短編・中編
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指切りげんまん
ガコン、と音を立ててボールがあらぬ方向へ弧を描いて飛んでいき、そのままコートに落ちる。フリースローラインから放ったシュートは、リングの端に当たって情けなく外れてしまった。
十投中、キレイにシュートが決まったのは九回。ラスト一投は、さすがに疲れているせいか、外してしまった。
少し休憩を挟もうと、俺はリングの外へ投げ出されたボールを放置したまま、水分補給をしにコートサイドの方へ歩き出した。
バスケ部が全員が帰った後、広い体育館に一人居残り練習をしてもう一時間くらいは経つ。一日を振り返れば、朝の自練、部での朝練、放課後の通常練習――これをこなした後の自主練だから、疲れたのも無理はないと自分に言い聞かせて、座り込んで壁にもたれ掛かる。
六月半ば、梅雨入りして湿気がひどくなってきた体育館はむわりとした空気で充満しているが、まだ耐えきれないほどの暑さじゃなかった。夏はもっと暑いのだから覚悟しないと。
今、何時だろ?
…クセで体育館の時計に目を向けるも、「修理中」と大きく書かれた紙が張られていた。あぁ、そうだった。壊れてたんだっけ。
タオルやドリンクと一緒に持ってきたスマホの待ち受けで時間を確認したら、ちょうど夜七時を回ったところだった。
いつもだったらこれぐらいの時間、スタメンの先輩らはもちろん、他の部員もチラホラと残って練習しているはずなのに、今日に限って早々に俺を置いてみんな帰ってしまった。
そんなら俺も今日は早目にあがろうかなぁなんて思っていた矢先、笠松先輩が「お前は今日は残って練習しろ」だなんて指示されて。
…これってイジメ?オーバーワークしすぎりゃそれはそれで怒るくせに。今日の俺の一日の練習量からして、居残り練習は明らかにオーバーワークじゃないんスかって言い返そうとしたら、何か企んでるような悪人の笑い方で、笠松先輩は「じゃあ軽いシュート練だけでいいから、とにかくお前は今日残れ」、だって。
何スか先輩、鬼スか…っと反抗したところでシバかれるに決まっているので、俺は言い返さずに言葉を飲み込んだ。それだけ主将からもエースとして期待されてるって思うことにしよう。そう思っていた方が気が楽だし、言いつけを素直に守る気にもなれるから。
ボトルを斜めに傾けて残りのドリンクを一気に飲み干せば、途端に清涼感が戻って汗もひいてきた。同時に、ふと、頭が冷静になる。
…俺の誕生日が、あと、五時間で今日が終わる。
――と、もう一度待ち受け画面に映る時間を一瞥して、改めて理解した。今日は朝から、クラスの女子や友達から祝ってもらったり、ファンの子からメールがきたり、部員らや、笠松先輩でさえ一言「おめでとう」とお祝いしてくれた。そういや何で俺の誕生日知ってるんだろう?って不思議に思ったけど、おそらく、気遣いに長けてる小堀先輩あたりがみんなに俺の誕生日が今日だと教えたのかもしれないと、勝手想像しておいた。特別プレゼントがなくたって、たった一言でも、メールだけでも、それはそれで純粋に嬉しい。
しかし笠松先輩…、何も誕生日に一人居残り練を指示しなくなっていいのにさ。
色んな人からおめでとうを言われても、おめでとうって一番言って欲しい人からは、言葉も、メールすら貰えていなかった。
俺の好きな人。琴音先輩からは。
きっと今日が終わるまでに何も来ないだろうなと、悲しいが腹を括った。今日どころではない。もしかしたら、明日も明後日もその後ずっと、何の連絡も来ないかも。…あぁ、何か悲しくなってきた。
「今頃、琴音先輩どうしてっかなー」
呟くも、唐突に虚しさが心に滲んできて、ハァァァ…、とわざとらしいため息をついてもこの広い体育館に今は一人。誰に気に掛けてもらえるでもなく。何故、こんなもやもやとした晴れない気持ちで誕生日当日を迎えることになってしまったのか、原因は分かっている。
先日、俺と琴音先輩は初めて口喧嘩をした。お互い連絡をしなくなったのもそれからだった。女の子相手にあんなに感情的に怒ったのは生まれて初めてだったから、あの時一番驚いてたのは自分自身だ。目を閉じて深く息を吐くと同時に、脳裏に琴音先輩の怒った表情が過ぎった。その後、一瞬、悲しそうな顔もしていた。
俺があんな顔、させちゃったんスね。
□ □ □
――三日前、部活が終わった後のこと。
久々に体育館にやって来てきた琴音先輩に俺の活躍を見せたくて、その日の午後練は特に張り切っていた。
休憩中にコソッと話しかけて一緒に帰る約束も取り付けて、今日はラッキーだなぁなんて喜んでいたのに――、まさか、彼女と並んで歩く帰り道に衝撃の事実を知ることになるなんて。
「森山先輩と映画?」
驚きのあまり自然と止まった足。俺より数歩先で立ち止まって振り返る彼女は、小首をかしげて逆に聞き返してきた。
さっきまでお互いの最近見た面白い映画の話をしてたはずだったけど。その話の流れから、何だって急に森山先輩の名前が?
「え、映画、行くんスか?二人で?」
「もう行ったんだよ。観てきたの」
俺にいつも癒しを与えてくれるはずの彼女の柔らかな声から、信じられないような残酷な言葉を浴びせられたかのようだ。
ショックで足が凍り付いたようにその場から動けないで、立ち止まってしまった。こんな感覚は初めてだった。
「その映画、気になって前々からチェックして見たかったやつでね。森山くんがたまたまペアチケットを知り合いからもらったらしくて――」
無料で見れちゃったからラッキーだったんだ、と悪びれもなく話す彼女が、突然、小悪魔に見えてきた。
その後、気にする様子もなく淡々と映画の面白かった内容について話す声も耳に入ってこない。沸々と心の奥底から沸き上がるもやもやとしたものに、自然と眉間に皺が寄った。
さすがに俺の異変に気づいて琴音先輩が俺の顔をおそるおそる覗き込んだ姿が目に映った。そこからは多分、怒り任せに声を荒げていたと思う。
何それ、何だよ、それ。彼氏でもない奴と二人でって…。俺だってまだ琴音先輩とちゃんとデートすらしたことないし、お茶だって、前は誘っても何回も断られたってのに。俺の気持ち知っててそんなことするんスか。
心の中の声が全て、言葉も選ばず気がついたら声になって出てた。
嫉妬で、自制心など取っ払われていたんだ。女の子にあんなに感情任せにぶつけたのは初めてだった。
帰り道、道の往来で、男女が対面して口喧嘩してる図なんて、人通りが少ない場所で本当によかったなと頭の片隅で安堵したことだけはハッキリと覚えている。
本当は悲しくて、これはただのヤキモチなんだってことも、自分では分かっていた。子供みたいなワガママ、きっと琴音先輩は許してくれるなんてどこか甘いことを考えていたんだが、現実はそうじゃなかった。
ひとしきり言い終えた俺は、ハッと息を飲んだ。
琴音先輩の眉がつり上がったのをはじめて見て、後には引けないぐらい怒らせてしまったのでは、と背中に冷や汗が伝った。
「森山くんは黄瀬くんもよく知ってる先輩でしょ。それに本当に映画を見に行っただけ。そこまで怒られるようなことしたつもりはないよ」
淡々とした口調で返してくるその内容は正論そのもの。
確かに、森山先輩と琴音先輩はテレビ番組や面白いと思う本とか、好きなものの傾向がわりと似ていることは前々から知っていた。ぐっ、と喉を詰まらせる俺に、構え直す暇は与えられることなく、トドメの一言が突き刺さる。
「でも、信じられなかったら信じてもらえなくてもいい。私、黄瀬くんの彼女じゃないから」
□ □ □
自分以外誰もいない体育館で、再びついたため息。ため息をついた分だけ幸せが逃げる、なんて迷信聞いたことあるけど、あながち間違いじゃなさそうだ。逃げてる。今、確実に俺から幸せが逃げてるっスよ。
――『私、黄瀬くんの彼女じゃないから』
最後の一言が耳の中でリフレインする。最後に見た琴音先輩の瞳は潤んでいた。引き留める間もなく彼女は踵を返して去っていってしまった。
そんで、その場に取り残された追いかけられなかったアホな俺。
言われた通り、俺と琴音先輩は付き合ってるわけじゃない。俺が一方的に好きなだけだ。その好意は会うたびに毎回上手くかわされ、それでも彼女は俺を気にかけてくれていた。放課後寄り道をしたり、気兼ねなく話が出来る親しい間柄になったけど、それ以上の関係じゃない。ただ正論を言い返されて追いかけることもできず、自分の子供っぽいヤキモチのせいで好きな子を傷つけてしまったんだと、家に帰って散々後悔した。
その後悔が結局、自分の誕生日当日まで引きずることになってしまっている未来が、あの時点で分かっていたのなら、琴音先輩をすぐに追いかけて謝るべきだったのに。でも、それが出来なかった。
他の男と映画に行くなんて。俺のことなんてちっとも気に留めてなかったんだなって、一途に想う自分の気持ちが適当に扱われた気がして、唐突に怒りが沸いてきたんだ。森山先輩はいい人だってのは俺だって知ってる。でも、“男”だ。琴音先輩と並んだら、カップルに見えても不思議じゃない。
寂しくなって、悲しくなって、妬いて、怒ってしまった。
あの場で気持ちを抑えられるほど、俺は大人じゃない。つまらない意地を張ってしまっかもしれないと反省するも、あの日のことを回想する度に俺は、やはり同じように嫉妬して怒鳴っていた気がするのだ。
けど、どうしたって、ムキにもなるよ。仕方ないじゃないか。
だって俺、自分が思ってたよりもずっと琴音先輩のこと好きなんだ。
三日間あったのに、メール一通送ることが出来なった。番号も知っているのに電話すら。もし、拒絶されたらと思うと、番号を押す指が躊躇った。覚悟が必要だった。
少し愛想を振りまけば、周囲の人間はすぐに俺を受け入れてくれる。そりゃ、部の先輩達は別だけども。基本、人に拒絶されることは慣れてないし、それが好きな人なら尚更、怖い。やれイケメンだやれモデルだともてはやされてきたツケが回ってきたのかもしれない。
ただ、今日は誕生日。今日が終わる前に、自分から自分へのプレゼントとして、勇気を出してちゃんと謝るんだ。琴音先輩、どうか俺を拒まないでと願う。らしくもなく、弱気にもなっている俺に、俺自身で渇を入れるしかないんだ。だってこんなに誰かを好きになる気持ち、滅多にないから。俺にとって唯一の人になって欲しいから、この感情を手放しちゃいけない。手放したらきっと、もっと後悔することになる。
「さて、と…」
ならば、今日の練習ノルマもサクッとこなして帰らないと。
天井に手を伸ばして思い切り背伸びをし、シュート練習を再開させようと立ち上がろうとした瞬間、タオルの上に乗せていたスマホが振動した。メールマークが点滅して、一通新着メールが届いたことを表している。
もしかして!…っと、期待のあまりすばやく指で画面をタッチして確認すると、『From:森山センパイ』という文字にガックリと項垂れた。件名が『黄瀬ハピバ』って書いてあるが…まさか、件名はツリで、本文は合コンのセッティングよろしく、とかじゃ、ないっスよね…?そこは空気を読んでよ森山先輩。
それでも一応メールの内容を確認すると、予想していた文面とは違う出だしで書かれていた。
≪笠松も巻き込んで、俺ら部員からの気遣いってことでそっちにプレゼント送ったからしっかり受け取れよ。
幸せのお裾分けとして、合コンセッティング待ってます≫
文末の合コンのお願いのところだけ敬語になっているあたり、森山先輩の必死感が伝わってきて思わず吹き出した。あの人、いつもそんなことで頭がいっぱいなのか?
プレゼントって、わざわざ自宅に郵送?って思考を巡らせている時、体育館の入り口の扉がゆっくりと開いた。もう部員全員帰ったはずだから、監督かな?
ガタリと音がした方を見ると、体育館に入ってきた人物は、まさに、“プレゼント”と森山先輩が比喩するに相応しい人物だった。
「琴音先輩…」
驚いてるはずなのに大きな声は出ず、信じられない光景を見ているようなか細い声で名前を呼んだ。疲れてるから、俺だけに見えてる幻想?そうだったら悲しい。
しかし、その人物はゆっくりと歩いて、体育館の壁際に座っていた俺の前までやって来た。これは、紛れもなく現実だ。
スッと俺が立ち上がると、俺より頭一個分以上小さい彼女は、視線を交わそうと首を上に傾けた。ただ目が合うだけで心が満たされていくようだった。拒絶されたらどうしようと不安になっていたのに。実際に会ってしまえば、純粋にまた会えたことに喜びを感じる。
言葉がすぐに出てこない。どうしたんだろう俺。こんなに自分がわかんなくなること、今までなかった。長い間見つめ合っているようで、実際はほんの十秒ぐらいだったのかも。
「「ごめん!」」ってお互い謝った声がハモってから、二人して苦笑した。三日間悩んで、一瞬で解決してしまったことに笑えてきた。
「あの時、ひどいこと言ってごめんなさい。私のが年上なのに怒ったりして…、すぐに謝れなくて…あの……」
語尾もだんだん小さくなって、頭を下げた琴音先輩の愛らしさに俺の口元は自然と緩んでしまう。ぽん、と頭に手を乗せて柔らかな髪を撫でると、彼女は顔を上げた。
「ごめんなさいするのは俺の方っスよ。俺が子供っぽいヤキモチやいただけ。この三日間、不安で不安で堪らなかった。拒絶されたらどうしようってそんなことばっか考えてた。ポジティブが俺の取り柄なのに、女々しいっスよね」
自嘲気味に笑う俺を見て、首を横に振って「そんなことないよ」と、琴音先輩は言ってくれた。
あぁ、よかった。本物だ。いつもの彼女だ。安堵で胸を撫で下ろした時、少し冷静さが戻った故に、気づいたことがある。
どうして琴音先輩はこのタイミングで体育館にやって来たんだろう。気になったので聞いてみれば、隠すことなく教えてくれた。
「森山くんからメールがきたの。『今なら体育館で一人残って練習してる』って。だから、謝るなら今行かないとって思って…。それに今日、どうしても伝えたかったから。遅くなっちゃったけど、お誕生日おめでとう」
琴音先輩は恥ずかしそうな笑顔を向けた。ついさっき仲直りしたばっかりだから照れもわかるけど、こっちにまで照れが伝染してきた。いつもより愛しい気持ちが倍になって、この年上の先輩が、より可愛く見えてしまう。
「かわいい…」
「えっ?」
「や、その、嬉しいっス!ありがと、琴音先輩」
もはや、声に出てしまっていた。彼女に驚かれてはじめて、自分の思ったことが自然に声になっていたことに焦り、俺は頭を掻いて誤魔化すも二人とも顔が紅くなってしまった。
顔に熱が昇る。冷たいドリンクを飲んで落ち着いた汗や体の火照りがまた戻ってきそうになる。恋をすると一喜一憂。まさに、俺の一喜一憂は、この人次第なんだなと改めて解った。森山先輩、気を遣って琴音先輩にもそんなメールを送っていたなんて。
そして、何故、俺以外の部員は早く帰っていったのかも気づいてしまった。森山先輩の根回しだろう。そしてこれが先輩達からの誕生日プレゼント…こんな気の利いたプレゼントないっスわ。一生に一度のお願いレベルのプレゼントだ。明日会ったら、存分にお礼を言わなくちゃ。
「でも、慌てて来たからせっかく誕生日なのに渡せるものがないんだ。ごめんね。プレゼント、家に置いてきちゃって……」
ガッカリした様子で息をついた彼女は、項垂れていた。
謝る必要なんてないのに。琴音先輩が伝えてくれるお祝いの一言が、俺にとって充分特別なものだからそれだけで嬉しい。
――でも、本当は心の底から望むものがある。
それを欲しいと願って、伝えてるなら今だ。
こんなシチュエーションで迷うワケがない。
「もし貰えるなら、」
うるさいぐらい心臓が早鐘を打ちはじめ、顔の熱は先程から引かないで同じ場所に留まっていた。手の中にじんわりと汗が滲むのがわかる。一気に押し寄せる緊張感に、先程ドリンクを飲んで潤したはずの喉がカラカラに乾いていく。
そうか、気持ちを真っ直ぐに素直に伝えるのってこんなに緊張するのか。自分から本気で告白するのがはじめてだから、怖い。
けど、どうなったって今、伝えないほうが後で後悔するから。勝負をかけるなら今しかない。
俺の一言で顔を上げ、琴音先輩は何かを察したように目を丸くしていた。至近距離で、彼女の瞳の中に、らしくもなく緊張で表情が強ばっている自分が写る。
あー、カッコ悪ィ。もっと、スマートに決められるものだと思っていたのに。今までだって好きだ好きだと好意を押しつけてきたはずなのに。全然、カッコつけらんない。そんな余裕ない。
「琴音先輩に、今貰えるプレゼントをねだっていいんなら『約束』が欲しい。指切りげんまんって、小指が離れたその時から琴音先輩は俺のカノジョになるって約束」
彼女の目前に握った右手を差し出して、俺は小指だけ立てた。瞬きをして俺の小指をジッと見つめる琴音先輩の頬も、俺と同じで紅い。リンゴみたいなほっぺた、かわいいな、美味しそうだなって思って、俺は静かに目を閉じる。
俺はしばらく目を閉じてるから、彼女は好きにしてくれていい。
YESなら小指を絡ませて、NOなら気を遣わずにこの場から立ち去ってくれていい。そういう選択肢を俺は投げたんだ。
期待値はどれほどか、なんて細かい事さえ分からないほど、緊張と胸の高鳴りで思考が鈍る。そのまま、五秒、十秒と経つごとに俺の心臓の鼓動がリズムを早めていく。
きっと俺、今、すげぇ不安そうに目を閉じてるんだろうな。
もう一人自分が居たら指さして笑いそうだ。何て顔してんだよ、って。
「……約束します。黄瀬くんの気持ち、しっかり受け止めたい」
消え入りそうな彼女の呟きに、手が少しだけ震えてしまったのだが、その震えは細い小指の感触によってピタリと治まった。
華奢な小指が、俺の小指にゆっくりと結ばれた。
その感触に、目を開けるとそこには泣きそうな笑顔になってる琴音先輩の顔。つられて俺も泣きそうになるがグッと堪えて、口角を上げた。嬉しいなら、ちゃんと笑わないといけないのに、頬に上手く力が入らなかった。嬉しいなんて通り越して、感動レベルかも。
俺は小指に力を入れてしっかりと彼女の小指と絡ませた。
ゆびきりげんまん。
「この小指を離したら俺たち、付き合う…スね。俺、琴音先輩が大好き。ずっと傍にいて欲しい」
生まれて初めての告白。シンプルにただ真っ直ぐに、有りっ丈の気持ちを込めたら、ちゃんと伝わった。俺の言葉に、彼女は微笑んで頷いた。右手は小指を結んだまま、左手の方で琴音先輩の頬を包み込むように触れると、すごくあたたかくて柔らかい。遠回りしてやっと、触れることが出来た。これは夢じゃないって教えてくれるみたいに、この感触が、熱が、指先から伝わってくる。
そして繋がった小指ごと引き寄せれば自然とほどけて、指切った、とばかりに、指切りげんまん、完了。
愛おしい気持ちが押し寄せて、このまま腕の中に閉じ込めたい衝動に駆られる。俺、練習後だし汗くさいかもだけど、ごめん。我慢はできない。申し訳なく思いつつも幸せが溢れて顔が笑ってしまう。
大事に大事に、確かめるように抱きしめた後、ずっと前からこうしたかったんだと打ち明けよう。何年経っても、俺は誕生日を迎える度に、今日の日のことを思い出すんだろう。晴れて結ばれたこの瞬間と、約束を。
ガコン、と音を立ててボールがあらぬ方向へ弧を描いて飛んでいき、そのままコートに落ちる。フリースローラインから放ったシュートは、リングの端に当たって情けなく外れてしまった。
十投中、キレイにシュートが決まったのは九回。ラスト一投は、さすがに疲れているせいか、外してしまった。
少し休憩を挟もうと、俺はリングの外へ投げ出されたボールを放置したまま、水分補給をしにコートサイドの方へ歩き出した。
バスケ部が全員が帰った後、広い体育館に一人居残り練習をしてもう一時間くらいは経つ。一日を振り返れば、朝の自練、部での朝練、放課後の通常練習――これをこなした後の自主練だから、疲れたのも無理はないと自分に言い聞かせて、座り込んで壁にもたれ掛かる。
六月半ば、梅雨入りして湿気がひどくなってきた体育館はむわりとした空気で充満しているが、まだ耐えきれないほどの暑さじゃなかった。夏はもっと暑いのだから覚悟しないと。
今、何時だろ?
…クセで体育館の時計に目を向けるも、「修理中」と大きく書かれた紙が張られていた。あぁ、そうだった。壊れてたんだっけ。
タオルやドリンクと一緒に持ってきたスマホの待ち受けで時間を確認したら、ちょうど夜七時を回ったところだった。
いつもだったらこれぐらいの時間、スタメンの先輩らはもちろん、他の部員もチラホラと残って練習しているはずなのに、今日に限って早々に俺を置いてみんな帰ってしまった。
そんなら俺も今日は早目にあがろうかなぁなんて思っていた矢先、笠松先輩が「お前は今日は残って練習しろ」だなんて指示されて。
…これってイジメ?オーバーワークしすぎりゃそれはそれで怒るくせに。今日の俺の一日の練習量からして、居残り練習は明らかにオーバーワークじゃないんスかって言い返そうとしたら、何か企んでるような悪人の笑い方で、笠松先輩は「じゃあ軽いシュート練だけでいいから、とにかくお前は今日残れ」、だって。
何スか先輩、鬼スか…っと反抗したところでシバかれるに決まっているので、俺は言い返さずに言葉を飲み込んだ。それだけ主将からもエースとして期待されてるって思うことにしよう。そう思っていた方が気が楽だし、言いつけを素直に守る気にもなれるから。
ボトルを斜めに傾けて残りのドリンクを一気に飲み干せば、途端に清涼感が戻って汗もひいてきた。同時に、ふと、頭が冷静になる。
…俺の誕生日が、あと、五時間で今日が終わる。
――と、もう一度待ち受け画面に映る時間を一瞥して、改めて理解した。今日は朝から、クラスの女子や友達から祝ってもらったり、ファンの子からメールがきたり、部員らや、笠松先輩でさえ一言「おめでとう」とお祝いしてくれた。そういや何で俺の誕生日知ってるんだろう?って不思議に思ったけど、おそらく、気遣いに長けてる小堀先輩あたりがみんなに俺の誕生日が今日だと教えたのかもしれないと、勝手想像しておいた。特別プレゼントがなくたって、たった一言でも、メールだけでも、それはそれで純粋に嬉しい。
しかし笠松先輩…、何も誕生日に一人居残り練を指示しなくなっていいのにさ。
色んな人からおめでとうを言われても、おめでとうって一番言って欲しい人からは、言葉も、メールすら貰えていなかった。
俺の好きな人。琴音先輩からは。
きっと今日が終わるまでに何も来ないだろうなと、悲しいが腹を括った。今日どころではない。もしかしたら、明日も明後日もその後ずっと、何の連絡も来ないかも。…あぁ、何か悲しくなってきた。
「今頃、琴音先輩どうしてっかなー」
呟くも、唐突に虚しさが心に滲んできて、ハァァァ…、とわざとらしいため息をついてもこの広い体育館に今は一人。誰に気に掛けてもらえるでもなく。何故、こんなもやもやとした晴れない気持ちで誕生日当日を迎えることになってしまったのか、原因は分かっている。
先日、俺と琴音先輩は初めて口喧嘩をした。お互い連絡をしなくなったのもそれからだった。女の子相手にあんなに感情的に怒ったのは生まれて初めてだったから、あの時一番驚いてたのは自分自身だ。目を閉じて深く息を吐くと同時に、脳裏に琴音先輩の怒った表情が過ぎった。その後、一瞬、悲しそうな顔もしていた。
俺があんな顔、させちゃったんスね。
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――三日前、部活が終わった後のこと。
久々に体育館にやって来てきた琴音先輩に俺の活躍を見せたくて、その日の午後練は特に張り切っていた。
休憩中にコソッと話しかけて一緒に帰る約束も取り付けて、今日はラッキーだなぁなんて喜んでいたのに――、まさか、彼女と並んで歩く帰り道に衝撃の事実を知ることになるなんて。
「森山先輩と映画?」
驚きのあまり自然と止まった足。俺より数歩先で立ち止まって振り返る彼女は、小首をかしげて逆に聞き返してきた。
さっきまでお互いの最近見た面白い映画の話をしてたはずだったけど。その話の流れから、何だって急に森山先輩の名前が?
「え、映画、行くんスか?二人で?」
「もう行ったんだよ。観てきたの」
俺にいつも癒しを与えてくれるはずの彼女の柔らかな声から、信じられないような残酷な言葉を浴びせられたかのようだ。
ショックで足が凍り付いたようにその場から動けないで、立ち止まってしまった。こんな感覚は初めてだった。
「その映画、気になって前々からチェックして見たかったやつでね。森山くんがたまたまペアチケットを知り合いからもらったらしくて――」
無料で見れちゃったからラッキーだったんだ、と悪びれもなく話す彼女が、突然、小悪魔に見えてきた。
その後、気にする様子もなく淡々と映画の面白かった内容について話す声も耳に入ってこない。沸々と心の奥底から沸き上がるもやもやとしたものに、自然と眉間に皺が寄った。
さすがに俺の異変に気づいて琴音先輩が俺の顔をおそるおそる覗き込んだ姿が目に映った。そこからは多分、怒り任せに声を荒げていたと思う。
何それ、何だよ、それ。彼氏でもない奴と二人でって…。俺だってまだ琴音先輩とちゃんとデートすらしたことないし、お茶だって、前は誘っても何回も断られたってのに。俺の気持ち知っててそんなことするんスか。
心の中の声が全て、言葉も選ばず気がついたら声になって出てた。
嫉妬で、自制心など取っ払われていたんだ。女の子にあんなに感情任せにぶつけたのは初めてだった。
帰り道、道の往来で、男女が対面して口喧嘩してる図なんて、人通りが少ない場所で本当によかったなと頭の片隅で安堵したことだけはハッキリと覚えている。
本当は悲しくて、これはただのヤキモチなんだってことも、自分では分かっていた。子供みたいなワガママ、きっと琴音先輩は許してくれるなんてどこか甘いことを考えていたんだが、現実はそうじゃなかった。
ひとしきり言い終えた俺は、ハッと息を飲んだ。
琴音先輩の眉がつり上がったのをはじめて見て、後には引けないぐらい怒らせてしまったのでは、と背中に冷や汗が伝った。
「森山くんは黄瀬くんもよく知ってる先輩でしょ。それに本当に映画を見に行っただけ。そこまで怒られるようなことしたつもりはないよ」
淡々とした口調で返してくるその内容は正論そのもの。
確かに、森山先輩と琴音先輩はテレビ番組や面白いと思う本とか、好きなものの傾向がわりと似ていることは前々から知っていた。ぐっ、と喉を詰まらせる俺に、構え直す暇は与えられることなく、トドメの一言が突き刺さる。
「でも、信じられなかったら信じてもらえなくてもいい。私、黄瀬くんの彼女じゃないから」
□ □ □
自分以外誰もいない体育館で、再びついたため息。ため息をついた分だけ幸せが逃げる、なんて迷信聞いたことあるけど、あながち間違いじゃなさそうだ。逃げてる。今、確実に俺から幸せが逃げてるっスよ。
――『私、黄瀬くんの彼女じゃないから』
最後の一言が耳の中でリフレインする。最後に見た琴音先輩の瞳は潤んでいた。引き留める間もなく彼女は踵を返して去っていってしまった。
そんで、その場に取り残された追いかけられなかったアホな俺。
言われた通り、俺と琴音先輩は付き合ってるわけじゃない。俺が一方的に好きなだけだ。その好意は会うたびに毎回上手くかわされ、それでも彼女は俺を気にかけてくれていた。放課後寄り道をしたり、気兼ねなく話が出来る親しい間柄になったけど、それ以上の関係じゃない。ただ正論を言い返されて追いかけることもできず、自分の子供っぽいヤキモチのせいで好きな子を傷つけてしまったんだと、家に帰って散々後悔した。
その後悔が結局、自分の誕生日当日まで引きずることになってしまっている未来が、あの時点で分かっていたのなら、琴音先輩をすぐに追いかけて謝るべきだったのに。でも、それが出来なかった。
他の男と映画に行くなんて。俺のことなんてちっとも気に留めてなかったんだなって、一途に想う自分の気持ちが適当に扱われた気がして、唐突に怒りが沸いてきたんだ。森山先輩はいい人だってのは俺だって知ってる。でも、“男”だ。琴音先輩と並んだら、カップルに見えても不思議じゃない。
寂しくなって、悲しくなって、妬いて、怒ってしまった。
あの場で気持ちを抑えられるほど、俺は大人じゃない。つまらない意地を張ってしまっかもしれないと反省するも、あの日のことを回想する度に俺は、やはり同じように嫉妬して怒鳴っていた気がするのだ。
けど、どうしたって、ムキにもなるよ。仕方ないじゃないか。
だって俺、自分が思ってたよりもずっと琴音先輩のこと好きなんだ。
三日間あったのに、メール一通送ることが出来なった。番号も知っているのに電話すら。もし、拒絶されたらと思うと、番号を押す指が躊躇った。覚悟が必要だった。
少し愛想を振りまけば、周囲の人間はすぐに俺を受け入れてくれる。そりゃ、部の先輩達は別だけども。基本、人に拒絶されることは慣れてないし、それが好きな人なら尚更、怖い。やれイケメンだやれモデルだともてはやされてきたツケが回ってきたのかもしれない。
ただ、今日は誕生日。今日が終わる前に、自分から自分へのプレゼントとして、勇気を出してちゃんと謝るんだ。琴音先輩、どうか俺を拒まないでと願う。らしくもなく、弱気にもなっている俺に、俺自身で渇を入れるしかないんだ。だってこんなに誰かを好きになる気持ち、滅多にないから。俺にとって唯一の人になって欲しいから、この感情を手放しちゃいけない。手放したらきっと、もっと後悔することになる。
「さて、と…」
ならば、今日の練習ノルマもサクッとこなして帰らないと。
天井に手を伸ばして思い切り背伸びをし、シュート練習を再開させようと立ち上がろうとした瞬間、タオルの上に乗せていたスマホが振動した。メールマークが点滅して、一通新着メールが届いたことを表している。
もしかして!…っと、期待のあまりすばやく指で画面をタッチして確認すると、『From:森山センパイ』という文字にガックリと項垂れた。件名が『黄瀬ハピバ』って書いてあるが…まさか、件名はツリで、本文は合コンのセッティングよろしく、とかじゃ、ないっスよね…?そこは空気を読んでよ森山先輩。
それでも一応メールの内容を確認すると、予想していた文面とは違う出だしで書かれていた。
≪笠松も巻き込んで、俺ら部員からの気遣いってことでそっちにプレゼント送ったからしっかり受け取れよ。
幸せのお裾分けとして、合コンセッティング待ってます≫
文末の合コンのお願いのところだけ敬語になっているあたり、森山先輩の必死感が伝わってきて思わず吹き出した。あの人、いつもそんなことで頭がいっぱいなのか?
プレゼントって、わざわざ自宅に郵送?って思考を巡らせている時、体育館の入り口の扉がゆっくりと開いた。もう部員全員帰ったはずだから、監督かな?
ガタリと音がした方を見ると、体育館に入ってきた人物は、まさに、“プレゼント”と森山先輩が比喩するに相応しい人物だった。
「琴音先輩…」
驚いてるはずなのに大きな声は出ず、信じられない光景を見ているようなか細い声で名前を呼んだ。疲れてるから、俺だけに見えてる幻想?そうだったら悲しい。
しかし、その人物はゆっくりと歩いて、体育館の壁際に座っていた俺の前までやって来た。これは、紛れもなく現実だ。
スッと俺が立ち上がると、俺より頭一個分以上小さい彼女は、視線を交わそうと首を上に傾けた。ただ目が合うだけで心が満たされていくようだった。拒絶されたらどうしようと不安になっていたのに。実際に会ってしまえば、純粋にまた会えたことに喜びを感じる。
言葉がすぐに出てこない。どうしたんだろう俺。こんなに自分がわかんなくなること、今までなかった。長い間見つめ合っているようで、実際はほんの十秒ぐらいだったのかも。
「「ごめん!」」ってお互い謝った声がハモってから、二人して苦笑した。三日間悩んで、一瞬で解決してしまったことに笑えてきた。
「あの時、ひどいこと言ってごめんなさい。私のが年上なのに怒ったりして…、すぐに謝れなくて…あの……」
語尾もだんだん小さくなって、頭を下げた琴音先輩の愛らしさに俺の口元は自然と緩んでしまう。ぽん、と頭に手を乗せて柔らかな髪を撫でると、彼女は顔を上げた。
「ごめんなさいするのは俺の方っスよ。俺が子供っぽいヤキモチやいただけ。この三日間、不安で不安で堪らなかった。拒絶されたらどうしようってそんなことばっか考えてた。ポジティブが俺の取り柄なのに、女々しいっスよね」
自嘲気味に笑う俺を見て、首を横に振って「そんなことないよ」と、琴音先輩は言ってくれた。
あぁ、よかった。本物だ。いつもの彼女だ。安堵で胸を撫で下ろした時、少し冷静さが戻った故に、気づいたことがある。
どうして琴音先輩はこのタイミングで体育館にやって来たんだろう。気になったので聞いてみれば、隠すことなく教えてくれた。
「森山くんからメールがきたの。『今なら体育館で一人残って練習してる』って。だから、謝るなら今行かないとって思って…。それに今日、どうしても伝えたかったから。遅くなっちゃったけど、お誕生日おめでとう」
琴音先輩は恥ずかしそうな笑顔を向けた。ついさっき仲直りしたばっかりだから照れもわかるけど、こっちにまで照れが伝染してきた。いつもより愛しい気持ちが倍になって、この年上の先輩が、より可愛く見えてしまう。
「かわいい…」
「えっ?」
「や、その、嬉しいっス!ありがと、琴音先輩」
もはや、声に出てしまっていた。彼女に驚かれてはじめて、自分の思ったことが自然に声になっていたことに焦り、俺は頭を掻いて誤魔化すも二人とも顔が紅くなってしまった。
顔に熱が昇る。冷たいドリンクを飲んで落ち着いた汗や体の火照りがまた戻ってきそうになる。恋をすると一喜一憂。まさに、俺の一喜一憂は、この人次第なんだなと改めて解った。森山先輩、気を遣って琴音先輩にもそんなメールを送っていたなんて。
そして、何故、俺以外の部員は早く帰っていったのかも気づいてしまった。森山先輩の根回しだろう。そしてこれが先輩達からの誕生日プレゼント…こんな気の利いたプレゼントないっスわ。一生に一度のお願いレベルのプレゼントだ。明日会ったら、存分にお礼を言わなくちゃ。
「でも、慌てて来たからせっかく誕生日なのに渡せるものがないんだ。ごめんね。プレゼント、家に置いてきちゃって……」
ガッカリした様子で息をついた彼女は、項垂れていた。
謝る必要なんてないのに。琴音先輩が伝えてくれるお祝いの一言が、俺にとって充分特別なものだからそれだけで嬉しい。
――でも、本当は心の底から望むものがある。
それを欲しいと願って、伝えてるなら今だ。
こんなシチュエーションで迷うワケがない。
「もし貰えるなら、」
うるさいぐらい心臓が早鐘を打ちはじめ、顔の熱は先程から引かないで同じ場所に留まっていた。手の中にじんわりと汗が滲むのがわかる。一気に押し寄せる緊張感に、先程ドリンクを飲んで潤したはずの喉がカラカラに乾いていく。
そうか、気持ちを真っ直ぐに素直に伝えるのってこんなに緊張するのか。自分から本気で告白するのがはじめてだから、怖い。
けど、どうなったって今、伝えないほうが後で後悔するから。勝負をかけるなら今しかない。
俺の一言で顔を上げ、琴音先輩は何かを察したように目を丸くしていた。至近距離で、彼女の瞳の中に、らしくもなく緊張で表情が強ばっている自分が写る。
あー、カッコ悪ィ。もっと、スマートに決められるものだと思っていたのに。今までだって好きだ好きだと好意を押しつけてきたはずなのに。全然、カッコつけらんない。そんな余裕ない。
「琴音先輩に、今貰えるプレゼントをねだっていいんなら『約束』が欲しい。指切りげんまんって、小指が離れたその時から琴音先輩は俺のカノジョになるって約束」
彼女の目前に握った右手を差し出して、俺は小指だけ立てた。瞬きをして俺の小指をジッと見つめる琴音先輩の頬も、俺と同じで紅い。リンゴみたいなほっぺた、かわいいな、美味しそうだなって思って、俺は静かに目を閉じる。
俺はしばらく目を閉じてるから、彼女は好きにしてくれていい。
YESなら小指を絡ませて、NOなら気を遣わずにこの場から立ち去ってくれていい。そういう選択肢を俺は投げたんだ。
期待値はどれほどか、なんて細かい事さえ分からないほど、緊張と胸の高鳴りで思考が鈍る。そのまま、五秒、十秒と経つごとに俺の心臓の鼓動がリズムを早めていく。
きっと俺、今、すげぇ不安そうに目を閉じてるんだろうな。
もう一人自分が居たら指さして笑いそうだ。何て顔してんだよ、って。
「……約束します。黄瀬くんの気持ち、しっかり受け止めたい」
消え入りそうな彼女の呟きに、手が少しだけ震えてしまったのだが、その震えは細い小指の感触によってピタリと治まった。
華奢な小指が、俺の小指にゆっくりと結ばれた。
その感触に、目を開けるとそこには泣きそうな笑顔になってる琴音先輩の顔。つられて俺も泣きそうになるがグッと堪えて、口角を上げた。嬉しいなら、ちゃんと笑わないといけないのに、頬に上手く力が入らなかった。嬉しいなんて通り越して、感動レベルかも。
俺は小指に力を入れてしっかりと彼女の小指と絡ませた。
ゆびきりげんまん。
「この小指を離したら俺たち、付き合う…スね。俺、琴音先輩が大好き。ずっと傍にいて欲しい」
生まれて初めての告白。シンプルにただ真っ直ぐに、有りっ丈の気持ちを込めたら、ちゃんと伝わった。俺の言葉に、彼女は微笑んで頷いた。右手は小指を結んだまま、左手の方で琴音先輩の頬を包み込むように触れると、すごくあたたかくて柔らかい。遠回りしてやっと、触れることが出来た。これは夢じゃないって教えてくれるみたいに、この感触が、熱が、指先から伝わってくる。
そして繋がった小指ごと引き寄せれば自然とほどけて、指切った、とばかりに、指切りげんまん、完了。
愛おしい気持ちが押し寄せて、このまま腕の中に閉じ込めたい衝動に駆られる。俺、練習後だし汗くさいかもだけど、ごめん。我慢はできない。申し訳なく思いつつも幸せが溢れて顔が笑ってしまう。
大事に大事に、確かめるように抱きしめた後、ずっと前からこうしたかったんだと打ち明けよう。何年経っても、俺は誕生日を迎える度に、今日の日のことを思い出すんだろう。晴れて結ばれたこの瞬間と、約束を。