21×19


控え目に開いたキッチンのドアに目を向けたコックのサンジは、テーブルを拭いていた手をとめ、船長ルフィのありえない状態に面食らった。

「ル、ルフィ!? なに泣いてんだ!?」
黄色い麦わら帽子を被ったルフィが、右のほっぺたを右の掌で押さえ、ぎゅっと瞑ったふたつの目からボロボロと涙をこぼしていたのである。
そりゃあもう、大粒の……。
「うゔ~~ゔゔゔ~~っ」
しかもずっと唸ったまんま。
サンジはルフィが頬を押さえていることから、
「誰かに殴られたのか!?」
と訊いたものの、ハタと気付いた。
ルフィはゴムゴムの実の能力者でゴム人間。つまり打撃は効かない。覇気もまとわずルフィを泣かすことができるとすれば、それは……。
「はは~ん。また何か悪さしてナミさんにどつかれたな?」
このあたりしかない。
しかし、船長はボロボロ泣きながら、
「ゔゔゔ!」
首を振ったのである。
「じゃあ誰だ?」
ウソップやチョッパーに殴られたとしても泣くほどのことではないだろう。
ようやく、ルフィがくぐもった声で答えた。
「ふっ、フランキー……」
「フランキーィ!?」
「がら落ぢでじだがんだ」
…あ?
なんだってェ??
「あ~~はいはい! フランキーから落ちて舌噛んだのか!!」
コクコクコク。ルフィが頷く。その度ポタポタ落下する涙。
なるほどなるほど、すっきり。
押さえている箇所からして結構奥の方を噛んだのか。
そりゃ痛ェわ……。人間は舌噛みきったら死ぬっつーからな。
「チョッパーに薬塗って貰えよ」
妥当な案をサンジは振ってみたが、しかしルフィがまたふりふり首を振ったのである。
ウチの船長はどんなに敵に殴られようが斬られようが、痛みくらいじゃ泣かないので、噛んだ舌はよっぽど痛かったとみえる。
「なんがのみだいんだ……」
「ああ、口ん中が血の味で気持ちワリィんだな? それでここへ来たと」
「ゔん」
コクン、正解。
「了解船長。すぐ作ってやっからもう泣くな。な?」
ふうとサンジは嘆息し、ルフィの顔へ手を伸ばすと濡れた頬を指の甲で擦った。
そしてふと、2年前の頂上決戦で兄を亡くしたルフィは一体どれほど泣いたのだろうかと想像し、ツキリと胸が痛む。
2年ぶりの笑顔の船長にみんなどれだけホッとしたか……。
ルフィには自分たち仲間がいる、そう思っていて欲しかったから。

「サンジ? …あでで」
じっと自分の顔を見つめたままのサンジを訝ってか、ルフィが頬にあるコックの手を掴んだ。
「無理してしゃべんな。晩飯は舌の傷に滲みねェようなのにしてやっから」
自分が船長のためにしてやれる中で誰にも敗けないこと、それが世界一の料理をたらふく食わせてやることだけである限り、全力でサポートすると誓った。
この深海旅行がいつまで続くかは知らないが、さっきも変なのを捕まえたばかりだし、いつ何が起こっても不思議ではない。
陽を浴びられない分の栄養配分は~…などとサンジが考えていたら、いつの間にかルフィの涙は止まっていた。
つーか、こうやって男の顔なら見てられるし、触れんのになぁ……。
目下サンジ最大の悩みはそこである。この女性免疫不全は一体いつ回復するのやら。
トホホ~~。
「サンジもしかして元気ねェ? 血ィ足りねェ??」
「いや大丈夫だ。あ~あ~早くこんな風にナミさんの顔をじっくり眺めて、あわよくば触ったりなんかしてェなァ~~!」
そんでもってあーんなことやこーんなことを……!!
あぁああんナミすわぁぁあん!!!

「…ンジ! サンジってば!! なんだよさっきからっ、やめろよ!!」
「は!?」
どうやら無意識にのうちルフィのほっぺをなでなでしてニヤニヤしていたらしい。ルフィが思いっきり嫌がっている。眉間にしわを寄せ、両手をぺっぺっと払われ。て、そんな嫌がらなくても……。
「ルフィすまねェ、トリップしてたみてェだ……。ヂ、ヂグジョー!! つーかルフィ! おれの免疫が切れてるからってナミさんに近づくんじゃねェぞ!? 親しくお話するのも禁止だ!!」
「それよか飲みもんまだ……」
「たく、女だらけの夢の島で乙女をたぶらかす修行でもしてきたか?」
「なぁ飲みもん~~」
「ちっ、うっせェなァ!」
サンジがむにーっとルフィのほっぺたをつねったらルフィが仕返しとばかりサンジのスーツの袖でごしごし顔を拭いてきた。もれなく涙と鼻水が、べったり……。
「うわーっ! 何すんだバカゴムーー!!」
ゴーン! サンジの目玉が飛び出す。
それがよほど面白かったのか、ルフィがやっとこ「ぎゃはは」と笑顔を見せてくれ、やれやれとサンジは苦笑した。
ま、ウチの船長が笑ってんなら問題ねェか……?
と、肩を竦めたまではよかったのだ。

つ・つぅ~……。

「ほ?」
「あれ、サンジまた……」
「は、は、鼻血~~~ィ!?」
このおれが、ルフィの笑顔(!)を見て、鼻血を垂らしているだとォウ!?
ルフィがキョロキョロして「ナミもロビンもいねェぞ」とか言っている。
そしてサンジを見上げ、こてっと首を傾げた。
や、やめろ……!
なんか可愛いから今はやめてくれっ!!
噴射しそうな鼻血を気合いで止め、サンジは両手で鼻を押さえた。
まさか、まさかここまで免疫が切れていたなんて……!!
「い、いや……もうこーなったらルフィでリハビリするしか……?」
そうだ、それがいい。チョッパーがくれた写真より有効かもしれない。
またルフィがこてん、と反対側へ首を傾げた。
なんだそりゃ可愛い。
つーかルフィのヤツ、2年経って可愛さアップしてねェか……?
自分やゾロは解るがあのウソップでさえあんなに逞しくなったというのに、コイツときたら。
とても同じ男とは思えない……。
と、このサンジの思考はとても危険だったが、女性離れしていた彼は気づかなかった。
おそろしや免疫不全。

「ルフィ、ちょっともっぺん顔触らせろ」
「えっお前の手真っ赤だぞ!? やだよ!」
「いいから……」
血濡れた両手を広げながらゆらゆらぁ~っとサンジがルフィに寄っていく。
常軌を逸した雰囲気のサンジにルフィはじりじり後ずさるも、どうやらコックはマジである。
オカルトか……!
「よ、よくねェよ汚ったねェなァ! こっち来んなっ!!」
「ルゥーフィイイ~~……」
「ギャーーっ!!!」
ルフィは舌の痛みも忘れ開け放ったままのドアから逃げようとして、戸口でぼすっとなにかにぶつかった。
「!?」
「おいルフィ、そこのエロコックはなに見て鼻血垂らしてやがんだ?」
「ふお、ゾロっ」
自分の双肩を掴むゾロをルフィは見上げるも、ゾロはコックを剣呑と見据え、片眉をピクリと釣り上げたのだった。
「うげ……。よりにもよってクソ剣士じゃねェか。別に大したこっちゃねェよ」
ルフィをリハビリの道具にしようとしてたなど、この船長バカで脳みそ筋肉にバレたらどえらいこっちゃ。バトルになるのは目に見えている……。
サンジは何事もなかったようにキッチンで手を洗うと、邪魔が入ったことにイライラしつつもいい加減ルフィのオーダーに応えるべく、カチャリと食器棚を開けた。
ところが何やら不自然な沈黙が流れ……。
それが船長と剣士の険悪な雰囲気のせいだと気付き、様子を見ることにした。
食堂の戸口ではじーっとゾロを睨んでいるルフィと、その視線を避けつつ口を手で覆っているゾロ。
そのゾロがボソリと、
「舌が痛ェ」
とか言うのでサンジは「お前もか!」とさっそく首を突っ込んでしまった。
「まさかクソ剣士もフランキーから落ちたとか言わねェよな?」
「んなわけねェだろ。コイツがわりィんだ」
ルフィを指差す。
「なんでだよっ、ゾロがわりィんじゃん!」
「あ!? おめェが――」
「おいてめェら、痴話喧嘩ならよそでやれよな! さっきまで散々イチャイチャしてやがったくせに……」
ていうかクソ剣士が船長について回ってたと言うか。
二人きりになったらなったでいったい何をしているのやら……ウザすぎる。
「イチャイチャ??」
仲良く首を捻る二人は長いブランクでイチャイチャレベルの調節できなくなってんのか。なんてはた迷惑。
「だってゾロのヤツが……!」
「ほ~お、原因はゾロか。珍しい」
ゾロが明後日の方向を向くのでルフィがまたギロッと相棒を睨みつけた。
「で? まりも君が何したって?」
こりゃあ楽しくなってきやがった。「で?で?」と先を急かす。

「だって……ゾロのヤツ、おれがベロ痛ェつってんのにわざとぢゅーぢゅー吸ってくんだもんっ!! だからおれもゾロのベロ噛んでやったんだ~~」

しししし、とルフィが自慢気に鼻の下を擦るので、サンジは「はぃ?」と眉間のぐる眉をひそめた。
いやそれ、よく考えなくてもディープキスしてたってことです?と突っ込まずにいられないことを堂々ルフィは言ったのだから。
なんだよ、やっぱりイチャイチャしまくってんじゃねェか……。
アホくさい。
ちなみにぢゅーぢゅーしたゾロの言い分は。
「ルフィがいつまでもロボなんぞと遊んでやがるから……」
「ロボの秘密知りたいだろ!」
「特には」
「えーっ!?」
「てめェら論点ズレてきてんぞ。とりあえずだ、クソ剣士はルフィに謝れ」
「なんでおれだけ……!」
じろーり。キャプテンとコックの目線。
「…あー。悪かったよ、ルフィ」
ゾロがポリポリ緑頭を掻き、ペコリと頭を下げた。
「ゾロ反省したか?」
「…した」
「ほんじゃ許してやる!」
「ありがとよ」
すっかりにこにこ笑顔になった船長の頬を優しく撫でる、隻眼の剣士。どうやら仲直りムードに突入。
我ながら強引だとサンジは思ったが、理不尽な船長のご機嫌がよければこの船長バカの機嫌もよくなると、既に知っているので。
まぁ船長のためだと諦められる自分はゾロほどルフィに甘くないと思っていたが、もしかしたらそれ以上……?
いやいや、まさかな。

「次は優しく吸うんだぞ?」
「心得た」
「吸うのはいいんかよっ」
つい裏拳を入れたらルフィが嬉しそうに「いーもん」と笑い、思った通りのご機嫌さんだとサンジは満足した。

とは言えこのバカップルときたらツッコミどころ満載だから困ってしまう。
辟易するも、見つめあう二人にはどうでもいいようである。
またさっそくイチャイチャし始めた船長と剣士をコックはドリンクと共にさっさと追い出し、ようやくゆっくりとタバコを噴かすことにした。

「さてと……」
次はいつリハビリさせてもらおうかなァ?

そんな都合のいいことを考えながら。



(第2弾に続く)
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