その他いろいろ

約束は吹雪く羽の彼方に



 見渡す限り一面に咲き乱れる淡い色合いの小さな花々。時折吹く風は甘い香りを孕み、その香りに誘われて花から花へと蝶が飛び交う。風も無いのに揺れる草むらには、天敵の少ないこの地に餌を求めてやってきた兎が潜んでいるのだろう。

「うわあ……!」

 [#dc=1#]の口から出たのは感嘆の言葉だった。
 イザヤールが守護し、その役目を弟子に引き継がせたウォルロ村から山を越えて南下した谷間。良質な薬草が生える場所なのだが、街道を大きく逸れて人里から距離のあるこの場所を訪れる人間は極めて少ない。それ故に、この地は荒らされることなく楽園の様な光景を保っていられるのだ。
 心を奪われたように花々に見入る少女の横顔を見る男は連れてきた甲斐があったと満足そうに笑い、この純粋無垢な天使に更に美しい景色を見せてやったらどんな顔をするのだろうかと興味を抱いた。

「いい物を見せてやろう」
「え?」

 イザヤールが手を軽く振るとそれだけで強い風が起こる。
 自然を意のままに操れるほどの力を持つ者は上級天使の中でもそう多くない。そんな男が己の師であることが彼女の誇りだった。

「ひゃ!」

 突風に驚いた[#dc=1#]は目をきつく閉じた。
 驚いたのは彼女だけではなかったが、蝶はゆらりと風を避け、兎は何事かと立ち上がって辺りを見回して身の危険が近づいているのではないと知ると再び草を食み出した。
 少女の反応が面白かったのか、傍らに立つ男は声を立てて笑う。

「そんなに笑わなくても! 師匠のい」

 笑われたことにむっとして頬を膨らませたが、目に飛び込んできた光景に圧倒され、[#dc=1#]はそれ以上言葉を紡げなかった。
 師の巻き起こした風によって色とりどりの花弁が宙に舞い上がり、はらはらと落ちてくる。地面に着くかと思えば風が吹いて落ちてきた花弁は風に攫われて再び空に巻き上げられる。
 上、右、左、前、後ろのどこを見ても花弁が舞い、地面にしっかりと立っているはずなのに急に足元がふわふわと覚束なくなると、くらりと目が回って平衡感覚を失う。そうしてそのままどさりと草の上に倒れた。

「そんなに真剣に見詰めるからだ。大丈夫か?」

 はらはらと降ってくる花弁の雨が、覗き込んでくる男によって遮られる。
 ぼんやりとしていた頭が師の顔を認識するとようやく正気を取り戻し、恥ずかしさに顔を赤く染めてこくりと頷いた。
 男はほっと息を吐き、少女の視線の先にある空を見上げる。花弁は未だ雨のように降り注ぐ。

「エラフィタという村のご神木の花吹雪ほどの絢爛さは無いが、なかなかのものだろう」
「これよりも、もっとすごいんですか?」
「ああ。私も数回しか見たことはないがな。……そうだな。お前が一人でも天使としての勤めをしっかりと果たせたなら連れて行ってやろう」
「本当ですか!?」

 目の前にちらつかせたご褒美がよほど魅力的だったのか、少女は勢いよく跳ね起きて男に詰め寄った。男の姿を映す蒼穹の空色の目が星を浮かべたようにきらきらと輝く。
 餌に釣られるようでは守護天使として半人前どころかまだまだ子供だなとため息が漏れる思いだったが、素直に喜ぶ少女の姿には苦笑ではない笑みがこぼれた。


………


 瘴気に淀む悪臭の立ち込めた狭い部屋なのに、似ても似つかないあの草原にいるような錯覚に囚われた。
 舞い散る羽がいけない。あの時の花弁を思い出させる。羽の向こうにはあの時と同様に地面に座り込む少女がいることもそうだ。
 いや、同様ではない。違うことの方が多い。
 天使の力の源である光輪と大空を飛ぶための純白の羽を失った[#dc=1#]はもう天使ではなくなってしまったし、非力で幼いとばかり思っていた彼女は幾つもの人の物語に触れ、数多の魔物を倒し、長い時間をかけて過酷な旅をしてきて既に立派に成長している。顔にあどけなさを残しているものの、もう少女と呼べるほど幼くはない。

「し、しょ、お」

 泣くのを必死に堪える子供のような顔で、震える唇から絞り出された声で、彼女は未だに己を師と呼ぶ。もうそんな資格は無いというのに。
 そう思う一方で、彼女が未だに己を師と呼んでくれることが泣きたくなるほど嬉しかった。
 ほろり、と体が光の粒子へと変わる。一度始まった体の崩壊は、止まらない。もうすぐこの体は消滅し、魂は空へと還り星になるのだ。

「……っじょぶです。あとのことは、わた、わたしに任せてください。わた、し、師匠の弟子なんですから。ちゃんと、みんな、助け、ます。だから。大丈夫、だから心配とか、しないでください」

 涙を目に溜めながら、[#dc=1#]は笑う。彼女のような弟子を持てたことを心の底から誇りに思う。
 己のしてきたことに後悔は微塵も無い。多くの誤解を生み、誰かを傷つけていても、捕らえられた天使たちを、彼の人を救うためには最善の策だったと今でも信じている。結局は失敗に終わったが、天使たちと彼の人を、あるいは暗雲の立ち込めるこの世界を、彼女が必ず助けてくれると信じられる。
 この世に未練があるとしたら、唯一つ。
 花を見に行こうと彼女と交わした約束を果たせないことだけが心残りだった。



2009.07.25
初出


7/17ページ
スキ