どこまでも青い空





おれが次に気付いた時見たのは、黒い闇だった。
目が慣れて思った。やはりここはおれの知らない場所なのだということを。
おれの知っている景色に、果たしておれは帰ることが出来るのか。
やっと、少しの不安がおれを襲う。でもそれは、あっという間に「少し」ではなくなった。



「泣いてんの? チビゾロ」
既にゾロの良く知った声がする。
「泣いてねェ!」
そう言って目を擦ると腕に濡れた感触があって、ゾロは舌打ちした。
カッコ悪ィ……ガキみてェだ。
子供は手でごしごしと赤くなった目元を目の前の船長に見られまいと擦るのだが、薄暗いが互いの顔を確認するにたやすい船内でそれは無意味な行為で、ゾロが本当は泣いていたことをルフィに知らしめる結果となった。
「怖い夢でも見たか?」
ここが怖いのだと、解らないゾロはぶんぶんと首を振る。
この、自分の置かれた状況が不安なのだと。
「ここは?」
ゾロは涙声を気にしつつもルフィに尋ねた。
「男部屋だ。もう夜中だ。まだ寝てていいぞ?」
耳を澄ませば無数の寝息。
「おれの刀!」
ゾロはハッとして体を起こした。途端に鳩尾にきゅっと痛みが走って顔を顰める。
そう言えばルフィとその刀のことで口論になり、くいなをどこかに隠してるのではないかと疑いを彼にぶつけて……、そして何のことはない、一発で伸されたのだった。
情けない……。
ルフィが嘘をついてないことくらい、その目を見て解っていたのに。
彼は、ウソを吐かない人種だ。
「くいなの刀……」
「ちゃんとソファの脇に置いてあるから、心配すんな! ゾロはその刀、宝物だって言ってたからな。大事なんだもんな!」
雲の切れ間、円い窓から月明かりが差してルフィの顔を照らすので、彼が笑っているのが解る。
ルフィは言った。
その刀はゾロのだ、と。
自分の知らない、大人の自分をこの船長は知っている。
大人のおれの、たった一人の船長。
「お前は寝ないのか?」
ゾロはルフィが一つ欠伸をしたので、やっと彼が眠いことに気が付いた。
「おれ? おれは今から寝るんだ! じゃあ、おやすみ、チビゾロ!」
そう言ってルフィはゾロの寝ているソファの脇から立ち上がり、自分のハンモックへと昇ったようだった。
ふとゾロは気付く。
ルフィはもしかして、自分の目が覚めるまで起きて待っててくれたんだろうか……。
そしてまだ少し揺れているルフィのハンモックを、ゾロは見上げた。彼が寝たかどうかまではわからない。
静寂はゾロを襲い、暗闇は相変わらずで……。
なのに。
眠れそうな気がしたのは、心が少し軽くなったせい。
それはあの船長のおかげ?
まだ、考えなきゃいけないことがいっぱいあるのに……。
瞼は重く、ゾロの思考をストップさせた。



「朝飯食ったらおれが船を案内してやるからな、チビゾロ!」
口いっぱいにパンを頬張ったルフィが隣のゾロに向かっていきなりそう叫ぶので、ゾロは口の中の物を思わずごくりと飲み込んでしまった。
「大丈夫なの? 海に落ちないでよ? 今のゾロにはあんたを助けられないんだから」
用心深い航海士はどんなことにでも最悪のパターンを予測する。
「大丈夫だって!」
豪快に笑って見せる間も食べ物を掴む手は休めずにルフィが言い切るので、ナミはそれ以上の句を告げずに小さな溜息だけを吐いた。
ルフィはまだ食べ終わらないゾロを隣で急かし、今度はサンジに怒られるハメになるのだが、ちっとも気にしちゃいない。
「食ったか? もういいだろ、サンジ!」
何故だかサンジの許可を乞うとルフィはガタガタと立ち上がった。
「ああ、もういいぞ」
サンジはきちんとゾロが食事を終えるのを見届け、ナミと同じく溜息混じりに返事をしてやる。
「やった! ホラ、行くぞ!!」
そう言って差し出されたルフィの手は、真っ直ぐにゾロに伸ばされて。
「なんだよ……」
それには流石にゾロも一歩後ずさった。
「やだ、なんだかルフィさん、お兄さんみたいね」
ビビがくすくす笑うので、ゾロはますます後ずさってしまう。
彼女に悪気はないのだが。
「あぶねェからな!」
「そういうルフィが一番いつもあぶなっかしいくせによ」
ウソップまでが可笑しそうにそんなルフィを笑って言うので、ゾロはまじまじと差し出された手を見た。
細い指に、お世辞にも大きいとは言えないその手。
これは、返って危険なことなのか?
恐る恐る伸ばした手をしっかり掴まれ、ゾロは一抹の不安を感じずにいられない。
そんなゾロの不安などもちろん知る由もなく、ルフィはあっという間にゾロを食堂から引きずり出したのだった。
「なによ、すっかり懐いちゃって……」
ナミがポツリとこぼした言葉をサンジが聞き逃すことはなく、「あれでですか?」と目をぱちくりさせる。
「なんかんの言って言うこと聞いてるじゃない? 流石”ゾロ”よねぇ……」
最後の台詞に一同が吹き出したのを、もちろん二人が知ることはなかった。



「で、ここがナミのミカン畑だ!」
「ミカンの木か? これ」
「おう! 美味いのが出来るぞ!」
「へぇ……」
小さな船を一周するのはさして大変なことではなく、それでもずっとゾロはルフィに手を引かれるままその簡略な説明をじっと聞いて歩いた。
疑問に思ったことは一応尋ねてみたが、ルフィの答えはやはり胆略的でゾロにはよく解らなかった。
しかしルフィが本当にこの船が好きなのだということだけ、よく解った。
ゾロはしばらくそのミカンの木を眺め、そして足を踏み入れる。
小さいその畑を抜けると、また海と空が広がった。その向こうが船尾と言う訳だ。
「どした?」
急に黙り込んだゾロに、ルフィはやっとその手を離すと身を屈めてゾロの顔を覗き込む。
ゾロの背は、ルフィの腹の辺りまでしかなかったので。
しかしゾロはゆっくりと首を横に振り、ルフィから顔を背けた。
──くいなのことを考えていた。
大事な刀をゾロの元において、くいなは何処へ行ってしまったのだろう。
自分が一度も勝てない、女剣士。
ゾロはその姿形を思い出そうと目を閉じた。
隣のルフィも、こうすればもう見えない。
約束を、した。
どちらかが世界一だと。
世界一の、剣豪になると。
目の奥に浮かんだのは、何故だかくいなの泣いた顔だった。
約束したのに……。
「くらくらしてきた……」
突然のゾロの呟きを、ルフィはどう受け取ったのか、その手はゾロの肩に回った。
そうしてルフィはひざまづくと、自分に寄りかからせるようにゾロの頭をその胸に押しつける。
ルフィの胸は薄くて頼りなくて、ゾロは少し笑ってしまったけれど、どうしてだか安心できた。
そうして、ゾロには一つ解ったことがある。
何か、大事なことを忘れている……。
一番は、あの約束だと思っていたのに、それとは違う場所で、大事な何か。
思い出したくない、何か……。
「おれはさ」
今度はルフィが唐突に喋り出したので、ゾロは心持ち顔を上げてルフィを仰ぎ見た。
ルフィはまっすぐ前を見ている。
それは、はじめて彼を見た時のその瞳と同じ。
「おれは、海賊王になるんだ!」
「海賊王?」
その言葉くらいは知っている。
何たって時代は大海賊時代なのだから。
その頂点に立つと?
この頼りない胸が?
「それは、ルフィの夢か?」
「ああ! でも現実だ!!」
自信たっぷりなルフィのその物言いには、しかし人にそれを疑わせないものがある。
「バカじゃねェの?」
子供の自分と同じように無茶で大きなその夢。
「失敬だな、お前!」
「ガキだな!」
「なんだと~!」
そう言ってほっぺを膨らませる未来の海賊王に、にやりとゾロは悪戯っぽく笑って見せた。
「お! ゾロと同じ顔だ!」
「はぁ?」
「そうやって笑った時のゾロは、言ったことと逆のこと思ってるんだ」
にしししと笑って、ルフィがゾロの頭をがしがし撫でるので、ゾロはぴしゃりとその手をはらう。
「子供扱いすんな! ガキ船長!」
「うっせェ、チビゾロ!!」
「うっせェのはお前だ!」
「やるか!?」
いつしか取っ組み合いの喧嘩になっていたルフィとゾロのところへ、ナミの声が飛んできた。
「ちょっと、あんた達何やってんのよ! そこにいるんでしょ!? サンジ君がおやつ作ってくれたわよ~!」
「ナミ?」
ピタリと手を止めたルフィがミカン畑から顔を出すとそこにはナミがいて、ゾロが顔を出すとにっこりと笑う。
「子供がいるから特別にね」
と、付け加えた。



「零さないで食えよ!」
いつもの台詞は、いつものコックの口から出たものではなく、クルーは我が目を疑うことになった。
「だってうめェんだもん!」
そう言ったルフィの返事はいつもと一緒だったのだが。
「ど、どうしたの、チビゾロ……」
思わずナミはゾロの心境の変化に戸惑いの疑問詞を投げかけてしまう。
あんなに人見知りして大人しかったのに……。
そう、先程のルフィの食べ零しを咎めたのは他でもない、この緑頭の子供。
「チビって言うな!」
「あ、ああ……、ごめん……」
その強い口調に思わず謝ってしまう程に。後から「ルフィが言っても怒らないクセに」と腹が立ったのも事実だったのだが。
「あー、また零した! ルフィ、ゆっくり食えって!」
手近にあった手拭きでルフィの口元まで拭ってやって、小さなゾロは大きな子供を叱るのだ。
「Mr.ブシドーって……、こんな人だったかしら……」
「案外、ずっとこうしたかったんじゃないのかねェ? ゾロの奴……」
サンジが普段の無愛想な剣豪を思い浮かべ、確かにあのゾロでは恥ずかしくて出来る訳がないと悟る。
「子供だからこそ、素直だってわけか?」
ウソップがそれなら納得だ、と頷いた。
「優しいな、ゾロ!」
チョッパーだけが少し誤解していたようだったが……。



ゾロはそれからもルフィの世話を妬き続けた。
ルフィが船首に昇れば危ないからと引きずり降ろし、酒を飲めば一杯までと制すし、無茶なことは総て止めに入った。何処へ行っても後を付いて歩くようになったのだ。
それはもう風呂場からハンモックまで。流石にトイレにまで付いて行くことはなかったが……。
本来のゾロなら注意はしてもルフィの行動を止めることは決してなく、そのかわりに完璧なフォローに徹していて、そこがゾロとチビゾロとの大きな違いだった。
当の本人(ゾロ)は周りがどんなに呆れモードになろうが知ったことではないらしく、冗談でからかっても全く応えた様子もなく「あいつ、あぶなっかしいからな。おれが見ててやらねェと」などとさらっと言われてしまう始末。
「ルフィ、あんたゾロに何言ったの?」
ルフィの代わりにゾロが倉庫に物を取りに行っている隙に、ナミは聞いてみた。
「ん? 何も言ってねェと思うけど……」
「じゃあ、なんで急にあーなっちゃった訳?」
「あーって?」
「あんた、気付いてないの!? 異常よ、あんたへのあの執着!」
「そっかなぁ。でもゾロ子供だし、おれが傍にいてやんねェとな!」
そのルフィの台詞にナミはガックリと肩の力が抜けるのを感じた。いや、感じずにはいられなかった。
「ルフィあんた、まだ世話してる気でいたのね……」
まぁ、確かに相変わらすルフィの言うことならゾロは何でも聞くけど……と心の中で付け加えはしたが。
ルフィはまるで解らない、と言った顔で首を傾げている。
ナミは「はぁ……」とわざとらしい溜息を吐いて、戻ってきたゾロに困ったような目線を投げたのだった。



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