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その他いろいろ

恋愛事情の観測者

 高杉と冬子が、ついに懇ろになった。
 そんな噂が藩士たちの間でわっと広まったのは、高杉の労咳が治って少ししてからだった。
 絶対にくっつくと思っていた派、絶対にくっつかないと思っていた派、龍馬とくっつくと思っていた派、あわよくば自分が恋仲になりたかった派、どっちでもいいだろう派、などなど、いろいろな派閥からいろいろな声が上がったが、桂の「他人の恋愛事情をとやかく言っている余裕は、我々にはないよ」という一言で鎮火、とまではいかないがそれなりに下火にはなった。上の人間がいない酒の席で肴にされる、そのくらいの扱いだった。
 伊藤は、高杉と冬子はくっつかない派の人間だった。
 二人の付き合いはかれこれ十年以上にもなる。それが今頃? どうして? とまさに青天の霹靂であった。
 伊藤は高杉の嗜好、遊郭やお座敷での遊び方や発言、華やかな女性遍歴を知っている。そんな過去のあれやこれやと照らし合わせて、男女の関係への発展はないと思っていたのだ。
 華やかで、色気があって、芯がしっかりして、男女の恋の駆け引きや情緒を愉しめる。あと美人で豊満。高杉と噂になる女性は概ねそんな感じであった。
 だから、冬子とはいくら仲が良さそうに見えても、それは友情や信頼感といった艶っぽさとは無縁のものだと、そう思っていたのだ。
 さらに届いた噂で冬子から高杉へ告白をしたと聞いて、伊藤は納得した。
 高杉は面倒見のいい兄貴肌の男である。冬子とは長い付き合いで気心も知れていたし、自分の労咳を治してくれた恩もある。そんな相手からの告白を断るようなことはできなかったのだろう。
 仲の良さも相まって、ちょっと付き合ってもいいか、と軽い気持ちで応じた可能性もある。
 ……もしも、そんな成り行きで付き合い始めたのなら、あの人はいずれ振られてしまうのではないか。
 高杉は女遊びの盛んな男だったし、冬子に特別な感情があるようにも見えなかった。付き合い始めこそ楽しめたとしても、熱が冷めればあっさり手放すのではないか。
 そうなれば、彼女はひどく傷つくだろう。仲が良いとはいえ、冬子の恋愛事情を詳しく知るわけではないが、この数年間で彼女が誰かに心を寄せる姿など一度も見たことがなかった。そんな冬子が初めて好いた男に、あっさり捨てられたとしたら――それは、あまりにも気の毒ではないか。
 そうなったら励ましてあげよう。もっと真面目そうな人を紹介してあげてもいい。
 そういう役回りなら、自分にもできるはずだ。
 
 

 その日は、遊郭の広間を借りての長州藩士たちの酒宴だった。
 戦が終わった今も決して情勢は安泰とは言えないが、それでも刃を交える日々に比べれば随分と穏やかだ。盃を傾け、軽口を叩き合い、隣に侍らせた芸者の肩に手を回す者もいれば、三味線の音に耳を傾け、軽快な都都逸の旋律に合わせて浮かれた笑い声を上げる者もいる。
 伊藤もまた、心地よく回る酔いに身を委ねながら、隣の芸者ととりとめのない話を交わしていた。
「そう言えば、今日は高杉様はいらっしゃらないのですねか?」
「後から遅れてくるらしいですよ……あっ、駄目ですよ! 高杉さん、今いい人がいるんですから!」
「存じておりますよ。ここでお話しされる方もおりましたから。ただ……ほら、すこぅし、そわそわしている子達がいるでしょう?」
 ちらりと女が視線をやった方に目を向けて見れば、確かに入り口や廊下の方を気にしている年若い芸者たちの姿があった。
 伊藤は苦笑しつつ、盃を置いた。
 高杉は冬子と恋仲になってからは遊郭や座敷遊びは一切やらなくなったが、それでもかの人に熱を上げている者は多いようで、ああいった娘たちがやらかしたりしないように目を光らせておく必要がある、と言うことか。
「そのいい人、という方は、どのような御仁なのですか?」
「うーん。凛としてる、って言えばいいんですかね? 顔立ちはキツめの美人でとっつき難い印象だけど、案外気さく。でも言葉遣いや普段の格好は男みたいで、性格も女性的とは言えない……かな。あ、あと、何よりあの腕の良さ」
 なにせ山懸と伊藤の二人を同時に相手して退ける程の実力の持ち主だ。鳩尾に叩き込まれた容赦のない重い一撃を思い出して、そっと腹に手を当てた。伊藤が冬子を女として見れない最大の理由はそれかもしれない。
「旦那様も腕が立つでしょうに。そんな旦那様にそこまで言わせるなんて、相当なお方なのですね?」
 女は尋ねながら伊藤にそっと身を寄せて、空になった盃に酒を満たした。
 酒を注ぐ手つきは柔らかく、傾けた顎の線が美しい。目尻を下げた微笑み、濡れたような黒目がちの瞳。肩が触れ合うほどの近さにある白いうなじに、伊藤は無意識に喉を鳴らした。
 その音を聞き取ったのか、女の目が揶揄うように細められた。
 ……こういう、すぐに態度に出るのが良くないんだよなぁ、と反省する。高杉ならこんな無様は晒さないだろう。
「伊藤様はその方をどう思ってるのです?」
「そりゃあ好きっすよ! 異性として見れないだけで、本当に尊敬してるし、あの強さには憧れますよ!
 力強く言い募る伊藤を見て、芸者はふふ、とまた笑った。
「お話を聞くに、その方も旦那様にそんな風に思ってもらえてると知れば、きっと喜ばれるでしょうね」
 芸者の指がその口元を隠す。白い手首がちらりと覗き、しなやかな仕草が妙に艶っぽかった。

 
「遅くなった」
 不意にかかった声に場の空気がざわついた。若い芸者たちの猫撫で声も湧き起こる。
「お、高杉さーん! 遅いじゃないですかー!」
 あちこちから高杉を呼ぶ声が上がる中で、一番声を張ったのは伊藤だった。
 その声に高杉は顔を向ける。おう、と軽く手を挙げて応じ、次の瞬間、目を見開いて、彼の表情が険しく強張った。
 え? と伊藤は目を瞬かせた。
 何かやらかしただろうか、とここ最近の己の行動を反芻するが、別段思い当たる節はない。もちろん、今の短いやり取りにだって何かがあったとは思えない。だが、高杉は見る間に足を速め、こちらへ向かってくる。
 心地良い酩酊感は一息に吹き飛んだ。
 高杉の鬼気迫る様子に怯えたのか、芸者が少し後退り、伊藤に縋りつく。
 更に高杉の顔が更に険しくなった。鬼がいる。
「えっ、えっ?」
 そうしているうちに高杉は二人のすぐそばに立ち、腕を伸ばして――芸者の手首を掴むと伊藤から引き剥がした。
 きゃっ、と小さな悲鳴が上がる。
「た、高杉さん?!」
 伊藤は驚愕と共に声を上げた。高杉が芸者に無体を働くのを伊藤は初めて見た。
 近くの芸者や藩士たちも、突然の出来事に「なんだ?」と小声で囁き合う。
 止めるべきか、と逡巡する。いや、この人が意味もなくそんな行動に出るだろうか? 大人しくしておくべきか?
 困惑して動けない伊藤には目もくれず、低く押し殺した声音で高杉が言った。
「……あんた、こんな所で何してやがる」
 女は驚いて目を大きく見開き、そして――ふぅと大きく息をついた。
「……一目で見抜かれると、さすがに傷つくな。薄雲に協力してもらって、しっかり化けたつもりなのに」
 がらりと変わった声音は、伊藤もよく知る女のもの。まさか、とまじまじと顔を見れば、確かにそこにいるのは良く見知った女だった。
 伊藤が驚きの声を上げたのも無理のない事だった。
「えっ……えええっ?!」
「どこかダメだったか?」
 女の問いかけに伊藤はぶんぶんと首を横に振る。
 ダメなところなんて一つもなかった。男の心を捉えて離さない、見事な芸者だった。
「化粧と鬘しか違わねぇのに見間違えるかよ。……質問に答えろ」
 剣呑な表情の高杉に、女は軽く肩をすくめて見せた。
「それで見抜かれた事なんてなかったんだけどなぁ……。久しく会えていなかった情人が帰ってくると聞いたから、こうやって少しでも早く会おうと待ってたんじゃないか」
「だからって、その格好で伊藤に侍る必要があったか?」
 じろりと冷たい目が伊藤を射抜く。喉元に刃を突きつけられているようで生きた心地がしなかった。
「ふふ」
 手首を掴んでいる高杉の指をするりと撫でて絡め取り、そのまま自分の唇へと男の手を押し付けた。
 触れるだけの、けれど確かに痕を残す口づけは高杉の手の甲に紅を淡く滲ませた。
「その顔が見たかったから、かな?」
 軽く首を傾け、上目遣いに彼を窺う。からかうような、けれどどこか甘えたような声音。
 目の前で繰り広げられる艶めいたやり取りに、伊藤の顔が熱くなる。見るべきではないと分かっていたが、どうしても目が離せなかった。
 少しの間を置いて、高杉が大きく息を吐いた。
 まるで降参だとでも言う様に、肩の力を抜きながら片手でそっと額を押さえる。
「……長屋に帰ってろ。挨拶回りが終わったらすぐに行く」
 言いながら小さく笑う。完全に振り回されているのは自分の方だと、諦めたような表情だった。
「はぁい。っと、薄雲のところで着替えてから帰るよ。もしかしたら、お前の方が早いかもな」
 頭と着物が大変なんだ、と悪戯っぽく笑いながら冬子は立ち上がる。
 すっと姿勢を正すと同時に、その表情は再び芸者のそれへと変わった。
「それでは伊藤様、また」
「は、はい……」
 壮絶な流し目に思わず見惚れ、反射的に返事をしてしまった。
 去り行く後ろ姿まで完璧に美しい。すれ違う藩士たちに愛想を振り撒き、艶を感じさせる仕草で広間を後にする立ち居振る舞いは太夫と比べても遜色ない。
 なんだあれ。なんなんだ、あれ。
 狐狸に化かされたか、酒の飲みすぎて幻覚を見たか、それとも夢なのか。
 だって、全然別人のようだった。同一人物だと察せる要素などどこにもなかった。
 伊藤の知る冬子は、あんな匂い立つような色気を纏わない。相手の急所を狙い穿つ鋭い身のこなしはすれども、しなを作ったり酒の酌をしてくれたりしない。上品にも、婀娜っぽくも微笑んだりなどしない。

「……伊藤」
「は、はい!」
「あいつは、ずっとお前と一緒だったのか?」
「へ?」
「ここに来てから、ずっとお前の相手しかしていなかったか?」
「はい! あの人はずっと俺の相手だけでした!」
「ちょっかいかけてきたヤツは?」
「いませんでした!」
「そうか……」
 高杉は静かに息をつくと、女の使っていた小さな盃をしばらく無言で盃を見つめていた。その手の甲に残る紅の跡が鮮やかだ。
 親指で軽く擦り、消えそうにないその色に、また深く息を吐いた。
「あの、俺が言うのもなんですけど、さっきのは姐さんの冗談と言うか、悪ふざけと言うか……」
 伊藤が遠慮がちに切り出すと、高杉は苦笑した。
「……わかってる。わかっちゃいるが……駄目だな。あいつの事となると自制が難しい」
 餓鬼でもあるまいし、と自嘲するように唇の端を歪めた。
 その表情に、あ、と伊藤は理解する。
 告白こそ冬子の方からだったが、高杉もあの人にベタ惚れなのではないだろうか。
 今までの高杉なら、女との付き合いでこんなふうに感情を露わにすることはなかった。粋な遊び人として、深入りしすぎず、それでいて女を不満にもさせない。遊郭でも、縁のあった女が去るときには未練を残さず、どこか冷めたような笑みで送り出していたものだ。
 けれど、今の高杉にはそれができていない。
 そうか、ちゃんとお互いに好き同士であったのか。無理をしていたり不幸になったりはしないのか。
 伊藤は嬉しくなってにっこにこしながら、高杉の盃に酒を注いだ。
 
「伊藤」
「はい!」
「悪いが、後で一発殴られてくれ」
「はい!……えっ?! 待ってください! 俺なんにも悪い事してませんよねぇ?!」
 

2025.03.18
くるっぷ

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