どこまでも青い空





おれが“ここ”へ来て最初に見たのは、手摺りの間から遠く広がる青い海と、それを見詰める涼しげで大きな黒い瞳。
赤い袖無しのシャツの背中が風に膨らんで、青い空より何より眩しかったのを覚えている。
海と、空と、その人。


「大変だ!!」
食堂の扉を勢いよく開けた拍子に吹っ飛んだ麦わら帽子を片手で難なくキャッチしながら、この船のキャプテンは何やら柄にもなく慌てていた。
「ど、どうしたの? ルフィ」
航海日誌を書くペンを止め、大きな目を更に大きくした航海士が彼の険しい顔を伺い見る。
「大変なんだ、ナミ! サンジ! ビビ! それとチョッパー! えーと、カルー! あ、あれ、ウソップは?」
「し、しらないけど……、ウソップに何かあったの!?」
ナミはこの、いつもは何にも動じないルフィの慌て振りにようやくただならぬものを感じて、椅子から立ち上がると幾分声を荒げた。
「どうせ腹でも減ったんだろ?」
ナミとは打って変わって冷静に言ってニッと笑ったコックのサンジは、短くなった煙草を灰皿に押しつけると「で? 夕飯は何が食いたい?」などと尋ねる。
「ん~、そうだな……。じゃなくて!!」
うっかり「肉!」と答えそうになってルフィは首を振った。とりあえず、部屋にいた面々の名を呼び連ねたにすぎないのだから。
「ウソップでもねェ!! ゾロだ!!」
「ゾロ?」
毒気を抜かれたようにナミは再びペタンと椅子に座ると、「ゾロがどうしたのよ」と小さく溜息さえ吐く。
大抵のことがゾロを襲おうと、どうってことはないと普段からナミは踏んでいるのだ。
この船長と、あの剣豪に関してのみ。
「ゾロが、ゾロが……!! とにかく見てくれ!!」
見る?
一同、ルフィが退いたその場に視線を向けた。
そして少しの間を開け、食堂の外から扉をくぐり姿を現したのは……。
「誰?」
ビビがきょときょとと一重の黒目がちなその目をしばたかせてじっと見るが、この船のクルーからは思い当たる人物はいない。
カルーが「くえーくえー!」と思いたったように鳴き出し、自分の頭をばさばさ叩くので、一同その来客の頭へ一斉に着目したその時。
「ゾロだって!!!」
ルフィが誰が正解を言うよりも早く、回答を叫んだのだ。
「ゾロ!?」
ナミは忙しくもまた立ち上がると、テーブルに両手を突き身を屈め、眉間に皺を寄せてじい~っと「その子」を凝視する。
「その、クソ緑頭は……、間違いねェ。ゾロだ」
サンジがいち早く状況を認め、こっくりと、しかし神妙な顔で頷くので、ナミとビビも「はぁ……」と息を吐いて早まった心臓を沈めるほかなかった。
始終固まったままだったチョッパーはてけてけとゾロに近づくと、その小さな蹄でゾロの胸をつんつんし、一言。
「ゾロが縮んだ……」
そう、そこには白い刀をしっかりと胸に抱いた、5、6歳の緑の髪の少年……。
子供に戻ったゾロが居た。



ルフィが言うにはこうらしい。
二人で船首にいて海を見ていたら、斜め後ろにいるはずのゾロがいない。
あれ?と思っていたら、下から声がする。
『お前、誰だ?』
高い、でも男の子の声。
『お前こそ誰だ!』
ルフィはぴょこんと羊から降り、その子の前に立った。
そしたらその子が答えた。
『おれはゾロだ』



「新手の嫌がらせ?」
ナミは剣呑な表情で出されたスープを啜った。
夕食時。
戻ったウソップが腰を抜かしたのは言うまでもなく、今も「おれは何も見ていない」とブツブツと呟き続けている。
「せっかくの料理が不味くならぁ」
サンジはそう言い捨てると総ての料理を並べ終え、エプロンを取って自分の指定席に座った。
「そうか? うめェぞ?」
「ルフィに言われてもあんま嬉しくないのはどうしてかな」
「そりゃ、どういう意味だ?」
口いっぱいに肉の塊を詰め込みながら、更にほっぺを膨らませたルフィが眉間に皺を寄せてサンジに抗議したが、すぐ忘れたように隣で無言のまま食事を進めているゾロへと目をやる。
「うまいか?」
ルフィがそう尋ねると、小さくなったゾロが素直にこっくりと頷くので、ルフィは満足げにニッと笑った。
「よし、こいつの面倒はおれが見る!」
ごっくんと肉を飲み込んだ後、ルフィはよく考えてのことかそうでないのか解らない強い口調で言い切った。
「はぁ!? あんたで大丈夫なの!?」
そう真っ先に猜疑心を顕わにしたのはもちろんナミだ。
子供に子供の面倒が見られるのか、というのがナミの見解なのである。
「おう! だいじょぶだ!」
とん、と薄い胸を叩いて自信満々なこの船長に、確かに自信のなかった出来事などあるはずもなく、それは失敗しようが挫折しようが到底彼の想像の及ぶところではない。
そんな彼の性格は解ってはいるが……。
「お前は今日からチビゾロな!」
「チビゾロ……」
んな安易な。
当然、一同が揃って溜息を吐いたのは言うまでもなかった。
この船長が言い出したら聞かないのも、皆の知るところ。
「でもルフィさん。このままだったらどうするの?」
アラバスタへはまだまだ日数がかかるとは言え、ゾロが戦力から外れるのは痛い。
自分の巻き込んだ戦いとはいえ、ビビには一国の王女としての責任があるのだ。このメンバーに期待していたのは今更口に出すまでもない。
「いいんじゃねェ?」
しかしルフィの答えは実にあっさりとしたもので。
「そんな……」
「そうはいかないわよ!」
ビビが言うより早く、ナミの声が飛んだ。
「でもどうやって戻るかわかんねェもん」
眉をへの字に曲げたルフィのその言葉は至極もっともで、ナミもビビも閉口するしかない。
「なるようになるんじゃねェの?」
優雅にスープを啜りながら言うサンジはしかし、「ビビちゃんの国は残りのおれたちでちゃーんと守ってあげますよ」とのフォローを忘れない。
「そ、それはねェんじゃねェか? サンジ……」
自分の重しが増えることを予想したのだろうウソップが抗議の声を上げた。しかし実におそるおそる……。
「ああ!?」
「いや、まぁ、何とかなるって、ビビ!」
結果、サンジの威嚇にあっさり負けたウソップなのだった。
「おう! 何とかなるぞ!」
パッカン!
「いてっ」
ウソップに続いたルフィのいい加減な言葉にナミが拳骨を食らわせるも、
「病気かな……」
ポツリと零したチョッパーの一言に、流石に当人であるゾロが顔を上げた。
その場がしん、と静まり返ってしまう。
「んなことねェよ」
一番に口火を切ったのはルフィで、大きな目をぱちくりとさせ、チョッパーのその言葉が不思議で仕方がないと言った風に首を傾げた。
「チビゾロ! 食ったか?」
そして何事もなかったようにゾロに向き直る。
「うん。ごちそうさまでした」
「あら、お行儀の良い」
ナミのその言葉にビビがぷっと吹き出した。
面々の肩の力が抜けていくのが、空気で解る。
「どこですれてったのかしら……」
などと続けてナミがブツブツ言うので更に笑いが漏れた。
やはりこういう人達なのだ……とビビが再認識するに充分なその和みまくった雰囲気に、諦めを含んだ苦笑を浮かべる。
いつの間にか、それでも信じてしまっている自分が居るのも否めない。そんな不思議なクルー達なのだと改めて感じると共に、この事件をだまって見守ることを心に誓った。
「なんだか……楽しんでるみたい、ルフィさん」
独り言のような呟きは、そこにいる、ルフィとゾロ以外のメンバー誰もが感じていたことだったのを、その後二人の姿が食堂から消えたとき確認し合うこととなる。



「ルフィ! 聞きたいことがある!」
お気に入りの船首に向かった船長が、ゾロが小さくなってはじめて名を呼ばれて振り返った。
1メートル程後方には、白い刀を大事そうに抱えたチビゾロが俯き加減にして広いおでこを海に落ちかけた夕日に晒している。
しかしその瞳は大きく見開かれ、ルフィを睨み付けるかのようなきついものだった。
その瞳に、ルフィが眉を引き締めるとニッと笑う。
「兄貴と呼べ、チビゾロ!」
「はぁ!? 何言ってんだバーカ!」
何を言い出すのか、この小さな船の細っこい乗組員は。
「バ、バカって言ったな! バカって言った方がバカなんだぞ!」
子供の言葉にムキになる大人のルフィは、腕をぶんぶん振るとゾロに言い返した。
「……あほくさ」
言われた子供はあっさりとそっぽを向く。
「なっ、お前ムカつくぞ!」
「んなことより、聞きたいことがある」
よほど冷静な子供は冷めた目で目の前の大人に向き直り、顎をしゃくった。
「な、なんだ!!」
思わず受け答えをしてしまう素直なルフィである。
「これ、何の船? どこ行くんだ?」
「海賊船ゴーイング・メリー号だ! ここはグランドライン!! おれはこの船の船長だ!!!」
どーーん。
先程の喧嘩のことはさっさと忘れたルフィが、胸を張って言い放つ。
「お前が船長? ……さっぱりわかんねェ」
普通、海賊船の船長と言えばもっとでかくて強そうで……そう、もっと大人なんじゃないのか?
ゾロにはどうにもこのルフィがキャプテンをやっていることに合点がいかない。
しかし今はそんなことはどうでもいいこと……。
「あー……。で、くいなは……どこだ?」
ゾロの音量が急に小さくなり、ルフィはおや?と首を傾げた。
あの威勢の良かった子供の目が一変して自信のない色に変わる。
「そんなやつ、この船にはいねェぞ?」
ルフィにとっては至極当然なその答え。
「そ、そんなことねェだろ!? だってこの刀!!」
そう言ってルフィの眼前まで差し出されたのは、先程から大事に抱えて離さなかった白い刀”和道一文字”。
「それは、ゾロのだ」
「……おれの? 違う、おれのじゃない! これはくいなのだ!」
「本当だ。おれがはじめてゾロに会った時からそれはゾロんだ」
「違うって言ってんだろ! くいなをどこへやった!! ……海賊って悪党なんだろ。きっと嘘吐いてどっかに隠してんだ!」
そう一気に捲し立てるとゾロはいきなりその刀を抜き、ルフィに突き立ててきた。
「くいなを返せ」
先程までとは違う、覚悟を決めた低い声と、放たれる殺気。
そしてその、戦う男の目。
ルフィの前に居るのは、ルフィの知らないゾロなのだ。
その目も、ルフィの知るゾロの目では決してない。
容赦なく斬りつけてきたゾロをルフィは難なく交わし、無表情にその鳩尾に拳を突きつけた。
カシャン……。
ゾロの手から落ちた刀は果たされなかった役目を終え甲板に転がり、その持ち主の体は、彼の嫌疑の船長の腕へと力なく倒れ込む。


ゾロはそのまま気を失った。



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