どこまでも青い空





夢を見た。
“くいなが死んだ!”
──嘘だ。
「ゾロはいいね、男の子だから」
“家の階段で転んで……!”
──逃げたのか?
おれはまだ、一度も勝っていないのに……。
「お前はおれの目標なんだぞ! おれがいつかお前に勝った時もそう言うのか、実力じゃねェみたいに!!」
“……死んだ!!”
──放棄するのか?
約束したのに!!


「チビゾロ!」
ゾロが目を覚ました時、聞こえたルフィの声はどこかホッとしたような、弾むような口調だったので、ゾロは自分の見ていた夢を本当の夢だと思ってしまうところだった。
「ルフィ……、おれの刀は?」
息が苦しいのはどうしてだろうと一瞬考え、額の濡れタオルで熱があるのだと気付く。
「ここにあるぞ!」
それはどうやらはじめからルフィの手にあったらしい。
ゾロはそれに安堵すると、はじめて自分の周りを見回した。
「みんな……いるのか?」
「ああ、チビゾロのこと心配してみんなここにいてくれてんだ!」
見れば一様にホッとした顔のクルー達が、男部屋のソファに寝かされている自分の周りに集まってくれている。
「あ、ありがとう……」
「無理に喋らなくていいぞ。熱が高いんだ」
そう言ったのはこの船の船医、トナカイのチョッパー。
ゾロは素直にこくんと頷くがすぐにまた口を開いた。
「くいなは……、死んだんだ」
「くいなって?」
ナミがはじめて聞く名にゾロに問いかけるが、火照った頬で虚ろな目のゾロが言った先程の台詞が、どうやら誰かに聞かせるものではなかったらしいと感じ、ナミはそれ以上話しかけるのをやめた。
ゾロの稚拙な独白が続く。
「眠ってるみたいだったのに……。もう、いない……」
約束を果たさずに、決着もつけずに、親友は死んでしまった。
彼女の死がゾロにもたらしたものは、絶望と、哀しみと、怒りと、裏切り。
「約束、したのに……」
果たされなかった約束は、一体どこへ行ってしまうのだろう。
これから何を目標にすればいい? くいなは、死んでしまったのに。
「もう、どうでもいいや……」
ゾロは目を閉じた。
もう、くいなの顔も浮かばない。
その時、頬に激しい痛みが走った。
「チビゾロ!!」
ルフィがゾロの頬を打ったのだ。
「ル、ルフィ! あんた病人に何やってんのよ!」
「チビゾロ! 起きろ!!」
ルフィは刀を脇へ置くと立ち上がって今度はペチペチとゾロの両頬を挟むように叩く。
「ルフィさん!?」
「ルフィ!」
ビビとウソップが慌ててルフィの肩を掴もうとするのを、ルフィは片手で払いのけ、事もあろうことか熱で力の入らないゾロの肩を掴んで上体を無理やり起こした。
「ル、フィ……?」
重たい瞼を開け、なすがままのゾロがルフィを見る。
そのルフィの顔は、明らかに怒気を含んでいた。
「どうしたっていうのよ、ルフィ!?」
「ちょっと来い!」
「おい、ルフィ! 動かしたら駄目だ!」
ナミとチョッパーの静止も聞かず、ルフィは我が物顔でゾロをソファから引きずり落ろす。
「ルフィ、自分のやってること解ってんのか!?」
ウソップが咎めるように声を荒げたが、ルフィの意志を持った表情が変わることはなかった。
「うるせェ! 今じゃなきゃダメなんだ!」
何が“今”で“ダメ”なのかルフィ以外に解る筈もなく、突飛な船長の行動に船員達は不信感を抱かざるを得ない。
「ちゃんと説明しなさい!」
納得がいかなくてナミがルフィの肩を掴んだ。いつもはどんなにルフィが信じ難いことを言おうがしようが信じてこられたのだが、今の相手は子供な上に病人なのだ。
「好きにさせとけ。……ゾロならきっとそう言うぜ」
サンジだけが、その場にそぐわない冷静さを持って、ゾロなら言ったろう台詞をニヤリと笑いながら言った。
「ありがとう、サンジ」
サンジの言葉に一同言う言葉を失ったのか、しんと水を打ったようになったところで、サンジが軽く片手を挙げルフィに「早く行け」と目で促すのをそれ以上何も言わずに見守る。
ルフィは小さく頷くとゾロの腕をひっぱり、その体を脇に抱えてあっという間に姿を消した。
ゾロの、白い刀と共に……。


「ルフィ?」
急に起こされて頭がガンガンする。
ゾロは前甲板まで連れてこられ、熱でまともな平衡感覚ではないにも関わらず無理やり立たされたのだ。
辺りはまだ真っ暗で、朝には遠い。
波を分けるザザザーという音だけがやけに頭に響いた。
「お前はこのまま帰せねェ」
帰す?
「どこへ……?」
「元居たところだ」
元居た、ゾロの世界……。そこにはもうくいなはいないのだ。
──思い出してしまった。
「おれ、別に帰りたくねェから……」
体がふらふらしてまっすぐ立っていられない。その場にペタン、と座り込む。すっかり乾いてしまったのか、木の感触はとてもすべすべしていて心地良い……。
この船は、ゾロにはとても居心地が良かった。
きっと、大人のゾロもそうなのだろう、そう思って子供のゾロは薄く笑う。
解っている。自分の居る場所はここじゃない。
もう、帰らなければいけない──。
しかしルフィの言う”このままでは”とは、どういう意味なのだろう?
目の前には白いくいなの形見。
「くいなはいねェんだろ?」
「うん……」
「約束もなくなるのか?」
「うん……」
約束した相手はもういないのだから。
「でもな、ゾロの夢は消えねェぞ」
ルフィの言葉に、ゾロはハッとして顔を上げた。
「それは、大人のおれの夢ってことか?」
「ああ、そうだ。おれが消させねェ!」
そうルフィは言い放って一歩ゾロと刀の前へ進み、仁王立ちして腕を組んだ。絶対に消えさせはしない。
「ルフィは、大人のゾロに戻って来て欲しいんだな……」
「違う」
「違わねェよ」
「今のチビゾロは嫌いだ!」
和道一文字に伸ばそうとしたゾロの手が、その言葉にピクリと止まる。
「ルフィ……」
結局手を引っ込め、ゾロはルフィを見上げた。
先程から、ずっと自分に怒りを顕わにしているこの船長に、ゾロは何を言って良いのか解らない。
その上「嫌い」と言われて一体自分は何をどうすればいいのか。何を、どう思えばいいのか……。
ゾロはまだ、霧の中だった。
この闇より深い深い……霧の中。
「おれに言ったこと、よく思い出せ……」
ルフィはそれだけ言うと船内へと戻って行った。
……見捨てられたのだろうか。
くいなにも、見捨てられた?
この和道一文字にも……、もしかしたら、夢にも……?


おれの夢は、何だったろう。


ゾロの目が覚めた時、隣に先程まであったはずの顔はなかった。
「チョッパー……」
「よう、ゾロ! 元に戻ってよかったな!」
そう言ったのは目の前の船医ではなく、後ろから現れたウソップだった。
「元に? 何のことだ……。痛ッ……! 畜生、頭が痛ェ……」
「びっくりしたぜ、夜中に戻ってきたと思ったら元に戻っちまってて、そのまま床でバッタリ寝ちまうんだからよ!」
「ああ……、何かわからねェがそりゃ悪かったな」
「お? ああ、いいけどよ……。何か変だぞ、ゾロ」
「変? そうか? ……それよりルフィは?」
つい先程まで一緒に居たような気がしたのは気の所為だったのだろうかと、ゾロは痛む頭で懸命に記憶を巡らせてみる。
「ああ、昨日の夜中から男部屋には戻って来てねェんだ。ルフィがお前を連れて出てから」
「ルフィがおれを? 夜中に? ダメだ、全然覚えてねェ……」
そう言えば、自分はルフィと船首にいたのではなかったか? しかも昼間だった。
何だろう、何かを話していて……。それから?
真っ暗になって、そこからの記憶が……ない。
「どうしたんだゾロ」
ウソップが不審気な目を向けてくる。
「熱は下がってるぞ」
小さい前足をゾロの額に当てて、チョッパーはゾロの容態が良くなってきていると主張した。
「念の為に薬を……」
「いや、いい。ルフィを捜してくる」
「まだ起きない方が……!」
「聞かねェ聞かねェ」
慌てるチョッパーにウソップが顔の前でひらひら片手を振って見せる。
そんな二人の会話を耳に入れる間もなく、ゾロは男部屋を出ると真っ先に船首へと向かった。

ゾロの予想通り、そこには船長が定位置に座っていた。
いつもゾロは背後から見守っていて、それは彼が海に落ちた時の迅速な救出の為だ。当の船長に言えばきっと「いつも寝てるくせに」と言われてしまうかもしれないが……。
そして、しかし何より彼の前にあるものを真っ先に、自分も共に見たいからだった。
「ルフィ……」
突然声を掛けられたのに驚いたのか、ルフィは肩をビクリとさせて振り返った。
もちろん、その顔も驚きのそれだ。
「すまねェ、驚かせたか?」
いつもならそれでニッコリと笑ってくれる筈のその瞬間は、ゾロにとって何より代え難い安堵の瞬間だった。
なのに、今のルフィは笑ってなどくれなかったのだ。
ただ、怒っているような、悲しんでいるような、そんな暗い表情でじっとこっちを見ている……。
これは自分がさせているのだろうか、とゾロは少し不安になった。
名を呼ぼうとして、船首から降り立つルフィに閉口してしまう。
「今のゾロは、ゾロじゃねェ……」
「な、何言ってんだ。ルフィ?」
ゾロはルフィの考えてもみなかった言葉に狼狽するしかなく、麦わらを両手で掴んで俯いてしまった彼の真意は知れなかった。
「おれとはじめて会った時……ゾロが言った言葉、覚えてるか?」
「え?」
ルフィとはじめて会ったのは海軍基地だった。
ルフィはおれに“仲間になれ”と言った。
“おれは海賊王になる男だ”と。
自分はルフィに何と言った?
「おれは……」
思い出せない……? いや、そんなはずはない。
そんなはずはないのに……。
「ゾロ……」
「ルフィ?」
きっと、この頭痛の所為だ。
だから思い出せないのだ。
倒れるようにゾロの胸に縋り付いてきたルフィの細い体を受け止めながら、ゾロは自分に言い訳をする。
いや、ルフィに……?
ゾロの背に回ったルフィの指が、ゾロのシャツをきつく掴んだ。
「思い出せよ、ゾロ……。おれに言ったこと……」
思い出したい。
思い出したいに決まってる!
ゾロは足下から崩れそうな感覚に陥り、すがるようにルフィの肩を抱き返した。
ルフィをこんな、いつもと違うルフィにしてしまっているのも、自分の所為?
大人しく自分に抱かれているルフィ。
ゾロは目を閉じた。
きっかけは……。


記憶の隅に、ルフィの横顔があった。
何かを喋っているのか、薄い唇がひっきりなしに動いている。
これは、そう。あの時……。
ルフィは何て言っていた?

「おれが海賊王になって、ゾロが大剣豪になったら、その後おれたちどうしてるかな」

夢が叶ったその後。
ゾロは……恐怖したのだ。
今が、楽しい。居心地が良い。共に夢を追うルフィと共にいることを誇りに思うし、そう。
“ずっとこのままでいたい……”
ゾロはそう思ってしまったのだ。
思ってはいけないことだった。そうこれは、願ってはいけないことなのだ。
「ルフィ、おれは……」
“ルフィ、おれ……”
急に縋っていたゾロの体がなくなり、この間までさんざんまとわりついてきていた高い声にハッとしてルフィは目を開けた。
『ルフィ、おれは……』
「チビゾロ!」
見上げてくるその子供は、ルフィの良く知っている強い目をした子供だった。
『おれ、絶対に世界一の剣豪になるから!!』
少し呆然として、ルフィは現れた小さなゾロをじっと見詰め、やがて綻ぶように笑みを浮かべる。
それからにししし、と笑った。
「おう! それでこそゾロだ!!」
二人はがっちりと手を握り合い、ぶんぶんと振る。
ルフィは思い立ったようにまた船首によじ登った。
「チビゾロも……!」
一緒に乗ろう、と言おうとして振り返ったルフィの目に、いつもの強い眼のゾロ。
「ゾロ……!」
ルフィは破顔すると、船首に座ったまま半回転してゾロに向かい合った。
「ルフィ、おれは……」
「うん」
言葉を切ったゾロに、身を乗り出してその言葉の続きを待つ。
しかし、待っていた言葉はなく、伸びてきたゾロの手がルフィの頬に触れた。
ゾロは首を傾げるルフィにそっとくちづけ、そしてゆっくりと離れていった。
「なんだ?」
「なんでもだ」
「???」
ルフィを船首から引きずり降ろしたゾロが、再びルフィをその腕に抱く。
「チビのおれにはここまでできなかったからな」
「ゾロ、覚えてるのか!?」
「さっき全部思い出した。ルフィが子供のおれに話しかけてた時に」
“おれに言った言葉を思い出せ”
あれは夢を見失った、子供のゾロに言った言葉だった。
親友が死んで、夢を貫くのを恐れていたゾロに、夢を思い出させてくれた言葉だったのだ。
「おれが大剣豪くらいならないと、お前が困るんだもんな」
「おう! こっちが腹斬らすとこだったぞ!」
もぞもぞと顔を上げて言うルフィがかわいくて、ゾロはまたキスを落とす。
「あー、またしたー」
その間延びした言い方がおかしくて思わず笑った。
こんな風に笑える自分を、ゾロはルフィに出逢うまで知らなかったような気がする。
「お前とずっと一緒にいてェ……ルフィ」
その言葉にルフィは何も答えはしなかったけれど、ゾロは優しくその体を抱き締めることにした。



一瞬にして大きく、視界が拓けたような気がした。
我に返って見ればおれの目の前には真っ青になって喚く同じ年程の同胞の顔……。
「何ボーっとしてんだ、ゾロ! 早くくいなんとこ行かないと……!」
この長い時を経たような錯覚は、気の所為なのだろうか?
「あ? ああ……」
現実が帰ってくる。
くいなが、死んだ。
くいなは死んだのだ。
約束を果たさずに、死んだ。
“どちらかが世界一の剣豪になる”
おれは腹の底から沸々と込み上げてくる怒りと哀しみを感じた。
しかしそれは不思議と絶望からではなかったのだ。
それをそのままくいなの亡骸にぶつけ、喚き、涙しておれは先生からくいなの白い形見を貰った。
そして真っ直ぐに、目標を見据える。


「おれ、あいつの分も強くなるから!! 天国までおれの名前が届くように、世界最強の剣士になるからな!!!」



いつか、海へ出よう。
このどこまでも続く青い空のように、どこまでも青い海へ……。
夢は“野望”となる。




(END)
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