どこまでも青い空





なんとなく暑くて目が覚めた。
薄暗がりで見えたのはルフィの横顔。その目は閉じられていて、浅い寝息を立てている。
おれは寝返りを打つとその横顔に背を向けた。ハンモックがぎし、と揺れた。
視界に入ってきたソファの脇には、大切な白い刀……。
でもそれは、あれからずっとそこにあるのだ。



朝食を終え、食堂から出たところでナミは大きく深呼吸した。
そして何かに気付いた風に片眉を上げる。
「来るわ……」
見渡す限りの水平線から何が来るというのか、ナミは誰に説明する訳でもないので自分にだけ確認の言葉を呟いた。
そして階段を駆け下りると、見張り台にいる船長とお付きの子供を険しい顔で見上げる。
「ルフィ! 嵐が来るわ!」
「嵐~!? こんな天気良いのにか!?」
何が起こるか解らないのがグランドライン。
そう言いながらもルフィは彼女の言葉を疑うことはない。
自分が信頼しきっている航海士の言葉だ、間違っているとは端から思ってはいないのだ。
それを証拠にルフィは子供のゾロを小脇に抱えると行動を起こそうと筋肉を引き締める。
総員集合が掛かり、ナミは手早く船員達にそれぞれの役割を伝えた。
そうしている間にも突風とともに黒雲がやってくる。
「嵐だ――――っ!!」
ルフィの声が上空から轟いた。
激しい雨が降り出したのはそれから数分後のこと。
しかもこの嵐は回避の間に合わない広範囲の物だったらしく、小さな海賊船は左右に大きく揺れ、舵取りのサンジはバランスを取るのに悪戦苦闘し、ウソップはありったけの防舷物を船にぶら下げる。
ただゾロを背中に張り付かせているマストの上のルフィが帆を降ろすのに手間どい、ナミとビビをハラハラさせた。
「ルフィ! 大丈夫!?」
痛いくらいの雨がナミの頬を叩く。
上空ではきっと目を開けられないくらいなのだろうと容易に想像がついた。
「お~う! まかせとけ!」
力強い返事が返ってくるものの、二人はなかなか降りては来なかった。
「ちゃんと捕まっとけよ! チビゾロ!」
こんな時でもルフィは背中に縋り付く子供に声を掛けることを忘れない。
「おれは、平気だ! それより、お前大丈夫……なのかよ!」
口の中に目の中に、容赦なく大粒の水滴が打ち込んでくるのだ。
自分はルフィの背で少しはマシなのだが、きっとルフィは直射を受けているに違いない。
「だ~いじょぶだって!」
見ればどうやら舫の結び目が帆と絡まっているらしく、しかもどう見ても無理な体勢でそれを解こうとしているのだ。
舫が勢いよくマストにでも巻き付いたらそれをへし折る程の威力を発する。海の男はそれを心得ていて、迂闊に跨ぐことさえしないのだとゾロはもっと幼い頃聞いたことがあった。
でもだからこそ、どうしてこんな危険な体勢で……。
「ルフィ、どうして……!」
ゾロはそう言いかけて言葉を切る。
自分の為だと解ったからだ。
ゾロが、嵐の直風を受けない為……。
「ルフィ……」
「なんか、言ったか? ……お、できた! よっしゃ、降りるぞ!」
ルフィが慎重にマストを降り始める。きっとゾロがいなければルフィはもっと簡単に下へ降りられる筈なのだ。
「おれは……」
「ん? ほら、ちゃんと捕まれって!」
「自分で降りる!」
瞬間、何も考えずにゾロはそう叫んでいた。
「は!? 何言ってんだチビゾロ!! おれから離れんなっ!!」
と言ってみたところで、両手をマストに巻き付けている今のルフィに、背中から離れていくゾロの体を咄嗟に捕らえることは出来ない。
ゾロはあっという間にルフィの真下まで降りると、子供には太すぎるマストにへばりついた。
「チビゾロ! 危ねェから、おれの足掴め!!」
「嫌だ!」
「なんだとてめェ! このクソガキ!」
「うっせェ、クソ船長!」
こんな時に暢気に口喧嘩を始められるのも彼らならではであったが、ルフィが足をマストに巻き付けブリッジをしゾロの腕を掴もうとしたのが一瞬遅く……、ゾロが手を滑らし、小さな体が突風に舞った。
「チビゾロ!!」
「きゃあ――――!!」
「いやぁ――!!!」
一部始終を見守りつつもどうすることも出来なかったナミとビビの悲鳴が、暴風雨の激しい音に掻き消されながらも響いた。
それをゾロはどこか遠くで聞いていて、見開かれた目ははじめて見るルフィの必死の形相と追ってくるその両手を見ていた。
まるでそれは、スローモーションのようで。
しかしゾロが一瞬目を閉じて次に開けた時、何故かルフィの赤いずぶ濡れの服が見え、ルフィの腕がしっかりと自分の体に巻き付いているのが解った。
一体、何が起こったんだろう……?
マストから離れた体はあっという間に飛ばされた筈だったのに。
「何やってんだ!!」
下からルフィの声がする。
それはもう、子供の喧嘩口調なんかではなく、大人が子供を窘めるそれだった。
ルフィは体勢を立て直すとゾロを乱暴に脇に抱え、降りにくいのを承知で片手でマストを下る。
ゾロは、きゅっと冷たい彼の服を掴んだ。自分の手も、冷たかったけれど。



「も~! びっくりしたわよ!」
ナミの声には怒気が含まれていたが、これでもゾロの左頬が赤くなっていることで実は少し治まった後だった。
その前にはルフィの拳骨も食らっていて、ゾロは食堂でみんなに囲まれ責められて小さい体を更に小さくするほかなかった。
「ごめんなさい……」
素直に謝ってしまう程に。
無駄に負った擦り傷は船医に手厚く治療されている。
「どうしてあんことを?」
ビビが優しい口調で言って、ゾロの濡れた頭にタオルを被せ水滴を拭ってやる。
「それは……」
言い淀むゾロに、サンジとウソップは察する物があったのか、「さ~て、着替えようぜ」と言うとどちらからともなく部屋を出ていった。
男同士、聞かれたくない話ってのはあるものだ。
それが男の面子と、つまらないプライドを賭けたものだから尚更。
ルフィなどはさっさと一番風呂に飛び出して行ってしまっていた。
「ゾロ……?」
怒りが落ち着いたナミもそっとゾロの肩に手を掛けると、俯いたゾロの顔を覗き込む。
「悔しかったから……」
「悔しい?」
ゾロはしかし、それだけ言うと食堂を飛び出して行った。
「Mr.ブシドー!?」
「いいのよ、ほっときましょ」
「でも……」
「小さくても男なのよね」
「そう……ね、何となく解ったような気がしたわ。さっきの言葉で……」
ビビは幼馴染みの、小さな強い仲間達の顔を思い浮かべ、小さく笑った。



外はまだ少し雨が降っていて、乾ききらないゾロの緑の髪をまた濡らした。
先程まで、船員達があくせく動き回っていた甲板。自分とルフィがいた見張り台。
そんなものを目に入れたくなくてゾロは近くにあった扉を開けると中へ入った。
そこには棚がたくさんあって、色々な物が陳列している、どうやら倉庫らしいと解る。
ゾロは並んだ樽の横に膝を抱えて座り込んだ。
助けられた……。
無茶をして、勝手に落ちて、助けられた。
足手纏いになりたくなかったと言えば聞こえは良い、でも。
それは少し違っていた。
ゾロはルフィと同じだと思っていたのだ。
大きな、子供みたいな夢。それを、全く疑いもせずに追っていて、自信に満ちあふれていて、そして誰もがそれを信じていて熱望している。
だからこそ、自分の手で守りたいと思ったのに……。
「弱ェよおれ……、くいな……」
その名を、随分口にしなかったように思う。
「くいな……」
ゾロは喉の奥が痛くなって唇を噛み締めるけど、目からは無様にも熱い雫が零れ落ちてきて、また悔しさが込み上げてくる。
「なんだ、また泣いてんのか?」
突然横から声を掛けられゾロは酷く驚いた顔を上げた。そういえば、扉は閉めていなかったのだ。
「ルフィ……!」
ルフィはにししし、と笑って、ゾロの目の前にしゃがみ込んできた。
「よう!」
「……もう、怒ってねェのか?」
今度は涙を隠す余裕もなく、ゾロは鼻を啜ると笑顔のルフィを見上げた。
「怒ってねェよ。でもな、次あんな危険なことしたらもう絶対許さねェぞ!」
ルフィの真摯な言葉に、こくこくと何度も頷く。
「ごめんな……」
「解ればいいんだ!」
ルフィがいつものようにお兄さんぶった口調になって偉そうに胸を張るので、ゾロはやっと安堵の笑顔を浮かべることができた。
「なんであんなことしたのかとか……、聞かねェのか?」
「ん? そんなん、聞かなくても解る! 男同士だもんな!」
「ルフィ……」
ゾロは意外なルフィのその答えに驚きを隠せず、目をぱちくりとさせる。
「ゾロは、大剣豪になるんだもんな!」
更に告げられたルフィの言葉に今度こそ言葉をなくし、ゾロは何も言えなくなってしまった。
ルフィに、ゾロの目標を告げたことなどなかった筈なのに……。
そんなゾロに気付いているのかいないのか、ルフィはゾロの頭をぽんぽん叩くと、自分の麦わらを被せてその顔を覗き込んだ。
「ゾロな、おれと約束したんだ! 絶対、世界一の剣豪になってみせるから、もう敗けねェって!」
ルフィが目の前の自分ではなく遠くを見るように目を細めるので、それは未来の自分がこの船長と交わした約束なのだとゾロはすぐに解った。
そんな自分自身に、ゾロは違和感を感じる。
何年か後の自分の中に、くいなはいない?
あの時した約束を、忘れてる?
“どちらかが世界一の剣豪になる”、あの約束。
じゃあ、くいなはどうなる?
「そんなはずない……」
「え?」
「おれが、くいなとの約束より大事な約束なんてするはずない!」
そう言い放って立ち上がったゾロを、ルフィは少し痛い目で見上げた。
その目は何かを知っている……。
自分の知らない何かを。
ルフィは立ち上がるとゾロから麦わらを取り、きつく睨み付けてくる子供から目を逸らせてその大切な帽子に移した。
何かを思い出しているのか、それはとても穏やかなもので、ゾロは自然と肩の力が抜けるのが解る。
「大事な約束なんか、いっくらあってもいい。全部、本当にすればいいんだ」
確信を込めたルフィのその言葉が、ゾロの胸を貫くには充分だった。
「チビゾロの今の大事な約束も、絶対守れ!」
「ルフィ……。うん、そうだな……」
ゾロは俯き、自分の足下を見る。
大人の自分は、多分ルフィだから、大事な約束をした。
きっとそうに違いないのだろう。でもだからといって自分がくいなのことを忘れてしまったら、一緒に高みを目指しているはずのくいなの気持ちはどうなる?
「さ~て、そろそろ昼飯だぞ!」
「うん……」
「ほら、そんな顔すんな!」
ルフィは麦わらを被り直すとゾロの背をばんばんと叩いた。
「おれ……、絶対いつか大剣豪になる……」
「おう! それでこそゾロだ!」
言ってルフィがゾロの後ろへ回り、何をするのかと思えば胸に両腕を回してきた。
「ルフィ!?」
「抱っこしてってやる!」
抱っこ!? ……というよりは、荷物を抱えるかのような……。
ルフィはよいしょとゾロを持ち上げるとさっさと歩き出し、あっという間に食堂までの階段を駆け上がってしまった。
「わ、わわわ! い、いいよ、離せ!」
「遠慮すんな!」
ゾロが足をバタバタさせて抵抗するが、当のルフィはどこ吹く風。
「お~い! 開けてくれ~!」
「な、何!?」
中から顔を出したナミが二人羽織のような二人の様子に絶句する。
ゾロはこんな恥ずかしい姿を他人に見られたショックで真っ赤になって脱力するしかなく、だたルフィだけが嬉しそうに笑っているので、一同掛ける言葉をなくしたのだった。


その夜、ゾロが熱を出した。



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