その他いろいろ
ここは奈落の花溜まり
城の食堂には、かすかな蝋燭の光が揺れていた。その灯りはどこか頼りなく、広大な食堂の隅々まで照らしきれない。
シャンデリアの下の長いテーブルには、磨き上げられた銀食器と豪華な食事が並べられている。深紅のワインが注がれたグラスは燭台の明かりを受けて煌めき、その横には焼きたての肉をはじめ豪勢な料理が置かれていた。
薄暗く、どこか息の詰まりそうなこの広大な城に二人きり、タヴとアスタリオンは向かい合いながら、くつろいだ様子で食事を楽しんでいた。
「……で、そいつが『最強の戦士はこの俺様だっ!』って叫んで突っかかってきて」
「お前を相手にか? 命知らずにもほどかあるな。それで?」
「一発でのびた」
アスタリオンは思わずグラスを傾けながら肩を震わせた。
「それは……ははは、あまりにも哀れじゃないか」
「だろう? 見かけ倒しもいいところだよ。本気を出すまでもなかったんだ。取り巻き共がそいつを引き摺って帰ってくれればいいものを、騒ぎ出す始末でなあ。気がつけば酒場で乱闘騒ぎ。危うく憲兵に捕まるところだったよ」
アスタリオンは指でグラスの縁をなぞりながら、口元に笑みを浮かべた。
「人は、噂というものをすぐに大げさにするものだな」
「全くだ。あーあ、どこかに私を楽しませてくれる戦士はいないものかな!」
「まだそんな事を言ってるのか。お前はそろそろ族長として歳相応の落ち着きを――いや、待て」
肉を貪り、パンに齧りつき、硬いエビの殻を容易く割って、酒を水の様に飲む女の食べ方は以前とほとんど変わらない。
衰えることのない食事の勢いにふと違和感を覚え、あの戦いから三十年経ってもあまり外見が変わらない事にようやく気がついた。
「そう言えば、お前、全く老けないな」
「ん、ふぉうふぁ?」
アスタリオン自身、元々長寿種であるハイ・エルフであり今は時の流れなど無意味な種へと昇格している。彼の周りに侍る使用人達もまた老いから解放されていて、そこへやってくるタヴが定命の者であるヒューマンだという事がすっかり頭から抜け落ちていた。
父親の違う三児をもうけ、孤児を引き取り、孫もそろそろかという五十代の半ばに差し掛かるはずが、未だに三十代程度にしか見えない。祖先のどこかでエルフの血が混じり、それが寿命という形で強く出てしまっているのだろうか。
タヴは頬張った肉をワインで流し込み、親指の腹で口の端についたソースを拭ってぺろりと舐め取る。
「ああ、レイゼルや皇帝とアストラル界に行くからかな? あそこは時の流れがほぼないから。それか、ゲイルからの要請も多くて何かの加護でも貰ってるかもしれないな?」
心当たりをいくつか挙げて、今度聞いてみるよ、とタヴは笑って答えた。
「……ほう?」
尋ねた男の疑問は解消されたが、同時にぴしりと、大切に大切にしまっていた硝子でできた宝物に大きなヒビが入ったような、そんな音が内側から響いた気がした。
自分以外の誰かが、そこに存在するなどアスタリオンは想像もしていなかった。
彼女の氏族ならば、許していた。命を繋いでいく定命の者でありたいと言った彼女の、その命と願いに連なる者達だからだ。だが、その他は違う。
スポーンになって共に永遠を生きようという申し出はすげなく断っておきながら。自由でありたいというその意思を尊重したくて諦めたのに。まだ、愛しているのに。
「しかし、この肉料理は旨いな。ワインとよく合う」
「そうか」
お前は、他の者と永遠を生きようと言うのか。
銀の盃に注がれた赤いワインに映るアスタリオンの目は、闇夜よりもなお昏かった。
・・・
タヴがアスタリオンからザール宮殿へ再度招かれたのは、それから三ヶ月ほど後の事だった。
『この手紙を受け取ったら、ザール宮殿へ来てほしい。お前に頼みたい事がある』
流麗な文字で書かれた、実に完結な文章だ。あえて期日が記されていないのも、タヴが村を空けている事を分かっているからだ。ちなみに、記された日付は一月前である。
急ぎの用件でもなさそうだがあまり待たせるわけにもいかないと、アストラル界から戻ってきたばかりのタヴは最低限の身支度だけを済ませる。休む暇もない。
「忙しい理由の大半は貴女の趣味でしょうが」
とは留守にしがちなタヴに代わり、村の一切を仕切ってくれる息子の言だ。
蛮族としては物腰が柔らかすぎるきらいはあるが、戦士としての技量も統率者としての資質も充分で、何よりも頭が良いとこれ以上にない優良株に、もうそろそろ族長業を譲って隠居したいのだが、なかなか首を縦に振ってもらえない。
そんな息子が、どうにも不安そうな表情をする。
「どうした? 何か気になるのか?」
「……本当に行くんですか」
「? アスタリオンのところだぞ。いつも行ってる」
ザール宮殿は友人の家だ。呼ばれたら行くし、呼ばれなくても行く。辺境にあるこの村からは遠いが、神格となった親切な友人が利用者を限定したポータルを開いてくれたので行き来はしやすいのだ。
「そうなんですが……何と言うか、その手紙を受け取った時から嫌な感じがするんです。肌がゾワゾワする」
息子が腕をさする。僅かにだが、言うように鳥肌が立っているようだ。
「私にはただの手紙にしか感じなかったが……戦士の直感は大切にするべき、か。気をつけるよ」
「本当に気をつけてくださいよ。長年の友人だとは言え、彼はヴァンパイア達の王なんですから」
表立った悪事は働かないものの、近年の数々の事件の裏で暗躍しているのは間近いなくかのヴァンパイアだ。親しげな顔をしておいて、その腹の中で何を考えているのか分かったものではない。決して信用してはならない。
それがタヴの息子が、母の友人に抱く印象だ。
「分かってる。……お前の杞憂であってほしいものだな。さて、それじゃあとは頼んだよ。私が帰らない時は、お前が族長だ」
いつもの別れの挨拶を口にして、ひらりと手を振ってタヴは光の中に消えた。今頃はもう、ザール宮殿に着いているだろう。
「無事の帰還をお待ちしてます、母さん」
その声は、誰にも届かなかった。
・・・
タヴが宮殿に着けば見知った使用人である女のスポーンに出迎えられ、通されたのはいつもの待合室ではなかった。
「ご主人様より、今宵はこちらの衣装をお召しになられるよう言付かっております」
控えるメイドは三人。その横に白いドレスを着せられたトルソーが置かれている。
「ええ……着ないとダメなのか?」
「はい。是非に、との事です」
タヴは心底嫌そうな顔をするが、メイド達の表情は変わらない。
「まずは入浴からとなります」
「はあ!? なんでそんな面倒なところから!」
「『奴の事だ。どうせ戦い帰りで最低限の身支度だと抜かして血で汚れていない程度の服で来るに決まってる。徹底的に洗って、血脂でギトギトの髪を綺麗にしてやれ』との事です」
「当たってるだけに反論できない……」
メイド達は容赦なかった。ヴァンパイア・スポーンであると知らなければ、その細い腕のどこにそんな力が、と己が目を疑っただろう。
渋るタヴから衣服をひん剥き、湯を張った広めの桶に放り込むと頭のてっぺんから爪先までを高級な石鹸でくまなく洗い上げられ、風呂から出たら香油やら何やらで、やはり頭のてっぺんから爪先まで徹底的に磨き上げられた。
化粧と髪のセットは回避しようと試みたが、夜会の化粧はつまるところご令嬢にとって戦に向かうための戦化粧だと言われては推し黙るしかなく、髪はきちっと結い上げるものだから頭皮が引っ張られて痛いと訴えても我慢くださいと許してはもらえなかった。
筋肉をつけすぎですと文句を言われながらドレスを身に纏い、真紅の宝石をあしらった銀の耳飾りと首飾りを着けられ、館の主であるアスタリオンの元に送り出された頃にはさすがのタヴも精魂尽きる寸前の有様だった。
「ほう、なかなか似合うじゃないか。俺の見立てに間違いはなかったな」
満足そうに笑うアスタリオンとは対照的に、タヴはげっそりとしたため息をついた。
内臓が潰れそうな程ぎっちりと締められたコルセットに、白の布地に銀糸で緻密な刺繍が施され、そこここに小さな真珠や硝子玉があしらわれたドレスはずしりと重い。重装鎧を思わせる。軽装を是としているタヴに習熟はない。
露わになった肩や腕や背中はメイド達が嘆いたように筋肉で盛り上がっている。豊かな胸とコルセットによって作られたくびれた腰がなければ、ぱっと見ただけなら女装した男にも見えるとタヴは姿見に映る自分を見て思ったものだ。おそらく、細身で美形であるアスタリオンの方が着こなせるのではないだろうか。
そして手には不釣り合いなグレートアックスが握られている。
タヴは戦士だ。いくら気の置けない友人であっても、自身の命を預ける武器を離すなど言語道断だった。それに、息子の言っていた嫌な予感、とやらもある。置いていけと言うなら帰るとメイドを脅せばアスタリオンに確認しに走ってくれた。そいつ自体が既に武器みたいなものだろう、とすんなりと許可をくれた。
かくして、ドレス姿の戦士が完成したのである。
「どこがだ。私みたいな女の着るものじゃないぞ。もっと可憐で上品な、折れそうな花みたいなご令嬢が着るドレスだろ。……いや、この重いドレスを着るのか? 貴族のご婦人方は?」
「ああ、そうだ。さしずめ貴婦人の戦闘装備、と言ったところか」
「げぇ。だとしたら尊敬するよ。こんなものを着て何時間も立ちっぱなしで踊ったり喋ったりするなんて。私には無理だ」
差し出された男の手を取る。相変わらずひんやりとしていた。
「ダンスは?」
「足を砕かれたくなかったらやめておいたほうがいいと思うぞ」
「確かに、お前の図体で踏み抜かれれば、さしもの俺も無事とは言い難いな」
「本当に踏み潰してやろうか?」
「ははは、では食事だ」
テーブルまでエスコートされ、フットマンの衣装を身につけたスポーンが椅子を引いてくれる。
並べられた料理は、いつもなら量を優先されるが今回は質の方を取られているらしい。ドレスによって締め上げられている腹ではいつもの半分も食べられないのでありがたい。
アスタリオンに教え込まれたマナーに沿ってナイフとフォークを動かしていく。豪快で粗野な食べ方以外もできるのだ。堅苦しくて面倒だからやらないだけで。
今回の冒険の顛末を晩餐の土産話に披露する。血生臭い話だが、世界を救う冒険譚には違いない。一般受けするかどうかは……無理矢理ついてきた詩人の腕にかかっていることだろう。
「たまには一緒にどうだ? またお前と旅をしたい」
「お断りだ。俺はもう泥と汗と血に塗れるのはごめんなんでな」
「残念」
タヴは肩をすくめた。誘いは本気であったが、断られる事は想定済みだ。あの旅の中でも男の漏らす不満は多かったし、そもそも夜の支配者となったこの男が好き好んで流浪の旅に出る姿など、今となっては想像すらできない。
「それで、手紙にあった頼み事って?」
ゆっくりと談笑しながら食事は進み、皿もだいぶ片付いてきた頃、今回の呼び出しについてタヴは尋ねた。
アスタリオンはグラスをくるりと回し、ワインの赤が揺れる様子を眺めた後、笑みを浮かべて口を開いた。蝋燭の明かりに照らされた彼は美術品のように美しい。
「タヴ、俺のスポーンになれ」
刹那、沈黙が落ちる。
言われた事を理解するのに数秒。目を見張り、次いで顔から表情が抜け落ちた。静寂を破るように口の中身をごくりと音を立てて飲み込み、タヴは低く返した。
「……用件は、それだけか。なら帰らせてもらう」
ガチャンと乱暴に食器を置く音が拾い食堂に大きく響く。タヴの機嫌など意に介さず、指を組んでアスタリオンは変わらぬ微笑を浮かべたままだ。
「返事を聞かせてくれ」
タヴは苛立ちを抑えるように大きく息を吐き出した。
相入れないその価値観の違いこそ、タヴがアスタリオンと別れた理由だ。
「何度言われても答えは否だ。言っただろう。私は永遠を生きたいなんて思わない。子供を産んで次に引き継いで、死んで生まれ変わる。そんな定命の者でいたいんだ。アスタリオン、この話はずっと前に終わっただろう。なぜ蒸し返す」
「終わった事にしたのはお前だけだ。俺はずっと、お前が考えを変えるのを待っていた」
「なら無駄だったな。私は変わらない」
微かな風が吹いたように、燭台の炎が揺らぐ。カーテンの奥で夜の闇が蠢き、まるでこの城そのものが息を潜めて二人のやり取りを見守っているかのようだった。
アスタリオンはゆっくりと指先でワイングラスの縁をなぞる。蝋燭の炎の揺らめきを映すその瞳の奥には、夜の闇よりなお深い執着の色が宿っている。
「……そうか。なら仕方がない。できればこの方法は取りたくなかったんだが」
穏やかだった晩餐の時間の終わりを告げるように、パチンとアスタリオンの指が鳴らされた。
燭台の灯がゆっくりと陰る。闇が深くなり、城の中の空気が変化した。
フットマンとメイド達と入れ替わるように、音もなく、影からいくつもの人影がゆらりと現れた。
「お前達でも手こずる。殺すつもりでかかれ。だが、殺すな」
それぞれの手には客人をもてなすのには不向きなものが握られている。武器だ。
考えるよりも先にタヴの体は動いた。息子が嫌な感じと表現した直感はこれか、とぞわりと女の肌が粟立つ。
ナイフを掴んで椅子を蹴倒して立ち上がると、タヴは躊躇せずにドレスに刃を突き立てた。切れ味には期待していない。僅かに空いた穴を起点に力任せに引き裂けば、バラバラと宝石や硝子玉を撒き散らして足が露わになる。動きにくいとヒールのある靴を脱ぎ捨て、側に立てかけていたグレートアックスを握る。
「どういうつもりだ、アスタリオン!」
戸惑いながらもタヴは声を上げる。現れたスポーン達から放たれる殺気が信じられなかった。アスタリオンに忠実な眷属。ならば、殺す気でやれと命じている主のそれは冗談でもなんでもないことに他ならない。
「お前が悪いんだぞ?」
冷たく、どこか愉しそうに、実にヴァンパイアらしい美しい顔でアスタリオンは言った。
何があっても裏切らない長年の友人だと思っていた男が、まるで知らない相手のようだった。
・・・
咆哮を上げて男に突進して、一撃で首を跳ね飛ばした。
その後ろから迫ろうとしていたスポーンの腕を無造作に振るった刃が両断する。怯んだところに追撃で腹を横薙ぎにして二人目が床に転がる。鮮やかな手並みだ。
手際の良さに残ったスポーン達が警戒を強める。すぐには飛びかからずに様子を見る者。距離を取って弓を構える者。その姿を再び影の中に潜める者。反応は様々だ。 「次はどいつだ?」 アックスを軽く回してみせれば、次の瞬間、左手側の闇から影が飛び出した。 素早く敵の一撃を受け流し、すれ違いざまに背後を薙ぐ。すかさず別の男が低い姿勢から飛び込んできた。ダガーが脇腹を狙う。 タヴは僅かに体を捻って躱し、アックスを振って男の頭を砕いた。
弓を構えていた男達が矢を放つ。それを紙一重で避けたが、すぐさま二射目、三射目が連続で飛んでくる。回避の動きが大きくなった隙を狙い、別の男達が距離を詰めた。
射撃は厄介だ。鋭い舌打ちと共にタヴは床に転がるダガーを拾い、狙いをつけて弓を握るスポーンに投げつける。胸を貫かれ、また一人を倒す。だが弓兵はまだ他にもいる。
飛来する矢を弾きながら、迫る敵に姿勢を低くして踏み込んで体当たりをしかける。猛牛のような一撃にバランスを崩した瞬間、その胴体を薙ぎ払う。振るった勢いのままにくるりと回転し、もう一人を袈裟懸けに切り捨てる。
その光景を、アスタリオンは優雅にワイングラスを傾けながら眺めていた。微笑みながら、実に楽しげに。
「圧倒的だな。あの頃よりも技が冴えているじゃないか」
そして、ちらりと残った眷属たちへと冷え冷えとした目を向ける。
「それに比べ……我が下僕どもの無様さときたら」
底冷えするような男の声に、スポーンたちはゾッとした。この美しく冷徹な主人の不興を買えば、死よりも恐ろしい処罰が待っている。
スポーンたちは、タヴを囲むようにじりじりと距離を詰める。誰も焦って飛びかかろうとはしない。
「こないのか?」
ならば、こちらから打って出るだけだ。
にぃ、と生粋の戦闘民族である女は笑う。
まるで暴風だった。敵の刃を打ち払い、鋭い爪を避け、アックスを振るって筋肉を断ち切り、あるいは拾った短剣を投げて貫く。六体のスポーンが己の撒き散らした黒い血の海へと沈んだ。
雄叫びを上げて突っ込んでくる、牙を剥いたスポーンを迎え撃とうと一歩を踏み出す。
だが次の瞬間、鈍い痛みが右足に走った。顔を向ければ、一体のスポーンが足に爪を深く食い込ませて掴んでいた。転がっている死体だと思っていたが、生きていたらしい。
「クソッ……!」
足元に気を取られ、迫るもう一体への反応が遅れる。避ける事も迎撃する事も叶わない。左腕を犠牲にすることを即断して大きく開けられた口に腕を噛ませる。ぞぶりと牙が突き刺さった。強靭な顎の力で腕が骨ごと砕かれそうだ。
アックスの柄を渾身の力で振り下ろして足にしがみつくスポーンの頭を粉砕し、自由になった足で噛み付く男の股間を潰す勢いで蹴り上げる。そこはスポーンとなっても急所である事に変わりはないらしく、悶絶して離れる。
その男の背後から、もう二人が飛び出した。
二人まとめ両断しようとアックス大きく振る。だが、切ったのは一人だけだった。もう一人はタヴの攻撃の間合いのぎりぎりでその足止めている。
瞬間、腕と太腿に衝撃が走った。まだ影に潜んでいた弓兵からの攻撃だった。
僅かによろければ、その隙を見逃さず、足を止めていたスポーンが床を蹴り肉薄する。
ダガーを握る腕を切り落とそうとアックスを振るう。狙い違わずにスポーンの腕が宙を舞う。だが、その手にダガーはない。切られる事を想定して放り投げ、それは今、彼の残された手にあり、そして。
「……お見事」
深々と、タヴの腹に突き刺した。
スポーンはダガーをゆっくりと引き抜くと、己の仕事は終わったとばかりにするりと影に溶けるようにその身を潜ませた。
痛みと疲労、そして失血による眩暈が、彼女の視界を大きく揺らした。膝が崩れ、冷たい石畳へと倒れ込む。
片手で裂かれた腹を押さえ、荒い息を吐いた。肩と太腿と腹から溢れる鮮血が白いドレスを染めていく。
失血が多い。早めに手当てをしたいところだが、果たしてこの場の支配者たる男がそれを許すかどうか。
コツコツと硬い床を鳴らす足音とパンパンと少し間延びした手を叩く音が近づき、タヴの横で止まる。
ぐっと顔をあげれば、こちらを見下ろすアスタリオンが視界に入った。
一度は冷えた血が、再び沸騰するような感覚に襲われる。
「流石は英雄殿、と言うべきか。我が精鋭がこのまま全滅させられるかと思ったぞ。お前を貫いた者たちには褒美を与えねばな」
下僕の半分以上を屠られたと言うのに、主人であるアスタリオンは薄く笑いながら愉しそうに言った。
「お、まえ……っ!」
未だに戦意を失わないタヴは、四肢に力を入れて立ちあがろうとする。
「おっと、無理はいけないぞ?」
「ぐっ、が、あ」
だが、抵抗の意思を見せるタヴの腹に空いた穴を目がけてアスタリオンは容赦なく蹴り上げた。動く力が僅かにでも残っていれば、命と引き換えにしてでも己の敵に飛び掛かる。そんな彼女の執念をよく知っているからだ。
ヴァンパイア・アセンダントとなった身であれば、ただの物理的な攻撃などなんの意味もなさないが、無駄な抵抗をされるのも面倒でしかない。
タヴの腕に刺さる矢を無遠慮に引き抜き、傷口に尖った爪の指を突き刺した。反射的にタヴが空いた手でアスタリオンの手首を掴むが、男はその静止を意に介さない。ぐちぐちといたぶり、傷を広げ、タヴから力を削ぐと、握っていたアックスを奪い取ってぶんと投げる。鈍い音を立てて壁に突き刺さった。
苦痛に歪んだ女の顔の、その双眸には猛々しい炎が燃え盛っていた。まるで闇を焼き尽くす烈火のように――死すら恐れぬ獣の目だ。
それに射抜かれて、アスタリオンの背中をゾクリと何かが走り抜けた。不快感ではない。この選択は間違いではないのだと確信する。
「最初からこうしておくべきだった。諦めるなど、お前の意思を尊重するなど、俺は何を血迷っていたのか。正気の沙汰じゃなかったな」
灼熱にも似た痛みを凌駕する怒りで、タヴは吠えた。
「はっ! スポーンにしてみろよ蝙蝠野郎。お前の喉笛噛みちぎって血を飲んで、私もヴァンパイアになってやる。お前を殺すために!」
男の紅い瞳が恍惚に細められ、はぁと感嘆の吐息をこぼす。
「ああ、やはり。やはりお前はそうでなくては。血に塗れ、怒りに震え、獲物を狙う獣のような目をするお前は、何よりも美しい」
その声は甘やかで、狂気じみた陶酔が滲んでいる。
彼は膝を折り、タヴの顎を掴んで持ち上げた。女の口から小さく苦悶の声が漏れる。そんな音でさえも愛しかった。
「その強くて美しい獣を屈服させ、従順に躾けるのは楽しそうだと思わないか?」
「趣味が良いことで。お前、カザドールみたいだな」
「いいや、違う。あいつは俺を暴力で支配した。だが、俺はお前を愛で縛る。優しく、尽くして、甘やかして、俺なしでは生きていけないように」
タヴは口の端を吊り上げ、かすれた笑いを漏らした。
「檻でも用意するんだな。スポーンにしてしまえば大人しく飼われると思ってるなら大間違いだ」
「檻? そんな無粋なものはいらないさ。だが、お前に似合う鎖は用意しようか。猛獣の躾が完了する迄は必要そうだ」
アスタリオンは立ち上がり、手を濡らすタヴの血をぬろりと舐め上げる。たったそれだけでも、彼の餓えは満たされ、渇きが潤される。もうすぐ、この全てが己のものになる。ああ、なんて素晴らしいのだろうか。
うっとりと、恐ろしいほど優しく甘く男は囁く。
「では行こうか。俺たちの新しい関係を始めるのに、この場は相応しくない。神聖で冒涜的な儀式ための場所を奥に用意したんだ」
「……後悔させてやる」
「ははは。そんなもの、とっくにしたさ」
伏せていた体をひっくり返され、血で服が汚れる事など気にもせずに抱き上げられると傷が痛んで呻き声が漏れた。
ああ、可哀想に、と脂汗の浮かぶ額に口付けを落とされる。頭突きをしてやりたかったが、そんな力は残っていなかった。
「愛しているぞ、ダーリン」
「……愛していたよ、クソッタレ」
怒りのままに睨みつけても、男は嬉しそうに、美しく笑うだけだった。
城の食堂には、かすかな蝋燭の光が揺れていた。その灯りはどこか頼りなく、広大な食堂の隅々まで照らしきれない。
シャンデリアの下の長いテーブルには、磨き上げられた銀食器と豪華な食事が並べられている。深紅のワインが注がれたグラスは燭台の明かりを受けて煌めき、その横には焼きたての肉をはじめ豪勢な料理が置かれていた。
薄暗く、どこか息の詰まりそうなこの広大な城に二人きり、タヴとアスタリオンは向かい合いながら、くつろいだ様子で食事を楽しんでいた。
「……で、そいつが『最強の戦士はこの俺様だっ!』って叫んで突っかかってきて」
「お前を相手にか? 命知らずにもほどかあるな。それで?」
「一発でのびた」
アスタリオンは思わずグラスを傾けながら肩を震わせた。
「それは……ははは、あまりにも哀れじゃないか」
「だろう? 見かけ倒しもいいところだよ。本気を出すまでもなかったんだ。取り巻き共がそいつを引き摺って帰ってくれればいいものを、騒ぎ出す始末でなあ。気がつけば酒場で乱闘騒ぎ。危うく憲兵に捕まるところだったよ」
アスタリオンは指でグラスの縁をなぞりながら、口元に笑みを浮かべた。
「人は、噂というものをすぐに大げさにするものだな」
「全くだ。あーあ、どこかに私を楽しませてくれる戦士はいないものかな!」
「まだそんな事を言ってるのか。お前はそろそろ族長として歳相応の落ち着きを――いや、待て」
肉を貪り、パンに齧りつき、硬いエビの殻を容易く割って、酒を水の様に飲む女の食べ方は以前とほとんど変わらない。
衰えることのない食事の勢いにふと違和感を覚え、あの戦いから三十年経ってもあまり外見が変わらない事にようやく気がついた。
「そう言えば、お前、全く老けないな」
「ん、ふぉうふぁ?」
アスタリオン自身、元々長寿種であるハイ・エルフであり今は時の流れなど無意味な種へと昇格している。彼の周りに侍る使用人達もまた老いから解放されていて、そこへやってくるタヴが定命の者であるヒューマンだという事がすっかり頭から抜け落ちていた。
父親の違う三児をもうけ、孤児を引き取り、孫もそろそろかという五十代の半ばに差し掛かるはずが、未だに三十代程度にしか見えない。祖先のどこかでエルフの血が混じり、それが寿命という形で強く出てしまっているのだろうか。
タヴは頬張った肉をワインで流し込み、親指の腹で口の端についたソースを拭ってぺろりと舐め取る。
「ああ、レイゼルや皇帝とアストラル界に行くからかな? あそこは時の流れがほぼないから。それか、ゲイルからの要請も多くて何かの加護でも貰ってるかもしれないな?」
心当たりをいくつか挙げて、今度聞いてみるよ、とタヴは笑って答えた。
「……ほう?」
尋ねた男の疑問は解消されたが、同時にぴしりと、大切に大切にしまっていた硝子でできた宝物に大きなヒビが入ったような、そんな音が内側から響いた気がした。
自分以外の誰かが、そこに存在するなどアスタリオンは想像もしていなかった。
彼女の氏族ならば、許していた。命を繋いでいく定命の者でありたいと言った彼女の、その命と願いに連なる者達だからだ。だが、その他は違う。
スポーンになって共に永遠を生きようという申し出はすげなく断っておきながら。自由でありたいというその意思を尊重したくて諦めたのに。まだ、愛しているのに。
「しかし、この肉料理は旨いな。ワインとよく合う」
「そうか」
お前は、他の者と永遠を生きようと言うのか。
銀の盃に注がれた赤いワインに映るアスタリオンの目は、闇夜よりもなお昏かった。
・・・
タヴがアスタリオンからザール宮殿へ再度招かれたのは、それから三ヶ月ほど後の事だった。
『この手紙を受け取ったら、ザール宮殿へ来てほしい。お前に頼みたい事がある』
流麗な文字で書かれた、実に完結な文章だ。あえて期日が記されていないのも、タヴが村を空けている事を分かっているからだ。ちなみに、記された日付は一月前である。
急ぎの用件でもなさそうだがあまり待たせるわけにもいかないと、アストラル界から戻ってきたばかりのタヴは最低限の身支度だけを済ませる。休む暇もない。
「忙しい理由の大半は貴女の趣味でしょうが」
とは留守にしがちなタヴに代わり、村の一切を仕切ってくれる息子の言だ。
蛮族としては物腰が柔らかすぎるきらいはあるが、戦士としての技量も統率者としての資質も充分で、何よりも頭が良いとこれ以上にない優良株に、もうそろそろ族長業を譲って隠居したいのだが、なかなか首を縦に振ってもらえない。
そんな息子が、どうにも不安そうな表情をする。
「どうした? 何か気になるのか?」
「……本当に行くんですか」
「? アスタリオンのところだぞ。いつも行ってる」
ザール宮殿は友人の家だ。呼ばれたら行くし、呼ばれなくても行く。辺境にあるこの村からは遠いが、神格となった親切な友人が利用者を限定したポータルを開いてくれたので行き来はしやすいのだ。
「そうなんですが……何と言うか、その手紙を受け取った時から嫌な感じがするんです。肌がゾワゾワする」
息子が腕をさする。僅かにだが、言うように鳥肌が立っているようだ。
「私にはただの手紙にしか感じなかったが……戦士の直感は大切にするべき、か。気をつけるよ」
「本当に気をつけてくださいよ。長年の友人だとは言え、彼はヴァンパイア達の王なんですから」
表立った悪事は働かないものの、近年の数々の事件の裏で暗躍しているのは間近いなくかのヴァンパイアだ。親しげな顔をしておいて、その腹の中で何を考えているのか分かったものではない。決して信用してはならない。
それがタヴの息子が、母の友人に抱く印象だ。
「分かってる。……お前の杞憂であってほしいものだな。さて、それじゃあとは頼んだよ。私が帰らない時は、お前が族長だ」
いつもの別れの挨拶を口にして、ひらりと手を振ってタヴは光の中に消えた。今頃はもう、ザール宮殿に着いているだろう。
「無事の帰還をお待ちしてます、母さん」
その声は、誰にも届かなかった。
・・・
タヴが宮殿に着けば見知った使用人である女のスポーンに出迎えられ、通されたのはいつもの待合室ではなかった。
「ご主人様より、今宵はこちらの衣装をお召しになられるよう言付かっております」
控えるメイドは三人。その横に白いドレスを着せられたトルソーが置かれている。
「ええ……着ないとダメなのか?」
「はい。是非に、との事です」
タヴは心底嫌そうな顔をするが、メイド達の表情は変わらない。
「まずは入浴からとなります」
「はあ!? なんでそんな面倒なところから!」
「『奴の事だ。どうせ戦い帰りで最低限の身支度だと抜かして血で汚れていない程度の服で来るに決まってる。徹底的に洗って、血脂でギトギトの髪を綺麗にしてやれ』との事です」
「当たってるだけに反論できない……」
メイド達は容赦なかった。ヴァンパイア・スポーンであると知らなければ、その細い腕のどこにそんな力が、と己が目を疑っただろう。
渋るタヴから衣服をひん剥き、湯を張った広めの桶に放り込むと頭のてっぺんから爪先までを高級な石鹸でくまなく洗い上げられ、風呂から出たら香油やら何やらで、やはり頭のてっぺんから爪先まで徹底的に磨き上げられた。
化粧と髪のセットは回避しようと試みたが、夜会の化粧はつまるところご令嬢にとって戦に向かうための戦化粧だと言われては推し黙るしかなく、髪はきちっと結い上げるものだから頭皮が引っ張られて痛いと訴えても我慢くださいと許してはもらえなかった。
筋肉をつけすぎですと文句を言われながらドレスを身に纏い、真紅の宝石をあしらった銀の耳飾りと首飾りを着けられ、館の主であるアスタリオンの元に送り出された頃にはさすがのタヴも精魂尽きる寸前の有様だった。
「ほう、なかなか似合うじゃないか。俺の見立てに間違いはなかったな」
満足そうに笑うアスタリオンとは対照的に、タヴはげっそりとしたため息をついた。
内臓が潰れそうな程ぎっちりと締められたコルセットに、白の布地に銀糸で緻密な刺繍が施され、そこここに小さな真珠や硝子玉があしらわれたドレスはずしりと重い。重装鎧を思わせる。軽装を是としているタヴに習熟はない。
露わになった肩や腕や背中はメイド達が嘆いたように筋肉で盛り上がっている。豊かな胸とコルセットによって作られたくびれた腰がなければ、ぱっと見ただけなら女装した男にも見えるとタヴは姿見に映る自分を見て思ったものだ。おそらく、細身で美形であるアスタリオンの方が着こなせるのではないだろうか。
そして手には不釣り合いなグレートアックスが握られている。
タヴは戦士だ。いくら気の置けない友人であっても、自身の命を預ける武器を離すなど言語道断だった。それに、息子の言っていた嫌な予感、とやらもある。置いていけと言うなら帰るとメイドを脅せばアスタリオンに確認しに走ってくれた。そいつ自体が既に武器みたいなものだろう、とすんなりと許可をくれた。
かくして、ドレス姿の戦士が完成したのである。
「どこがだ。私みたいな女の着るものじゃないぞ。もっと可憐で上品な、折れそうな花みたいなご令嬢が着るドレスだろ。……いや、この重いドレスを着るのか? 貴族のご婦人方は?」
「ああ、そうだ。さしずめ貴婦人の戦闘装備、と言ったところか」
「げぇ。だとしたら尊敬するよ。こんなものを着て何時間も立ちっぱなしで踊ったり喋ったりするなんて。私には無理だ」
差し出された男の手を取る。相変わらずひんやりとしていた。
「ダンスは?」
「足を砕かれたくなかったらやめておいたほうがいいと思うぞ」
「確かに、お前の図体で踏み抜かれれば、さしもの俺も無事とは言い難いな」
「本当に踏み潰してやろうか?」
「ははは、では食事だ」
テーブルまでエスコートされ、フットマンの衣装を身につけたスポーンが椅子を引いてくれる。
並べられた料理は、いつもなら量を優先されるが今回は質の方を取られているらしい。ドレスによって締め上げられている腹ではいつもの半分も食べられないのでありがたい。
アスタリオンに教え込まれたマナーに沿ってナイフとフォークを動かしていく。豪快で粗野な食べ方以外もできるのだ。堅苦しくて面倒だからやらないだけで。
今回の冒険の顛末を晩餐の土産話に披露する。血生臭い話だが、世界を救う冒険譚には違いない。一般受けするかどうかは……無理矢理ついてきた詩人の腕にかかっていることだろう。
「たまには一緒にどうだ? またお前と旅をしたい」
「お断りだ。俺はもう泥と汗と血に塗れるのはごめんなんでな」
「残念」
タヴは肩をすくめた。誘いは本気であったが、断られる事は想定済みだ。あの旅の中でも男の漏らす不満は多かったし、そもそも夜の支配者となったこの男が好き好んで流浪の旅に出る姿など、今となっては想像すらできない。
「それで、手紙にあった頼み事って?」
ゆっくりと談笑しながら食事は進み、皿もだいぶ片付いてきた頃、今回の呼び出しについてタヴは尋ねた。
アスタリオンはグラスをくるりと回し、ワインの赤が揺れる様子を眺めた後、笑みを浮かべて口を開いた。蝋燭の明かりに照らされた彼は美術品のように美しい。
「タヴ、俺のスポーンになれ」
刹那、沈黙が落ちる。
言われた事を理解するのに数秒。目を見張り、次いで顔から表情が抜け落ちた。静寂を破るように口の中身をごくりと音を立てて飲み込み、タヴは低く返した。
「……用件は、それだけか。なら帰らせてもらう」
ガチャンと乱暴に食器を置く音が拾い食堂に大きく響く。タヴの機嫌など意に介さず、指を組んでアスタリオンは変わらぬ微笑を浮かべたままだ。
「返事を聞かせてくれ」
タヴは苛立ちを抑えるように大きく息を吐き出した。
相入れないその価値観の違いこそ、タヴがアスタリオンと別れた理由だ。
「何度言われても答えは否だ。言っただろう。私は永遠を生きたいなんて思わない。子供を産んで次に引き継いで、死んで生まれ変わる。そんな定命の者でいたいんだ。アスタリオン、この話はずっと前に終わっただろう。なぜ蒸し返す」
「終わった事にしたのはお前だけだ。俺はずっと、お前が考えを変えるのを待っていた」
「なら無駄だったな。私は変わらない」
微かな風が吹いたように、燭台の炎が揺らぐ。カーテンの奥で夜の闇が蠢き、まるでこの城そのものが息を潜めて二人のやり取りを見守っているかのようだった。
アスタリオンはゆっくりと指先でワイングラスの縁をなぞる。蝋燭の炎の揺らめきを映すその瞳の奥には、夜の闇よりなお深い執着の色が宿っている。
「……そうか。なら仕方がない。できればこの方法は取りたくなかったんだが」
穏やかだった晩餐の時間の終わりを告げるように、パチンとアスタリオンの指が鳴らされた。
燭台の灯がゆっくりと陰る。闇が深くなり、城の中の空気が変化した。
フットマンとメイド達と入れ替わるように、音もなく、影からいくつもの人影がゆらりと現れた。
「お前達でも手こずる。殺すつもりでかかれ。だが、殺すな」
それぞれの手には客人をもてなすのには不向きなものが握られている。武器だ。
考えるよりも先にタヴの体は動いた。息子が嫌な感じと表現した直感はこれか、とぞわりと女の肌が粟立つ。
ナイフを掴んで椅子を蹴倒して立ち上がると、タヴは躊躇せずにドレスに刃を突き立てた。切れ味には期待していない。僅かに空いた穴を起点に力任せに引き裂けば、バラバラと宝石や硝子玉を撒き散らして足が露わになる。動きにくいとヒールのある靴を脱ぎ捨て、側に立てかけていたグレートアックスを握る。
「どういうつもりだ、アスタリオン!」
戸惑いながらもタヴは声を上げる。現れたスポーン達から放たれる殺気が信じられなかった。アスタリオンに忠実な眷属。ならば、殺す気でやれと命じている主のそれは冗談でもなんでもないことに他ならない。
「お前が悪いんだぞ?」
冷たく、どこか愉しそうに、実にヴァンパイアらしい美しい顔でアスタリオンは言った。
何があっても裏切らない長年の友人だと思っていた男が、まるで知らない相手のようだった。
・・・
咆哮を上げて男に突進して、一撃で首を跳ね飛ばした。
その後ろから迫ろうとしていたスポーンの腕を無造作に振るった刃が両断する。怯んだところに追撃で腹を横薙ぎにして二人目が床に転がる。鮮やかな手並みだ。
手際の良さに残ったスポーン達が警戒を強める。すぐには飛びかからずに様子を見る者。距離を取って弓を構える者。その姿を再び影の中に潜める者。反応は様々だ。 「次はどいつだ?」 アックスを軽く回してみせれば、次の瞬間、左手側の闇から影が飛び出した。 素早く敵の一撃を受け流し、すれ違いざまに背後を薙ぐ。すかさず別の男が低い姿勢から飛び込んできた。ダガーが脇腹を狙う。 タヴは僅かに体を捻って躱し、アックスを振って男の頭を砕いた。
弓を構えていた男達が矢を放つ。それを紙一重で避けたが、すぐさま二射目、三射目が連続で飛んでくる。回避の動きが大きくなった隙を狙い、別の男達が距離を詰めた。
射撃は厄介だ。鋭い舌打ちと共にタヴは床に転がるダガーを拾い、狙いをつけて弓を握るスポーンに投げつける。胸を貫かれ、また一人を倒す。だが弓兵はまだ他にもいる。
飛来する矢を弾きながら、迫る敵に姿勢を低くして踏み込んで体当たりをしかける。猛牛のような一撃にバランスを崩した瞬間、その胴体を薙ぎ払う。振るった勢いのままにくるりと回転し、もう一人を袈裟懸けに切り捨てる。
その光景を、アスタリオンは優雅にワイングラスを傾けながら眺めていた。微笑みながら、実に楽しげに。
「圧倒的だな。あの頃よりも技が冴えているじゃないか」
そして、ちらりと残った眷属たちへと冷え冷えとした目を向ける。
「それに比べ……我が下僕どもの無様さときたら」
底冷えするような男の声に、スポーンたちはゾッとした。この美しく冷徹な主人の不興を買えば、死よりも恐ろしい処罰が待っている。
スポーンたちは、タヴを囲むようにじりじりと距離を詰める。誰も焦って飛びかかろうとはしない。
「こないのか?」
ならば、こちらから打って出るだけだ。
にぃ、と生粋の戦闘民族である女は笑う。
まるで暴風だった。敵の刃を打ち払い、鋭い爪を避け、アックスを振るって筋肉を断ち切り、あるいは拾った短剣を投げて貫く。六体のスポーンが己の撒き散らした黒い血の海へと沈んだ。
雄叫びを上げて突っ込んでくる、牙を剥いたスポーンを迎え撃とうと一歩を踏み出す。
だが次の瞬間、鈍い痛みが右足に走った。顔を向ければ、一体のスポーンが足に爪を深く食い込ませて掴んでいた。転がっている死体だと思っていたが、生きていたらしい。
「クソッ……!」
足元に気を取られ、迫るもう一体への反応が遅れる。避ける事も迎撃する事も叶わない。左腕を犠牲にすることを即断して大きく開けられた口に腕を噛ませる。ぞぶりと牙が突き刺さった。強靭な顎の力で腕が骨ごと砕かれそうだ。
アックスの柄を渾身の力で振り下ろして足にしがみつくスポーンの頭を粉砕し、自由になった足で噛み付く男の股間を潰す勢いで蹴り上げる。そこはスポーンとなっても急所である事に変わりはないらしく、悶絶して離れる。
その男の背後から、もう二人が飛び出した。
二人まとめ両断しようとアックス大きく振る。だが、切ったのは一人だけだった。もう一人はタヴの攻撃の間合いのぎりぎりでその足止めている。
瞬間、腕と太腿に衝撃が走った。まだ影に潜んでいた弓兵からの攻撃だった。
僅かによろければ、その隙を見逃さず、足を止めていたスポーンが床を蹴り肉薄する。
ダガーを握る腕を切り落とそうとアックスを振るう。狙い違わずにスポーンの腕が宙を舞う。だが、その手にダガーはない。切られる事を想定して放り投げ、それは今、彼の残された手にあり、そして。
「……お見事」
深々と、タヴの腹に突き刺した。
スポーンはダガーをゆっくりと引き抜くと、己の仕事は終わったとばかりにするりと影に溶けるようにその身を潜ませた。
痛みと疲労、そして失血による眩暈が、彼女の視界を大きく揺らした。膝が崩れ、冷たい石畳へと倒れ込む。
片手で裂かれた腹を押さえ、荒い息を吐いた。肩と太腿と腹から溢れる鮮血が白いドレスを染めていく。
失血が多い。早めに手当てをしたいところだが、果たしてこの場の支配者たる男がそれを許すかどうか。
コツコツと硬い床を鳴らす足音とパンパンと少し間延びした手を叩く音が近づき、タヴの横で止まる。
ぐっと顔をあげれば、こちらを見下ろすアスタリオンが視界に入った。
一度は冷えた血が、再び沸騰するような感覚に襲われる。
「流石は英雄殿、と言うべきか。我が精鋭がこのまま全滅させられるかと思ったぞ。お前を貫いた者たちには褒美を与えねばな」
下僕の半分以上を屠られたと言うのに、主人であるアスタリオンは薄く笑いながら愉しそうに言った。
「お、まえ……っ!」
未だに戦意を失わないタヴは、四肢に力を入れて立ちあがろうとする。
「おっと、無理はいけないぞ?」
「ぐっ、が、あ」
だが、抵抗の意思を見せるタヴの腹に空いた穴を目がけてアスタリオンは容赦なく蹴り上げた。動く力が僅かにでも残っていれば、命と引き換えにしてでも己の敵に飛び掛かる。そんな彼女の執念をよく知っているからだ。
ヴァンパイア・アセンダントとなった身であれば、ただの物理的な攻撃などなんの意味もなさないが、無駄な抵抗をされるのも面倒でしかない。
タヴの腕に刺さる矢を無遠慮に引き抜き、傷口に尖った爪の指を突き刺した。反射的にタヴが空いた手でアスタリオンの手首を掴むが、男はその静止を意に介さない。ぐちぐちといたぶり、傷を広げ、タヴから力を削ぐと、握っていたアックスを奪い取ってぶんと投げる。鈍い音を立てて壁に突き刺さった。
苦痛に歪んだ女の顔の、その双眸には猛々しい炎が燃え盛っていた。まるで闇を焼き尽くす烈火のように――死すら恐れぬ獣の目だ。
それに射抜かれて、アスタリオンの背中をゾクリと何かが走り抜けた。不快感ではない。この選択は間違いではないのだと確信する。
「最初からこうしておくべきだった。諦めるなど、お前の意思を尊重するなど、俺は何を血迷っていたのか。正気の沙汰じゃなかったな」
灼熱にも似た痛みを凌駕する怒りで、タヴは吠えた。
「はっ! スポーンにしてみろよ蝙蝠野郎。お前の喉笛噛みちぎって血を飲んで、私もヴァンパイアになってやる。お前を殺すために!」
男の紅い瞳が恍惚に細められ、はぁと感嘆の吐息をこぼす。
「ああ、やはり。やはりお前はそうでなくては。血に塗れ、怒りに震え、獲物を狙う獣のような目をするお前は、何よりも美しい」
その声は甘やかで、狂気じみた陶酔が滲んでいる。
彼は膝を折り、タヴの顎を掴んで持ち上げた。女の口から小さく苦悶の声が漏れる。そんな音でさえも愛しかった。
「その強くて美しい獣を屈服させ、従順に躾けるのは楽しそうだと思わないか?」
「趣味が良いことで。お前、カザドールみたいだな」
「いいや、違う。あいつは俺を暴力で支配した。だが、俺はお前を愛で縛る。優しく、尽くして、甘やかして、俺なしでは生きていけないように」
タヴは口の端を吊り上げ、かすれた笑いを漏らした。
「檻でも用意するんだな。スポーンにしてしまえば大人しく飼われると思ってるなら大間違いだ」
「檻? そんな無粋なものはいらないさ。だが、お前に似合う鎖は用意しようか。猛獣の躾が完了する迄は必要そうだ」
アスタリオンは立ち上がり、手を濡らすタヴの血をぬろりと舐め上げる。たったそれだけでも、彼の餓えは満たされ、渇きが潤される。もうすぐ、この全てが己のものになる。ああ、なんて素晴らしいのだろうか。
うっとりと、恐ろしいほど優しく甘く男は囁く。
「では行こうか。俺たちの新しい関係を始めるのに、この場は相応しくない。神聖で冒涜的な儀式ための場所を奥に用意したんだ」
「……後悔させてやる」
「ははは。そんなもの、とっくにしたさ」
伏せていた体をひっくり返され、血で服が汚れる事など気にもせずに抱き上げられると傷が痛んで呻き声が漏れた。
ああ、可哀想に、と脂汗の浮かぶ額に口付けを落とされる。頭突きをしてやりたかったが、そんな力は残っていなかった。
「愛しているぞ、ダーリン」
「……愛していたよ、クソッタレ」
怒りのままに睨みつけても、男は嬉しそうに、美しく笑うだけだった。
18/18ページ