小話
それから二月ほど経った頃。実行日が決まると、オレはクロウに異動でこの研究所を離れると伝えた。仮に成功してもしばらく会えないのは確実である。失敗すれば、二度と会うことはできない。そのような悲しみを背負ってほしくなく、嘘をついた。会えないとわかると泣き出したが、死んだ事がわかって泣かれるよりはマシだ。それから実行日まではたくさん、今までよりもたくさんクロウと話して、遊んで、“バイバイ”をした。
実験結果は最悪にも成功であった。
実行日から二日経ってオレは目を覚ました。体中が痛み、指を一ミリでも動かす事ができない。視力もどこかおかしい気がする。見えるには見えるのだが、たまにぼやけて見えたり……。声は──体が痛んで邪魔をする。人を呼ぼうにも呼べない。その時、ちょうど経過観察に研究員が来たので、オレの目覚めを報せる事ができた。
そして一ヶ月ほど経ち、ようやく痛みが引いて体を起こしたり、話をできるくらいになると兄がむかつくほどいい笑顔でやってきて、ベッドの横に置かれている椅子に座った。
「話せるぐらいになったと聞いてね。どうだ? 烏には成れるか?」
「その前に一発殴っていいか?」
答えを聞くよりも速く腕が動き、右ストレートが顔面に決まる。筋力は動かなかったせいか以前よりも落ちていたが、充分な威力は出たようで椅子から転げ落ちていた。
「いった……随分と元気そうで何よりだよ。烏の影響かな? 喧嘩っ早くなったな。それで、烏には?」
頬を痛そうに擦りながら立ち上がり、椅子に座り直す。殴られた意味を考えるよりも、実験結果を気にする。素晴らしい研究者サマだ。
「成れるかよ。動ける程度まで回復したけど体中あちこち痛んで、試す余裕も無い」
「烏に成れば痛みも無くなるんじゃないか? やってみろよ。どうせ怖いんだろう、自我が消えるんじゃないかって。大丈夫だよ、
不思議な言い方だった。オレは烏に成った記憶は無い。でも、平気だと知っているような口ぶり。──確かに、自分が消えてしまうのではないかという恐怖はある。だが、大丈夫、とは。何を持ってそう言えるのか。
「ん? 覚えてないかな。術後麻酔が切れるとすぐ目を覚まして大暴れして烏になってたじゃないか。覚えてないという事はあれは術後せん妄かな。あと痛みの原因の半分は、その大暴れのせいだよ」
それは──本当にオレがやったのだろうか。
────、──。
何かが喋っている。
────い、────か。──なあ、ここはどこなんだ。
ここ? ここは研究所の病室だ。
──違う。俺が居る
……? お前、ゲンか。なら、お前がいる場所はオレの中だ。
──どういう、─だ
「レイニ?」
名前を呼ばれて意識が強制的に戻された。音が聞こえる。耳鳴りも無い。頭痛も消えた。あの声も、もう聞こえない。兄は、オレの体調が悪いと判断したのだろう。手首から脈の速さを確認し、目にライトを当て瞳孔を見る。異常は無いと判断すると、また来ると言って部屋を出ていった。
それから、たまに“オレの中”から声が聞こえるようになった。オレと融合させられた烏、ゲン。彼は状況を理解しておらず、説明をしてもわかってもらえなかったが、話を重ねていくと受け入れるしかない、とわかってくれた。しかしそれはそれで、今度は愚痴が始まった。人間は身勝手だ、カラスも身勝手だけどよ、お前は復讐とか考えないワケ? 等々。
オレは──兄に恨みがあるといえばあるが、復讐を考えるほどではない。既に一発殴ったので、それでもう充分復讐は果たした。殴った意味をわかっていなかったのは腹立たしいが、
体が痛みがだいぶ取れ、筋力も回復してきた頃、キメラの能力を把握するための実験が開始された。オレは人間と烏に成れる能力を持つ──はずである。意識して行った事は未だに一度も無く、それをやってみろ、という実験。実験というよりはオレの能力テスト。バック転をやったことがない人間に、練習もやり方も教えずやってみろと言っているようなもんだ。なかなか無茶すぎる注文。研究員達の待望の眼差しが、酷く鋭い刃のように全身に突き刺さる。思い悩んでいるとゲンの声が聞こえてきた。
『自分がカラスになったイメージしてみろよ。空を優雅に飛んでいるイメージでもいいし、下っ手くそにバタバタ飛んでいるイメージでも、なんでもさぁ』
カカカ、と悪戯に笑う声が若干苛ついたが、何も思い付かないのでゲンの言う通りにしてみる。
目を瞑り、集中。オレは烏だ。空を飛べる羽を持つ。やろうと思えば空も飛べる。
────骨が軋む音がした。
みるみるうちに身体は変化していく。腕が曲がり、黒い羽根が生えてくる。足がどんどん細くなり、爪が伸びていく。
自分の体が自分のものではないような恐怖心。しかし、そのまま身を委ねろと、ゲンの声が聞こえ不安を押し殺して身体が静かになるのを待った。
歓声が聞こえる。自然と瞼が開いたが、視界はぼやけていた。ただ、視点が今までよりもかなり低くなっている事はわかる。はっきりしない世界の中で、自分の見れる範囲の体を確認した。手は立派な黒い翼となり、足は細長く爪が鉤爪のようになっている。ああ、オレは烏になれたんだ。すると一人の研究員が近寄ってきて屈む。シルエットから、それは兄だとわかる。
「レイニ。いや、ゲンか? どちらでもいい。話すことはできるか?」
──ア、ア。
声にならない声が、嘴から発せられた。今度こそ、しっかりと声を────
出そうとすると、体の自由が奪われた。否、
待て、待ってくれ!
その声は届かない。聞こえていても、ゲンは無視して羽を動かし、威嚇の声を上げ、爪で人間を引っ掻き、嘴でつつく。オレが何もできないでいると、意識は自然と闇へ落ちていった。
『──い。おーい』
なんだよ、煩いな。
『人間に戻ったから目ェ覚ませよ』
…………。
『怒ってんのか。悪いねー! 俺以外の奴みーんな敵なのよ。もちろんカラスもね』
……お前、目見えないんだろ。だから敵味方判断つかないんじゃないのか。
『あ、バレた? 流石にバレるか。まーね、いちいち見分けんのもめんどいし。一人……ならぬ一羽でも一応生きていけるしぃー? 餌だってあんたとオッサンがくれてたから楽ちんだしぃー』
一人じゃ早死にするぞ。人間だって一人で生きていこうと思えば生きていけるがな、いざ病気になった怪我したで、人の手を借りなければあっという間に死ぬ。お前だって、オレと上司がいなければ餌も食えず死んでただろう。それを一人で生きていたとは言わない。支援を頼って生きているって言うんだ。
『え、ガチ説教かよ……』
人を、他の奴を信頼しろよ。時に裏切られる事もあるが、信じれば信じた分返してくれる奴だっている。
『そういう面倒臭いの、性に合わないっからな~。──いいや、取り合えず寝てな。俺も寝るわ』
意識はまた、暗闇に閉ざされた。
■■■
「よいこらせっと。はぁ~……これのどこが実験なの? ただの荷物運びじゃん」
「まあまあ、いいじゃないですか。ええと、ゲンさん? この後は部屋に戻って構いませんので。もう研究所内の道は覚えましたよね。私はまだ他の仕事があるので……それでは」
あれから三年は経った。アイツと俺は大体半々……いや、ここ最近は俺がメインに出てきては他の職員と会話をしたり、何故か実験と称して荷物運びなどの雑用をさせられている。道も自然と覚えちまった。あーあ、やだね、ここの妙な臭い。薬っぽいっていうかさぁ、綺麗すぎるっていうか。研究所内は自由に動けるものの、一応は研究対象物。森に行きたいっつっても許してはもらえなかった。
コイツの髪は切らずに伸びっぱなし。くるくるしてるのが俺は落ち着いていいが、アイツは気持ち悪いと言っていた。どうして伸びっぱなしかというと、研究対象物だかららしい。よくワカンネ。とぼとぼ歩いて自室──ならぬ病室へ向かう。道中、声を掛けられた。
「久しぶりだな、レイニ。調子はどうだい?」
誰だっけ? 体の持ち主サンの知り合い……研究員全員知り合いだよな。わかんねぇ。目を細めて見るも、やっぱり姿ははっきり見えない。つい首をかしげる。
「ああ、今はゲンか。すまない。俺はレイニの兄だよ。最近忙しくて会いにいけず……今度ゆっくり話をしよう。もちろん、レイニも。伝えておいてくれ」
あーお兄サン。ちょいちょい話で聞いていたな。なるほど、と合点した所でお兄サンは足早に去っていってしまった。随分余裕が無いね。
部屋はベッドと小さなテーブルぐらいしかない。病室だからね。そのベッドに横たわり、ごろごろ無意味に動き回る。
『……おはよう』
「お? お目覚めかい。おはよーさん。約一週間ぶりだねぇ」
『そんなにか……。どんどん、意識を保つのが難しくなってきている気がする』
「表出てこいよ。ずぅっと中で引きこもってるからじゃねーの? あ、そうそう。さっきアンタのお兄サマにお会いしましたよ。今度ゆっくり話そうってさ」
『…………』
「おいおい、寝るなよ?」
『ああ、大丈夫だ。少しぼうっとしてるだけだ』
コイツは日に日に弱っていた。肉体はとっても元気だというのに、本体の魂は衰弱し、丸々一日身体の主になるのすら出来なくなっている。肉体からしたら余所者である俺は、全く変化もなく元気に過ごせている。人間の方が寿命が長いはずなのに、変だなぁと思うものの、原因はわからない。キメラ特有の能力、カラスに成ったり人間に成ったりというのは最初こそ慣れず苦労したが今では楽々できる。俺はカラスで育ったせいなのか、体をカラスにしている方が楽だ。だが、本体のアイツは変化すら未だに気持ち悪いというので、イヤイヤ人間の姿を保っている。俺ってば優しい~!
『なあ。クロウに会ったか?』
「クロウ……ああ、あのチビッコちゃん。会ってないけど? てか、会わない方がいいんじゃなかったっけ」
『そうだが……。……』
奥歯に物が挟まったような、モヤモヤする言い方。なんだよ、遠慮するような仲じゃないだろ俺達ッ! ……いやそんなテンションじゃないのはわかってるけどついな。つい。
『兄貴は頼れるような奴じゃないから。もしオレに何かあったら、クロウを頼む』
「……はい? いきなり何よ」
『お前ならクロウの面倒見てくれそうだからさ。ほら、やけに懐いてたじゃないか』
「別にあれは懐いてたとかじゃなく、無垢なお子様にそのうちゲンジツってもんを教えてやろうと」
突如、ぷつりと何かが切れた音が“俺の中”で聞こえた。
「……レイニ?」
返事は無い。
「オイオイ、何ぃ? ドッキリってやつ? ちょっとビビるじゃんよ。やめろよ笑えないぞ~!」
返ってくるのは静寂。曇っていた外の世界から、雨音が徐々に大きくなる。
「…………ッハ、どうせなら最期に自分の心配しとけよ。人間ってのはわからないなァ」
カカカと笑い、部屋を出た。