雨夜の月


ジュンミョンとセフンは宿舎から歩いて15分程歩いたところにある馴染みの店に二人で呑みに行った。
そこはもう10年近く通っている店で、お店の人は芸能人である二人に配慮してくれるし気心も知れているのでとても落ち着くことが出来た。
呑みに行くとは言っても、二人はあまり酒は呑まない。それは単に二人とも酒に弱いということもあったが、それよりも二人で会話することの方が楽しく夢中になってしまうからだった。
くだらない話ももちろんするが、そればかりではない。いま抱えている仕事の悩みや、これからのキャリアプランについてなど真剣な話もする。その場合大抵ジュンミョンが聞き役になるのだが、アドバイスすることでジュンミョンも自分自身を振り返ることになったり、セフンの何気なく核心を突く発言にはっとさせられたりすることが多かった。他の誰かとではなく、二人で交わす会話はどれもが特別だった。
セフンは愛嬌があってよく冗談を言う。ジュンミョンも冗談が好きでよく笑う。二人の間にはいつも笑顔があって、穏やかな時間が流れている。
悲しいこと、辛いこと、嬉しいこと。お互いに今まで色んなことを共にして、打ち明けあってきた。お互いがお互いにとって、これ以上心を預けられる人はいないとまで思えた。疑いようもなくお互いがかけがえのない存在だった。



帰り道、突然降り出した雨に二人とも傘を持っていなかったので、店の人が貸してくれた使い古された1つの傘に身を寄せた。
セフンは店を出てから急に静かになった。いつもなら宿舎まで帰る道もずっと話続けているのに。
時々ジュンミョンが話しかけても「あぁ」とか「うん」とか、話をあまり聞いていないような心ここに在らずといった返事しかしない。そんな調子なのでジュンミョンも途中であきらめて、ただ黙々と歩いた。そのうち雨足はどんどん強くなっていった。
大粒の雨は、地面に容赦なく叩きつけられていた。夜は深く、普段からただでさえ人通りの少ない道は人影ひとつない。まるでこの世界に二人きりかのようだった。

「……キスしてもいいですか?」

傘の下、唐突に発せられた言葉は、激しい雨音の中で不思議なほどかき消されることなくジュンミョンの鼓膜をちゃんと震わせた。
泣きたいくらい胸は震えたのに、ジュンミョンは自分でも驚くくらい落ち着いた声で答えていた。

「………いいよ」

ジュンミョンがセフンに振り返ったその刹那、セフンの円らで黒く濡れたような双眸が驚いて揺らいだ気がした。だがそれも一瞬のことだった。すぐにジュンミョンを射抜くような切なく熱いそれに変わり、セフンはそっと空いている手で、壊れものを扱うようにジュンミョンの首筋に触れた。ジュンミョンを痛いほど見つめていたうつくしい瞳は、長いまつ毛に縁どられた目蓋によってそっと覆い隠されていく。ジュンミョンはその様をまるで芸術品を鑑賞するような気持ちで眺めながら、自らも静かに目を閉じてセフンの唇を受け入れた。
やわらかな唇はほんのわずかに軽く触れて、すぐに離れていった。ジュンミョンは薄目を開け、その遠ざかっていく唇をぼんやりした視界の中でとらえながら、今し方自分の唇に重ねられた温かくやわらかい感触を頭の中で反芻させた。まるで夢の中の出来事のように不確かな気がして、これが現実だと自分に言い聞かせる必要があった。
それでもまだ夢現つでゆっくりと瞼を持ち上げ視界が戻ると、伏目がちにして色白の肌を耳まで赤く上気させたセフンが傘をさして目の前に立っていた。それを見てようやく現実だと実感できた途端、ジュンミョンはどうすることもできないほど積み重ねてきたセフンへの愛おしさが一気に胸に突き上げてきた。
目の前にいるのは、可愛い弟のはずだった。ずっとセフンをただの弟だと思おうとしていた。だけどとっくの昔に、弟とは思えなくなっていた。
———お前を道連れにしてもいいんだろうか……?———このキスの意味はわかっている。わかっていて受け入れた。受け入れたかった。受け入れたくせに、兄としての理性が今さら逡巡させる。
メンバーには?ファンには?世間には?家族には?たくさんの顔が浮かんでは消えていく。
セフンを守れるだろうか。セフンを幸せにできるのだろうか。
雨はまだまだ止む気配がなく、雨粒が傘を叩きつけて揺らし、傘の柄を握るセフンの手にも力が込められていた。
このまま雨が永遠に降り続けたら。雨で地球が浸水したら。二人とも死んだら。それとも、もし、二人だけ生き残ったら……誰の目も気にせず二人だけで暮らせたら……馬鹿なことを、恐ろしいことを、考えていることはわかっている。だけど本当にこの世界に二人きりだったら良かったのにと思う自分を否めない。
もう正直になろう。このまま二人逃げてしまおう。自分さえ一歩踏み出せばセフンはついてきてくれるんじゃないのか?何もかも、この雨が全て洗い流してくれるんじゃないのか?そうであってほしい……そうであってくれたなら……だけど———。


「……帰ろうか、セフナ」

セフンはなかなか動き出そうとしなかった。仕方ないのでジュンミョンはセフンの手から傘を取った。セフンの顔は見なかった。歩き出すと、少し遅れてセフンも一緒に歩き出した。———あの雨の夜から6年経った。今日、セフンは結婚する。
あの時、セフンはどんな顔で自分のことを見ていたのだろう。不意にそんなことを考えていると、扉が開き新郎のセフンが式場に入場してきた。
参列者の拍手が場内に響き渡る。黒のタキシード姿のセフンはみんなへやわらかな笑顔を向け頭を下げながらバージンロードを進んでいく。その姿は大げさではなく輝いていてとても様になっており、堂々として見えた。だけどジュンミョンにはわかった。セフンはとても緊張している。
セフンはゆっくりと振り返り威儀を正して祭壇前に立った。牧師が新婦の入場を告げると、その視線は真っ直ぐ扉の方に向けられた。
ジュンミョンは再び式場の扉が開き、人々の視線が一斉に扉前の新婦に注がれても、緊張でかたくなったセフンの横顔を見つめていた。ただ見つめて、見つめて……思う。やっぱりセフンにとってはあれで良かったのだ、と。……最愛の弟よ、おめでとう……
新婦の父親が新郎に娘を引き渡す。新郎新婦が祭壇の前に立ち、牧師が誓いの言葉を読み上げる。みんながそれをあたたかく見守っている中、ジュンミョンはただひとり、目元をおさえて深く俯いた。ごまかせないほどの涙が、膝に落ちる。

“俺にとってはあれで良かったのか—————?”

雨夜の月は見えない。たとえそれが煌々と光り輝いていたとしても。それを知っているのはただ月のみ。
1/1ページ
    スキ