その他いろいろ
ごめんね。優しい約束の一つもできなくて。
西向きの窓のそばに置かれた大きな寝台の上に片膝を立て、壁にもたれるようにしてぼんやりと一日の最後の光が山の後ろに落ちていくところを年老いた女は眺めていた。
開け放たれた窓からは冷たい風が吹き込んで、ぶるりと体が震える。どのくらいの間そうしていたのか、体はすっかり冷えてしまった。優しい孫娘が体が冷えるからちゃんと閉めてねと言っていたが、まだもう少しは開けたままにしておかなければならない。
壁にかけられた毛織りのケープを取ろうと寝台から降りるが、自由の効かない体では一苦労だ。
左腕は二の腕の半分からを戦いで失った。動かしにくい左足も大怪我の後遺症で痺れたように感覚が鈍い。無数の古傷もそれぞれに痛むし、いくつか長患いの病気もある。特にひどいのは肺の病だ。これが余命を短くしている。
満足に動かせない体に不満は多いが、それもこれも、自分がこれまで生きてきた結果なのだから受け入れるしかない。来世ではもっと慎ましく生きてみて、どのような老後を送るのかを比べてみてもいいかもしれない。今世での記憶をそのまま引き継いでいれば、の話だが。
ケープを羽織り、蝋燭とランプに火を灯す。日も沈みきって暗くなった部屋が柔らかな灯りに照らされる。
再び寝台へと上がり、先ほどと同じような姿勢をとって窓の外に目を向けた。空には星々がきらきらと瞬いている。夜だ。
程なくして、羽ばたく音と共に大きな蝙蝠が開かれた窓から飛び込んできて、部屋の中央あたりでその蝙蝠は美しい男へと姿を変えた。
白銀の髪と青白い肌。血のように赤い瞳。彼こそは夜の支配者であり、タヴの友人であり、今夜の待ち人である。
「久しぶりだな、アスタリオン。相変わらずの色男ぶりで嬉しいよ」
「お前も、変わらずに美しい」
コツコツと良い音を立てて寝台に歩み寄り、青白い手でかつては磨いた鉄のような色だった長い白髪を一房すくい、やはり血色の良くない唇でキスをする。
「こんなババア相手に何を言っているんだか」
気障なセリフと大仰な動作に女は苦笑いをこぼした。似合っているからタチが悪い。よっぽどの嗜好でなければ、女だろうと男だろうとたちまち彼の虜にるだろう。
「信じてくれないのか? お前に対しては誠実であろうとしてるのに」
ぱさりと髪を放して、部屋の主の許可も得ずにアスタリオンは女の寝台に腰をかけた。
シナビを思い浮かばせる、皮と骨だけの大きくて細い右手を取り……男の顔が俄かに曇った。ひんやりとした男の手で触れてみても、女の手がひどく冷たかったのだ。
女の手を離して寝台に乗り上げると開け放たれた窓をバタン閉め、隅に追いやってあった毛布をマントのようにして背中からかけられた。
その過保護ぶりに思わず笑えば、冷たい視線で睨まれてしまった。
「怒らないでくれ。私がお前をこうやって迎えたかったんだ。先の短い老人の我儘を許して欲しい」
「……死ぬのか」
「そうだな、先はあまり長くはなさそうだ。死ぬなら戦いの最中だと思っていたのに、まさかこんなに穏やかに死んでいくだなんてな。若い頃の自分に聞かせてやりたいよ」
ははは、と笑う女からは死への恐怖など微塵も感じられなかった。
彼女は、己が心のままに生き、成すべき事を成し、成したかった事を成し、そうして何一つの未練も残していやしなかった。いい人生だった、とその穏やかな顔が物語っている。
元々、戦いの中で死んでもいいと思いながら生きてきたのがその人生の大半だ。死など常に横にいる隣人で、そもそも恐怖する対象ではないのだ。
そんないつか死ぬために生きているような人生はアスタリオンには理解できなかった。血生臭さや築いた屍の山という点においては似たようなものだが、男の方が遥かに陰惨で暗い道を歩んでいる。全てを奪われ、絶望の淵から自由と力と永遠を勝ち取り、強欲に、貪欲に生きている。元々がエルフという長命種でもある。生きている限り、やりたい事は尽きないのだろう。
「今からでも遅くない。ヴァンパイアになれ、タヴ。お前を失うのは惜しい」
「ははっ、まだそうやって誘ってくれるのか。嬉しいね。でも、私の答えは変わらないよ。断る」
「なぜだ。お前には俺の血を分けてやると言っているのに。陽の光を克服し、俺の従属の鎖に縛られもしない。永遠の命が手に入るんだぞ。完全な自由だ。お前はあるがままでいればいい。力だってずっと強くなる。最盛期のお前よりも、もっとだ。世の権力者や金持ち共が喉から手が出るほど求めるものだぞ。金や徳を積めば手に入るものじゃない。俺に選ばれた者だけがなれるんだ」
アスタリオンの熱弁に、タヴは静かに首を横に振った。
「力が欲しかったらあの頃にイリシッドになっていたし、永遠の命が欲しかったらお前に誘われたあの時にこの首を差し出している。私はね、アスタリオン。ここと決めた終着点まで全力で走る生き方しかできないんだ。永遠を生きるなんて向いていない。子供を産んで次に引き継いで、死んで生まれ変わる。そんな定命の者でいたいんだよ」
大体のことは笑って受け入れる女の、数少ないどうしても譲れない部分がこれだ。アスタリオンが何十年も誘惑しても、毎回これで断られる。ただの一度も揺らがない。
アスタリオンは苦虫を潰したような顔をする。それも、もう何十年もの間繰り返してきた事だ。
「アスタリオン?」
だが、その後のタヴの肩に頭を乗せてきたのは、今回が初めてだった。
「酷い奴だ。何もなかった俺に全てを与えておきながら、一番欲しかったお前だけはこの手に入れられなかった。それでも、こうしてたまに会えるだけでも良しとしたんだぞ。なのに、二度と会えないところへ旅立とうとしている」
「……悪いね、寿命が短くて」
「せめてエルフであれば、もっと長く生きられたんだ。何故ヒューマンなんだ」
「仕方ないだろう。生まれは選べない。生まれ変わった私で我慢してくれないか」
「それはお前じゃない。この記憶も持たない、生まれも育ちも、姿形も違うお前が欲しいんじゃない。このお前がほしいんだ」
「駄々をこねるなよ、わがままっ子めって、おいっ、重い!」
ぐっと男が力を入れて女を押してみれば、彼女は一度はその体を支えようしてみるものの、耐えることなどできずに押し倒された。その貧弱さと、体の下に敷いた細い体躯にアスタリオンはぎりと奥歯を噛み締めた。軽々と両手斧を振り回して笑いながら戦場を力強く駆け抜けたあの女が。自分が飛びついたところでびくともせずに抱きかかえたあの女が。老いて、こんなにも弱くなってしまったことが許せなくて、同時に終わりの近さが手に取るように分かってしまって、悲しかった。
男の体に押し潰されたタヴが苦しげに咳き込んで、アスタリオンは女に負担をかけないようにと背中を丸めるようにして体を浮かせた。けれど、顔だけはもう返り血の匂いをさせない彼女の首筋に埋めたままだった。こんなにも、あの日々は遠のいてしまった。
「お前のいない世界を、どうやって生きろと言うんだ」
「好きに生きろよ。二百年間不幸だったんだから、同じくらいは幸せになれよ」
「お前がいなければ、意味がない」
「もっといい相手が見つかるさ。お前はいい男なんだから」
「その男に靡かなかった女がどの口で」
「靡かなかったわけじゃないだろう。お前の言う永遠が、私の信条と反してしまっただけだ」
「ケセリック・ソームのように、お前を蘇らせるかもしれないぞ」
「迷惑だ。やるな。蘇らせたら殺す」
「はっ、殺せる気でいるところがお前らしい。今の俺は不滅のヴァンパイアの王だぞ? ああ、カザドールのような暴虐な支配者になるかもな。それとも、全てに飽いて世界の破滅へ進むか」
「お前なぁ、何のためにヴァンパイア・アセンダントになったんだ? 自由になるためだっただろう? 何で私なんかに囚われてるんだ」
「そんなもの、俺が教えて欲しいくらいだ」
「お前、今何歳だ? うちの孫達よりも子供のようじゃないか。ヒューマンでいったらジジイなんだぞ」
「俺は、永遠に、若くて、美しい、ヴァンパイアだ」
「ふふふ。うん、そうだな。お前はいつだって、美しいよ」
女の細い右腕が男の背に回される。
若かったあの頃はなんて小さい背中なのかと思ったが、こうして自分が小さくなってみればアスタリオンの背は十分に大きかったのだと、ようやく認識を改めた。
するりと上等な衣服の上を滑って男の後頭部へと辿り着く。ふわふわしていそうに見えて、存外しっかりした手触りの白銀の髪を指先でくるくると遊び、それから優しく撫でる。
「……ごめんなあ、何にも残せなくて」
「血も、体も、全部よこせ。それで手を打ってやる」
「今の私はババアで、満足に動く体でもないし、いくつも病を抱えてるんだぞ? 大して美味いものだとは思えないが」
「どれだけ不味かろうと、血は全て飲み干してやるし、肉と内臓と皮は最高の晩餐にしてやる。残った骨は綺麗に磨いて愛でてやる。そう決めた」
「……私の死体は好きにしてくれて構わないが、悪趣味すぎないか?」
「お前の意思を最大限尊重してやっただろう。そのくらいは許せ」
確かに、この男の退廃的で妖艶な美貌と雰囲気であれば、白骨とダンスをしようが髑髏を愛でようが、恐ろしいことに様になってしまう。それこそ、一枚の美しい絵画のように。
その骨が自分である事に妙なむず痒さを感じるが、アスタリオンがそう望むのならと、あの儀式の時のようにやはりタヴは笑って受け入れることにした。一族の者には悪いが、墓は愛用していた斧でも墓標にしておいてもらおう。自分でも言った通り、死体なんぞはどう扱ってもらっても構わないのだ。復活や蘇生で第二の人生を与えられる事だけは御免被るが。
「仕方ないなぁ。遺言に書いておくよ。私の死体は、我が友人にして最愛のアスタリオンにくれてやる、って」
「……ああ、お前の口から愛を聞くのは何年ぶりだろうな」
さいあい。するりと出てしまった言葉だが、確かに別れて以来、一度も口にしていない言葉だ。価値観と信条が相入れなかったがために別れはしたが、タヴの愛する男はずっとアスタリオンだけであった。
ちなみに、子供を産むために男の精を得るための行為は愛がなくともできるのがタヴである。父親である男たちへの愛はないが、産み、あるいは引き取って育てた子供たちへの親子の愛はちゃんとある。
「四、五十年くらいか? 結構経ったなあ」
「もう一度、言ってくれないか」
言っていいものかと、タヴば逡巡する。
今でも愛しているとは言え、己の生き方を曲げることができずにアスタリオンを捨て、今もまだ彼の共に生きようという提案を拒否し続けている。そんな自分に、彼に改めて愛を告げる資格があるのだろうか。
そんな迷いを感じ取ったのか、アスタリオンがかりと弛んだしわばかりの皮膚に歯を立ててから顔を上げた。
「ダーリン。愛してる。愛してるんだ」
不安げに揺れる紅玉よりも美しい赤い瞳と視線が絡む。
小さく吐き出す息と共に、資格がどうとかは丸めて捨てる事にした。やりたい様にやって生きてきたし、それは残り少ない時間でも変えるつもりはない。つまり、まだ愛しているのだから口にしてはいけない理由はない。
男の頭を撫でていた右手を、左の頬に添えてやる。滑らかで触り心地が良い。
「私も、ずっと愛していたし、これからも愛してるよ、アスタリオン」
その言葉が、どうか彼の生きる永遠にとって、優しい約束になりますように。
2024.5.24
くるっぷにて
西向きの窓のそばに置かれた大きな寝台の上に片膝を立て、壁にもたれるようにしてぼんやりと一日の最後の光が山の後ろに落ちていくところを年老いた女は眺めていた。
開け放たれた窓からは冷たい風が吹き込んで、ぶるりと体が震える。どのくらいの間そうしていたのか、体はすっかり冷えてしまった。優しい孫娘が体が冷えるからちゃんと閉めてねと言っていたが、まだもう少しは開けたままにしておかなければならない。
壁にかけられた毛織りのケープを取ろうと寝台から降りるが、自由の効かない体では一苦労だ。
左腕は二の腕の半分からを戦いで失った。動かしにくい左足も大怪我の後遺症で痺れたように感覚が鈍い。無数の古傷もそれぞれに痛むし、いくつか長患いの病気もある。特にひどいのは肺の病だ。これが余命を短くしている。
満足に動かせない体に不満は多いが、それもこれも、自分がこれまで生きてきた結果なのだから受け入れるしかない。来世ではもっと慎ましく生きてみて、どのような老後を送るのかを比べてみてもいいかもしれない。今世での記憶をそのまま引き継いでいれば、の話だが。
ケープを羽織り、蝋燭とランプに火を灯す。日も沈みきって暗くなった部屋が柔らかな灯りに照らされる。
再び寝台へと上がり、先ほどと同じような姿勢をとって窓の外に目を向けた。空には星々がきらきらと瞬いている。夜だ。
程なくして、羽ばたく音と共に大きな蝙蝠が開かれた窓から飛び込んできて、部屋の中央あたりでその蝙蝠は美しい男へと姿を変えた。
白銀の髪と青白い肌。血のように赤い瞳。彼こそは夜の支配者であり、タヴの友人であり、今夜の待ち人である。
「久しぶりだな、アスタリオン。相変わらずの色男ぶりで嬉しいよ」
「お前も、変わらずに美しい」
コツコツと良い音を立てて寝台に歩み寄り、青白い手でかつては磨いた鉄のような色だった長い白髪を一房すくい、やはり血色の良くない唇でキスをする。
「こんなババア相手に何を言っているんだか」
気障なセリフと大仰な動作に女は苦笑いをこぼした。似合っているからタチが悪い。よっぽどの嗜好でなければ、女だろうと男だろうとたちまち彼の虜にるだろう。
「信じてくれないのか? お前に対しては誠実であろうとしてるのに」
ぱさりと髪を放して、部屋の主の許可も得ずにアスタリオンは女の寝台に腰をかけた。
シナビを思い浮かばせる、皮と骨だけの大きくて細い右手を取り……男の顔が俄かに曇った。ひんやりとした男の手で触れてみても、女の手がひどく冷たかったのだ。
女の手を離して寝台に乗り上げると開け放たれた窓をバタン閉め、隅に追いやってあった毛布をマントのようにして背中からかけられた。
その過保護ぶりに思わず笑えば、冷たい視線で睨まれてしまった。
「怒らないでくれ。私がお前をこうやって迎えたかったんだ。先の短い老人の我儘を許して欲しい」
「……死ぬのか」
「そうだな、先はあまり長くはなさそうだ。死ぬなら戦いの最中だと思っていたのに、まさかこんなに穏やかに死んでいくだなんてな。若い頃の自分に聞かせてやりたいよ」
ははは、と笑う女からは死への恐怖など微塵も感じられなかった。
彼女は、己が心のままに生き、成すべき事を成し、成したかった事を成し、そうして何一つの未練も残していやしなかった。いい人生だった、とその穏やかな顔が物語っている。
元々、戦いの中で死んでもいいと思いながら生きてきたのがその人生の大半だ。死など常に横にいる隣人で、そもそも恐怖する対象ではないのだ。
そんないつか死ぬために生きているような人生はアスタリオンには理解できなかった。血生臭さや築いた屍の山という点においては似たようなものだが、男の方が遥かに陰惨で暗い道を歩んでいる。全てを奪われ、絶望の淵から自由と力と永遠を勝ち取り、強欲に、貪欲に生きている。元々がエルフという長命種でもある。生きている限り、やりたい事は尽きないのだろう。
「今からでも遅くない。ヴァンパイアになれ、タヴ。お前を失うのは惜しい」
「ははっ、まだそうやって誘ってくれるのか。嬉しいね。でも、私の答えは変わらないよ。断る」
「なぜだ。お前には俺の血を分けてやると言っているのに。陽の光を克服し、俺の従属の鎖に縛られもしない。永遠の命が手に入るんだぞ。完全な自由だ。お前はあるがままでいればいい。力だってずっと強くなる。最盛期のお前よりも、もっとだ。世の権力者や金持ち共が喉から手が出るほど求めるものだぞ。金や徳を積めば手に入るものじゃない。俺に選ばれた者だけがなれるんだ」
アスタリオンの熱弁に、タヴは静かに首を横に振った。
「力が欲しかったらあの頃にイリシッドになっていたし、永遠の命が欲しかったらお前に誘われたあの時にこの首を差し出している。私はね、アスタリオン。ここと決めた終着点まで全力で走る生き方しかできないんだ。永遠を生きるなんて向いていない。子供を産んで次に引き継いで、死んで生まれ変わる。そんな定命の者でいたいんだよ」
大体のことは笑って受け入れる女の、数少ないどうしても譲れない部分がこれだ。アスタリオンが何十年も誘惑しても、毎回これで断られる。ただの一度も揺らがない。
アスタリオンは苦虫を潰したような顔をする。それも、もう何十年もの間繰り返してきた事だ。
「アスタリオン?」
だが、その後のタヴの肩に頭を乗せてきたのは、今回が初めてだった。
「酷い奴だ。何もなかった俺に全てを与えておきながら、一番欲しかったお前だけはこの手に入れられなかった。それでも、こうしてたまに会えるだけでも良しとしたんだぞ。なのに、二度と会えないところへ旅立とうとしている」
「……悪いね、寿命が短くて」
「せめてエルフであれば、もっと長く生きられたんだ。何故ヒューマンなんだ」
「仕方ないだろう。生まれは選べない。生まれ変わった私で我慢してくれないか」
「それはお前じゃない。この記憶も持たない、生まれも育ちも、姿形も違うお前が欲しいんじゃない。このお前がほしいんだ」
「駄々をこねるなよ、わがままっ子めって、おいっ、重い!」
ぐっと男が力を入れて女を押してみれば、彼女は一度はその体を支えようしてみるものの、耐えることなどできずに押し倒された。その貧弱さと、体の下に敷いた細い体躯にアスタリオンはぎりと奥歯を噛み締めた。軽々と両手斧を振り回して笑いながら戦場を力強く駆け抜けたあの女が。自分が飛びついたところでびくともせずに抱きかかえたあの女が。老いて、こんなにも弱くなってしまったことが許せなくて、同時に終わりの近さが手に取るように分かってしまって、悲しかった。
男の体に押し潰されたタヴが苦しげに咳き込んで、アスタリオンは女に負担をかけないようにと背中を丸めるようにして体を浮かせた。けれど、顔だけはもう返り血の匂いをさせない彼女の首筋に埋めたままだった。こんなにも、あの日々は遠のいてしまった。
「お前のいない世界を、どうやって生きろと言うんだ」
「好きに生きろよ。二百年間不幸だったんだから、同じくらいは幸せになれよ」
「お前がいなければ、意味がない」
「もっといい相手が見つかるさ。お前はいい男なんだから」
「その男に靡かなかった女がどの口で」
「靡かなかったわけじゃないだろう。お前の言う永遠が、私の信条と反してしまっただけだ」
「ケセリック・ソームのように、お前を蘇らせるかもしれないぞ」
「迷惑だ。やるな。蘇らせたら殺す」
「はっ、殺せる気でいるところがお前らしい。今の俺は不滅のヴァンパイアの王だぞ? ああ、カザドールのような暴虐な支配者になるかもな。それとも、全てに飽いて世界の破滅へ進むか」
「お前なぁ、何のためにヴァンパイア・アセンダントになったんだ? 自由になるためだっただろう? 何で私なんかに囚われてるんだ」
「そんなもの、俺が教えて欲しいくらいだ」
「お前、今何歳だ? うちの孫達よりも子供のようじゃないか。ヒューマンでいったらジジイなんだぞ」
「俺は、永遠に、若くて、美しい、ヴァンパイアだ」
「ふふふ。うん、そうだな。お前はいつだって、美しいよ」
女の細い右腕が男の背に回される。
若かったあの頃はなんて小さい背中なのかと思ったが、こうして自分が小さくなってみればアスタリオンの背は十分に大きかったのだと、ようやく認識を改めた。
するりと上等な衣服の上を滑って男の後頭部へと辿り着く。ふわふわしていそうに見えて、存外しっかりした手触りの白銀の髪を指先でくるくると遊び、それから優しく撫でる。
「……ごめんなあ、何にも残せなくて」
「血も、体も、全部よこせ。それで手を打ってやる」
「今の私はババアで、満足に動く体でもないし、いくつも病を抱えてるんだぞ? 大して美味いものだとは思えないが」
「どれだけ不味かろうと、血は全て飲み干してやるし、肉と内臓と皮は最高の晩餐にしてやる。残った骨は綺麗に磨いて愛でてやる。そう決めた」
「……私の死体は好きにしてくれて構わないが、悪趣味すぎないか?」
「お前の意思を最大限尊重してやっただろう。そのくらいは許せ」
確かに、この男の退廃的で妖艶な美貌と雰囲気であれば、白骨とダンスをしようが髑髏を愛でようが、恐ろしいことに様になってしまう。それこそ、一枚の美しい絵画のように。
その骨が自分である事に妙なむず痒さを感じるが、アスタリオンがそう望むのならと、あの儀式の時のようにやはりタヴは笑って受け入れることにした。一族の者には悪いが、墓は愛用していた斧でも墓標にしておいてもらおう。自分でも言った通り、死体なんぞはどう扱ってもらっても構わないのだ。復活や蘇生で第二の人生を与えられる事だけは御免被るが。
「仕方ないなぁ。遺言に書いておくよ。私の死体は、我が友人にして最愛のアスタリオンにくれてやる、って」
「……ああ、お前の口から愛を聞くのは何年ぶりだろうな」
さいあい。するりと出てしまった言葉だが、確かに別れて以来、一度も口にしていない言葉だ。価値観と信条が相入れなかったがために別れはしたが、タヴの愛する男はずっとアスタリオンだけであった。
ちなみに、子供を産むために男の精を得るための行為は愛がなくともできるのがタヴである。父親である男たちへの愛はないが、産み、あるいは引き取って育てた子供たちへの親子の愛はちゃんとある。
「四、五十年くらいか? 結構経ったなあ」
「もう一度、言ってくれないか」
言っていいものかと、タヴば逡巡する。
今でも愛しているとは言え、己の生き方を曲げることができずにアスタリオンを捨て、今もまだ彼の共に生きようという提案を拒否し続けている。そんな自分に、彼に改めて愛を告げる資格があるのだろうか。
そんな迷いを感じ取ったのか、アスタリオンがかりと弛んだしわばかりの皮膚に歯を立ててから顔を上げた。
「ダーリン。愛してる。愛してるんだ」
不安げに揺れる紅玉よりも美しい赤い瞳と視線が絡む。
小さく吐き出す息と共に、資格がどうとかは丸めて捨てる事にした。やりたい様にやって生きてきたし、それは残り少ない時間でも変えるつもりはない。つまり、まだ愛しているのだから口にしてはいけない理由はない。
男の頭を撫でていた右手を、左の頬に添えてやる。滑らかで触り心地が良い。
「私も、ずっと愛していたし、これからも愛してるよ、アスタリオン」
その言葉が、どうか彼の生きる永遠にとって、優しい約束になりますように。
2024.5.24
くるっぷにて