19×17





「うわあああああぁぁぁぁぁぁあ!!!!」


朝一番、ゴーイング・メリー号にけたたましく響いたその叫び声は、乗組員一同を起こすには充分なほどの音量だった。
「な、何!? 今の声!」
本船の航海士ナミはビックリして飛び起き、夢ではなかったかと自分に再確認してみる。
「間違いないわ、食堂からね!」
声の発信元まで割り出すとすぐに着替えを済ませ、部屋を飛び出した。



「なんだよ、朝っぱらからうるせェぞ。クソコック!」
たまたま甲板で寝ていたゾロが距離的に一番に到着し、その叫び声の主に一番に抗議することが出来た。
いつもなら間髪入れずに言い返してくるはずのサンジの言葉が発せられることはなく、代わりに震える彼の人差し指が見える。
それは真っ直ぐにテーブルの上を指していた。
さすがにそれ以上の悪態も忘れ、ゾロもそのテーブルの上の物体に目を向ける。
ゾロはしばらくそれが何であるのか答えが見つからなかった。
そうしてる間にもナミ、ウソップと船員が集結し、彼らの悲鳴でゾロははっと我に返ったのだ。
「何で、赤ちゃんがいるの……」
正真正銘の正答を言ってのけたのはナミで。
やはり女は現実的だ……。
などとゾロが変な感心をしていると、ナミは早くも行動を起こし、バスタオルにくるまれた赤ん坊を抱き上げた。
「すやすや眠っちゃって。かわいいわね!」
なんてもう余裕の表情まで見せている。
「ナミしゃん! マリア様のようだ!」
的の外れたラブコックにはすでに赤ん坊のことなど眼中にないらしく、目からハートを飛ばして二人の周りをくるくると回る始末だ。
「あら、ありがと、サンジくん」
「で、どっから来たんだよ、こいつ」
ウソップが触らぬ神に祟りなしとでも言うようにナミの腕の中のベビーを指さす。
「あ、先に言っておくけど私、面倒なんか見れないから」
きっぱりと言ったのは他でもない、本船で唯一の女性であるナミで、みんなに「オイ!」とツッコまれるが素知らぬ顔。
「仕方ないじゃない! ずっと魚人とこで海図描いてるか海賊から宝盗んでたんだもの!」
おっしゃるとおりで、と一同は口を噤む。
「おれは姫君の相手しかできねェぜ。後はじじぃとイカ野郎共くらいだ」
サンジが大人の中で育った事実はあの海上レストラン「バラティエ」のメンバーを見れば一目瞭然というもの。
「おれはガキの相手しかしたことねェからなぁ」
うーんとウソップが指を顎に当てて考え込んだ。そして「嘘ついてもわかんねェし」と繋いで「つくな!」と一同にツッコまれている。
結局ウソップは何かあっても嘘で誤魔化してしまいそうだということで、却下された。
「残るは……」
ナミのセリフに一同が揃ってゾロに振り返った。
「何だよ……」
間違いなく嫌な予感がする……。とゾロは背中に冷たい汗が伝うのを感じる。
「任せたわ!」
ひょいと赤ん坊がゾロの腕の中に移動してきた。
「ちょ、ちょっと待て! まだ居るだろう!」
ゾロが慌てて唯一の逃げ道に気付いて声を上げた。
「そういやルフィがいねェ」
ゾロの次に気付いたのはサンジだった。
「あら、そういえば忘れてたわ。何故かしら」
いつもなら居なければ一番に解る相手なのに。
その時当の赤ん坊が一声泣いたので、全員の注意は一斉にそちらへ向けられた。
「起きた……」
ゾロが言うと同時にぱっちりと赤ん坊は目を開けたが、光が眩しかったのか両手でしばらく目を擦った後またぱっちりと開けた。
一同、息を呑んで赤ん坊のその目を覗き込む。
「このおっきな点目…………」
「ルフィ!?」
「そういえば目の下に傷が……」
「うお! デンジャラス!!」
みんな口々に言い合った後またしん……となった。
銘々がちらちらとお互いの様子を伺いながら、この結論が間違ってないことを目と目で確認し合う。
「ルフィ、だよな、この子」
確信を込めた結論をウソップが述べる。
「間違いないわ」
ナミも神妙な顔で頷いた。
「ナミさんが仰るのだから間違いねェ」
うんうん、とサンジが顔を縦に振った。ついでに腕を引っ張って伸びることまで確認したので、これはもう疑いようがない。
ゾロはこの小さなルフィを覗き込んで、まじまじと見つめてみた。
目が合った途端その赤ん坊がにっ、と笑う。
「間違いねェな……」
ゾロにはその笑顔で、その赤ん坊がルフィそのものだとわかってしまったのだ。



「じゃ、頼んだわよ! ゾロ」
「は?」
ナミがにっこり笑ってゾロの肩を叩く。
「じゃあな」
続いていつの間に用意したのか綺麗に飾り付けをしたドリンクをトレイに乗せ、サンジが意気揚々と女航海士の後を追って出て行った。どうせナミの為のものだろう。
ゾロは端からサンジになど期待してはいなかったが、ああ当たり前のようにされるとムカつくなんてものではい。
後に残ったのはウソップだが、ゾロと目が合った途端「うっ!」と胸を押さえてうずくまった。
「急に赤ちゃんの世話をしてはいけない病が!!」
「…………いいよ、行けよ」
ゾロは深く重い溜息を吐いて顎で出口を指した。
「……悪ィな。なんかここでゾロの手伝いした日にゃ、ナミに裏切り者扱いされてとんでもない目に遭わされそうでよ」
もちろんその気持ちが解るゾロは何も言わずもう一度顎でしゃくる。
すごすご退散するウソップの後ろ姿を見送りながら、ゾロはさてどうしたのもかと現実を見つめるところから始めた。
さっきからタオルの端をちゅぱちゅぱ吸っているルフィがお腹を空かせているのだと察したが、一体何を食べさせればいいのか。
「待てよ、ミルクを飲ませるんじゃねェのか?」
ゾロは一人言を呟きながらルフィを縦抱きして冷蔵庫を開ける。当然あるのは、牛乳。
「まあいいか、これで」
ルフィだしな、と変な納得をして牛乳パックを取り出すとコップに移した。
そしてまたはたっとする。
「ほ乳瓶てヤツががねェ」
有るはずもなかった。
ゾロは長椅子に腰掛けるとまたルフィの顔を覗き込む。
するとルフィは吸っていたタオルを口から離し、口をパクパクさせた。しかしその意図がわからなくて首を傾げていると、途端にルフィは火が着いたように泣き始めたのだ。
気に入らなければ泣く。赤ん坊の専売特許だ。
これにはゾロも参って慌てて立ち上がると「よしよし」とルフィをあやしにかかった。
いっこうに泣きやまないルフィにゾロは一体自分は何をやっているのだろうか、とふと我に返って落ち込む。
頭まで痛くなってきた。
「未来の大剣豪ともあろうものが……」
自分を追い込むようなことを言ってみる。
涙が浮かびそうになりながらゾロは半ばやけくそでミルクを口に含んで泣くルフィの口に流し込んだ。
途端に大人しくなったルフィがゾロの唇を吸い始める。
ちゅぱちゅぱと、零しながらではあるがルフィは思いの外上手にゾロからのミルクを飲んでくれた。
口の中のミルクがなくなるとまた泣くのではないかとゾロは思い、間髪入れずに口移しの行為を続ける。
幸い機嫌も直ったらしい。
次第にゾロにも余裕が出てきて、この現状を客観的に見れるまでになった。
や、柔らけェ……。
不謹慎にもルフィの唇の感想をそんな風に感じながら、思わず堪能してしまう。
ちゅうちゅうと器用に舌に舌をを巻き付けられてゾロは赤ん坊相手に暴走しそうな自分を抑えるのに必死だった。
赤ん坊と言っても相手は自分がいつも欲情を押さえ込んでいる当のルフィだ。
修行が足りねェな……、と自分を叱咤する。赤ん坊相手にいくらなんでも情けなさ過ぎる。
しかしそんな行為もコップ3杯目に突入すると舌も麻痺してどうでもよくなってきた。
無理な体勢で腰まで痛くなってくる。
「しゅ、修行が足りねェ……」
だんだん息まで上がってきて今度ばかりはルフィの底なしの胃袋を呪った。
いつもなら、ルフィの豪快な食べっぷりは見てるだけで幸せになるゾロなのだが……(もちろん顔には出さない)。
「もう、これで最後だからな!」
言っても解らない赤ん坊にそう言い聞かせると、ゾロは再び唇を合わせた。
バタンッ!
勢いよく開けられた扉の向こうにはトレイを片手に持ったサンジが。しかしその上に乗った空のグラスは音もなく落ちて割れた。
ついでにトレイも落ちる。
ゾロは慌ててルフィから唇を離したが、時既に遅し。
「ちょっと待て、話を聞け!」
間違いなくナミに報告しに行くと踏んだゾロは先手を打って制止の言葉を掛けたつもりだったが、こちらもまた時既に遅し。
ゾロの伸ばした手も虚しく、その扉の脇にもうサンジの姿はなかったのだった……。



その後、さんざん変態扱いされたゾロが「だったらこの役降りる!」と言った訴えは難なく却下され、これは見物とばかりノリにノったナミがルフィの世話役を続行することを何の権限があるのか命じ、ゾロは否応もなく黙らされた。
当の赤ん坊ルフィはというと、ゾロの袖を掴んだまますやすやとまた眠りの淵へと落ちていて、そんな寝顔を見ながら、ゾロはこっそり笑みを漏らす他なかった。








赤ちゃんに夜泣きはつきものである。


結果、翌日の朝っぱらから男部屋を追い出されたゾロは、母の偉大さを痛感しながらもとりあえずベビールフィと共に倉庫へ移動した。
どうやらルフィは夜泣きのピークの頃らしく、2時間おきに起き出しては泣きながらよたよたと這い回るのだ。サンジが「夢遊病じゃねェのか?」と言ったが、ちょっとやそっとで起きることのないゾロは、一緒に床で寝ていたにもかかわらずそんなルフィの様子を実は見ていない。
ようするに夜中はサンジとウソップが交代で起きて寝かしつけたらしいのだ。
で、結局朝一番叩き起こされたゾロはルフィと共に追い出された、というわけである。
だいたい、子守を押しつけておいて「お前が悪い」とは酷い言い種だ。とゾロは思わなくもなかったが、なんだかルフィが自分の面倒を見ろと言っているような気がして結局強くは出られないのが現状だった。
倉庫にある予備のマットを引っ張り出し、まだ寝ているルフィを寝かせると毛布を掛け、その横にゾロは添い寝した。
すぐにうとうととしてくるが、ゾロは昨日の大変さを思い出す。
結局「ゾロのミルクの飲ませ方は異常!」とのレッテルを貼られたゾロが何も言い返すことができずに黙っていたら、サンジが調理用のガーゼをビニル袋に入れ、その中にミルクを入れて袋の端に小さな穴を開けるとそれはちょっとしたほ乳瓶代わりになった。
思わずゾロは調理人の発想の転換に、不覚にも感心してしまったくらいだ。
おむつも、ウソップが器用に巻き方をあみ出してくれてなんとか形になったし、服はゾロのTシャツをあちこち輪ゴムで縛って無理矢理着せた。
何もかもあり合わせだったが、ルフィはくるくるとよく笑っていて満足そうだったので、ゾロはもくもくと世話を続けたのだった。
ゾロが眠りに落ちようとした時、ルフィがいきなり泣き出した。
「うお、びっくりした。もう朝だから夜泣きじゃねェよな」
ゾロはのろのろと起きあがるとまずはおむつを取り替えることにした。
ガーゼは幾分湿っていて、これがサンジやウソップだったら絶対やらねェ、とゾロは思う。
そして想像してしまったことを思わず後悔しながらゾロが濡れタオルで綺麗にしてやっているときだった。
ピュ―――――ッ!
「うおおおぉぉぉ!!!」
見事な弧を描いてゾロに向かってきたその液体がルフィのお○っこであることに気付くには、そう時間はかからなかった。
こんなこともあるさ……。



「よう、来る頃だと思ったぜ」
朝飯の準備を始めていたらしいサンジが手を止めてゾロを振り返った。
サンジはゾロの腕の中のベビールフィを認め、「ほらよ」と袋を差し出す。ミルクの準備をしておいてくれたらしい。
「人肌に温めておいてやったから」
それだけ言ってまた元の作業に戻ってしまう。
「ああ……」
ありがとうと言いたいのになんだか口惜しくて出てこない。
やっぱり修行不足だな、とまたゾロは自嘲しながら思った。
長椅子に座ってルフィにミルクを吸わせていると、ナミが入ってきた。
「おはよう! あらゾロ、早いじゃない」
しかしナミがゾロの目線を辿って「ああそっか」と納得したように頷いて隣へ座る。
「おはようございます、ナミさん! 今すぐ愛の朝食をご用意します!」
相変わらずのラブコックぶりでサンジが手を早めた。
「ん、そうして!」
サンジにそう言うもののナミの視線はルフィに釘付けで、つんつんとほっぺを突いてみたりしている。
「かっわいい~! 面倒を持ってこないルフィってのもたまにはいいわね!」
この事態がゾロにとっては既に面倒なのだが……、と抗議したかったがやめた。お○っこまでかけられた後ではもう何も言う気が起こらない。
「って、戯れてる場合じゃなかったわ。ゾロ、あんた昨日お風呂入った!?」
「……入ってねェ」
「やっぱり……」
烈火のような形相をしていたナミが途端に項垂れた。と思ったらまたすぐ復活してゾロを睨み付ける。
「今すぐ入ってらっしゃい! バスにお湯溜めて来たから!」
用意周到、これを伝えるのが本来の目的だったらしい。
「赤ちゃんは清潔にしておかないと駄目なのよ!」
そういうならお前入れろ、と言いたかったが落とされたり溺れさせられたりしたら堪らない、と思い直してゾロは一つ溜息を吐いた。
「飯は……」
「後!」
やはり……。触らぬナミに祟りなしという言葉もある(麦わらの一味にのみだが)。さっそくゾロは立ち上がったのだった。



湯の温度は適温だった。熱くもないしぬるくもない。
なんのかんの言っても結構助けられてるのかも知れない、とゾロは今更ながらに思ったりしてみた。
きっとルフィの為なのだろう。自分のためではない、ゾロは素直にそう思う。
現に今の自分だってルフィのために奮闘しているに違いないのだから。
ゾロは自然と笑みを零しながら自分が先に服を脱いで、ルフィの服を脱がしにかかった。
そういやルフィと風呂に入るのは初めてだな……。これが一緒に入った内に入るのかどうかは謎だが、ゾロは心なしかドキドキしてくるのを感じて焦った。
改めて自分がルフィに邪な心を抱いていることを再確認してしまう。
「バカか、おれは……」
そんな考えから来る動悸を無視しよう試みるが上手くいかない。
違うはずだ。この気持ちは欲望だけではない、もっと深い何かがあるはず……。
しかし目に飛び込んできた肌は紛れもなくルフィのもので。
相手がルフィだとこんな乳児の姿をしていても興奮してしまうのかと、ゾロは絶望するしかなかった。なるべくルフィを見ないようにして湯船に浸かるが、手が触れているルフィの肌があまりにも柔らかくて目眩がする。
元のルフィもこんなに柔らかいのだろうか……。
ふと本来のルフィの姿が目の前にちらついた。なんだか懐かしいような気さえする。
ルフィの長い手足はそれでも大人のものではない。ましてこんな子供のものでも。その曖昧さがゾロを引きつけるのか。
無邪気に手でお湯をぱちゃぱちゃ叩いているルフィを見て、ゾロは微笑む。こんなとこはちっとも元と変わらない。
どんな姿になってもルフィはルフィで、それがこんな錯覚を生んでいるのだろうと思った。
体を洗ってやると、じたばた暴れて大変だった。力の入れ具合も難しいし、頭に至ってはどうやって湯をかけたものかと思案してシャワーで流すことに成功した。
再び湯に浸かった時にはすでにゾロはくたくただった。
頭がボーっとして、これは湯当たりに似ていると思う。
そのせいだろうか、なんとなくゾロはルフィの二の腕に触れてみた。相変わらずルフィはあちこち触りたがってじたばたしている。
しかしゾロは次に背中、お尻、太股に触れてみる。
すべすべしていて驚くほど瑞々しい。変な感情抜きにして、赤ん坊の肌の真新しさに感動してしまった。
お腹を触るとくすぐったいのかルフィがきゃっきゃと笑う。
ついおもしろくなって足の裏をくすぐって更に笑わせてやりながら、なかなかおもしろい遊びを発見したものだとそれに没頭してしまって、上がった頃には本当に二人して湯当たりしていたのだった。



それから夜までゾロは熱心にルフィの世話をし、いつの間にか口を挟む者はいなくなっていた。
天気が良いので甲板を一緒に散歩したり、遊んでやったり。サンジの作ってくれた離乳食というやつを食べさせたり。
洗濯をしたいからとルフィをウソップに預けたが、ゾロの姿が見えなくなってすぐルフィが大泣きして大暴れしたらしくすぐに返却された。結局おんぶして洗濯をするハメになり、こんな所をヨサクとジョニーに見られた日には幻滅され大泣きされるだろうってなエピソードができてしまったほどだ。
こんな毎日がいつまで続くのか、ゾロはいつの間にか考えなくなっていた。
もしこのままなら、ルフィが海賊王になるまで育てるまでだ。
そして自分は大剣豪になり、傍らでこいつを守り続けてみせる。
ごく自然にそこまでの決意をしていた。

就寝前、ゾロは倉庫の一角で添い寝をしながら眠るルフィの寝顔を眺めてみた。まるいおでこを撫で、そっと頬を寄せて目を閉じる。
その夜中、息苦しさに目を覚まして口と鼻の上に乗っかっている物体を掴んで持ち上げ、急いで呼吸した。
「ぷはーっ!」
なんだ? と思って掴んだものを見てみると、それは紛れもなく人の腕だった。
ベビールフィの腕にしては太い……。ゾロは首を捩って横を見てみる。
「ル……!」
ルフィと叫ぼうと思って寸での所で自分の口を塞いだ。
横で寝ているのは見間違えようもない、元のサイズに戻ったルフィだったのだ。
体ごとこっちに向けているルフィの規則正しい寝息が聞こえて、ゾロはルフィの腕を傍らへ置いた。
ルフィの背中から向こうにはおむつにしていたガーゼと輪ゴム。元に戻って窮屈なので無意識に自分で取ったのだろう。
ちょっと待て。ということは……。
当然このTシャツの下は何も身に付けていない、ということになる。
ゾロはそーっと視線を下へ下ろしてみた。が、ゾロの期待にそぐわず、Tシャツとルフィの足とで見ることはできない。なにを、とは言わずもがな。
残念なような、ホッとしたような複雑な心境で、ゾロは静かに息を吐いた。
「何を考えてんだ、おれは……」
しかしシャツから覗く肌が窓から差し込んでくる月明かりに照らし出されて、益々ゾロを妙な気分にさせた。
ゾロは今にもルフィを抱き締めてしまいそうな自分を抑え込み寝返って背中を向けた。
まさか元に戻っていやがるなんて……。反則も良いところだ。
熱をやりすごそうとぎゅっと目を瞑ったゾロの後ろでルフィがごそごそと身じろぎしたのが解った。その後起きあがったような気配がするも、なぜか身動きしなくなってしまう。
なんだろうと思って振り返ろうとした瞬間、バンバン!と腕を叩かれてゾロは驚いて飛び起きた。
「な、何もしてねェぞ!」
思わずアホな言い訳をして自分で口を塞いだ。
「ゾロ!」
「なんだよ……」
怒ったような顔のルフィに気圧されて、ゾロは弱々しく返事をしたものの、ルフィに胸ぐらを捕まれマットに共倒れさせられて何がなんだか解らなくなった。
しかもそのままルフィはゾロの腕を枕にすやすやとまた眠ってしまったのだ。
どうやら元に戻った自覚がないままの、夜泣きのようなものらしいとゾロは推測する。
赤ん坊が泣かずに喋れたらこんな風なのだろう。
ゾロはクスリと笑って、ルフィの背中をポンポン叩いた。そのあやす様な振動にルフィはゾロの胸に頬をすり寄せ、ようやく落ち着いたように深い眠りへと落ちていった。
ゾロもルフィと一緒に毛布を被り、こんどこそ目を閉じる。
安眠は、すぐにやってきた。



今夜だけは、まだこのルフィはおれだけのものだ。
そう、短い時間だったが確かにルフィはゾロのものだった。
この現象を一番喜んでいたのは、本当は他の誰でもない自分だったのではないかとそんなことを考えながら、ゾロは眠りに落ちていった。
こうしてゾロの、長い長い2日間は幕を閉じたのだった。








「とにかく元に戻ってよかったわ!」
ホッと胸を撫で下ろしたのはゾロに世話役を押しつけた当の本人ナミだった。
「そうだな。ルフィがあのままだったらグランドラインもくそもないもんなぁ」
長い鼻を掻きながらウソップが頷く。
「どうぞナミさん。サンジ特製のメロリンラブチョコサンデーですぅ!」
そう言ってコックが差し出したのはいかにも乙女チックなデコレーションが施されたスイーツだった。
頃は3時、小腹が空いてくる時間帯である。
「ありがと、サンジくん」
自分だけのそれにナミが満足げに柄の長いスプーンを持ち上げる。
「それ! そのメロなんとかサンデーおれにもくれ!!」
よだれを垂らしそうな勢いで身を乗り出したのは「元に戻った」ルフィだった。
「てめェにだけは絶対食わせねェ!! 厄介ばっか起こしやがって!!」
紫煙をぷはーっとルフィに吐き出しながら言い捨てるサンジに「そうだそうだ」とウソップが同調する。
「ケホケホ。仕方ねェ、今日は宴会だ!」
ふん! と鼻息を吹いてルフィは言うと、決意を込めた拳を振り上げた。
「なんでそうなるんだ!」
当然一同がツッコミを入れる。
「知らねェのか!? 海賊は飲んで騒いで歌うんだぞ!」
「そんなこと聞いとらんわ!」
終いにはナミに頭をポカンと殴られて口を尖らせたルフィに、「仕方ないわね」と折れたのもやっぱりナミで。
結局この船長の意向には逆らえないのだから。
「やったー! サンジ肉な! “おれが戻った祝い”だからなぁ!」
そう言ってルフィはいかにもワクワクした笑顔を満面に浮かべたまま、隣のゾロに振り返った。
「な! ゾロ!!」
「あ?」
なんで“な!”なのかゾロにはよくわからなかったが、きっとこの船長に意味などないのだろうと思って適当に「そうだな」と話を合わせておくことにする。



こうして夕方からメインデッキで始まったバーベキューは、ルフィの希望通り肉だらけだった。
サンジ曰く、「腐りかけた肉があったからちょうど良かった」とのことだったが、なんのかんの言ってもルフィの希望を聞いてやるあたりナミと同レベルかも知れない。
「うんめェ~~~! サンジ生ハムメロンは!?」
「んなもんあるか!」
「ちぇ」
「ルフィ、骨つき肉が焼けたぜ! 食え!」
ウソップの声に瞬時に反応して破顔するルフィはそっちへ飛んで行った。
「ルフィ、サンジくんお手製のチョコプディングあげてもいいわよ」
「ほんとか!?」
今度はナミの所へ飛んでいく。
ゾロは離れたところからそのやりとりを見ながら酒を呷ると、小さく笑ってマストに背を預けた。
結局みんなルフィが元に戻ったことを喜んでいる。
複雑な心境のゾロは自分に嘲笑した。
昨日までずっと腕の中にいたルフィはもういない。
それでいいことを頭では解っているのに。
コップにあけるのが面倒で酒瓶に直接口を付けると酒を口に含み、胃に流し込む。素直に喜んでいない自分にゾロは心底腹が立った。
ふうと息を吐いて顔を上げると目の前にさっきまで他の連中と戯れていたはずのルフィの顔面があって、ゾロは態度には出さなかったがめちゃくちゃ驚いた。
ゾロが何も言えないでいると、ルフィが首を傾げる。
大きな黒い目はじっとゾロを見つめていて、ゾロは赤くなりそうな顔をバツが悪そうに大きな掌で隠した。
そんなゾロの様子には気にも留めず、ルフィはニッと笑うとゾロの目の前に座り込む。
「ありがとな!」
唐突にそう言うルフィの真意が知れなくてゾロは怪訝な顔になった。
なにせ自分は肉を焼いてやったわけでもチョコなんたらをやったわけでもないのだから。
そのゾロの表情に反応したルフィが、口をへの字に曲げた。
「怒ってるのか?」
俯き加減に見上げてくるルフィの言いたいことがますますわからなくてゾロは「いや?」とだけ答えた。
それでもルフィは納得できないらしく、「怒ってるんだろ!」と再び聞いてくるので、ゾロは一度ゆっくり瞬きをするときちんとルフィの目を見て「怒ってねェよ」と答えてやる。
しばらくの沈黙の後、ようやくルフィがしししと笑った。
ゾロは腕組みをして背を伸ばすと、
「笑っててもらわないと困るんだ」
と、思ってることを素直に口に出してしまい後から思いっきり後悔した。
変な意味に取られなかったろうか……。
ルフィは、慌てて目線を逸らせてしまったゾロの顔をまじまじ見て「そっか!」と嬉しそうに笑っただけで、ゾロにはルフィがどう受け取ったのかさっぱりわからない。
「ゾロには一番迷惑かけたもんなぁ」
独り言のように呟いたルフィのその言葉を理解するのに、ゾロは10秒余り掛かってしまった。
だから「な!」で「ありがとう」で「怒ってるのか」だったのだ。
「ルフィ!!」
「うわ! なんだゾロ。びっくりした」
肩を掴まれて名を叫ばれれば誰だってビックリする。ルフィは目をぱちくりさせてゾロを見た。
「憶えてるのか……」
今度は小声のゾロに、ルフィもつられて「憶えてるぞ」と答える。
ゾロは急に目の前が歪んでがっくりと肩を落とした。
そういえば、赤ん坊なのに目の下に傷もあったし、ゴムゴムの能力もそのままだった。
ルフィは本当に体が若返った“だけ”だったのだ。
「ゾロあっちこっち触るからずっげーくすぐったかったぞ!」
「ル……ッ!」
風呂での一件だろう。ゾロは他の奴らに聞かれたら堪らないとばかりにルフィの口を塞いだ。
「ふがっ」
「黙ってろ!」
小声ではあるが低くはっきりとした口調でルフィを睨み付けて言う。
「ふがふがが?」
ルフィが何か喋っているのが解って、ゾロは慌てて手を離した。
「黙ってればいいのか?」
「ああ」
「わかった! 言わねェ!」
ホッと胸を撫で下ろしているゾロにルフィが「ゾロには世話になったからな!」と続ける。
「まったくだ」とは答えたものの、ゾロは実は下心ありありでしたと言えるはずもなく、手持ち無沙汰に酒瓶を手に取ると一口呷った。
そのとき背後からナミがルフィを呼んだので、ルフィが「ん?」と顔だけ向ける。
「ところであんた、なんで夜に食堂にいたのよ」
朝サンジが発見した時、ルフィは食堂のテーブルにいたのをゾロも思い出した。
「ああ、風呂に入って喉が渇いたから水飲みに行ったんだ。そしたら眠くなったから寝た」
なんでもないことのようにルフィが言ったが、内容は本当に何でもないことだった。
「どこに原因が?」
サンジは食堂にそんな怪しい水などないことを一番よく知っているので首を捻るしかない。
「さあ……」
さすがのナミにも全く解らなかった。
「悪魔の実の副作用じゃねェのか?」
ウソップがそう言いだして、安易にも程があるもじゃあそういうことにしておこう、ということになる。
「フクサヨウ?」
ルフィが困ったちゃん眉になって首を傾げた。
「いいのよ、あんたは余計なこと考えないで」
ナミがあっさりとそう言うので、ルフィはぷぅっと頬を膨らませて「ゾロみたいなこと言うなぁ」とブツブツ言った。
ゾロはルフィのそのセリフに「何だその程度だったのか」と内心ガックリしたのだが、自分の気持ちを悟られていないことによしとした。
そしてまた酒を飲もうと手にしたそれが空で、どこまでもついてないと思う。仕方なくゾロが手近にあったコーラの瓶を手にし、口に含んだ時だった。
「あー! ゾロ! おれも飲む!」
そう叫んだのはルフィで、気付いた時には唇に暖かい感触が……。
ちゅうぅ―――――っ!!!
ルフィに思いっきり唇を吸われたのだ。
ど、どうしておれだけがこんな目に……?
やはり修行が足りないに違いない……。
ゾロはルフィの頭越しに見える大口を開けた顔面蒼白の船員達を、諦め半分で見ていたのだった。



それからさんざん「本当はルフィはこの2日間のことを憶えているのだろう」と問いつめられ、「なぜ隠してるんだ」とどんどん状況は悪い方へと移行していき、ゾロは誤魔化すのに四苦八苦した。
黙っていると言ったルフィは本当に黙ってただ笑っていて、「この悪魔の息子め……」とゾロはこっそり毒突く他なかったのだった。



(ホントに終わり)
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