ベビー・トーク





「うわあああああぁぁぁぁぁぁあ!!!!」


朝一番、ゴーイング・メリー号にけたたましく響いたその叫び声は、乗組員一同を起こすには充分なほどの音量だった。
「な、何!? 今の声!」
本船の航海士ナミはビックリして飛び起き、夢ではなかったかと自分に再確認してみる。
「間違いないわ、食堂からね!」
声の発信元まで割り出すとすぐに着替えを済ませ、部屋を飛び出した。



「なんだよ、朝っぱらからうるせェぞ。クソコック!」
たまたま甲板で寝ていたゾロが距離的に一番に到着し、その叫び声の主に一番に抗議することが出来た。
いつもなら間髪入れずに言い返してくるはずのサンジの言葉が発せられることはなく、代わりに震える彼の人差し指が見える。
それは真っ直ぐにテーブルの上を指していた。
さすがにそれ以上の悪態も忘れ、ゾロもそのテーブルの上の物体に目を向ける。
ゾロはしばらくそれが何であるのか答えが見つからなかった。
そうしてる間にもナミ、ウソップと船員が集結し、彼らの悲鳴でゾロははっと我に返ったのだ。
「何で、赤ちゃんがいるの……」
正真正銘の正答を言ってのけたのはナミで。
やはり女は現実的だ……。
などとゾロが変な感心をしていると、ナミは早くも行動を起こし、バスタオルにくるまれた赤ん坊を抱き上げた。
「すやすや眠っちゃって。かわいいわね!」
なんてもう余裕の表情まで見せている。
「ナミしゃん! マリア様のようだ!」
的の外れたラブコックにはすでに赤ん坊のことなど眼中にないらしく、目からハートを飛ばして二人の周りをくるくると回る始末だ。
「あら、ありがと、サンジくん」
「で、どっから来たんだよ、こいつ」
ウソップが触らぬ神に祟りなしとでも言うようにナミの腕の中のベビーを指さす。
「あ、先に言っておくけど私、面倒なんか見れないから」
きっぱりと言ったのは他でもない、本船で唯一の女性であるナミで、みんなに「オイ!」とツッコまれるが素知らぬ顔。
「仕方ないじゃない! ずっと魚人とこで海図描いてるか海賊から宝盗んでたんだもの!」
おっしゃるとおりで、と一同は口を噤む。
「おれは姫君の相手しかできねェぜ。後はじじぃとイカ野郎共くらいだ」
サンジが大人の中で育った事実はあの海上レストラン「バラティエ」のメンバーを見れば一目瞭然というもの。
「おれはガキの相手しかしたことねェからなぁ」
うーんとウソップが指を顎に当てて考え込んだ。そして「嘘ついてもわかんねェし」と繋いで「つくな!」と一同にツッコまれている。
結局ウソップは何かあっても嘘で誤魔化してしまいそうだということで、却下された。
「残るは……」
ナミのセリフに一同が揃ってゾロに振り返った。
「何だよ……」
間違いなく嫌な予感がする……。とゾロは背中に冷たい汗が伝うのを感じる。
「任せたわ!」
ひょいと赤ん坊がゾロの腕の中に移動してきた。
「ちょ、ちょっと待て! まだ居るだろう!」
ゾロが慌てて唯一の逃げ道に気付いて声を上げた。
「そういやルフィがいねェ」
ゾロの次に気付いたのはサンジだった。
「あら、そういえば忘れてたわ。何故かしら」
いつもなら居なければ一番に解る相手なのに。
その時当の赤ん坊が一声泣いたので、全員の注意は一斉にそちらへ向けられた。
「起きた……」
ゾロが言うと同時にぱっちりと赤ん坊は目を開けたが、光が眩しかったのか両手でしばらく目を擦った後またぱっちりと開けた。
一同、息を呑んで赤ん坊のその目を覗き込む。
「このおっきな点目…………」
「ルフィ!?」
「そういえば目の下に傷が……」
「うお! デンジャラス!!」
みんな口々に言い合った後またしん……となった。
銘々がちらちらとお互いの様子を伺いながら、この結論が間違ってないことを目と目で確認し合う。
「ルフィ、だよな、この子」
確信を込めた結論をウソップが述べる。
「間違いないわ」
ナミも神妙な顔で頷いた。
「ナミさんが仰るのだから間違いねェ」
うんうん、とサンジが顔を縦に振った。ついでに腕を引っ張って伸びることまで確認したので、これはもう疑いようがない。
ゾロはこの小さなルフィを覗き込んで、まじまじと見つめてみた。
目が合った途端その赤ん坊がにっ、と笑う。
「間違いねェな……」
ゾロにはその笑顔で、その赤ん坊がルフィそのものだとわかってしまったのだ。



「じゃ、頼んだわよ! ゾロ」
「は?」
ナミがにっこり笑ってゾロの肩を叩く。
「じゃあな」
続いていつの間に用意したのか綺麗に飾り付けをしたドリンクをトレイに乗せ、サンジが意気揚々と女航海士の後を追って出て行った。どうせナミの為のものだろう。
ゾロは端からサンジになど期待してはいなかったが、ああ当たり前のようにされるとムカつくなんてものではい。
後に残ったのはウソップだが、ゾロと目が合った途端「うっ!」と胸を押さえてうずくまった。
「急に赤ちゃんの世話をしてはいけない病が!!」
「…………いいよ、行けよ」
ゾロは深く重い溜息を吐いて顎で出口を指した。
「……悪ィな。なんかここでゾロの手伝いした日にゃ、ナミに裏切り者扱いされてとんでもない目に遭わされそうでよ」
もちろんその気持ちが解るゾロは何も言わずもう一度顎でしゃくる。
すごすご退散するウソップの後ろ姿を見送りながら、ゾロはさてどうしたのもかと現実を見つめるところから始めた。
さっきからタオルの端をちゅぱちゅぱ吸っているルフィがお腹を空かせているのだと察したが、一体何を食べさせればいいのか。
「待てよ、ミルクを飲ませるんじゃねェのか?」
ゾロは一人言を呟きながらルフィを縦抱きして冷蔵庫を開ける。当然あるのは、牛乳。
「まあいいか、これで」
ルフィだしな、と変な納得をして牛乳パックを取り出すとコップに移した。
そしてまたはたっとする。
「ほ乳瓶てヤツががねェ」
有るはずもなかった。
ゾロは長椅子に腰掛けるとまたルフィの顔を覗き込む。
するとルフィは吸っていたタオルを口から離し、口をパクパクさせた。しかしその意図がわからなくて首を傾げていると、途端にルフィは火が着いたように泣き始めたのだ。
気に入らなければ泣く。赤ん坊の専売特許だ。
これにはゾロも参って慌てて立ち上がると「よしよし」とルフィをあやしにかかった。
いっこうに泣きやまないルフィにゾロは一体自分は何をやっているのだろうか、とふと我に返って落ち込む。
頭まで痛くなってきた。
「未来の大剣豪ともあろうものが……」
自分を追い込むようなことを言ってみる。
涙が浮かびそうになりながらゾロは半ばやけくそでミルクを口に含んで泣くルフィの口に流し込んだ。
途端に大人しくなったルフィがゾロの唇を吸い始める。
ちゅぱちゅぱと、零しながらではあるがルフィは思いの外上手にゾロからのミルクを飲んでくれた。
口の中のミルクがなくなるとまた泣くのではないかとゾロは思い、間髪入れずに口移しの行為を続ける。
幸い機嫌も直ったらしい。
次第にゾロにも余裕が出てきて、この現状を客観的に見れるまでになった。
や、柔らけェ……。
不謹慎にもルフィの唇の感想をそんな風に感じながら、思わず堪能してしまう。
ちゅうちゅうと器用に舌に舌をを巻き付けられてゾロは赤ん坊相手に暴走しそうな自分を抑えるのに必死だった。
赤ん坊と言っても相手は自分がいつも欲情を押さえ込んでいる当のルフィだ。
修行が足りねェな……、と自分を叱咤する。赤ん坊相手にいくらなんでも情けなさ過ぎる。
しかしそんな行為もコップ3杯目に突入すると舌も麻痺してどうでもよくなってきた。
無理な体勢で腰まで痛くなってくる。
「しゅ、修行が足りねェ……」
だんだん息まで上がってきて今度ばかりはルフィの底なしの胃袋を呪った。
いつもなら、ルフィの豪快な食べっぷりは見てるだけで幸せになるゾロなのだが……(もちろん顔には出さない)。
「もう、これで最後だからな!」
言っても解らない赤ん坊にそう言い聞かせると、ゾロは再び唇を合わせた。
バタンッ!
勢いよく開けられた扉の向こうにはトレイを片手に持ったサンジが。しかしその上に乗った空のグラスは音もなく落ちて割れた。
ついでにトレイも落ちる。
ゾロは慌ててルフィから唇を離したが、時既に遅し。
「ちょっと待て、話を聞け!」
間違いなくナミに報告しに行くと踏んだゾロは先手を打って制止の言葉を掛けたつもりだったが、こちらもまた時既に遅し。
ゾロの伸ばした手も虚しく、その扉の脇にもうサンジの姿はなかったのだった……。



その後、さんざん変態扱いされたゾロが「だったらこの役降りる!」と言った訴えは難なく却下され、これは見物とばかりノリにノったナミがルフィの世話役を続行することを何の権限があるのか命じ、ゾロは否応もなく黙らされた。
当の赤ん坊ルフィはというと、ゾロの袖を掴んだまますやすやとまた眠りの淵へと落ちていて、そんな寝顔を見ながら、ゾロはこっそり笑みを漏らす他なかった。



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