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青春を君に捧ぐ
-5-
教室では当たり障りのない会話をして、部活中もこれまで通りに接した。そうして二週間も経ってみれば、夏休みの最終日に二人でカフェに行った際の雰囲気などはとうに薄れていき、北くんからもあの日の件について触れてくることはなかった。特に気まずさを残すことなく、クラスメイトであり部活仲間という関係は継続されたことに、私は胸を撫でおろした。
九月も中旬に差し掛かり、残暑厳しい中でも通常通り淡々と練習は行われた。来月には春高の県代表戦が控えているけど、チームに焦りはない。負ける気がしない、盤石の構えだ。今年は特にいいメンバーが揃っている。
全体練習後にミーティングルームを使用するとのことで、監督から片付けを頼まれた私は、他のマネージャ―に雑務をお願いしてから一人で部室棟に隣接した教室にやって来た。
ここには、プロジェクターやテレビ、大きなホワイトボード、折り畳みの長机や椅子も置いてある。ミーティングや映像の確認、対戦相手の研究や、自分達の試合記録を見るのに適した場所だ。予約制で各部活に貸し出しをしているこの部屋は、もちろんバレー部以外にも使うことがあるけれど、時々使用したままになって片付けられてないことがある。
来てみれば案の定、長机がおかしな位置にあったり椅子がまばらに置いてあった。どこの部だろう。だいたい雑に扱う部は特定できるけれど――まぁ、片付ければいいだけだし、問題ない。
稲荷崎はバレーの強豪校。体育館の使用権など含め、色々と融通を利かせてもらってるところがある。なので、他の運動部が散かしたのを片付けるぐらいはいいのかなって許容してる。“強いから優先して使うんは当たり前やろ!”って、侑くんあたりは遠慮なく主張しそうだけれど。
ひとまずミーティングのレイアウトに整えなければと、長机を折り畳み始めたタイミングで、ドアが開く音が聞こえて振り返った。
「汐見」
淡々としてるのにどこか凛とした声色、仮に姿を見なかったとしても特定出来るのは、三年間で何度も聞いてきた声だからだ。そして幾度も、自分の中で反芻してきた音。
「北くん。休憩中じゃないの?」
「せやから手伝いに来た。いつも一人でやっとんのか」
「うん、もう慣れたもんだよ」
だから休憩に戻って大丈夫だよ――そう言いかけるより早く、北くんも近くの長机を固定しているストッパーを外して畳み始めた。
「二人でやったほうが早い」
「休んでるとこ、ごめんね」
「そこは謝るとことちゃう。部員同士、手伝うんは当たり前やろ」
主将としても選手としても多忙で、貴重な休み時間に手伝ってくれるなんて本当に優しい。しかし、見つからずこっそり教室へ来るべきだったと内心で反省した。手伝わせてしまってる己の業の深さよ。神の使いのように徳の高い北くんにこんな雑務をやらせてしまっては罰が当たる。
手を止めることなくテキパキ片付ければ、あっという間にいつものレイアウトになった。ホワイトボードに残るペンの跡もクリーナーでキレイに消して、残る汚れは乾いた布でふいてピカピカにしてくれた。あらかじめ掃除道具を持って来てくれたみたい。相変わらず北くんは周到だ。高いところは手が届かないので、正直助かった。彼が丁寧に手入れすると、どんな物で新品同様にピカピカ輝いて見える。
部屋の隅にあるスタック式テーブルの上にリモコンを揃えて、準備完了だ。北くんにお礼を伝えようと一歩近づいた時、――バツンッ!と大きな音が鳴った。“それ”がどこで鳴ったものなのか気づかず、二人で顔を見合わせて首を傾げる。バツンッ!と似たような音が再び教室内に響いた。周囲を見渡してる間にまた、同じ音。
合計三回の妙な音にはっとする――まさか『ラップ現象』?怪奇現象とか…学校の七不思議的な噂は、聞かないこともないけれど。
外からする音にしては変やな、と、北くんが窓の外の方へ視線を向けた時、足元に何かが転がっていることに気付いた。ホワイトボードのキャスター近くに落ちてる太いボルトだった。
刹那、転倒したホワイトボードが北くんへと傾く様子がスローモーションで自分の目に映っていた。
「――あ!」
“危ない”と発したつもりが一文字しか叫べず、私の声を合図にゆっくりと振り返った北くんの姿が止まったように見えた。
一歩出遅れて膝がガクンとなり、ホワイトボードを正面から両手で支えるには間に合わない。だったら、どうする。
これから県代表戦もあるのに、北くんに怪我なんてさせられない。ううん、試合云々じゃない。目の前の大切な人に傷ついて欲しくない。
――『一途な味覚ってことだよね』
あの日の、宮兄弟との会話を回想していた。味覚だけじゃない。一度好きになったら手放せない。心変わりすることもない。募る恋情は心に浸透し、灯台になって暗い海を照らしていた。
私は、北くんに対して盲目的に一途だった。
彼の好意に対して返事ひとつ返せなかったけど、助ける事に迷いはない。自分の身を呈して守りたい人。憧れで大好きな人。だから、自分が傷を負ったっていいと思った。
踵で床を蹴り上げ、私は北くんに飛び掛かった。押し倒す態勢になり、ガツンと鈍い音を立てて、後頭部にホワイトボードが直撃して本体の重さが圧し掛かる。そのまま倒れ込まないように、背中で受け止めながら踏ん張った。北くんの顔の横に両手をついて庇う体勢は、壁ドンならぬ床ドン状態。至近距離で北くんを押し倒す妄想を、しなかったこともない。いや、こんな時に何考えてんだろ。
「汐見…っ!なんで…」
彼の唇は戦慄き、唖然とした表情は歪んでいく。
見慣れない顔が新鮮で、ふにゃりとだらしなく笑ってしまった。絶対笑う場面じゃないはずなのに。後頭部と背中、衝撃を受けた部分が熱い。後から痛みがくるやつだって直感した。
「はは……、北くん怪我ない?」
「俺はのことはええ!お前、頭打っ―――」
こんなに慌ててる北くんを見た事がなかったから貴重だなぁと眺めながら、温い水がこめかみを伝って北くんの白いTシャツに垂れ落ちた。ポタリ、ポタリと赤い水玉。出血してることが分かると後頭部がジンジンと痛み出す。アドレナリンが出てるせいで今は緩やかな痛みだ。
彼の息を飲み込む音が耳に響き、北くんは私を下から抱え込むと足でホワイトボードを蹴り上げて壁沿いに倒した。ドンッと壁とボードが接触した音と、重みから解放された背中が楽になったことにほっとする。
北くんはすかさず私を抱きかかえ、転倒物がないミーティングルームの後方、床の上にゆっくりと寝かせてくれた。自分のジャージを脱いで折り畳み、床に敷いて枕替わりにしてくれた。頭に怪我して出血がある場合などは、位置を高くして寝かせる事。マネージャーとしてある程度の怪我に対する知識を思い出す。北くんは当たり前のようこなしてくれた。
「意識あるか?俺がわかるな?」
「……うん、北くん」
「止血せなあかん。待っとれ」
「……うん、うん」
……あ。ダメだ。しっかり痛くなってきた。口には出さないけど、頭と同じぐらい背中もジンジンと疼きはじめてる。床に打ち付けた膝も多分擦りむいてる。
かろうじて動かせる手で、ひとまわり大きな北くんの手を力なく握った。これぐらいたいしたことない。心配かけたくないのに、起き上がりたいのに、ダメージを受けた体は正直で、意識がふわふわと遠のきはじめた。多分、眠くなってるだけだとそう思いたい。大怪我をしたとき、免疫が健康を取り戻そうと活発に働いて、その反動として眠たくなることがあるって聞いたことがあるし。
「助けなきゃって、迷わなかった」
譫言のように呟けば、北くんの目が見開いた表情がぼんやりとした視界の中で溶けていく。比喩ではなく、血の気が引いた頭がだんだんと思考を鈍らせていった。
「少しは迷ってくれ。俺はお前が怪我する方が嫌や……」
人生で大きな怪我をしてこなかったから、この怪我がどの程度ものかわからない。一応MRIとかも撮るのかな。ああ、部活に参加できなくなる時間が惜しいけれど、北くんが怪我するよりよっぽどいいか。守れてよかった。
判断力が低下した状態だから、――これが最後の会話になっちゃうかも……って、心が悲しみで溢れた。正常に思考が働いていたのなら、この程度の怪我で死ぬはずがないと理解できたはず。しかし、突飛なことに私の脳裏には“今際の際”が過っていた。
「――わたし、全部を捧げたいぐらい北くんが大好き」
握った手から体温が伝播して、固く結んでいた紐の結び目は、あたたかさで解れていく。ほどけない紐は、私の本音だ。
恐らくこんな状況でなければ伝えることがなかった本心。目を見開いた彼は一瞬、何かを言いかけてから口を噤む。冷静さを取り戻し、私のこめかみについた血をTシャツの裾でそっと拭ってくれた。
「……こんな時に、言うとる場合か」
「こんな時じゃなかったら多分、ずっと言えなかった」
どこまでも不器用な自分が可笑しくて、滑稽で、へらりと笑うしかなかった。憧れだからとか自信がないとか言い訳ばかり並べて、本当の気持ちを伝えることを避けていた。けれどこの衝動的な行動は、“身を呈す”ということは、言葉以上に告げてしまっている。
頭が切れた部分と背中を打ち付けた痛み。ドクンドクンと脈打つ心臓の音。じわじわと生を感じる。……よかった。声が出せて、生きてるからこそ想いを伝えられた。伝えた後でなら、この後どうなってたって後悔はない。
重たくなる瞼に視界が狭くなる。至近距離で見つめる北くんの琥珀色の瞳に、涙の膜が張って揺れていた。それを見れただけでよかった。ぎゅっと力強く手を握り返され、“すぐ戻る”と掠れ声で告げて北くんは走って教室を飛び出した。彼の足音が彼方に聴こえる。
痛みと微睡みの中、温もりが残る手をお腹に当てる。薄く目を開けて、北くんを想いながら天井を眺めていた。
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教室では当たり障りのない会話をして、部活中もこれまで通りに接した。そうして二週間も経ってみれば、夏休みの最終日に二人でカフェに行った際の雰囲気などはとうに薄れていき、北くんからもあの日の件について触れてくることはなかった。特に気まずさを残すことなく、クラスメイトであり部活仲間という関係は継続されたことに、私は胸を撫でおろした。
九月も中旬に差し掛かり、残暑厳しい中でも通常通り淡々と練習は行われた。来月には春高の県代表戦が控えているけど、チームに焦りはない。負ける気がしない、盤石の構えだ。今年は特にいいメンバーが揃っている。
全体練習後にミーティングルームを使用するとのことで、監督から片付けを頼まれた私は、他のマネージャ―に雑務をお願いしてから一人で部室棟に隣接した教室にやって来た。
ここには、プロジェクターやテレビ、大きなホワイトボード、折り畳みの長机や椅子も置いてある。ミーティングや映像の確認、対戦相手の研究や、自分達の試合記録を見るのに適した場所だ。予約制で各部活に貸し出しをしているこの部屋は、もちろんバレー部以外にも使うことがあるけれど、時々使用したままになって片付けられてないことがある。
来てみれば案の定、長机がおかしな位置にあったり椅子がまばらに置いてあった。どこの部だろう。だいたい雑に扱う部は特定できるけれど――まぁ、片付ければいいだけだし、問題ない。
稲荷崎はバレーの強豪校。体育館の使用権など含め、色々と融通を利かせてもらってるところがある。なので、他の運動部が散かしたのを片付けるぐらいはいいのかなって許容してる。“強いから優先して使うんは当たり前やろ!”って、侑くんあたりは遠慮なく主張しそうだけれど。
ひとまずミーティングのレイアウトに整えなければと、長机を折り畳み始めたタイミングで、ドアが開く音が聞こえて振り返った。
「汐見」
淡々としてるのにどこか凛とした声色、仮に姿を見なかったとしても特定出来るのは、三年間で何度も聞いてきた声だからだ。そして幾度も、自分の中で反芻してきた音。
「北くん。休憩中じゃないの?」
「せやから手伝いに来た。いつも一人でやっとんのか」
「うん、もう慣れたもんだよ」
だから休憩に戻って大丈夫だよ――そう言いかけるより早く、北くんも近くの長机を固定しているストッパーを外して畳み始めた。
「二人でやったほうが早い」
「休んでるとこ、ごめんね」
「そこは謝るとことちゃう。部員同士、手伝うんは当たり前やろ」
主将としても選手としても多忙で、貴重な休み時間に手伝ってくれるなんて本当に優しい。しかし、見つからずこっそり教室へ来るべきだったと内心で反省した。手伝わせてしまってる己の業の深さよ。神の使いのように徳の高い北くんにこんな雑務をやらせてしまっては罰が当たる。
手を止めることなくテキパキ片付ければ、あっという間にいつものレイアウトになった。ホワイトボードに残るペンの跡もクリーナーでキレイに消して、残る汚れは乾いた布でふいてピカピカにしてくれた。あらかじめ掃除道具を持って来てくれたみたい。相変わらず北くんは周到だ。高いところは手が届かないので、正直助かった。彼が丁寧に手入れすると、どんな物で新品同様にピカピカ輝いて見える。
部屋の隅にあるスタック式テーブルの上にリモコンを揃えて、準備完了だ。北くんにお礼を伝えようと一歩近づいた時、――バツンッ!と大きな音が鳴った。“それ”がどこで鳴ったものなのか気づかず、二人で顔を見合わせて首を傾げる。バツンッ!と似たような音が再び教室内に響いた。周囲を見渡してる間にまた、同じ音。
合計三回の妙な音にはっとする――まさか『ラップ現象』?怪奇現象とか…学校の七不思議的な噂は、聞かないこともないけれど。
外からする音にしては変やな、と、北くんが窓の外の方へ視線を向けた時、足元に何かが転がっていることに気付いた。ホワイトボードのキャスター近くに落ちてる太いボルトだった。
刹那、転倒したホワイトボードが北くんへと傾く様子がスローモーションで自分の目に映っていた。
「――あ!」
“危ない”と発したつもりが一文字しか叫べず、私の声を合図にゆっくりと振り返った北くんの姿が止まったように見えた。
一歩出遅れて膝がガクンとなり、ホワイトボードを正面から両手で支えるには間に合わない。だったら、どうする。
これから県代表戦もあるのに、北くんに怪我なんてさせられない。ううん、試合云々じゃない。目の前の大切な人に傷ついて欲しくない。
――『一途な味覚ってことだよね』
あの日の、宮兄弟との会話を回想していた。味覚だけじゃない。一度好きになったら手放せない。心変わりすることもない。募る恋情は心に浸透し、灯台になって暗い海を照らしていた。
私は、北くんに対して盲目的に一途だった。
彼の好意に対して返事ひとつ返せなかったけど、助ける事に迷いはない。自分の身を呈して守りたい人。憧れで大好きな人。だから、自分が傷を負ったっていいと思った。
踵で床を蹴り上げ、私は北くんに飛び掛かった。押し倒す態勢になり、ガツンと鈍い音を立てて、後頭部にホワイトボードが直撃して本体の重さが圧し掛かる。そのまま倒れ込まないように、背中で受け止めながら踏ん張った。北くんの顔の横に両手をついて庇う体勢は、壁ドンならぬ床ドン状態。至近距離で北くんを押し倒す妄想を、しなかったこともない。いや、こんな時に何考えてんだろ。
「汐見…っ!なんで…」
彼の唇は戦慄き、唖然とした表情は歪んでいく。
見慣れない顔が新鮮で、ふにゃりとだらしなく笑ってしまった。絶対笑う場面じゃないはずなのに。後頭部と背中、衝撃を受けた部分が熱い。後から痛みがくるやつだって直感した。
「はは……、北くん怪我ない?」
「俺はのことはええ!お前、頭打っ―――」
こんなに慌ててる北くんを見た事がなかったから貴重だなぁと眺めながら、温い水がこめかみを伝って北くんの白いTシャツに垂れ落ちた。ポタリ、ポタリと赤い水玉。出血してることが分かると後頭部がジンジンと痛み出す。アドレナリンが出てるせいで今は緩やかな痛みだ。
彼の息を飲み込む音が耳に響き、北くんは私を下から抱え込むと足でホワイトボードを蹴り上げて壁沿いに倒した。ドンッと壁とボードが接触した音と、重みから解放された背中が楽になったことにほっとする。
北くんはすかさず私を抱きかかえ、転倒物がないミーティングルームの後方、床の上にゆっくりと寝かせてくれた。自分のジャージを脱いで折り畳み、床に敷いて枕替わりにしてくれた。頭に怪我して出血がある場合などは、位置を高くして寝かせる事。マネージャーとしてある程度の怪我に対する知識を思い出す。北くんは当たり前のようこなしてくれた。
「意識あるか?俺がわかるな?」
「……うん、北くん」
「止血せなあかん。待っとれ」
「……うん、うん」
……あ。ダメだ。しっかり痛くなってきた。口には出さないけど、頭と同じぐらい背中もジンジンと疼きはじめてる。床に打ち付けた膝も多分擦りむいてる。
かろうじて動かせる手で、ひとまわり大きな北くんの手を力なく握った。これぐらいたいしたことない。心配かけたくないのに、起き上がりたいのに、ダメージを受けた体は正直で、意識がふわふわと遠のきはじめた。多分、眠くなってるだけだとそう思いたい。大怪我をしたとき、免疫が健康を取り戻そうと活発に働いて、その反動として眠たくなることがあるって聞いたことがあるし。
「助けなきゃって、迷わなかった」
譫言のように呟けば、北くんの目が見開いた表情がぼんやりとした視界の中で溶けていく。比喩ではなく、血の気が引いた頭がだんだんと思考を鈍らせていった。
「少しは迷ってくれ。俺はお前が怪我する方が嫌や……」
人生で大きな怪我をしてこなかったから、この怪我がどの程度ものかわからない。一応MRIとかも撮るのかな。ああ、部活に参加できなくなる時間が惜しいけれど、北くんが怪我するよりよっぽどいいか。守れてよかった。
判断力が低下した状態だから、――これが最後の会話になっちゃうかも……って、心が悲しみで溢れた。正常に思考が働いていたのなら、この程度の怪我で死ぬはずがないと理解できたはず。しかし、突飛なことに私の脳裏には“今際の際”が過っていた。
「――わたし、全部を捧げたいぐらい北くんが大好き」
握った手から体温が伝播して、固く結んでいた紐の結び目は、あたたかさで解れていく。ほどけない紐は、私の本音だ。
恐らくこんな状況でなければ伝えることがなかった本心。目を見開いた彼は一瞬、何かを言いかけてから口を噤む。冷静さを取り戻し、私のこめかみについた血をTシャツの裾でそっと拭ってくれた。
「……こんな時に、言うとる場合か」
「こんな時じゃなかったら多分、ずっと言えなかった」
どこまでも不器用な自分が可笑しくて、滑稽で、へらりと笑うしかなかった。憧れだからとか自信がないとか言い訳ばかり並べて、本当の気持ちを伝えることを避けていた。けれどこの衝動的な行動は、“身を呈す”ということは、言葉以上に告げてしまっている。
頭が切れた部分と背中を打ち付けた痛み。ドクンドクンと脈打つ心臓の音。じわじわと生を感じる。……よかった。声が出せて、生きてるからこそ想いを伝えられた。伝えた後でなら、この後どうなってたって後悔はない。
重たくなる瞼に視界が狭くなる。至近距離で見つめる北くんの琥珀色の瞳に、涙の膜が張って揺れていた。それを見れただけでよかった。ぎゅっと力強く手を握り返され、“すぐ戻る”と掠れ声で告げて北くんは走って教室を飛び出した。彼の足音が彼方に聴こえる。
痛みと微睡みの中、温もりが残る手をお腹に当てる。薄く目を開けて、北くんを想いながら天井を眺めていた。