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春に向かう足音
►黒尾・研磨
二階にある自室の出窓から、春のやわらかな光が差し込んで来る。
夏の強い日差しは暑く日中は遮光カーテンを閉め切り、秋の夕暮れは西日が部屋をオレンジ色に染め、空気が澄む冬の夜空には窓越しに星が輝いている。
昼夜問わず一年のうち何日も、私はここから同じ景色を眺めていた。
レースのカーテンを少しだけ開けて、賑やかな声が聴こえる方へと視線を向けると、斜め向かいに住む鉄くんがお友達と一緒に走って行くのが見えた。サッカーボールを小脇に抱えていたから、近所のグラウンドに向かっているのだろう。五月晴れの下、心地よい風が吹く中での外遊びが羨ましい。
空気を入れ替えようと窓を開けると、真向かいの家の二階に自室がある研磨くんの姿が見えた。彼の家は、鉄くんの家とはお隣さんだ。ふと目があったので手をひらひらと振ると、彼は右手にゲームソフトを持って見せてきた。
そして左手で手招き――『一緒にやる?』の合図。
「うん、やる!」
窓の縁に手をかけ声を張って研磨くんに伝えると、逸る気持ちを抑えて静かに一階の玄関まで降りて行った。
ここ数年で気管支喘息がひどくなった私は、激しい運動は医者から控えるように言われ、熱も出やすくなり体調が安定しない日が多くなっていた。疾患とまでいかないけど、もともと肺機能が弱いそうだ。ふと夜中に目が覚めて、水を飲もうかと階段を降りていく途中、リビングから漏れるシーリングライトの明かりが見えた辺りで足を止めた。“他の病気にかかっているんじゃないか”と、お父さんとお母さんの会話がリビングから聞こえてきたからだ。小学生の私でもその意味は理解出来て、両親の不安そうな声に心臓がキュッとなった。それ以上、何も知りたくなくて、水は飲まずに部屋へ戻ったのを覚えてる。
小学校の頃、体育の授業も半分以上は見学で過ごし、マラソン大会やプールの参加は難しく一度も経験することはなかった。体が弱いことで偏見があったりいじめられたりすることなかったけれど、そもそも毎日登校してないのだから友達と仲が深まることも困難だった。
だから、ご近所の繋がりで仲良くなった鉄くんと研磨くんの存在は、私にとって特別大切だった。
私より一つ年下の黒尾鉄朗くん、二つ年下の孤爪研磨くん。
親同士の歳が近いのもあってか、わりとすぐに打ち解けることが出来た。可愛い弟が出来たみたいで嬉しかったのを覚えてる。おとなしいけれど意思表示がハッキリしてる研磨くんより、人見知りで引っ込み思案だった鉄くんと仲良くなる方が、少しだけ時間がかかった。
仲良くなってからは、体調の良い時に鉄くんがバレーに誘って河川敷に連れ出してくれた。ひたすら簡単なトス上げを頼まれ、疲れたら芝生の上で一休みしながら練習風景を見守っていた。ただ見ているだけでも、外の空気を吸えることが気分転換になった。今日みたいに研磨くんからゲームをしようと誘ってくれる日は、家から数歩の真向かいのお家にお邪魔したりもした。
体調が悪い日は一日中、ベッドの上が私の居場所となった。
せいぜい教科書を予習の為に読んでおくか、文庫本を読むかぐらいしかすることがない。退屈な時間ばかり流れていった。
しばらく登校出来ない日が続いたある日、二人がお見舞いに来てお小遣いで買ったゼリーを差し入れしてくれた事があった。
『体調良い時、また一緒に遊んでくれる?』と、身体の怠さが残ったまま力なくそう伝えて微笑むと、鉄くんも研磨くんも頷いてくれた。私からの一方的なお願いを今でも時々叶えてくれる幼馴染には、感謝の気持ちばかりが募っていく。学校で友達は出来なかったけど、心強い幼馴染が傍にいてくれることで救われた。
毎日元気に小学校に通いたい、通える日が来ると思い続けていた。
今は無理でも中学生になったら――学校を休む度に、望んでいた未来。そんな未来は想像のまま終わりを告げたのは小学校卒業間近の頃で、両親の心配が的中してしまった。新たに病が発覚し、私は自宅から遠く離れた病院に併設された療養施設で数年過ごすことが決まった。嫌だと言ってもどうせ連れていかれるし、抵抗もしなかった。両親は、出来るだけの事をしたい、病気を治すために必要なことだから頑張ろうと励ましてくれた。頭では理解していても心が追いつかず、普通に学生生活を過ごすこともままならない現実に、私は目の前が真っ暗になっていった。
□ □ □
色々な手続きを経て療養施設から通える中学に入学したものの、登校できる日は週に数日、提出物だけは何とかこなす三年間。体調が良ければ夏休みや年末年始は条件付きで自宅に帰ることが出来たから、年に二回の長いお休みに鉄くんや研磨くんとも会うことが出来た。久々に会っても昔のように気さくに話しかけてくれる鉄くんと、相変わらず物静かなのに鉄くんへのツッコミは辛辣な研磨くん。身長も伸び、顔立ちもやや大人びていく男の子の姿に、密かに胸がドキドキしていた。夏に会えば鉄くんは日焼けした健康的な肌。色白で不健康に痩せてる私とは大違いだ。けれど、研磨くんは部活以外の時間は自宅で過ごすことが多いため、私と同じくらい色白だったからちょっと安心した。『色白仲間だね!』って喜んでたら困った顔をされた。そういえば療養施設に行くことが決まった時、研磨くんは一つ前の型の携帯ゲーム機を貸してくれた。離れた場所にいても、研磨くんとはたまにオンラインゲームを通じて遊んでいる。メール不精の鉄くんからは、二カ月に一通の頻度で近況が送られてきた。
体調のいい日は朝から登校し悪い日は登校出来ず、不安定な生活の中でも可能な限りの治療とリハビリを重ねていくいく――夏と冬の休みに自宅に帰れる期間だけを楽しみに、私は色褪せた毎日過ごしていた。ただ、今年は体調も安定傾向にあるおかげで、一年遅れで受験できること、高校からは自宅へ戻って暮らせるかもしれないことを両親から聞かされた時、この療養施設に来た意味は確かにあったのだと、喜びで胸がいっぱいになった。
□ □ □
中学三年の年末――“実家に戻ってるよ”と、もう何度目かになる定番のメールを送信したら、大晦日の夕方に鉄くんと研磨くんが家まで訪ねて来てくれた。こたつに入ってウトウトして過ごしていたので、突然のインターホンの音に一瞬、心臓が跳ねた。
「おじゃましまーす」
延びる語尾の癖が変わらない、ちょっと気だるげなその声に、つい口角が上がってしまう。ゆっくり立ち上がり玄関の方まで移動すると、既に頭一つ分ぐらい私と身長に差をつけた、高身長の鉄くんの大きな手が伸びて来て頭を雑に撫でた。撫でて押される度に1mmずつ縮んでいくような気がする。
「よ、元気かぁ」
「クロ、そのフリいつまでやるつもりなの」
「こいつが『はい元気です!』って返すまでだな」
「じゃあ、はい元気です!……これで今年で終わり?」
「あっさり俺の楽しみを奪うんじゃないの」
会いに来てくれた二人を前に自然と笑みが零れる。賑やかな声に気付いた両親も、『せっかくだから上がってもらったら?』とリビングから顔を出した。すると鉄くんは、「あの!」と、両親に聞こえるように声を張り上げた。
「神社が混む前にフライングで初詣に行く予定なんだけど、連れ出してもいいすか?」
意気揚々と告げたその言葉を聞いて、両親が苦笑しながら玄関へ移動してきた。鉄くんの堂々とした様子が微笑ましかったらしい。そして、お母さんは私にアイコンタクトを向けた。今日は大丈夫、呼吸の調子もいい。意図を込めて頷くと、お母さんは約束事を私達へ切り出した。
寄り道しないこと、体調が悪くなったらすぐに帰って来ること、何か起きたらすぐ連絡すること…この三つだ。
鉄くんは勿論了承し、研磨くんも無言のまま首を縦に振った。条件付きで一時帰宅させてもらっているので、夜遅く出歩いたり人混みの中には行けない。色々約束させてしまい申し訳ないけれど、それでも初詣に連れて行こうと考えてくれた事が何よりも嬉しかった。
・・・・・・
冬の夕暮れ、橙に染まる神社までの道は記憶の遥か彼方。
元気に駆け回っていた微かな幼少期の思い出。家から一番近い町の神社は、両親に何度か連れてってもらったことのある場所だ。
中学生になってから三度目の冬休みで、唐突に初詣なんて珍しいねと尋ねれば、『受験生だからな』と鉄くんからは明快答えが返ってきた。
恐らく部活で明け暮れていたであろう三年間、受験に向けて最後に頼るのは神様なんだろうか不思議に思ったけど、二人共そこまで学力が低くない事は知ってる。きっと私を連れ出す為の口実だ。
大晦日の夜になるれば出店が並び、この小さな神社にもたくさんの人が集まる光景が目に浮かぶ。石畳をゆっくり歩いて辿り着いた先で辺りを見渡せば、出店もチラホラとしか開いておらず人もまばらだ。人混みの中で体調が悪くなったらということを懸念して、夕方に誘いに来てくれた気遣いに心があたたかくなる。
参拝した後、授与所でお揃いの『合格祈願』のお守りを三つ買――じゃなく、頂いて、一つは自分へ、もう二つはそれぞれ鉄くんと研磨くんへ渡した。鉄くんは都立音駒高校を受けるらしい。年が明けたら入試本番まであっという間だ。
かく言う私も、彼と同じ音駒を受験する。本来は去年の二月に受験するはずだった。けれど、年末から体調を崩しその年の試験を受けることは叶わず、見送り、仕方のない事だがその後の一年間は浪人生になってしまった。リハビリ以外の時間は主に受験勉強に費やした分、筆記は余裕で合格する自信はある。次こそ、私も春から音駒の一年生だ。
「お互い頑張ろうね。私、勉強だけは鉄くんに勝つつもりだから」
「…え?俺ってバカ認定されてんの?」
「別にそーゆーわけじゃないけど。だって他に敵うものないし」
「時々、謎に張り合ってくんのね」
だって二人より年上なのに、遅れを取ってる自分がカッコ悪いから。周回遅れもいいとこなのに、追いつけないのに、それでも並んで話してる時ぐらいは対等で居たいなって気になってる。
本音を告げることはなしない代わりに、誤魔化すように笑顔を作った。
「ねぇこれ、俺も貰っていいの?まだ受験生じゃないよ」
「いいの、来年用に!研磨くんにもお揃い持ってて欲しいから」
「…そっか。わかった」
研磨くんはもう一度お守りを一瞥してから、コートのポケットに入れた。ほんの少しだけ頬が緩んでいたような気がした。
三人で同じものを持っているという事実が、どこの神社にでもあるような御守りを“特別なもの”に変える。
療養施設に行って地元を離れる事が決まった時にでも、何かお揃いのものを渡せればよかったと、今更になって後悔した。そしたらいつでも見える場所に飾って、二人を思い浮かべては元気を貰えたはずだったから。
日が沈み、空は群青へとグラデーションを成していく。この後、カフェでにも入ってもっとお話したいけど、『寄り道をしない』という約束がある。私がワガママを言ったところで、鉄くんは引っ張ってでも連れて帰るだろう。フライングで初詣できただけで充分幸せなのだから、これ以上は望めない。
「研磨くんも来年、音駒受験するんだよね?」
「うん。家から通えれば特にこだわりないし、クロもいるしそこでいいかなって」
「高校行ってもバレー続けるの?」
「うーん…」
「研磨ぁ、そこはやるって即答して欲しいんだが?」
私を両隣で挟むように歩いてるので、鉄くんが研磨くんの顔を怪訝な表情で覗き込めば必然的に私の目にも入る。元々目付きが鋭いのに睨みを利かせるとヤンキーみたいで、堪えきれずぷはっと吹き出してしまった。
「変顔?」
「いーや違う。勧誘」
「クロ、しつこい」
あからさまに嫌そうにしてる研磨くんに詰め寄っている鉄くん。彼に誘われてバレーを始めた研磨くんも、中学時代にセッターの才能を開花させたとのこと。ただ、こなすことは出来ても未だバレー自体の面白さは理解できないらしい。対して鉄くんはポジションはミドルブロッカー。ブロックが上手く出来ると痛快らしい。ここ数年で身長もグンと伸びた彼にピッタリなポジションだ。
「鉄くんの目標……前に全国って言ってたけど、全国って?どこでやるの?」
「全国ってのは“春の高校バレー”――通称“春高”のこと。夏のインハイと並ぶ大きな大会だ。毎年一月、千駄ヶ谷にある東京体育館で開催すんの」
「なるほど…、春高…」
藍色の空に浮かぶ雲を遠目に眺めながら、鉄くんは教えてくれた。予選を勝ち抜き、一握りの東京都の出場枠をかけて戦う。そこに至るまで、どれほどの経験を糧にどれほどの練習を積むのだろう。私の弱々しい体はさほど運動をしてこなかったし、バレーのことも詳しくないけれど、春高に出場するというのは並大抵でないってことぐらいは分かる。音駒高校バレー部は、かつて強い時代があったものの、現在は強豪校と呼ばれるレベルではないらしい。
「じゃあ私は、『東京体育館まで二人を応援しに行く』のを目標にしようかな」
完全に思い付きで声に出た言葉に、呆気に取られた鉄くんのポカンとした顔が目に映った。その意味を反芻して理解したのか、すぐに研磨くんからツッコミが入る。
「えっ、二人…?」
「あぁ、ふたり…か。ならやっぱ研磨には確実に音駒バレー部に入ってもらわないとだな」
「お願い研磨くん!」
「お願い研磨!」
「……」
「「研磨先生ーー!」」
「……はぁ、徒党組むのやめてよね。先生も却下」
ジト目で睨まれてもめげずに懇願する鉄くんと私に、研磨くんは溜息をついてあっさりと反論を諦めた。
大丈夫。きっとまた、チームメイトとして切磋琢磨するはずだ。幼馴染であり自分の良き理解者であり優秀なセッターを、鉄くんが手放すはずがない。
偶然、家が近所だというだけで繋がった幼馴染がここに居てくれること。この縁は神様がくれたこの上ない特別なプレゼントだ。
小学生の頃、頻繁に休む私の家までプリントを届けるのを嫌がったクラスメイトの代わりに、届けてくれたことがあった。具合が悪くなって外に出れない日に、お菓子が入った袋が玄関のドアにかかっていたこともあった。友達が少ない私のことを気にかけて遊んでくれて、今日だって初詣に連れってもらって――優しくしてもらってばかりだ。
だから今度こそ、同じ学校に通ってごく普通の学生生活を送りたい。バレー部の練習や試合を観に行ったり、一緒に学食を食べたり、興味のある部活に入部したり。勉強だけは常に上位を目指して、鉄くんと研磨くんが困ったときにいつでも教えてあげられるようになりたい。片思いでもいいから、高校生らしく恋もしてみたい。一番の目標『春高に出場する二人の応援に行くこと』――その前に達成したい小さな願い事が、目の前にたくさんあった。
声を弾ませながら指折り数えながらやりたいことを話してると、鉄くんも研磨くんも頷きながら聞いてくれる。真剣な助言をくれたり、苦笑しながら相槌を打ってくれる。これまで諦めてたことが、何だって出来るような気がした。
「他にはね、学校帰り寄り道したりカフェに行きたいって目標が――…………ぁっ、」
息を吸い込んだ途端、冷たい空気がヒュッと肺の中まで通り針で刺されたように痛み出した。背中から汗が吹き出し、言葉が続かず立ち止まる。
口を手で覆ったまま目を白黒させてる私の異変に、すぐに気付いた鉄くんは青ざめて頭を振った。
「抱えるぞ」
自身の冷静さ取り戻すように低い声で告げると同時に、逞しい両腕で私を慎重に抱きかかえ揺らさないように丁寧に持ち上げた。そしてすぐに足早に自宅へ向かい歩き出した。研磨くんは携帯でどこかへ――多分、私の親に連絡してるようだ。唇が震え、呼吸が荒くなるにつれて悲しい気持ちが押し寄せて、目から大粒の涙が零れていた。呼吸がおかしくなった時の対処法をすればいい。落ち着くのを待ちながら浅く息を吸って長く吐く。覚えていたはずなのに、動揺し心が乱れて対処が難しかった。
「大丈夫か?すぐ着くからな」
…なんでいまなの。どうしていまなの。
優しく声をかけられても、無駄な自問自答が頭の中でいっぱいになる。痛いし苦しい…でも泣いている理由はそうじゃない。自分の体調不良が、楽しい時間をいつも中断させてしまう。情けなくて悔しい。せっかく二人が来てくれたのに。涙が指を伝って、手の甲に流れてコートの襟元に染みを作っていった。
「ほらほら、泣くなって。これからはいつでも会えるでしょ」
「そうだよ。来年は嫌でもクロと学校で顔を合わせる事になるしね」
「“嫌でも”は余計だな?」
内心気が気でないはずなのに、私を安心させようと鉄くんと研磨くんはいつもの調子で会話を続けてくれた。余計に目の奥がジンと熱くなって、溢れてくる涙が止まらない。しっかりと抱えてくれた鉄くんの腕の温かさ、パーカーの袖で涙を拭ってくれた研磨くんの優しさが、心の隅まで沁みていく。
家に送り届けてもらった時には肺の痛みはだいぶ落ち着いていた。念のために、すぐに吸入薬を使用し呼吸器をつけ脈拍を計る必要があったので、ちゃんとお礼も伝えられないまま私はリビングのソファに横たわり、ぼんやりとした視界のまま二人の背中を見送った。一時帰宅は今日明日で終わりかも知れないと思うと、気持ちが暗くなった。
症状が完全に落ち着いた頃、気づいたらそのまま眠りに落ちて日付は元旦に変わっていた。ベッドの上からカーテンを開け外を覗いたら、空はもう真っ暗で街灯が家の前の道を照らしている。
目を閉じれば、瞼の裏側に映る黒いスクリーン。自分だけが予感する独特の閉塞感に、多分、私は今年も試験を受けられないだろうと悟った。回復に向かっていた体調は波打つグラフのように良い時と悪い時を繰り返す。その“良い時”が冬に強くなければ、受験シーズンは不利になる。呼吸器で新鮮な酸素を吸い込みながら、脈拍を整えていく。微かに腕だけ動かして、ポケットの中のお守りを祈るように握った。
□ □ □
窓から一日中、風に乗って散っていく桜を眺めていた春。燦々と照り付ける日差しと新緑の中、木陰を選んで散歩した夏。テレビに映る銀杏並木を見て秋が訪れたと知る秋。数年ぶりに東京にしんしんと雪が積もった、寒波到来の冬――
白く冷たい季節を越えて、再びあたたかな春が訪れるその年、私は十八歳になる。
二年遅れで音駒高校に入学し、これから新しい生活が始まろうとしていた。
・・・
・・・・・
・・・・・・
「入学おめでとう後輩達よ!ようこそ都立音駒高校へ!」
入学式を終えて、体育館から教室へ移動してる最中、突然聞き覚えのある声を背後から浴びた。振り返りざまに仁王立ちした鉄くんが現れ、その横にガッシリと腕を掴まれてる研磨くんも居る。どうやら少し前に捕まっていたようだ。
「クロの先輩面が新鮮だね」
「先輩面じゃなく先輩な?つーか、学年的には中学の頃から先輩だからな!?」
「…はいはい」
「えっ、鉄くんわざわざ待ち伏せしてたの?二年生は今日お休みだよね?」
「授業休みでも部活があるんですゥー。人を暇人みたいに言うのやめてくんない?」
唇を尖らせて拗ねてるのが可愛らしくて、思わず小さく笑いが漏れた。最後に会った時よりも背が伸びて、体型もガッシリしてる。さらに頼もしくなった感じだ。きっと来年はバレー部キャプテンかな。しっかり者だしチームをまとめる素質があると思う。
「研磨くんと同じクラスになれてよかったぁ。これから同じ一年生としてよろしくね」
「うん、よろしく」
「年齢的にはコイツだって先輩だけどな」
「ふふ、童顔だから大丈夫。溶け込めると思う」
「確かに、年上には見えないかも」
「…にしても自分で言うか?」
「心身ともに健康になったからにはポジティブに行かないとね。今度こそ…、『はい元気です!』」
「おー、元気でよろしい!研磨は?」
「……眠いし帰りたいです」
「やりなおーし!」
アハハと声を立てて笑っても、空気を思いきり吸い込んでも、もう大丈夫。
三人で初詣に行った翌年、思い切って療養施設を変えて体力をつけるリハビリ方法も取り入れたら、奇跡的にみるみる体調が良くなっていったこの一年。お医者さんの難しい話はよくわからなかったけれど、要するに奇跡的に治療法が体に合っていて体内の悪い部分が改善されたらしい。言い過ぎかも知れないけれど、本当に生まれ変わったみたいに体が軽くなった。受験前後も咳は落ち着いて、体力もついたから小走りぐらいは出来るようになった。それでも、他の人から見たら底辺の体力だし、少しの運動で疲れてしまうけれど、無理なく高校生活は過ごせる現実に幸せを噛み締めてる。二年遅れでやっと、スタートラインに立ってるんだ。入学式に出席して感極まって泣きそうになってたのは、私と両親ぐらいだろう。
「一人で東京体育館に行けるぐらい元気になったよ」
目を細めて笑った視線の先に、大切な二人が私を見守ってくれている。離れていても変わらずに、私を元気付けてくれた。気にかけてくれた。
感謝してもし足りない気持ちは、どうしたらいいのだろう。何をしたら恩を返せるの?自分に問いかけても答えはわからない。だって、返しきれるわけもない。もらったものが大きすぎるから。返せるものと言えば、出来る限りの応援しかない。
私は唇を薄く開いて、肺いっぱいに春の香りの空気を吸い込んだ。
「だから、私を春高に連れてって」
渡り廊下にふわりと吹いた風は、桜の花弁をいくつも攫って舞い上がり、言葉を遠くまで乗せて空高くへと昇っていく。
顔を見合わせ、二人は目を丸くして私を見つめ返した。数秒後、研磨くんはふぅっと溜息をついて、鉄くんは口の端を吊り上げ八重歯を見せてニヤリと笑った。
「簡単に言ってくれますねぇ」
「…まぁ、楽な道のりじゃないよね」
「いいからいいから、指切りげんまん!」
肘を上げ、目の前にかざすように右手の小指を立てて見せると、骨ばった大きな手と、爪のきれいな色白な手が渋々ながらに伸びてきて、三人の小指が交差した。ぎゅっとしっかり絡ませて、指切りげんまん。
輝く夢の舞台まで、会いに行けると信じてる。
►黒尾・研磨
二階にある自室の出窓から、春のやわらかな光が差し込んで来る。
夏の強い日差しは暑く日中は遮光カーテンを閉め切り、秋の夕暮れは西日が部屋をオレンジ色に染め、空気が澄む冬の夜空には窓越しに星が輝いている。
昼夜問わず一年のうち何日も、私はここから同じ景色を眺めていた。
レースのカーテンを少しだけ開けて、賑やかな声が聴こえる方へと視線を向けると、斜め向かいに住む鉄くんがお友達と一緒に走って行くのが見えた。サッカーボールを小脇に抱えていたから、近所のグラウンドに向かっているのだろう。五月晴れの下、心地よい風が吹く中での外遊びが羨ましい。
空気を入れ替えようと窓を開けると、真向かいの家の二階に自室がある研磨くんの姿が見えた。彼の家は、鉄くんの家とはお隣さんだ。ふと目があったので手をひらひらと振ると、彼は右手にゲームソフトを持って見せてきた。
そして左手で手招き――『一緒にやる?』の合図。
「うん、やる!」
窓の縁に手をかけ声を張って研磨くんに伝えると、逸る気持ちを抑えて静かに一階の玄関まで降りて行った。
ここ数年で気管支喘息がひどくなった私は、激しい運動は医者から控えるように言われ、熱も出やすくなり体調が安定しない日が多くなっていた。疾患とまでいかないけど、もともと肺機能が弱いそうだ。ふと夜中に目が覚めて、水を飲もうかと階段を降りていく途中、リビングから漏れるシーリングライトの明かりが見えた辺りで足を止めた。“他の病気にかかっているんじゃないか”と、お父さんとお母さんの会話がリビングから聞こえてきたからだ。小学生の私でもその意味は理解出来て、両親の不安そうな声に心臓がキュッとなった。それ以上、何も知りたくなくて、水は飲まずに部屋へ戻ったのを覚えてる。
小学校の頃、体育の授業も半分以上は見学で過ごし、マラソン大会やプールの参加は難しく一度も経験することはなかった。体が弱いことで偏見があったりいじめられたりすることなかったけれど、そもそも毎日登校してないのだから友達と仲が深まることも困難だった。
だから、ご近所の繋がりで仲良くなった鉄くんと研磨くんの存在は、私にとって特別大切だった。
私より一つ年下の黒尾鉄朗くん、二つ年下の孤爪研磨くん。
親同士の歳が近いのもあってか、わりとすぐに打ち解けることが出来た。可愛い弟が出来たみたいで嬉しかったのを覚えてる。おとなしいけれど意思表示がハッキリしてる研磨くんより、人見知りで引っ込み思案だった鉄くんと仲良くなる方が、少しだけ時間がかかった。
仲良くなってからは、体調の良い時に鉄くんがバレーに誘って河川敷に連れ出してくれた。ひたすら簡単なトス上げを頼まれ、疲れたら芝生の上で一休みしながら練習風景を見守っていた。ただ見ているだけでも、外の空気を吸えることが気分転換になった。今日みたいに研磨くんからゲームをしようと誘ってくれる日は、家から数歩の真向かいのお家にお邪魔したりもした。
体調が悪い日は一日中、ベッドの上が私の居場所となった。
せいぜい教科書を予習の為に読んでおくか、文庫本を読むかぐらいしかすることがない。退屈な時間ばかり流れていった。
しばらく登校出来ない日が続いたある日、二人がお見舞いに来てお小遣いで買ったゼリーを差し入れしてくれた事があった。
『体調良い時、また一緒に遊んでくれる?』と、身体の怠さが残ったまま力なくそう伝えて微笑むと、鉄くんも研磨くんも頷いてくれた。私からの一方的なお願いを今でも時々叶えてくれる幼馴染には、感謝の気持ちばかりが募っていく。学校で友達は出来なかったけど、心強い幼馴染が傍にいてくれることで救われた。
毎日元気に小学校に通いたい、通える日が来ると思い続けていた。
今は無理でも中学生になったら――学校を休む度に、望んでいた未来。そんな未来は想像のまま終わりを告げたのは小学校卒業間近の頃で、両親の心配が的中してしまった。新たに病が発覚し、私は自宅から遠く離れた病院に併設された療養施設で数年過ごすことが決まった。嫌だと言ってもどうせ連れていかれるし、抵抗もしなかった。両親は、出来るだけの事をしたい、病気を治すために必要なことだから頑張ろうと励ましてくれた。頭では理解していても心が追いつかず、普通に学生生活を過ごすこともままならない現実に、私は目の前が真っ暗になっていった。
□ □ □
色々な手続きを経て療養施設から通える中学に入学したものの、登校できる日は週に数日、提出物だけは何とかこなす三年間。体調が良ければ夏休みや年末年始は条件付きで自宅に帰ることが出来たから、年に二回の長いお休みに鉄くんや研磨くんとも会うことが出来た。久々に会っても昔のように気さくに話しかけてくれる鉄くんと、相変わらず物静かなのに鉄くんへのツッコミは辛辣な研磨くん。身長も伸び、顔立ちもやや大人びていく男の子の姿に、密かに胸がドキドキしていた。夏に会えば鉄くんは日焼けした健康的な肌。色白で不健康に痩せてる私とは大違いだ。けれど、研磨くんは部活以外の時間は自宅で過ごすことが多いため、私と同じくらい色白だったからちょっと安心した。『色白仲間だね!』って喜んでたら困った顔をされた。そういえば療養施設に行くことが決まった時、研磨くんは一つ前の型の携帯ゲーム機を貸してくれた。離れた場所にいても、研磨くんとはたまにオンラインゲームを通じて遊んでいる。メール不精の鉄くんからは、二カ月に一通の頻度で近況が送られてきた。
体調のいい日は朝から登校し悪い日は登校出来ず、不安定な生活の中でも可能な限りの治療とリハビリを重ねていくいく――夏と冬の休みに自宅に帰れる期間だけを楽しみに、私は色褪せた毎日過ごしていた。ただ、今年は体調も安定傾向にあるおかげで、一年遅れで受験できること、高校からは自宅へ戻って暮らせるかもしれないことを両親から聞かされた時、この療養施設に来た意味は確かにあったのだと、喜びで胸がいっぱいになった。
□ □ □
中学三年の年末――“実家に戻ってるよ”と、もう何度目かになる定番のメールを送信したら、大晦日の夕方に鉄くんと研磨くんが家まで訪ねて来てくれた。こたつに入ってウトウトして過ごしていたので、突然のインターホンの音に一瞬、心臓が跳ねた。
「おじゃましまーす」
延びる語尾の癖が変わらない、ちょっと気だるげなその声に、つい口角が上がってしまう。ゆっくり立ち上がり玄関の方まで移動すると、既に頭一つ分ぐらい私と身長に差をつけた、高身長の鉄くんの大きな手が伸びて来て頭を雑に撫でた。撫でて押される度に1mmずつ縮んでいくような気がする。
「よ、元気かぁ」
「クロ、そのフリいつまでやるつもりなの」
「こいつが『はい元気です!』って返すまでだな」
「じゃあ、はい元気です!……これで今年で終わり?」
「あっさり俺の楽しみを奪うんじゃないの」
会いに来てくれた二人を前に自然と笑みが零れる。賑やかな声に気付いた両親も、『せっかくだから上がってもらったら?』とリビングから顔を出した。すると鉄くんは、「あの!」と、両親に聞こえるように声を張り上げた。
「神社が混む前にフライングで初詣に行く予定なんだけど、連れ出してもいいすか?」
意気揚々と告げたその言葉を聞いて、両親が苦笑しながら玄関へ移動してきた。鉄くんの堂々とした様子が微笑ましかったらしい。そして、お母さんは私にアイコンタクトを向けた。今日は大丈夫、呼吸の調子もいい。意図を込めて頷くと、お母さんは約束事を私達へ切り出した。
寄り道しないこと、体調が悪くなったらすぐに帰って来ること、何か起きたらすぐ連絡すること…この三つだ。
鉄くんは勿論了承し、研磨くんも無言のまま首を縦に振った。条件付きで一時帰宅させてもらっているので、夜遅く出歩いたり人混みの中には行けない。色々約束させてしまい申し訳ないけれど、それでも初詣に連れて行こうと考えてくれた事が何よりも嬉しかった。
・・・・・・
冬の夕暮れ、橙に染まる神社までの道は記憶の遥か彼方。
元気に駆け回っていた微かな幼少期の思い出。家から一番近い町の神社は、両親に何度か連れてってもらったことのある場所だ。
中学生になってから三度目の冬休みで、唐突に初詣なんて珍しいねと尋ねれば、『受験生だからな』と鉄くんからは明快答えが返ってきた。
恐らく部活で明け暮れていたであろう三年間、受験に向けて最後に頼るのは神様なんだろうか不思議に思ったけど、二人共そこまで学力が低くない事は知ってる。きっと私を連れ出す為の口実だ。
大晦日の夜になるれば出店が並び、この小さな神社にもたくさんの人が集まる光景が目に浮かぶ。石畳をゆっくり歩いて辿り着いた先で辺りを見渡せば、出店もチラホラとしか開いておらず人もまばらだ。人混みの中で体調が悪くなったらということを懸念して、夕方に誘いに来てくれた気遣いに心があたたかくなる。
参拝した後、授与所でお揃いの『合格祈願』のお守りを三つ買――じゃなく、頂いて、一つは自分へ、もう二つはそれぞれ鉄くんと研磨くんへ渡した。鉄くんは都立音駒高校を受けるらしい。年が明けたら入試本番まであっという間だ。
かく言う私も、彼と同じ音駒を受験する。本来は去年の二月に受験するはずだった。けれど、年末から体調を崩しその年の試験を受けることは叶わず、見送り、仕方のない事だがその後の一年間は浪人生になってしまった。リハビリ以外の時間は主に受験勉強に費やした分、筆記は余裕で合格する自信はある。次こそ、私も春から音駒の一年生だ。
「お互い頑張ろうね。私、勉強だけは鉄くんに勝つつもりだから」
「…え?俺ってバカ認定されてんの?」
「別にそーゆーわけじゃないけど。だって他に敵うものないし」
「時々、謎に張り合ってくんのね」
だって二人より年上なのに、遅れを取ってる自分がカッコ悪いから。周回遅れもいいとこなのに、追いつけないのに、それでも並んで話してる時ぐらいは対等で居たいなって気になってる。
本音を告げることはなしない代わりに、誤魔化すように笑顔を作った。
「ねぇこれ、俺も貰っていいの?まだ受験生じゃないよ」
「いいの、来年用に!研磨くんにもお揃い持ってて欲しいから」
「…そっか。わかった」
研磨くんはもう一度お守りを一瞥してから、コートのポケットに入れた。ほんの少しだけ頬が緩んでいたような気がした。
三人で同じものを持っているという事実が、どこの神社にでもあるような御守りを“特別なもの”に変える。
療養施設に行って地元を離れる事が決まった時にでも、何かお揃いのものを渡せればよかったと、今更になって後悔した。そしたらいつでも見える場所に飾って、二人を思い浮かべては元気を貰えたはずだったから。
日が沈み、空は群青へとグラデーションを成していく。この後、カフェでにも入ってもっとお話したいけど、『寄り道をしない』という約束がある。私がワガママを言ったところで、鉄くんは引っ張ってでも連れて帰るだろう。フライングで初詣できただけで充分幸せなのだから、これ以上は望めない。
「研磨くんも来年、音駒受験するんだよね?」
「うん。家から通えれば特にこだわりないし、クロもいるしそこでいいかなって」
「高校行ってもバレー続けるの?」
「うーん…」
「研磨ぁ、そこはやるって即答して欲しいんだが?」
私を両隣で挟むように歩いてるので、鉄くんが研磨くんの顔を怪訝な表情で覗き込めば必然的に私の目にも入る。元々目付きが鋭いのに睨みを利かせるとヤンキーみたいで、堪えきれずぷはっと吹き出してしまった。
「変顔?」
「いーや違う。勧誘」
「クロ、しつこい」
あからさまに嫌そうにしてる研磨くんに詰め寄っている鉄くん。彼に誘われてバレーを始めた研磨くんも、中学時代にセッターの才能を開花させたとのこと。ただ、こなすことは出来ても未だバレー自体の面白さは理解できないらしい。対して鉄くんはポジションはミドルブロッカー。ブロックが上手く出来ると痛快らしい。ここ数年で身長もグンと伸びた彼にピッタリなポジションだ。
「鉄くんの目標……前に全国って言ってたけど、全国って?どこでやるの?」
「全国ってのは“春の高校バレー”――通称“春高”のこと。夏のインハイと並ぶ大きな大会だ。毎年一月、千駄ヶ谷にある東京体育館で開催すんの」
「なるほど…、春高…」
藍色の空に浮かぶ雲を遠目に眺めながら、鉄くんは教えてくれた。予選を勝ち抜き、一握りの東京都の出場枠をかけて戦う。そこに至るまで、どれほどの経験を糧にどれほどの練習を積むのだろう。私の弱々しい体はさほど運動をしてこなかったし、バレーのことも詳しくないけれど、春高に出場するというのは並大抵でないってことぐらいは分かる。音駒高校バレー部は、かつて強い時代があったものの、現在は強豪校と呼ばれるレベルではないらしい。
「じゃあ私は、『東京体育館まで二人を応援しに行く』のを目標にしようかな」
完全に思い付きで声に出た言葉に、呆気に取られた鉄くんのポカンとした顔が目に映った。その意味を反芻して理解したのか、すぐに研磨くんからツッコミが入る。
「えっ、二人…?」
「あぁ、ふたり…か。ならやっぱ研磨には確実に音駒バレー部に入ってもらわないとだな」
「お願い研磨くん!」
「お願い研磨!」
「……」
「「研磨先生ーー!」」
「……はぁ、徒党組むのやめてよね。先生も却下」
ジト目で睨まれてもめげずに懇願する鉄くんと私に、研磨くんは溜息をついてあっさりと反論を諦めた。
大丈夫。きっとまた、チームメイトとして切磋琢磨するはずだ。幼馴染であり自分の良き理解者であり優秀なセッターを、鉄くんが手放すはずがない。
偶然、家が近所だというだけで繋がった幼馴染がここに居てくれること。この縁は神様がくれたこの上ない特別なプレゼントだ。
小学生の頃、頻繁に休む私の家までプリントを届けるのを嫌がったクラスメイトの代わりに、届けてくれたことがあった。具合が悪くなって外に出れない日に、お菓子が入った袋が玄関のドアにかかっていたこともあった。友達が少ない私のことを気にかけて遊んでくれて、今日だって初詣に連れってもらって――優しくしてもらってばかりだ。
だから今度こそ、同じ学校に通ってごく普通の学生生活を送りたい。バレー部の練習や試合を観に行ったり、一緒に学食を食べたり、興味のある部活に入部したり。勉強だけは常に上位を目指して、鉄くんと研磨くんが困ったときにいつでも教えてあげられるようになりたい。片思いでもいいから、高校生らしく恋もしてみたい。一番の目標『春高に出場する二人の応援に行くこと』――その前に達成したい小さな願い事が、目の前にたくさんあった。
声を弾ませながら指折り数えながらやりたいことを話してると、鉄くんも研磨くんも頷きながら聞いてくれる。真剣な助言をくれたり、苦笑しながら相槌を打ってくれる。これまで諦めてたことが、何だって出来るような気がした。
「他にはね、学校帰り寄り道したりカフェに行きたいって目標が――…………ぁっ、」
息を吸い込んだ途端、冷たい空気がヒュッと肺の中まで通り針で刺されたように痛み出した。背中から汗が吹き出し、言葉が続かず立ち止まる。
口を手で覆ったまま目を白黒させてる私の異変に、すぐに気付いた鉄くんは青ざめて頭を振った。
「抱えるぞ」
自身の冷静さ取り戻すように低い声で告げると同時に、逞しい両腕で私を慎重に抱きかかえ揺らさないように丁寧に持ち上げた。そしてすぐに足早に自宅へ向かい歩き出した。研磨くんは携帯でどこかへ――多分、私の親に連絡してるようだ。唇が震え、呼吸が荒くなるにつれて悲しい気持ちが押し寄せて、目から大粒の涙が零れていた。呼吸がおかしくなった時の対処法をすればいい。落ち着くのを待ちながら浅く息を吸って長く吐く。覚えていたはずなのに、動揺し心が乱れて対処が難しかった。
「大丈夫か?すぐ着くからな」
…なんでいまなの。どうしていまなの。
優しく声をかけられても、無駄な自問自答が頭の中でいっぱいになる。痛いし苦しい…でも泣いている理由はそうじゃない。自分の体調不良が、楽しい時間をいつも中断させてしまう。情けなくて悔しい。せっかく二人が来てくれたのに。涙が指を伝って、手の甲に流れてコートの襟元に染みを作っていった。
「ほらほら、泣くなって。これからはいつでも会えるでしょ」
「そうだよ。来年は嫌でもクロと学校で顔を合わせる事になるしね」
「“嫌でも”は余計だな?」
内心気が気でないはずなのに、私を安心させようと鉄くんと研磨くんはいつもの調子で会話を続けてくれた。余計に目の奥がジンと熱くなって、溢れてくる涙が止まらない。しっかりと抱えてくれた鉄くんの腕の温かさ、パーカーの袖で涙を拭ってくれた研磨くんの優しさが、心の隅まで沁みていく。
家に送り届けてもらった時には肺の痛みはだいぶ落ち着いていた。念のために、すぐに吸入薬を使用し呼吸器をつけ脈拍を計る必要があったので、ちゃんとお礼も伝えられないまま私はリビングのソファに横たわり、ぼんやりとした視界のまま二人の背中を見送った。一時帰宅は今日明日で終わりかも知れないと思うと、気持ちが暗くなった。
症状が完全に落ち着いた頃、気づいたらそのまま眠りに落ちて日付は元旦に変わっていた。ベッドの上からカーテンを開け外を覗いたら、空はもう真っ暗で街灯が家の前の道を照らしている。
目を閉じれば、瞼の裏側に映る黒いスクリーン。自分だけが予感する独特の閉塞感に、多分、私は今年も試験を受けられないだろうと悟った。回復に向かっていた体調は波打つグラフのように良い時と悪い時を繰り返す。その“良い時”が冬に強くなければ、受験シーズンは不利になる。呼吸器で新鮮な酸素を吸い込みながら、脈拍を整えていく。微かに腕だけ動かして、ポケットの中のお守りを祈るように握った。
□ □ □
窓から一日中、風に乗って散っていく桜を眺めていた春。燦々と照り付ける日差しと新緑の中、木陰を選んで散歩した夏。テレビに映る銀杏並木を見て秋が訪れたと知る秋。数年ぶりに東京にしんしんと雪が積もった、寒波到来の冬――
白く冷たい季節を越えて、再びあたたかな春が訪れるその年、私は十八歳になる。
二年遅れで音駒高校に入学し、これから新しい生活が始まろうとしていた。
・・・
・・・・・
・・・・・・
「入学おめでとう後輩達よ!ようこそ都立音駒高校へ!」
入学式を終えて、体育館から教室へ移動してる最中、突然聞き覚えのある声を背後から浴びた。振り返りざまに仁王立ちした鉄くんが現れ、その横にガッシリと腕を掴まれてる研磨くんも居る。どうやら少し前に捕まっていたようだ。
「クロの先輩面が新鮮だね」
「先輩面じゃなく先輩な?つーか、学年的には中学の頃から先輩だからな!?」
「…はいはい」
「えっ、鉄くんわざわざ待ち伏せしてたの?二年生は今日お休みだよね?」
「授業休みでも部活があるんですゥー。人を暇人みたいに言うのやめてくんない?」
唇を尖らせて拗ねてるのが可愛らしくて、思わず小さく笑いが漏れた。最後に会った時よりも背が伸びて、体型もガッシリしてる。さらに頼もしくなった感じだ。きっと来年はバレー部キャプテンかな。しっかり者だしチームをまとめる素質があると思う。
「研磨くんと同じクラスになれてよかったぁ。これから同じ一年生としてよろしくね」
「うん、よろしく」
「年齢的にはコイツだって先輩だけどな」
「ふふ、童顔だから大丈夫。溶け込めると思う」
「確かに、年上には見えないかも」
「…にしても自分で言うか?」
「心身ともに健康になったからにはポジティブに行かないとね。今度こそ…、『はい元気です!』」
「おー、元気でよろしい!研磨は?」
「……眠いし帰りたいです」
「やりなおーし!」
アハハと声を立てて笑っても、空気を思いきり吸い込んでも、もう大丈夫。
三人で初詣に行った翌年、思い切って療養施設を変えて体力をつけるリハビリ方法も取り入れたら、奇跡的にみるみる体調が良くなっていったこの一年。お医者さんの難しい話はよくわからなかったけれど、要するに奇跡的に治療法が体に合っていて体内の悪い部分が改善されたらしい。言い過ぎかも知れないけれど、本当に生まれ変わったみたいに体が軽くなった。受験前後も咳は落ち着いて、体力もついたから小走りぐらいは出来るようになった。それでも、他の人から見たら底辺の体力だし、少しの運動で疲れてしまうけれど、無理なく高校生活は過ごせる現実に幸せを噛み締めてる。二年遅れでやっと、スタートラインに立ってるんだ。入学式に出席して感極まって泣きそうになってたのは、私と両親ぐらいだろう。
「一人で東京体育館に行けるぐらい元気になったよ」
目を細めて笑った視線の先に、大切な二人が私を見守ってくれている。離れていても変わらずに、私を元気付けてくれた。気にかけてくれた。
感謝してもし足りない気持ちは、どうしたらいいのだろう。何をしたら恩を返せるの?自分に問いかけても答えはわからない。だって、返しきれるわけもない。もらったものが大きすぎるから。返せるものと言えば、出来る限りの応援しかない。
私は唇を薄く開いて、肺いっぱいに春の香りの空気を吸い込んだ。
「だから、私を春高に連れてって」
渡り廊下にふわりと吹いた風は、桜の花弁をいくつも攫って舞い上がり、言葉を遠くまで乗せて空高くへと昇っていく。
顔を見合わせ、二人は目を丸くして私を見つめ返した。数秒後、研磨くんはふぅっと溜息をついて、鉄くんは口の端を吊り上げ八重歯を見せてニヤリと笑った。
「簡単に言ってくれますねぇ」
「…まぁ、楽な道のりじゃないよね」
「いいからいいから、指切りげんまん!」
肘を上げ、目の前にかざすように右手の小指を立てて見せると、骨ばった大きな手と、爪のきれいな色白な手が渋々ながらに伸びてきて、三人の小指が交差した。ぎゅっとしっかり絡ませて、指切りげんまん。
輝く夢の舞台まで、会いに行けると信じてる。