その他いろいろ
オーマイゴッド!
ふらり、と彼女はやって来た。共もつけずに、たった一人で凶暴な獣の潜む森を抜けて、やって来た。
長い胴体に、長い二本の足と長い二本の腕。体の上にちょこんと乗った頭は小さく、二つの目と一つの口はいつもゆるい弧を描いている。
見慣れない姿形は多少の不気味さは覚えるが、貧相な体は弱者のそれでしかない。
にも関わらず、彼女の白い肌は傷一つ負っていない。
たまたま森の獣どもが腹を空かせていなかったのか、餌として不十分だと判断したのか、それとも。
「こんにちは」
春の日差しを思わせる柔らかな声で挨拶をされたが、勇猛果敢で名を馳せる一族の戦士は皆、彼女の姿を見るなりどこかへ逃げていってしまった。残っているのは俺一人だ。これではもう今日は訓練にはならないだろう。まったくもって情けない。……本能のままに生きる獣ですら彼女を避けるのだから、無理もないと言えなくもないか。
そもそも、いくらパタポン族と和解したとしても、先の戦いの彼女はトラウマになるには十分で、その傷が癒えるには長い時間が必要だ。出来ることなら、俺もここから立ち去りたい。だが、そんなことができるはずもない。背を向けて逃げ出すなど、俺の誇りが許さない。
「何の用だ、パタポンの神」
射殺すつもりで睨みつけ、不機嫌さを隠さない低い声で問いかけるが、彼女は全く気にしていないのか穏やかな微笑を崩さなかった。
「今日は神様はお休みなのよ、ジゴトンの英雄さん」
「その呼び方は止めろ。神が神を休んでどうする」
「たまには自分の好きなことをしたいときだってあるわ。鷹の目さんは違う?」
「……ゴーンでいい。生憎と、好き勝手やっているのでな」
「じゃあ、ゴーンさんは休みはないの?」
「必要になれば、休息くらい取る。……それと、呼び捨てにしてくれ。神に敬称をつけられるなど、鳥肌が立つ」
「それはごめんなさい、ゴーン。貴方も私のことを神などと呼ばず名前で呼ん」
「謹んでお断りしよう」
「あら、残念」
言葉を途中で遮ったにも関わらず、彼女は気分を害した様子も無く、くすくすと楽しげに目を細めて笑う。こっちはちっとも楽しくない。彼女の相手をするのは戦や狩りよりも面倒で、何よりも精神的な負担が大きすぎる。
「休みなのだろう。さっさとどこかへ行ったらどうだ」
「貴方に会いたくて休みにした、って言ったらどうする?」
これっぽっちも予想していなかった返答に、ほとんど反射的に盛大に口がへの字に曲がった。何も変わらない笑顔から彼女の真意は読み取れない。だが注意して見れば、口の端がさっきよりも高くなっているのが分かった。ようするに、こちらの反応を見て楽しんでいるのだ。
からかわれたことが頭にくる。だが、その口が描く弧がとても綺麗だと思った自分にはそれ以上に腹が立った。
一つきりの目で再度睨みつけてやると、うふふと声を漏らして口元に手をあてた。
綺麗に整えられた桜色の爪が彩る、細く長い十本の白い指は、彼女と、彼女が加護を与える一族の邪魔をするものに対して、一切の慈悲も、一片の躊躇いもなく、軽快な破壊と殺戮のリズムを刻み、容赦なく突き進む。それはまさに死の行軍だ。後には瓦礫と死だけしか残らない。
神は神でも、これはおそらく破壊神の類だ。もしくは魔王とも呼べるか。
そんなものに気に入られたところで、嬉しくもなんともないのが現実だ。むしろ、胸を多い尽くそうとするこのもやもやとした重いものは、憂鬱と呼ばれるものに違いなく、溜め息を止めることは出来なかった。
「性質の悪い冗談だ」
「あら、信じてくれないの?」
「信じろと言う方が無理だ」
「悲しいわね。私は本当に貴方を気に入っているのに」
ちっとも悲しそうに聞こえない声音だったし、表情はやはり微笑んでいるものだから、その言葉を信じるのは難しかった。だが、しっかりと観察すれば僅かに口の端が下がっているのが分かった。微々たる差でしかないが、少しは本当に悲しいと思っているのかもしれない。
だからと言って、女神か聖女のような柔らかい微笑を絶やさない彼女の恐ろしさは、結局のところ何一つとして変わらないのだが。
2008.12.31
初出
ふらり、と彼女はやって来た。共もつけずに、たった一人で凶暴な獣の潜む森を抜けて、やって来た。
長い胴体に、長い二本の足と長い二本の腕。体の上にちょこんと乗った頭は小さく、二つの目と一つの口はいつもゆるい弧を描いている。
見慣れない姿形は多少の不気味さは覚えるが、貧相な体は弱者のそれでしかない。
にも関わらず、彼女の白い肌は傷一つ負っていない。
たまたま森の獣どもが腹を空かせていなかったのか、餌として不十分だと判断したのか、それとも。
「こんにちは」
春の日差しを思わせる柔らかな声で挨拶をされたが、勇猛果敢で名を馳せる一族の戦士は皆、彼女の姿を見るなりどこかへ逃げていってしまった。残っているのは俺一人だ。これではもう今日は訓練にはならないだろう。まったくもって情けない。……本能のままに生きる獣ですら彼女を避けるのだから、無理もないと言えなくもないか。
そもそも、いくらパタポン族と和解したとしても、先の戦いの彼女はトラウマになるには十分で、その傷が癒えるには長い時間が必要だ。出来ることなら、俺もここから立ち去りたい。だが、そんなことができるはずもない。背を向けて逃げ出すなど、俺の誇りが許さない。
「何の用だ、パタポンの神」
射殺すつもりで睨みつけ、不機嫌さを隠さない低い声で問いかけるが、彼女は全く気にしていないのか穏やかな微笑を崩さなかった。
「今日は神様はお休みなのよ、ジゴトンの英雄さん」
「その呼び方は止めろ。神が神を休んでどうする」
「たまには自分の好きなことをしたいときだってあるわ。鷹の目さんは違う?」
「……ゴーンでいい。生憎と、好き勝手やっているのでな」
「じゃあ、ゴーンさんは休みはないの?」
「必要になれば、休息くらい取る。……それと、呼び捨てにしてくれ。神に敬称をつけられるなど、鳥肌が立つ」
「それはごめんなさい、ゴーン。貴方も私のことを神などと呼ばず名前で呼ん」
「謹んでお断りしよう」
「あら、残念」
言葉を途中で遮ったにも関わらず、彼女は気分を害した様子も無く、くすくすと楽しげに目を細めて笑う。こっちはちっとも楽しくない。彼女の相手をするのは戦や狩りよりも面倒で、何よりも精神的な負担が大きすぎる。
「休みなのだろう。さっさとどこかへ行ったらどうだ」
「貴方に会いたくて休みにした、って言ったらどうする?」
これっぽっちも予想していなかった返答に、ほとんど反射的に盛大に口がへの字に曲がった。何も変わらない笑顔から彼女の真意は読み取れない。だが注意して見れば、口の端がさっきよりも高くなっているのが分かった。ようするに、こちらの反応を見て楽しんでいるのだ。
からかわれたことが頭にくる。だが、その口が描く弧がとても綺麗だと思った自分にはそれ以上に腹が立った。
一つきりの目で再度睨みつけてやると、うふふと声を漏らして口元に手をあてた。
綺麗に整えられた桜色の爪が彩る、細く長い十本の白い指は、彼女と、彼女が加護を与える一族の邪魔をするものに対して、一切の慈悲も、一片の躊躇いもなく、軽快な破壊と殺戮のリズムを刻み、容赦なく突き進む。それはまさに死の行軍だ。後には瓦礫と死だけしか残らない。
神は神でも、これはおそらく破壊神の類だ。もしくは魔王とも呼べるか。
そんなものに気に入られたところで、嬉しくもなんともないのが現実だ。むしろ、胸を多い尽くそうとするこのもやもやとした重いものは、憂鬱と呼ばれるものに違いなく、溜め息を止めることは出来なかった。
「性質の悪い冗談だ」
「あら、信じてくれないの?」
「信じろと言う方が無理だ」
「悲しいわね。私は本当に貴方を気に入っているのに」
ちっとも悲しそうに聞こえない声音だったし、表情はやはり微笑んでいるものだから、その言葉を信じるのは難しかった。だが、しっかりと観察すれば僅かに口の端が下がっているのが分かった。微々たる差でしかないが、少しは本当に悲しいと思っているのかもしれない。
だからと言って、女神か聖女のような柔らかい微笑を絶やさない彼女の恐ろしさは、結局のところ何一つとして変わらないのだが。
2008.12.31
初出