バレンタインデー/神の証明

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 バイトに行く前に、閑静な住宅街に不釣り合いな古い建物へと向かう。エレベーター前のボードに書かれた「2F 東雲社」という文字を尻目に階段を昇る。正面にある扉をそのまま開くと、ソファにはいつもの顔が二つ。

「あ、ヒノキさんいらっしゃい! これどうぞ」
「チカもあげる、ハイ」

 学生服のままだから、また学校が終わると同時にここに立ち寄ったであろう木下と、小学生なのにどうしてこんな所にいるのかわからない、チカと名乗る少年のような、少女のような奴。二人はそれぞれカラフルな袋を手渡してきた。木下のやつは隙間の透明部分からクッキーと判り、チカのやつは焦げ茶色の……なんだこれ。

「み、見た目は悪いけど味はいいから! 食べてみて!」
「私もさっき食べたんですけど、美味しかったですよ!」

 怪しみつつも、向かいのソファに座り、封を開けて一つ摘まんで口に投げ入れた。ざくざくと噛み砕くと、ナッツの舌触りと共に程好い甘味が口に広がる。この味は…メレンゲクッキーか。確かに二人が言うように結構美味しい。小学生ながら作れるのは素直に凄いと思った。

「うん、美味しい。木下のも今食べていい?」
「どうぞどうぞ!」

 チョコレートクッキーとプレーンクッキーが混ざりあったクッキー。甘さは控えめで、チョコレート菓子ばかり貰った人間には丁度良い加減だろう。サクサクと小気味良い音を立てていると、いつの間にか袋の中は空になっていた。

「美味しかった。二人ともありがとう。……これ、お返し」

 紙袋からタッパーと爪楊枝を取り出し、テーブルに置いた。ひとりひとりに配るような小さな袋なぞ家には無かったので、家のタッパーに生チョコをそのまま詰めてそのまま持ってきたのだ。

「ざつ~……」
「わ、もしかして生チョコですか? いただきます!」

 食べたら無くなるのだし、袋はゴミとなるからこの方が無駄も出ずいいじゃないか。まあ子供だからわからないのだろう。チカは文句を言いつつも食べればぱっと表情が明るくなり、木下は喜んで食べている。
 普段ならば、奥にある“社長椅子”に金髪の男が座っているのだが、今日はその姿が無い。正直、彼にこそ──いいや、何でもない。僕は何も考えなかった。すると勢いよく扉が開かれ、雑音が耳に入る。

「よーっす! 皆の衆ー!杏ちゃん特製のカップケーキでーすよー!」
「美味いぞこれ」

 朱色の髪、朱色の着物という派手な出で立ちで現れた奴は、大きな紙袋を掲げ阿呆みたいな笑顔で室内に入ってきた。その後ろから、レモン色の髪をした一つ結びのチビがカップケーキを食べながら入ってくる。歩きながら食うなよ。

「お、桧塚ひづかも居たのか。どうせなら食ってけ」

 テーブルに紙袋を置くと、中からカップケーキを取り出し配っていく。もれなくそれに僕も入っているようだが、こいつの手からは受け取りたくない。

「いらない。帰る」
「あ、きょ、今日これから潤希うるきさんも来ますよ?」
「いいよ。いつでも会えるし」

 タッパーを放置し、朱いのに肩をわざと当てて部屋を出た。別に、高槁目当てにここに来ている訳でもないし、ただなんとなく居心地がいいから来ているだけで、目的なんて何もない。少し早いが、そのままバイトへと向かった。

■■■

 今日はバーのバイト。と言っても、いつもお世話になっているカフェ店長の紹介であり、その店長の父親が経営している店でカフェバイトの延長である。バーではあるが、ビールやハイボールもあり、つまみメニューもランチとほぼ変わり無くあるので居酒屋の様。店の外見は完全にバーなだけに、客層もそれなりな人ばかりだが、マスターの料理目当てに来る客も少なくはない。そういえば、この人にも作った生チョコをあげればよかったと思ったが、無いものは無いでいいだろう。
 バレンタインデー。意中の人物や、友人らにチョコレートを送るイベントに心底興味は無かった。男である僕がこう言うと、貰えない言い訳、などと揶揄されるだろうがそういうわけではない。ただそのイベントに意味を見出だせないからだ。告白したいのならそんな日にしなくてもいいと思うし、感謝の気持ちを伝えたいのなら誕生日にでも伝えればいい。チョコレート菓子が食べ合いたいのなら事前に友人と約束してやればいいだけの事。それなのに二月十四日は、皆こぞってチョコレートや菓子を用意し送り合う。記念日、イベントの日は決まって大抵の人間は揃って同じ行動をする。正直、気味が悪い。ああ、考えてるだけで吐き気がしてきた。これ以上はやめよう。


 バイトが終わったのは午後二十二時過ぎ。シャッターだらけの寂しい商店街を急ぎ足で進んでいると、向かいからこちらに来ている人物が見える。辺りには誰も居らず、恐らくこの商店街を歩いているのは僕と向こうのあいつだけ。帰宅中の誰か、だろうが途中、急に向こうは小走りで近付いてきた。

「ヒノキ! よかったー、会えて」

 外灯に照らされて相手の顔が確認出来る。帽子を被っていて気付かなかったが、奴は高槁だった。

「これ、からっぽになったからついでに返そうと思って。チョコ美味しかったよ、ありがと」
「なん、で……ついで……?」

 綺麗に洗われたタッパーを渡されるも、高槁にこんな所で逢うという衝撃を隠せず固まっていると、高槁は鞄を漁って何かを取り出した。

「はい、ハッピーバレンタイーン!」

 透明の小さな袋を手渡された。中にはチョコレートが入っている。

「……作ったの?」
「兄貴とだけどね。いつも結構貰うからさ、ホワイトデーのお返し面倒で。なら俺も作って渡しちゃえばその時点でお返しあげる必要ないじゃん? それで毎年作ってんだ。お世話になった人にもあげられるし、一石二鳥的な?」
「……ありがとう」

 視線を外しながらも礼だけはちゃんと言う。どうせこれは有象無象に作られた一つだというのに、やけに心臓は煩く鼓動する。

「本命はあげたの?」

 思ってもない、聞きたくもないはずなのに自然と口から漏れていた。

「んー、差別はよくないかなって作ってないんだよね。ヒノキは?」
「まさか。こんな馬鹿げた事する予定なんてなかったし。バイト先で作ったからたまたまあげたってだけ」
「ふーん……でも楽しくない? 送り合うっていうかさ、みんなの作ったものを食べられるイベントって」
「別に。揃いも揃って気持ち悪いなって思うだけだよ」
「はは、ヒノキらし」

 笑って流してくれる対応が実に気持ちいい。これがコミュ強、というものか。ふと我に返り、手にあるタッパーとチョコレートの存在を思い出しいそいそと鞄へ仕舞う。──いや、このチョコレートは持っていく。

「でもなんでこんな所にいるの」

 歩みを進めながら、一番の疑問を聞く。

「チョコ渡したくて。カフェにお前いるか行ったらいなかったから聞いたのよ、そしたらこっちにいるっていうから。遅くに終わるって聞いたからついでにご飯食べてきちゃった」
「明日でもいいじゃん」
「それじゃバレンタインの意味無いだろー!?」

 一日ぐらい誤差の範囲だと思うが。今日が休日なら学生は週明けに持っていったりするだろう。まかないで夕飯は済ませたものの、菓子を目の前にし小腹が空いてきたので、早速頂いたチョコレートを口にする。

「え、今食べんの」
「駄目?」

 許可よりも先に、チョコレートの甘みと苦みが口の中で混ざり合う。ビターが効いていて甘過ぎない、好みの味。

「別にいいけど、目の前で食べられると恥ずかしいな~……どう? 美味しい?」
「うん、美味しい。好みの味」
「マジで! 嬉しい事言ってくれるじゃんよ~!」

 照れ隠しなのか、軽く体当たりをされた。こちらがどんな思いで居るか知らない癖に。能天気さに少し苛つきを覚える。

「ヒノキって良くも悪くも正直だから、褒めてくれる時は本当に褒めてるってわかるからいいよ」

 眩しいほどの笑顔を向けられて、直視出来るわけが無く思わず顔ごと逸らした。

「あ、そ」

 甘い香りが漏れる袋から、もう一つチョコレートを取り出して口へ放り込む。

「あ、照れてる~。ほんとヒノキはわかりやすいなぁ」

 おらおら、と指で頬をつつかれ、苛立ちは収まるどころか燃え上がる。無言で圧をかけるも、高槁には意味がない。なら、もう──

「────煩い」

 ほろ苦い甘さと、オレンジの甘さが混ざり合った。鳩が豆鉄砲を食らったかのように唖然とする高槁を置いて、足早にその場から去る。
 ──ああ、案外バレンタインデーも悪くないな、と初めて思えた瞬間だった。
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