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初恋メランコリー
-2-
午前中から備品棚の整頓、怪我の応急処置の復習、洗濯やボトルの洗浄と、基本的なことを一通り思い出しながらこなし、体育館へと戻るなり赤葦くんに頭を下げられた。
近づいて来て開口一番、“すいません”、という一言で、光太郎くんと話せる機会を失ったことを察した。
午前練は本来、通常の練習メニューだったはずが、監督が突発的に近隣大学のバレー部と練習試合を組んだらしい。
確かに他校との練習試合は選手たちにとっても良い刺激にもなるし、監督にとっても選手ひとりひとりの現在の能力値を研究するいい機会になる。それが決まったのも前日の夜のことで。
いくら梟谷が強豪だからと行って、大学レベルのバレー部との対決ともなると圧勝というワケにはいかない。やはり経験年数も上だし体格や技術の差も出る。近隣大学のバレー部もそこそこ強いと評判だった。そして、今週から調子を崩してる光太郎くんの様子は周知のことで――大差をつけて負けてしまったそうだ。赤葦くんは一年生なので練習試合のメンバーには入っていなかったけれど、控えのセッターとして試合の流れを見届けていたらしい。
「今週からあの調子でしたから、スパイクが全然決まらず……最後の方には『助走のタイミングがわからない、どうやってたか思い出せない』と……」
コートの端ではクールダウンの為のストレッチを入念にしている大学生たち、試合に出ていた梟谷の三年、二年のメンバーも同様に柔軟で体をほぐしていたが、そこに光太郎くんの姿はない。
目線を赤葦くんに戻すと、彼は首を横に振った。気づいたらいなくなってたんです、と。慌てた様子は見せないが内心ではハラハラしてるはずだ。赤葦くんにとって、光太郎くんは憧れの選手。心配になるのは当然のことだ。
彼をよく知る同級生部員たちの話では、落ち込むとどこか狭いところに隠れがちになるそうだ。
狭い机の下に体育座りをして固まっていたり、体育倉庫の跳び箱と跳び箱の間の空間に挟まって身を縮めていたり。体育館内、周辺に限らなければ、学園内に隠れる場所は無数にある。
これまでの傾向から、狭い場所を選んでるような気がするけれど、そんな中で、私が一番最初に閃いた場所は広い空間だった。
「フクロウは高いところが好き?」
「……確かに、一理あります」
無意識に口にしたら、赤葦くんもハッとしていた。光太郎くんをフクロウに例えてもすんなりと受け入れていれるとは、さすがだ。光太郎くんをよく見てるんだな。
かつて、登校時に猫に触ろうと電柱を登り塀の上に手を伸ばした小学生の光太郎くんが頭に浮かんだ。鳥の巣ある!と叫んで校内の中庭の大木に登って先生に注意されていたのを目撃したこともある。……うん、多分、高いところも好きなはず。
探して連れてくるから待ってて欲しいと告げてから、私は体育館を後にした。
渡り廊下を通って本校舎に戻り、階段を駆け上がるうちに息が上がっていく。
運動部のマネ仕事は一年ぶりで、確実に運動不足だった留学期間。語学の能力はグンと上がったけれど体力は落ちた気がする。足が重くても、この先に彼が居る可能性があるなら一歩ずつ登って辿り着かなければならない。次期エースは、間違いなくチームの中心になって最高のエースになるはず。調子を取り戻す事が最優先だ。
それに、要因のひとつに少しでも自分が関与してるならば解決に手を貸したい。勘違いであれば、それに越したことはないのだけれど。
・・・
・・・・・
・・・・・・
ぐるぐると折り返しながら駆け上がり、最後の階段を登りはじめると、目先の屋上へ続く重い鉄の扉がわずかに開いてることに気が付いた。
ひやりとした温度の鉄のノブを掴んで押せば、あたたかな春の空気が吹き込んできて頬を撫ぜる。
ガランとした屋上の中心、膝を抱えて座ってる光太郎くんが、そこに居た。活力がないせいで灰色のツンツン髪まで毛先がクタッとしてるように見える。しかし、こんなにだだっ広い空間でそんなに小さくならくても――おそらく、真っ先に励ましたりするのが正解なのに、彼の見慣れない様子が可愛らしくて声を立てて笑ってしまった。
「わ、なんっ、来た……っ!」
即座に反応して振り返った光太郎くんは、数秒後に背後に現れた人物が私だと認識した直後、目を大きく見開いた。
「見つけた。心配で探しに来ちゃった」
「……なんでわかったの、ここ」
「高いところ好きだったかなって思い出したから。たまにはこういう場所かなぁって」
一歩ずつゆっくり近づいて、風になびく髪を片手でおさえながら彼の隣に腰を下ろした。また逃げられちゃうかもって不安だったけど、光太郎くんが動くことはなかった。落ち込んでる最中だからそんなエネルギーもないかな。それはそれで心配になる。
記憶の中の“彼”はいつだって元気いっぱいだったから。しょげてる状態は新鮮と言えば新鮮だ。
「あの、全然忘れててもいいんだけど……、わたし、小学校で一緒の通学班だった汐見琴音。覚えてるかな」
顔を覗き込みたかったのを我慢して、目線は空に浮かぶ遠くの雲に向けたまま告げると、隣り合った肩先がトンと触れる。光太郎くんの体が落ち着きなくゆらゆら左右に揺れ始めた。
「……副長。覚えて、る、ます」
体勢は体育座りを保ち、口元は腕に隠れて声はくぐもったまま呟いた。
「敬語使わなくていいよ。覚えてくれてたんだね。よかったぁ。私、光太郎くんのことすぐ気づけなくて……」
「いや、それは俺も」
深い溜息が聞こえたので、こっそりと横目で光太郎くんを盗み見る。凛々しい眉毛はハの字になり、不調の様子を初めて目の当たりにして心臓が鼓動していた。
少年のあどけなさが残しつつも、端正な目鼻立ちはすっかり青年の表情。Tシャツ越しでもわかるほど二の腕は太く、ハーフパンツから伸びた筋肉質な足。すっかりスポーツマンになった体つきを前に、目が泳いでしまう。
挫折を知らなかった頃の無敵の小学生が、体は成長しながらも同時に心も成長して苦悩している。苦しんでる姿に色気を感じては失礼だけど、憂いを帯びる黄金色の瞳は惹かれるものがある。
密かにドキドキしてる私には気づかないまま、光太郎くんは再会した初日の事を切り出した。
「名乗った時さ、『副長だ!』ってよりも『同姓同名の別人だ!』って思い込んで、そんでまた何かこう、稲妻が落ちたみたいな?衝撃?んで、本能的に叫んでた?んん?」
「……全部疑問形になってるね」
「だって神奈川に行くって言ってたし、ここにいるはずないって思ってるからさ。あの後、本人だって気づいて――って、“ゆうめいになるから、見てて!”っつって、まだオレ、有名になってねーしさ。ホントはテレビとかで活躍してる姿で驚かせたかった」
「じゃあ、再会したくなかった……?」
「んーや、嬉しい。でも、どうしていいかわかんなかった。副長見てるといろんな気持ちがゴチャマゼになって、心のやわこい部分を突っつかれてるみたいになる」
「だから避けてたの?」
「うん、そう。だって、突然引っ越して俺から離れてったじゃん。あの頃、ガキなりにかなり辛くてさ。落ち込んでる俺が重なってきて。副長が引っ越してって簡単に会えなくなって、どうしょもなく寂しかった感覚が、リアルに心ん中に流れてきて」
――だから、いつもの調子が出なかった。
そして練習試に大差をつけて負けた。言葉にはしなかったが、後に続くならそんな言葉が並びそうだ。
スポーツのコンディションは心技体の三要素と切り離せない。もちろん、メンタルも重要な要素の一つだ。コンディションを崩した要因は私にあることは明確なのに、彼は絶対に人を責めはしない。罪悪感で心がじくりと疼く。
光太郎くんを探しに行く前、二年の雀田さんに教えてもらったのは、『コートに連れ戻しておけば回復するから大丈夫』とのことだった。不調の原因になっている私に連れて行かれたくないだろうけど、チームの為にも連れて戻さないとならない。
その前にまず、自分に出来ることは謝ることだ。トラウマと呼ぶには大袈裟だけれど、彼のメンタルを揺るがせたのは過去の自分の行動なのだから。
「ごめんね」
言葉を整えて発する前に焦燥感に駆られ、短い謝罪が口を衝いて出た。その一言を耳にした刹那、光太郎くんは半分突っ伏していた顔を上げて目を丸くした。間近で視線が通って、無意識に幼い頃の光太郎くんの面影が重なった。
「なんで謝んの?副長は悪くないよ。引っ越しだって親御さんの都合だったろ」
「……それはそうだけど」
「ガキの頃の感情に引っ張られて不調起こしたのも、俺の問題」
「じゃあ、『ビビッと来た』っていうのは…?」
「ビビっと来たのは初恋の子に似てたから。似てたどころか、本人だった」
「は、はつこい!?……えーと、あぁ、小学生なら誰しもある、よね」
キチンとした体育座りから立て膝座りになり、顔を上げた彼の鋭い眼光が、瞬きもせず真っ直ぐに私を捉えていた。
「……なぁ。ワガママ言っていい?」
「うん?」
「“ごめんね”以外の言葉をちょうだい」
雲間から覗く太陽の光は瞳を照らし、透明な琥珀の宝石のよう。元気がなかったはずが、今度は励まして欲しいというリクエストをされ、数秒で展開が変化して忙しない。
そういえば、昔からそうだったなぁと思い返せば腑に落ちる。登校中、班長のお姉さんに怒られてしょげていた際も、最後は慰めて欲しそうに私を見上げていたことがあった。彼は、末っ子で甘え上手だ。
顔を見合わせ目を細めると、彼の無垢な鏡に中に自分が映っている。思っていた以上に照れくさそうに笑っている自分は、プラスの感情を完全に引き出されていた。
淡く胸に灯る気持ちが光太郎くんと同じ類の感情なのか、まだハッキリとはわからないけれど。ただ確かである真実だけは伝えたい。
「……光太郎くんにとって、想定してたタイミングじゃなかったかも知れないけど、私は再会できて嬉しかったよ」
ゆっくりと語り掛ける口調で続けると、光太郎くんは真剣に聞き入っていた。
「何かしらの形でバレーに携わってれば、光太郎くんに運よく会えることもあるかもって、心のどこかで思ってた。だから中、高もバレー部のマネージャーを進んでやってみたんだ。……あの日、私もすごく寂しかった。最後の日まで普通に過ごしたかったから、卒業式の前日まで言えなかったの。初日の日、すぐに気づけなかったのは、光太郎くんが逞しくなってカッコよくなってたから。だから、忘れたりしてないよ」
目を見張った光太郎くんの、黄金が煌めき出す。口角はみるみると分かりやすく上がっていき、彼はいきなり立ち上がった。
太陽に背中を向けた光太郎くんに後光が差してるように見えるなぁと呑気に眺めていると、上から手を差し伸べられた。
反射的に手を取ると、ぐいと引っ張られた拍子に私も立ち上がった。思ったより勢い良く引っ張られてしまい、躓いた拍子に彼の胸に飛び込んでしまった。抱き留めてくれたおかげで転ばずに済んで、ほっとしたと同時に、その腕の力強さに小さい頃の彼を懐かししむ。力強さも背の高さも、今やひとつも敵わない。
「天才っ!俺を励ます天才っ!!」
「そっ、……それならよかった」
腕の中に閉じ込めて私を抱擁したまま、光太郎くんは元気が溢れんばかりに空に向かって叫んでいた。見上げれば、出会ってから初めて見せてくれた笑顔。白い歯を見せて、目を輝かせ無邪気に笑っている。
コートに連れ戻す前に絶好調になったのなら、結果オーライかな――と、安心した途端、不意に鼻先が触れそうな距離まで顔を近づけられ反射的に肩が震えた。吸い込まれそうな瞳に魅入られて、目を逸らすことが出来ない。
「俺のプレー、見てて。毎日見てて。今はチョーシ崩す時もあるけど、それも込みで全部見てて。梟谷のエースになるから。そしたら琴音、俺のこと好きになって」
勢いに押されて反射的に『うん』と返事しそうになったが、幸い声に出さずに済んだ。思考を停止させ、巻き戻してもう一度。頭の中で光太郎くんの台詞を再生してみても、聞き間違いじゃなさそう。
私だって光太郎くんの事が好きだ。恋愛感情ではなく、一人の人間として魅力的という意味の好意だ。
自分の好きなことには一生懸命に打ち込み、行動は真っ直ぐで迷いがない。無限のエネルギーで自由に動き回る、太陽を擬人化したような人。眩しくて、一緒にいると楽しい気持ちにさせてくれるような男の子。
自分のも彼と同じぐらいのポテンシャルがあったならどんなによかったかと羨ましくなる。赤葦くんが憧れるのも分かる気がする。きっと、人を惹きつけるようなプレーをするんだろうな。
懸念事項があるとすれば、ひとつ。光太郎くんは“好き”って意味を、理解して告げている気がしない。
「こ、子供の頃の、初恋だったんじゃ――」
「初恋だからって手放す必要ないだろ?」
「……確かに」
聞き返されては、肯定せざるを得ない。迫力に負けたのが何だか納得できず、身じろいで手の平を彼の胸にピタリとくっつけた。
厚い胸板の下、早鐘を打つ心臓のリズムが全てを代弁していた。
鼓動の意味を理解するまでに数秒間かかり、光太郎くんを見上げると微かに彼の頬は赤らんでいた。
意外だった。ちゃんと異性として意識されていた。照れが伝播して動揺しかけたけれど、人知れずふぅと深呼吸をして冷静を取り戻した。
「すごくドキドキしてる……」
「わは、バレたか。するどいなぁ」
「“好き”の意味、わかってたんだね」
「そりゃ知ってるさ。“ライク”じゃなくて“ラブ”だろ!」
「うん、合ってるけど……、まだ付き合ってもないのに抱きしめたり顔近づけたりはダメだよ?」
「あっ、はい」
「転びそうになったのを支えてくれたのは、助かった。ありがとう」
胸に添えていた手をほんの少し押し返すと、腕の力が弱まってやっと解放された。
「カブトムシ捕まえる以外でドキドキするようになったんだね」
「ちょ、琴音ひどい!あっ、ダメだ! 恋人になるまで名前呼び厳禁!副長は副長!」
「私は別に名前で呼んでもらってもいいよ? あだ名の方がみんなに変に思われない?」
「いーの!俺なりの願掛け!……“願掛け”の使い方合ってる?」
「ふ……ふはっ、ふふっ!合ってるよ!」
小首を傾げて気の抜けた質問を投げかけられ、我慢できず吹き出してしまった。覚えててくれただけで充分嬉しかったのに、初恋を手放さないでいてくれたなんて。人生って思いも寄らないことが起こるものだ。
『通学班』という些細な縁も、細い糸も、光太郎くんが手繰り寄せれば関係ない。解けないようにきつく結ばれるだけだ。
梟谷に入学してなくても、彼は私を見つけてくれたような気がする。そしてこのタイミングでなくても、プロのバレー選手なった光太郎くんのことを、いずれ私の方からも見つけるはずだ。想像するだけで、不思議と愛おしさが胸に募っていく。
ふわりと流れた春風に乗って、背後から複数人の話し声が聴こえ、振り返れば、チームメイトたちが屋上の扉から顔を覗かせていた。
“お前らどうした?”と、キョトンとした顔で出迎える光太郎くんに向けて、口々に容赦ない文句が飛んできた。二年生に紛れて、赤葦くんも姿を見せた。
「心配して来てみりゃ先輩マネとイチャついきやがって~」
「何か腹立つな。ほっときゃよかったか。いや、早々に連れ戻すべきだな」
「すいません。木兎さんと汐見先輩、今いい雰囲気なのでもう少しだけ待ってあげて下さい」
「イイ雰囲気なら尚更早くしょっ引くわ」
駆けつけたメンバーにぐいぐいと引っ張られ、小さくなっていく光太郎くんの背中を見送った。数分後には体育館へ連れ戻され、遅めのクールダウンのストレッチを開始するはずだ。午後は自主練も始めるはず。
一緒に戻ろうと後に続いて歩き始めた際に、赤葦くんに小さく会釈された。今後、光太郎くんが不調になったら、駆り出される覚悟をしておこう。
『全部見てて』、だって。初めて聞いた。なんという自信満々の告白なんだろう。
それに対して明確な返事は出していないけれど、バレー部のマネをやるのだから光太郎くんの活躍は数えきれないぐらい目にすることにはなる。すぐにでも目で追うようになる。絶対的な魅力は目を釘付けにさせ、心も引っ張られていく。
眩く熱い太陽からはどうしたって目を逸らせないし、私はどこに居たって照らされてしまう。
彼の鼓動を近くに感じた今日を境に、以前とは形を変えて二人の距離は近づいていった。新たな季節が訪れる度に大きくなる気持ちと、生まれて初めてたった一人だけに向ける特別な感情が芽生えるのに、さして時間はかからなかった。
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午前中から備品棚の整頓、怪我の応急処置の復習、洗濯やボトルの洗浄と、基本的なことを一通り思い出しながらこなし、体育館へと戻るなり赤葦くんに頭を下げられた。
近づいて来て開口一番、“すいません”、という一言で、光太郎くんと話せる機会を失ったことを察した。
午前練は本来、通常の練習メニューだったはずが、監督が突発的に近隣大学のバレー部と練習試合を組んだらしい。
確かに他校との練習試合は選手たちにとっても良い刺激にもなるし、監督にとっても選手ひとりひとりの現在の能力値を研究するいい機会になる。それが決まったのも前日の夜のことで。
いくら梟谷が強豪だからと行って、大学レベルのバレー部との対決ともなると圧勝というワケにはいかない。やはり経験年数も上だし体格や技術の差も出る。近隣大学のバレー部もそこそこ強いと評判だった。そして、今週から調子を崩してる光太郎くんの様子は周知のことで――大差をつけて負けてしまったそうだ。赤葦くんは一年生なので練習試合のメンバーには入っていなかったけれど、控えのセッターとして試合の流れを見届けていたらしい。
「今週からあの調子でしたから、スパイクが全然決まらず……最後の方には『助走のタイミングがわからない、どうやってたか思い出せない』と……」
コートの端ではクールダウンの為のストレッチを入念にしている大学生たち、試合に出ていた梟谷の三年、二年のメンバーも同様に柔軟で体をほぐしていたが、そこに光太郎くんの姿はない。
目線を赤葦くんに戻すと、彼は首を横に振った。気づいたらいなくなってたんです、と。慌てた様子は見せないが内心ではハラハラしてるはずだ。赤葦くんにとって、光太郎くんは憧れの選手。心配になるのは当然のことだ。
彼をよく知る同級生部員たちの話では、落ち込むとどこか狭いところに隠れがちになるそうだ。
狭い机の下に体育座りをして固まっていたり、体育倉庫の跳び箱と跳び箱の間の空間に挟まって身を縮めていたり。体育館内、周辺に限らなければ、学園内に隠れる場所は無数にある。
これまでの傾向から、狭い場所を選んでるような気がするけれど、そんな中で、私が一番最初に閃いた場所は広い空間だった。
「フクロウは高いところが好き?」
「……確かに、一理あります」
無意識に口にしたら、赤葦くんもハッとしていた。光太郎くんをフクロウに例えてもすんなりと受け入れていれるとは、さすがだ。光太郎くんをよく見てるんだな。
かつて、登校時に猫に触ろうと電柱を登り塀の上に手を伸ばした小学生の光太郎くんが頭に浮かんだ。鳥の巣ある!と叫んで校内の中庭の大木に登って先生に注意されていたのを目撃したこともある。……うん、多分、高いところも好きなはず。
探して連れてくるから待ってて欲しいと告げてから、私は体育館を後にした。
渡り廊下を通って本校舎に戻り、階段を駆け上がるうちに息が上がっていく。
運動部のマネ仕事は一年ぶりで、確実に運動不足だった留学期間。語学の能力はグンと上がったけれど体力は落ちた気がする。足が重くても、この先に彼が居る可能性があるなら一歩ずつ登って辿り着かなければならない。次期エースは、間違いなくチームの中心になって最高のエースになるはず。調子を取り戻す事が最優先だ。
それに、要因のひとつに少しでも自分が関与してるならば解決に手を貸したい。勘違いであれば、それに越したことはないのだけれど。
・・・
・・・・・
・・・・・・
ぐるぐると折り返しながら駆け上がり、最後の階段を登りはじめると、目先の屋上へ続く重い鉄の扉がわずかに開いてることに気が付いた。
ひやりとした温度の鉄のノブを掴んで押せば、あたたかな春の空気が吹き込んできて頬を撫ぜる。
ガランとした屋上の中心、膝を抱えて座ってる光太郎くんが、そこに居た。活力がないせいで灰色のツンツン髪まで毛先がクタッとしてるように見える。しかし、こんなにだだっ広い空間でそんなに小さくならくても――おそらく、真っ先に励ましたりするのが正解なのに、彼の見慣れない様子が可愛らしくて声を立てて笑ってしまった。
「わ、なんっ、来た……っ!」
即座に反応して振り返った光太郎くんは、数秒後に背後に現れた人物が私だと認識した直後、目を大きく見開いた。
「見つけた。心配で探しに来ちゃった」
「……なんでわかったの、ここ」
「高いところ好きだったかなって思い出したから。たまにはこういう場所かなぁって」
一歩ずつゆっくり近づいて、風になびく髪を片手でおさえながら彼の隣に腰を下ろした。また逃げられちゃうかもって不安だったけど、光太郎くんが動くことはなかった。落ち込んでる最中だからそんなエネルギーもないかな。それはそれで心配になる。
記憶の中の“彼”はいつだって元気いっぱいだったから。しょげてる状態は新鮮と言えば新鮮だ。
「あの、全然忘れててもいいんだけど……、わたし、小学校で一緒の通学班だった汐見琴音。覚えてるかな」
顔を覗き込みたかったのを我慢して、目線は空に浮かぶ遠くの雲に向けたまま告げると、隣り合った肩先がトンと触れる。光太郎くんの体が落ち着きなくゆらゆら左右に揺れ始めた。
「……副長。覚えて、る、ます」
体勢は体育座りを保ち、口元は腕に隠れて声はくぐもったまま呟いた。
「敬語使わなくていいよ。覚えてくれてたんだね。よかったぁ。私、光太郎くんのことすぐ気づけなくて……」
「いや、それは俺も」
深い溜息が聞こえたので、こっそりと横目で光太郎くんを盗み見る。凛々しい眉毛はハの字になり、不調の様子を初めて目の当たりにして心臓が鼓動していた。
少年のあどけなさが残しつつも、端正な目鼻立ちはすっかり青年の表情。Tシャツ越しでもわかるほど二の腕は太く、ハーフパンツから伸びた筋肉質な足。すっかりスポーツマンになった体つきを前に、目が泳いでしまう。
挫折を知らなかった頃の無敵の小学生が、体は成長しながらも同時に心も成長して苦悩している。苦しんでる姿に色気を感じては失礼だけど、憂いを帯びる黄金色の瞳は惹かれるものがある。
密かにドキドキしてる私には気づかないまま、光太郎くんは再会した初日の事を切り出した。
「名乗った時さ、『副長だ!』ってよりも『同姓同名の別人だ!』って思い込んで、そんでまた何かこう、稲妻が落ちたみたいな?衝撃?んで、本能的に叫んでた?んん?」
「……全部疑問形になってるね」
「だって神奈川に行くって言ってたし、ここにいるはずないって思ってるからさ。あの後、本人だって気づいて――って、“ゆうめいになるから、見てて!”っつって、まだオレ、有名になってねーしさ。ホントはテレビとかで活躍してる姿で驚かせたかった」
「じゃあ、再会したくなかった……?」
「んーや、嬉しい。でも、どうしていいかわかんなかった。副長見てるといろんな気持ちがゴチャマゼになって、心のやわこい部分を突っつかれてるみたいになる」
「だから避けてたの?」
「うん、そう。だって、突然引っ越して俺から離れてったじゃん。あの頃、ガキなりにかなり辛くてさ。落ち込んでる俺が重なってきて。副長が引っ越してって簡単に会えなくなって、どうしょもなく寂しかった感覚が、リアルに心ん中に流れてきて」
――だから、いつもの調子が出なかった。
そして練習試に大差をつけて負けた。言葉にはしなかったが、後に続くならそんな言葉が並びそうだ。
スポーツのコンディションは心技体の三要素と切り離せない。もちろん、メンタルも重要な要素の一つだ。コンディションを崩した要因は私にあることは明確なのに、彼は絶対に人を責めはしない。罪悪感で心がじくりと疼く。
光太郎くんを探しに行く前、二年の雀田さんに教えてもらったのは、『コートに連れ戻しておけば回復するから大丈夫』とのことだった。不調の原因になっている私に連れて行かれたくないだろうけど、チームの為にも連れて戻さないとならない。
その前にまず、自分に出来ることは謝ることだ。トラウマと呼ぶには大袈裟だけれど、彼のメンタルを揺るがせたのは過去の自分の行動なのだから。
「ごめんね」
言葉を整えて発する前に焦燥感に駆られ、短い謝罪が口を衝いて出た。その一言を耳にした刹那、光太郎くんは半分突っ伏していた顔を上げて目を丸くした。間近で視線が通って、無意識に幼い頃の光太郎くんの面影が重なった。
「なんで謝んの?副長は悪くないよ。引っ越しだって親御さんの都合だったろ」
「……それはそうだけど」
「ガキの頃の感情に引っ張られて不調起こしたのも、俺の問題」
「じゃあ、『ビビッと来た』っていうのは…?」
「ビビっと来たのは初恋の子に似てたから。似てたどころか、本人だった」
「は、はつこい!?……えーと、あぁ、小学生なら誰しもある、よね」
キチンとした体育座りから立て膝座りになり、顔を上げた彼の鋭い眼光が、瞬きもせず真っ直ぐに私を捉えていた。
「……なぁ。ワガママ言っていい?」
「うん?」
「“ごめんね”以外の言葉をちょうだい」
雲間から覗く太陽の光は瞳を照らし、透明な琥珀の宝石のよう。元気がなかったはずが、今度は励まして欲しいというリクエストをされ、数秒で展開が変化して忙しない。
そういえば、昔からそうだったなぁと思い返せば腑に落ちる。登校中、班長のお姉さんに怒られてしょげていた際も、最後は慰めて欲しそうに私を見上げていたことがあった。彼は、末っ子で甘え上手だ。
顔を見合わせ目を細めると、彼の無垢な鏡に中に自分が映っている。思っていた以上に照れくさそうに笑っている自分は、プラスの感情を完全に引き出されていた。
淡く胸に灯る気持ちが光太郎くんと同じ類の感情なのか、まだハッキリとはわからないけれど。ただ確かである真実だけは伝えたい。
「……光太郎くんにとって、想定してたタイミングじゃなかったかも知れないけど、私は再会できて嬉しかったよ」
ゆっくりと語り掛ける口調で続けると、光太郎くんは真剣に聞き入っていた。
「何かしらの形でバレーに携わってれば、光太郎くんに運よく会えることもあるかもって、心のどこかで思ってた。だから中、高もバレー部のマネージャーを進んでやってみたんだ。……あの日、私もすごく寂しかった。最後の日まで普通に過ごしたかったから、卒業式の前日まで言えなかったの。初日の日、すぐに気づけなかったのは、光太郎くんが逞しくなってカッコよくなってたから。だから、忘れたりしてないよ」
目を見張った光太郎くんの、黄金が煌めき出す。口角はみるみると分かりやすく上がっていき、彼はいきなり立ち上がった。
太陽に背中を向けた光太郎くんに後光が差してるように見えるなぁと呑気に眺めていると、上から手を差し伸べられた。
反射的に手を取ると、ぐいと引っ張られた拍子に私も立ち上がった。思ったより勢い良く引っ張られてしまい、躓いた拍子に彼の胸に飛び込んでしまった。抱き留めてくれたおかげで転ばずに済んで、ほっとしたと同時に、その腕の力強さに小さい頃の彼を懐かししむ。力強さも背の高さも、今やひとつも敵わない。
「天才っ!俺を励ます天才っ!!」
「そっ、……それならよかった」
腕の中に閉じ込めて私を抱擁したまま、光太郎くんは元気が溢れんばかりに空に向かって叫んでいた。見上げれば、出会ってから初めて見せてくれた笑顔。白い歯を見せて、目を輝かせ無邪気に笑っている。
コートに連れ戻す前に絶好調になったのなら、結果オーライかな――と、安心した途端、不意に鼻先が触れそうな距離まで顔を近づけられ反射的に肩が震えた。吸い込まれそうな瞳に魅入られて、目を逸らすことが出来ない。
「俺のプレー、見てて。毎日見てて。今はチョーシ崩す時もあるけど、それも込みで全部見てて。梟谷のエースになるから。そしたら琴音、俺のこと好きになって」
勢いに押されて反射的に『うん』と返事しそうになったが、幸い声に出さずに済んだ。思考を停止させ、巻き戻してもう一度。頭の中で光太郎くんの台詞を再生してみても、聞き間違いじゃなさそう。
私だって光太郎くんの事が好きだ。恋愛感情ではなく、一人の人間として魅力的という意味の好意だ。
自分の好きなことには一生懸命に打ち込み、行動は真っ直ぐで迷いがない。無限のエネルギーで自由に動き回る、太陽を擬人化したような人。眩しくて、一緒にいると楽しい気持ちにさせてくれるような男の子。
自分のも彼と同じぐらいのポテンシャルがあったならどんなによかったかと羨ましくなる。赤葦くんが憧れるのも分かる気がする。きっと、人を惹きつけるようなプレーをするんだろうな。
懸念事項があるとすれば、ひとつ。光太郎くんは“好き”って意味を、理解して告げている気がしない。
「こ、子供の頃の、初恋だったんじゃ――」
「初恋だからって手放す必要ないだろ?」
「……確かに」
聞き返されては、肯定せざるを得ない。迫力に負けたのが何だか納得できず、身じろいで手の平を彼の胸にピタリとくっつけた。
厚い胸板の下、早鐘を打つ心臓のリズムが全てを代弁していた。
鼓動の意味を理解するまでに数秒間かかり、光太郎くんを見上げると微かに彼の頬は赤らんでいた。
意外だった。ちゃんと異性として意識されていた。照れが伝播して動揺しかけたけれど、人知れずふぅと深呼吸をして冷静を取り戻した。
「すごくドキドキしてる……」
「わは、バレたか。するどいなぁ」
「“好き”の意味、わかってたんだね」
「そりゃ知ってるさ。“ライク”じゃなくて“ラブ”だろ!」
「うん、合ってるけど……、まだ付き合ってもないのに抱きしめたり顔近づけたりはダメだよ?」
「あっ、はい」
「転びそうになったのを支えてくれたのは、助かった。ありがとう」
胸に添えていた手をほんの少し押し返すと、腕の力が弱まってやっと解放された。
「カブトムシ捕まえる以外でドキドキするようになったんだね」
「ちょ、琴音ひどい!あっ、ダメだ! 恋人になるまで名前呼び厳禁!副長は副長!」
「私は別に名前で呼んでもらってもいいよ? あだ名の方がみんなに変に思われない?」
「いーの!俺なりの願掛け!……“願掛け”の使い方合ってる?」
「ふ……ふはっ、ふふっ!合ってるよ!」
小首を傾げて気の抜けた質問を投げかけられ、我慢できず吹き出してしまった。覚えててくれただけで充分嬉しかったのに、初恋を手放さないでいてくれたなんて。人生って思いも寄らないことが起こるものだ。
『通学班』という些細な縁も、細い糸も、光太郎くんが手繰り寄せれば関係ない。解けないようにきつく結ばれるだけだ。
梟谷に入学してなくても、彼は私を見つけてくれたような気がする。そしてこのタイミングでなくても、プロのバレー選手なった光太郎くんのことを、いずれ私の方からも見つけるはずだ。想像するだけで、不思議と愛おしさが胸に募っていく。
ふわりと流れた春風に乗って、背後から複数人の話し声が聴こえ、振り返れば、チームメイトたちが屋上の扉から顔を覗かせていた。
“お前らどうした?”と、キョトンとした顔で出迎える光太郎くんに向けて、口々に容赦ない文句が飛んできた。二年生に紛れて、赤葦くんも姿を見せた。
「心配して来てみりゃ先輩マネとイチャついきやがって~」
「何か腹立つな。ほっときゃよかったか。いや、早々に連れ戻すべきだな」
「すいません。木兎さんと汐見先輩、今いい雰囲気なのでもう少しだけ待ってあげて下さい」
「イイ雰囲気なら尚更早くしょっ引くわ」
駆けつけたメンバーにぐいぐいと引っ張られ、小さくなっていく光太郎くんの背中を見送った。数分後には体育館へ連れ戻され、遅めのクールダウンのストレッチを開始するはずだ。午後は自主練も始めるはず。
一緒に戻ろうと後に続いて歩き始めた際に、赤葦くんに小さく会釈された。今後、光太郎くんが不調になったら、駆り出される覚悟をしておこう。
『全部見てて』、だって。初めて聞いた。なんという自信満々の告白なんだろう。
それに対して明確な返事は出していないけれど、バレー部のマネをやるのだから光太郎くんの活躍は数えきれないぐらい目にすることにはなる。すぐにでも目で追うようになる。絶対的な魅力は目を釘付けにさせ、心も引っ張られていく。
眩く熱い太陽からはどうしたって目を逸らせないし、私はどこに居たって照らされてしまう。
彼の鼓動を近くに感じた今日を境に、以前とは形を変えて二人の距離は近づいていった。新たな季節が訪れる度に大きくなる気持ちと、生まれて初めてたった一人だけに向ける特別な感情が芽生えるのに、さして時間はかからなかった。