短編・中編
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小さな恋のおはなし
透き通るような水色の髪はアクアマリン。瞳の色は深海の色。
時間が止まったかのように、目が離せない。
彼をはじめて見た時、人魚姫を見た王子様はこんな気持ちだったのだろうかと思った。
――あの出会いは夏に遡る。
夏休みからはじめた図書館のアルバイト。
その主な仕事内容は本の整理、貸出カウンターの受付、その他の雑務などだった。
夏休み後も働けるように、大学と自宅のちょうど中間地点あたりのバイトを探していたら運よく募集していたのだ。
詳細を確認すると、バイトなら司書の資格がなくとも応募できると記載があったので迷わず応募した。
大学生になってからは大学付属の図書館にばかり利用しているけれど、その前までは近所の図書館へよく通っていたものだ。
なので『図書館』という場所はもともと私にとって居心地もよく馴染みがある場所だった。
一利用者としての居心地とバイト先としての居心地はもちろんイコールにはならないのわかっていたので覚悟をしていたが、職場の人もみんないい人たちばかりで、環境にはすぐに溶け込むことができた。
ここで働く大半の人が本が好きな方ばかりだった。
もとより本が好きでなければ図書館なんて静かで本に囲まれた場所、息が詰まってしまうだろう。
働き始めて約一週間が過ぎた7月の最終週、順調に仕事を覚えている最中。この日は月曜日だった。
昨日が混んでいたので今日の朝は人が少なく感じる。
図書館は朝早くから開いているが、朝からくる人はわずかで、混み始めるのはどちらかというと午後からだった。
夏は、正午を過ぎるとは蒸し暑くて外にいられないほど。
図書館に涼みに来る人がわんさかいる。
もともと通年、本目的で利用してくれている人にとっては夏の混み具合は厄介なものだろう。
本も読まず借りず、涼みに来ているだけの人もいれば、おしゃべりをはじめてしまう若い子たちもいる。注意する側も大変だ。
年々ひどくなっていく猛暑に、図書館は1つのオアシス的存在なのだろう。
静寂が包む午前の図書館で、私は本を運びんでる途中にも関わらず思わず足を止めた。
心臓が大きく、鳴った。…というのも、驚いたからだ。
日当たりの一番いい窓際の席で静かに本を読んでいる青年がひとり。
彼はいつからいたんだろうか。
あまりにも自然にその場所に溶け込んでいたので、先ほどからここを何度もここを通って本を運んでいたはずなのに気がつかなかった。
窓辺から差し込んだ太陽の光がキラキラと青年の髪を透かしていた。
小説に目を落としているので伏し目がちになり、長い睫毛が見えた。
しばらく見入っていると私の視線に気づいたのか彼も私をゆっくりと顔を上げて見た。大きな瞳にも太陽の光が微かに入り込み、海の水面のようにゆらゆら揺れる。
女性的なキレイな顔立ち。色白な肌。
羨ましい、と思いつつも、今度は驚きの方ではなく、ドクンと心臓が高鳴った。
後にこれがときめいた場合に起こるそれだと知った。
数秒見つめ合った後、彼はまた本に視線を移した。
夏からアルバイトもすぐ決まり、図書館で働く人たちもいい人たちばかりで、この時点で私は、「今年いっぱいの運は使い果たしただろうなぁ」なんて思っていたのだが、青年に出会ったその時、間違いなく確信した。
ああ、今年いっぱいの運は今ここで使い終わったのだと。
これは「恋」なのだと思う。
□ □ □
黒子テツヤ、誠凛高校。
この学校は一昨年できたばかりの新設校だというのは知っていたので、おそらく彼は1年生か2年生。
たまたま貸出カウンターを担当していたときに彼がやって来て、図書館のカードに記載されていたのことで名前を知った。
高校生だというのは、彼が平日にやってきた時の制服で知った。
誠凛に通う学生で、時々ここを利用する人がいたので制服は覚えていたのだ。
――と、ここまで情報を整理してみると何だかストーカーじみている。
彼が図書館にいるのを見つけては無意識に視線がそちらに導かれ、彼がこない日は、いつくるのかなと姿を探してる。
相手は私のことなど認識していないだろう。していたとしてもただの図書館で働いている人、程度のものだ。
私が一方的に気にしているというわけだから、この延長を行くとストーカーになるのかな…と思った。
いや、ダメダメ、そうならないように気を付けよう。
突然、私が仕事中に彼に話しかけたりでもしたならば職員たちからの注意だけじゃ済まないかもしれない。クビになるかも。
夏休みの間、一週間に5日は図書館でバイトをしていると、黒子くんも同じぐらいの頻度で来ていたと思う。
貸出カウンターで私が対応することもしばしばあり、彼は図書館に来る都度に本を返してはまた借りていくのを繰り返していた。
午前から来て日当たりのいいあの席で本をゆっくり読むこともあれば、夕方にやって来て読みたい本を探し、借りて、読み終わった本を返却するだけの日もあった。
とにかく彼は本が好きなのだということだけは、わかる。
読書好きは通年本を読んでいるわけだが、特に学生時代の夏休みはたくさん読みたいと当たり前のように思う。
普段、後回しにしている本もここぞと読めるチャンスだし。
私も中・高時代は特に長期休みの度に図書館に通っていたものだ。
「あ、これ…」
ある日の夕方、再び貸出カウンターを担当していたときに黒子くんはやって来た。
借りていくその本を見たときに私は無意識に声をだして驚いてしまった。
ただ、相手に聞こえるか聞こえないか程度の小さな呟きだったと思う。
黒子くんは私を見ていたが特に何も言わなかったので、聞こえていなかったことに安心した。
「返却は二週間以内に返却カウンターまでお願いします」
カードと本の背表紙についているバーコードを読み取り、私はまとめて彼に渡した。
マニュアル通りの対応をこなすと黒子くんは小さく会釈して本とカードを鞄の中にしまって図書館を後にした。
本の貸出期限は二週間だ。
しかし彼は一週間経つまでもなく返しに来るだろう。
いつもそうだから、わかる。読むペースがとても速いのだ。
黒子くんの後ろ姿が見えなくなってから私は人知れずため息をついた。
『あ、これ…』と、その彼が借りる本をみたときに声に出してしまったのは、私の好きな本だったからだ。
ベストセラーなわけでもなく何かで賞をとった本でもない。
ただ、少し文章の書き方が特殊な著者で、この著者を知っている人は私の周りにいなかった。そもそも周囲に本好きの友達もいないのだが。
黒子くんもこの作者の書く話が好きなんだろうか。
シリーズものは読んでいるだろうかと気になったけど、突然話しかけるわけにもいかない。
あと、驚いた理由はそれだけじゃなかった。――こういう出来事はもう5回目になる。
彼と私の本の好みは一致している、と、今日の、5回目にして確信したのだ。
話しかけたくなる気持ちは益々膨らむも、我慢しなくては。
むやみに話しかけて、変な人という印象をもたれたら哀しい。私もこの場所で働き辛くなってしまうだろうから。
□ □ □
このストーカーじみた私に転機が訪れたのは8月の半ば。
その日も例外なく蒸し暑い夜だった。
夜道をとぼとぼと歩いて駅に向かう途中、MAJIバーガーに通りかかった。
バイトからの帰り道毎日通るけれど、寄り道クセがついてはいけないといつも一瞥するだけで通り過ぎていたのだが、その日はついに寄ってしまった。
少し涼んでバニラシェイクでも飲んでからゆっくり帰ろう。
翌日バイトが休みということもあり気が抜けていたんだと思う。
夏休みということもあり夕方の店内は若者で満員だった。
席を先に確保せずにシェイクだけ買ってから店内をウロウロするも座れる場所が見つからない。
先に席を確保しておくべきだった。カウンター席まで満員とは。
少し涼んでから帰りたかったけれど、シェイクを歩きながら飲んで駅までいこう――と、諦めて店内を出ようと出口まで向かった時、ひやりとした温度を手首に感じた。
振り返るとそこには彼――『黒子くん』がいた。
くっ、…と、名前を呼びそうになったのを堪えて私は何とか平静を装って小首をかしげる仕草を見せた。
「相席でよかったら、どうぞ」
彼は自分が座っている向かいの席を勧めてきた。
少し迷ったけどせっかくなので私は遠慮なく向かいに座らせてもらった。
私は彼の名前も、通ってる高校も知っている。
そして図書館に来る度に見たり、借りる本を気にしたりしている。
要するにちょっぴりストーカーなのだが、ストーカーとストーカー対象とか小さなテーブル1つ挟んでバニラシェイクを飲んでいるなんてこの図はマズイだろうと思った。
本の好みも合うし話しかけてみたいと思っていたのに、実際に黒子くんを目の前にしたら何を話したらいいかわからず気の利いた言葉も出てこなかった。席を勧めてくれたことに対してだけ「ありがとうございます」と小さくお礼を言って会釈しただけだ。
私が気づかれないように彼の方を見ると、黒子くんは遠慮なしに私の方を見ていた。
向かい合わせの席でここは二人用の席だからこうなってしまうのは不可抗力だ。
互いに飲んでるのはバニラシェイクだということに気がついて、思考を巡らせた結果、私から出てきた言葉はありきたなりなものだった。
「ここのバニラシェイク美味しいですよね」
本ばかり読んでいた学生時代、こんな場面で明らかに私はコミュニケーション能力が低いのだと思い知らされる。
相席を誘ってくれた相手に気の利いた話題ひとつ話しかけることが出来ない。
しかし、それを聞いた彼も薄く微笑んでいた。私の自己嫌悪を遮るように「僕もです」と、柔らかい声で返してくれた。
「本当に美味しいですよね、ここの」
続けて話す黒子くんに私は緊張してコクコクとロボットのように固い動きで頷いた。
少し掠れ気味で耳に心地よく、囁いているみたいに聞こえた。見た目は女性的なのに声はしっかり男の子の声のトーンだった。
一旦落ち着こうとバニラシェイクを啜った時、
「図書館の方ですよね?」
舌先にバニラの甘さも感じないほどに驚き、私は思わず目を見開いた。
グビ、と飲みこむはずだったシェイクが器官に入り私は思い切り咽てしまった。
大丈夫ですか?と私より黒子くんが慌ててしまい私は赤面しながらも頷いて、ようやく落ち着いた頃に黒子くんと改めて向き合った。
いつも見ていた男の子がこんなに近い距離にいる。
小さなテーブル1つしか私たちの間に隔てはない。この距離感は貸出カウンターのときの距離だと同じだと思ったがここは図書館でなく、MAJIバーガー。不思議な感覚だ。冷房の風を受けて水色の髪はサラサラと揺れていた。
黒子くんも私のことを認識してくれていたとは思わなかった。
嬉しい、嬉しい、覚えててくれた。
『図書館の人』でも全然いい。
覚えててくれた事に感激し、私は突然スイッチが入ったかのように饒舌になって話し出した。
夏休みから図書館のバイトをはじめたこと。
そこで黒子くんを見かけたこと。
借りていく本が度々私の好きな本だということ。
その作家を好きだという人を周囲で見つけたことがなくて、本当は誰かと話してみたかったこと。
図書カードで名前を知ったこと。
心の底でずっと伝えたかったことを無我夢中で伝えている最中、黒子くんは相槌の代わりに何度か小さく頷いてくれた。
こんなに自分から懸命に話しかけたりするなんて、生まれて初めてだった。
「この作者の話、クセがあるものが多いんですが僕も好きです」
瞬きの度に大きな瞳が閉じ、長い睫毛がはっきりと見えた。
何時間でも見ていても飽きることはなさそうな顔立ちに、鼓動が加速する。
それから、緊張しながらも私たちは初対面とは思えないほどに本や図書館について語り合っていた。
彼もまた、私と同じような心境だったらしい。そもそも周囲には本が好きな人があまりいないそうだ。
会話に夢中になってバニラシェイクは半分だけ飲んだまま、
あとはすっかり溶けてしまった。黒子くんのシェイクも同じく溶けてしまったみたいで、顔を見合わせて苦笑した。
私ばかりが『黒子くん』と呼んでいたことが気になったからか、彼から名前を訊かれたので答えると、黒子くんは小さく笑った。
「汐見琴音さん。素敵な名前ですね」
フ、と小さい息と共に微笑する顔に心臓を鷲掴みされたよう。私の顔は一瞬で紅潮する。
ひやひやと顔を掠める冷房の風も何の意味もなく、ただただ顔が熱かった。
お世辞でも何でもいい。ただの相槌程度のお世辞だろう。だけども彼が言うとそう聞こえないのだ。
まっすぐな言葉に聞こえて真に受けたくなる。真に受けたって罰は当たりはしないだろうと思いたい。
彼が微笑むと半径5m以内にマイナスイオンが流れ込む。空気が浄化される。
彼はやはり人魚姫とかそういう物語の中の架空の生き物なのか。
それぐらい黒子くんの笑顔はキレイで神聖なものに感じた。
図書館でのバイトが決まり、黒子くんに出会えたことで今年の運を使い果たしたと思っていたものの、どうやらまだ残っていたみたい。
抱えきれない程の幸運が、残っていた。
先日の店での出会い以降、図書館でもよく遭遇するようになり、互いの距離が縮まって仲良くなるのはあっという間だった。
時々、MAJIバーガーでお茶をした。
趣味や好きなものの傾向が似ているおかげで、いつでもどこでも話していてとても楽しい。
そんな日が、何日か続き、夢じゃないかと何度も思った。
かくしてストーカーから脱却をしたのだが、私と黒子くんの距離は、
夏が過ぎ、秋がきて、冬が訪れても、『友人』のまま。
□ □ □
仲良くなってからというもの、本以外の話題も話すようになり、私は彼自身の話も黒子くんから聞いた。
彼はバスケ部に所属していて、今のチームで日本一になるのが夢だと真っ直ぐな眼差しで教えてくれた。
12月末に開催されるWCという大きな大会に向けて部活の練習がさらにハードになり、本を読む時間もなかなかとれないので図書館にも来れなくなってしまうらしく、その話を聞いたのは昨日お茶をしていた時。
翌日、彼は図書館にやってきた。
タイミング的に、おそらく年内の間、来るのは今日が最後になるだろうと察した。
「しばらくは楽しいお話の時間もおあずけですね」
貸出カウンターの私のところまでやってきて、借りて読み終えた本をこちらに渡すと、静かな声で彼はそう告げた。
…その、彼の心情は如何に。
それを悲しいと思ってくれているのかどうか、私には聞く勇気はなかった。
私はというと、もちろん、悲しいし寂しい。
けれど日本一になるという彼の夢は全力で応援したいと思った。私も試合を観に行きたい。応援しに行きたい。
しかし、頼まれてもいないのに応援に行けるわけがなかった。
きっと、黒子くんにとって私は『図書館の人』であり、『好きな本の傾向が似てて、話が合う読書好きの友人』という認識だろう。
頭の中でぐるぐる考えてても仕方ないのはわかっているが、考えずにはいられなかった。
なるべく不安を表に出さないように気をつけながら私は「頑張ってね」ぐらいは言ってもいいかな、と思って口を開いたのだが、言う前に黒子くんの方から「あの、」と切り出し、1冊の本を私に差し出してきた。
「よかったらこの本、面白いので読んでみて下さい。きっと気に入ってもらえるはずです」
時々、貸出カウンターで、図書館の本とは別に黒子くんが持っている本を貸してくれることがあった。
私にお勧めしたい文庫をもってきてくれるのだ。
逆に、私の持っている本を彼に貸したりもした。
好きな本の傾向が似ているので、どんな本を持っているか尋ねた時、5割ぐらいは同じ本を持っていることが分かった。
だから、お互いが面白いと思うものが似てるから、オススメしあった本を遠慮なく貸し借りができるのが嬉しかった。
「うん、ありがとう。読んでみるね」
1冊の本を渡され、私は表紙に目を落とした。
…しばらくは会えないんだ。
貸し出しカウンターで少しだけそ会話してから、黒子くんは図書館を後にした。
後ろ姿を見送った時、私は、急に自分が予想していたよりも何倍もの寂しさを感じていた。
本音は――バスケのルールがわからなくても、図々しいと思われたって、『応援に行きたい』と言うべきだった。
現実の私からは、そんな言葉は出てくる勇気もなく、その日は仕事が終わる時間まで後悔に苛まれた。
いっそ自分でチケットを買って応援に行ってしまおうか。
ただそれが黒子くんに知られた時、僕たちはそんな間柄でないと思われてしまったら、怖い。
あまり仕事に身が入らないまま閉館時間がやってきて、今日のバイトは終了した。
貸し出しカウンターの隅っこに置いておいた黒子くんから借りた本を持って私はロッカーに向かう。
ロッカーからバッグを取ったら今日はどこにも寄り道せずに真っ直ぐ帰ろう。寄り道する元気はない。
職員用通路を歩きながら、私は借りた本のタイトルを一瞥する。
著者のプロフィールを読むのがクセでそのまま本を開くと――そこには一枚のチケットと、メモがはさまっていた。
歩いていた足が無意識に立ち止まって、私は瞬きするのも忘れていた。
WCのチケットが1枚。
それは後半3日間の通し券だった。
メモにはこう書いてある。
『必ず決勝まで勝ち進みます。応援待ってます』
目で見てそれが脳に伝達され、その意味を理解するのにだいぶ時間がかかったと思う。
驚きのあまり、息が止まりそうになって私はメモとチケット見つめていた。次第に視界がにじんで、そのチケットに記載された文字がぼやける。
今まで、一方的に抱え、秘めていた想いが許された気がした。
一歩踏み出してくれたのは、彼の方からだった。
私の方が年上なのに、意気地なしで相手の心へ踏み込む勇気もなく情けなくて、自分がイヤになっていたこのタイミングでまさか黒子くんから、サプライズがあるなんて。
ぽろぽろと涙が頬を伝って私は口元を歪める。
笑いたいのに、涙が止まらず上手く笑えない。
チケットをくれたこと、メモに書いてあることにもし深い意味はなかったとしても、それでもいい。それでもいいんだ。
必ず行くよ。応援に行く。
どうか黒子くんのチームが日本一になれますように。夢が叶いますようにと、全身全霊で願うよ、応援するよ。
そしてWCが無事に終わったら、私からキミに、気持ちを打ち明ける。
夏からの想いを――、今度こそ勇気を出して。
透き通るような水色の髪はアクアマリン。瞳の色は深海の色。
時間が止まったかのように、目が離せない。
彼をはじめて見た時、人魚姫を見た王子様はこんな気持ちだったのだろうかと思った。
――あの出会いは夏に遡る。
夏休みからはじめた図書館のアルバイト。
その主な仕事内容は本の整理、貸出カウンターの受付、その他の雑務などだった。
夏休み後も働けるように、大学と自宅のちょうど中間地点あたりのバイトを探していたら運よく募集していたのだ。
詳細を確認すると、バイトなら司書の資格がなくとも応募できると記載があったので迷わず応募した。
大学生になってからは大学付属の図書館にばかり利用しているけれど、その前までは近所の図書館へよく通っていたものだ。
なので『図書館』という場所はもともと私にとって居心地もよく馴染みがある場所だった。
一利用者としての居心地とバイト先としての居心地はもちろんイコールにはならないのわかっていたので覚悟をしていたが、職場の人もみんないい人たちばかりで、環境にはすぐに溶け込むことができた。
ここで働く大半の人が本が好きな方ばかりだった。
もとより本が好きでなければ図書館なんて静かで本に囲まれた場所、息が詰まってしまうだろう。
働き始めて約一週間が過ぎた7月の最終週、順調に仕事を覚えている最中。この日は月曜日だった。
昨日が混んでいたので今日の朝は人が少なく感じる。
図書館は朝早くから開いているが、朝からくる人はわずかで、混み始めるのはどちらかというと午後からだった。
夏は、正午を過ぎるとは蒸し暑くて外にいられないほど。
図書館に涼みに来る人がわんさかいる。
もともと通年、本目的で利用してくれている人にとっては夏の混み具合は厄介なものだろう。
本も読まず借りず、涼みに来ているだけの人もいれば、おしゃべりをはじめてしまう若い子たちもいる。注意する側も大変だ。
年々ひどくなっていく猛暑に、図書館は1つのオアシス的存在なのだろう。
静寂が包む午前の図書館で、私は本を運びんでる途中にも関わらず思わず足を止めた。
心臓が大きく、鳴った。…というのも、驚いたからだ。
日当たりの一番いい窓際の席で静かに本を読んでいる青年がひとり。
彼はいつからいたんだろうか。
あまりにも自然にその場所に溶け込んでいたので、先ほどからここを何度もここを通って本を運んでいたはずなのに気がつかなかった。
窓辺から差し込んだ太陽の光がキラキラと青年の髪を透かしていた。
小説に目を落としているので伏し目がちになり、長い睫毛が見えた。
しばらく見入っていると私の視線に気づいたのか彼も私をゆっくりと顔を上げて見た。大きな瞳にも太陽の光が微かに入り込み、海の水面のようにゆらゆら揺れる。
女性的なキレイな顔立ち。色白な肌。
羨ましい、と思いつつも、今度は驚きの方ではなく、ドクンと心臓が高鳴った。
後にこれがときめいた場合に起こるそれだと知った。
数秒見つめ合った後、彼はまた本に視線を移した。
夏からアルバイトもすぐ決まり、図書館で働く人たちもいい人たちばかりで、この時点で私は、「今年いっぱいの運は使い果たしただろうなぁ」なんて思っていたのだが、青年に出会ったその時、間違いなく確信した。
ああ、今年いっぱいの運は今ここで使い終わったのだと。
これは「恋」なのだと思う。
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黒子テツヤ、誠凛高校。
この学校は一昨年できたばかりの新設校だというのは知っていたので、おそらく彼は1年生か2年生。
たまたま貸出カウンターを担当していたときに彼がやって来て、図書館のカードに記載されていたのことで名前を知った。
高校生だというのは、彼が平日にやってきた時の制服で知った。
誠凛に通う学生で、時々ここを利用する人がいたので制服は覚えていたのだ。
――と、ここまで情報を整理してみると何だかストーカーじみている。
彼が図書館にいるのを見つけては無意識に視線がそちらに導かれ、彼がこない日は、いつくるのかなと姿を探してる。
相手は私のことなど認識していないだろう。していたとしてもただの図書館で働いている人、程度のものだ。
私が一方的に気にしているというわけだから、この延長を行くとストーカーになるのかな…と思った。
いや、ダメダメ、そうならないように気を付けよう。
突然、私が仕事中に彼に話しかけたりでもしたならば職員たちからの注意だけじゃ済まないかもしれない。クビになるかも。
夏休みの間、一週間に5日は図書館でバイトをしていると、黒子くんも同じぐらいの頻度で来ていたと思う。
貸出カウンターで私が対応することもしばしばあり、彼は図書館に来る都度に本を返してはまた借りていくのを繰り返していた。
午前から来て日当たりのいいあの席で本をゆっくり読むこともあれば、夕方にやって来て読みたい本を探し、借りて、読み終わった本を返却するだけの日もあった。
とにかく彼は本が好きなのだということだけは、わかる。
読書好きは通年本を読んでいるわけだが、特に学生時代の夏休みはたくさん読みたいと当たり前のように思う。
普段、後回しにしている本もここぞと読めるチャンスだし。
私も中・高時代は特に長期休みの度に図書館に通っていたものだ。
「あ、これ…」
ある日の夕方、再び貸出カウンターを担当していたときに黒子くんはやって来た。
借りていくその本を見たときに私は無意識に声をだして驚いてしまった。
ただ、相手に聞こえるか聞こえないか程度の小さな呟きだったと思う。
黒子くんは私を見ていたが特に何も言わなかったので、聞こえていなかったことに安心した。
「返却は二週間以内に返却カウンターまでお願いします」
カードと本の背表紙についているバーコードを読み取り、私はまとめて彼に渡した。
マニュアル通りの対応をこなすと黒子くんは小さく会釈して本とカードを鞄の中にしまって図書館を後にした。
本の貸出期限は二週間だ。
しかし彼は一週間経つまでもなく返しに来るだろう。
いつもそうだから、わかる。読むペースがとても速いのだ。
黒子くんの後ろ姿が見えなくなってから私は人知れずため息をついた。
『あ、これ…』と、その彼が借りる本をみたときに声に出してしまったのは、私の好きな本だったからだ。
ベストセラーなわけでもなく何かで賞をとった本でもない。
ただ、少し文章の書き方が特殊な著者で、この著者を知っている人は私の周りにいなかった。そもそも周囲に本好きの友達もいないのだが。
黒子くんもこの作者の書く話が好きなんだろうか。
シリーズものは読んでいるだろうかと気になったけど、突然話しかけるわけにもいかない。
あと、驚いた理由はそれだけじゃなかった。――こういう出来事はもう5回目になる。
彼と私の本の好みは一致している、と、今日の、5回目にして確信したのだ。
話しかけたくなる気持ちは益々膨らむも、我慢しなくては。
むやみに話しかけて、変な人という印象をもたれたら哀しい。私もこの場所で働き辛くなってしまうだろうから。
□ □ □
このストーカーじみた私に転機が訪れたのは8月の半ば。
その日も例外なく蒸し暑い夜だった。
夜道をとぼとぼと歩いて駅に向かう途中、MAJIバーガーに通りかかった。
バイトからの帰り道毎日通るけれど、寄り道クセがついてはいけないといつも一瞥するだけで通り過ぎていたのだが、その日はついに寄ってしまった。
少し涼んでバニラシェイクでも飲んでからゆっくり帰ろう。
翌日バイトが休みということもあり気が抜けていたんだと思う。
夏休みということもあり夕方の店内は若者で満員だった。
席を先に確保せずにシェイクだけ買ってから店内をウロウロするも座れる場所が見つからない。
先に席を確保しておくべきだった。カウンター席まで満員とは。
少し涼んでから帰りたかったけれど、シェイクを歩きながら飲んで駅までいこう――と、諦めて店内を出ようと出口まで向かった時、ひやりとした温度を手首に感じた。
振り返るとそこには彼――『黒子くん』がいた。
くっ、…と、名前を呼びそうになったのを堪えて私は何とか平静を装って小首をかしげる仕草を見せた。
「相席でよかったら、どうぞ」
彼は自分が座っている向かいの席を勧めてきた。
少し迷ったけどせっかくなので私は遠慮なく向かいに座らせてもらった。
私は彼の名前も、通ってる高校も知っている。
そして図書館に来る度に見たり、借りる本を気にしたりしている。
要するにちょっぴりストーカーなのだが、ストーカーとストーカー対象とか小さなテーブル1つ挟んでバニラシェイクを飲んでいるなんてこの図はマズイだろうと思った。
本の好みも合うし話しかけてみたいと思っていたのに、実際に黒子くんを目の前にしたら何を話したらいいかわからず気の利いた言葉も出てこなかった。席を勧めてくれたことに対してだけ「ありがとうございます」と小さくお礼を言って会釈しただけだ。
私が気づかれないように彼の方を見ると、黒子くんは遠慮なしに私の方を見ていた。
向かい合わせの席でここは二人用の席だからこうなってしまうのは不可抗力だ。
互いに飲んでるのはバニラシェイクだということに気がついて、思考を巡らせた結果、私から出てきた言葉はありきたなりなものだった。
「ここのバニラシェイク美味しいですよね」
本ばかり読んでいた学生時代、こんな場面で明らかに私はコミュニケーション能力が低いのだと思い知らされる。
相席を誘ってくれた相手に気の利いた話題ひとつ話しかけることが出来ない。
しかし、それを聞いた彼も薄く微笑んでいた。私の自己嫌悪を遮るように「僕もです」と、柔らかい声で返してくれた。
「本当に美味しいですよね、ここの」
続けて話す黒子くんに私は緊張してコクコクとロボットのように固い動きで頷いた。
少し掠れ気味で耳に心地よく、囁いているみたいに聞こえた。見た目は女性的なのに声はしっかり男の子の声のトーンだった。
一旦落ち着こうとバニラシェイクを啜った時、
「図書館の方ですよね?」
舌先にバニラの甘さも感じないほどに驚き、私は思わず目を見開いた。
グビ、と飲みこむはずだったシェイクが器官に入り私は思い切り咽てしまった。
大丈夫ですか?と私より黒子くんが慌ててしまい私は赤面しながらも頷いて、ようやく落ち着いた頃に黒子くんと改めて向き合った。
いつも見ていた男の子がこんなに近い距離にいる。
小さなテーブル1つしか私たちの間に隔てはない。この距離感は貸出カウンターのときの距離だと同じだと思ったがここは図書館でなく、MAJIバーガー。不思議な感覚だ。冷房の風を受けて水色の髪はサラサラと揺れていた。
黒子くんも私のことを認識してくれていたとは思わなかった。
嬉しい、嬉しい、覚えててくれた。
『図書館の人』でも全然いい。
覚えててくれた事に感激し、私は突然スイッチが入ったかのように饒舌になって話し出した。
夏休みから図書館のバイトをはじめたこと。
そこで黒子くんを見かけたこと。
借りていく本が度々私の好きな本だということ。
その作家を好きだという人を周囲で見つけたことがなくて、本当は誰かと話してみたかったこと。
図書カードで名前を知ったこと。
心の底でずっと伝えたかったことを無我夢中で伝えている最中、黒子くんは相槌の代わりに何度か小さく頷いてくれた。
こんなに自分から懸命に話しかけたりするなんて、生まれて初めてだった。
「この作者の話、クセがあるものが多いんですが僕も好きです」
瞬きの度に大きな瞳が閉じ、長い睫毛がはっきりと見えた。
何時間でも見ていても飽きることはなさそうな顔立ちに、鼓動が加速する。
それから、緊張しながらも私たちは初対面とは思えないほどに本や図書館について語り合っていた。
彼もまた、私と同じような心境だったらしい。そもそも周囲には本が好きな人があまりいないそうだ。
会話に夢中になってバニラシェイクは半分だけ飲んだまま、
あとはすっかり溶けてしまった。黒子くんのシェイクも同じく溶けてしまったみたいで、顔を見合わせて苦笑した。
私ばかりが『黒子くん』と呼んでいたことが気になったからか、彼から名前を訊かれたので答えると、黒子くんは小さく笑った。
「汐見琴音さん。素敵な名前ですね」
フ、と小さい息と共に微笑する顔に心臓を鷲掴みされたよう。私の顔は一瞬で紅潮する。
ひやひやと顔を掠める冷房の風も何の意味もなく、ただただ顔が熱かった。
お世辞でも何でもいい。ただの相槌程度のお世辞だろう。だけども彼が言うとそう聞こえないのだ。
まっすぐな言葉に聞こえて真に受けたくなる。真に受けたって罰は当たりはしないだろうと思いたい。
彼が微笑むと半径5m以内にマイナスイオンが流れ込む。空気が浄化される。
彼はやはり人魚姫とかそういう物語の中の架空の生き物なのか。
それぐらい黒子くんの笑顔はキレイで神聖なものに感じた。
図書館でのバイトが決まり、黒子くんに出会えたことで今年の運を使い果たしたと思っていたものの、どうやらまだ残っていたみたい。
抱えきれない程の幸運が、残っていた。
先日の店での出会い以降、図書館でもよく遭遇するようになり、互いの距離が縮まって仲良くなるのはあっという間だった。
時々、MAJIバーガーでお茶をした。
趣味や好きなものの傾向が似ているおかげで、いつでもどこでも話していてとても楽しい。
そんな日が、何日か続き、夢じゃないかと何度も思った。
かくしてストーカーから脱却をしたのだが、私と黒子くんの距離は、
夏が過ぎ、秋がきて、冬が訪れても、『友人』のまま。
□ □ □
仲良くなってからというもの、本以外の話題も話すようになり、私は彼自身の話も黒子くんから聞いた。
彼はバスケ部に所属していて、今のチームで日本一になるのが夢だと真っ直ぐな眼差しで教えてくれた。
12月末に開催されるWCという大きな大会に向けて部活の練習がさらにハードになり、本を読む時間もなかなかとれないので図書館にも来れなくなってしまうらしく、その話を聞いたのは昨日お茶をしていた時。
翌日、彼は図書館にやってきた。
タイミング的に、おそらく年内の間、来るのは今日が最後になるだろうと察した。
「しばらくは楽しいお話の時間もおあずけですね」
貸出カウンターの私のところまでやってきて、借りて読み終えた本をこちらに渡すと、静かな声で彼はそう告げた。
…その、彼の心情は如何に。
それを悲しいと思ってくれているのかどうか、私には聞く勇気はなかった。
私はというと、もちろん、悲しいし寂しい。
けれど日本一になるという彼の夢は全力で応援したいと思った。私も試合を観に行きたい。応援しに行きたい。
しかし、頼まれてもいないのに応援に行けるわけがなかった。
きっと、黒子くんにとって私は『図書館の人』であり、『好きな本の傾向が似てて、話が合う読書好きの友人』という認識だろう。
頭の中でぐるぐる考えてても仕方ないのはわかっているが、考えずにはいられなかった。
なるべく不安を表に出さないように気をつけながら私は「頑張ってね」ぐらいは言ってもいいかな、と思って口を開いたのだが、言う前に黒子くんの方から「あの、」と切り出し、1冊の本を私に差し出してきた。
「よかったらこの本、面白いので読んでみて下さい。きっと気に入ってもらえるはずです」
時々、貸出カウンターで、図書館の本とは別に黒子くんが持っている本を貸してくれることがあった。
私にお勧めしたい文庫をもってきてくれるのだ。
逆に、私の持っている本を彼に貸したりもした。
好きな本の傾向が似ているので、どんな本を持っているか尋ねた時、5割ぐらいは同じ本を持っていることが分かった。
だから、お互いが面白いと思うものが似てるから、オススメしあった本を遠慮なく貸し借りができるのが嬉しかった。
「うん、ありがとう。読んでみるね」
1冊の本を渡され、私は表紙に目を落とした。
…しばらくは会えないんだ。
貸し出しカウンターで少しだけそ会話してから、黒子くんは図書館を後にした。
後ろ姿を見送った時、私は、急に自分が予想していたよりも何倍もの寂しさを感じていた。
本音は――バスケのルールがわからなくても、図々しいと思われたって、『応援に行きたい』と言うべきだった。
現実の私からは、そんな言葉は出てくる勇気もなく、その日は仕事が終わる時間まで後悔に苛まれた。
いっそ自分でチケットを買って応援に行ってしまおうか。
ただそれが黒子くんに知られた時、僕たちはそんな間柄でないと思われてしまったら、怖い。
あまり仕事に身が入らないまま閉館時間がやってきて、今日のバイトは終了した。
貸し出しカウンターの隅っこに置いておいた黒子くんから借りた本を持って私はロッカーに向かう。
ロッカーからバッグを取ったら今日はどこにも寄り道せずに真っ直ぐ帰ろう。寄り道する元気はない。
職員用通路を歩きながら、私は借りた本のタイトルを一瞥する。
著者のプロフィールを読むのがクセでそのまま本を開くと――そこには一枚のチケットと、メモがはさまっていた。
歩いていた足が無意識に立ち止まって、私は瞬きするのも忘れていた。
WCのチケットが1枚。
それは後半3日間の通し券だった。
メモにはこう書いてある。
『必ず決勝まで勝ち進みます。応援待ってます』
目で見てそれが脳に伝達され、その意味を理解するのにだいぶ時間がかかったと思う。
驚きのあまり、息が止まりそうになって私はメモとチケット見つめていた。次第に視界がにじんで、そのチケットに記載された文字がぼやける。
今まで、一方的に抱え、秘めていた想いが許された気がした。
一歩踏み出してくれたのは、彼の方からだった。
私の方が年上なのに、意気地なしで相手の心へ踏み込む勇気もなく情けなくて、自分がイヤになっていたこのタイミングでまさか黒子くんから、サプライズがあるなんて。
ぽろぽろと涙が頬を伝って私は口元を歪める。
笑いたいのに、涙が止まらず上手く笑えない。
チケットをくれたこと、メモに書いてあることにもし深い意味はなかったとしても、それでもいい。それでもいいんだ。
必ず行くよ。応援に行く。
どうか黒子くんのチームが日本一になれますように。夢が叶いますようにと、全身全霊で願うよ、応援するよ。
そしてWCが無事に終わったら、私からキミに、気持ちを打ち明ける。
夏からの想いを――、今度こそ勇気を出して。