その他いろいろ

おぼれてしまう。



 クロウズさんが最初に触れたのは、右手の指だった。
 少しカサついた唇が離れる瞬間にぺろと舐められてびくりと体が震えた。
 次は手の甲。ちゅ、と小さなリップ音をさせて離れると、手をひっくり返されてそのまま手のひらにも口付けられた。
 戦いに明け暮れてた手のひらは改めて見れば胼胝と肉刺だらけ硬くなっていて、普段ならば気にもしないがこうして触れられるにはあまりにも醜くて恥ずかしい。
 やめてほしくて彼の唇が離れた瞬間を見計らって手を握り込んで引こうとしたら、思いがけず強い力で引き止められた。
「あの、あんまりキレイじゃないから……」
「貴女の努力とその結果です。多くを助け、救ってきた強く、美しい手です。誇るべきであって、恥ずべきものではありません」
 きっぱりと言い切るクロウズさんの手がやんわりとわたしの握り込まれた指を開き、愛おしそうに撫でて、そうしてまたキスをくれた。
 本当に、本当に大事に優しく、まるで壊れやすいものでもあるかの様に扱われて、さっきとはまた別の意味で恥ずかしくなる。
「大袈裟だよ」
「まさか。全然、まったく、足りませんよ」
 そっと頬に大きな手を添えられ、親指ですりすりと頬をくすぐられた。
 いつも手袋を嵌めていて、特に武器を振るう様子もなかったから柔らかいのだろうと思っていた彼の手は存外に硬かった。
 竜族の特性なのか、男性だからなのか、実は武器を握る事が多いのか、わたしには判断できない。できるほど、彼を知らない。
 綺麗な顔を寄せられると、クロウズさんの顔で視界がいっぱいになる。恥ずかしさのあまり目をぎゅっと瞑れば、笑う様な吐息が零れたのが聞こえて、前髪をかき上げられて額にキスを落とされた。
 そこから瞼、目尻、頬へと唇は下がりながらゆっくりと時間をかけて、啄む様なキスを繰り返し降らせてくれる。
 その間の私はと言えば、どんな強敵を前にした時よりも緊張して、体を強張らせてクロウズさんに身を任せるしかできなかった。
 顔がかあっと熱くなって、汗が全身から噴き出している気がする。触れる彼が気づかないわけがないのに何も言わないからいたたまれない。
彼の指が、そっとわたしの唇に触れた。
 恐る恐る目を開ければ、こちらを覗き込む鮮やかな新緑色の目があった。ただでさえ垂れ気味の目が優しく微笑んだりするから更に下がっている。
「少し、上を向いて頂けますか?」
「ん」
 体を縮こまらせていたせいで、いつの間にかうつむき気味になっていたようだった。
 言われた通りに少し上を向くと、もう一度、大きな手が頬を包む様に触れて、その端正な顔が伏し目がちに更に近づいてくる。
 やっぱり恥ずかしさに耐えきれなくなって、またぎゅっと目を瞑ってしまう。ふふ、と小さく笑う声がして、唇にクロウズさんの吐息を感じた。
 そのすぐ後に、柔らかいものが触れる。わたしの唇に、彼の唇が重なった。
 呼吸、どうしたらいいの? 分からなくて、吸うことも吐くことも止めてしまった。
「息、ちゃんとしてください。苦しいでしょう」
「だって、どう呼吸したらいいのか、分かんなくて」
「鼻でするんです。それと、唇が離れた時に」
「鼻でって、そんな、鼻息が荒いって思われたらやだ」
「思いませんよ。興奮してくれているのだと、嬉しくなります」
「でも」
「貴女は私の呼吸が気になりますか?」
「……ならない」
「でしょう?」
 再び重ねられる。
 教えてもらった様に鼻で呼吸する。気にならないと言われたものの、やっぱり気になってしまうから少しずつ吐き出して、少しずつ吸い込む。唇が離れた瞬間に口を細く開けた呼吸も試してみればお上手です、と褒められた。
 触れるだけのキスを繰り返して呼吸にもなんとか慣れてきた頃に、はむと下唇を柔らかく食まれた。      
 二度、三度と啄んでから離れて、顔を見合わせた。蕩けるような、熱っぽい新緑がそこにあった。
 皮膚が薄いからだろうか、柔らかくて暖かいその感触が気持ちよくて、わたしも彼の下唇を食み返した。
 わたしから何かされるとは思っていなかったのか、びくりとクロウズさんの体が小さく震えた。
 その反応が嬉しくてもう数度、彼の動作をなぞる様にして唇を食むと、その隙間に彼の舌が侵入してきた。
 驚いて顔を引こうとしたところで、頬に添えられている手とは逆の手が頭の後ろに回されていたことに気がついた。逃げれない。
 歯列をなぞり、上顎をくすぐり、奥に引っ込んでいたわたしの舌を絡め取る。
 ぬるりとした感触に全身がぞわぞわとする。クロウズさんの舌が熱くて、覚えたはずの呼吸が上手くできなくて、解放された頃にはわたしの息はすっかり上がっていた。
 口の端についた、どちらのものかわからない唾液を親指の腹で拭いながら、ふと生まれた疑問をなげかけた。
「……キス、うまいね?」
 呼吸の仕方も教えてくれるくらいだし。
 ぴた、とクロウズさんの動きが止まった。
 エテーネは小さな村だった。誰が怪我をした、あそこの家は昨日は夫婦喧嘩がすごかった、誰と誰が交際を始めた、など、どんな出来事でも大体は一瞬で村中に知れ渡る。そんな村で生活をしていた頃には、彼の恋愛事の話はついぞ聞かなかった。
 ならば、生き返りを受けてからそういう経験をしてきた、という事になるのではないか。
 恋愛関係があったのか、はたまた一夜限りの関係だったのか、どちらにしろわたし以外の存在が見え隠れするのは複雑な気持ちになる。
 人間関係に口出しをするのはどうかと思うが、気になるものは気になるのだ。
「……誤解されている気がしますね。違いますよ。初めてです」
「初めてでこんな上手なことある?」
「知識だけはと言いますか、指南書のようなものを、その、アバ様から渡されていまして。ぶっつけ本番、というやつですよ。あとは貴女の反応から察して、です」
 ただひたすらに翻弄されていただけだったが、そんなにわかりやすい反応をしていただろうか。
 そう言えば、この幼馴染は頭が良い上に器用だった。であれば、こちらの反応を探りながらいろいろと仕掛けてくるなど容易い……のだろう。
 でも、初めてだというのなら、もう少しくらい初めてっぽいところを見せてほしい。余裕のあるような態度を取られれば場慣れしていると思っても仕方がない。
 と言うか、アバ様からそんな本を渡されて、それを読み込んでたのか……
「貴女だって上手い下手を判ぜれるだけの経験がある、という事ですよね? どこの誰ですか。竜になって町ごと焼きら払ってきます」
「呼吸の仕方もわからなかったのに、そんなわけないでしょ」
 過激な発言がいつものように淡々としたものだったから、冗談なのか本気なのか分かりづらい。
 ただ、ほんの少しだけ表情が冷たくなったように見えたから、冗談だけとは限らないような気がする。
 クロウズさんの首を覆う長い襟を引っ張り下ろして、露わになったそこへあむと大きく甘噛みする。
 くすぐったいのか、クロウズさんがびくと跳ねた。
「ね、キス、もっと」
 ゆっくりと体重を後ろにかけて、クロウズさんを引き倒す。
 抵抗もせずに倒されてくれた彼は、私の顔の横に腕をついた。さらと彼の長くてまっすぐな、燻んだ金の髪が落ちてきて、まるで牢に囚われたようだった。
「気持ちよかったから、もっと」
「……誘うのがお上手ですね。やはり経験がおありなのでは?」
「もう! ないってば!」
 くすくすと笑いながら、クロウズさんが唇を額に落としてくる。瞼にも、頬にも、鼻先にも、掬い上げた髪にも、キスをくれる。彼が触れてくれた箇所がじわりと熱をもつ。
 なんてしあわせなんだろう。
「溺れそう」
「では、もっと溺れてもらいましょうか」
「お手柔らかにお願いします……」
 キスは止まず、触れる手は優しく、溢れる吐息は甘やかで、そうして夜は更けて行く。
 わたしのお願いが聞き届けられたかどうかは、秘密である。





2024.05.24
くるっぷにて

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