その他いろいろ
柔らかな追憶
焦燥に駆られるように、空いた時間には横浜の街を巡った。依頼があろうがなかろうが、周囲の地域の方々にも足を伸ばした。表通りの活気のある店。やましいもの達の集う裏通り。さびれた村落。棄てられた寺社仏閣。洞穴や廃坑。人に尋ね歩き、身を寄せられそうな場所はしらみ潰しにあたった。それでも、どこにも片割れの痕跡は見つけられなかった。
昼夜も天気も問わずに体力の尽きるまで駆けずりまわり、馬に乗っていても疲労と睡魔に意識を途切れさせるようになったら丸薬を齧り、それでも限界を感じたら野宿や長屋へ戻ったりしてほんの数刻だけ眠る。食事は適当な時間に蕎麦を一杯。そしてまた捜索の旅に出る。そんな日々を三月近く繰り返せば、さしもの過酷な訓練を積んできた隠し刀と言えども心身共に磨耗し、体調を崩そうと言うものだ。
西の空が茜色に染まる頃、隠し刀は横浜の長屋へと戻ってきた。
戸締りや灯りをつけるだけの気力もなく、乱雑に草履を脱ぎ捨た。刀は手の届くところに置いて、囲炉裏の側にばたりと倒れた。ひんやりとした床は硬くて体が痛んだ。
倒れている場合ではないのに、と女の胸中には焦りと不安ばかりが募っていく。
腰紐に結えていた印籠から丸薬を二つ取り出してがりがりと噛み砕く。疲労回復、治癒力の向上、鎮痛効果に高揚感と僅かばかりの酩酊感。疲れを取り除き、傷ついた身体を無理やり動ける状態にする薬だが、病気を治したり栄養失調や睡眠不足をどうこうするようなものではない。
いつもなら身体を動かせるほどに回復するのに、今回ばかりはそうはいかなかった。体力の落ちた身体では、過剰摂取についていけなかった。
起き上がろうと四肢に力を入れようとするがまったく入らず、身体は鉛のように重たかった。頭は霞がかったようぼんやりする。
「ぐ、うぅ……」
吐き気も酷かった。
重たい風邪に罹ったときだって、ここまでの症状は出なかったように記憶している。
「……にいさん」
『俺がそばにいるから。眠っておけ』
風邪から連想して思い出されたのは、額に触れる大きくて暖かい手と、そう言ってくれた優しい声だった。
「にいさん」
そんな優しい思い出を燃やし尽くすように、先日の再会が脳裏を焼く。
一切の迷いなく振るわれた刀。暗く冷たい吹雪く冬の夜のような目。鋭利な刃物の思わせる硬い声。本気の殺意。
どうして、という混乱が渦巻く。
兄にとって、片割れである己は、妹である私は、不要な、邪魔な存在だったのだろうか。殺しても構わないと思う程に。
じわりと眦に涙が浮かび、ぐぐっと母の胎の中の胎児のように体を丸める。
ひとりに、しないで。
「……い……おい、しっかりしろ。大丈夫か?」
低く響く声が、薄闇の中で女の意識を呼び戻した。
身体をゆすられて、うっすらと目をひらく。
誰かに覗き込んでいるようだが、光量は心許なく、焦点を結ばずに彷徨う瞳では、ぼんやりとしか人影を捉えられない。
呼びかけるのは男の声だ。女が思い浮かべるのは、一人しかいない。
「……に……さん……?」
強く肩を掴む手は節くれ立ち、鍛えられたているのが着物越しでも分かる。
女は男の手をこの世で一番大切なもののように取り、すりと頬を寄せた。
「っ、おい」
すん、と鼻を鳴らせば白粉と白檀と酒と、僅かに血の混ざったような匂いがした。懐かしく、恋しく、そして忌まわしい匂い。
三味線だけではなく、刀も振るう硬い手を化粧研ぎらしくない手付きだと師匠は評した。隠し刀の数も少なく、幾つもの任務をこなさなければならない以上は仕方がなかったし、何でもできる兄の大きな手が女は好きだった。
もう二度と触れられないはずのその手に、今、自分は確かに触れている。触れられている。その事実に胸が熱くなった。
「もう、ひとりにしないで……」
囁くような声は、ひどく頼りなく震えていた。
頭上から一つ、長々と細く息を吐く音がした。
「……悪いが、俺は兄貴じゃねえよ」
男の声に女は目を瞬いた。
瞳は未だ焦点を結ばず、夢うつつのまま彷徨うようだったが、目の前にいるのが兄ではなく、最近つるむようになった男であることを理解した。
「……たか、すぎ……? わたし……どう、して」
掠れた声でぼんやりと呟く女の顔を、男――高杉はじっと見下ろした。いつもの気丈な女とは思えない、頼りなげで無防備な表情。
いつもの調子で軽口を叩くでもなく、静かに目を細める。
だがすぐに、いつもの調子で肩をすくめながら口を開いた。
「桂さんからの差し入れを持ってきたら、部屋は暗いが人の気配はある。そのくせ戸締まりはされていない……空き巣でもいるのかと思って勝手に上がらせてもらったら、あんたがぶっ倒れていた。どうして、と聞きたいのはこっちだぜ」
女はすぐに状況を飲み込めず、じんわりと滲む視界を瞬きで振り払う。
「……具合が、悪くて。薬、飲んで。それから、ええと……」
思い出そうとしたが、頭が上手く回らない。まともに口を動かすのも億劫だった。
「ははぁ……なんとなく察したぞ。あんた、その丸薬は万能薬じゃない。飲み過ぎりゃあ毒だ」
蓋の開いた印籠と、床に散らばった黒い玉を確認して、高杉は断言した。
いつの頃から武闘派連中の間で出回るようになった丸薬には、高杉もよく世話になっている。その薬の効能と危険性を十分に承知していた。
「……いつもは、このくらい飲んでも大丈夫だったから」
「普段使いするようなもんじゃないんだがなぁ……ああ、待て。寝てろ」
無理に身体を起こそうとした女の肩を、高杉が片手で押し留め、勝手知ったるとばかりに部屋の隅に乱雑に置かれた行李から適当な着物を引っ張り出してきて、それを女の頭の下に差し込む。存外に気のつく男だ。
それから囲炉裏に手早く火を入れ、蝋燭に灯りを点した。近くなければ互いの顔もよく見えなかった暗い部屋が、頼りないながらも暖かな光に照らされる。
気を失っていたのは、半刻程だろうか。全身は未だ重く、身体の芯は妙に火照るようでぞわぞわとする。
それでも、誰かが傍にいるというだけで、ほんの少しだけ楽になった気がする。
高杉は枕元に胡座をかき、こちらを見下ろしていた。
「まともに食ってなさそうなあんたへの差し入れだ。桂さんと坂本さんが気を揉んでたぞ」
饅頭だそうだ、と高杉は包みを横に置いた。
先日、桂に鬼の手の侍についての情報がないかを尋ねに櫻屋へ行った時、出会った二人に顔色の悪さを心配されたのを思い出す。
「あ、りがとう」
「礼なら二人に直接言ってやってくれ。その時には、その幽鬼みたいな顔色をどうにかしておくんだな」
気を遣われることに慣れていないせいか、胸の奥に奇妙な感覚が生まれる。こんなに弱り果てた姿を見せることになるとは思わなかった。
不意に、冷たい夜風が障子の隙間から吹き込んで、頬を撫でていった。女が反射的に肩をすくめると、男はさっと立ち上がり夜着を取って掛けてくれた。本当に気がつく男である。
「一人で気を滅入らせてるんなら、櫻屋に来い。桂さんも坂本さんも喜んで飯に連れてってくれるぜ。俺も御相伴に与れんもんかねえ。この間、賭場ですっちまってな」
高杉が戯けたように笑う。その軽薄な口調が、張り詰めていた糸を少しだけ緩めてくれた。ふふ、と小さく笑い声が漏れる。
そして、一度緩んでしまえば、際限がなくなってしまう。
女はそっと手を伸ばし、高杉の手を取る。
大きく、節くれ立ち、剣を振るう鍛えられた硬い掌。それをゆっくりと自分の顔に引き寄せ、猫がするようにその掌に頬ずりをする。懐かしさと切なさが胸を満たし、喉の奥がきゅっと締めつけられた。
「……世話をかけさせて、ごめん。もうちょっとだけ、こうさせてて」
意識がとろりと溶けそうになりながらも、女は掴んだ手を離さなかった。
さわ、と指先でその甲を撫でる。
「貴方の手は、兄さんにちょっと似てる」
「へえ? どこら辺が似てるんだ?」
高杉は女の行為を咎めもせず、ただ興味深そうに問い返す。その声音の奥には、探るような色が滲んでいた。常の女ならば気が付いたであろうが、正常に働かない頭と直感ではそれに気づかない。
「大きくて、皮膚が厚くて硬くて、暖かい」
「剣を使う奴なら、大抵はそうだろう」
「……あと、匂いも」
目を閉じたまま、女は鼻をくすぐる香りを辿るように息を吸い込む。
「白粉と白檀と酒の奥に、血の匂いが隠れてる」
高杉は口の端をわずかに持ち上げた。
指先で女の頬を軽く撫でながら、ふと零す。
「じゃあなんだ、あんたの兄貴は大層な色男で、剣が得意で、遊び人で、人殺しってことになるな」
自分に似てるという事はそういう事だろう? と冗談めいた口調だったが、刃のような鋭さを孕んでいた。
「……そう、だね。遊び人ではなかったけど、概ね合ってる」
懐かしさと痛みが入り混じったような声で、女はぽつりと続けた。
「私には、優しかったよ」
思い出の中の兄が笑う。
美しい人だった。線の細い容姿も、立ち居振る舞いも。その気のない同性さえ絡め取る儚く艶やかな色気を意図して纏う。刀を持たせれば技巧も力も兼ね備え、しなやかな獣を思わせた。薬の知識にも明るく、怪我をすればすぐに手当てをしてくれた。挫けそうな時はいつも励ましてくれて、食事に好物が入っていればこっそり分けてくれて、不愉快な任務を率先して引き受けてくれた。
「妹を殺そうとするような奴がか?」
「……それでも、本当に優しかったんだよ。ずっと」
女はそっと目を伏せた。
急な気温の変化に体がついていけず、風邪を引いて寝込んでしまった日。
ぱちぱちと薪の爆ぜる音をさせる囲炉裏の側で、弛んでいると厳しく叱りながら薬を作ってくれる師匠と、そんな師匠をまあまあと宥めながら、枕元に座って頭を撫でてくれた兄。
体は辛くても確かに幸せであった、あのキンと張り詰めて寒い冬の始まりの頃。
再び冷たい夜風が障子の隙間から吹き込み、女の頬をかすめた。その冷たさも、優しい記憶を思い出す引き金なってしまう。この寒さも、この孤独も、一人では耐えられそうになかった。
「……一度だけ。何も聞かずに、ほたる、って呼んで」
蛍。隠し刀となった時に捨てた名前。その名を知るのは、今はもう行方の知れない兄だけだ。そして、その名を呼んでくれる人も、今はいない。それがどうしようもなく、寂しくて、悲しかった。
震える声で告げられた願いに高杉が一瞬、息を飲む小さな音が聞こえた気がした。
「……ほたる」
思いの外、穏やかな声音が女の耳に届いた。少なくとも、呆れや同情が含まれるような響きではない。
胸の奥で押し殺していた感情が、決壊した。許容量を超えてぽろぽろと溢れた涙を、高杉の指がそっと拭い取る。荒々しさとは無縁の繊細な仕草に、久しく感じていなかった安堵が胸を満たしていく。
そのまま女は、夢も見ないほど深い眠りへと落ちていった。
2025.02.21
くるっぷ
焦燥に駆られるように、空いた時間には横浜の街を巡った。依頼があろうがなかろうが、周囲の地域の方々にも足を伸ばした。表通りの活気のある店。やましいもの達の集う裏通り。さびれた村落。棄てられた寺社仏閣。洞穴や廃坑。人に尋ね歩き、身を寄せられそうな場所はしらみ潰しにあたった。それでも、どこにも片割れの痕跡は見つけられなかった。
昼夜も天気も問わずに体力の尽きるまで駆けずりまわり、馬に乗っていても疲労と睡魔に意識を途切れさせるようになったら丸薬を齧り、それでも限界を感じたら野宿や長屋へ戻ったりしてほんの数刻だけ眠る。食事は適当な時間に蕎麦を一杯。そしてまた捜索の旅に出る。そんな日々を三月近く繰り返せば、さしもの過酷な訓練を積んできた隠し刀と言えども心身共に磨耗し、体調を崩そうと言うものだ。
西の空が茜色に染まる頃、隠し刀は横浜の長屋へと戻ってきた。
戸締りや灯りをつけるだけの気力もなく、乱雑に草履を脱ぎ捨た。刀は手の届くところに置いて、囲炉裏の側にばたりと倒れた。ひんやりとした床は硬くて体が痛んだ。
倒れている場合ではないのに、と女の胸中には焦りと不安ばかりが募っていく。
腰紐に結えていた印籠から丸薬を二つ取り出してがりがりと噛み砕く。疲労回復、治癒力の向上、鎮痛効果に高揚感と僅かばかりの酩酊感。疲れを取り除き、傷ついた身体を無理やり動ける状態にする薬だが、病気を治したり栄養失調や睡眠不足をどうこうするようなものではない。
いつもなら身体を動かせるほどに回復するのに、今回ばかりはそうはいかなかった。体力の落ちた身体では、過剰摂取についていけなかった。
起き上がろうと四肢に力を入れようとするがまったく入らず、身体は鉛のように重たかった。頭は霞がかったようぼんやりする。
「ぐ、うぅ……」
吐き気も酷かった。
重たい風邪に罹ったときだって、ここまでの症状は出なかったように記憶している。
「……にいさん」
『俺がそばにいるから。眠っておけ』
風邪から連想して思い出されたのは、額に触れる大きくて暖かい手と、そう言ってくれた優しい声だった。
「にいさん」
そんな優しい思い出を燃やし尽くすように、先日の再会が脳裏を焼く。
一切の迷いなく振るわれた刀。暗く冷たい吹雪く冬の夜のような目。鋭利な刃物の思わせる硬い声。本気の殺意。
どうして、という混乱が渦巻く。
兄にとって、片割れである己は、妹である私は、不要な、邪魔な存在だったのだろうか。殺しても構わないと思う程に。
じわりと眦に涙が浮かび、ぐぐっと母の胎の中の胎児のように体を丸める。
ひとりに、しないで。
「……い……おい、しっかりしろ。大丈夫か?」
低く響く声が、薄闇の中で女の意識を呼び戻した。
身体をゆすられて、うっすらと目をひらく。
誰かに覗き込んでいるようだが、光量は心許なく、焦点を結ばずに彷徨う瞳では、ぼんやりとしか人影を捉えられない。
呼びかけるのは男の声だ。女が思い浮かべるのは、一人しかいない。
「……に……さん……?」
強く肩を掴む手は節くれ立ち、鍛えられたているのが着物越しでも分かる。
女は男の手をこの世で一番大切なもののように取り、すりと頬を寄せた。
「っ、おい」
すん、と鼻を鳴らせば白粉と白檀と酒と、僅かに血の混ざったような匂いがした。懐かしく、恋しく、そして忌まわしい匂い。
三味線だけではなく、刀も振るう硬い手を化粧研ぎらしくない手付きだと師匠は評した。隠し刀の数も少なく、幾つもの任務をこなさなければならない以上は仕方がなかったし、何でもできる兄の大きな手が女は好きだった。
もう二度と触れられないはずのその手に、今、自分は確かに触れている。触れられている。その事実に胸が熱くなった。
「もう、ひとりにしないで……」
囁くような声は、ひどく頼りなく震えていた。
頭上から一つ、長々と細く息を吐く音がした。
「……悪いが、俺は兄貴じゃねえよ」
男の声に女は目を瞬いた。
瞳は未だ焦点を結ばず、夢うつつのまま彷徨うようだったが、目の前にいるのが兄ではなく、最近つるむようになった男であることを理解した。
「……たか、すぎ……? わたし……どう、して」
掠れた声でぼんやりと呟く女の顔を、男――高杉はじっと見下ろした。いつもの気丈な女とは思えない、頼りなげで無防備な表情。
いつもの調子で軽口を叩くでもなく、静かに目を細める。
だがすぐに、いつもの調子で肩をすくめながら口を開いた。
「桂さんからの差し入れを持ってきたら、部屋は暗いが人の気配はある。そのくせ戸締まりはされていない……空き巣でもいるのかと思って勝手に上がらせてもらったら、あんたがぶっ倒れていた。どうして、と聞きたいのはこっちだぜ」
女はすぐに状況を飲み込めず、じんわりと滲む視界を瞬きで振り払う。
「……具合が、悪くて。薬、飲んで。それから、ええと……」
思い出そうとしたが、頭が上手く回らない。まともに口を動かすのも億劫だった。
「ははぁ……なんとなく察したぞ。あんた、その丸薬は万能薬じゃない。飲み過ぎりゃあ毒だ」
蓋の開いた印籠と、床に散らばった黒い玉を確認して、高杉は断言した。
いつの頃から武闘派連中の間で出回るようになった丸薬には、高杉もよく世話になっている。その薬の効能と危険性を十分に承知していた。
「……いつもは、このくらい飲んでも大丈夫だったから」
「普段使いするようなもんじゃないんだがなぁ……ああ、待て。寝てろ」
無理に身体を起こそうとした女の肩を、高杉が片手で押し留め、勝手知ったるとばかりに部屋の隅に乱雑に置かれた行李から適当な着物を引っ張り出してきて、それを女の頭の下に差し込む。存外に気のつく男だ。
それから囲炉裏に手早く火を入れ、蝋燭に灯りを点した。近くなければ互いの顔もよく見えなかった暗い部屋が、頼りないながらも暖かな光に照らされる。
気を失っていたのは、半刻程だろうか。全身は未だ重く、身体の芯は妙に火照るようでぞわぞわとする。
それでも、誰かが傍にいるというだけで、ほんの少しだけ楽になった気がする。
高杉は枕元に胡座をかき、こちらを見下ろしていた。
「まともに食ってなさそうなあんたへの差し入れだ。桂さんと坂本さんが気を揉んでたぞ」
饅頭だそうだ、と高杉は包みを横に置いた。
先日、桂に鬼の手の侍についての情報がないかを尋ねに櫻屋へ行った時、出会った二人に顔色の悪さを心配されたのを思い出す。
「あ、りがとう」
「礼なら二人に直接言ってやってくれ。その時には、その幽鬼みたいな顔色をどうにかしておくんだな」
気を遣われることに慣れていないせいか、胸の奥に奇妙な感覚が生まれる。こんなに弱り果てた姿を見せることになるとは思わなかった。
不意に、冷たい夜風が障子の隙間から吹き込んで、頬を撫でていった。女が反射的に肩をすくめると、男はさっと立ち上がり夜着を取って掛けてくれた。本当に気がつく男である。
「一人で気を滅入らせてるんなら、櫻屋に来い。桂さんも坂本さんも喜んで飯に連れてってくれるぜ。俺も御相伴に与れんもんかねえ。この間、賭場ですっちまってな」
高杉が戯けたように笑う。その軽薄な口調が、張り詰めていた糸を少しだけ緩めてくれた。ふふ、と小さく笑い声が漏れる。
そして、一度緩んでしまえば、際限がなくなってしまう。
女はそっと手を伸ばし、高杉の手を取る。
大きく、節くれ立ち、剣を振るう鍛えられた硬い掌。それをゆっくりと自分の顔に引き寄せ、猫がするようにその掌に頬ずりをする。懐かしさと切なさが胸を満たし、喉の奥がきゅっと締めつけられた。
「……世話をかけさせて、ごめん。もうちょっとだけ、こうさせてて」
意識がとろりと溶けそうになりながらも、女は掴んだ手を離さなかった。
さわ、と指先でその甲を撫でる。
「貴方の手は、兄さんにちょっと似てる」
「へえ? どこら辺が似てるんだ?」
高杉は女の行為を咎めもせず、ただ興味深そうに問い返す。その声音の奥には、探るような色が滲んでいた。常の女ならば気が付いたであろうが、正常に働かない頭と直感ではそれに気づかない。
「大きくて、皮膚が厚くて硬くて、暖かい」
「剣を使う奴なら、大抵はそうだろう」
「……あと、匂いも」
目を閉じたまま、女は鼻をくすぐる香りを辿るように息を吸い込む。
「白粉と白檀と酒の奥に、血の匂いが隠れてる」
高杉は口の端をわずかに持ち上げた。
指先で女の頬を軽く撫でながら、ふと零す。
「じゃあなんだ、あんたの兄貴は大層な色男で、剣が得意で、遊び人で、人殺しってことになるな」
自分に似てるという事はそういう事だろう? と冗談めいた口調だったが、刃のような鋭さを孕んでいた。
「……そう、だね。遊び人ではなかったけど、概ね合ってる」
懐かしさと痛みが入り混じったような声で、女はぽつりと続けた。
「私には、優しかったよ」
思い出の中の兄が笑う。
美しい人だった。線の細い容姿も、立ち居振る舞いも。その気のない同性さえ絡め取る儚く艶やかな色気を意図して纏う。刀を持たせれば技巧も力も兼ね備え、しなやかな獣を思わせた。薬の知識にも明るく、怪我をすればすぐに手当てをしてくれた。挫けそうな時はいつも励ましてくれて、食事に好物が入っていればこっそり分けてくれて、不愉快な任務を率先して引き受けてくれた。
「妹を殺そうとするような奴がか?」
「……それでも、本当に優しかったんだよ。ずっと」
女はそっと目を伏せた。
急な気温の変化に体がついていけず、風邪を引いて寝込んでしまった日。
ぱちぱちと薪の爆ぜる音をさせる囲炉裏の側で、弛んでいると厳しく叱りながら薬を作ってくれる師匠と、そんな師匠をまあまあと宥めながら、枕元に座って頭を撫でてくれた兄。
体は辛くても確かに幸せであった、あのキンと張り詰めて寒い冬の始まりの頃。
再び冷たい夜風が障子の隙間から吹き込み、女の頬をかすめた。その冷たさも、優しい記憶を思い出す引き金なってしまう。この寒さも、この孤独も、一人では耐えられそうになかった。
「……一度だけ。何も聞かずに、ほたる、って呼んで」
蛍。隠し刀となった時に捨てた名前。その名を知るのは、今はもう行方の知れない兄だけだ。そして、その名を呼んでくれる人も、今はいない。それがどうしようもなく、寂しくて、悲しかった。
震える声で告げられた願いに高杉が一瞬、息を飲む小さな音が聞こえた気がした。
「……ほたる」
思いの外、穏やかな声音が女の耳に届いた。少なくとも、呆れや同情が含まれるような響きではない。
胸の奥で押し殺していた感情が、決壊した。許容量を超えてぽろぽろと溢れた涙を、高杉の指がそっと拭い取る。荒々しさとは無縁の繊細な仕草に、久しく感じていなかった安堵が胸を満たしていく。
そのまま女は、夢も見ないほど深い眠りへと落ちていった。
2025.02.21
くるっぷ