19×17


夢を見た。
部屋の隅に蜘蛛の巣がある。
その巣の主は不在だった。
何も掛からなければいいのにと思っていた矢先に小さなモンシロチョウが掛かった。
春でもないのに珍しい獲物だ。
まあ、これは夢だから。
そう自分の夢なのだから、主の登場を自分が望まなければそれは現れないのだ。
そうして自分はその蝶を助けてやる。
……つもりだった。
ゆっくりした足取りで、それはやってきた。
空腹を満たす為に。
大きな、大きな蜘蛛だった。
自分の乏しい想像力に反してそれはあまりにも美しい。
何一つ思い通りにならない夢のマスターを嘲笑うかのように、彼は、ゆっくり獲物へと近づいて行った。



ゾロは顔に当たった滴で目が覚めた。
はっとして身体を起こす。
夢で見ていた方向はどっちだっただろう。
外気温が下がったようで、我知らず身震いをした。
見上げたそこは真っ黒な空と、今までそこに居なかった筈の、心配そうに覗き込むルフィの顔……。
息が白い。
「ルフィ?」
今しがた頬に当たったのは……ルフィの涙、か?
ゾロは自分の頬の濡れた感触を手で撫でてみる。
目の前のルフィは、しかし「ししし」と笑った。
なんだ、笑ってる……。
取り敢えずゾロは胸を撫で下ろした。
「よかった。目開いた」
ルフィがホッとしたようにそう言った。一体何をそんなに心配したのやら、不思議に思うも、もし本当にそうなら落ち着かない。
改めてルフィを見てみれば、手には何やら持っていた。酒瓶と、あとは茶色い紙袋を二つ。
……酒?
「もしかして今の……」
「呼んでも起きねェから、酒掛けた」
嬉しそうに言うルフィに、ゾロは微かに頭痛を覚えた。
やはり自分の思い過ごしか……。でもまあそれならよかった。船長が自分のために泣くなど、あってはならないのだから。そんなのは“あの時”だけで充分――ゾロがただ一度だけ敗けた、あの瞬間のみで。
「で、何でここにいるんだ」
今ゾロは夜中のワッチで、見張りの為にマストの上の見張り台にいる。(寝ていたが……)
まだルフィの番ではないはずだ。
「昼間にな、小麦粉が余ったからってサンジがおやつ作ってくれたんだ。みんなの分。ゾロ寝てただろ?」
そう言って手に大事に持っていた袋の一つをゾロへと手渡した。どうやらもう一つは自分の分らしい。
「へえ……。それをわざわざ?」
「おう! 一緒に食べようと思ってな!」
「夜中にか?」
ゾロはそんなルフィがおかしくて吹き出した。
「夜中起きてると腹減るんだぞ。知らねェのか?」
ルフィは寒さで赤みが差した頬をぷくっと膨らませて自分の正当性を訴えるのだが、やっぱりおかしくてゾロは笑ってしまう。
「笑うな!」
さらに膨らんだ頬でルフィがジタバタ暴れるので、見張り台の底が抜けはしないかとゾロは心配になった。
「悪い」と素直に謝って、彼の頭をポンポンと叩く。どうやら麦わらは置いてきたらしい。
「昼間食べなかったのか?」
「うん」
さっそく袋を開け始めているルフィはそれ以上その理由には触れようとしないので、ゾロもあえて聞く事はやめた。
ルフィがそうしたいならそれでいいのだ。以前からずっとそうだった。
ゾロは、ルフィが好きだった。いつからだったかはよく覚えていない。寧ろ解らない。この感情がどういうものなのか、恋愛に疎いゾロには時間がかかったからだ。
今ではよく判る。この感情は肉欲を伴っていて、でもだからといって自分から伝えることも嗾けることもない。
それがゾロだった。
そう、けれどあの夢の中の蜘蛛のように、ただその獲物が掛かったならば……もう欲望を止めることはできないだろうけれど。
「美味そうだろ! ゾロも食えよ」
ルフィは足下にそれを広げ、ゾロにもそうするように急かした。
ゾロは別に腹は減ってないのだが、と苦笑しながらも言われた通りにする。
袋の中のそれは、縦横斜めに均等に網目になったクッキーだった。
ゾロは滅多にお菓子の類を食べないし欲しいとも思わないが、おいしそうに食べるルフィを見ているととてもそんなことは言えやしない。一つ手に取ると、しばし見つめた。
何かに、似ている。
それはあの夢の蜘蛛の巣だった。
そんなことを言ったら作ってくれたサンジには申し訳ないが、何となくゾロはそう思いながらそれでも一口食べた。
手作り特有の香ばしい味が口に広がる。ゾロの想像に反して、それはとても美味だった。
「な、美味いだろ」
「ああ」
素直に頷いてルフィに微笑む。ルフィは更に嬉しそうに、にぱっと笑った。
寒くて暗いはずなのにゾロには何故か、そんなルフィの表情がよく見えた。
「うまかった! ごちそーさん!」
ルフィはあっという間に平らげると口元をぐいっと腕で拭った。
「食べて良いぞ」
催促される前にゾロが自分の分を差し出す。
おおかたゾロには察しがついた。余り物を貰えるのはゾロしかいないのだ。そんなところだろう。
「いいのか! サンキュー!」
もちろんルフィが遠慮する筈もなく。
「いいやつだなあ、ゾロは!」
「いいから零さずに食え」
「うぐ」
大きく頷いたルフィが慌てて手のひらで口を覆っている。
そんな無理に飲み込まなくてもいいのに……、とゾロはまた吹き出しそうになりながら、あっという間に取り残された袋を丸めた。
「自分の飲みもん持って来なかったのか」
ルフィが持参してきたそれが、ゾロがいつも好んで飲んでいる酒だったのでそう尋ねたのだ。
「うん。いいんだ、もう寝る」
ルフィのその言葉にゾロは内心ガッカリしたが、寒空にいつまでもルフィを引き留める訳にもいかず「そうか」とだけ答える。
立ち上がったルフィが躊躇いもなく背を向けたので、ゾロは意に反し、思わずその手を掴んでいた。
そして僅かに引きよせる。
「ん、なんだ? ゾロ」
「ああ、いや…」
掴んだルフィの手をどうしても離すことが出来なくて、ゾロも間持たせに立ち上がった。
「わざわざ、悪かったな……」
本当はそんなこと言いたい訳ではなかったのだが……。
「おう!」
嬉しそうににっこりと、ルフィが笑った。
その笑顔が好きなのだと、ゾロは改めて思う。
「もう少し、話さねェか」
何を言ってるんだ、と思わず自問自答する。嘘だと言うんだ。抑えが利かなくなる前に。
「いいぞ、ゾロは特別だからな!」
え……?
聞き慣れないその言葉にゾロは呆然とした。――聞き間違いか?
なんと言っていいかわからず立ちつくしていると、ルフィが不思議そうな顔をしてゾロの顔を覗き込んできた。
大きな黒い目が、じっとゾロを見つめる。
「ほんとだぞ。すごいこと発見したんだ」
ルフィはすぐに破顔してそう言ったが、ゾロの頭の中には先ほどの二文字が幾重にも交差していて、結果掴んだ指先に力を込めることになってしまう。
「じゃあ……」
「ん? 何?」
「その特別っていうのは、つまり……」
「?」
的を射ないルフィがゾロに瞬きをして、首を90度傾けた。そんなに傾けなくても、と思いつつゾロはルフィの顔を挟んで元の位置に戻し、。
「例えば……」
そう呟き、ルフィの肩をそっと掴むと、ゾロはつと自分の方へその細っこい身体を引き寄せた。
腕を回し、きつく背を抱き締める。
……抱き締めてしまった。
ゾロは自分の苦しい心臓に今さらながら気が付いた。
「なんだなんだ」
ルフィが素直な感想を述べる。
当惑しているルフィを余所に、ゾロはルフィの細い腰から脇腹へと手を這わせてみた。思ったよりずっと細い、ルフィの身体に少し驚きながら。
「ぶっ。ぶはははははは! くすぐってェ!」
途端、ルフィが身を捩ってゾロの肩をバンバン叩くので、ゾロはもう一度きつく抱き直した。
「特別って言うのは、こういうことしていいってことか?」
冷たくなっているルフィの黒髪に頬をつけて問えば。
ちょっと考えている風のルフィが、大人しくなってゾロを見上げた。
「んー……。わかんねェけど、何か違うぞ」
「ち、違うのか!?」
「おう」
焦るゾロにルフィは何故か偉そうに言って、両手でゾロの胸を押し返してきた。ゾロがはっとして腕の力を緩める。違うと言うことはとんでもないことをしてしまったのではないか、と滅茶苦茶に後悔した。
「悪い……」
律儀に頭を下げ、ポリポリ頭を掻く。
怒っただろうか……。心配になって、ちらっとルフィを見た。
背を向けてしまったルフィの表情は、背後のゾロからではよくわからなかったのだけれど。
「おれ、寝る」
「ああ……」
そのままルフィはマストをするすると降りて、急ぎ足で去っていった。
その背を見守りながら、ゾロは一つ溜息を吐く。
蜘蛛の巣に掛かった蝶をみすみす取り逃がした間抜けな蜘蛛のようだ、と思った。
鈍感なルフィのことだからどこまで気付いたかはわからない、けど、嫌われたかもしれない。
自分とは意味が違うにしろ、せっかく特別だと言ってくれたのに。
明日謝ろう……そう誓って、ゾロは大きな溜息を吐いた。





朝方、あの夢の続きを見た。
大きくて足の長い蜘蛛は着実にその獲物へと歩を進めていく。
蝶の小さな白い羽の真ん中には黒い点がひとつあって、それがとてもよく見える。
パタパタパタと緊迫感あふれる音を立てながら羽を動かし続けているのになぜかと言えば、片羽を捕らわれ身動きが取れないからだ。
今度こそゾロは助けなければと立ち上がって部屋の隅に向かおうとした。が、どうも上手く足が前へ出ない。
時として夢ではそうだ。
いっそ蜘蛛の方が速くて、苛々する。
「畜生」、と、ゾロは苦々しく呟いた。


チャンスは極めてなかった。
昨夜の事をどうしても謝りたかったのに。否、言い訳をしたかったのかもしれない。
船長の周りには必ず誰かしらいて、二人きりになれないのだ。
しかし内心ほっとしている自分も居てゾロはうんざりする。
二人きりになったらまた何をするか判らない。
今も、ゾロ以外は食堂でだべっているらしい。ようするに暇なのだ。
呼び出すか……。ゾロは最後の手段を思いついた。
しかしそんなことをしたらもれなく、その他一同が覗きに来るのは必至だ。
ルフィが一人になるところと言えばそう、この船首の羊の頭……。
ゾロはその時を待つことにした。

待つこと半日。
パタパタと音が聞こえる。それは現実だったのだが、何かに似ていてゾロは夢と現実の境を無くした。
羊の真下に凭れて寝ていたゾロは、近づいてきたその音が足音であると気付きはっと顔を上げる。
案の定、ルフィがこちらへとやってきた。
「ゾローッ! 飯だぞ~」
なんだもうそんな時間だったのか……。
「……ああ」
ゾロは一つ欠伸をして、立ち上がると伸びをした。
早く早くとルフィがゾロのはらまきを引っ張って急かす。
ゾロはこれはチャンスなのかもしれない、と思いルフィの腕を掴もうとして、けれど柄にもなく躊躇った。
嫌な顔をされたらどうしようと思ったのだ。
それこそ柄ではないが、食事に行くところを引き留めたからとかではなく昨夜の事を思い出してルフィが不快に感じるのではないか、そう考え始めると躊躇してしまい……。
そんなことをしている間にルフィはあっという間にいなくなってしまった。
どこまでも間抜けで頭が痛くなる。
ゾロは本日何度目かの溜息を吐きつつ、その場を後にした。

思いも寄らぬ時にルフィの言う「特別」の意味をゾロは知った。
昼食の時間、ウソップが自作の武器についての説明を皮切りに、乗組員個々の戦闘能力についての彼なりの持論が始まったのだ。
それがルフィに至ったときだった。
「ルフィは打撃に対して痛みを感じないのが実は最大の能力なんだ」
とウソップが長い鼻を更に長くして言った。
「あら、伸びる事じゃないの?」
とそれにナミが反論する。
「ちちちっ。伸びるからこそなんだ。例えば水面だって距離があるところからぶつかればコンクリートの堅さになる。つまりルフィの腕が伸びれば伸びるほどその拳が与える打撃力は威力を増す。だからその拳が受ける痛みも本当は普通にパンチしたときの何倍もの痛みを伴うはずなんだ。ところがルフィはその痛みを感じないときた!」
どうだ、まいったかと言わんばかりにウソップがテーブルをダンと叩いた。
「なるほど~」
一同が感嘆の声をあげるのを、ウソップは気持ちよくなって聞いた。
「おれ様はいつも物理的に計算した上で新しい弾の作成に心がけているわけよ」
えっへん、とウソップが胸を張るので、「それはどうかしら」とナミがちゃかす。それに続いてサンジが「ナミさんのおっしゃる通りだ」と頷くので、「なにーっ」と反発したウソップが逆にサンジから蹴りを食らった。
当のルフィはケラケラ笑ってテーブルをバンバン叩いていたのだが、何かを思いついたのか、パンと手を打った。
「あのなあのな。おれ、発見したんだ」
そう言えば昨日もそんな事を言っていたような、とゾロは思い返すも、それどころではなかったのではっきりと思い出せない。
「なになに?」
ナミが興味津々、身を乗り出した。
実は皮肉にも、それがゾロの知りたかったルフィの「特別」の意味だったのだ。
つまりはこういうこと。

ナミの棒に殴られる→痛くない
サンジの蹴りを食らう→痛くない
ウソップの鉛星を受ける→痛くない
ゾロの刀で斬られる→血が出るから痛い
よってゾロは「特別」である。

ゾロはあまりの自分の勘違いとルフィの突飛もない発想に目眩がした。
思わずこめかみに手を添えるが、同時にルフィらしくて笑いが込み上げてくる。
一同も一瞬だからどうしたと言いたくなったのだが、それならルフィとゾロどっちが強いのか、という論議に話は発展していった。
「うーん……。今夜は眠れないぜ」
そうウソップが冗談めかしていうので一同がどっと笑う。
「ゾロはどっちが強いと思ってんの?」
ナミが始終沈黙を守っているゾロに訊いた。
「さあ、どっちだろうな」
ゾロはそんなものはその時になってみないとわからないもんだ、とニヤリ笑うに留めておき、同じ問いをルフィにも振ってみた。
「前に本気で殺そうと思ったんだけどな、おれの早とちりでやめたからよくわかんねェ」
しかしなんでもないことのようにさらっとルフィは言ってのけ、「答えになってないわ」とナミに肩を竦められる。
「そうだ、だからな、ゾロ!」
「あ?」
その時は何がだからなのかゾロには判らなかったが、後に続くルフィの台詞に、ゾロは大慌てすることになったのだった。
「ゾロが昨日おれにぎゅうってしたけど、あれはだから違うって……」
「ルフィ! ちょっと待て、わかった、外で話そう、なっ」
慌ててルフィの口を手で塞ぐが勘の良いナミはすでに好奇の目だ。しまった……。
「ぎゅうって? 何の事かしら、ゾロ?」
「何のことだ?」
サンジとウソップには幸いにも聞き取れなかったらしい。
腕組みをして不適な笑みを讃えているナミに、この魔女め……と捨て台詞を吐いて、ゾロはルフィと共にその場を後にした。


「昨日は、すまなかった……」
まともに顔を合わせられない自分を情けないと知りつつも、ゾロはルフィに背を向けたままそう告げた。
とりあえず謝る事が出来たことに安堵する。それにしても慣れないのだ、こういうことは。
手すりに手を掛け、ゾロは遠く水平線を見つめた。
「なにが?」
当のルフィはなんのてらいもなくゾロの真横に来て、そんなゾロの顔を覗き込もうとするので、ゾロは次に海からも目を背けなければならなくなった。
「だから、その……。だ、抱き締めたこと……」
「抱き締めた? あー、そうか。あれは抱き締めたのか!」
「んな何回も言うな !!」
くるりと身体を反転させて思わずルフィに抗議する。
「やっとこっち見たな」
にしししと笑ってルフィが言うのに、ゾロはしまった……と頭を抱えた。
捕まったのは、自分の方か――。
ゾロは今頃になってあの夢の続きを思い出していた。
蝶に触れようとした瞬間、どういうわけか蝶は逃げ出した。代わりに自分の指に絡まるあの、糸の感触……。
指に絡まる白いそれは、容易に取れることはなかった。
ただ小さな蝶がいつまでも自分の周りに舞っていたのを憶えている。
それは自分を嘲笑っているのか、叱っているのか、怒っているのか……ゾロに判るはずもなかった。
ゾロにはルフィが何を思っているのか、解らないのだ。
ルフィの大きな目は躊躇い無くゾロを捕らえて離さないのに。
視線を、逸らさなければ。そう思ったが上手く行かず、ゾロは頬が熱くなるのを感じた。
かっこわりィ……。
「ゾロ真っ赤だぞ。どっか痛いのか?」
そう言って頬に伸びてきたルフィの手を、ゾロはやんわりと払った。
目を見れないならいっそ見れなくしてしまおう。ルフィに一歩近づき、その細い身体を抱き竦める。
そしてぎゅうっと、ありったけの力を込めた。
「ゾロ?」
苦しいのかルフィはちょっと身じろいだけれど、すぐに大人しくなった。
「もうしねェから」
言葉とは裏腹に緩まないゾロの腕は、いつまでもルフィを困惑させていた。


その後、ルフィの腹の虫をきっかけに身体を離した後、ルフィがゾロに背を向けて言った。
「昨日な、あの後、顔が熱かったんだ。なんか、今も熱ィかも」
そう言うとルフィはそのまま駆け出して行ったので、結局またゾロはルフィの表情を見ることはなかったけれど。
でも、今はそれでいい……。

ゾロがあの夢の続きを見る事は、もうなかった。


END
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