女主とだれか。
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Call my name
気がついたときには細い路地の隅っこの、溜められたゴミ袋の上に半ば埋もれるようにして倒れていた。
空が青くて奇麗で、ぼんやりとする頭がちゃんと覚醒するまで見上げていたかったが、体の下にしているゴミのすえた臭いが最悪だった。
何でこんなところで寝てたんだろうな、俺。喧嘩でもしてこてんぱんにされたのか、酔っ払って寝ちまったのか。しかも服もないし、下穿きだけなんてかっこ悪すぎる。そんなことをぼやきながらゴミ山の中から抜け出して、そのことに気がついてぎくりとした。
自分が誰なのか、分からない。ここが何処なのかも、分からない。思い出せる過去はついさっき目が覚めてからこっちのことで、それより前のことは奇麗さっぱり覚えていなかった。
血の気の引いた頭で精一杯思い出そうとして浮かんできたのは、名前も顔も分からない誰かの面影だけだった。
いくらなんでも裸じゃうろつけないと、ゴミ溜めの中から適当なボロ布を探し出して纏って、医者と術師に診てもらうと普通の記憶喪失じゃないと診断された。記憶は戻らないと思ったほうがいいとも言われた。
困ったことになったなとどこか他人事のように思っていたが、今の自分は一文無しで今日の食事にも事欠くのだと気がついて、丁度診てくれた術師に頼み込んだら適当な偽名をつけて冒険者ギルドに口を利いてくれて冒険者登録までやってくれた。幸い、自分に関する事と目覚める以前の記憶と服と金意外はちゃんとあった。体も健康そのもの。これで当面は仕事にありつけるというわけだ。
それからは、ギルドに舞い込む仕事を請けながら各地を転々とする生活だった。どこかに俺を知っている奴がいるかもしれないと思ったからだ。
そうやって、三年が過ぎた。
未だに己の正体に関する情報はないし、無くした記憶が戻る気配もない。いくつもの町を回ったんだから、一人くらいは俺を見かけたことのある奴がいてもいいはずなんだが、それすらもない。一体どういうことなのか。俺が全部忘れているように、他の奴ら……もしかしたら世界中の連中が、俺のことを忘れているんじゃないのかとか、そんな馬鹿げたことを考えたくなるくらい、奇麗さっぱり、俺の痕跡は見つからなかった。
最近では仕方ない、と諦めの気持ちが強くなっていた。ときどき、名前と顔の思い出せない誰かの面影がちらりと脳裏を掠めて、そのたびに胸が痛くなったけれど。
その誰かも、俺を探してるのかななんて考えながら夕闇の訪れた通りを宿へと向かって歩いていた。
通りには軽快な音楽を奏でる旅の楽団や、一日の仕事を終えて酒場に向かう男達や、その男たちに声をかける娼婦がいっぱいでにぎわっている。町の夜はこれから始まって、日の出まで続くだろう。
その通りを、時折かけられる声に笑って手を振って答えて、俺は歩く。なんとなく、その輪に加わろうと言う気にはなれなかった。
夜は、どんなに明かりを灯していても、どんなに楽しい遊びに興じていても、女を抱いていても、いつでも胸にぽっかりと穴が空いた様な物悲しい思いが訪れるから。全てがなんだか色褪せて、どうしようもない空虚感に苛まれるから。
それは多分、無くした記憶に関係しているんだろうなと直感する。昔の夜に、空っぽの心を満たすような何かがあって、今はそれが無いから、きっとこんな切ない気持ちになるんだろう。
沈む気持ちはなかなか浮上してこない。いつの間にか顔は俯き気味で、目線は足先を見ていた。それじゃあ浮かばないはずだ。
気分を変えるべく顔を顔を上げると、何故かぴたりと足が止まった。歩く人々が迷惑そうな顔をして避けていくが、今はそんなものは全く気にならなかった。
視線の先に、一人の女がいる。黒い髪と黒い目をして、くたびれた緑の旅装束と年季の入っていそうな胴鎧をつけた女。背中には女の身長ほどもありそうな大剣を背負っている。一目で冒険者と見て取れた。
じっと、と言うよりは呆気に取られたように彼女はこっちを見ている。目を大きく見開いて、口をぽかんと開けている。
なんだ、変な女。
……変な、女?
なんだろう。ありふれた言葉のはずなのに、ざわざわと落ち着かない気持ちになる。
あの女は、俺を……?
「―――ッ!」
それは叫びだった。
悲鳴ではなく、怒声でもなく、抑えきれない感情が爆発して、胸をずきりと痛ませるような叫び声。
そして、その言葉は。
「ツェラシェル!」
名前だ。
誰の?
……俺の?
女が走ってくる。通行人にぶつかり、押しのけ、罵声を浴びせられても、足を止めることなく、一直線に。
そうだ。知っている。
知らない女のはずなのに、俺は知っている。
ずっと引っかかっていた、顔と名前の思い出せない大切な誰かの面影が、女の姿と重なった。魂としか呼べないような体の奥深くが打ち震えて、いくつもの情景が去来する。
限りない可能性を感じさせる目は、いつも前を見て星を浮かべたようにきらきらと輝いていた。
今みたいに、一度走り出したら障害物があっても止まらない。障害物は、壊して進む。
笑った顔は太陽みたいだった。
些細な、くだらないことでよく笑っていた。
怒る顔は怖かった。
自分は何をされても、何を言われても平気そうにしているくせに、他人のために怒る心理が理解できなかった。
泣き顔は見たことが無かった。
弱さを見せたくないと泣くことをしなかった。
ただの一度も弱音を吐かず、生まれ続ける悲しみに胸を痛ませ、理不尽な悲しみを生ませないようにと奔走する姿が眩しかった。
そんな、自分に厳しく、他人に優しい、強い女。
名前、は。
どうして、思い出せない。一番大切なことなのに。知っているのに。こんなに胸が熱くなって痛くなる感情を抱いている相手なのに。
動けないでいる間に、女との距離は縮んでいた。手を伸ばせば、もう少しで届くような距離だ。
女が地面を蹴る。更に距離が縮まった。走るよりも跳ぶ方が、距離が稼げる。
「ツェラシェル!」
両腕をめいっぱい伸ばして突っ込んでくる女。まるで野生の鹿みたいだ。
ああ、それにしたってまた何て無茶を。そんな勢いで跳んでこられたら、受け止める方がどんな目に合うのかくらい考えて欲しい。
女の顔が、目の前に迫る。伸ばされていた両腕は背中に回ってがっちりと掴んでいる。反射的に俺も手を伸ばして、女の背中を抱いた。硬く冷たい金属の感触は、女が身に着けた胴鎧のものだ。ああ、なんて邪魔な。
全く殺されない勢いは、両足で踏ん張ったところでどうにかなるものじゃなかった。抱きしめられた上半身を持っていかれて、ほんの少し後ろに吹っ飛びながら地面に倒れた。強かに打った腰が痛かったが、それよりも女がきつく抱きしめて縋りついてくる胸が痛かった。
「ツェラシェル、ツェラシェル、探し、探してたの、ずっとずっと、あっちこっち旅して、生きてるって信じてたけど、けど、も、もうしん、本当に死んでるんじゃないかって、ちょっと思い始めて、うっ、でも、でもってずっと、ずっと、ってた、生きてた。ツェラシェ、生きてた。良かったよぅ、っく、もう会えないんじゃないかっ、ひぅ、わた、わたし、覚えてる、みんなわす、忘れちゃったけど、わたし、はっ、ちゃんと覚えて、ツェラシェル」
女の口から溢れる言葉はめちゃくちゃだった。爆発した感情のままに、思いつく言葉を並べている。時折しゃくりを上げて、体が跳ねる。
そんな女を宥めるように、そっと黒い髪を撫でてやった。さらりとした感触が、手に心地良い。
「……なあ」
声をかけても、女は顔を上げない。わんわん声を上げて泣いていて、時折咽て咳き込んだりする。
顔のすぐ下にあるつむじを見ながら、これから言う言葉が彼女を傷つけるだろうことに胸が痛んだ。泣き止ませるための手段を持っていないことが、どうしようもなく情けなかった。
「俺、あんたのこと、知ってるはずなのに思い出せねぇんだ。悪い」
びくり、と女の体が強張り、それまでの泣き声が嘘のように静かになった。嗚咽だけがこぼれ続けている。
女の背中に回した片腕に力を込めて、髪を撫でていた手でそっと頭を抱きしめて、もう一度悪いと謝った。謝ったところで彼女の何が癒されるわけでもないと分かっていても、そう言わずにはいられ無かった。
どうしたらいいのだろう。思い出せない。奇麗さっぱり消えてなくなった記憶は、どうしたら戻るのだろう。思い出せないのは辛い。もしかしたら思い出しても辛い記憶しかないのかもしれない。忘れている方が幸せだったとしても、それでも、思い出したかった。
「……っは、そんなの」
いくらか落ち着きを取り戻したのか、女が口を開いた。声は泣いているせいで鼻と喉の粘膜をやられているらしく、がらがらの聞き取りにくい声だったものだった。
女はのろのろと顔を上げて、目元を拭って笑う。
涙はまだ止まっていない。ずぴ、とすすり上げているが鼻水は唇の上を濡らしていて酷い有様だ。こりゃ俺の服も大変なことになってるかもしれない。
それでも、不愉快じゃなかった。涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃでも、目蓋がと鼻が腫れていても、それでも彼女が笑ってくれている。それで全部、どうでも良かった。
「覚えてないなら、覚え直せばいいよ。私が知ってること、なら、教えてあげ、っく、から」
いい女だな。
たぶん、昔の俺もそう思っていたに違いない。だから、全部忘れちまってても、彼女のことだけは薄ぼんやりと覚えていたんだ。もしかしたら、記憶を司る脳みそじゃなくて魂が覚えているのかもしれない。
ああ、きっとそうだ。そうに違いない。
女の目からまた一筋、涙が頬を伝う。それを拭ってやって、笑った。
「さし当たっては、あんたの名前から覚えなおすとするかね」
「今度は、忘れないで」
耳元に寄せられた唇から紡がれた、女の名前。
「ジル」
何があっても忘れないように。
魂に刻み込むように、祈るように、その名前を唇に乗せて女を抱きしめた。
周囲を取り囲む通行人どものことなんざ、知ったことか。
2009.04.23
初出
気がついたときには細い路地の隅っこの、溜められたゴミ袋の上に半ば埋もれるようにして倒れていた。
空が青くて奇麗で、ぼんやりとする頭がちゃんと覚醒するまで見上げていたかったが、体の下にしているゴミのすえた臭いが最悪だった。
何でこんなところで寝てたんだろうな、俺。喧嘩でもしてこてんぱんにされたのか、酔っ払って寝ちまったのか。しかも服もないし、下穿きだけなんてかっこ悪すぎる。そんなことをぼやきながらゴミ山の中から抜け出して、そのことに気がついてぎくりとした。
自分が誰なのか、分からない。ここが何処なのかも、分からない。思い出せる過去はついさっき目が覚めてからこっちのことで、それより前のことは奇麗さっぱり覚えていなかった。
血の気の引いた頭で精一杯思い出そうとして浮かんできたのは、名前も顔も分からない誰かの面影だけだった。
いくらなんでも裸じゃうろつけないと、ゴミ溜めの中から適当なボロ布を探し出して纏って、医者と術師に診てもらうと普通の記憶喪失じゃないと診断された。記憶は戻らないと思ったほうがいいとも言われた。
困ったことになったなとどこか他人事のように思っていたが、今の自分は一文無しで今日の食事にも事欠くのだと気がついて、丁度診てくれた術師に頼み込んだら適当な偽名をつけて冒険者ギルドに口を利いてくれて冒険者登録までやってくれた。幸い、自分に関する事と目覚める以前の記憶と服と金意外はちゃんとあった。体も健康そのもの。これで当面は仕事にありつけるというわけだ。
それからは、ギルドに舞い込む仕事を請けながら各地を転々とする生活だった。どこかに俺を知っている奴がいるかもしれないと思ったからだ。
そうやって、三年が過ぎた。
未だに己の正体に関する情報はないし、無くした記憶が戻る気配もない。いくつもの町を回ったんだから、一人くらいは俺を見かけたことのある奴がいてもいいはずなんだが、それすらもない。一体どういうことなのか。俺が全部忘れているように、他の奴ら……もしかしたら世界中の連中が、俺のことを忘れているんじゃないのかとか、そんな馬鹿げたことを考えたくなるくらい、奇麗さっぱり、俺の痕跡は見つからなかった。
最近では仕方ない、と諦めの気持ちが強くなっていた。ときどき、名前と顔の思い出せない誰かの面影がちらりと脳裏を掠めて、そのたびに胸が痛くなったけれど。
その誰かも、俺を探してるのかななんて考えながら夕闇の訪れた通りを宿へと向かって歩いていた。
通りには軽快な音楽を奏でる旅の楽団や、一日の仕事を終えて酒場に向かう男達や、その男たちに声をかける娼婦がいっぱいでにぎわっている。町の夜はこれから始まって、日の出まで続くだろう。
その通りを、時折かけられる声に笑って手を振って答えて、俺は歩く。なんとなく、その輪に加わろうと言う気にはなれなかった。
夜は、どんなに明かりを灯していても、どんなに楽しい遊びに興じていても、女を抱いていても、いつでも胸にぽっかりと穴が空いた様な物悲しい思いが訪れるから。全てがなんだか色褪せて、どうしようもない空虚感に苛まれるから。
それは多分、無くした記憶に関係しているんだろうなと直感する。昔の夜に、空っぽの心を満たすような何かがあって、今はそれが無いから、きっとこんな切ない気持ちになるんだろう。
沈む気持ちはなかなか浮上してこない。いつの間にか顔は俯き気味で、目線は足先を見ていた。それじゃあ浮かばないはずだ。
気分を変えるべく顔を顔を上げると、何故かぴたりと足が止まった。歩く人々が迷惑そうな顔をして避けていくが、今はそんなものは全く気にならなかった。
視線の先に、一人の女がいる。黒い髪と黒い目をして、くたびれた緑の旅装束と年季の入っていそうな胴鎧をつけた女。背中には女の身長ほどもありそうな大剣を背負っている。一目で冒険者と見て取れた。
じっと、と言うよりは呆気に取られたように彼女はこっちを見ている。目を大きく見開いて、口をぽかんと開けている。
なんだ、変な女。
……変な、女?
なんだろう。ありふれた言葉のはずなのに、ざわざわと落ち着かない気持ちになる。
あの女は、俺を……?
「―――ッ!」
それは叫びだった。
悲鳴ではなく、怒声でもなく、抑えきれない感情が爆発して、胸をずきりと痛ませるような叫び声。
そして、その言葉は。
「ツェラシェル!」
名前だ。
誰の?
……俺の?
女が走ってくる。通行人にぶつかり、押しのけ、罵声を浴びせられても、足を止めることなく、一直線に。
そうだ。知っている。
知らない女のはずなのに、俺は知っている。
ずっと引っかかっていた、顔と名前の思い出せない大切な誰かの面影が、女の姿と重なった。魂としか呼べないような体の奥深くが打ち震えて、いくつもの情景が去来する。
限りない可能性を感じさせる目は、いつも前を見て星を浮かべたようにきらきらと輝いていた。
今みたいに、一度走り出したら障害物があっても止まらない。障害物は、壊して進む。
笑った顔は太陽みたいだった。
些細な、くだらないことでよく笑っていた。
怒る顔は怖かった。
自分は何をされても、何を言われても平気そうにしているくせに、他人のために怒る心理が理解できなかった。
泣き顔は見たことが無かった。
弱さを見せたくないと泣くことをしなかった。
ただの一度も弱音を吐かず、生まれ続ける悲しみに胸を痛ませ、理不尽な悲しみを生ませないようにと奔走する姿が眩しかった。
そんな、自分に厳しく、他人に優しい、強い女。
名前、は。
どうして、思い出せない。一番大切なことなのに。知っているのに。こんなに胸が熱くなって痛くなる感情を抱いている相手なのに。
動けないでいる間に、女との距離は縮んでいた。手を伸ばせば、もう少しで届くような距離だ。
女が地面を蹴る。更に距離が縮まった。走るよりも跳ぶ方が、距離が稼げる。
「ツェラシェル!」
両腕をめいっぱい伸ばして突っ込んでくる女。まるで野生の鹿みたいだ。
ああ、それにしたってまた何て無茶を。そんな勢いで跳んでこられたら、受け止める方がどんな目に合うのかくらい考えて欲しい。
女の顔が、目の前に迫る。伸ばされていた両腕は背中に回ってがっちりと掴んでいる。反射的に俺も手を伸ばして、女の背中を抱いた。硬く冷たい金属の感触は、女が身に着けた胴鎧のものだ。ああ、なんて邪魔な。
全く殺されない勢いは、両足で踏ん張ったところでどうにかなるものじゃなかった。抱きしめられた上半身を持っていかれて、ほんの少し後ろに吹っ飛びながら地面に倒れた。強かに打った腰が痛かったが、それよりも女がきつく抱きしめて縋りついてくる胸が痛かった。
「ツェラシェル、ツェラシェル、探し、探してたの、ずっとずっと、あっちこっち旅して、生きてるって信じてたけど、けど、も、もうしん、本当に死んでるんじゃないかって、ちょっと思い始めて、うっ、でも、でもってずっと、ずっと、ってた、生きてた。ツェラシェ、生きてた。良かったよぅ、っく、もう会えないんじゃないかっ、ひぅ、わた、わたし、覚えてる、みんなわす、忘れちゃったけど、わたし、はっ、ちゃんと覚えて、ツェラシェル」
女の口から溢れる言葉はめちゃくちゃだった。爆発した感情のままに、思いつく言葉を並べている。時折しゃくりを上げて、体が跳ねる。
そんな女を宥めるように、そっと黒い髪を撫でてやった。さらりとした感触が、手に心地良い。
「……なあ」
声をかけても、女は顔を上げない。わんわん声を上げて泣いていて、時折咽て咳き込んだりする。
顔のすぐ下にあるつむじを見ながら、これから言う言葉が彼女を傷つけるだろうことに胸が痛んだ。泣き止ませるための手段を持っていないことが、どうしようもなく情けなかった。
「俺、あんたのこと、知ってるはずなのに思い出せねぇんだ。悪い」
びくり、と女の体が強張り、それまでの泣き声が嘘のように静かになった。嗚咽だけがこぼれ続けている。
女の背中に回した片腕に力を込めて、髪を撫でていた手でそっと頭を抱きしめて、もう一度悪いと謝った。謝ったところで彼女の何が癒されるわけでもないと分かっていても、そう言わずにはいられ無かった。
どうしたらいいのだろう。思い出せない。奇麗さっぱり消えてなくなった記憶は、どうしたら戻るのだろう。思い出せないのは辛い。もしかしたら思い出しても辛い記憶しかないのかもしれない。忘れている方が幸せだったとしても、それでも、思い出したかった。
「……っは、そんなの」
いくらか落ち着きを取り戻したのか、女が口を開いた。声は泣いているせいで鼻と喉の粘膜をやられているらしく、がらがらの聞き取りにくい声だったものだった。
女はのろのろと顔を上げて、目元を拭って笑う。
涙はまだ止まっていない。ずぴ、とすすり上げているが鼻水は唇の上を濡らしていて酷い有様だ。こりゃ俺の服も大変なことになってるかもしれない。
それでも、不愉快じゃなかった。涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃでも、目蓋がと鼻が腫れていても、それでも彼女が笑ってくれている。それで全部、どうでも良かった。
「覚えてないなら、覚え直せばいいよ。私が知ってること、なら、教えてあげ、っく、から」
いい女だな。
たぶん、昔の俺もそう思っていたに違いない。だから、全部忘れちまってても、彼女のことだけは薄ぼんやりと覚えていたんだ。もしかしたら、記憶を司る脳みそじゃなくて魂が覚えているのかもしれない。
ああ、きっとそうだ。そうに違いない。
女の目からまた一筋、涙が頬を伝う。それを拭ってやって、笑った。
「さし当たっては、あんたの名前から覚えなおすとするかね」
「今度は、忘れないで」
耳元に寄せられた唇から紡がれた、女の名前。
「ジル」
何があっても忘れないように。
魂に刻み込むように、祈るように、その名前を唇に乗せて女を抱きしめた。
周囲を取り囲む通行人どものことなんざ、知ったことか。
2009.04.23
初出