その他いろいろ
さてもかそけき恋の話
夜の深川は、川面に映る灯りが揺らめき、潮の香りが微かに漂う街だ。艶やかな衣をまとった芸者や遊女が行き交い、三味線の音が遠くから聞こえてくる。活気ある茶屋や料亭の明かりが賑わいを醸す一方で、ひとたび路地裏に入れば闇が広がり、人の気配も途切れがちになる。
そんな華やかさと静寂が入り混じるこの町に、恐怖が忍び寄った。
あの辺りは芸者や遊女が多い。狙う相手に事欠かないのだろう。ひと月で十人の女が殺された。
彼女達に共通する点はなく、犯人は女という性に恨みを持つものか、はたまた女を斬ることに快感を覚えて常軌を逸した狂人か。江戸の街に住む者たちはそう噂しあった。
深川にいるのは芸者や遊女だけではない。お座敷遊びに興じる裕福な商人やお偉方、近くの木場で働く職人もいる。
同心たちの力の入れようも並々ならぬものだったが、懸命に巡回しているものの下手人は一向に捕まらなかった。
辻斬り騒ぎのせいで、夜の街はどこか沈んでいた。
深川の華やかな中心地はともかく、外れの方はもともと人通りが少ない。闇に包まれた路地裏では、夜鷹たちが怯えながら客を待ち、茶屋の主人は夜更けの客足が遠のくことに嘆いている。
なんとかしなければ、と正義感の強い佐那が立ち上がったのも頷ける話、かもしれない。
・・・
前日から龍馬に呼ばれていた千葉道場へ、馬を使って駆けつけてみれば、穏やかな雰囲気ではなかった。
門をくぐった瞬間に耳に飛び込んできたのは、怒気を孕んだ佐那の声だった。
何かをまくし立てる佐那と、それを説得するのか、押し留めようとする龍馬と周作。入り口付近では、高杉が壁にもたれかかり、ひどく面白そうにそのやり取りを眺めていた。
中に入るのはなんとなく憚られ、とりあえず無関係そうな高杉に声をかけることにした。
「なんの騒ぎだ?」
「おう、あんたか。深川の辻斬り、知ってるか?」
「もちろん。女ばかりが斬られる、っていうやつだろう? もうひと月になるか」
「その下手人をとっ捕まえるんだとさ、あのお嬢さんが」
「ああ……なるほど」
言い出したら止まらない佐那を、叔父と許嫁が止めようとしている。そういう構図らしい。
「……ん? お前はなんでここにいる?」
高杉は、言ってしまえば自分以上に部外者だ。それも、反目し合う組織に属している。ここにいる意味がないはずだ。
「幕府お抱えの道場の門弟がどんなものか敵情視察……のつもりだったんだがな。運悪く坂本さんに捕まって、巻き込まれ中だ」
「ははぁ……それは災難だな」
「そっちこそ、何しに来た?」
「昨日、龍馬から呼び出されてな。朝になったら千葉道場に来て欲しい、と」
「あんたも巻き込まれ組か。ご愁傷様」
「まあ、あの二人の祝言騒動に比べれば、どうって事ないよ」
「……待て。なんだ、その面白そうな事件は。詳しく聞かせろ」
「今度な」
そう笑って流し、洋靴を脱いで室内に上がり込む。
一声かければ、ぱあっと龍馬の顔が明るくなった。
「おう! おまんも来てくれちょったがか!」
パン、と龍馬が手を合わせて冬子に頭を下げる。
「頼むき! どうにか止めるがを手伝うてくれ!」
その必死な様子に女は肩をすくめた。
「私が言ったところで、という気がするが……」
ちら、と佐那へ視線を向ければ、彼女の正義に燃えて輝く瞳とぶつかった。
少し、何かを考えるような間があり、そして。
「私が一人で、武器を持たずに敵の本陣を歩くのが危ないと言う事でしたら――」
佐那が冬子の手を取り、ひたと真っ直ぐに見つめてくる。強い意志の煌めきが、そこに見えた。
「貴女にも来てもらう、ではどうでしょうか」
佐那の提案に、龍馬は「そう来るがかー……」と天を仰いで顔をぺしりと叩いた。横で聞いていた高杉は、殺しきれなかった笑いを吹き出す。そして周作は、声にならない大きな溜息をついた。
女で腕が立つ、となればこの流れは自然で必然だった。
「なるほど。龍馬、そのために私を呼んだのか」
「違うき!」
「これで問題はなくなりましたよね!」
「それは……いや……でもじゃ! こいつの返事を聞いちょらんき!」
「……分かりました。冬子さんと一緒に行くのも駄目だというのでしたら、もう許可など不要です。私は一人で勝手に行きます!」
佐那がきっぱりと言い放ち、くるりと背を向ける。その勢いに、龍馬と周作の顔が青ざめた。
「待ちなさい、佐那!」
「お、おい! ちっくと待て!」
慌てて引き留める龍馬を冬子は見上げた。普段は周りを振り回す側の男が、こうも振り回されるとは。
「報酬次第でなら、依頼として受けない事もないが?」
にやりと笑って言ってやれば、あー、とか、うー、とかの呻き声をひとしきり上げた後に、
「わあった、わあった!」
龍馬は両手を上げて、全面降伏した。
「特別に安くしてやるよ」
こうして、契約は締結した。
・・・
提灯を掲げ、二人の女が夜の深川を歩く。
ぼんやりとした灯りが足元を照らし、揺れる影が歪んでは伸びる。月は雲間に隠れたり顔を覗かせたりを繰り返し、そのたびに景色がぼんやりと浮かび上がる。
花街の華やぎとは裏腹に、外れの方はひっそりと静まり返り、軒並み戸が閉ざされていた。普段ならまだ人の気配があるはずだが、辻斬り騒ぎの影響か、ひどく沈んでいる。
二人の足音だけが、乾いた響きを残す中、冬子はふと隣を見る。佐那が妙にそわそわし、ちらちらとこちらを伺うような視線を感じる。
何か言いたいことがあるのだろうと察し、足を止めた。
「どうかしたのか? 何か気になることでも?」
「あの、その……ですね」
竹を割ったようなさっぱりとした性分の佐那が珍しく言い淀んだ。深い呼吸を一つしてから、意を決したように冬子を真っ直ぐ見つめた。
「こんなことをお聞きするのは無作法かと思うのですが、どうしても、お聞きしたいのです」
夜の闇の中、その瞳には提灯の灯りが反射して揺れていた。あまりの真剣な面持ちに、冬子は僅かばかり身構える。
「冬子さんは、好いた殿方はいらっしゃらないのですか?」
「はぁ?」
まったく予想外の質問に、素っ頓狂な声を出してしまった。
「冬子さんは、私の坂本様への想いも、恋愛についてを考え直している事も、ご存知ですよね?」
「そりゃあ、あの騒ぎに巻き込まれたからね」
件の祝言騒動と、その後の浮雲大夫への突撃騒動の件である。
冬子が肩をすくめると、佐那は少しだけ頬を染め、提灯を持つ手をぎゅっと握りしめた。
「冬子さんは、強いお方です。武芸に秀で、冷静で、どんな相手にも臆さない」
一拍置いて、少し声を落とす。
「そんな貴女が心を寄せる方はどのような方なのか、気になってしまって」
冬子は困った様に笑う。
「どうかな。そんな事、考えた事もなかったから」
「では、どのような殿方が好みなのでしょうか?」
「好み……?」
冬子はゆっくりと、その言葉の意味を考えながら呟き返した。
世間一般で言われる好みいうものは、ある程度の条件が決まっている。
頭の良い者。武芸に秀でた者。優しい者。人情に厚い者。。見目が良い者。金を持ち、権力を持つ者。あるいは、気高い志のある者。
だが、そうしたどれもが、冬子にはしっくりとこない。
「……私を」
ぽつりと落とされた言葉は、心のままに紡がれたものだ。
「私をひとりにしない人」
自分は、一人きりでは立っていられない。兄と師を失くしてから震える足で必死に立っている、弱い弱い人間だから。
佐那は冬子の答えに驚いたように瞬きをしたあと、少しからかうような笑みを浮かべながら、いたずらっぽく言う。
「……その条件、坂本様も当てはまりますよね? よく一緒に行動されてますよね?」
「ぐっ、だから、龍馬はそういうんじゃなくて」
「ふふふ、分かってますよ。それでは、その上で誰か思い浮かぶ方はいらっしゃいませんか?」
佐那の声が少し弾んだ。冬子はじりっと後ろへ下がる。
「そ、そんなに聞きたいものか?」
「はい! 実は私、こういうお話をしたいと、ずっと思っておりました。ですから是非、お聞かせください!」
佐那の圧が強い。思わず一歩、後ずさる。
冬子は軽くため息をつきながら、佐那の視線をかわすように夜道を見やる。
「ええ……特別……恋仲……」
特別、と脳裏に浮かんだのは、己の元を去った片割れである兄の姿だった。
あれから数年経とうとも、殺し合いを演じようとも、女の胸中を占める存在である事は揺るがない。
ならば恋仲……あの男は、そばに居てくれるだろうか。弱りきった時に、気づけばそこに居てくれる。離れるでもなく、近づくでもなく、面白がるように冬子の人生の傍を歩いて――いや、待て。
「……え?」
自分の考えに気づいてしまい、思わず口から漏れた声が、不自然なほど大きく響いた。
「!! それはどなたですか!?」
「ちょっ、落ち着いて! 目的、見失ってないか?!」
佐那は興味津々といった様子で、冬子へ詰め寄ろうとしていた。
──だが、その時。
「あんたら、ちっと不用心すぎやしねぇかい?」
暗がりから、数人の男の影が現れる。月明かりに照らされた刃がちらついた。
「この辺りは噂の人斬りの出る辺りなんだぜぇ?」
「マァ、今から人通りのある方へは行かせらんねぇがなぁ」
「上玉が二人たぁツイてる。おい、誰が斬る?」
──かかった。
瞬間、身体が反射的に動く。佐那をかばうように前に出ながら、短く命じた。
「佐那、この話は終わりだ」
佐那もすぐに表情を引き締め、懐から呼び子を取り出す。
「はい!」
甲高い笛の音が、深川の夜に響き渡った。
龍馬と高杉が駆け付ければそのまま制圧。同心が駆けつければそれとなく離脱。そう打ち合わせてある。
「この件が片付きましたら、是非ともお話の続きをいたしましょう!」
佐那は、戦闘態勢のままきらきらとした目で冬子を見た。
「……」
続けるのか、この話……ほんの少しだけ、冬子は戦いが長引くことを願ってしまうのだった。
・・・
暗闇の中、男たちが獣のように飛びかかる。冬子は僅かに身を沈め、最初の一撃を躱して男の足を払った。崩れた体勢に顎へ正確な蹴りを叩き込むと、そのまま昏倒した。
佐那が別の男の腕を取り、関節を極めて強引に捻り上げる。鈍い悲鳴が夜の闇に溶けた。
戦況は悪くない。この調子ならば制圧は容易いだろう。
不意に冬子の背筋に微かな寒気が走った。勘に従って、その方向に視線を向ける。闇の中に、もう一人いた。
「佐那!」
咄嗟に佐那を突き飛ばした。刹那、暗闇を裂く閃光が冬子の腕を掠める。
袖を伝う生ぬるい感触を感じながらも、冬子は表情を変えなかった。自分が負傷したことを悟られてはいけない。敵にも、佐那にも。付け入らせる隙も、不要な動揺も作ってはならない。
それにしても、自分は随分と変わってしまったものだ、と小さく笑いが漏れた。かつての自分なら、片割れ以外のために傷を負うことなど決してしなかったのに。
「この……っ!」
刀を振り抜いた男が、なおも佐那に斬りかかろうとする。冬子は素早くその手を掴み、関節を極限まで捻る。骨が悲鳴を上げる音がした。男の腕がありえない方向へと曲がる。
「ぎゃあああっ!」
甲高い叫びが上がると同時に、遠くから駆ける足音が聞こえてきた。
「おまんら、無事かえ?!」
龍馬の声だった。その隣には、どこか面白がるような目をした高杉の姿も見えた。
「俺達の出番なんざ必要ないんじゃあないか――っと」
高杉が何気なく足を踏み出した瞬間、一人の男が冬子の背後から飛びかかってきた。だが、次の瞬間、乾いた銃声が響き、男の足すれすれの地面に弾痕が穿たれる。
煙をくゆらせながら、龍馬が拳銃を片手に笑った。
「次は外さんき。じっとしちょれ」
男は弾かれたように動きを止め、牙を剥いて龍馬を睨みつける。その隙を突くように、高杉が身を翻した。雷の如き一刀で男を斬り伏せる。
「おまんらは下がっちょれ」
「いえ、戦えます!」
佐那は息を弾ませながらも、再び構え直す。その横で、冬子はひそかに右腕を見えないようにしながら、無言で身構えた。
「無茶だけはせんでくれよ! 晋作、さっさと終わらせるぜよ」
「わかってるよ」
龍馬と高杉が前に出ると、残った男たちは一瞬たじろいだ。だが、引く気はないらしい。
次の瞬間――残党どもが一斉に襲いかかってきた。
龍馬の拳銃が一発鳴る。狙いは外しているはずなのに、それだけで敵が一瞬ひるむ。息を呑む間もなく、飛び出した高杉の一撃に悲鳴も上げずに地面に倒れ込んだ。
「おっと」
冬子の背後に回り込もうとした男を、高杉がその動きに合わせてすぐさま足払いで転ばせる。地面に転がった男が苦しそうに呻くのをちらりと見てから、彼は軽く顎をしゃくった。
「お前さんにしちゃ、ちと動きが鈍いな?」
「気のせいだよ」
高杉の目が、一瞬だけ冬子の右腕をかすめた。
次の瞬間には素早く前進し、次の男が斬りかかってきた瞬間をとらえた。高杉の刀は流れるように振られ、敵の刀を弾きながら一気に斜めに切りつけた。相手はうめき声とともに血を撒き散らしながら、地面に倒れ込んだ。
その間に、龍馬も残った男を次々と無力化し、辺りには苦しげな呻き声だけが響く。
そして、遠くから足音が近づいてくる。四人は顔を見合わせる。
「これ以上は面倒になりそうじゃの。引き時かえ?」
龍馬がそう言うと、高杉も同じく頷いた。
「そうしよう。さっさと場所を移すぞ」
四人は素早くその場を離れた。
まもなくして、同心達が戦いの場に到着するが、すその頃には倒れた男たちだけが残されていた。
・・・
「ここまでくれば、ひとまずいいんじゃないか?」
冬子が足を止め、ずきんずきんと脈打つ痛みを押し隠しながらそっと息を整えた。
血の匂いで怪我がバレるかとひやりとするが、幸いにも潮の香りが強い。血の匂いも、それに紛れてしまうはずだ。着物の色も濃紺のものを選んで正解だった。血に染まった袖でも夜の闇の中ではそれとは分からない。
「そう……ですね」
佐那もまた、肩で息をしながら足を止めた。
後ろを振り返れば、同心たちの掲げる提灯はもう見えない。
四人はそれぞれに大きく息をついた。
「ま、あとは連中がどうにかしてくれるじゃろう」
龍馬が気楽な調子で笑い、帯に銃を押し込む。
「冬子さん、本当にありがとうございました!」
佐那が深々と頭を下げた。まだ興奮が冷めやらぬのか、頬がほんのりと紅潮している。
「……俺はちぃとばかし野暮用があってな。先に行かせてもらうぜ」
「おん。……今日は助かったき。感謝するぜよ」
「なら早いところ幕吏の使いっ走りなんか辞めて、こっちに戻ってきてほしいもんだがな」
「それとこれとは話が別じゃ」
高杉は肩をすくめると、ひらひらと手を振って闇の中へ消えていく。向かう先は花街だろうか。贔屓の料亭か、芸者にことの顛末でも伝えに行くつもりなのかもしれない。
「あの、冬子さん。良ければ今夜は我が家に泊まっていきませんか? これから麻布まで帰るのも大変でしょうし」
佐那の申し出に、冬子は一瞬、迷った。
しかし、袖の下、じくじくと滲む血の感触がある。今、佐那の家へ行けば、傷のことが露見してしまうだろう。
「……いや、長屋に帰るよ。馬を使えば、そう時間もかからない」
善意を断るのは気が引けたが、この傷を負い目にしてほしくはなかった。
ちらりと龍馬を見る。
「お前が彼女を送ってやれ」
「おまんは一人で大丈夫かえ?」
「夜道の一人歩きなんて、今更な話だよ」
軽く肩をすくめてみせると、龍馬は少し考えた後、「ほいたら、気ぃつけて帰れよ」と笑った。確かに、夜の町どころか雑木林や野盗の根城に単身乗り込むような女には不要な心配であった。
「明日、必ずお礼に伺います!」
佐那の声を背に、冬子はふたりと別れる。
懐から印籠を取り出し、中の薬をひとつをがり、と噛み砕いた。
苦味が舌に広がる。喉を焼くような感覚と共に、腕の痛みが鈍くなっていくのを感じながら、冬子はひとり、夜の道を歩き出した。
やがて、川沿いに出る。
月明かりが静かな水面を照らし、微かに光が揺れていた。
冬子はそのほのかな光を頼りに、川辺へと降りる。
ゆっくりと袖をまくると、右腕には深々と刻まれた傷。じくじくと滲む血が、肌を伝って流れていた。
懐から手拭いを取り出して、川の水で濡らして傷口を拭く。
「――っ!」
傷に沁みて焼けるような痛みが走るが、冷たさは心地よい。
繰り返してこびりついた血と傷口を綺麗にするが、血はまだ止まらない。手拭いもあっという間に真っ赤に染まっていく。
その時、ざり、と背後で砂を踏む音がした。
冬子は反射的に振り返る。
「……高杉」
「やっぱりな」
月明かりの下、男は腕を組み、呆れたようにこちらを見下ろしていた。
「さっきの動き、どう見ても妙だったからな。見逃すほど、俺も鈍かねぇ」
気取られていたとは。己の未熟さに小さくため息をついた。
「こりゃあひでぇな」
心底呆れた声だ。
高杉は眉をひそめ、傷の具合を見定めるように目を細める。
「広いだけで、深くはない。神経もやられてない」
「診療所には行かないのか」
「……朝になったら、行く」
「その言葉を信じるぞ。……どれ、腕、貸してみな。なぁに応急処置の心得くらいあるぜ。なんせ、うちの連中の手当てをしょっちゅうやってたからな」
やられたのは利き腕だ。一人で処置をする事は無理ではないが、やはり難しくはある。おずおずと腕を差し出した。
途端、傷口をぐっと押さえられる。
「っ……!」
「縫うほどじゃねぇな。布、あるかい?」
「手拭いか、着物の袖しかない」
「なら、悪いが着物を駄目にしちまうぞ。あとその帯の飾り紐も」
迷いもなく、高杉は着物の袖に刀を入れて裂いていく。
さらに腰に結えていた小さな土瓶を取り出し、躊躇なく中身を傷口に注ぐ。強い匂いがあたりに漂う。酒だ。
「もしもと思って買いに行って正解だったな」
「……っ!」
灼けるような痛みが、腕から脳天までを貫いた。
「痛いか」
「っ、当たり前だろ……!」
「痛いのは生きてる証拠、ってな。もうちっと我慢しな」
手際よく布を巻きつけ、しっかりと固定する。
冬子は思わず目を伏せた。
その瞬間、思い浮かんだのはもう会えぬ片割れの面影だった。
何度、怪我の手当てをしてもらっただろう。兄の手の、その感触を思い出す。
器用で、優しく、命を奪っていく、温かかった手。
それを思い出しながら、今、こうして高杉に手当てを受けているのが、不思議なことに感じられた。
「……」
何かを言おうとして、冬子は口を開く。
けれど、それは言葉にならず、結局そのまま閉じられた。
「なんだ、言いたいことがあるなら言ってみな」
促された言葉に、冬子は逡巡した後、ぽつりと漏らした。
「……兄さんみたいだな、と」
結び目を作る直前、高杉の手が一瞬止まる。
兄と高杉は、姿形も、性格も、生き方も、何もかも違う。
なのに、なぜか、似ていると感じてしまった。
「……すまない」
不用意に出た言葉だった。冬子はすぐに口を噤む。
だが、高杉は特に気にした風でもなく、淡々と袖だったものの上から帯の紐をしっかりと結んでいく。
「謝るな。言わせたのは俺だ」
その声音には、いつもの軽さがあった。
「そんなに恋しいか?」
「……うん」
冬子は夜風に紛れるほど小さな声で答えた。
「兄さんと師匠が、あの頃の私のすべてだったから」
今は違う。あの頃のままではいられないと分かっている。
「今は……もっと世界は広がったけれどね」
失くしたくないと思うものが、増えすぎた。手の中にあるものが増えれば増えるほど、何かを失う恐れも増していく。
「それでも、私の特別で唯一は兄さんなんだ」
静寂が訪れる。風の音すら、遠く感じるほどの沈黙。
高杉は何を思ったのか。その答えを求めるつもりはなかったが、ふと気になってしまった。
顔を上げると、月明かりの下で、高杉がじっとこちらを見つめていた。
いつものような軽薄な笑みはなく、感情の読めない視線だった。
長い沈黙のあと、ふっと、唇の端を持ち上げる。わずかに笑った。
「……妬けるねぇ」
声音は軽い。けれど、どこか滲むものがあったような気がした。それが何なのか、冬子には分からなかったが
風が吹いて、月が水面に揺れる。
巻かれた布だけが、じんわりと熱を持っていた。
2025.03.03
くるっぷ
夜の深川は、川面に映る灯りが揺らめき、潮の香りが微かに漂う街だ。艶やかな衣をまとった芸者や遊女が行き交い、三味線の音が遠くから聞こえてくる。活気ある茶屋や料亭の明かりが賑わいを醸す一方で、ひとたび路地裏に入れば闇が広がり、人の気配も途切れがちになる。
そんな華やかさと静寂が入り混じるこの町に、恐怖が忍び寄った。
あの辺りは芸者や遊女が多い。狙う相手に事欠かないのだろう。ひと月で十人の女が殺された。
彼女達に共通する点はなく、犯人は女という性に恨みを持つものか、はたまた女を斬ることに快感を覚えて常軌を逸した狂人か。江戸の街に住む者たちはそう噂しあった。
深川にいるのは芸者や遊女だけではない。お座敷遊びに興じる裕福な商人やお偉方、近くの木場で働く職人もいる。
同心たちの力の入れようも並々ならぬものだったが、懸命に巡回しているものの下手人は一向に捕まらなかった。
辻斬り騒ぎのせいで、夜の街はどこか沈んでいた。
深川の華やかな中心地はともかく、外れの方はもともと人通りが少ない。闇に包まれた路地裏では、夜鷹たちが怯えながら客を待ち、茶屋の主人は夜更けの客足が遠のくことに嘆いている。
なんとかしなければ、と正義感の強い佐那が立ち上がったのも頷ける話、かもしれない。
・・・
前日から龍馬に呼ばれていた千葉道場へ、馬を使って駆けつけてみれば、穏やかな雰囲気ではなかった。
門をくぐった瞬間に耳に飛び込んできたのは、怒気を孕んだ佐那の声だった。
何かをまくし立てる佐那と、それを説得するのか、押し留めようとする龍馬と周作。入り口付近では、高杉が壁にもたれかかり、ひどく面白そうにそのやり取りを眺めていた。
中に入るのはなんとなく憚られ、とりあえず無関係そうな高杉に声をかけることにした。
「なんの騒ぎだ?」
「おう、あんたか。深川の辻斬り、知ってるか?」
「もちろん。女ばかりが斬られる、っていうやつだろう? もうひと月になるか」
「その下手人をとっ捕まえるんだとさ、あのお嬢さんが」
「ああ……なるほど」
言い出したら止まらない佐那を、叔父と許嫁が止めようとしている。そういう構図らしい。
「……ん? お前はなんでここにいる?」
高杉は、言ってしまえば自分以上に部外者だ。それも、反目し合う組織に属している。ここにいる意味がないはずだ。
「幕府お抱えの道場の門弟がどんなものか敵情視察……のつもりだったんだがな。運悪く坂本さんに捕まって、巻き込まれ中だ」
「ははぁ……それは災難だな」
「そっちこそ、何しに来た?」
「昨日、龍馬から呼び出されてな。朝になったら千葉道場に来て欲しい、と」
「あんたも巻き込まれ組か。ご愁傷様」
「まあ、あの二人の祝言騒動に比べれば、どうって事ないよ」
「……待て。なんだ、その面白そうな事件は。詳しく聞かせろ」
「今度な」
そう笑って流し、洋靴を脱いで室内に上がり込む。
一声かければ、ぱあっと龍馬の顔が明るくなった。
「おう! おまんも来てくれちょったがか!」
パン、と龍馬が手を合わせて冬子に頭を下げる。
「頼むき! どうにか止めるがを手伝うてくれ!」
その必死な様子に女は肩をすくめた。
「私が言ったところで、という気がするが……」
ちら、と佐那へ視線を向ければ、彼女の正義に燃えて輝く瞳とぶつかった。
少し、何かを考えるような間があり、そして。
「私が一人で、武器を持たずに敵の本陣を歩くのが危ないと言う事でしたら――」
佐那が冬子の手を取り、ひたと真っ直ぐに見つめてくる。強い意志の煌めきが、そこに見えた。
「貴女にも来てもらう、ではどうでしょうか」
佐那の提案に、龍馬は「そう来るがかー……」と天を仰いで顔をぺしりと叩いた。横で聞いていた高杉は、殺しきれなかった笑いを吹き出す。そして周作は、声にならない大きな溜息をついた。
女で腕が立つ、となればこの流れは自然で必然だった。
「なるほど。龍馬、そのために私を呼んだのか」
「違うき!」
「これで問題はなくなりましたよね!」
「それは……いや……でもじゃ! こいつの返事を聞いちょらんき!」
「……分かりました。冬子さんと一緒に行くのも駄目だというのでしたら、もう許可など不要です。私は一人で勝手に行きます!」
佐那がきっぱりと言い放ち、くるりと背を向ける。その勢いに、龍馬と周作の顔が青ざめた。
「待ちなさい、佐那!」
「お、おい! ちっくと待て!」
慌てて引き留める龍馬を冬子は見上げた。普段は周りを振り回す側の男が、こうも振り回されるとは。
「報酬次第でなら、依頼として受けない事もないが?」
にやりと笑って言ってやれば、あー、とか、うー、とかの呻き声をひとしきり上げた後に、
「わあった、わあった!」
龍馬は両手を上げて、全面降伏した。
「特別に安くしてやるよ」
こうして、契約は締結した。
・・・
提灯を掲げ、二人の女が夜の深川を歩く。
ぼんやりとした灯りが足元を照らし、揺れる影が歪んでは伸びる。月は雲間に隠れたり顔を覗かせたりを繰り返し、そのたびに景色がぼんやりと浮かび上がる。
花街の華やぎとは裏腹に、外れの方はひっそりと静まり返り、軒並み戸が閉ざされていた。普段ならまだ人の気配があるはずだが、辻斬り騒ぎの影響か、ひどく沈んでいる。
二人の足音だけが、乾いた響きを残す中、冬子はふと隣を見る。佐那が妙にそわそわし、ちらちらとこちらを伺うような視線を感じる。
何か言いたいことがあるのだろうと察し、足を止めた。
「どうかしたのか? 何か気になることでも?」
「あの、その……ですね」
竹を割ったようなさっぱりとした性分の佐那が珍しく言い淀んだ。深い呼吸を一つしてから、意を決したように冬子を真っ直ぐ見つめた。
「こんなことをお聞きするのは無作法かと思うのですが、どうしても、お聞きしたいのです」
夜の闇の中、その瞳には提灯の灯りが反射して揺れていた。あまりの真剣な面持ちに、冬子は僅かばかり身構える。
「冬子さんは、好いた殿方はいらっしゃらないのですか?」
「はぁ?」
まったく予想外の質問に、素っ頓狂な声を出してしまった。
「冬子さんは、私の坂本様への想いも、恋愛についてを考え直している事も、ご存知ですよね?」
「そりゃあ、あの騒ぎに巻き込まれたからね」
件の祝言騒動と、その後の浮雲大夫への突撃騒動の件である。
冬子が肩をすくめると、佐那は少しだけ頬を染め、提灯を持つ手をぎゅっと握りしめた。
「冬子さんは、強いお方です。武芸に秀で、冷静で、どんな相手にも臆さない」
一拍置いて、少し声を落とす。
「そんな貴女が心を寄せる方はどのような方なのか、気になってしまって」
冬子は困った様に笑う。
「どうかな。そんな事、考えた事もなかったから」
「では、どのような殿方が好みなのでしょうか?」
「好み……?」
冬子はゆっくりと、その言葉の意味を考えながら呟き返した。
世間一般で言われる好みいうものは、ある程度の条件が決まっている。
頭の良い者。武芸に秀でた者。優しい者。人情に厚い者。。見目が良い者。金を持ち、権力を持つ者。あるいは、気高い志のある者。
だが、そうしたどれもが、冬子にはしっくりとこない。
「……私を」
ぽつりと落とされた言葉は、心のままに紡がれたものだ。
「私をひとりにしない人」
自分は、一人きりでは立っていられない。兄と師を失くしてから震える足で必死に立っている、弱い弱い人間だから。
佐那は冬子の答えに驚いたように瞬きをしたあと、少しからかうような笑みを浮かべながら、いたずらっぽく言う。
「……その条件、坂本様も当てはまりますよね? よく一緒に行動されてますよね?」
「ぐっ、だから、龍馬はそういうんじゃなくて」
「ふふふ、分かってますよ。それでは、その上で誰か思い浮かぶ方はいらっしゃいませんか?」
佐那の声が少し弾んだ。冬子はじりっと後ろへ下がる。
「そ、そんなに聞きたいものか?」
「はい! 実は私、こういうお話をしたいと、ずっと思っておりました。ですから是非、お聞かせください!」
佐那の圧が強い。思わず一歩、後ずさる。
冬子は軽くため息をつきながら、佐那の視線をかわすように夜道を見やる。
「ええ……特別……恋仲……」
特別、と脳裏に浮かんだのは、己の元を去った片割れである兄の姿だった。
あれから数年経とうとも、殺し合いを演じようとも、女の胸中を占める存在である事は揺るがない。
ならば恋仲……あの男は、そばに居てくれるだろうか。弱りきった時に、気づけばそこに居てくれる。離れるでもなく、近づくでもなく、面白がるように冬子の人生の傍を歩いて――いや、待て。
「……え?」
自分の考えに気づいてしまい、思わず口から漏れた声が、不自然なほど大きく響いた。
「!! それはどなたですか!?」
「ちょっ、落ち着いて! 目的、見失ってないか?!」
佐那は興味津々といった様子で、冬子へ詰め寄ろうとしていた。
──だが、その時。
「あんたら、ちっと不用心すぎやしねぇかい?」
暗がりから、数人の男の影が現れる。月明かりに照らされた刃がちらついた。
「この辺りは噂の人斬りの出る辺りなんだぜぇ?」
「マァ、今から人通りのある方へは行かせらんねぇがなぁ」
「上玉が二人たぁツイてる。おい、誰が斬る?」
──かかった。
瞬間、身体が反射的に動く。佐那をかばうように前に出ながら、短く命じた。
「佐那、この話は終わりだ」
佐那もすぐに表情を引き締め、懐から呼び子を取り出す。
「はい!」
甲高い笛の音が、深川の夜に響き渡った。
龍馬と高杉が駆け付ければそのまま制圧。同心が駆けつければそれとなく離脱。そう打ち合わせてある。
「この件が片付きましたら、是非ともお話の続きをいたしましょう!」
佐那は、戦闘態勢のままきらきらとした目で冬子を見た。
「……」
続けるのか、この話……ほんの少しだけ、冬子は戦いが長引くことを願ってしまうのだった。
・・・
暗闇の中、男たちが獣のように飛びかかる。冬子は僅かに身を沈め、最初の一撃を躱して男の足を払った。崩れた体勢に顎へ正確な蹴りを叩き込むと、そのまま昏倒した。
佐那が別の男の腕を取り、関節を極めて強引に捻り上げる。鈍い悲鳴が夜の闇に溶けた。
戦況は悪くない。この調子ならば制圧は容易いだろう。
不意に冬子の背筋に微かな寒気が走った。勘に従って、その方向に視線を向ける。闇の中に、もう一人いた。
「佐那!」
咄嗟に佐那を突き飛ばした。刹那、暗闇を裂く閃光が冬子の腕を掠める。
袖を伝う生ぬるい感触を感じながらも、冬子は表情を変えなかった。自分が負傷したことを悟られてはいけない。敵にも、佐那にも。付け入らせる隙も、不要な動揺も作ってはならない。
それにしても、自分は随分と変わってしまったものだ、と小さく笑いが漏れた。かつての自分なら、片割れ以外のために傷を負うことなど決してしなかったのに。
「この……っ!」
刀を振り抜いた男が、なおも佐那に斬りかかろうとする。冬子は素早くその手を掴み、関節を極限まで捻る。骨が悲鳴を上げる音がした。男の腕がありえない方向へと曲がる。
「ぎゃあああっ!」
甲高い叫びが上がると同時に、遠くから駆ける足音が聞こえてきた。
「おまんら、無事かえ?!」
龍馬の声だった。その隣には、どこか面白がるような目をした高杉の姿も見えた。
「俺達の出番なんざ必要ないんじゃあないか――っと」
高杉が何気なく足を踏み出した瞬間、一人の男が冬子の背後から飛びかかってきた。だが、次の瞬間、乾いた銃声が響き、男の足すれすれの地面に弾痕が穿たれる。
煙をくゆらせながら、龍馬が拳銃を片手に笑った。
「次は外さんき。じっとしちょれ」
男は弾かれたように動きを止め、牙を剥いて龍馬を睨みつける。その隙を突くように、高杉が身を翻した。雷の如き一刀で男を斬り伏せる。
「おまんらは下がっちょれ」
「いえ、戦えます!」
佐那は息を弾ませながらも、再び構え直す。その横で、冬子はひそかに右腕を見えないようにしながら、無言で身構えた。
「無茶だけはせんでくれよ! 晋作、さっさと終わらせるぜよ」
「わかってるよ」
龍馬と高杉が前に出ると、残った男たちは一瞬たじろいだ。だが、引く気はないらしい。
次の瞬間――残党どもが一斉に襲いかかってきた。
龍馬の拳銃が一発鳴る。狙いは外しているはずなのに、それだけで敵が一瞬ひるむ。息を呑む間もなく、飛び出した高杉の一撃に悲鳴も上げずに地面に倒れ込んだ。
「おっと」
冬子の背後に回り込もうとした男を、高杉がその動きに合わせてすぐさま足払いで転ばせる。地面に転がった男が苦しそうに呻くのをちらりと見てから、彼は軽く顎をしゃくった。
「お前さんにしちゃ、ちと動きが鈍いな?」
「気のせいだよ」
高杉の目が、一瞬だけ冬子の右腕をかすめた。
次の瞬間には素早く前進し、次の男が斬りかかってきた瞬間をとらえた。高杉の刀は流れるように振られ、敵の刀を弾きながら一気に斜めに切りつけた。相手はうめき声とともに血を撒き散らしながら、地面に倒れ込んだ。
その間に、龍馬も残った男を次々と無力化し、辺りには苦しげな呻き声だけが響く。
そして、遠くから足音が近づいてくる。四人は顔を見合わせる。
「これ以上は面倒になりそうじゃの。引き時かえ?」
龍馬がそう言うと、高杉も同じく頷いた。
「そうしよう。さっさと場所を移すぞ」
四人は素早くその場を離れた。
まもなくして、同心達が戦いの場に到着するが、すその頃には倒れた男たちだけが残されていた。
・・・
「ここまでくれば、ひとまずいいんじゃないか?」
冬子が足を止め、ずきんずきんと脈打つ痛みを押し隠しながらそっと息を整えた。
血の匂いで怪我がバレるかとひやりとするが、幸いにも潮の香りが強い。血の匂いも、それに紛れてしまうはずだ。着物の色も濃紺のものを選んで正解だった。血に染まった袖でも夜の闇の中ではそれとは分からない。
「そう……ですね」
佐那もまた、肩で息をしながら足を止めた。
後ろを振り返れば、同心たちの掲げる提灯はもう見えない。
四人はそれぞれに大きく息をついた。
「ま、あとは連中がどうにかしてくれるじゃろう」
龍馬が気楽な調子で笑い、帯に銃を押し込む。
「冬子さん、本当にありがとうございました!」
佐那が深々と頭を下げた。まだ興奮が冷めやらぬのか、頬がほんのりと紅潮している。
「……俺はちぃとばかし野暮用があってな。先に行かせてもらうぜ」
「おん。……今日は助かったき。感謝するぜよ」
「なら早いところ幕吏の使いっ走りなんか辞めて、こっちに戻ってきてほしいもんだがな」
「それとこれとは話が別じゃ」
高杉は肩をすくめると、ひらひらと手を振って闇の中へ消えていく。向かう先は花街だろうか。贔屓の料亭か、芸者にことの顛末でも伝えに行くつもりなのかもしれない。
「あの、冬子さん。良ければ今夜は我が家に泊まっていきませんか? これから麻布まで帰るのも大変でしょうし」
佐那の申し出に、冬子は一瞬、迷った。
しかし、袖の下、じくじくと滲む血の感触がある。今、佐那の家へ行けば、傷のことが露見してしまうだろう。
「……いや、長屋に帰るよ。馬を使えば、そう時間もかからない」
善意を断るのは気が引けたが、この傷を負い目にしてほしくはなかった。
ちらりと龍馬を見る。
「お前が彼女を送ってやれ」
「おまんは一人で大丈夫かえ?」
「夜道の一人歩きなんて、今更な話だよ」
軽く肩をすくめてみせると、龍馬は少し考えた後、「ほいたら、気ぃつけて帰れよ」と笑った。確かに、夜の町どころか雑木林や野盗の根城に単身乗り込むような女には不要な心配であった。
「明日、必ずお礼に伺います!」
佐那の声を背に、冬子はふたりと別れる。
懐から印籠を取り出し、中の薬をひとつをがり、と噛み砕いた。
苦味が舌に広がる。喉を焼くような感覚と共に、腕の痛みが鈍くなっていくのを感じながら、冬子はひとり、夜の道を歩き出した。
やがて、川沿いに出る。
月明かりが静かな水面を照らし、微かに光が揺れていた。
冬子はそのほのかな光を頼りに、川辺へと降りる。
ゆっくりと袖をまくると、右腕には深々と刻まれた傷。じくじくと滲む血が、肌を伝って流れていた。
懐から手拭いを取り出して、川の水で濡らして傷口を拭く。
「――っ!」
傷に沁みて焼けるような痛みが走るが、冷たさは心地よい。
繰り返してこびりついた血と傷口を綺麗にするが、血はまだ止まらない。手拭いもあっという間に真っ赤に染まっていく。
その時、ざり、と背後で砂を踏む音がした。
冬子は反射的に振り返る。
「……高杉」
「やっぱりな」
月明かりの下、男は腕を組み、呆れたようにこちらを見下ろしていた。
「さっきの動き、どう見ても妙だったからな。見逃すほど、俺も鈍かねぇ」
気取られていたとは。己の未熟さに小さくため息をついた。
「こりゃあひでぇな」
心底呆れた声だ。
高杉は眉をひそめ、傷の具合を見定めるように目を細める。
「広いだけで、深くはない。神経もやられてない」
「診療所には行かないのか」
「……朝になったら、行く」
「その言葉を信じるぞ。……どれ、腕、貸してみな。なぁに応急処置の心得くらいあるぜ。なんせ、うちの連中の手当てをしょっちゅうやってたからな」
やられたのは利き腕だ。一人で処置をする事は無理ではないが、やはり難しくはある。おずおずと腕を差し出した。
途端、傷口をぐっと押さえられる。
「っ……!」
「縫うほどじゃねぇな。布、あるかい?」
「手拭いか、着物の袖しかない」
「なら、悪いが着物を駄目にしちまうぞ。あとその帯の飾り紐も」
迷いもなく、高杉は着物の袖に刀を入れて裂いていく。
さらに腰に結えていた小さな土瓶を取り出し、躊躇なく中身を傷口に注ぐ。強い匂いがあたりに漂う。酒だ。
「もしもと思って買いに行って正解だったな」
「……っ!」
灼けるような痛みが、腕から脳天までを貫いた。
「痛いか」
「っ、当たり前だろ……!」
「痛いのは生きてる証拠、ってな。もうちっと我慢しな」
手際よく布を巻きつけ、しっかりと固定する。
冬子は思わず目を伏せた。
その瞬間、思い浮かんだのはもう会えぬ片割れの面影だった。
何度、怪我の手当てをしてもらっただろう。兄の手の、その感触を思い出す。
器用で、優しく、命を奪っていく、温かかった手。
それを思い出しながら、今、こうして高杉に手当てを受けているのが、不思議なことに感じられた。
「……」
何かを言おうとして、冬子は口を開く。
けれど、それは言葉にならず、結局そのまま閉じられた。
「なんだ、言いたいことがあるなら言ってみな」
促された言葉に、冬子は逡巡した後、ぽつりと漏らした。
「……兄さんみたいだな、と」
結び目を作る直前、高杉の手が一瞬止まる。
兄と高杉は、姿形も、性格も、生き方も、何もかも違う。
なのに、なぜか、似ていると感じてしまった。
「……すまない」
不用意に出た言葉だった。冬子はすぐに口を噤む。
だが、高杉は特に気にした風でもなく、淡々と袖だったものの上から帯の紐をしっかりと結んでいく。
「謝るな。言わせたのは俺だ」
その声音には、いつもの軽さがあった。
「そんなに恋しいか?」
「……うん」
冬子は夜風に紛れるほど小さな声で答えた。
「兄さんと師匠が、あの頃の私のすべてだったから」
今は違う。あの頃のままではいられないと分かっている。
「今は……もっと世界は広がったけれどね」
失くしたくないと思うものが、増えすぎた。手の中にあるものが増えれば増えるほど、何かを失う恐れも増していく。
「それでも、私の特別で唯一は兄さんなんだ」
静寂が訪れる。風の音すら、遠く感じるほどの沈黙。
高杉は何を思ったのか。その答えを求めるつもりはなかったが、ふと気になってしまった。
顔を上げると、月明かりの下で、高杉がじっとこちらを見つめていた。
いつものような軽薄な笑みはなく、感情の読めない視線だった。
長い沈黙のあと、ふっと、唇の端を持ち上げる。わずかに笑った。
「……妬けるねぇ」
声音は軽い。けれど、どこか滲むものがあったような気がした。それが何なのか、冬子には分からなかったが
風が吹いて、月が水面に揺れる。
巻かれた布だけが、じんわりと熱を持っていた。
2025.03.03
くるっぷ