19×17
他人の口からはじめてそいつの名前を知った。
「海賊狩り」だったり「魔獣」だったり「悪いヤツ」だったり、そんな名前も聞いた。
おれは想像した。
顔も知らないそいつのこと。
そしたらワクワクしてきた。その時浮かべた顔がどんなんだったか、ちっとも思い出せないけど。(厳つくて怖い顔だったような気がする)
その代わりにあの日の、あの時のあいつの顔を思い出した。
処刑台の上、高い高い所から、後数秒で首を落とされるっていうそんな時。
無数の敵を蹴散らしながらおれを助けるために走ってくる、あいつの顔を。
形の良い眉を吊り上げて、誰もが怯むような鋭い目つきで、刀を振り上げておれを見上げた険しい形相の、あいつの顔を。
はじめてその名を聞いたときから今まで、おれは変わらず思ってる。
あいつは強い。
ゾロ――。
おれは男部屋の丸窓から見える黒い海を眺めていた。
陽が落ちても尚降り続く雨と一緒に。こんな夜はみんな銘々に好きなことを思っていて、一所に集まらない。
案の定、部屋には誰も居なかった。
時たまおれを救った雷鳴が轟いていて少しどきどきする。
生きてるんだ、そう思った。
「雨、やまねェな」
部屋に降り立ったゾロがおれの後ろに立って、同じく窓を覗く。
おれはくるんと窓に背を向けた。つまり、ゾロに向き直った。
小さな明かりしかつけてない部屋の所為か、ゾロの顔色が酷く悪く見える。
「ゾ……」
名を最後まで呼ぶまでにゾロの冷たい唇がおれの唇に当たった。
いつからだったか、ゾロはおれに突然こんなことをしてくるようになった。
“キス”ってヤツだ、て言うことくらい、おれだって知っている。でも。
“何で”そうするのかを、ゾロはちっとも言ってくれない……。
でも、聞こうとも思わなかった。
……だっておれは多分その答えを知っているから。
「キャプテンが居なくなった船はどうなると思う?」
数秒後、離れた唇が言った。
怒ってるのかなァ、と思う。
「んー、誰かが代わりになる」
「そうだとして、それはおれじゃねェ。どうしてだか解るか?」
「さァ?」
わざわざ考えることをしないおれは素直に首を横に振る。
「この船を降りるからだ。海賊も辞める」
「うん、ゾロは強いからな! 独りでもやってける。きっと大剣豪になるな!」
おれは心からそう思って言った。
だってきっと、そうだから。
「お前が居なくなっても、おれは野望を果たす」
「うん」
「でもな」
「ん?」
「死んだら約束は守れねェ」
お前とのだ、とゾロは丁寧に言った。
「そうだな」
ゾロが言いたいことをおれは聞かなくても解っていて、
「そんな遠回しに怒んなよ」
ちょっとトーンを落として言って、ちらりとゾロを見上げた。
そんなおれの視線にゾロは痛そうに顔を顰め、おれの背後に広がる船窓の海に目線を移した。
「お前が……、笑うから。全部捨てたみてェに笑うから」
ゾロの手が持ち上がって、そっとおれの腕に触れた。それからゆっくりと撫でられた。
……その掌さえも冷たかった。
「おれ、笑ったか?」
実はゾロの顔しか覚えていない、それと。
「笑ったんだ」
「それなら捨てたんじゃねェよ、持ってったんだ。……持ってこうと思った」
弾かれたようにおれを見たゾロの翠の瞳が、天候の所為か濃く重い翠になっていて……まるで泣いてるみたいだ。
そんな顔でおれを見るのは、おれの言っている意味がわかんねェからか?
「ゾロや、みんなに貰ったモンや、おれの夢を持っていけるから」
全部見えたから。
少し驚いた相棒の目が、おれを射る。
そしてそれはすぐきついものに変わった。
「残された者はどうなる」
やっぱりゾロは怒ってるんだ。
「ごめんなさい」
おれはペコッと頭を下げた。
「謝んな! 余計ムカつく!!」
次の瞬間、ゾロの両腕がおれの背中を締め付けた。厚い胸板がおれの頬を圧迫した。
今度は、暖かい、と思った。
――ゾロは強い。だから。
「おれのこと、忘れてくれんだろ?」
「え?」
ゾロの腕が少し緩み、おれはまたゾロを見上げた。
「忘れて、自分の夢を果たすんだろ?」
「何を……」
「だからゾロは怒るんだ、自分に」
「違……っ!」
おれは両腕を突っ張ってゾロの胸を押し返した。続けて、
「違うなら、約束破ってるのはゾロだってことだ」
それだけ言い捨て、部屋を後にした。
ゾロがおれを見てる。
でもずっとじゃない。
昼間は寝てるし、トレーニングだってやってるし、飯も食うし、夜も寝るし。
でも見てるって言える。
出逢ったときの、真っ直ぐにおれを睨み付けた時の鈍く光る翠とは違うところで、ゾロはおれを見てるんだ。
それは仲間としてでもなく、相棒としてでもなく、守る側のものでもない。
言われなくても解ってる。
ゾロはおれが好きなんだろう。
「麦わらキャッチしてくれたしなァ」
それはグランドラインに入る直前のこと。
海に落ちそうになったおれは、差し伸べられたゾロの手に救われた。
そんなこと、何度もあった。
その時だってそうなることをおれは信じて疑ってなかった、それは。
ゾロがおれを見てるって、知ってるから。
でも、だから好きなんだろうと思ったわけじゃない。そんなんじゃねェんだ。
それはもっと、その先の……。
「お前はちょっと目を離すとすぐ居なくなっちまう」
ラブーンとの約束を残し、海賊船は本海へと向かう。
おれがいつもの特等席で初めて見るその海を眺めていると、いつの間にか背後に立っていた男が不意にそんなことを言った。
「ゾロ」
おれは身体ごと振り向くとその顰めっ面にニッコリ笑い返す。
そうするといっつも、ゾロはおれから目を逸らした。
決まり悪そうに鼻の頭を掻いて、それからまたおれを見て。
「死にかけてるしよ……」
「死ななかっただろ?」
とは言うものの、そんな場面はいっぱいありすぎて、ホントはゾロがいつのことを言ってるのか解らない。
そんなおれに、ゾロがハァと溜息を吐く。諦めたような顔をして。
「不思議と死ぬと思ってねェから腹が立つ」
「ん? おれが?」
「違う。おれが」
ゾロがくいっと親指で自分を指した。
「お前が死ぬとこ、想像できねェ」
まいった、と付け足しておれに背を向けて、その場に座り込んで手摺りに寄りかかる。ホントに参ってるみたいだ。
「それはゾロの強さだな」
おれが真下のゾロを覗き込んでそう言えば、ゾロが真上を向いておれを仰いだ。
「ずっと考えてた。おまえに言われたこと」
そうっとゾロの右手が伸びてきて、おれの左頬にピタと触れた。
「そっか……」
頬の古傷を愛おしそうに指でこするゾロの中に、答えがあることをおれは確かに感じる。
「また約束増やしたなルフィ。でもな……」
ラブーンのことを言っているのだろう、ゾロの言葉におれはニッと笑って見せ、そして先に返した。
「死んだら守れねェ、だろ?」
「わかってんじゃねェか」
「おう! ゾロもわかってんだろ?」
おれはぴょんと船首から飛び降り、ゾロの隣へ座り込んだ。そしてゾロの言葉を待った。けど、ゾロは何も喋ろうとはしなくて。
自ずと訪れる沈黙。
「……ルフィ、おれはもっとずっと強くなりてェ」
不意にゾロが口火を切った。
「うん……」
「お前が死んでも忘れてやれるくらいに」
「うん」
好きだけど、誰より大切だけど、忘れることが出来る強さ。
だって約束の中に、生きているから。
それは強くなる度、屍を乗り越える度、夢に近づく度。
忘れていく度……。
隣にいる強き者が、例え姿がなくとも不変のものである為に。
お互いの中で、生きていけるように。
おれの前に着いたゾロの手が見えた。
顔を上げると真摯な目をしたゾロの顔。
おれは少し、目を伏せる。
触れてくる唇に目を閉じれば未来が見える、そんな感じがおれは好きだった。
もしこの行為の訳をゾロに聞いたなら、ゾロは何て答えるのだろう。
おれの身体を押し倒そうとするゾロの腕を、おれはやんわりと制した。
「悪ィ……」
本当に申し訳なさそうなゾロの顔が可笑しくて、思わず「ぶはっ」と吹き出した。
「笑うな」
赤くなったゾロをひとしきり笑い飛ばして「うーん」と伸びをひとつ。
なんだか、すっきりした。
「そうだなァ」
「ん?」
「何でも?」
「なんだそりゃ」
さっぱり解らない、と言った風にゾロが首を傾げた。
後10回キスしたら、その先もいいかなァ。
考えておれは、「にししし」と笑った。
本当はいつだって良かったから。
“好き”より先にある、それをおれは知っているから。
「その先にあるもんに、ゾロが気付いたらな!」
「その先? どの先だよ」
難しい顔をするゾロにおれはまた笑う。
「出逢って良かったって、思うか?」
呟いたおれの声が聞き取れなかったのか、ゾロはまた首を傾げた。
「ううん、何でもねェ!」
おれを見てるゾロにはきっと解る。
おれは出逢ってからずっときっと、そこにいるから。
目を閉じたときに見える未来のように。
いつも隣にいる存在を、確信できるように。
そこには、“絆”があるのだから。
END