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夏に溶ける心音
►黒尾鉄朗
春から憧れの高校生活。毎日登校して授業や課題をこなし、放課後は生徒会活動に精を出し帰路につく。ただの日常に見えても、私にとっては充実した毎日だった。長い療養生活とリハビリを経て二年遅の遅れの青い春を感じていた。それはまるで、暗く長いトンネルを抜けた先の光の景色。
クラスの自己紹介の際、病の療養のため二年遅れで高校に入学し、今年で十八才になる事をを私は自ら告白した。事情を知っている担任の先生は体のことを気にかけてくれているし、どうせ隠していてもいずれバレる。卒業して大学に行けば、それこそ様々な年代の学生がもっと居るわけで珍しいことじゃない。クラスメイトともすぐに馴染み、つけられた愛称は『あねさん』。一部の仲のいい友達はそう呼ぶようになった。そこまで親しくない人からも時々愛称で呼ばれることがある。カッコいいよう怖いような、珍妙な愛称で呼ばれて喜ぶのも私ぐらいなものだと思う。小学校も中学校も、休みがちな私にはあだ名なんてなかったから、親しみを込めて呼ばれるだけで今は何だって嬉しかった。
燦々とした太陽の光から身を隠すように、渡り廊下の影の下、等間隔に立つ屋根の柱を手摺代わりに伝って、片足を庇いながら歩き出す。
入道雲が青空に広がり、中庭の木々にとまるはセミが元気よく鳴いていて、それに混ざって音楽室から聞こえる吹奏楽部の楽器の音。もうすぐコンクールが近いのだろう。ここ数週間、近くの自販機まで飲み物を買いに来ると決まって昼休みに美しい音色が聴こえて来た。期末テストも終わって生徒達の緊張感も緩み、あとは夏休みを待つだけ。消化試合的に授業をこなし、クラスメイトから聞こえる会話も浮足立っていた。
いっそ夏休みなんてなくていいのになぁ…と、散々一人の時間を過ごしてきた長い夏を思い出す。今年の夏休みは、再び療養施設での短期滞在が決まっていた。体調を見ながら徐々に体力アップしていく必要があるとのことだ。ちょうどバレー部の試合の日と重なってしまい応援に行けないのが残念だけど、恩人である主治医の言うことは素直に聞き入れるつもりだ。
――ただ、夏休み前に怪我をしちゃったことが痛手だ。これでは思うようにトレーニングが出来ないねって、先生に言われるだろうなァ。
胸中で呟きながら、主治医の先生の顔が曇るのを想像して気分が沈む。いつもならサクサク歩ける直線の渡り廊下は、やけに距離があるように感じ保健室まで遠く感じた。四限目の体育で足をひねってしまい、比喩でなく足が重たく、一歩踏み出す度に足首がむ。
体力が無いなりにも体育に参加するも、反射神経の鈍さと運動音痴は変わらない。バスケのミニゲーム、誰にもマークされてない状態でディフェンスに駆け出したところで平坦なコートの上でつんのめって前に転んでしまった。何もないところで転んで相当恥ずかしかったけど、周囲は事情を知っていたのもあり、慌てて私を起こしに駆けつけてくれて、試合を中断させてしまった申し訳なさでいっぱいになった。保健室までついて行こうか?と友達が声をかけてくれたけど、余計な心配をかけたくなくて一人で保健室に向かうことにして、現在に至る。
ちょうど昼休みでよかった。
周囲はひと気もないし、みっともない姿を見られずに済む。男子は別の場所で球技をやっていたから、同じクラスの研磨くんにもバレてないだろう。知ればきっと心配して付き添ってくれるから。彼の貴重な昼休みを邪魔してはいけない。昼休みは研磨くんのゲーム時間だ。
――こっそりと、ゆっくりと、ノロノロと亀のように向かう足取りがふと止まったのは、背後から声をかけられたからだ。
「よ、元気かぁ。あねさーん」
すぐに特定できる聞きなれたその声に、私は力なく返事をした。
「……元気で~す」
「嘘つけ」
振り返ることなく足を引きずる私の前に、鉄くんは足早に肩を並べる、横から顔を覗き込んできた。
二年生も四限目は体育だったのだろうか、黒いTシャツに赤ジャージのボトム姿。二人でお揃いの格好だ。
「どした?何もないトコで転んで捻挫?」
「あはは、鉄くんはするどいなぁ」
「笑ってる場合か。早く冷やさないとダメでしょ。その速度じゃ保健室に着く前に昼休み終わるぞ」
確かに、捻った箇所が熱をもってジンジンと疼いてる。確実に腫れてる。言われた通り、氷水で冷やしたり冷湿布を貼ったり、テーピングしてもらう必要があった。柱に手を添えながら一歩ずつ歩く私の数歩先に進むと、鉄くんは周辺を見回した。そして私のところへ戻って来ると、大きな手が背中にと膝裏に触れられ、動きが止まる。同時にデジャブが過り瞬時に勘付いた。
「待って!ここ学校!」
制止も無視され、逞しい両腕は抱きかかるように私を持ち上げた。視界が揺れて、足が地面から離れ体ごと宙に浮く感覚。
以前抱えてもらった大勢とはちょっと違う、横抱き…いわゆるお姫様抱っこだ。
「お。慌ててる」
「せめておんぶにしない!?」
「お前、乗れっつっても乗らないだろ。それに誰もいないの確認したから大丈夫だって」
「それでも誰かに見られたらマズイよ。鉄くんのファン結構多いんだよ?」
「別に、見られたって怪我人を運んでるだけだし悪いコトしてませーん」
「そうなんだけど、ありがたいんだけど、運び方ぁ……」
「ハイハイ、文句言わない」
ニヤリと口角を上げて笑う鉄くんは下ろしてくれる様子は全く無さそうなので、それ以上何か言うのは諦めることにした。
内心ひやひやしたけども、昼休みがはじまったばかりでほんとんど周囲に人がいない。購買もこことは真逆の位置にあるのも幸いだ。それに、いくら遠慮しようが体格差がある限り、有無を言わさずヒョイと抱え上げられてしまうことは分かってる。人目を気にして恥ずかしいだけで、私は鉄くんに抱きかかえられることも触れられることも嫌じゃない。小さい頃も、具合が悪くなると駆け寄ってきて背負って運ぼうとしてくれたことがあったし、肩を借りて歩いたことも。散々、迷惑をかけた。今更、『もう手を貸してくれなくていいんだよ』…なんて、気持ちを無下に扱ような事は本気で言えるわけがなかった。
揺らさないよう、丁寧な抱え方は相変わらず。助けられたいつかの冬を思い出したけれど、いつ、どの場面でも体調が悪く照れる余裕なんてなかった。けど今回はただの捻挫だ。足はズキズキするけれど、改めて気恥ずかくなって俯いた。片方の耳で聴こえる、鉄くんのドクンドクンと大きく脈打つ心臓の音と、音楽室から響く吹奏楽部の管楽器のハーモニーが重なった。
「前より重くなったな」
「……太ったって言いたいの?」
空に向かって響く音に合わせてゆっくり保健室に向かって進んで行く。渡り廊下を抜けて校舎に足を踏み入れたタイミングで、鉄くんは唐突に失礼なことを告げて来た。デリカシーがないなぁと呆れそうになったけど、違った。柔らかな声色と同時に安堵の息が漏れて、言葉の真意にはたと気付く。
「いいんだろ。その方が、絶対に」
二年前の大晦日、幼馴染三人で早目の初詣に行った帰り道、具合が悪くなり鉄くんに家まで運んでもらった夜のことを思い出す。
抱えた時は驚いたことだろう。服越しでも触ればわかる、不健康な程に細身の私を知られている。あの時の自分は軽かった。
ろくに運動も出来ず今よりずっと体力もなくて、動かない――日によっては動けないから、食欲も湧かず普通の人よりも少ない食事で済ませていた。痩せてることを気にして、太って体力をつけないとってカロリーが高いものを無理に食べて、吐き戻したこともあった。去年、身体が回復してリハビリをはじめるようになってから、ようやく一人前を残すことなく食べれるようになってからは体重が少しずつだけど標準へ近づいてきてる。
抱える腕の優しさに目の奥が熱くなって、私は顔を上げることが益々難しかった。
・・・
・・・・・
・・・・・・
保健室に到着するも、先生の姿はなく他の生徒もいなかった。窓だけ開いておりカーテンが揺れる音だけ、その空間に微かに響いている。
鉄くんはソファまで近づくと中腰になり、ゆっくりと私を下ろしてくれた。ソファと言っても、家のリビングに置いてあるようなものでなく、保健室の窓に近い壁際に設置されているのは病院の待合室にあるような簡素なものだ。座り心地は固いその場所に、深く腰掛ける。
鉄くんは備品を探しはじめたが、湿布らしきものは見当たらず、“ちょっと待ってろ”と言って保健室を出て行った。小走りの足音があっという間に遠ざかり、静かな保健室にバイオリンの優雅な音色が窓の外から聴こえてきた。
ソファの端っこに座り足をぶらりとさせながら、今度は弦楽器のパート練習かなぁと思考を巡らせる。
昼休みが始まって間もないから、鉄くんはまだお昼を食べていないだろう。さすがにこれ以上付き合わせるのも申し訳ないし、教室に戻るように伝えよう。特に運動部男子は昼にカロリーをチャージしないとお腹がもたないはずだ。放課後も体力勝負の部活が待っている。
再び聞こえて来た足音は、保健室の扉に近づくにつれスローペースになって立ち止まる。ガラリと横開きの扉が空けられ、アレコレ両手に持って来た鉄くんが現れた。片手にはスプレー缶とテーピング、もう片手には何かがたくさん入ったビニール袋。両方ともソファの前にある小さな丸テーブルに置かれた。
「部室からコールドスプレー持って来た。靴下脱いで。脱げるか?」
「あ、うん。でも、自分で出来るよ?」
「使ったことない奴が何言ってんの。いいから。テープも自分じゃ巻きづらいだろ」
言われるまま靴下を脱ぐと、鉄くんは床に膝をついて私の踵を手で下から支えるように軽く持ち上げた。腫れてる捻挫部分を確認すると、手早くコールドスプレーを吹きかけテーピングで固定していく。運動部ではよく怪我の時に使う応急処置グッズのようで、さすが使い方が慣れてる。一瞬で患部が冷やされて確かに痛みが和らいでいった。
「後でちゃんとセンセに診てもらってな」
「ありがとう。助かった」
「んじゃ、昼飯食べるか」
「えっ、ここで!?」
「そ、ここで。大丈夫だろ」
「鉄くんは教室に戻っていいよ?」
「せっかく二人分買ってきたんだから、野暮なこと言いなさんな。これお手拭き代わりのウェットティッシュな。ほら、好きなのを取ってお食べ」
「……私がお弁当持ってきてないこと知ってたの?」
「四限目が体育の時は持ってきてないって、研磨から前に聞いた。運動後は食欲が湧かないんだろ?」
「うん。食べきれる自信ないから、お弁当だと残しちゃうと悪いし。食べれそうなものを購買で選んで買ったりしてるの。二人には何でもバレてるんだね」
何でもじゃねーけどなぁ、と返しながら、鉄くんは買ってきた袋から飲み物やパンを並べて私に先に選ばせてくれた。とても二人分とは思えない量だ。残ったら部活前に食べると言っていたので、余っても心配ないだろう。私はメロンパンをひとつだけ頂く事にした。
鉄くんは結構、強引なところがある。昔は人見知りで引っ込み思案だったのに、いつからか面倒見がいい兄貴肌タイプに変化を遂げていた。研磨くんのマイペースさが良い刺激になったんだろうか。それとも、私が世話をかけ過ぎたせい?
『行ってきます』と元気よく家族に挨拶して家を出ることも、勉強が楽しいことも、新しい環境に慣れるのに体は多少疲労する日も多いけど、毎日が新鮮で楽しかった。研磨くんは同じクラスだから課題を一緒にやったり、休み時間も話す事が多い。比べて、鉄くんは一学年の上の先輩だから会うことがない。バレー部の練習は校内一と噂されるほどの量をこなすらしく、朝練もあるし帰りも遅い。真向かいに住んでいるのになかなか顔を合わせることもなかった。時々、『コンビニ行く?』という集合メールを私から送ると、三人で一緒にお菓子やスイーツを買いに行く程度だ。だから、こうして二人きりで話をするのは久々だ。
「今更だが、俺はお前に言いたいことがある」
私が二口ほどパンを咀嚼して飲み込んだタイミングで、既にひとつパンを食べ終えた鉄くんはコーヒー牛乳のパックを持ちながら、空いてる方の手で指差して切り出した。
「 『私を春高に連れてってぇ!』とか言っといて、何でバレー部マネとして入部しなかった?」
「確かに言ったけど、そんな言い方してないよ?」
「俺にはそう聞こえたんデス」
じゃあそうなんですネ、と適当に返事をしても、釣り気味の黒い瞳は私から目を逸らしてくれない。しっかり目を合わせて答えないといけない質問な気がするけれど、鉄くんはもう分かってるはずだ。よほど直接私の口から聞きたいんだろう。
「お察しの通りだけど、体力的な問題で諦めたんだ。運動部のマネはテキパキ動けないとダメだし、私がやると確実に足引っ張っちゃうから。ホントはやりたかったんだけどね」
嘘偽りなく答えると、彼は予想してた答えに軽く頷いた。マネージャーになれたなら、二人のことを近くで支えられるし、目指す夢の舞台・東京体育館にだってチームの一員として同行出来る。だけどそれは叶わない。頑張りたい気持ちに体力がついてこないからだ。去年まで療養施設でリハビリをしてた身だ。やる気だけ先行して、周りに迷惑をかけるような無茶は出来なかった。
「そっか…、まぁ、そうだよな。確かにマネは重労働だわ」
「あっ、でも落ち込んだりはしてないよ。学校は毎日楽しいし」
話しながら、パンを小さくちぎって口に放り込むと甘い味が舌の上に広がった。やっとひとつ食べ終え、充分にお腹が満たされる。体育の後は少量でいいことを再確認した。隣に座る彼を一瞥すると、既に三つは平らげて残った分は袋にしまっていた。さすが運動部男子だ。食べるのも早い。
食後のまったりした雰囲気の中、カーテンを揺らす湿気を含んだ風が保健室の中に吹き込んだ。しっとりとしたピアノの伴奏が、鼓膜を心地よく揺らす。次々とパートを変えて複数の曲を試している吹奏楽部の音。課題曲を模索してるみたい。
「――んで、生徒会に?」
ぽつりぽつりと会話を続けながら、買ってきてくれたカフェラテをストローでゴクリと飲み込む。そういえば、生徒会に入ったとだけメールで伝えて、経緯とかは会ったときに話せばいいやってところで止まってことを思い出した。鉄くん、忙しいのによく覚えてるなぁ。
「うん。先生や現生徒会メンバーに事情を説明した上で立候補したら、会計補佐に任命してもらえたの。生徒会なら色んな人と関われるし、成長できるいい機会だよね」
学校行事を中心となって運営・企画を行い、委員会の選出など様々な校内の仕事に携わる生徒会。人より体力がなく動けない分、資料を作ったり費用の計算をしたりと頭を使う仕事でどうにか役に立ちたいと思っている。今まで人との関わりが浅く終わっていた学生生活を一新したい気持ちもあった。胸の前で手を固く握る私を見つめて、鉄くんの口元は緩く微笑んだ。
「いいんじゃん。やり甲斐ありそうだし。そのうち生徒会長になったりして」
「もし立候補したら一票入れてね」
「バレー部の連中も巻き込んで入れてやりましょ」
「組織票なくても大丈夫だよ。想像の中では正々堂々選ばれて圧勝してるから」
「ははっ!たくましいねぇ」
ふは、と思わず口元も緩んで声を立てると、お互い顔を見合わせて笑い合った。“もしも”の想像も未来の話をしても心が躍る。息を吸って吐いて笑う事も幸せだと実感する。どれも去年まで知らなかった体験に、幸福感に浸ってしまう。
『たくましい』と、さりげなく褒めてくれた鉄くんの一言は、小さい頃からお互いを知っているだけに誇張でないとわかる。これまで何も出来なかった分、今度は色んな事をやってみたいって逸る気持ちが伝わったのだろう。
不意に、膝の上に置いていた右手の上に一回り大きな手がそっと重なった。自分とたいして変わらない大きさだったはずの手は、指もごつごつして骨ばった男の人の手になっている。男の子の成長は早いなぁ。今日も私を支えて助けてくれた優しい手だ。少し驚いたけど、突然触れられるのだって嫌じゃない。
「お前の真っ直ぐないいところ、多分すぐに周りにも気づいちゃうよな」
「そうかな?そんなことないと思うけど」
「色んな奴らに囲まれてさァ、俺と研磨なんて構ってもらえなくなるんですよきっと」
「あ、鉄くん寂しがってる」
「意外と寂しがりなんだよね、俺」
外から聞こえていたピアノのメロディが止み、静かな空間の中で鉄くんと至近距離で眼を見交わした。
「誰と仲良くなっても、私にとって鉄くんと研磨くんは特別だよ」
「……へぇ。どんな風に?」
いつもの意地悪そうな笑みは消え、唇を結んで私を見据えている。獲物を狙う黒猫みたいな瞳の中にある感情に、初めて気づいた。
――視線に混ざる期待とほんの少しの葛藤と、強い好意。私の勘違いでなければ、それは幼馴染に向けるのとは違う“情”。
真剣な眼差しに、途端、ドクンドクンと胸が波打つ音が耳の中で鳴り始めた。これまで鉄くんを前にしてこんなにも鼓動したことはなかった。
一瞬で二人の関係が変わることはないだろう。ただ、この先で変わらない確信はないかも知れない。
それでも、私にとって大切で大きな存在だからこそ、ここで伝えたいことは揺らいだりはしない。
「世界中を敵に回しても私だけは味方でいる。そのぐらい特別」
動揺する心を抑えながらも真剣に告げると、数秒後に鉄くんは唇は尖らせた後にぷはっ吹き出した。重なっていた手を解いて、私の髪をガシガシと雑に撫で繰り回す。
「男前過ぎるでしょ!」
敵わねぇなァって、目尻を下げ口を大きく開けて笑った顔が、少年の頃の彼と重なった。無邪気にバレーボールだけを追いかけてた当初の鉄くんが思い浮かぶ。たくましくなったのは私だけじゃない。伝えた気持ちに嘘はないけど、そこまで笑われると照れくさくなるもので、頬に熱が昇り正直に赤く染まってしまう。
「……そんな笑わなくても」
「感動した。プロポーズかと思った。お嫁に貰う気ですか?」
「ぷ、プロポーズじゃないよ!嫁にもしません」
「いやー、俺ら愛されてんのな」
「それはまぁ、……そう。いつも感謝してるし」
弾んでいた息を整えた鉄くんと再び目が合うと、私の顔色に気付いて彼は瞬きを繰り返した。好きを否定しなかったのは、二人が私の中で特別なのは本心だから。おそらく、そこに反応したんだろう。私の髪を撫でていた手をおろし固まった後、鉄くんの耳がじわじわと赤らんでいった。益々こちらも恥ずかしくなり、互いに朱が伝染していく。なんで鉄くんまで照れるの?って疑問より、耳にも出るタイプなんだなぁと観察してしまった。
「照れんのやめてくんない!?うつるから!」
「鉄くんこそ」
「お前のが先だったろ!」
「鉄くんが変なこと聞いたせいだよ。ホント人たらしなんだから」
「人たらし?誰のことでしょうね?……あれ?褒められんのかコレ」
抗議をされても、感情が顔色に出るのは生理現象だから止めようもない。二人の間に、これまでに発生したことのない甘い空気が僅かに漂った。
気恥ずかしさをかき消すように二人で不毛な押し問答が続き、そのうちコントみたいな会話に堪え切れず二人して笑い出した。らしさを取り戻しても、早鐘を打つ心臓のリズムは続いている。
吹奏楽部の昼休み全体練習が始まり、演奏が窓の外から流れてきた。じきに、昼休みを終わりを告げるチャイムと音が重なるだろう。
様々な楽器が合わさった音は夏空に溶けて、速まる心音をかき消していく。穏やかだった波、寄せては返すうちに次第に大きくなる瞬間というのは思いがけずに訪れる。似たような事象は、変わらないと思っていた関係性にも起こり得るのだろうか。
大切な幼馴染を前に、仄かな予感が胸の中に留まっていた。
►黒尾鉄朗
春から憧れの高校生活。毎日登校して授業や課題をこなし、放課後は生徒会活動に精を出し帰路につく。ただの日常に見えても、私にとっては充実した毎日だった。長い療養生活とリハビリを経て二年遅の遅れの青い春を感じていた。それはまるで、暗く長いトンネルを抜けた先の光の景色。
クラスの自己紹介の際、病の療養のため二年遅れで高校に入学し、今年で十八才になる事をを私は自ら告白した。事情を知っている担任の先生は体のことを気にかけてくれているし、どうせ隠していてもいずれバレる。卒業して大学に行けば、それこそ様々な年代の学生がもっと居るわけで珍しいことじゃない。クラスメイトともすぐに馴染み、つけられた愛称は『あねさん』。一部の仲のいい友達はそう呼ぶようになった。そこまで親しくない人からも時々愛称で呼ばれることがある。カッコいいよう怖いような、珍妙な愛称で呼ばれて喜ぶのも私ぐらいなものだと思う。小学校も中学校も、休みがちな私にはあだ名なんてなかったから、親しみを込めて呼ばれるだけで今は何だって嬉しかった。
燦々とした太陽の光から身を隠すように、渡り廊下の影の下、等間隔に立つ屋根の柱を手摺代わりに伝って、片足を庇いながら歩き出す。
入道雲が青空に広がり、中庭の木々にとまるはセミが元気よく鳴いていて、それに混ざって音楽室から聞こえる吹奏楽部の楽器の音。もうすぐコンクールが近いのだろう。ここ数週間、近くの自販機まで飲み物を買いに来ると決まって昼休みに美しい音色が聴こえて来た。期末テストも終わって生徒達の緊張感も緩み、あとは夏休みを待つだけ。消化試合的に授業をこなし、クラスメイトから聞こえる会話も浮足立っていた。
いっそ夏休みなんてなくていいのになぁ…と、散々一人の時間を過ごしてきた長い夏を思い出す。今年の夏休みは、再び療養施設での短期滞在が決まっていた。体調を見ながら徐々に体力アップしていく必要があるとのことだ。ちょうどバレー部の試合の日と重なってしまい応援に行けないのが残念だけど、恩人である主治医の言うことは素直に聞き入れるつもりだ。
――ただ、夏休み前に怪我をしちゃったことが痛手だ。これでは思うようにトレーニングが出来ないねって、先生に言われるだろうなァ。
胸中で呟きながら、主治医の先生の顔が曇るのを想像して気分が沈む。いつもならサクサク歩ける直線の渡り廊下は、やけに距離があるように感じ保健室まで遠く感じた。四限目の体育で足をひねってしまい、比喩でなく足が重たく、一歩踏み出す度に足首がむ。
体力が無いなりにも体育に参加するも、反射神経の鈍さと運動音痴は変わらない。バスケのミニゲーム、誰にもマークされてない状態でディフェンスに駆け出したところで平坦なコートの上でつんのめって前に転んでしまった。何もないところで転んで相当恥ずかしかったけど、周囲は事情を知っていたのもあり、慌てて私を起こしに駆けつけてくれて、試合を中断させてしまった申し訳なさでいっぱいになった。保健室までついて行こうか?と友達が声をかけてくれたけど、余計な心配をかけたくなくて一人で保健室に向かうことにして、現在に至る。
ちょうど昼休みでよかった。
周囲はひと気もないし、みっともない姿を見られずに済む。男子は別の場所で球技をやっていたから、同じクラスの研磨くんにもバレてないだろう。知ればきっと心配して付き添ってくれるから。彼の貴重な昼休みを邪魔してはいけない。昼休みは研磨くんのゲーム時間だ。
――こっそりと、ゆっくりと、ノロノロと亀のように向かう足取りがふと止まったのは、背後から声をかけられたからだ。
「よ、元気かぁ。あねさーん」
すぐに特定できる聞きなれたその声に、私は力なく返事をした。
「……元気で~す」
「嘘つけ」
振り返ることなく足を引きずる私の前に、鉄くんは足早に肩を並べる、横から顔を覗き込んできた。
二年生も四限目は体育だったのだろうか、黒いTシャツに赤ジャージのボトム姿。二人でお揃いの格好だ。
「どした?何もないトコで転んで捻挫?」
「あはは、鉄くんはするどいなぁ」
「笑ってる場合か。早く冷やさないとダメでしょ。その速度じゃ保健室に着く前に昼休み終わるぞ」
確かに、捻った箇所が熱をもってジンジンと疼いてる。確実に腫れてる。言われた通り、氷水で冷やしたり冷湿布を貼ったり、テーピングしてもらう必要があった。柱に手を添えながら一歩ずつ歩く私の数歩先に進むと、鉄くんは周辺を見回した。そして私のところへ戻って来ると、大きな手が背中にと膝裏に触れられ、動きが止まる。同時にデジャブが過り瞬時に勘付いた。
「待って!ここ学校!」
制止も無視され、逞しい両腕は抱きかかるように私を持ち上げた。視界が揺れて、足が地面から離れ体ごと宙に浮く感覚。
以前抱えてもらった大勢とはちょっと違う、横抱き…いわゆるお姫様抱っこだ。
「お。慌ててる」
「せめておんぶにしない!?」
「お前、乗れっつっても乗らないだろ。それに誰もいないの確認したから大丈夫だって」
「それでも誰かに見られたらマズイよ。鉄くんのファン結構多いんだよ?」
「別に、見られたって怪我人を運んでるだけだし悪いコトしてませーん」
「そうなんだけど、ありがたいんだけど、運び方ぁ……」
「ハイハイ、文句言わない」
ニヤリと口角を上げて笑う鉄くんは下ろしてくれる様子は全く無さそうなので、それ以上何か言うのは諦めることにした。
内心ひやひやしたけども、昼休みがはじまったばかりでほんとんど周囲に人がいない。購買もこことは真逆の位置にあるのも幸いだ。それに、いくら遠慮しようが体格差がある限り、有無を言わさずヒョイと抱え上げられてしまうことは分かってる。人目を気にして恥ずかしいだけで、私は鉄くんに抱きかかえられることも触れられることも嫌じゃない。小さい頃も、具合が悪くなると駆け寄ってきて背負って運ぼうとしてくれたことがあったし、肩を借りて歩いたことも。散々、迷惑をかけた。今更、『もう手を貸してくれなくていいんだよ』…なんて、気持ちを無下に扱ような事は本気で言えるわけがなかった。
揺らさないよう、丁寧な抱え方は相変わらず。助けられたいつかの冬を思い出したけれど、いつ、どの場面でも体調が悪く照れる余裕なんてなかった。けど今回はただの捻挫だ。足はズキズキするけれど、改めて気恥ずかくなって俯いた。片方の耳で聴こえる、鉄くんのドクンドクンと大きく脈打つ心臓の音と、音楽室から響く吹奏楽部の管楽器のハーモニーが重なった。
「前より重くなったな」
「……太ったって言いたいの?」
空に向かって響く音に合わせてゆっくり保健室に向かって進んで行く。渡り廊下を抜けて校舎に足を踏み入れたタイミングで、鉄くんは唐突に失礼なことを告げて来た。デリカシーがないなぁと呆れそうになったけど、違った。柔らかな声色と同時に安堵の息が漏れて、言葉の真意にはたと気付く。
「いいんだろ。その方が、絶対に」
二年前の大晦日、幼馴染三人で早目の初詣に行った帰り道、具合が悪くなり鉄くんに家まで運んでもらった夜のことを思い出す。
抱えた時は驚いたことだろう。服越しでも触ればわかる、不健康な程に細身の私を知られている。あの時の自分は軽かった。
ろくに運動も出来ず今よりずっと体力もなくて、動かない――日によっては動けないから、食欲も湧かず普通の人よりも少ない食事で済ませていた。痩せてることを気にして、太って体力をつけないとってカロリーが高いものを無理に食べて、吐き戻したこともあった。去年、身体が回復してリハビリをはじめるようになってから、ようやく一人前を残すことなく食べれるようになってからは体重が少しずつだけど標準へ近づいてきてる。
抱える腕の優しさに目の奥が熱くなって、私は顔を上げることが益々難しかった。
・・・
・・・・・
・・・・・・
保健室に到着するも、先生の姿はなく他の生徒もいなかった。窓だけ開いておりカーテンが揺れる音だけ、その空間に微かに響いている。
鉄くんはソファまで近づくと中腰になり、ゆっくりと私を下ろしてくれた。ソファと言っても、家のリビングに置いてあるようなものでなく、保健室の窓に近い壁際に設置されているのは病院の待合室にあるような簡素なものだ。座り心地は固いその場所に、深く腰掛ける。
鉄くんは備品を探しはじめたが、湿布らしきものは見当たらず、“ちょっと待ってろ”と言って保健室を出て行った。小走りの足音があっという間に遠ざかり、静かな保健室にバイオリンの優雅な音色が窓の外から聴こえてきた。
ソファの端っこに座り足をぶらりとさせながら、今度は弦楽器のパート練習かなぁと思考を巡らせる。
昼休みが始まって間もないから、鉄くんはまだお昼を食べていないだろう。さすがにこれ以上付き合わせるのも申し訳ないし、教室に戻るように伝えよう。特に運動部男子は昼にカロリーをチャージしないとお腹がもたないはずだ。放課後も体力勝負の部活が待っている。
再び聞こえて来た足音は、保健室の扉に近づくにつれスローペースになって立ち止まる。ガラリと横開きの扉が空けられ、アレコレ両手に持って来た鉄くんが現れた。片手にはスプレー缶とテーピング、もう片手には何かがたくさん入ったビニール袋。両方ともソファの前にある小さな丸テーブルに置かれた。
「部室からコールドスプレー持って来た。靴下脱いで。脱げるか?」
「あ、うん。でも、自分で出来るよ?」
「使ったことない奴が何言ってんの。いいから。テープも自分じゃ巻きづらいだろ」
言われるまま靴下を脱ぐと、鉄くんは床に膝をついて私の踵を手で下から支えるように軽く持ち上げた。腫れてる捻挫部分を確認すると、手早くコールドスプレーを吹きかけテーピングで固定していく。運動部ではよく怪我の時に使う応急処置グッズのようで、さすが使い方が慣れてる。一瞬で患部が冷やされて確かに痛みが和らいでいった。
「後でちゃんとセンセに診てもらってな」
「ありがとう。助かった」
「んじゃ、昼飯食べるか」
「えっ、ここで!?」
「そ、ここで。大丈夫だろ」
「鉄くんは教室に戻っていいよ?」
「せっかく二人分買ってきたんだから、野暮なこと言いなさんな。これお手拭き代わりのウェットティッシュな。ほら、好きなのを取ってお食べ」
「……私がお弁当持ってきてないこと知ってたの?」
「四限目が体育の時は持ってきてないって、研磨から前に聞いた。運動後は食欲が湧かないんだろ?」
「うん。食べきれる自信ないから、お弁当だと残しちゃうと悪いし。食べれそうなものを購買で選んで買ったりしてるの。二人には何でもバレてるんだね」
何でもじゃねーけどなぁ、と返しながら、鉄くんは買ってきた袋から飲み物やパンを並べて私に先に選ばせてくれた。とても二人分とは思えない量だ。残ったら部活前に食べると言っていたので、余っても心配ないだろう。私はメロンパンをひとつだけ頂く事にした。
鉄くんは結構、強引なところがある。昔は人見知りで引っ込み思案だったのに、いつからか面倒見がいい兄貴肌タイプに変化を遂げていた。研磨くんのマイペースさが良い刺激になったんだろうか。それとも、私が世話をかけ過ぎたせい?
『行ってきます』と元気よく家族に挨拶して家を出ることも、勉強が楽しいことも、新しい環境に慣れるのに体は多少疲労する日も多いけど、毎日が新鮮で楽しかった。研磨くんは同じクラスだから課題を一緒にやったり、休み時間も話す事が多い。比べて、鉄くんは一学年の上の先輩だから会うことがない。バレー部の練習は校内一と噂されるほどの量をこなすらしく、朝練もあるし帰りも遅い。真向かいに住んでいるのになかなか顔を合わせることもなかった。時々、『コンビニ行く?』という集合メールを私から送ると、三人で一緒にお菓子やスイーツを買いに行く程度だ。だから、こうして二人きりで話をするのは久々だ。
「今更だが、俺はお前に言いたいことがある」
私が二口ほどパンを咀嚼して飲み込んだタイミングで、既にひとつパンを食べ終えた鉄くんはコーヒー牛乳のパックを持ちながら、空いてる方の手で指差して切り出した。
「 『私を春高に連れてってぇ!』とか言っといて、何でバレー部マネとして入部しなかった?」
「確かに言ったけど、そんな言い方してないよ?」
「俺にはそう聞こえたんデス」
じゃあそうなんですネ、と適当に返事をしても、釣り気味の黒い瞳は私から目を逸らしてくれない。しっかり目を合わせて答えないといけない質問な気がするけれど、鉄くんはもう分かってるはずだ。よほど直接私の口から聞きたいんだろう。
「お察しの通りだけど、体力的な問題で諦めたんだ。運動部のマネはテキパキ動けないとダメだし、私がやると確実に足引っ張っちゃうから。ホントはやりたかったんだけどね」
嘘偽りなく答えると、彼は予想してた答えに軽く頷いた。マネージャーになれたなら、二人のことを近くで支えられるし、目指す夢の舞台・東京体育館にだってチームの一員として同行出来る。だけどそれは叶わない。頑張りたい気持ちに体力がついてこないからだ。去年まで療養施設でリハビリをしてた身だ。やる気だけ先行して、周りに迷惑をかけるような無茶は出来なかった。
「そっか…、まぁ、そうだよな。確かにマネは重労働だわ」
「あっ、でも落ち込んだりはしてないよ。学校は毎日楽しいし」
話しながら、パンを小さくちぎって口に放り込むと甘い味が舌の上に広がった。やっとひとつ食べ終え、充分にお腹が満たされる。体育の後は少量でいいことを再確認した。隣に座る彼を一瞥すると、既に三つは平らげて残った分は袋にしまっていた。さすが運動部男子だ。食べるのも早い。
食後のまったりした雰囲気の中、カーテンを揺らす湿気を含んだ風が保健室の中に吹き込んだ。しっとりとしたピアノの伴奏が、鼓膜を心地よく揺らす。次々とパートを変えて複数の曲を試している吹奏楽部の音。課題曲を模索してるみたい。
「――んで、生徒会に?」
ぽつりぽつりと会話を続けながら、買ってきてくれたカフェラテをストローでゴクリと飲み込む。そういえば、生徒会に入ったとだけメールで伝えて、経緯とかは会ったときに話せばいいやってところで止まってことを思い出した。鉄くん、忙しいのによく覚えてるなぁ。
「うん。先生や現生徒会メンバーに事情を説明した上で立候補したら、会計補佐に任命してもらえたの。生徒会なら色んな人と関われるし、成長できるいい機会だよね」
学校行事を中心となって運営・企画を行い、委員会の選出など様々な校内の仕事に携わる生徒会。人より体力がなく動けない分、資料を作ったり費用の計算をしたりと頭を使う仕事でどうにか役に立ちたいと思っている。今まで人との関わりが浅く終わっていた学生生活を一新したい気持ちもあった。胸の前で手を固く握る私を見つめて、鉄くんの口元は緩く微笑んだ。
「いいんじゃん。やり甲斐ありそうだし。そのうち生徒会長になったりして」
「もし立候補したら一票入れてね」
「バレー部の連中も巻き込んで入れてやりましょ」
「組織票なくても大丈夫だよ。想像の中では正々堂々選ばれて圧勝してるから」
「ははっ!たくましいねぇ」
ふは、と思わず口元も緩んで声を立てると、お互い顔を見合わせて笑い合った。“もしも”の想像も未来の話をしても心が躍る。息を吸って吐いて笑う事も幸せだと実感する。どれも去年まで知らなかった体験に、幸福感に浸ってしまう。
『たくましい』と、さりげなく褒めてくれた鉄くんの一言は、小さい頃からお互いを知っているだけに誇張でないとわかる。これまで何も出来なかった分、今度は色んな事をやってみたいって逸る気持ちが伝わったのだろう。
不意に、膝の上に置いていた右手の上に一回り大きな手がそっと重なった。自分とたいして変わらない大きさだったはずの手は、指もごつごつして骨ばった男の人の手になっている。男の子の成長は早いなぁ。今日も私を支えて助けてくれた優しい手だ。少し驚いたけど、突然触れられるのだって嫌じゃない。
「お前の真っ直ぐないいところ、多分すぐに周りにも気づいちゃうよな」
「そうかな?そんなことないと思うけど」
「色んな奴らに囲まれてさァ、俺と研磨なんて構ってもらえなくなるんですよきっと」
「あ、鉄くん寂しがってる」
「意外と寂しがりなんだよね、俺」
外から聞こえていたピアノのメロディが止み、静かな空間の中で鉄くんと至近距離で眼を見交わした。
「誰と仲良くなっても、私にとって鉄くんと研磨くんは特別だよ」
「……へぇ。どんな風に?」
いつもの意地悪そうな笑みは消え、唇を結んで私を見据えている。獲物を狙う黒猫みたいな瞳の中にある感情に、初めて気づいた。
――視線に混ざる期待とほんの少しの葛藤と、強い好意。私の勘違いでなければ、それは幼馴染に向けるのとは違う“情”。
真剣な眼差しに、途端、ドクンドクンと胸が波打つ音が耳の中で鳴り始めた。これまで鉄くんを前にしてこんなにも鼓動したことはなかった。
一瞬で二人の関係が変わることはないだろう。ただ、この先で変わらない確信はないかも知れない。
それでも、私にとって大切で大きな存在だからこそ、ここで伝えたいことは揺らいだりはしない。
「世界中を敵に回しても私だけは味方でいる。そのぐらい特別」
動揺する心を抑えながらも真剣に告げると、数秒後に鉄くんは唇は尖らせた後にぷはっ吹き出した。重なっていた手を解いて、私の髪をガシガシと雑に撫で繰り回す。
「男前過ぎるでしょ!」
敵わねぇなァって、目尻を下げ口を大きく開けて笑った顔が、少年の頃の彼と重なった。無邪気にバレーボールだけを追いかけてた当初の鉄くんが思い浮かぶ。たくましくなったのは私だけじゃない。伝えた気持ちに嘘はないけど、そこまで笑われると照れくさくなるもので、頬に熱が昇り正直に赤く染まってしまう。
「……そんな笑わなくても」
「感動した。プロポーズかと思った。お嫁に貰う気ですか?」
「ぷ、プロポーズじゃないよ!嫁にもしません」
「いやー、俺ら愛されてんのな」
「それはまぁ、……そう。いつも感謝してるし」
弾んでいた息を整えた鉄くんと再び目が合うと、私の顔色に気付いて彼は瞬きを繰り返した。好きを否定しなかったのは、二人が私の中で特別なのは本心だから。おそらく、そこに反応したんだろう。私の髪を撫でていた手をおろし固まった後、鉄くんの耳がじわじわと赤らんでいった。益々こちらも恥ずかしくなり、互いに朱が伝染していく。なんで鉄くんまで照れるの?って疑問より、耳にも出るタイプなんだなぁと観察してしまった。
「照れんのやめてくんない!?うつるから!」
「鉄くんこそ」
「お前のが先だったろ!」
「鉄くんが変なこと聞いたせいだよ。ホント人たらしなんだから」
「人たらし?誰のことでしょうね?……あれ?褒められんのかコレ」
抗議をされても、感情が顔色に出るのは生理現象だから止めようもない。二人の間に、これまでに発生したことのない甘い空気が僅かに漂った。
気恥ずかしさをかき消すように二人で不毛な押し問答が続き、そのうちコントみたいな会話に堪え切れず二人して笑い出した。らしさを取り戻しても、早鐘を打つ心臓のリズムは続いている。
吹奏楽部の昼休み全体練習が始まり、演奏が窓の外から流れてきた。じきに、昼休みを終わりを告げるチャイムと音が重なるだろう。
様々な楽器が合わさった音は夏空に溶けて、速まる心音をかき消していく。穏やかだった波、寄せては返すうちに次第に大きくなる瞬間というのは思いがけずに訪れる。似たような事象は、変わらないと思っていた関係性にも起こり得るのだろうか。
大切な幼馴染を前に、仄かな予感が胸の中に留まっていた。