短編・中編
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かわいいひと
琴音さんは秀徳バスケ部のマネージャーの一人。初めて彼女を見た時、いわゆる『ビビッときた!』…ってのは無く。
来年の春には三年生は全員、もうここにはいないのだと淡々と思った。まぁ卒業しちゃうから当たり前だけど。
入部初日、新入部員は全員横一列に整列し、名前とクラス、中学からバスケをしていたやつはポジションを、バスケの経験がないやつは希望ポジションを、後は簡単な自己紹介を主将らの前で順番に行った。
そもそも、このバスケで有名な強豪校において『高校からバスケはじめます』なんて奴はほとんどいなかった。万が一にもカッコつけでバスケ部に入ろうなんて奴がいれば、1週間も保たずに練習のキツさで逃げ出すんだろう。
かく言う俺も油断は出来ない。
強豪校のバスケ部に入部したのは初めてなので、キッツイ練習でげぇげぇ吐く覚悟だけはしておこう。
俺の自己紹介の時、琴音さんはしっかりとこちらを見ていたので当たり前のように目が合ったことを今でも覚えている。
彼女の容姿はごく普通。
これといって特別目立つパーツもなく。
思ったことと言えば、“女子の中でも背が小さい方かな”ってぐらいだ。正直、その時はまさか俺がこの人に余裕なく恋をするなんて、失礼ながらほんの少しも想像もしてなかった。
秀徳バスケ部は部員数も多く、一軍から三軍まであり実力の差によってチームが分けられている。
全体練習はあるが、一軍は常にレギュラーとして試合に出ることが多いため、一軍だけに課せられた練習メニューも存在していた。
もちろん、二軍や三軍にもチャンスがある。定期的な実力テストやチームを分けて行われる練習試合の結果次第では一軍へ昇格することだってあるのだ。
多いのは部員だけじゃない。
うちの学校は特にバスケが有名だし人数も多いわけで、必然的にマネージャーも数人いる。そういや、俺と真ちゃんと同じクラスの女子でも一人マネージャーとして入部した子がいたなぁ。
三年の琴音さんは主将の大坪さんとの信頼関係もあってか、マネージャーの中でもリーダー的な存在だった。
大坪さんと木村さんと向かい合って話している姿を視界に捉えるも、とてもリーダーらしい雰囲気が出てるような人じゃないなぁと内心で苦笑する。
それに、今の彼女は強面の大男にちびっこが脅されている図に見えなくもない。
俺が思わず口元を歪ませると横目で見ていた真ちゃんに「何を笑っている。気持ち悪いのだよ」って睨まれちまった。
ほぼ、一軍専属のマネージャーのようになってしまっている琴音さんは、小さな身体に大きなパワーを秘めている。
よく転んだりとドジも多いが、それをカバーしてもお釣りが出るほど、日々バスケ部に貢献しているとに気づくのにそう時間はかからなかった。
選手一人一人をよく観察いるし、分析も難なくこなしていた。しかし、大坪さんから聞いた話では、琴音さんがバスケに携わったのは高校からだという。
――じゃあ、ルールも高校に入ってから覚えたってことか?その上、情報収集に分析?
軽々とこなしてるように見えたけれど、きっと努力をしてきたんだろう。
みんなから信頼されてれるのも納得がいく。しかし、意外だなぁ、って思わず口から漏れて俺は慌てて大坪さんを見た。バツが悪そうに口を覆っていると大坪さんは笑い出した。
「人一倍頑張ってるのにそんな素振り全然見せないんだ。それがアイツのいいところなんだけどな」
主将の言葉に頷いて俺は素直に感心していた。見た目も中身も平々凡々な彼女は、主将にここまで言わせる人物。
本当はどんな人なんだろう。
むくむくと湧いてくる興味は抑えきれず、俺はスタメンになってマネージャーと直接話す機会が多くなったのをいいことに、部活終わりには必ずと言っていいほど何かしら話題を作っては話しかけた。
はじめは敬語だったが、「高尾くんの敬語って、何かむず痒いね」と笑われてしまい、本人から許可を得て以来はフレンドリー話しかけるようになった。
部活以外の話題で雑談もするようになり、時には下校に誘えば快くOKしてくれた。
彼女についてだいぶ知ることができたと思う。大坪さんやスタメンのみんなにも信頼されているマネージャーは、今、俺の目の前でスッ転んでドリンクを床にぶちまけた彼女と同一人物。転んだ上に、フタまで開いてやんの。
ドジだな~。あー、床がびしょびしょ。
思わずプッと噴出しながらも俺が駆け寄って起こしてやると、彼女の鼻が赤くなっていた。転んだ際に鼻の頭を床に擦ってしまったらしい。
恥ずかしさを誤魔化すように笑ったので、俺はその赤っ鼻とヘラッとした表情が可笑しくてまた吹き出した。
――“どんな人なんだろ?”って、興味本位で近づいた。
それは、蓋を開けてみれば何てことない、マネージャーとしては敏腕ではあるが、時々やっぱり普通の女の子。
関わる機会が多くなって分かったことがある。琴音さんは、しっかり者の、でもそれと同じくらいドジな、ただの……、
ただの、かわいいひとだった。
知ってしまったのなら、気づいてしまったのなら、胸の奥が熱で疼いてそれは容赦なく日々加速していく。
止まらない感情に俺自身が虚を突かれた。改めて初対面のあの時のことを思い出す。
俺がこの人に余裕なく恋をするなんて失礼ながらほんの少しも想像もしてなかった。
だが実際はどうだ。そんなことは知らんとばかりに彼女は俺の想像を軽々と飛び越えていった。
□ □ □
この気持ちは『恋』だと自覚した数日後、真っ青な青空の中、燦々とした太陽に照りつけられながら俺はチャリンコをこいでいた。
琴音さんと二人乗りで、彼女がサドルの真後ろにある荷台に乗って、俺のお腹に腕を回して掴まってくれているのならば何の文句もないが、状況は違った。
チャリンコだけでなく、その後ろにはリアカーが。リアカーには真ちゃんと…今日は琴音さんも乗っていた。
真ちゃんとのじゃんけんに当たり前のように負けた俺は、毎度のごとくチャリとリアカーをドッキングさせ、重力に負けじといつも以上に足に力を込めて自転車を前へ前へと進ませる。
ひたすら黙ったままこぎ続ける俺を気遣って、後ろから琴音さんが身を乗り出して話しかけてきた。やばい。ドキッとして振り返りそうになってしまう。
「ごめんね、高尾くん。次の信号から私がこぐよ?」
「あ、いや!慣れてっから全然ヘーキ!それに琴音さんにこがせるわけにはいかねーって」
「先輩、高尾にとってはいつものことなので大丈夫です」
「……真ちゃんあのさ、少しはさ、感謝ってもんをさ」
「何を言っている。じゃんけんに負けたお前がこぐのがルールなのだよ」
フン、と鼻を鳴らして真ちゃんは相変わらずの高慢な態度だ。
じゃんけんで真ちゃんを負かすことさえ出来れば、俺がリアカーに乗って真ちゃんにチャリをこいでもらえるのだが、今までに一度もじゃんけんに勝ったことがない。例のごとく、今日もだ。
一年のスタメン二人とマネージャーと、チャリアカーで何処へ向かっているのかというと、練習試合を見に他校へ向かっていた。
もちろん偵察も兼ねてだが、今日マネージャーが来たのはウチとの練習試合を直接申し込むためである。中谷監督が事前に連絡をしてくれてるとのことなので、琴音さんと詳細を打合せしに行くということらしい。
俺としては琴音さんと二人で行きたかったのだけど、大坪さんからの指令は、“マネージャーの同行者は緑間と高尾の二人で”、ということだった。
勘のいい大坪さんに俺の彼女への気持ちがバレていたとしたら、色々やりづらいなー。
二人をリアカーに乗せ、俺は安全運転でチャリをこぎ続ける。今回の目的場所は同じ都内の学校。もちろんチャリアカーで行ける範囲なのでこうして出動させているわけだが、さすがにいつもよりペダルが重い。
さっきから真ちゃんと琴音さんが何か話しているが声が小さくて聞こえない。
気になる!俺も混ぜろ!ってか真ちゃんズリぃよ!
声にできたらとっくにそうしてるが、琴音さんの前だとどうもらしくない自分になってしまう。言いたいことが言えないのは、言葉1つでもどんな意味を含んでるのか自分の中でわかってるからだ。
何か…オレ必死だな。
「きゃっ!」
琴音さんの悲鳴と、ガッタン!!という音がほぼ同時だった。
何が起きたのかすぐに分かったのは、この事象はよくあることだからだ。
リアカーの車輪が落ちていた石ころに乗り上げたせいで大きく揺れた。いつもは真ちゃん一人乗せているだけなので背後で文句を言われようとケラケラ笑って済ませてたんだけど、今日は違う。
琴音さんも乗ってるんだ。足ではペダルを、頭では別のコトを考えていたせいで道に落ちてる石にも気がつかなかったなんて。情けない。
「わりっ、大丈―――」
自転車を一度止めて慌てて振り返るも、最後の一文字は小声過ぎてどこかへ消えて溶けていったのは絶句したからだ。
琴音さんが真ちゃんの方に転げて抱きとめられている図。真ちゃんもしっかり彼女の背中に手を添えて支えていた。
二人とも一瞬の出来事でその状態で赤面しながら固まっていた。俺には、この光景を1秒でも長く見なくちゃいけないのは耐えられない。
自転車から降りて琴音さんの肩を掴んで真ちゃんから引っぺがすと、二人とも急に正気に戻ったようだった。
リアカーが石ころに乗り上げて揺れ、そのせいで彼女が真ちゃんの方に傾き真ちゃんがそれを反射的に抱えた。
すぐに気づいた俺が振り返り自転車を降りて二人を引っぺがすまで、その間、恐らく10秒以内の出来事。
実際に抱きしめ合ってるかのような状態の二人を目の当たりにしたのは3秒ぐらい。でも俺には苦痛すぎて30秒ぐらいに感じた。
「緑間くん、ごめんね」
「…いえ。俺は大丈夫です」
「真ちゃんやらしー!」
「黙れ高尾」
ジト目で口元をニヤニヤさせる俺を見て、真ちゃんは眉間に皺を寄せてこちらを見据える。挙げ句、誰のせいだと思ってる!って怒鳴られた。まぁ俺の運転不注意ですけど。
気の抜けた声で謝ってから、俺は再びチャリをこぎはじめた。
チャリをこぎながら視線は前方。道にある石を注意して見つつも、背後で気まずい空気が流れてる二人のことが気になって仕方なかった。
これをキッカケに二人の間で『なに』かがはじまろうものなら、俺は今日、自分を一生恨むだろう。
お願いだから何もはじまらないでくれ、なんて、内心で悲痛な叫び。
雑念が生まれては消えず蓄積していく。
あと少しで到着して練習試合を見るわけだけど、こんなに胸がざわざわしたまま、ちゃんと試合見れっかなぁ。
報告もしなきゃだからちゃんと見るコトは見るんだろうけど集中できるかどうか。
頭ではまた別のこと考えてしまいそうだなと懸念が過ぎる。
他校の練習試合を見てから、帰りも夕陽に照らされながら二人を乗せてチャリをこいだ。
さすがに疲労がハンパない。精神的ショックによるによるものかもしれない。
なんとなく、誰かに誉めて欲しい気持ちになった。
□ □ □
学校に戻ったらすぐに俺たちは大坪さんと監督へ報告をした。特徴のあるプレーや技を持つ選手もチェックしてきたので、それを元に監督がスタメンを組む予定だそうだ。
練習試合の日程と場所も決まったし、あとは当日を待つだけだ。
「御苦労だったな。もう練習に行っていいぞ」
俺と真ちゃんからの報告が終わると、中谷監督は頷いて今度は琴音さんの方に向き直った。少しでも早く練習時間をはじめられるようにと監督なりに気を遣ってくれたのだろう。部活の時間は過ぎたけれど、まだ個人練習で残ってるメンバーもいるし、この時間帯ならばコートも広く使える。
胸のもやもやを練習に打ち込んでかき消さなくては…って、ちゃんと、消えるんかな。
雑念まみれのまま練習して不注意で自分が怪我をしてみんなに迷惑かけたら、それこそ己のアホさに失望するだろう。
自分で言うのも何だけど、まぁ自分で言うしかないから言うけど、俺って結構世渡り上手。
誰とでも仲良くなれるわけじゃあないけど初対面でもある程度は打ち解けられるし、話をするのも好きだ。
自慢じゃないけど、生まれながらの器用さがあるんだと思う。ある程度何やっても器用にこなせちゃう。
…なーんてのは、自惚れだった。
本当に好きな子と仲良くなっても先輩・後輩止まり。動揺して嫉妬して、心のもやが晴れやしない。琴音さんへ、あと一歩踏み出すのがこんなにも恐い。俺のどこが、器用なんだよ。思い上がっていたつい最近までの自分が恥ずかしい。
ため息をつきながら部室で練習着に着替えていると、隣で着替えていた真ちゃんに鬱陶しがられた。
そのまま部室を後にして向かうは体育館…でなく、職員用の自転車置き場。
チャリとリアカーを部室のそばに置いたままだったので指定の場所まで戻しに向かった。
この自転車、私物ではなく学校で貸し出しているものだ。まずはリアカーを外して、自転車置き場にチャリだけ置いてからリアカーだけまた別の場所に持って行く。後始末でさえ真ちゃんは「じゃんけんに負けた奴の仕事だ」って冷たく言い放つもんだから、結局毎回俺が一人でやっている。
つーか、そのじゃんけんにどんだけの執行権があんだよ!って、今更ふて腐れても仕方ない。
まぁいいけどさ。いつかじゃんけんで俺が負かして、真ちゃんに絶対チャリをこがせてやる。
リアカーの上でごろ寝して漫画読んでやる。駅と学校3往復ぐらいさせてやる!
ブツブツと独り言ちていると、ふと、背後から駆け寄ってくる足音に振り向く。
歩幅の小さい小走りの音。
「高尾くーーん!」
小くて、ふわふわしたかわいいひとが俺に向かって走ってきている。琴音さんだった。慌ててどうしたんだろう。
それに、俺がここに居ることがどうして分かったんだろう。誰かに聞いたのかな。色々思考が巡ったが、一番気になったのが彼女がローファーのまま走っているということだ。
1つの心配が的中するのではないかと、俺も琴音さんの方に駆け寄った。だって彼女はよく転ぶから。
案の定、彼女は何にもないところで蹴躓いて、前のめりに体が浮いた―――のを、俺はすかさずキャッチ。抱きとめることに成功。
「っ、セーフ!」
「あ、ありがとう…」
俺がそのまま笑い出すと、琴音さんもつられて笑い出した。耳元に柔らかい心地良い響きに心がジンと温かくなる。
「高尾くんてすごい。私が転ぶってわかってたみたいだね」
「わかるよ。だって琴音さん、しょっちゅー転んでるじゃん」
そんなことないよ!と慌てて抗議するその顔は赤くなっているに違いない。いいや、そんなことある。よく転んでるよ。
『いつも見てるから知ってるよ』――、喉から出そうになったが、その言葉は無理矢理飲み込んだ。
ついこの前だってずっこけてドリンクを床にぶちまけてた。ストレッチしてる宮地さんの足に引っかかって転んでたこともある。真ちゃんのラッキーアイテム・狸の信楽焼きにも毛躓いて爪先がジンジンすると痛がっていた。
試合以外でも意識している人のことがよ~く見えてしまうから、俺のホークアイも困りものだ。
体を支えている状態から、俺はおもむろに彼女の背中に手をまわしてギュッと抱きしめた。
自分で起こした大胆な行動に心臓が早鐘を打つ。相手の顔は見えないけれど、琴音さんは今どんな顔をしてるだろう。
声も出さずに抱きしめていても琴音さんは抵抗しなかった。それどころか、俺の背中に手をまわしてさすりはじめた。
「高尾くん?どうしたの?具合悪い?」
「…ちょっとな」
か細い声出して彼女の首筋に顔を埋めた。
心配そうな琴音さんの声に罪悪感を感じる。
ならば腕を解いて解放してやればいい。簡単なことなのにそれが出来ない。離したくない。ここまま自分のものにしたい衝動がこみ上げて、まるで子供だ。
体調が悪いと勘違いしているのをいいことに、俺はさらに腕に力を込めたら琴音さんは慌てていた。
何で俺のこと捜してたの?って耳元で囁くと、彼女は驚いて小さな肩を震わせながらも、俺の背中をさする温かい手はしっかりと触れたままでいてくれた。
「行きも帰りもずっと一人で自転車こいでくれたでしょ?だからすごく疲れちゃったかなって心配で…。私が『リアカーに乗ってみたい』なんて軽はずみなこと言ったから、謝りたくて…でも、乗ってみたかったのは本当で…行きも帰りもなんてやっぱり疲労で具合悪くなっちゃってるんだよね?」
琴音さんからの心からの謝罪が伝わってくる。ごめん、なら俺の方がたくさん言いたいのにさ。
しかもそんなことをわざわざ気にして、心配してくれて捜してくれてたなんて、マジか。
俺は改めて、この人には敵わないと腹を括った。
おどおどした声でそう告げられて、琴音さんの純粋さに俺のトゲトゲした心が丸くなっていくみたいだ。
腕の力を抜いて琴音さんから離れて対面すると、眉をハの字にして彼女は不安げな表情で俺の顔を覗き込んできた。
熱は?顔色見せて?気持ち悪かったり、目眩や頭痛はある?…なんて、矢継ぎ早に質問されて俺は力無く笑った。
「もう、大丈夫。元気もらって復活したから」
本気で心配させてしまったからこれ以上は罪悪感で抱きしめていられなかった。
優しい琴音さんと真逆で俺は、ずるい奴だな。はじめて抱きしめた彼女は、想像以上に柔らかくて、いいにおいがして、小さくて、守ってやりたくなった。
俺に守られるなんて彼女は望んでいないとしても、俺の気持ちは変わらないだろう。
目が合うと、琴音さんの瞳の色が夕陽に反射してゆらゆら揺れて、蜃気楼みたいだ。
いっそ、今『好きだ』と伝えたら、拒絶されてもいいという覚悟で一歩踏み出せたら、何かはじまるか。困らせるだけだろうか。
いつの間にか俺にとって、俺たちにとって彼女は大切な存在で、傷つけることや困らせることはタブーだ。
本当は今日だって、リアカーが揺れた時、真ちゃんに嫉妬するよりもまず琴音さんに怪我がなかったことに安心するべきだった。むしろ真ちゃんには、よくぞ彼女を支えてくれた!って感謝するべき場面で、俺はガキみたいに妬いたんだ。
右手をスッと上げて、俺より20cm以上低い位置にある彼女の頭にぽんと手を乗せた。
ニッと笑うと、彼女は安心してため息をついた。よかった~って、ほっと胸を撫で下ろしていた。
あと少し、俺がもう少し男を上げたらちゃんと言うよ。怖じ気づかないで、迷わず気持ちを伝えたい。
「リアカー、乗りたくなったらいつでも言って。琴音さんなら大歓迎!もちろん、じゃんけんなしで俺がチャリこぐからさ」
「ほんと?嬉しいなぁ」
「今度こそ、しっかり安全運転でお運びしますよ、お嬢様」
「ふふ、何それ、何のモノマネ?」
彼女が目を細めて、笑った。柔らかい風が二人の間を通り抜けた。夕暮れのにおい。
好きな人に、好きと伝えることがこんなに大変だってこと、ちょっと前の俺なら理解出来ないことだった。
だけど今なら解るよ。
大変だ。すっげぇ大変。こんなに自分が臆病者だって、生まれて初めて知った。
雲一つない空が橙に染まり、真っ赤な夕陽が沈んでゆくも眺めることはしない。絶対に目を逸らさない。
どんだけキレイな夕陽だろうと、俺は、目の前にいるかわいいひとの笑顔を目に焼き付けるので精一杯だ。
琴音さんは秀徳バスケ部のマネージャーの一人。初めて彼女を見た時、いわゆる『ビビッときた!』…ってのは無く。
来年の春には三年生は全員、もうここにはいないのだと淡々と思った。まぁ卒業しちゃうから当たり前だけど。
入部初日、新入部員は全員横一列に整列し、名前とクラス、中学からバスケをしていたやつはポジションを、バスケの経験がないやつは希望ポジションを、後は簡単な自己紹介を主将らの前で順番に行った。
そもそも、このバスケで有名な強豪校において『高校からバスケはじめます』なんて奴はほとんどいなかった。万が一にもカッコつけでバスケ部に入ろうなんて奴がいれば、1週間も保たずに練習のキツさで逃げ出すんだろう。
かく言う俺も油断は出来ない。
強豪校のバスケ部に入部したのは初めてなので、キッツイ練習でげぇげぇ吐く覚悟だけはしておこう。
俺の自己紹介の時、琴音さんはしっかりとこちらを見ていたので当たり前のように目が合ったことを今でも覚えている。
彼女の容姿はごく普通。
これといって特別目立つパーツもなく。
思ったことと言えば、“女子の中でも背が小さい方かな”ってぐらいだ。正直、その時はまさか俺がこの人に余裕なく恋をするなんて、失礼ながらほんの少しも想像もしてなかった。
秀徳バスケ部は部員数も多く、一軍から三軍まであり実力の差によってチームが分けられている。
全体練習はあるが、一軍は常にレギュラーとして試合に出ることが多いため、一軍だけに課せられた練習メニューも存在していた。
もちろん、二軍や三軍にもチャンスがある。定期的な実力テストやチームを分けて行われる練習試合の結果次第では一軍へ昇格することだってあるのだ。
多いのは部員だけじゃない。
うちの学校は特にバスケが有名だし人数も多いわけで、必然的にマネージャーも数人いる。そういや、俺と真ちゃんと同じクラスの女子でも一人マネージャーとして入部した子がいたなぁ。
三年の琴音さんは主将の大坪さんとの信頼関係もあってか、マネージャーの中でもリーダー的な存在だった。
大坪さんと木村さんと向かい合って話している姿を視界に捉えるも、とてもリーダーらしい雰囲気が出てるような人じゃないなぁと内心で苦笑する。
それに、今の彼女は強面の大男にちびっこが脅されている図に見えなくもない。
俺が思わず口元を歪ませると横目で見ていた真ちゃんに「何を笑っている。気持ち悪いのだよ」って睨まれちまった。
ほぼ、一軍専属のマネージャーのようになってしまっている琴音さんは、小さな身体に大きなパワーを秘めている。
よく転んだりとドジも多いが、それをカバーしてもお釣りが出るほど、日々バスケ部に貢献しているとに気づくのにそう時間はかからなかった。
選手一人一人をよく観察いるし、分析も難なくこなしていた。しかし、大坪さんから聞いた話では、琴音さんがバスケに携わったのは高校からだという。
――じゃあ、ルールも高校に入ってから覚えたってことか?その上、情報収集に分析?
軽々とこなしてるように見えたけれど、きっと努力をしてきたんだろう。
みんなから信頼されてれるのも納得がいく。しかし、意外だなぁ、って思わず口から漏れて俺は慌てて大坪さんを見た。バツが悪そうに口を覆っていると大坪さんは笑い出した。
「人一倍頑張ってるのにそんな素振り全然見せないんだ。それがアイツのいいところなんだけどな」
主将の言葉に頷いて俺は素直に感心していた。見た目も中身も平々凡々な彼女は、主将にここまで言わせる人物。
本当はどんな人なんだろう。
むくむくと湧いてくる興味は抑えきれず、俺はスタメンになってマネージャーと直接話す機会が多くなったのをいいことに、部活終わりには必ずと言っていいほど何かしら話題を作っては話しかけた。
はじめは敬語だったが、「高尾くんの敬語って、何かむず痒いね」と笑われてしまい、本人から許可を得て以来はフレンドリー話しかけるようになった。
部活以外の話題で雑談もするようになり、時には下校に誘えば快くOKしてくれた。
彼女についてだいぶ知ることができたと思う。大坪さんやスタメンのみんなにも信頼されているマネージャーは、今、俺の目の前でスッ転んでドリンクを床にぶちまけた彼女と同一人物。転んだ上に、フタまで開いてやんの。
ドジだな~。あー、床がびしょびしょ。
思わずプッと噴出しながらも俺が駆け寄って起こしてやると、彼女の鼻が赤くなっていた。転んだ際に鼻の頭を床に擦ってしまったらしい。
恥ずかしさを誤魔化すように笑ったので、俺はその赤っ鼻とヘラッとした表情が可笑しくてまた吹き出した。
――“どんな人なんだろ?”って、興味本位で近づいた。
それは、蓋を開けてみれば何てことない、マネージャーとしては敏腕ではあるが、時々やっぱり普通の女の子。
関わる機会が多くなって分かったことがある。琴音さんは、しっかり者の、でもそれと同じくらいドジな、ただの……、
ただの、かわいいひとだった。
知ってしまったのなら、気づいてしまったのなら、胸の奥が熱で疼いてそれは容赦なく日々加速していく。
止まらない感情に俺自身が虚を突かれた。改めて初対面のあの時のことを思い出す。
俺がこの人に余裕なく恋をするなんて失礼ながらほんの少しも想像もしてなかった。
だが実際はどうだ。そんなことは知らんとばかりに彼女は俺の想像を軽々と飛び越えていった。
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この気持ちは『恋』だと自覚した数日後、真っ青な青空の中、燦々とした太陽に照りつけられながら俺はチャリンコをこいでいた。
琴音さんと二人乗りで、彼女がサドルの真後ろにある荷台に乗って、俺のお腹に腕を回して掴まってくれているのならば何の文句もないが、状況は違った。
チャリンコだけでなく、その後ろにはリアカーが。リアカーには真ちゃんと…今日は琴音さんも乗っていた。
真ちゃんとのじゃんけんに当たり前のように負けた俺は、毎度のごとくチャリとリアカーをドッキングさせ、重力に負けじといつも以上に足に力を込めて自転車を前へ前へと進ませる。
ひたすら黙ったままこぎ続ける俺を気遣って、後ろから琴音さんが身を乗り出して話しかけてきた。やばい。ドキッとして振り返りそうになってしまう。
「ごめんね、高尾くん。次の信号から私がこぐよ?」
「あ、いや!慣れてっから全然ヘーキ!それに琴音さんにこがせるわけにはいかねーって」
「先輩、高尾にとってはいつものことなので大丈夫です」
「……真ちゃんあのさ、少しはさ、感謝ってもんをさ」
「何を言っている。じゃんけんに負けたお前がこぐのがルールなのだよ」
フン、と鼻を鳴らして真ちゃんは相変わらずの高慢な態度だ。
じゃんけんで真ちゃんを負かすことさえ出来れば、俺がリアカーに乗って真ちゃんにチャリをこいでもらえるのだが、今までに一度もじゃんけんに勝ったことがない。例のごとく、今日もだ。
一年のスタメン二人とマネージャーと、チャリアカーで何処へ向かっているのかというと、練習試合を見に他校へ向かっていた。
もちろん偵察も兼ねてだが、今日マネージャーが来たのはウチとの練習試合を直接申し込むためである。中谷監督が事前に連絡をしてくれてるとのことなので、琴音さんと詳細を打合せしに行くということらしい。
俺としては琴音さんと二人で行きたかったのだけど、大坪さんからの指令は、“マネージャーの同行者は緑間と高尾の二人で”、ということだった。
勘のいい大坪さんに俺の彼女への気持ちがバレていたとしたら、色々やりづらいなー。
二人をリアカーに乗せ、俺は安全運転でチャリをこぎ続ける。今回の目的場所は同じ都内の学校。もちろんチャリアカーで行ける範囲なのでこうして出動させているわけだが、さすがにいつもよりペダルが重い。
さっきから真ちゃんと琴音さんが何か話しているが声が小さくて聞こえない。
気になる!俺も混ぜろ!ってか真ちゃんズリぃよ!
声にできたらとっくにそうしてるが、琴音さんの前だとどうもらしくない自分になってしまう。言いたいことが言えないのは、言葉1つでもどんな意味を含んでるのか自分の中でわかってるからだ。
何か…オレ必死だな。
「きゃっ!」
琴音さんの悲鳴と、ガッタン!!という音がほぼ同時だった。
何が起きたのかすぐに分かったのは、この事象はよくあることだからだ。
リアカーの車輪が落ちていた石ころに乗り上げたせいで大きく揺れた。いつもは真ちゃん一人乗せているだけなので背後で文句を言われようとケラケラ笑って済ませてたんだけど、今日は違う。
琴音さんも乗ってるんだ。足ではペダルを、頭では別のコトを考えていたせいで道に落ちてる石にも気がつかなかったなんて。情けない。
「わりっ、大丈―――」
自転車を一度止めて慌てて振り返るも、最後の一文字は小声過ぎてどこかへ消えて溶けていったのは絶句したからだ。
琴音さんが真ちゃんの方に転げて抱きとめられている図。真ちゃんもしっかり彼女の背中に手を添えて支えていた。
二人とも一瞬の出来事でその状態で赤面しながら固まっていた。俺には、この光景を1秒でも長く見なくちゃいけないのは耐えられない。
自転車から降りて琴音さんの肩を掴んで真ちゃんから引っぺがすと、二人とも急に正気に戻ったようだった。
リアカーが石ころに乗り上げて揺れ、そのせいで彼女が真ちゃんの方に傾き真ちゃんがそれを反射的に抱えた。
すぐに気づいた俺が振り返り自転車を降りて二人を引っぺがすまで、その間、恐らく10秒以内の出来事。
実際に抱きしめ合ってるかのような状態の二人を目の当たりにしたのは3秒ぐらい。でも俺には苦痛すぎて30秒ぐらいに感じた。
「緑間くん、ごめんね」
「…いえ。俺は大丈夫です」
「真ちゃんやらしー!」
「黙れ高尾」
ジト目で口元をニヤニヤさせる俺を見て、真ちゃんは眉間に皺を寄せてこちらを見据える。挙げ句、誰のせいだと思ってる!って怒鳴られた。まぁ俺の運転不注意ですけど。
気の抜けた声で謝ってから、俺は再びチャリをこぎはじめた。
チャリをこぎながら視線は前方。道にある石を注意して見つつも、背後で気まずい空気が流れてる二人のことが気になって仕方なかった。
これをキッカケに二人の間で『なに』かがはじまろうものなら、俺は今日、自分を一生恨むだろう。
お願いだから何もはじまらないでくれ、なんて、内心で悲痛な叫び。
雑念が生まれては消えず蓄積していく。
あと少しで到着して練習試合を見るわけだけど、こんなに胸がざわざわしたまま、ちゃんと試合見れっかなぁ。
報告もしなきゃだからちゃんと見るコトは見るんだろうけど集中できるかどうか。
頭ではまた別のこと考えてしまいそうだなと懸念が過ぎる。
他校の練習試合を見てから、帰りも夕陽に照らされながら二人を乗せてチャリをこいだ。
さすがに疲労がハンパない。精神的ショックによるによるものかもしれない。
なんとなく、誰かに誉めて欲しい気持ちになった。
□ □ □
学校に戻ったらすぐに俺たちは大坪さんと監督へ報告をした。特徴のあるプレーや技を持つ選手もチェックしてきたので、それを元に監督がスタメンを組む予定だそうだ。
練習試合の日程と場所も決まったし、あとは当日を待つだけだ。
「御苦労だったな。もう練習に行っていいぞ」
俺と真ちゃんからの報告が終わると、中谷監督は頷いて今度は琴音さんの方に向き直った。少しでも早く練習時間をはじめられるようにと監督なりに気を遣ってくれたのだろう。部活の時間は過ぎたけれど、まだ個人練習で残ってるメンバーもいるし、この時間帯ならばコートも広く使える。
胸のもやもやを練習に打ち込んでかき消さなくては…って、ちゃんと、消えるんかな。
雑念まみれのまま練習して不注意で自分が怪我をしてみんなに迷惑かけたら、それこそ己のアホさに失望するだろう。
自分で言うのも何だけど、まぁ自分で言うしかないから言うけど、俺って結構世渡り上手。
誰とでも仲良くなれるわけじゃあないけど初対面でもある程度は打ち解けられるし、話をするのも好きだ。
自慢じゃないけど、生まれながらの器用さがあるんだと思う。ある程度何やっても器用にこなせちゃう。
…なーんてのは、自惚れだった。
本当に好きな子と仲良くなっても先輩・後輩止まり。動揺して嫉妬して、心のもやが晴れやしない。琴音さんへ、あと一歩踏み出すのがこんなにも恐い。俺のどこが、器用なんだよ。思い上がっていたつい最近までの自分が恥ずかしい。
ため息をつきながら部室で練習着に着替えていると、隣で着替えていた真ちゃんに鬱陶しがられた。
そのまま部室を後にして向かうは体育館…でなく、職員用の自転車置き場。
チャリとリアカーを部室のそばに置いたままだったので指定の場所まで戻しに向かった。
この自転車、私物ではなく学校で貸し出しているものだ。まずはリアカーを外して、自転車置き場にチャリだけ置いてからリアカーだけまた別の場所に持って行く。後始末でさえ真ちゃんは「じゃんけんに負けた奴の仕事だ」って冷たく言い放つもんだから、結局毎回俺が一人でやっている。
つーか、そのじゃんけんにどんだけの執行権があんだよ!って、今更ふて腐れても仕方ない。
まぁいいけどさ。いつかじゃんけんで俺が負かして、真ちゃんに絶対チャリをこがせてやる。
リアカーの上でごろ寝して漫画読んでやる。駅と学校3往復ぐらいさせてやる!
ブツブツと独り言ちていると、ふと、背後から駆け寄ってくる足音に振り向く。
歩幅の小さい小走りの音。
「高尾くーーん!」
小くて、ふわふわしたかわいいひとが俺に向かって走ってきている。琴音さんだった。慌ててどうしたんだろう。
それに、俺がここに居ることがどうして分かったんだろう。誰かに聞いたのかな。色々思考が巡ったが、一番気になったのが彼女がローファーのまま走っているということだ。
1つの心配が的中するのではないかと、俺も琴音さんの方に駆け寄った。だって彼女はよく転ぶから。
案の定、彼女は何にもないところで蹴躓いて、前のめりに体が浮いた―――のを、俺はすかさずキャッチ。抱きとめることに成功。
「っ、セーフ!」
「あ、ありがとう…」
俺がそのまま笑い出すと、琴音さんもつられて笑い出した。耳元に柔らかい心地良い響きに心がジンと温かくなる。
「高尾くんてすごい。私が転ぶってわかってたみたいだね」
「わかるよ。だって琴音さん、しょっちゅー転んでるじゃん」
そんなことないよ!と慌てて抗議するその顔は赤くなっているに違いない。いいや、そんなことある。よく転んでるよ。
『いつも見てるから知ってるよ』――、喉から出そうになったが、その言葉は無理矢理飲み込んだ。
ついこの前だってずっこけてドリンクを床にぶちまけてた。ストレッチしてる宮地さんの足に引っかかって転んでたこともある。真ちゃんのラッキーアイテム・狸の信楽焼きにも毛躓いて爪先がジンジンすると痛がっていた。
試合以外でも意識している人のことがよ~く見えてしまうから、俺のホークアイも困りものだ。
体を支えている状態から、俺はおもむろに彼女の背中に手をまわしてギュッと抱きしめた。
自分で起こした大胆な行動に心臓が早鐘を打つ。相手の顔は見えないけれど、琴音さんは今どんな顔をしてるだろう。
声も出さずに抱きしめていても琴音さんは抵抗しなかった。それどころか、俺の背中に手をまわしてさすりはじめた。
「高尾くん?どうしたの?具合悪い?」
「…ちょっとな」
か細い声出して彼女の首筋に顔を埋めた。
心配そうな琴音さんの声に罪悪感を感じる。
ならば腕を解いて解放してやればいい。簡単なことなのにそれが出来ない。離したくない。ここまま自分のものにしたい衝動がこみ上げて、まるで子供だ。
体調が悪いと勘違いしているのをいいことに、俺はさらに腕に力を込めたら琴音さんは慌てていた。
何で俺のこと捜してたの?って耳元で囁くと、彼女は驚いて小さな肩を震わせながらも、俺の背中をさする温かい手はしっかりと触れたままでいてくれた。
「行きも帰りもずっと一人で自転車こいでくれたでしょ?だからすごく疲れちゃったかなって心配で…。私が『リアカーに乗ってみたい』なんて軽はずみなこと言ったから、謝りたくて…でも、乗ってみたかったのは本当で…行きも帰りもなんてやっぱり疲労で具合悪くなっちゃってるんだよね?」
琴音さんからの心からの謝罪が伝わってくる。ごめん、なら俺の方がたくさん言いたいのにさ。
しかもそんなことをわざわざ気にして、心配してくれて捜してくれてたなんて、マジか。
俺は改めて、この人には敵わないと腹を括った。
おどおどした声でそう告げられて、琴音さんの純粋さに俺のトゲトゲした心が丸くなっていくみたいだ。
腕の力を抜いて琴音さんから離れて対面すると、眉をハの字にして彼女は不安げな表情で俺の顔を覗き込んできた。
熱は?顔色見せて?気持ち悪かったり、目眩や頭痛はある?…なんて、矢継ぎ早に質問されて俺は力無く笑った。
「もう、大丈夫。元気もらって復活したから」
本気で心配させてしまったからこれ以上は罪悪感で抱きしめていられなかった。
優しい琴音さんと真逆で俺は、ずるい奴だな。はじめて抱きしめた彼女は、想像以上に柔らかくて、いいにおいがして、小さくて、守ってやりたくなった。
俺に守られるなんて彼女は望んでいないとしても、俺の気持ちは変わらないだろう。
目が合うと、琴音さんの瞳の色が夕陽に反射してゆらゆら揺れて、蜃気楼みたいだ。
いっそ、今『好きだ』と伝えたら、拒絶されてもいいという覚悟で一歩踏み出せたら、何かはじまるか。困らせるだけだろうか。
いつの間にか俺にとって、俺たちにとって彼女は大切な存在で、傷つけることや困らせることはタブーだ。
本当は今日だって、リアカーが揺れた時、真ちゃんに嫉妬するよりもまず琴音さんに怪我がなかったことに安心するべきだった。むしろ真ちゃんには、よくぞ彼女を支えてくれた!って感謝するべき場面で、俺はガキみたいに妬いたんだ。
右手をスッと上げて、俺より20cm以上低い位置にある彼女の頭にぽんと手を乗せた。
ニッと笑うと、彼女は安心してため息をついた。よかった~って、ほっと胸を撫で下ろしていた。
あと少し、俺がもう少し男を上げたらちゃんと言うよ。怖じ気づかないで、迷わず気持ちを伝えたい。
「リアカー、乗りたくなったらいつでも言って。琴音さんなら大歓迎!もちろん、じゃんけんなしで俺がチャリこぐからさ」
「ほんと?嬉しいなぁ」
「今度こそ、しっかり安全運転でお運びしますよ、お嬢様」
「ふふ、何それ、何のモノマネ?」
彼女が目を細めて、笑った。柔らかい風が二人の間を通り抜けた。夕暮れのにおい。
好きな人に、好きと伝えることがこんなに大変だってこと、ちょっと前の俺なら理解出来ないことだった。
だけど今なら解るよ。
大変だ。すっげぇ大変。こんなに自分が臆病者だって、生まれて初めて知った。
雲一つない空が橙に染まり、真っ赤な夕陽が沈んでゆくも眺めることはしない。絶対に目を逸らさない。
どんだけキレイな夕陽だろうと、俺は、目の前にいるかわいいひとの笑顔を目に焼き付けるので精一杯だ。