゾロは静かに瞬きして彼の名を呼んだ。
「ルフィ……?」
「どうして」
「目、閉じるからだろ」
「ああ、そっか……」
逸らされたルフィの大きな目は自分を見ない。
”お前らしくない”と。
言わずにいたいのに言わずにいられなさそうで、ゾロはかわりにその背を引き寄せた。
「ちゃんと言うから、サヤに、明日帰るって」
「うん……」
ゾロの肩口に頬をくっつけ、ルフィは頷く。
「側に居て良いか?」
ゾロの問い掛けにルフィがまたこっくりと頷いた。
「困ったな……。嬉しいや」
ルフィの言う、”困った”の意味がなんとなく解って、ゾロはルフィの背に当てた掌に力を込める。
追ってきたルフィと、戻りたかったゾロ。
依存しない二人の、これはあってはいけない行動なのかも知れない。
「あ……」
いつの間にか戸口に立っていたサヤを見つけ、ルフィが声を上げた。
「え?」
振り向いたゾロがそのままの体勢で固まる。
「ごめん! ノックしたんだけど……」
「あー、いや……」
しどろもどろゾロは言って、ルフィから身を離すとがりがりと頭を掻きながら「いつもしてるわけじゃねェぞ」と言い訳にもならない台詞を吐いた。
「たまにだよな」
「ル、ルフィ、そういう細かいことはだな……」
「おう、なんだ!?」
しれっと言ってのけるルフィは落ち着いたもので、もとより羞恥心はない。ゾロはますます赤くならなければならなくなった。
そんな二人の様子にまたサヤがくすくす笑う。
「食事の用意が出来たけど?」
その申し出に、ルフィがベッドから飛び出したのは言うまでもない。


結構な量の食事をルフィはあっという間に摂り、そして暖炉の前に座っていたゾロの傍らへ行くとその肩に凭れ、あっと言う間に眠ってしまった。
「いいな、ルフィは」
「え?」
意外なサヤの台詞にゾロは振り返る。
ソファに深々と腰掛けてサヤがルフィに向けるその目は言葉通り羨望のそれで。
「ルフィが言ったんだ。ゾロはサヤが好きなんだって」
「ルフィが?」
「ちょっと寂しそうに」
「それがどうしていいんだ?」
「自分を想ってくれてる存在がいるのに気付かないってことが」
ルフィを想うゾロの存在を自覚してない上に、ゾロが他人を想うことに気落ちできると言うことが。
そんな人と人との繋がりがなければ起こり得ない擦れ違いさえも、サヤには経験がない。
誰かが、自分を無益に想ってくれると言うことを。
誰が誰を想っているのかを切に懸念すると言うことを。
それに伴う悦びも悲しみも。
ぬくもりも切なさも。
サヤは何も知らないで生きてきたのだ。
「サヤ……」
ゾロにはサヤの孤独は解らない。
でも。
「明日帰るよ、こいつと一緒に」
「うん……。聞こえた」
「そうか……」
小さく笑うサヤの寂しそうなそんな表情を初めて見ると同時に、彼に表情を蘇らせたルフィにゾロは感服した。
人なのに人として生きていないようなこの少年に、蘇った生をゾロは見逃せない。
ルフィに自分の上着を掛けるサヤの手首を掴むと、ゾロはその目を見上げた。
「ゾロ?」
「よかったら、話してくれねェか? サヤがどうしてここにいるのか」
まさかそんなことを言われるとは予想もしてなかったサヤの目が驚きに見開かれる。
「聞いて、どうすんの?」
「解らねェ……。でも聞きてェんだ」
勝手なようでいい加減でないゾロの強い瞳から目を逸らし、サヤは立ち上がると一つ息を吐いた。
「……いいよ。全部話す」


窓硝子を叩く風の音が、僅かな沈黙に大きく響いた。


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