短編・中編
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私の目の前にいるのは、女の私よりも女性らしい人物。
テーブルを挟んでお互い向かって座っているので、伏し目がちの表情、黒くて長い睫が白い肌によく映える。
玲央くんは私の右手をとって爪をまじまじと見つめてから呆れてため息をついた。
言わんとしてることはわかる。というのも、もう既に言われたからだ。『きったない爪!』…と。
玲央くんは本当に汚いものでも見てしまったというぐらい戦慄していた。
失礼な!と思ったけど、何も間違ったことを言われたわけではないので私は、ヘヘヘと頬を掻いて失笑するばかりだった。
本日土曜日。残暑も終わり、過ごしやすい秋が訪れた。
今日も今日とてバスケ部は練習だったのだが、午後からは体育館の点検があるため午前中だけ全体練習となり、その後、部室でスタメンだけ残ってミーティングを行ったのだ。
赤司くんが中心となって行われたそれはミーティングというよりはほとんど彼の話を聞く会に近かった。
ゲームメイクにおいてもすごいが、アドバイスにおいても的確。主将らしくみんなをまとめる姿はいつ見ても感心を通り越して尊敬しちゃう。
来週の洛山バスケ部OBチームとの練習試合についてのシュミレーションやそれに纏わる課題点・要点をまとめて解りやすく話してくれた。
ミーティングはさして時間もかからずに終わって本日は終了となった。
直後、永吉くんは昼飯が食い足りないと食堂へ向かい、赤司くんは監督に用事があるみたいで職員室へ向かい、参加していた別のメンバーも間もなく各々解散していった。
部室に残ったのは玲央くんと葉山と私だけになった。
そこで部誌を書こうとしていた私の手元がふと目に入ってしまった玲央くんに、先程のありがた~い罵りを頂いたのだ。
「きったない爪ッ!…ちょっと、磨いてあげるからこっち来て座りなさい!」
悲鳴に近いその声に、パイプ椅子二つを並べてその上で寝転がりながら月バスを読んでいた葉山も、立ち上がって私の方を見た。
起きなくていい、いちいち起きなくていい!って思ったら、さらに近づいてきて、テーブル1つ挟んで向かい合って座っている玲央くんと私の間に葉山が興味津々に割り込んでくる。
「なになに!何の話!?」
「葉山はこっちこなくていいよ」
「……汐見って俺だけに冷たいの何で?他の奴らには『くん』付けで呼ぶのに、俺だけ苗字呼び捨てだしさぁ。あっ、もしかして俺のこと好」
「やめて葉山。面白すぎる」
苦笑もせず、感情を込めずに冷徹に葉山に言い放つと彼は拗ねて唇を尖らせた。
玲央くんは立ち上がってロッカーから何か捜し物をして、またすぐに戻ってきて椅子に座った。
持ってきてテーブルの上に置いたものは、“爪磨きセット”だった。私は買ったことないけど、多分それだ。
「アンタいつもうるさいから、この子に疎まれてんのよ」
カチャカチャと音を立てて道具を並べると、私の手の下に置いてあった部誌をはじっこに寄せながら玲央くんは私の代わりに葉山に言い返してくれた。その通りだ。私はたいてい人の名前には『さん』とか『くん』を付け親しみを込めて呼ぶが、葉山だけは別だ。
彼のハイテンションと前向きな性格にはすごいと思うが、一年・二年と連続でクラスも一緒で、現在は席も隣。
部活も一緒なのであのキンキン声がやかましくて仕方なくなり、自然と「葉山くん」から「葉山」と呼び捨てになったのはもう何ヶ月も前のこと。
クラスの席替え早くしないかなとぼんやりと願った。
特に午後からの予定もないし、お言葉に甘えて女子力の高い玲央くんに爪を磨いて貰うことにした。
自分の爪でなく人の爪に対しても扱いが丁寧。彼の器用さがよく分かって感心した。爪ヤスリで私の伸びっぱなしの不格好な爪の形があっという間に整えられていく。すごいね、と思わず感嘆の息を漏らす。
葉山のぎょろりとした大きな目も玲央くんの細やかな手の動きを見入ってるようだった。
「感心してる場合じゃないわよ?トップコートぐらい塗って保護しなさいよ。表面もザラザラだしこんなになるまで…オイルとか塗ってないの?」
「塗ったこともない…」
呆れた、とばかりにジト目と沈黙で返され、再びため息をつかれてしまった。玲央くんの爪は私と打って変わって、キチンと整えられ、艶があった。
毎日のようにバスケットボールを触り、彼の方が私より何倍も爪が荒れやすく傷つけやすいようなことをしているはずなのに。
見習わないとなぁと思いつつも、私は自分の性格をよく分かっている。
めんどくさがりで、オシャレにもさして頓着がなくて、それこそキラキラした女子から見たら私などズボラと呼ぶに相応しい類の人間だろう。
こうして玲央くんに教えてもらっても感心するばかりで、いざそれをちゃんと一人で実行できるか。
爪1つの艶でさえ今後ケアできるかわかったもんじゃない。ケアには時間も…、あと、お金もすごくかかりそうだ。
「レオ姉って女子力高いなぁ。レオ姉と汐見はお互い性別間違えて生まてきちゃったんだな~」
「そうかもしれないね。葉山も多分サルと間違えて人間に生まれてきちゃったんだね」
「ちょ、それはひどくねぇ!?」
淡々とした口調で言い返すと葉山はショックでよろめいたオーバーリアクションをしていたが、無視をして私は手元から目を離さなかった。
爪ヤスリで磨いて、玲央くんは手を休めずに動かした。
すると、不思議なことに爪がピカピカと輝きだした。つやつや、つるつるしている。先程の粉みたいなのは研磨剤の類だろうか。
すごい!と素直に感動して、その爪磨きセットの値段を聞いたら驚くことに私のお小遣いの範囲でも充分買えるものだった。
玲央くんが使っているものだからすごく高価なものだと思い込んでいたが、私でも買える値段で安心した。
「はい、おしまい!」
「わぁ!玲央くんありがとう!」
目の前で手を広げると、間近で見ても少し離して見ても私の爪は嘘みたいに綺麗に整えられていた。
立ち上がって深々とお辞儀をし、改めてお礼を言うと玲央くんは“どういたしてまして”、と、苦笑した。
玲央くんが女の子の友達が多いのも納得だ。時々男らしさも垣間見えたりして、きっと先輩からも後輩からもモテるんだろなぁ。
いや、間違いなくモテるはずだ。
ちなみに葉山は私は全然タイプじゃないが、何故かそれなりにモテるので、この件に関しては世にも奇妙な洛山七不思議である。
…って本人に言ったら「ひでぇー!!」って大声出された。うるさかった。
私の女子力のなさについてその後、葉山に色々言い返されたので、私も売り言葉に買い言葉とさらに言い返していたら、玲央くんはこれ以上醜い争いは見たくないとばかりに仲裁に入ってきた。
私たち3人、同い年のはずなのに玲央くんだけ随分大人だ。いや、私と葉山がガキなだけなのか。
「琴音、アンタもお年頃なんだからちゃんとなさい。飾ればそれなりに可愛いんだから。自分磨きに手ぇ抜いてたら嫁の貰い手ないわよ?嫁どころか彼氏だって――」
玲央くんは葉山に注意した後、私にも軽くフォローの意味を込めて諭される。
彼の言葉ならやはり素直に受け止められるし、仰る通りだと心から思ったし、飾ればそれなりにだなんて誉め言葉にさえ感じた。
――と、その時、ガチャリと部室のドアが開き3人とも同時に反応した。
鮮やかな赤い髪。前髪から見え隠れするミスリアスな瞳に視線が吸い込まれる。
「僕が貰おう」
部室に入ってきた人物は、突然、誰もが予想してないことを、いつもの冷静な口調でハッキリと告げた。
意味がよく分からず、3人とも小首をかしげるという、狙ったわけでもないのに同じリアクションをしてしまった。
「聞こえなかったのか。僕が貰うと言ったんだ」
瞬きをして赤司くんを見つめ――、ついでに順番に葉山と玲央くんと目を合わせた。監督に用事があってミーティング後に部室を出ていった赤司くんが、また部室に用事があったのだろうからここへ戻ってきた。
それは別におかしくない。そして私たちの声が大きかったからか、部室の外に聞こえていたのだろう。
部室に戻ってきてドアを開けようとした瞬間に私たち3人の会話を聞いて、赤司くんが先程の台詞を告げた。
納得はしたものの、彼が『冗談』を言うのがとても珍しくて、私たちはそのジョークに笑い出すのもワンテンポどころかスリーテンポぐらい遅れてしまった。私も、赤司くんの口からジョークを聞いたのは初めてだったので驚きのが上回ってしまった。
「征ちゃん何ていい子…!さすがキャプテンね、ナイスフォローよ」
「フォローしたつもりじゃない。琴音が欲しいから貰うと言ったんだよ」
「赤司がジョーダン言うなんて珍しいな!でもさーでもさー、汐見はやめといたほうがいいって!何かめんどくさそーだよ!『私とバスケどっちが大事なの!?』とかギャンギャン喚いて迫ってきそうじゃん!」
「もしそうだとしても構わないさ。手がかかる子ほど可愛いと昔からよく言うだろう」
葉山のひどすぎる私のイメージに、私も言い返した上でバスケ雑誌を丸めて奴の後ろ頭をブッ叩きたい衝動は、今は抑えておこう。
ガマン、ガマン。私がそのバスケ部のマネージャーなのにそんな二択で迫るわけないでしょーが!
しかし、二人の投げかけに対してもテンポよく返答する赤司くんは、さすがだ。
返しも上手いのは頭の回転が速いからかな。
彼がフッと薄く笑んで、そこが会話の着地点だと分かったし、いつもは一年なのに威厳を感じられるその真顔で言う冗談が可笑しくて、私も玲央くんも葉山も吹き出して笑ったのだが…只一人、赤司くん本人の微笑みは私たちとは種類が明らかに違うことだけ察してしまった。
私たちのくだらない会話に途中から加わって、冗談を言ってオチをつけたわけじゃなかった。
彼が冗談を言うなんてレアシーンだと勘違いしていたと分かるのはこの直後の事。
「僕は本気で言ってるんだよ。小太郎、玲央、悪いが今から部室を出て行ってくれないか。琴音と二人で話がしたいんだ」
□ □ □
入部してから今現在に至るまでを、思い返してみよう。
そもそも、私がバスケの超強豪校・洛山バスケ部のマネージャーを務めていること自体が摩訶不思議なんだ。
ゆうに100名を越える部員数に対してマネージャーも最低でも10名は必要になる。
うちの部は入部届けを出せば誰でも入部できるというお気楽なシステムではなかった。
部員に対してある程度の体力や実力があるか入部テストを行うのだ。
それはマネージャーも同様だった。これまでにバスケ部のマネージャーの経験があるものが優遇され、あとは監督や主将との面接がある。
コミュニケーション能力があるか、バスケの知識はあるか、やる気はあるか。
今挙げたうちの前者2つについて私は持ち合わせいない。コミュニケーション能力は自負できる程のものではなく人並み程度、バスケ経験も知識もなくまったくの素人。あるのはただ“やる気”のみだった。
中学時代、文化部に入部していたものの何やかんやで不完全燃焼で三年間を終えてしまったから、高校では何か精一杯打ち込めることをしよう!と思い、バスケ部が有名だと聞いてマネージャーを志望したのだ。
面接も上手くいったわけじゃなかった。やる気のみで特攻して面接したので、もし、これでダメなら仕方ないと腹を括っていた矢先…――無事、マネージャーとして入部できる知らせがきたのだ。
だから、私がマネージャーでいることも、今、バスケ部の部室にいることも、運のようなもの。
ただ、運がよかっただけ。
これまでの出来事が一瞬で脳裏を駆けめぐるも、赤司くんに“貰う”と言ってもらえるような要素が、私の中のどこにも見当たらなかった。
気苦労が多くて気でも触れたのかな…いや、まさか、彼に限ってそんなことは絶対にありえない。
冷静沈着、威風堂々、才色兼備…思いつく限りそんな四文字熟語が、彼を見ていると当てはまる。
今年の春、洛山の監督が獲得した10年に一人の逸材と呼ばれるキセキの世代。
月に一度の実力テストでは二年も三年も唸らせ、監督まで納得させた上で、彼は入部して間もなく主将に任命された。
全体未聞のこの事態に、誰もが驚かなかったのは、バスケ経験者なら誰しもキセキの世代の凄さを理解しているからだろう。
その代わり、心から彼を認めている者も多いが、実力を妬んで一年に主将をやらせるなと反対をしている者も多かった。
大声あげて驚いていたのは私ぐらいなもんだった。私は高校からバスケの知識を覚えて、それまでスポーツ関連のことはてんで無知だったから。
キセキの世代についても入部してから教えてもらったことだ。
玲央くんと葉山が部室を出ていった後、椅子に座ったままの私に彼は近づき、顔を俯かせて私を見据えた。
鋭い眼光が少し恐いけど、とっても綺麗。自分の意志とは関係なしに心臓がドキドキと高鳴りはじめる。
「赤司くんのタイプって品のある女性…、って前に玲央くんから聞いたことあるんだけど」
「好きなタイプと好きな人がイコールになることばかりではないよ」
穏やかなその声はいつもと何1つ変わらない。
ただ、気づかない程度にほんの少しだけその声色に熱が感じられる。
見つめられているけど私は気恥ずかしくなって瞬きをしたり、視線を横へ外したり、また彼に戻したり、落ち着かない。
彼は微動だにしない落ち着きようだというのに。
そわそわして動きたいのに、視線以外は動かせない。彼の視線に捕らわれたみたいだ。痺れて動けなくなる錯覚に陥った。
「意味をもって“君を貰う”と言ったことを取消すつもりはない」
声に、空気に、視線に、真っ直ぐな気持ちが流れ込んできてそこから先、私は赤司くんから目を逸らすことが出来なくなった。
冗談は何1つなく、彼は真剣だったので、目を背けるのも失礼だと思ったし、ここまでストレートに気持ちをぶつけられたのは生まれて初めてだ。
赤司くんの、白い肌と整った目鼻立ちに、情熱的な赤い髪色が恐いぐらいよく似合う。
近づけば火傷しそう。彼の魅力に引きつけられた女の子は今までにどれぐらい居たのだろう。
――どうして私なの?
赤司くんは私が聞こうとしたことが解っていたみたいで、淡々と説明しはじめた。
「本当に久々だったんだ。普通に話しかけてもらえたのは」
薄い唇がやや口角を上げ、赤司くんは目を細めて静かに微笑んだ。
まるで私と初めて出会った場面を思い出してるみたいだ。
「君だけは、僕と初めて会った時から今に至るまでも、後輩に普通に接するように話しかけてくれたね。君は優しい人だ。誰にでも平等に。そして優しさを与えた見返りも求めなければ、思慮深さも見えない。だからとても興味を持ったんだ」
彼の声で、その時のシーンが頭の中に映し出される。彼との初対面はもちろん、体育館で。
一年生の入部初日の事だ。今年の一年生に“キセキの世代”が入部してくるというのは、4月になる以前から話題になっていた。
試合も実力も生で見たことがない私は、せめて勉強しておこうと月バスで特集されているのを読んだりしただけの知識で、一年生の部員がやって来る日を迎えた。
月バスで赤司くんを見た印象は、キレイな顔立ちの子だなとか、キセキの世代の中だと小柄に見えるな、とか、そんなありきたりな感想だった。
『キセキの世代ってそんなにすごいの?』って、中学時代もマネージャー経験のある子に質問したら、白い目で見られてしまった。
入部初日に行った実力テストで、赤司くんの順番を終えた直後の空気はピリッと張りつめたものだった。
明らかに他者との差を見せつけた唯一無二のプレーに誰もが目を奪われていた。
それからの彼は、尊敬されることばかりではなかっただろう。
気を遣われたり、妬まれたり、疎まれたりしたことも多かったと思うし、中には恐れている人もいた。
その点、私にはそのイメージがバスケ雑誌でしか得た情報しかなかったがために、初対面で彼に接する時、物怖じせずごく普通に接することができた。それは今でも変わらずだ。
…ただ、それだけの出来事だ。私のことを好きになってもらえる理由にもならない程度の小さな事なのに。
ゴクリと、唾を飲んでから、緊張しつつも私の口元が笑う。
だって、何か可笑しくて。ついさっきまで、玲央くんに女子力が足りないことを指摘され、葉山と子供みたいな言い争いをしている最中だったんだ。
なのに、私にはもったいないぐらいこんなに素敵な後輩に告白されようとしている。
後輩であり、主将に。
見初められたのは信じられないぐらい嬉しいけれど、きっと私が彼にとって物珍しかっただけだったってことぐらいは分かってる。
「赤司くんが私に興味を持ってくれるのは物珍しいからってだけだと思うよ?一種の錯覚みたいな…」
「錯覚だったかどうかは付き合ったら解ることだろう。琴音、僕の目を見てもう一度同じことが言えるかい?」
琥珀色の瞳に吸い込まれそうになるが、私はぶんぶんと首を振ってもう一度向き直った。
「もし私が“誰にでも平等に優しい人”に見えるなら、それはあくまでマネージャーとしての私だよ。マネージャーでない普段の私は、きっと赤司くんが思ってるような人間じゃないと思うけど」
手をギュッと握って拳を作ったら、指先に自分の爪が触れた。玲央くんに磨いてもらってつるつるになった爪が。
ドク、ドク、と心臓が早い。脈が全身で大きく波打つ。緊張で手も額も汗ばんできている。
私は、特に赤司くんを恋愛対象として見たことがなかったにしても、カッコよくて、何をやらせても成績優秀で、バスケも強くて、素敵な人だってことは、よく知っている。
それだけに、そんな人からの告白はこの先の人生でもう二度とないと思うし、やんわりと断って相手を遠ざける物言いはとても心苦しかった。
煙に巻く言い方をしてしまったかな。
彼を傷つけてしまったら…、と心配になったが、すぐにそれは杞憂だったと知ることになる。
少し間を置いてから、彼は小さく笑って目を閉じた。そして、何をするのかと思えば――、
「そんな隙だらけの言い逃れで、引き下がるわけがない」
スッと手が伸びて彼の手の平が私の頬にピタリと触れた。体温が低そうな印象だったが、その手の平は温かかった。
唐突だったので、驚いて私は肩を震わせた。そのまま、赤司くんの人差し指が私のフェイスラインをなぞったので背筋がゾクリとした。
思わず立ち上がりそうになったが、かろうじて私は椅子に座り続けたままだ。
赤司くんはさらに近づいて私の顔を覗き込んできた。どうしよう。息がかかりそうなほど近い。
「僕も君と同じだ。きっと、君の目に映っている僕は本来の僕じゃない。本来、人間とは裏表がある生き物だ。だから他人の本質を知るためにはお互い歩み寄るしかない。…こんな風に相手の瞳に自分を映しただけじゃ解るはずもないだろう」
彼の大きな瞳の中に、私は自分の姿を見た。
平静を装いってたつもりが、自分が思っていた以上に頬が赤らんでいたのに気づいてしまった。
さらに顔に熱が昇っていく感覚に、私は息を飲んでハッとする。自分の表情が、本当に困った顔をしてなかったからだ。
触れられても拒絶もしない。体は固まるばかりで、ただ、心のどこかで満更でもないって思ってる。
ここにいては危険だと、頭の中で警鐘1つ鳴らすこともしない。
彼が冗談だと言ってくれればそこで終わる話なのに、冗談にされたくないのは彼じゃなくて、私の方だった?
自分でさえ気づいていなかった感情に、彼は最初から分かっていたのか、それとも導いたのか。わからない。
ただ、どうしようもなくドキドキと、心臓がさっきよりも速いリズムで鼓動していた。どこまでも真っ直ぐに届く気持ちも、視線も、赤司くんに捕らえられたら逃げ道はない。
バスケでもそうだ。彼がゲームメイクした試合に負けなんて一度たりともなかった。
彼の長い指は私の頬から顎へ辿り着き、そして唇に触れる。一瞬、息が止まった。
「確かにキッカケは些細な事だったが、僕はもっと君を知りたい。そう思うのはいけないことなのか」
私が口を開くより前に先に、赤司くんは先制攻撃とばかりに言い返せないような言葉を告げてきた。
この部屋に入ってきた時から彼が発した言葉の1つ1つは、全てが私にトドメを刺しにきているみたいだ。
私が何も考えずに行動していたほんの些細なことで、彼の心を動かしていたのだから、何がキッカケになるか分からないものだなと改めて思う。
今まで、部員とマネージャーとして過ごしてきた数ヶ月、お互いの知ってることなんて両手の指で足りる程度なものだろう。
だからこそ試そうとしているんだ。論理よりも探求心を優先させて、“私を知りたい”、と。
――ならば私も、勢いのままに踏み込んでみるのも選択の1つ。
彼の指先が、感触を確かめるようにやんわりと私の唇を押してからすぐに離れていく。
頬に触れられ手の熱を感じ、フェイスラインをなぞられて最後に唇を触る…この一連の動作はまるで、仕上げのような儀式。
赤司くんは三歩分、私の方を向いたまま後退していった。
彼がくれた熱も、気持ちも、一緒に遠ざかっていくような錯覚を覚える。
『私に興味を持ったのは物珍しいからだ』と、『私は赤司くんが思ってるような人間じゃない』と、適当な言い訳を並べて、心苦しくも彼を突き放したのは私の方だったはずだ。
なのに今、彼が数歩離れただけでこの距離さえ惜しいと感じる。
今度は、私が赤司くんから目を逸らさなかった。途端に心臓のリズムが妙に落ち着いていき、冷静な思考で理解する。
彼は、私が自分でも気づかない無意識の中で、赤司くんのことを知りたいって思っていたことに気づいていた。
そんな無意識の中にあった感情を引き出されて、私自身も驚いているところだ。
自分の心が他人の手中にあるみたいな感覚。ただ、それが赤司くんが相手なら防ぎようもなかったことだ。
彼にはどこまで、未来が視えているのだろう。
椅子から立ち上がったタイミングで、赤司くんは柔らかく微笑んで私に向けて手を伸ばした。
彼は安堵した表情。
はじめて目にする類のその微笑みに目を奪われ、私は一歩前へ踏み出す。
「琴音、手を取って傍へおいで」
耳に心地よい凛とした声に、右足を一歩、左足を一歩、とゆっくり進ませた。
蝶が甘い花の蜜に誘われる光景と似ている。
“おいで”
この三文字すら甘美な響きだ。
本当にその手を取って正解なのかと何度も自分に問いかけつつも、歩きながら右手を伸ばした。赤司くんの手に触るまであと少し、あと、数センチ――一度その手を取ったらもう後戻りできない。
「僕の目に狂いはない。きっと僕は君を好きになるだろう」
思いもよらない台詞に、フッと思わず口元が緩んでしまった。何という自信だろう。
いや、これは一種の命令だろうか。
赤司くんと私はやっぱり釣り合わない。ただ、並んで歩くことに不思議と不安はなかった。どんな困難が待っていようと、いつでも赤司くんが私の味方であり、私が赤司くんの味方でいる限り、何も怖くないって、そんな気がするんだ。
私の目の前にいるのは、女の私よりも女性らしい人物。
テーブルを挟んでお互い向かって座っているので、伏し目がちの表情、黒くて長い睫が白い肌によく映える。
玲央くんは私の右手をとって爪をまじまじと見つめてから呆れてため息をついた。
言わんとしてることはわかる。というのも、もう既に言われたからだ。『きったない爪!』…と。
玲央くんは本当に汚いものでも見てしまったというぐらい戦慄していた。
失礼な!と思ったけど、何も間違ったことを言われたわけではないので私は、ヘヘヘと頬を掻いて失笑するばかりだった。
本日土曜日。残暑も終わり、過ごしやすい秋が訪れた。
今日も今日とてバスケ部は練習だったのだが、午後からは体育館の点検があるため午前中だけ全体練習となり、その後、部室でスタメンだけ残ってミーティングを行ったのだ。
赤司くんが中心となって行われたそれはミーティングというよりはほとんど彼の話を聞く会に近かった。
ゲームメイクにおいてもすごいが、アドバイスにおいても的確。主将らしくみんなをまとめる姿はいつ見ても感心を通り越して尊敬しちゃう。
来週の洛山バスケ部OBチームとの練習試合についてのシュミレーションやそれに纏わる課題点・要点をまとめて解りやすく話してくれた。
ミーティングはさして時間もかからずに終わって本日は終了となった。
直後、永吉くんは昼飯が食い足りないと食堂へ向かい、赤司くんは監督に用事があるみたいで職員室へ向かい、参加していた別のメンバーも間もなく各々解散していった。
部室に残ったのは玲央くんと葉山と私だけになった。
そこで部誌を書こうとしていた私の手元がふと目に入ってしまった玲央くんに、先程のありがた~い罵りを頂いたのだ。
「きったない爪ッ!…ちょっと、磨いてあげるからこっち来て座りなさい!」
悲鳴に近いその声に、パイプ椅子二つを並べてその上で寝転がりながら月バスを読んでいた葉山も、立ち上がって私の方を見た。
起きなくていい、いちいち起きなくていい!って思ったら、さらに近づいてきて、テーブル1つ挟んで向かい合って座っている玲央くんと私の間に葉山が興味津々に割り込んでくる。
「なになに!何の話!?」
「葉山はこっちこなくていいよ」
「……汐見って俺だけに冷たいの何で?他の奴らには『くん』付けで呼ぶのに、俺だけ苗字呼び捨てだしさぁ。あっ、もしかして俺のこと好」
「やめて葉山。面白すぎる」
苦笑もせず、感情を込めずに冷徹に葉山に言い放つと彼は拗ねて唇を尖らせた。
玲央くんは立ち上がってロッカーから何か捜し物をして、またすぐに戻ってきて椅子に座った。
持ってきてテーブルの上に置いたものは、“爪磨きセット”だった。私は買ったことないけど、多分それだ。
「アンタいつもうるさいから、この子に疎まれてんのよ」
カチャカチャと音を立てて道具を並べると、私の手の下に置いてあった部誌をはじっこに寄せながら玲央くんは私の代わりに葉山に言い返してくれた。その通りだ。私はたいてい人の名前には『さん』とか『くん』を付け親しみを込めて呼ぶが、葉山だけは別だ。
彼のハイテンションと前向きな性格にはすごいと思うが、一年・二年と連続でクラスも一緒で、現在は席も隣。
部活も一緒なのであのキンキン声がやかましくて仕方なくなり、自然と「葉山くん」から「葉山」と呼び捨てになったのはもう何ヶ月も前のこと。
クラスの席替え早くしないかなとぼんやりと願った。
特に午後からの予定もないし、お言葉に甘えて女子力の高い玲央くんに爪を磨いて貰うことにした。
自分の爪でなく人の爪に対しても扱いが丁寧。彼の器用さがよく分かって感心した。爪ヤスリで私の伸びっぱなしの不格好な爪の形があっという間に整えられていく。すごいね、と思わず感嘆の息を漏らす。
葉山のぎょろりとした大きな目も玲央くんの細やかな手の動きを見入ってるようだった。
「感心してる場合じゃないわよ?トップコートぐらい塗って保護しなさいよ。表面もザラザラだしこんなになるまで…オイルとか塗ってないの?」
「塗ったこともない…」
呆れた、とばかりにジト目と沈黙で返され、再びため息をつかれてしまった。玲央くんの爪は私と打って変わって、キチンと整えられ、艶があった。
毎日のようにバスケットボールを触り、彼の方が私より何倍も爪が荒れやすく傷つけやすいようなことをしているはずなのに。
見習わないとなぁと思いつつも、私は自分の性格をよく分かっている。
めんどくさがりで、オシャレにもさして頓着がなくて、それこそキラキラした女子から見たら私などズボラと呼ぶに相応しい類の人間だろう。
こうして玲央くんに教えてもらっても感心するばかりで、いざそれをちゃんと一人で実行できるか。
爪1つの艶でさえ今後ケアできるかわかったもんじゃない。ケアには時間も…、あと、お金もすごくかかりそうだ。
「レオ姉って女子力高いなぁ。レオ姉と汐見はお互い性別間違えて生まてきちゃったんだな~」
「そうかもしれないね。葉山も多分サルと間違えて人間に生まれてきちゃったんだね」
「ちょ、それはひどくねぇ!?」
淡々とした口調で言い返すと葉山はショックでよろめいたオーバーリアクションをしていたが、無視をして私は手元から目を離さなかった。
爪ヤスリで磨いて、玲央くんは手を休めずに動かした。
すると、不思議なことに爪がピカピカと輝きだした。つやつや、つるつるしている。先程の粉みたいなのは研磨剤の類だろうか。
すごい!と素直に感動して、その爪磨きセットの値段を聞いたら驚くことに私のお小遣いの範囲でも充分買えるものだった。
玲央くんが使っているものだからすごく高価なものだと思い込んでいたが、私でも買える値段で安心した。
「はい、おしまい!」
「わぁ!玲央くんありがとう!」
目の前で手を広げると、間近で見ても少し離して見ても私の爪は嘘みたいに綺麗に整えられていた。
立ち上がって深々とお辞儀をし、改めてお礼を言うと玲央くんは“どういたしてまして”、と、苦笑した。
玲央くんが女の子の友達が多いのも納得だ。時々男らしさも垣間見えたりして、きっと先輩からも後輩からもモテるんだろなぁ。
いや、間違いなくモテるはずだ。
ちなみに葉山は私は全然タイプじゃないが、何故かそれなりにモテるので、この件に関しては世にも奇妙な洛山七不思議である。
…って本人に言ったら「ひでぇー!!」って大声出された。うるさかった。
私の女子力のなさについてその後、葉山に色々言い返されたので、私も売り言葉に買い言葉とさらに言い返していたら、玲央くんはこれ以上醜い争いは見たくないとばかりに仲裁に入ってきた。
私たち3人、同い年のはずなのに玲央くんだけ随分大人だ。いや、私と葉山がガキなだけなのか。
「琴音、アンタもお年頃なんだからちゃんとなさい。飾ればそれなりに可愛いんだから。自分磨きに手ぇ抜いてたら嫁の貰い手ないわよ?嫁どころか彼氏だって――」
玲央くんは葉山に注意した後、私にも軽くフォローの意味を込めて諭される。
彼の言葉ならやはり素直に受け止められるし、仰る通りだと心から思ったし、飾ればそれなりにだなんて誉め言葉にさえ感じた。
――と、その時、ガチャリと部室のドアが開き3人とも同時に反応した。
鮮やかな赤い髪。前髪から見え隠れするミスリアスな瞳に視線が吸い込まれる。
「僕が貰おう」
部室に入ってきた人物は、突然、誰もが予想してないことを、いつもの冷静な口調でハッキリと告げた。
意味がよく分からず、3人とも小首をかしげるという、狙ったわけでもないのに同じリアクションをしてしまった。
「聞こえなかったのか。僕が貰うと言ったんだ」
瞬きをして赤司くんを見つめ――、ついでに順番に葉山と玲央くんと目を合わせた。監督に用事があってミーティング後に部室を出ていった赤司くんが、また部室に用事があったのだろうからここへ戻ってきた。
それは別におかしくない。そして私たちの声が大きかったからか、部室の外に聞こえていたのだろう。
部室に戻ってきてドアを開けようとした瞬間に私たち3人の会話を聞いて、赤司くんが先程の台詞を告げた。
納得はしたものの、彼が『冗談』を言うのがとても珍しくて、私たちはそのジョークに笑い出すのもワンテンポどころかスリーテンポぐらい遅れてしまった。私も、赤司くんの口からジョークを聞いたのは初めてだったので驚きのが上回ってしまった。
「征ちゃん何ていい子…!さすがキャプテンね、ナイスフォローよ」
「フォローしたつもりじゃない。琴音が欲しいから貰うと言ったんだよ」
「赤司がジョーダン言うなんて珍しいな!でもさーでもさー、汐見はやめといたほうがいいって!何かめんどくさそーだよ!『私とバスケどっちが大事なの!?』とかギャンギャン喚いて迫ってきそうじゃん!」
「もしそうだとしても構わないさ。手がかかる子ほど可愛いと昔からよく言うだろう」
葉山のひどすぎる私のイメージに、私も言い返した上でバスケ雑誌を丸めて奴の後ろ頭をブッ叩きたい衝動は、今は抑えておこう。
ガマン、ガマン。私がそのバスケ部のマネージャーなのにそんな二択で迫るわけないでしょーが!
しかし、二人の投げかけに対してもテンポよく返答する赤司くんは、さすがだ。
返しも上手いのは頭の回転が速いからかな。
彼がフッと薄く笑んで、そこが会話の着地点だと分かったし、いつもは一年なのに威厳を感じられるその真顔で言う冗談が可笑しくて、私も玲央くんも葉山も吹き出して笑ったのだが…只一人、赤司くん本人の微笑みは私たちとは種類が明らかに違うことだけ察してしまった。
私たちのくだらない会話に途中から加わって、冗談を言ってオチをつけたわけじゃなかった。
彼が冗談を言うなんてレアシーンだと勘違いしていたと分かるのはこの直後の事。
「僕は本気で言ってるんだよ。小太郎、玲央、悪いが今から部室を出て行ってくれないか。琴音と二人で話がしたいんだ」
□ □ □
入部してから今現在に至るまでを、思い返してみよう。
そもそも、私がバスケの超強豪校・洛山バスケ部のマネージャーを務めていること自体が摩訶不思議なんだ。
ゆうに100名を越える部員数に対してマネージャーも最低でも10名は必要になる。
うちの部は入部届けを出せば誰でも入部できるというお気楽なシステムではなかった。
部員に対してある程度の体力や実力があるか入部テストを行うのだ。
それはマネージャーも同様だった。これまでにバスケ部のマネージャーの経験があるものが優遇され、あとは監督や主将との面接がある。
コミュニケーション能力があるか、バスケの知識はあるか、やる気はあるか。
今挙げたうちの前者2つについて私は持ち合わせいない。コミュニケーション能力は自負できる程のものではなく人並み程度、バスケ経験も知識もなくまったくの素人。あるのはただ“やる気”のみだった。
中学時代、文化部に入部していたものの何やかんやで不完全燃焼で三年間を終えてしまったから、高校では何か精一杯打ち込めることをしよう!と思い、バスケ部が有名だと聞いてマネージャーを志望したのだ。
面接も上手くいったわけじゃなかった。やる気のみで特攻して面接したので、もし、これでダメなら仕方ないと腹を括っていた矢先…――無事、マネージャーとして入部できる知らせがきたのだ。
だから、私がマネージャーでいることも、今、バスケ部の部室にいることも、運のようなもの。
ただ、運がよかっただけ。
これまでの出来事が一瞬で脳裏を駆けめぐるも、赤司くんに“貰う”と言ってもらえるような要素が、私の中のどこにも見当たらなかった。
気苦労が多くて気でも触れたのかな…いや、まさか、彼に限ってそんなことは絶対にありえない。
冷静沈着、威風堂々、才色兼備…思いつく限りそんな四文字熟語が、彼を見ていると当てはまる。
今年の春、洛山の監督が獲得した10年に一人の逸材と呼ばれるキセキの世代。
月に一度の実力テストでは二年も三年も唸らせ、監督まで納得させた上で、彼は入部して間もなく主将に任命された。
全体未聞のこの事態に、誰もが驚かなかったのは、バスケ経験者なら誰しもキセキの世代の凄さを理解しているからだろう。
その代わり、心から彼を認めている者も多いが、実力を妬んで一年に主将をやらせるなと反対をしている者も多かった。
大声あげて驚いていたのは私ぐらいなもんだった。私は高校からバスケの知識を覚えて、それまでスポーツ関連のことはてんで無知だったから。
キセキの世代についても入部してから教えてもらったことだ。
玲央くんと葉山が部室を出ていった後、椅子に座ったままの私に彼は近づき、顔を俯かせて私を見据えた。
鋭い眼光が少し恐いけど、とっても綺麗。自分の意志とは関係なしに心臓がドキドキと高鳴りはじめる。
「赤司くんのタイプって品のある女性…、って前に玲央くんから聞いたことあるんだけど」
「好きなタイプと好きな人がイコールになることばかりではないよ」
穏やかなその声はいつもと何1つ変わらない。
ただ、気づかない程度にほんの少しだけその声色に熱が感じられる。
見つめられているけど私は気恥ずかしくなって瞬きをしたり、視線を横へ外したり、また彼に戻したり、落ち着かない。
彼は微動だにしない落ち着きようだというのに。
そわそわして動きたいのに、視線以外は動かせない。彼の視線に捕らわれたみたいだ。痺れて動けなくなる錯覚に陥った。
「意味をもって“君を貰う”と言ったことを取消すつもりはない」
声に、空気に、視線に、真っ直ぐな気持ちが流れ込んできてそこから先、私は赤司くんから目を逸らすことが出来なくなった。
冗談は何1つなく、彼は真剣だったので、目を背けるのも失礼だと思ったし、ここまでストレートに気持ちをぶつけられたのは生まれて初めてだ。
赤司くんの、白い肌と整った目鼻立ちに、情熱的な赤い髪色が恐いぐらいよく似合う。
近づけば火傷しそう。彼の魅力に引きつけられた女の子は今までにどれぐらい居たのだろう。
――どうして私なの?
赤司くんは私が聞こうとしたことが解っていたみたいで、淡々と説明しはじめた。
「本当に久々だったんだ。普通に話しかけてもらえたのは」
薄い唇がやや口角を上げ、赤司くんは目を細めて静かに微笑んだ。
まるで私と初めて出会った場面を思い出してるみたいだ。
「君だけは、僕と初めて会った時から今に至るまでも、後輩に普通に接するように話しかけてくれたね。君は優しい人だ。誰にでも平等に。そして優しさを与えた見返りも求めなければ、思慮深さも見えない。だからとても興味を持ったんだ」
彼の声で、その時のシーンが頭の中に映し出される。彼との初対面はもちろん、体育館で。
一年生の入部初日の事だ。今年の一年生に“キセキの世代”が入部してくるというのは、4月になる以前から話題になっていた。
試合も実力も生で見たことがない私は、せめて勉強しておこうと月バスで特集されているのを読んだりしただけの知識で、一年生の部員がやって来る日を迎えた。
月バスで赤司くんを見た印象は、キレイな顔立ちの子だなとか、キセキの世代の中だと小柄に見えるな、とか、そんなありきたりな感想だった。
『キセキの世代ってそんなにすごいの?』って、中学時代もマネージャー経験のある子に質問したら、白い目で見られてしまった。
入部初日に行った実力テストで、赤司くんの順番を終えた直後の空気はピリッと張りつめたものだった。
明らかに他者との差を見せつけた唯一無二のプレーに誰もが目を奪われていた。
それからの彼は、尊敬されることばかりではなかっただろう。
気を遣われたり、妬まれたり、疎まれたりしたことも多かったと思うし、中には恐れている人もいた。
その点、私にはそのイメージがバスケ雑誌でしか得た情報しかなかったがために、初対面で彼に接する時、物怖じせずごく普通に接することができた。それは今でも変わらずだ。
…ただ、それだけの出来事だ。私のことを好きになってもらえる理由にもならない程度の小さな事なのに。
ゴクリと、唾を飲んでから、緊張しつつも私の口元が笑う。
だって、何か可笑しくて。ついさっきまで、玲央くんに女子力が足りないことを指摘され、葉山と子供みたいな言い争いをしている最中だったんだ。
なのに、私にはもったいないぐらいこんなに素敵な後輩に告白されようとしている。
後輩であり、主将に。
見初められたのは信じられないぐらい嬉しいけれど、きっと私が彼にとって物珍しかっただけだったってことぐらいは分かってる。
「赤司くんが私に興味を持ってくれるのは物珍しいからってだけだと思うよ?一種の錯覚みたいな…」
「錯覚だったかどうかは付き合ったら解ることだろう。琴音、僕の目を見てもう一度同じことが言えるかい?」
琥珀色の瞳に吸い込まれそうになるが、私はぶんぶんと首を振ってもう一度向き直った。
「もし私が“誰にでも平等に優しい人”に見えるなら、それはあくまでマネージャーとしての私だよ。マネージャーでない普段の私は、きっと赤司くんが思ってるような人間じゃないと思うけど」
手をギュッと握って拳を作ったら、指先に自分の爪が触れた。玲央くんに磨いてもらってつるつるになった爪が。
ドク、ドク、と心臓が早い。脈が全身で大きく波打つ。緊張で手も額も汗ばんできている。
私は、特に赤司くんを恋愛対象として見たことがなかったにしても、カッコよくて、何をやらせても成績優秀で、バスケも強くて、素敵な人だってことは、よく知っている。
それだけに、そんな人からの告白はこの先の人生でもう二度とないと思うし、やんわりと断って相手を遠ざける物言いはとても心苦しかった。
煙に巻く言い方をしてしまったかな。
彼を傷つけてしまったら…、と心配になったが、すぐにそれは杞憂だったと知ることになる。
少し間を置いてから、彼は小さく笑って目を閉じた。そして、何をするのかと思えば――、
「そんな隙だらけの言い逃れで、引き下がるわけがない」
スッと手が伸びて彼の手の平が私の頬にピタリと触れた。体温が低そうな印象だったが、その手の平は温かかった。
唐突だったので、驚いて私は肩を震わせた。そのまま、赤司くんの人差し指が私のフェイスラインをなぞったので背筋がゾクリとした。
思わず立ち上がりそうになったが、かろうじて私は椅子に座り続けたままだ。
赤司くんはさらに近づいて私の顔を覗き込んできた。どうしよう。息がかかりそうなほど近い。
「僕も君と同じだ。きっと、君の目に映っている僕は本来の僕じゃない。本来、人間とは裏表がある生き物だ。だから他人の本質を知るためにはお互い歩み寄るしかない。…こんな風に相手の瞳に自分を映しただけじゃ解るはずもないだろう」
彼の大きな瞳の中に、私は自分の姿を見た。
平静を装いってたつもりが、自分が思っていた以上に頬が赤らんでいたのに気づいてしまった。
さらに顔に熱が昇っていく感覚に、私は息を飲んでハッとする。自分の表情が、本当に困った顔をしてなかったからだ。
触れられても拒絶もしない。体は固まるばかりで、ただ、心のどこかで満更でもないって思ってる。
ここにいては危険だと、頭の中で警鐘1つ鳴らすこともしない。
彼が冗談だと言ってくれればそこで終わる話なのに、冗談にされたくないのは彼じゃなくて、私の方だった?
自分でさえ気づいていなかった感情に、彼は最初から分かっていたのか、それとも導いたのか。わからない。
ただ、どうしようもなくドキドキと、心臓がさっきよりも速いリズムで鼓動していた。どこまでも真っ直ぐに届く気持ちも、視線も、赤司くんに捕らえられたら逃げ道はない。
バスケでもそうだ。彼がゲームメイクした試合に負けなんて一度たりともなかった。
彼の長い指は私の頬から顎へ辿り着き、そして唇に触れる。一瞬、息が止まった。
「確かにキッカケは些細な事だったが、僕はもっと君を知りたい。そう思うのはいけないことなのか」
私が口を開くより前に先に、赤司くんは先制攻撃とばかりに言い返せないような言葉を告げてきた。
この部屋に入ってきた時から彼が発した言葉の1つ1つは、全てが私にトドメを刺しにきているみたいだ。
私が何も考えずに行動していたほんの些細なことで、彼の心を動かしていたのだから、何がキッカケになるか分からないものだなと改めて思う。
今まで、部員とマネージャーとして過ごしてきた数ヶ月、お互いの知ってることなんて両手の指で足りる程度なものだろう。
だからこそ試そうとしているんだ。論理よりも探求心を優先させて、“私を知りたい”、と。
――ならば私も、勢いのままに踏み込んでみるのも選択の1つ。
彼の指先が、感触を確かめるようにやんわりと私の唇を押してからすぐに離れていく。
頬に触れられ手の熱を感じ、フェイスラインをなぞられて最後に唇を触る…この一連の動作はまるで、仕上げのような儀式。
赤司くんは三歩分、私の方を向いたまま後退していった。
彼がくれた熱も、気持ちも、一緒に遠ざかっていくような錯覚を覚える。
『私に興味を持ったのは物珍しいからだ』と、『私は赤司くんが思ってるような人間じゃない』と、適当な言い訳を並べて、心苦しくも彼を突き放したのは私の方だったはずだ。
なのに今、彼が数歩離れただけでこの距離さえ惜しいと感じる。
今度は、私が赤司くんから目を逸らさなかった。途端に心臓のリズムが妙に落ち着いていき、冷静な思考で理解する。
彼は、私が自分でも気づかない無意識の中で、赤司くんのことを知りたいって思っていたことに気づいていた。
そんな無意識の中にあった感情を引き出されて、私自身も驚いているところだ。
自分の心が他人の手中にあるみたいな感覚。ただ、それが赤司くんが相手なら防ぎようもなかったことだ。
彼にはどこまで、未来が視えているのだろう。
椅子から立ち上がったタイミングで、赤司くんは柔らかく微笑んで私に向けて手を伸ばした。
彼は安堵した表情。
はじめて目にする類のその微笑みに目を奪われ、私は一歩前へ踏み出す。
「琴音、手を取って傍へおいで」
耳に心地よい凛とした声に、右足を一歩、左足を一歩、とゆっくり進ませた。
蝶が甘い花の蜜に誘われる光景と似ている。
“おいで”
この三文字すら甘美な響きだ。
本当にその手を取って正解なのかと何度も自分に問いかけつつも、歩きながら右手を伸ばした。赤司くんの手に触るまであと少し、あと、数センチ――一度その手を取ったらもう後戻りできない。
「僕の目に狂いはない。きっと僕は君を好きになるだろう」
思いもよらない台詞に、フッと思わず口元が緩んでしまった。何という自信だろう。
いや、これは一種の命令だろうか。
赤司くんと私はやっぱり釣り合わない。ただ、並んで歩くことに不思議と不安はなかった。どんな困難が待っていようと、いつでも赤司くんが私の味方であり、私が赤司くんの味方でいる限り、何も怖くないって、そんな気がするんだ。