19×17

じわじわと現実が実感となって迫ってくる。
納得した先から虚しさに襲われる。
ぽっかりと空いた穴は、いつだって弱い自分を易々と呑み込んでいくから──。


「おいっ!ルフィ!てめェもさっさと荷物詰めろ」
サンジの言葉の端々には、それみたことかと言わんばかりの棘がある。
ソファに座って俯いているルフィの表情は麦わらのツバに隠れ知ることはできないが、自分達はもうこの船にはいられない身なのだから。とっとと荷造りをして、ここを立たなければならない。そうして二度と戻ってくることは叶わないのだ。

ゴーイング・メリー号。

仲間の一員であり、自分達の家だった。だけどもうメリーは走れない。
ここで乗り換えるかどうかを決めるのは船長のルフィで、船長が別れると決めたのだから船員はそれに従う。それぞれの寂寥や未練は押し潰し……次の冒険へと、繰り出す為に。
だけど一人、割りきれないのが特別な思い入れのあるウソップだった。

「決闘」と言う形で決着を望んだのはウソップで、勝者はルフィだった。
ウソップはメリー号と共に一味を抜けることになったが、それはクルーひとりひとりに後味の悪さをただ残した。

そして船長には──。

「どうにかしろよ、あれ」
サンジがゾロに目配せしてルフィの方を顎でしゃくる。
なんでおれが、と眉間にシワを寄せるゾロに目顔で抗議され、「泣かせたのお前だろ」と言ってやれば「あァ!?」とやっと手応えアリ。
が、明らかに意気消沈した様子のチョッパーにギクリと手をとめられ、二人で口をつぐんだ。
おれじゃねェ、とゾロは言い訳する気もない。
永遠の別れになるかもしれない大喧嘩をしたアイツらの自業自得……と、そんな風に思う反面、ゾロには少しの自覚があった。

『重い!!』
たった一言、決闘を終えてそう吐露したルフィに、まるで追い討ちを掛けるようなゾロの言葉が突き刺さる。

『それが船長だろ…!!迷うな』

船長の責務を知らしめ、無理やり自覚させたその上に、

『船を明け渡そう。おれ達はもう、ここへは戻れねェから』

現実を畳み掛けるように突き付け、その言葉にルフィは堰を切ったように号泣し始めた。だから確かに、ゾロが泣かせたと責められても言い返せない。
だけど誰かが告げなきゃ、この一味は動き出せなかったろうから……。
それきり口を利かなくなったルフィにゾロは目をやり、こそり小さく嘆息した。
後悔、しているのだろうか。自分がじゃない、ルフィのことだ。
ルフィは迷っているのだろうか。
常に前を向いていて欲しいのに──。

「そんならおれが慰めていいか?」
青い瞳に艶を孕ませ、サンジがちらりと見上げてきた。
ゾロが何かを言う前にツカツカとルフィへ歩み寄る。
それからドサッとその隣へ腰掛け、サンジの細長い腕がルフィの薄い肩へ回った。
「ルフィ」
ぐっと引き寄せれば、案外すんなりとルフィが凭れ込んできてサンジは訝る。されるがままのルフィなど気持ち悪い以外の何物でもない。興が削がれてしまう。
サンジは肩を抱いてない方の手で俯いたままのルフィの丸い顎を掴むと、そっと泣き腫らしたその顔を上げさせた。
涙のとまった目元はまだ赤く。いつもはキラキラした黒瞳に力がない。
ばかりか真っ直ぐ射てくるはずの眼差しは、サンジの視線から逃れるように横に流され、こんなときに何だが初めてサンジは彼の色香を感じゴクリと唾をのんだ。
そのまま吸い寄せられるように顔を近づけ……キスしちまえ、と思った矢先、いつの間にか目の前に立っていたクソ剣士に鞘の先でドスッと腹を突かれた。
「ゴフッ……!!て、てめェ加減しやがれ」
今マジで殺気を感じたぞ。
「盛ってんじゃねェよエロコック。来いルフィ、出るぞ」
どうやら二人分の荷造りをしたらしいゾロがルフィの手首を引けば今度はあっさりゾロの言いなりだ。
そんなにショックを受けるなら最初からあんな売り言葉に買い言葉、言わなきゃよかったんだ。短気で空気が読めなくて打算のない船長様はタイミングを選ぶなんてこともしないから、サンジが止めたときにはもう遅く……だから、それみたことかだ。
荷物とルフィを抱えたゾロにしかしサンジは「ああそうだ」と、世間話でもするように続けた。
「今ソイツ、きっと何でもさせるぜ?」
にんまり人の悪い笑顔付きで。
ゾロの一瞥を肩を竦めて交わし、さーて荷造り荷造り、と二人に背を向けた。


メリー号から降り立ち、ゾロはルフィと共にしばし仲間を待つ。
無表情にメリーを見上げるルフィは何を思うのか。
コックのように優しく抱き締め、大丈夫だお前は悪くないと、その場しのぎの慰めや嘘を自分はついてやれない。やる気もない。なぜなら、ゾロがそんなみっともない真似をされたくないからだ。
だから先ほどのルフィの自棄とも取れる態度にゾロは苛立ちを感じずにいられない。
クルー達は知らないことだが、お互い理由を口にしなくとも体を重ねるのはお互いだけだと、ゾロはそう自負してきた。
なのに、今のルフィはどうだ。
『きっと何でもさせる』
そんな胸くそ悪いことをコックに言わしめる始末。
ゾロはこんな些末なことで苛々している自分にもムカつき、一変してしまった日常に悪態をつくも、今、船長が背負っている重さに向き合って欲しいと真摯に願う方が勝っていた。

「ゾロ」
不意に名を呼ばれゾロは不覚にもビクリとした。態度には出なかったと思うが。
真っ黒い目はぽかりと空いたブラックホールのようだ。
「ルフィ?」
「おれ、どんな顔してる?」
「……どんなって、お前だろ」
「おれはウソップとメリーを置いてでもこの先の海へ進むって決めたよ。それは変わらねェ、なのに──」
「てめェの仲間はアイツらだけか?違うよな」
今度はゾロの言葉にルフィがハッと息を呑んだ。
「……違う。でも、おれ船長なのにアイツら守れなかった。失っちまった……」
空いた穴は大きくて大きくて、ルフィは強くなることでしかその穴を埋められないと思っている。
幼い頃にも誓った。もっともっと、もっともっと強く……。
だけど。
ああすればよかったとか、ああ言えばよかったとか、考えるのは過ぎ去ったどうにもならないことばかり。
顔を向けた先に広がる海は、まだまだ真っ暗で、冒険の匂いを運んできてはくれそうになかった。


翌朝──。
裏町の宿屋、その屋上へゾロが上がると、少し離れた塔の天辺で膝を抱えているルフィを見つけた。
ゾロが目を覚ました時、腕の中にいたはずのルフィの姿はもうなくて、少しの焦燥に駆られ部屋を飛び出して来た。
今は壁に凭れ、船長の姿を視界の端に捉えられる位置に居座っている。
そんなゾロを朝から見たくなかった顔がムッツリと見下ろしてきた。
そのムッツリコックは煙草片手に生欠伸を噛み殺すなり、
「ケダモノ」
開口一番ゾロを半開きの右目で睨みつけるのだ。
「あァ?」
「裏町でも格安ホテルなんだぜ。壁が薄いんだ。ガンガンぎっしぎっしアンアンやられたら堪ったもんじゃねェ」
「……それで一晩中ロビンを岬で待ってたってのか?」
「まっさか!最初から出るつもりで起きてたさ。んなことよか……好きにさせてくれたろ、船長?」
嫌味たっぷりニンマリと笑ってくれたぐるぐる眉毛をゾロは忌々しく睨むも、やり合う気には到底なれない。
確かに昨夜、人形のようにおとなしく精気のないルフィをむちゃくちゃに抱いたのはゾロだった。それでも最奥の、彼の弱い部分を攻めたてたらそれを境にルフィはあられもない姿で乱れ、甘い声で啼きまくり、ゾロにすがって後から後から涙を流した。
ウソップとの決闘までの数時間。ルフィは何人も寄せ付けずハンモックに寝転がったままじっと天井を睨み付けていた。
ゾロはその時の憤りだとか、不甲斐なさだとか、襲いくる胸の痛みを思い出し何度も彼を貫いたのだ。
ただ、ルフィをぐっすり眠らせたかった。
何も考えられないように、その瞳を閉じさせたかった。
たった一晩だけでも……。
当人にはどうやら、はた迷惑だったようだけれど。

「おい、言い訳くらいしてみせろ。幸いナミさんやチョッパーは気づかなかったようだが……。お前らって前からそうなのか?」
「………」
「おいマリモ!聞いてっか!?」
サンジが焦れ始めたのを知り、ゾロはちっと舌打ちで返した。

相変わらず表情をなくしたルフィを視界に映す。
またズキリと胸が痛む。
今朝一番にルフィを見つけたのはゾロだったが、声を掛けることも自分の存在を知らせることもなかった。
だけど決して眼は離さない。
ナミは船長の痛々しい様子を見ていたくないのかそれとも気を使ってか、「一人にしてあげなさいよ」とゾロを諌めたが、ここ(ルフィが見える位置)から動くつもりは毛頭ない。


そのルフィが動いたのは、船の件で世話になった造船所の社長が襲われたと一報が入ったときだった。
ルフィはいの一番に飛び出して行ったが、ナミ達が追っていったので一人になることはないだろう、ゾロは残って成り行きを見守る方を取る。
それに……ルフィはなんとなく、自分に近寄って欲しくないんじゃないかと思ったのだ。
ゾロはルフィを、迷わせないから──。
けれども常々ルフィがゾロの予想通りにならないことを、ゾロは改めて実感することになる。

パタッ、と草履の音が聞こえたと思ったら、目の前にルフィが立っていた。
一人で戻ってきたらしく、俯き加減なその顔には麦わらの影が落ちている。

「ゾロ、昨日の晩はありがとな」

「……は?」
我ながらずいぶんと間の抜けた反応だ。だけどルフィはニコリともせずに、
「さっきも、ありがとう」
ちょこっと麦わらのツバから片目だけを覗かせ、ゾロを見つめた。
ルフィは思う。
自分の目前にはまだ、靄が掛かって真っ青な海は見えないけれど。
それでも一歩一歩進んでいけるのはゾロが後ろにいて、黙って見ていてくれるから。
大事なことは一度しか言わない相棒だから何度も何度も無言の行動で示してくれる。
自分には誰より信頼しているゾロがいる。
唯一の、不変。
それをわざわざ言葉にして伝えることはないけれど……。
自分さえわかっていれば、それで。

「礼を言われるような抱き方をした覚えはねェが?」
立ち上がったゾロがニヤリと片頬だけで笑みを寄越した。
ルフィは、昨夜の乱れきった自分がこの男の前で惜しげもなく足を開き、腰を振った記憶がフラッシュバックしてカァッと頬は熱を持つ。
「そ、それはどうでもいいんだ。そうじゃなくて」
「礼なんか言うなルフィ。本当はな……」
ルフィの赤らんだ頬をゾロは両手で挟み込むと、瞳を揺らして見上げてきた船長に言葉を続けた。

「お前が他の男のことばっか考えてやがるから、妬いた。だからてめェの体に当て付けただけだ」

「──へ…? バ、バカかっ!?」
まぁな、と返して素早く船長の唇を奪えば、これでもかってほど真っ赤になったルフィはゾロの手を払い退け、「おれ行くから!」と口早に言ってあっという間にいなくなってしまった。

笑うことを忘れたルフィの笑顔はいつ戻るだろうか。

ゾロは閑散とした屋上に一人、とんがり屋根のカラフルな町並みを眺め。
見えない敵を睨み据えるようにすっと、切れ長の双眼を細めた。



(END)
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