19×17


ドラム島にピンク色の雪が降る。
それはさながら桜吹雪のようだった。
元となる塵を30年間かけて作ったドクターの、親友のトナカイが歓喜の叫び声を上げるのを、ルフィは満足げに見て笑った。
新しく仲間となった彼を。
そんなルフィにゾロは目を細めると、またこの船長が起こした奇跡と、この雪の奇跡とに心を巡らせる。
そっとゾロはルフィに近付き、その指を握った。
「ん?」
「前だけ見てるぜ」
「おう!」
いつかふたりだけで見た桜も、こんな風に降り続いていた。
美しく、厳かに……。



目を開けた時、目に入ったのは一面の桜色だった。
それが桜の木であることに気付いたのは、それから更に数分してからのことだ。
グランドラインへ向けて航行中のゴーイング・メリー号が嵐に巻き込まれ、舵を捕られるまでに至ってしまうとは、天才航海士ナミでさえ予想外の事だったらしい。
嵐とその大きさを予想は出来ていたものの、必ずしも予想通りの回避が出来るとは限らないのが海というものだ。それが夜間であれば尚のこと。
不思議と、死ぬ気はしなかったのだが。
――台風一過。
その翌朝、流されに流されたゴーイング・メリー号とその乗組員達が辿り着いたのは小さな小さな無人島。それはもう、美しいピンク色の孤島だった。


「なんだこの花!!」
気が付くなりルフィがその桜色に向かって叫んだ。
「ひょ~!! 桜の木だ!!」
甲板に打ち付けたらしい長い鼻をさすりつつウソップが感嘆の声を上げる。
「これは見事だな」
食堂から顔を出したコックのサンジが、一面の桜に目を細め煙草を一本噴かせた。
「あの嵐で散らないなんて、どういう根性してんのかしら。ていうかもしかして……」
ナミは打った腰をさすりながら上空をぐるりと見渡す。
「台風の目なのね、ここ!」
暖かい風と共に船の甲板と、ルフィ達の上にも桜の花びらが舞い落ちる。
「きれーだな!」
ルフィとウソップが走り回ってその花びらを捕まえようと手を伸ばした。
ゾロはそんな二人をいつもなら「ガキめ」と一瞥するのだが、今度ばかりはただ眺めるに徹してしまう。
別に綺麗だとか、そんな洒落たことを言うつもりも思っていたわけでもないのだが、これは圧倒されたとでも言えば正しいか。
「さあ、みんな!! 花見してる場合じゃないわよ!! 船の故障個所を手分けして捜すの! そして修理! それから甲板掃除! はい、動く動く!!」
「えー! 腹減った」
もちろんルフィの訴えである。
「朝食はその合間よ! サンジ君、よろしくね」
くるりとサンジを振り返るとニッコリ笑うナミに、お決まりのハートマークを浮かべてサンジが「わっかりましたぁ」と返事を返した。
まだブーブー言うルフィをウソップが宥めつつ、一同仕事にとりかかった。


すべてが終わったのはすでに夕暮れ時。
朝食どころか、昼食まで合間になってしまったわけだ。
しかし事を急ぐには訳があった。予定外の航海は食糧難と水不足を呼ぶ。しかもこれから未知の海域、グランドラインへ入ろうというのだ。のんびり構えているわけにはいかない。それにログの件もある。
「疲れた~!! もうヘトヘトだ!」
ウソップが一番に根を上げて甲板に寝転んだ。
「おれもだ!」
続いてルフィ。しかしルフィは桜の花びらが降る様を、真下から眺めてみたかっただけなのだけれど。
ひらひら、くるくる、いくら見ていても飽きないと思わせる。花をキレイだと感じたのは、情緒の乏しいルフィには初めてのことだったかもしれない。
「掃除しても駄目だな、こりゃ」
ゾロが珍しく(?)真面目に働きながらピンク一色になりそうな床を眺めている。
「今夜は花見といかねェか?」
そこへ酒瓶を片手に、当船コックが持ちかけた。
「花見って何だ?」
ルフィはひょこっと身体を起こして、発案者サンジを仰ぎ見た。飽きないとか思っておきながらもう次の話題に移ってしまえるあたり、その辺はやっぱりお子様なのだ。
「桜を見ながら酒飲んだり美味いもん食ったり歌ったりするんだ」
「おお! そりゃ海賊にピッタシだな!!」
ルフィに異存があろうはずもなく、床に溜まった桜の花びらを両手ですくうと、夕焼けの空に向かって一気に投げた。
「花見だ!!」
鶴の一声。
ナミに「あんまり食料減らさないでよ!」と注意はされたものの、その夜の宴が決定したのだった。


花見は続く。
初め甲板でやっていたバーベキューもいつしか島の砂場に移動していて、文字通り桜の木の真下で行われる花見となった。
「103番、ウソップ! “おれはキャプテンウソップさまだ”歌いまーす!!」
「おー! いいぞ~!!」
103回目、立ち上がったウソップにルフィが103回目の声援を送る。
小さな島にはいつまでも騒ぎ立てる声が絶えない。
「オイ、クソコック! 酒!!」
ゾロは大好きな酒だけあればいいらしく、サンジに酒瓶を投げられつつも側でそのお祭り騒ぎを見学していた。
そんな楽しい時間も一人眠り、一人倒れた頃にようやく終幕したのだった。
いつしか静けさの中には寝息といびき、そして桜の散る音だけが響いている。
ゾロも睡魔に意識を委ねていたのだがしかし、頬に何かが当たるのを感じ、薄く片目を開けた。
――ああ、桜か……。
ゆっくりと意識が覚醒していく。そして桜の木に凭れて寝ていたゾロが足を伸ばそうとして、ふと膝に重みがあることに気付いた。
「全くこいつは……」
ゾロの足を膝枕にしてルフィが寝転んでいたのだ。無警戒に惰眠を貪っているその無防備な寝姿に、ゾロは眉間の皺を掻きながら溜息を吐く。が、それは決して不愉快とかいうものでなく、不肖の弟を持った兄のような心境なわけで。
しかしそれだけでもないこと、をゾロの胸の内はすでに気付いているのだが……。
ゾロはいい加減痺れてきた足のために上着を脱ぐとルフィの頭の下に敷いた。起きる気配がないのを確認しようとそっと顔を近づけるが、すぐにそれをやめる。
そしてひとり、自嘲気味な笑みを浮かべた。
全く、人の気も知らないで……。
ゾロは夜空を仰ぐと立ち上がり、一つ溜息を吐いた。
「こんな時は頭冷やすのが一番だな」
呟いて、鬱蒼と立ち並んでいる桜の山に足を踏み入れたのだった。

ルフィは口の中に飛び込んできた花びらに咽せて目を覚ました。
「げほがほっ」
普段ならこれくらいのことで起きはしないのだが、何かの気配が消えた様な違和感が脳を覚醒させたのだ。
案の定、枕にしていたゾロがいなくなっていた。
「ゾロ?」
小声で呼んでみるが返事はない。
ルフィは別段ゾロの身を案じていたわけではなかったのだが、何となく捜したくなって立ち上がった。
ここの気候は昼でも夜でもとても過ごしやすい、常温のようだ。
ルフィはさてどっちへ行こうか、と逡巡して、海と山を見比べてみる。
ゾロの行きそうな方……。
「わかんねェや。ま、いっか!」
自分の行きたい方へ進むことを決断して、桜の山へ向かった。
「てっぺんまで行こう、うん」
無人島の山に道などあるはずもなく、ルフィはただ好き勝手進んで行った。
見上げれば黒い空と、黄色い月と、桜色の花達。
地面は殆ど花びらで埋め尽くされ、月明かりに白く光って雪道のようだった。
ルフィの麦わらにもどんどんピンク色の雪が積もっていく。
ふと小川のせせらぎらしき音を耳にし、ルフィは足を止めた。横道に逸れてそちらへ真っ直ぐ駆け寄ると、案の定小さな小川があった。
「うひょー! 飲めるかな!?」
ルフィは屈んで、さっそく手のひらにすくってみた。
「ちべてー!!」
余りの冷たさに両手をブンブン振ると立ち上がって、この川の上流を目指すことにする。
川の流れに桜の花びらがいくつも流されて行くのを飽きもせず目で追いながら、進んで行くととうとう水が湧き出ている大きな岩の隙間に辿り着いた。
ルフィはそこで一口水を飲むと、満足げにニッと笑い、当初の目的であるゾロ探しを再開することにした(忘れてたらしい)。
そして意外にもすぐにゾロは見つかった。
その岩を越えたところがどうやらこの山のてっぺんだったらしく、桜の森を抜けると大草原が現れた。
そこにはこの島の主なのだろう、大きな桜の木が厳かに一本立っていた。
その大木に凭れるように、ゾロが立っていたのだ。
ゾロは何をするわけでもなくポケットに両手を突っ込んで、ただ落ちていく花びらを仰ぎ見ている。
ルフィは傍へ行こうと一歩足を踏み出そうとして、でもやめた。ゾロのくっきりした二重の目が、見えない何かを見つめているように感じたからだ。
闇色の空に、月に照らされて白く光る花びらがゾロの周りをとり囲んでいる。それはさながらバリケードのようだった。
ルフィは俯いてしまうと足下の草を蹴飛ばし、なにを躊躇しているのだろうと考えた。何故だか、一歩が踏み出せない。
夜桜に守られているかのような、あんなゾロを見ていると……。
「なんだよ!」
まどろっこしくなって、ルフィは地団駄を踏んだ。
それが気後れというものであることを、心の成長が遅いルフィはまだ知らない。
ようやく顔を上げてルフィがゾロを見てみれば、こんどは白い刀を垂直に持って、まんじりともせずに見入っていた。
ゾロの緑色の髪が闇に溶けるように静かに揺れている。
ルフィはしばらくそれを呆然として見ていたが、ゾロの唇が3文字の言葉を告ぐんだ瞬間、ぎゅっと拳に力を込めた。

「ゾロ!」
ルフィはいきなりそう叫んだかと思うと伸びる拳をゾロめがけて真っ直ぐに飛ばした。
ドゴッ!
ルフィの拳が桜の木にのめり込む。
間一髪避けたゾロの頬数ミリ横を、ルフィの腕が持ち主の元へ帰るべくすでに収縮を始めている。
今度は両手を伸ばしたルフィがゾロを挟んで大木を掴んだと思ったら、それと同時に地面を蹴った。もちろんどんどん腕は縮まり、身体ごとゾロに向かって飛んでいくことになる。
ゾロが目を見張った次の瞬間、見事にルフィの頭がゾロのボディに命中していた。
ボコッ!
「うご……っ!!」
ゾロの身体が折れ曲がり、二人は諸共に地面に崩れ落ちた。
「て、てめぇ……、一体どういうつもりだ……っ」
咳き込みながらゾロが腹をさすると、ようやく自分の膝の間で俯いている相手を見た。しかしゾロには麦わらのてっぺんしか見えず、ルフィの表情は解らない。
「ルフィ?」
あれだけのことをされてもさして怒っていなさそうなゾロは、彼の顔を覗き込もうとして逆に顔を上げたルフィの視線とぶつかった。
その目は明らかに怒りで満ちていたが、ゾロにはてんで心当たりがない。
「後ろを見るな!」
ルフィにいきなりそう叫ばれても、何のことだかさっぱり解らなかった。
「何を……」
「過去を見るなって言ったんだ!」
そこまで言われて、ゾロは初めてはっとした。
今し方考えていたのは、幼い頃の彼女との約束……。
しかしあれがなければ今の自分はなかった。それをルフィにわかって貰おうとは思わないが……。
きつく睨んでくる目を真摯に見返しながらゾロはふと、心が軽くなるのを感じた。
「そうだな……」
「そうだ!」
「ああ、わかった」
少し微笑んでみせると、まだ口をへの字にしたままのルフィの麦わらをぐりぐりと撫でてやる。
「わかればいいんだ!」
そう言うとルフィはぴょんと立ち上がり、「帰るぞ!」と言ってさっさとゾロに背を向けた。
「待てよ、ルフィ!」
いつもいきなりなやつだな、と苦笑いをしながらゾロも後を追う。
過去を見るなと言われてもそれはちょっとその「過去」が悪い。だが今のルフィの一言で、それがいつか「思い出」に出来ることをゾロは自分の中で悟ることが出来た。
ずんずん前を歩くこの傍若無人な少年の傍に居れば、それはきっと遠いことではないだろう。
その時きっと自分は“大剣豪”の称号を手に入れているはず……。
ゾロはルフィの半歩後ろまで追いつき、歩調を合わせた。
「ゾロ」
不意にルフィがゾロの名を呼んだ。
「ああ?」
「くいなって、誰だ!」
突然のその名前にゾロの心臓がリズムを崩す。しかしそれはどちらかと言えば、ルフィの口から出たことにだった。
「親友だ」
「親友か……」
「そうだ」
「そうか」
ゾロはそれ以上言うつもりはなかったし、ルフィもそれ以上聞いてくることはなかった。
ただルフィが「ふぅーん!」を連発しながらまた歩みを早めたので、ゾロも少し速度を速めただけだ。
「ふぅーん! ふぅーん!」
両手をブンブン振りながら歩くルフィの後ろ姿を眺めながら、思わずゾロはクスリと笑ってしまった。
――もしかして、やきもちだったのだろうか。
表情は見えないが、耳の赤いルフィにそんな疑問が浮かぶ。
それとも自惚れすぎ?
「おわっ!」
突然、木の根っこに引っ掛かったルフィが前のめりに倒れ込んだ。地面に顔面を打ち付ける寸でのところでゾロの腕がルフィを支える。
「あぶねェなぁ。お前は」
身体を起こしてやるとすぐ、ルフィはゾロの腕から逃げていった。
「おれは前しか見てねェもん!」
悔し紛れの言い訳も、ルフィが言うとその通り過ぎて憎めない。
「お前はそれでいい」
別に嫌みのつもりではなかったのだが、赤い顔のルフィが振り向いて「変なの!」と言うのでゾロは何だかおかしくなって笑った。
「失敬だな!」
ぷいっとそっぽを向いてしまったルフィにまた笑う。
今度は「変なの!」を連発するルフィと、こっそり笑うゾロの二人は、その桜の山を後にしたのだった。

桜の花びらがいつまでもいつまでも舞い散る、そんな夜だった。



ルフィの指が、ゾロの指を握り返してきた。
「ルフィ、本当はあの時……」
妬いてたんだろ?
「あ?」
「いや、何でもねェ……」
ピンク色の雪は、あの日の桜のように、いつまでもいつまでも降り続いていた。

ふたりは、いつも前を見ている。


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