19×17


本当は越えたくて堪らない塀の向こう、あいつは何者をもきっと怖れていないのだろう笑顔でこっちを見ていた。
そしてその笑顔が目の前に来たとき、おれは言ったのだ。
「この縄解いてくれねェか?」
言ってはいけない、そんな台詞を。
約束を破ることになる、おれが絶対にしたくないこと。


どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。
今でもたまに思い出す。
そしておれはある夜、夢を見た。
そう昔ではない過去の夢だった。
ウィスキー・ピークで、奴はおれが善良な街の連中(奴がそう思いこんでいただけだが)を斬りまくったことに腹を立て、おれにいきなり殴りつけてきた時の夢だ。
おれの話を聞かないその船長に本気を感じ、それならばこちらもと応戦の覚悟を決める。
別に究極の選択でも、何でもないことだった。
やらなきゃやられる。それだけのこと。
同じく船員である女航海士が仲裁に入り、あっという間にその戦いは中断し、あっさりと誤解も解け、さっぱりとそのことは忘れたけれど。
そのつもり、だったのだけれど。
どうして今頃になってこんな夢を見てしまったのか……。
奴がああなのは解っていたし、誤解から喧嘩を吹っ掛けられてもそのことに対して怒りを引きずってはいない。
それを証拠におれはどちらかと言えばふっかけられたその喧嘩に、奴との降って沸いたその戦いに、正直ぞくぞくした。
自分より強いかもしれない相手との戦いを、おれはこれほどまでに待っていたのかと、実感するほどに楽しくて胸が躍ったのだ。
もしあの時おれが奴を殺していたら、おれは約束を破ることになったのに。
「海賊王の仲間」になること。その時、おれが「世界一の大剣豪」であること。
海賊王、それは奴の野望。大剣豪、それはおれの野望。
“海賊王の仲間の大剣豪になる”
それが奴との、最初の約束。
この手で殺してしまったら、それは一生かかってもできない約束だったのに……。


ルフィ――。


「おれはお前の前だと自分を見失っちまうらしい」
「ど……して?」
話しを振っておいて、おれはその唇に口付けた。途中、途切れたルフィの言葉はその所為だ。
「許せてねェのかも」
「何を」
「お前がおれを疑ったこと」
「……いつだ?」
「ウィスキー・ピークで……」
「古ッ……!」
「いや全くだ。悪ィ」
ペコリと頭を下げるとルフィが首を傾げて訝しげにおれを見る。
そんな表情にさえ、こんなに胸が騒ぐのがその理由。
この想いを“恋”とだけで片付けられるなら、返ってどんなにか楽だっただろう。
“好きだから求める”、それだけなら……。
「ゾロ?」
変に考え込んでしまったおれを、ルフィがますます不審な目で見つめてきた。
船首の手摺りに座り込んでいたおれたちの間に、冷たい一陣の風が吹き抜けた。
「さっきまで暖かかったのにな……」
そう言ったおれに、ルフィは眉をひそめた。
ルフィはきっと曖昧なことが嫌いなのだ。
それはもちろん、おれも。
なのに――。
おれは一体、何を求めているのだろう。
曖昧な、曖昧な感情……。
「なァ、ゾロ」
「ああ?」
「隠れんぼしようぜ!!」
「はぁ!?」
「ゾロが鬼な!!」
「ちょ……」
タタタタタ、とルフィが階段を降りていく。
「おい、ルフィ!!」
そんな勝手に、と声をかけ振り向いた奴の顔には満面の笑み。
おれは次の言葉を呑み込んだ。
何かを教えてくれる前の、強く確かなその笑顔。
もう何度も見てきた……だから知っている。
ブンブンとルフィはおれに手を振り、「十数えろ!」と言ってきた。
「ただし!」
ただし?
どうやらこのゲームには新ルールがあるらしい。
「捜すのは3ヶ所だけだぞ!! それ以上捜したらお前の負けだ! いいな!?」
どうせ嫌だと言っても聞いてはくれまい。おれは「ああ」と短く返事を返し、ルフィに背を向けると数を数え始めた。
「1……、2……、3……」
少し恥ずかしくなって声のトーンを落とす。詮索好きな船員たちに見られたら何と言われるか。
しかしそんなことを気に留めるはずのないルフィが言って回るのは、すでに必至で。
おれは「10」を数えたところで、このゲームに集中することを己に誓った。


まず捜したのは、もちろん食堂。
理由はルフィの好きな食い物があるから。
しかし念のため冷蔵庫も開けてみたがルフィは居なかった。
「酒はそんなとこにないぜ、クソ剣士」
仕込みにやってきたらしいクソコック=サンジ(おれには同じなのだ)が後ろから話しかけてきたがおれは無視を決め込む。
「かくれんぼ、やってんだって?」
その顔を見なくてもサンジの顔がからかいの笑みを浮かべていることなど容易に察しが付いた。
「……悪いか?」
こうなったら開き直りだ。そんなおれにコックは何も言い返す言葉がないらしいが、もうクセとなっているのか、コイツの嫌味に構えて愛刀の柄を握る。
「別に……、ルフィが楽しそうだったからよ。しかも、あいつ……」
「ああ?」
急に言葉を切った男におれは振り返った。
「いや……?」
どうせそれ以上追求したところで返事は返ってくるまい。そう判断し、おれは食堂を後にした。
別に聞きたくもねェしな……。
階段を降りたところで途端、ウソップと出くわし彼は「おう!」と軽く片手を挙げておれに近づいてきた。もう片方の手には何やら武器用と解る火薬やら鉄屑やらが乗っかっていて、今から武器庫へ行くのだと察しが付く。この狙撃手は武器の開発に余念がない。
「よう……」
しかしおれは気も漫ろに返事を返した。
悪いが頭の中は次どこを捜すかでいっぱいなのだ。元来一つのことしか考えられないタイプらしい。
「ルフィなら見てないぜ」
そう言うウソップに悪気はなさそうだが、おれはバツが悪くて頭を掻いた。
「見ても言うなよ」
「はぁ?」
おれの言葉が意外だったのか、長鼻が目をぱちくりさせる。
「かくれんぼやってんだ」
「はぁ……」
じゃあ、と立ち尽くすウソップを尻目に、おれは後甲板へと向かうことにした。
背中に何か言いたそうな彼の視線を感じたが、そんなことよりもミカン畑の中を捜そうと決めたからだ。
あそこなら隠れている途中、小腹が空いてもつまみ食いが出来る。
しかし階段を上ったところではたっとおれは足を止めた。
誰か居る。
「誰だ?」
ルフィなら動くはずがない。
「あら、ゾロ?」
このミカン畑の管理責任者、ナミだった。
手にはカゴいっぱいのミカン。
「ルフィならいないわよ?」
まったく、どいつもこいつも……。
「ああ、そうかよ……」
しかしおれはとうに開き直っていた。
「一度来たけど、私が居たから別の場所にするって」
つまみ食いできないからね、と付け加えて笑ったナミの台詞におれは背を向けかけたまま、顔だけナミに振り返ってその小作りな女の顔を見上げた。
そして訝しげに片眉を上げる。
「何よ、止めればよかった?」
「いや……」
当たっては、いたわけだ。
だからといって見つけられなかったときの言い訳にするつもりはもちろんないが。
「その後、ルフィが言ってたわ。“でもきっとどこに隠れてもゾロには見つかる”って。何やってんの?」
「かくれんぼだ」
サンジの言いかけた言葉とルフィがナミに言った言葉とが同じなのだと、おれは確信した。
「か、かくれんぼ!?」
ナミは大きな目を更に見開いて素っ頓狂な声を上げたが、案の定笑い転げるのに辟易する。
「子守も大変ねぇ~!」
「そんなつもりはねェよ」
「真面目にかくれんぼするなんて寒いわよ?」
「うるせェ……」
「はいはい、せいぜいルフィの期待に応えてよね!」
期待に応える……?
“ゾロにはきっと見つかる”
ルフィがそう言った心理は何なのか。
これは、絶対後一回で見つけなければならなくなった。
そして来た道を戻りながらゾロは考えてみる。
どうしてルフィはこんなこと――隠れんぼしようなどと言い出したのだろう。
ナミに言ったことが本心なら負けると解っているゲームではないか。
しかしルフィの中には、いつだってすぐに答えがあるのだ。
おれの知りたい答えが。
だからこそ、絶対にルフィを見つけなければ……。
宙を、おれは仰いだ。
澄み切ったこんな青空の日、ルフィはいつも船首で海を見ている。もっと先の、水平線を、そしてその空を。
おれは真っ直ぐに見張り台に登った。


「見つけた」
「お! ゾロ!! 遅いぞ!!」
「悪かった。お前はてっきり食いモンに釣られてると思ったんだ」
「失敬だな、それは!」
一度ミカン畑に行っただろう、という言葉は呑み込んでおいてやることにする。
「だから悪かった。でもおれの勝ちだ」
「ああ、おれ負けた!」
にししし、と笑うルフィの顔には悔しさの欠片もない。もし見つけられたのが自分だとしてもそうだったに違いないと、不思議とそう確信できた。
狭い見張り台の中、座り込んでいるルフィの向かいに無理矢理座った。お互い足を折り曲げてとても窮屈な体勢なのだが、向かい合って笑い合えばそんなことはどうでもよくて。
そしておれは思った。
もしかしたらあの時、喧嘩の結末がどうであれ、おれもルフィも悔しさなんてものは感じなかったのではないだろうか?
互いの強さを実感して、勝っても負けてもどこか満足していて嬉しくて。例え相手の命を奪ったとしても……。
「ゾロが許せないのはおれじゃねェんだ。勝負の行方がわからなかったからだ」
先ほどまでのおれの考えを読むかのように、唐突にルフィが確信に迫る。
「ルフィ……」
「仲間を許せないのは仲間じゃねェ」
「でもお前はあの時おれのことを絶対に許さねェって言ったじゃねェか。お前はおれのことを仲間だと思ってねェのか?」
「んなわけねェだろ! ゾロはおれのはじめての仲間だ!」
おれは不謹慎にも“仲間”という言葉に少し胸が痛むのを、今は考えないでおくことにした。
「なら、なんで……。殺すつもりだったんだろう?」
「おう! 勝負は命がけだからな! でもおれが勝ったら許してた!!」
「はぁ?」
なんなんだ、その理屈は……。
「おれが撃ちのめしたかったのはゾロの悪いとこだったからな! あ、でもゾロは悪くなかったけど。悪いのはおれだった。ごめん」
ルフィがペコリと頭を下げるのを見て、おれはルフィの言うとおり、本当に許せなかったのはルフィ自身ではなかったことに気が付いた。
「確かに……、おれはお前がおれを疑ったことを許せなかったわけじゃねェらしい。曖昧な勝負ほどイラつくもんはねェからなァ。本人に気付かされるなんてな……」
けどそれじゃただのケンカじゃねェか? ……なるほどそうだったのか。
「ん? ほんとにか?」
ぴょこっと頭を上げたルフィがじーっとおれの言葉を待つので、おれはクスリと笑う。
「お前が言ったんじゃねェか」
「んー、そう思ったから言っただけだ!」
「そんなこったろうと思ったよ」
おれはその黒髪をがしがしと撫で、そのまま柔らかい頬へと移動した。左目の下の傷をつるりと撫でる。
「変な奴だぜ……」
「ヘンか?」
「ああ、変だ。でも正しい」
「どっちだ?」
「どっちもだ」
「ゾロも変だ」
「そうか?」
「そ……」
最後まで言わさず、おれはルフィの口を軽く塞いだ。
至近距離に開いたままのルフィの黒い瞳が見えるのは、おれも目を開けているから。
そしてルフィの目が閉じられたのを合図に、深くその唇に口付けていった。
「んっ……」
ルフィの幼い喘ぎはいつもおれを堪らなくさせる。
なんの抵抗もないのをいいことにその細い首筋に顔を埋め、この抱きしめたら折れそうで、そこにあるだけならとても危うい、でも誰よりも強く確かな存在に出逢えたことに何より感謝する。
「お前に逢えてよかった……」
「自信……なかったか?」
どうやら隠れんぼのことを言っているらしいルフィに、おれは小さく笑うと「んなわけねェだろ」と答えた。
しがみついてくるその腕にも、応えることを忘れずに。


“好き”と言う感情だけならどんなに楽だったか。
それを押しつけるだけならどんなにか。
しかしそれ以上のものを求めていて、それが何であるかが解ったとき、
この気持ちよりも楽なものがあることを、おれは確かに知った。

そこに、“絆”があるのなら――。


END
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