黒子くんと大学生マネージャー
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ジュエル・オブ・ライフ
――『運命の赤い糸を辿ってここまで来た』…、そんな気がするんです。
ウェディングベールを静かに上げて彼女を目の当たりにした瞬間、そんな確信めいたことを思っていた。
桃色の柔らかそうな頬に白い肌、くっきりと上瞼を縁取る黒い睫がゆっくりと上を向き、ふっくらと唇が少しだけ微笑む形になる。
式の前はあんなに緊張していたのに、本番になると嘘みたいに落ち着いていた。
望んでいた場所に立っているからだろうか。
彼女の瞳の中に自分の顔が映った。小さな星が散りばめられているみたいに綺麗に光る、その瞳の中に僕がいる夢を何度も見てきた。
瞼を閉じながらゆっくり顔を近づけていけば鼻先が触れた。
言葉にならない幸せが心の中を満たして、溶けて、溶けて、いっぱいになる。
唇が離れてお互いに視線を通わせれば、琴音さんは目を細めて照れくさそうに笑っていた。
僕は目の前のこの笑顔の傍にずっといられる特権を得た。この笑顔が曇ることがないよう、大好きな君を一生守るんだ。
周囲から祝福の拍手が教会内と僕の耳に響いた。そして永久を誓う、鐘の音。今日から琴音さんは、僕のお嫁さんになる。
…ピピピピ、…ピピピピ、と、断続的に携帯から鳴り響く無機質な音に、幸せな夢の続きは突然終わりを告げた。
瞬きを数回繰り返して、鮮明な夢の続きをもう少し見ていたかったと名残惜しさに引っ張られつつ、上半身を起こしてベッドの脇の机に置いた携帯を手に取った。
アラームをOFFにしてからもう一度枕に頭を埋めたい気持ちを堪えて、そのまま羽毛布団を捲ってベッドから降りた。
結婚式を実際に上げたのはもう二年前になるのに…時々、夢に出てくることがある。琴音さんの表情も、その時の自分の気持ちも覚えている記憶そのままに。
この夢を見るときは決まって、僕が琴音さんに逢いたいとか恋しいとかそんな気持ちになる時だった。
…まさに、今、こんな一人きりで目覚める朝がそうだ――出張5日目にして僕は初めてのホームシックに陥っていた。
僕が勤めている保育園の理事長がもう1つ運営している園が、都内からは遠く離れた長崎にある。
今は都内と長崎を行ったり来たりで忙しそうな理事長も、あと3年以内には長崎の園の方は親戚に任せると話していたのを聞いたことがあった。
その保育園に人手不足が出てしまったため、急遽、正月明け早々、僕が助っ人に行くことにになったのだ。
欠員が出たのは男性の保育士の方で、不運なことに正月休みの間に交通事故にあい入院しているらしい。
一応、2週間程度で退院できるという話なのだが、あくまで“予定”だ。
理事長にいは『1月いっぱいまでお願いすることになるかも』と頼まれている。
行事や様々な準備において力仕事も必要になってくるため、保父の欠員は男性がベストだから、必然的に僕が行くことになったわけだ。
…もちろん仕事だから納得しているし、幸い、僕が勤めている都内の園の先生は人数に余裕がないにしてもベテラン揃いだ。
僕一人がほんの少し助っ人出張したところで、全く問題なかった。
問題があるとすれば…、琴音さんと離れて生活し、僕は今、とても、とても寂しいと言う事。
理事長が用意してくれたウィークリーマンションには必要な家具も一通り揃っていた。
場所も、わざわざ保育園から近い場所を借りてくれたおかげで通勤も徒歩圏内。
近くにスーパーもコンビニもあるから不便もなかった。
琴音さんと一緒に暮らし始めてからある程度、料理も覚えたけれど…、一人で作って一人でご飯を食べるのがこんなにも寂しいものとは。
大学までは実家にいて、大学を卒業すると同時にすぐ琴音さんと同棲をはじめたから、こんな長い期間一人になるなんて今までになかったから。
顔を洗って着替えたら、朝食の支度をしてテレビでニュースをチェックしながら朝ご飯を食べ、片付けて出勤。
淡々としたものだ。起きてから家を出るまでに言葉を何も発しないのも一人なら当たり前だった。
一人暮らし歴が長い人いから、『だんだん独り言を言うのが当たり前になる』というのを聞いたことがある。そのうち、僕もブツブツ言い出すのだろうか。
ブツブツ言ったところで誰の返事もないから、独り言など、余計に寂しさが増幅する呪文じゃないだろうか。
…まだ二週間経たないうちにこの心境。
しかし、保育園での仕事はたくさんあるし、子供達の笑顔にも癒される。
わざわざ東京から助っ人に来たというのもあってか、職員の皆さんにはとてもよくしてもらっている。
誰かに喜んでもらえたり、楽しそうに過ごす子供達を見ていると、やはり僕はこの職業に就いてよかったのだと心から思う。
好きな職業で仕事に打ち込めるというのはこの上なく有り難いことなんだ。
助っ人に来たとはいえ働きづめになるわけじゃなく、ちゃんと休日もある。
休日になれば一度都内の自宅へ帰れるのだろうかと念のため理事長に相談したところ、できれば一段落するまでは長崎に居て欲しいと言われてしまった。
年始からの保育園は通常業務に加えて、毎年恒例の餅つき大会、新年の保護者会、そして3月から4月の卒園から入園までの前準備等々、大忙しなのだ。
週に1~2日の休日があるにしてもそれが仕事で潰れ代休に変わってしまうことだって多々ある。
出勤日や会議になることもザラだった。
人手が足りない時だからこそ、何かあったときにすぐに保育園に来てもらえる距離にいてくれないと困るという意味で理事長は言ったのだろう。
僕は勿論、素直に了承した。理事長には日頃からお世話になっているし、理事長の言ってることはもっともだ。
もし臨時の仕事が入った時にすぐに駆けつけられる距離にいなければ助っ人として役立たずになってしまうだろう。
ただ、琴音さんに逢える日が確実に遠のいた事実がさらに寂しさを募らせていった。
□ □ □
『テツヤくん、ちゃんと食べてる?』
「はい。食べてますよ。一応、栄養を考えたご飯を作ってます」
『ふふ、えらいえらい』
ホームシックの最中でも、仕事が終わってマンションに帰り、夕飯を食べ終えた後にこうして琴音さんと電話するのが日課になっている。
声を聴けること、会話ができること。逢えない期間でも電話だけが救いだった。仕事の話でも日常の話でもどんなに些細な事でもよかった。
鼓膜に響く彼女のおっとりとした口調、優しい声。心がリラックスしていくと同時に、胸の内で“逢いたい”という衝動が掻き立てられる。
「琴音さんが傍にいないのが寂しくて堪らないです」
『うん、私も』
「一人の生活に、全然慣れません」
『私もだよ。大学生の時に一人暮らししてたけど、テツヤくんと一緒に住み始めてから毎日一緒だから、ご飯も寝るときもすごく寂しい』
寂しいのは僕だけじゃない、彼女も、同じぐらい寂しいんだ。声で、気持ちがシンクロしてるのだと分かる。
電話じゃ話せても、触れられない。
今すぐに彼女のもとへ飛んでいける魔法の道具があればいいのにと思う。
彼女の傍にいる時、時間が一刻一刻進んでいくのが惜しいと思うのに、傍にいられない時は時間が早く進んでしまえばいいのにと思う。
琴音さんのこととなると、僕は、自己中心的で我儘だ。
逢いたい、触れたい、抱きしめたい。気持ちが高ぶっていく。際限なく溢れる泉みたいだ。琴音さん以外に関しての事ならばたいていのことは我慢できるのに。
それに、離れていると心配事だってある。
困ったことはないだろうか、変な奴に声をかけられたりしていないだろうか。
…万が一にも、僕以外の誰かに惹かれていないか――そんなこと絶対にないと信じているはずなのに、一人でいる時間のせいで思考が正常でなくなっていった。彼女も、僕と同じ風に想ってくれているだろうか。
少しの沈黙でも、電話の向こう側に愛しい人がいるのだから嫌な空気じゃない。
思い出したように琴音さんが切り出してきたのは、僕の実家に行ったという話だった。
『テツヤくんが出張してることを教えたら、“うちで夕飯食べない?”って誘ってもらえて、昨日行ってきたんだ。そしたらね、お義母さんがテツヤくんの小さい頃のアルバム見せてくれたの。披露宴の時に流したフォトムービーで使ったのとは別に、まだたくさんアルバムがあってね…すごく可愛かったよ!』
嬉々とした様子が抑えられず興奮気味の琴音さんの声に、僕は照れくさくなって言葉に詰まった。
自分でも覚えていないぐらい小さい頃の写真がたくさん実家にある。一人っ子だという事もあってアルバムは僕でいっぱいだった。
僕だけがたくさん見られたんじゃ不公平だ。帰ったら琴音さんの実家に二人で行って、僕も琴音さんのアルバムをたくさん見せて貰おう。
僕の初恋の“8歳の琴音さん”もそこには写っているだろう。
高校生の時に彼女に出会うよりもっと前に、僕たちは一度出会っていた――…僕が5歳で、琴音さんが8歳の時。
夏の暑い日、風で飛ばされて高い塀の上に乗っかってしまった帽子を琴音さんが取ってくれたんだ。
あの時の初恋の人に数年後再び出会い、恋をして、結婚をして僕のお嫁さんになるだなんて、本当に夢みたいな話だけれども、夢じゃないんだ。
自然に笑みがこぼれてしまう。心に火が灯ったみたいにあったかくなる。
『長い出張は寂しいけど…、幸い誕生日に重ならなくてよかったね。帰ってくるのちょうど1月31日だったよね。その日は遅くなりそう?』
「予定では夕飯の時間までには帰れそうです」
『じゃあ、お祝いできるね。張り切って夕飯作るからね!』
「はい、楽しみにしてます」
ひとしきり話終えた後、琴音さんが真剣味を帯びた声色を発した。
『――テツヤくん、あのね』
何か伝えたそうな事があるような…そんな感じだっただが、琴音さんは“誕生日に食べたいものがある?”と質問してきた。
咄嗟に、誤魔化したように思えたが、僕はすぐ質問に答えられなかった。
琴音さんが作ってくれるものならば何でもいい。何だって美味しい。
彼女の声色が変わったのは本当に一言だけだった。不思議に思いつつも、その夜は電話を切ってシャワーを浴びてすぐ寝床についた。
困っていることであればきっと相談してくるはずだ。だが、さっきの声は、喜びを含んだ感じだったから。
隣に感じる体温がないことでベッドがひんやりと感じる。それはただの錯覚。わかっているのに。
あと一日、あと一日、と、帰れる日を指折り数え、瞼を閉じてマンションで待つ彼女を思い浮かべた。
そして、眠りに落ちて薄れゆく意識の中で思う。気のせいだったか?と済ませてしまえばそれまでなのだが。
あの時、琴音さんが伝えたかったことは何だったんだろう――
□ □ □
待ちに待った、都内へ帰る日がやって来た。
午前中に保育園で無事退院してきた保育士の方へ引き継ぎをし、最後に挨拶をして回った。
その後は、先生方や生徒達が僕のためにお別れ会を開いてくれた。
本当に、有り難いことだ。ほんの短い間しかいなかったけど、皆さんと仲良くできたし、色々と勉強させてもらうことも多くいい経験になったと思う。
今回はゆっくり観光は出来なかったけれど、また改めて機会がを作って長崎に来たい。今度は、琴音さんと一緒に。
理事長の車で空港まで送ってもらった後は、順調に時間通りの飛行機にのり何事もなく都内へついた。
今頃、琴音さんはキッチンに立っているだろう。
羽田空港の人混みを抜けてモノレール乗り場へ足早に移動した。寄り道せずにまっすぐ自宅へ向かう。
もう少し、あと少しと、逢いたい気持ちばかりが急いている僕は、自分がホームシックになっていたことなどすっかり忘れていた。
誕生日の当日、予定通りの時間に帰れた事や仕事を一通り無事終えたことへの安心感で不安が掻き消されたんだ。
ようやく自宅に到着しインターホンを鳴らすも出てこない。
時間は午後6時。…もしかしてまだ買い物から戻ってきてない可能性がある。
とりあえず僕は鞄から自宅の鍵を取り出してドアを開けて、重たいトランクを玄関先の壁に沿って置いた。
玄関に琴音さんの靴もあるし、部屋の明かりもついていた。ふと、玄関先の空気も心なしかあたたかい。
リビングの方から夕飯のいい香りが鼻を掠めた。
…留守じゃない。
ドッと、一瞬嫌な予感が頭を過ぎり冷や汗がこめかみに滲み慌てて靴を脱いでリビングへ駆け込むと、――そこにはソファで座りながらうたた寝をしている琴音さんの姿。
近づいて寝息を立てているのを確認して、ほっと安堵の息をついた。
「よかった…」
僕の呟きで彼女の眠たそうな瞼はゆっくりと開く。
そしてパチリ、と開いて僕と目が合うと驚いた様子を見せた。
「琴音さん、ただいま。今帰りました」
「えっ…?あ、あ、てっ、テツヤくんおかえりなさい!わ、やだ、私寝ちゃってた…お出迎えもしないでごめんなさい」
「いいんですよ。…琴音さんがここにいるならそれで」
隣に座って肩を寄せ、ギュッと抱き締めて彼女の首に鼻先を近づけた。ずっと逢いたかった。
一日でも逢えないと寂しいなんて思うのは、唯一無二の君だからだ。
寂しかった時間を埋めるようにしばらく黙ったまま琴音さんの体温と鼓動を感じて、平常を取り戻す。ひとまずの充電完了、といったところだ。
体を離して彼女を見つめたら、へへ、とそこにはいつもの笑顔。照れくさそうに口元を緩ませているのがとても愛らしい。
ふと、琴音さんの膝の上に置いてあるアルバムが目に入った。そこには――幼少期の僕の写真がたくさんファイルしてあった。
首を傾げて僕が口を開く前に、琴音さんは『テツヤくんのお義母さんから借りてきたの』と、ニッコリと満足げに笑った。
「どの頃のテツヤくんもすごく可愛い。この赤ん坊の時なんて目がパッチリしてほっぺもまんまるしてて、天使みたいだね」
赤ん坊の頃の写真を指さして、目を細めて愛おしそうに見つめている琴音さん。
天使なんて、言い過ぎですよ、と、僕が彼女の手を握ろうとした時、琴音さんの手はアルバムから移動しておなかにピタリと触れた。
彼女自身のお腹に。
「この子もテツヤくんに似て可愛くなるだろうね」
手の平で優しく、円を描くように撫でるその仕草と、彼女の言葉が意味する事――辿り着く答えは1つ。
僕はすぐに言葉が出てこないかわりにそっと彼女の手の上越しにお腹に触れた。
喜びなんて通り越して、感動の波がぐっと押し寄せて、体温を上昇させた。
涙で視界が滲む、揺れる。鼻の奥がツンとする。君があの時伝えたかったのはこの事だったんだ。
「驚かせようと思って内緒にしてたの。私…すごく幸せだよ。テツヤくん、誕生日おめでとう」
夢の中にいるみたいに意識がふわりと飛んでいきそうだった僕を、微笑みと共に祝福してくれた琴音さんを再び抱きしめるのは、すぐだった。
優しく背中に手を回し壊れ物を扱うように彼女を腕の中にそっと閉じこめる。
熱いものが頬を伝って、琴音さんの首筋に当たると、それに気づいた彼女は小さく微笑んで僕の頭を撫でた。
おめでとう、テツヤくんおめでとう、と、何度も囁きながら髪に触れられる度に、鼓動が強くなっていく。
「最高の誕生日プレゼントです…。僕は世界一の幸せ者です」
涙が止まらないのも全部、全部、嬉しくて堪らないからだ。今にも叫び出しそうだ。
僕にまた、宝物が増える。
守りたいものが増えていく。愛する人が増えていく。
僕は君に幸せをもらってばかりでいいのかなって時々、思うんだ。
でもきっと僕には同じぐらい返すことなんて出来ないだろう。
だって僕には何も出来ないのだから。精一杯のこの愛を与え続ける事以外には、何も。
心の中でこんなことを思っていたと伝えたなら、きっと君は大袈裟だよって笑うんだろう。
――『運命の赤い糸を辿ってここまで来た』
…それは確信に変わり、糸はまた次の命をへと絆を紡いでいく。
僕に幸せの在処をくれた君へ、世界で一番大好きな君へ、心からありがとうを伝えたい。
――『運命の赤い糸を辿ってここまで来た』…、そんな気がするんです。
ウェディングベールを静かに上げて彼女を目の当たりにした瞬間、そんな確信めいたことを思っていた。
桃色の柔らかそうな頬に白い肌、くっきりと上瞼を縁取る黒い睫がゆっくりと上を向き、ふっくらと唇が少しだけ微笑む形になる。
式の前はあんなに緊張していたのに、本番になると嘘みたいに落ち着いていた。
望んでいた場所に立っているからだろうか。
彼女の瞳の中に自分の顔が映った。小さな星が散りばめられているみたいに綺麗に光る、その瞳の中に僕がいる夢を何度も見てきた。
瞼を閉じながらゆっくり顔を近づけていけば鼻先が触れた。
言葉にならない幸せが心の中を満たして、溶けて、溶けて、いっぱいになる。
唇が離れてお互いに視線を通わせれば、琴音さんは目を細めて照れくさそうに笑っていた。
僕は目の前のこの笑顔の傍にずっといられる特権を得た。この笑顔が曇ることがないよう、大好きな君を一生守るんだ。
周囲から祝福の拍手が教会内と僕の耳に響いた。そして永久を誓う、鐘の音。今日から琴音さんは、僕のお嫁さんになる。
…ピピピピ、…ピピピピ、と、断続的に携帯から鳴り響く無機質な音に、幸せな夢の続きは突然終わりを告げた。
瞬きを数回繰り返して、鮮明な夢の続きをもう少し見ていたかったと名残惜しさに引っ張られつつ、上半身を起こしてベッドの脇の机に置いた携帯を手に取った。
アラームをOFFにしてからもう一度枕に頭を埋めたい気持ちを堪えて、そのまま羽毛布団を捲ってベッドから降りた。
結婚式を実際に上げたのはもう二年前になるのに…時々、夢に出てくることがある。琴音さんの表情も、その時の自分の気持ちも覚えている記憶そのままに。
この夢を見るときは決まって、僕が琴音さんに逢いたいとか恋しいとかそんな気持ちになる時だった。
…まさに、今、こんな一人きりで目覚める朝がそうだ――出張5日目にして僕は初めてのホームシックに陥っていた。
僕が勤めている保育園の理事長がもう1つ運営している園が、都内からは遠く離れた長崎にある。
今は都内と長崎を行ったり来たりで忙しそうな理事長も、あと3年以内には長崎の園の方は親戚に任せると話していたのを聞いたことがあった。
その保育園に人手不足が出てしまったため、急遽、正月明け早々、僕が助っ人に行くことにになったのだ。
欠員が出たのは男性の保育士の方で、不運なことに正月休みの間に交通事故にあい入院しているらしい。
一応、2週間程度で退院できるという話なのだが、あくまで“予定”だ。
理事長にいは『1月いっぱいまでお願いすることになるかも』と頼まれている。
行事や様々な準備において力仕事も必要になってくるため、保父の欠員は男性がベストだから、必然的に僕が行くことになったわけだ。
…もちろん仕事だから納得しているし、幸い、僕が勤めている都内の園の先生は人数に余裕がないにしてもベテラン揃いだ。
僕一人がほんの少し助っ人出張したところで、全く問題なかった。
問題があるとすれば…、琴音さんと離れて生活し、僕は今、とても、とても寂しいと言う事。
理事長が用意してくれたウィークリーマンションには必要な家具も一通り揃っていた。
場所も、わざわざ保育園から近い場所を借りてくれたおかげで通勤も徒歩圏内。
近くにスーパーもコンビニもあるから不便もなかった。
琴音さんと一緒に暮らし始めてからある程度、料理も覚えたけれど…、一人で作って一人でご飯を食べるのがこんなにも寂しいものとは。
大学までは実家にいて、大学を卒業すると同時にすぐ琴音さんと同棲をはじめたから、こんな長い期間一人になるなんて今までになかったから。
顔を洗って着替えたら、朝食の支度をしてテレビでニュースをチェックしながら朝ご飯を食べ、片付けて出勤。
淡々としたものだ。起きてから家を出るまでに言葉を何も発しないのも一人なら当たり前だった。
一人暮らし歴が長い人いから、『だんだん独り言を言うのが当たり前になる』というのを聞いたことがある。そのうち、僕もブツブツ言い出すのだろうか。
ブツブツ言ったところで誰の返事もないから、独り言など、余計に寂しさが増幅する呪文じゃないだろうか。
…まだ二週間経たないうちにこの心境。
しかし、保育園での仕事はたくさんあるし、子供達の笑顔にも癒される。
わざわざ東京から助っ人に来たというのもあってか、職員の皆さんにはとてもよくしてもらっている。
誰かに喜んでもらえたり、楽しそうに過ごす子供達を見ていると、やはり僕はこの職業に就いてよかったのだと心から思う。
好きな職業で仕事に打ち込めるというのはこの上なく有り難いことなんだ。
助っ人に来たとはいえ働きづめになるわけじゃなく、ちゃんと休日もある。
休日になれば一度都内の自宅へ帰れるのだろうかと念のため理事長に相談したところ、できれば一段落するまでは長崎に居て欲しいと言われてしまった。
年始からの保育園は通常業務に加えて、毎年恒例の餅つき大会、新年の保護者会、そして3月から4月の卒園から入園までの前準備等々、大忙しなのだ。
週に1~2日の休日があるにしてもそれが仕事で潰れ代休に変わってしまうことだって多々ある。
出勤日や会議になることもザラだった。
人手が足りない時だからこそ、何かあったときにすぐに保育園に来てもらえる距離にいてくれないと困るという意味で理事長は言ったのだろう。
僕は勿論、素直に了承した。理事長には日頃からお世話になっているし、理事長の言ってることはもっともだ。
もし臨時の仕事が入った時にすぐに駆けつけられる距離にいなければ助っ人として役立たずになってしまうだろう。
ただ、琴音さんに逢える日が確実に遠のいた事実がさらに寂しさを募らせていった。
□ □ □
『テツヤくん、ちゃんと食べてる?』
「はい。食べてますよ。一応、栄養を考えたご飯を作ってます」
『ふふ、えらいえらい』
ホームシックの最中でも、仕事が終わってマンションに帰り、夕飯を食べ終えた後にこうして琴音さんと電話するのが日課になっている。
声を聴けること、会話ができること。逢えない期間でも電話だけが救いだった。仕事の話でも日常の話でもどんなに些細な事でもよかった。
鼓膜に響く彼女のおっとりとした口調、優しい声。心がリラックスしていくと同時に、胸の内で“逢いたい”という衝動が掻き立てられる。
「琴音さんが傍にいないのが寂しくて堪らないです」
『うん、私も』
「一人の生活に、全然慣れません」
『私もだよ。大学生の時に一人暮らししてたけど、テツヤくんと一緒に住み始めてから毎日一緒だから、ご飯も寝るときもすごく寂しい』
寂しいのは僕だけじゃない、彼女も、同じぐらい寂しいんだ。声で、気持ちがシンクロしてるのだと分かる。
電話じゃ話せても、触れられない。
今すぐに彼女のもとへ飛んでいける魔法の道具があればいいのにと思う。
彼女の傍にいる時、時間が一刻一刻進んでいくのが惜しいと思うのに、傍にいられない時は時間が早く進んでしまえばいいのにと思う。
琴音さんのこととなると、僕は、自己中心的で我儘だ。
逢いたい、触れたい、抱きしめたい。気持ちが高ぶっていく。際限なく溢れる泉みたいだ。琴音さん以外に関しての事ならばたいていのことは我慢できるのに。
それに、離れていると心配事だってある。
困ったことはないだろうか、変な奴に声をかけられたりしていないだろうか。
…万が一にも、僕以外の誰かに惹かれていないか――そんなこと絶対にないと信じているはずなのに、一人でいる時間のせいで思考が正常でなくなっていった。彼女も、僕と同じ風に想ってくれているだろうか。
少しの沈黙でも、電話の向こう側に愛しい人がいるのだから嫌な空気じゃない。
思い出したように琴音さんが切り出してきたのは、僕の実家に行ったという話だった。
『テツヤくんが出張してることを教えたら、“うちで夕飯食べない?”って誘ってもらえて、昨日行ってきたんだ。そしたらね、お義母さんがテツヤくんの小さい頃のアルバム見せてくれたの。披露宴の時に流したフォトムービーで使ったのとは別に、まだたくさんアルバムがあってね…すごく可愛かったよ!』
嬉々とした様子が抑えられず興奮気味の琴音さんの声に、僕は照れくさくなって言葉に詰まった。
自分でも覚えていないぐらい小さい頃の写真がたくさん実家にある。一人っ子だという事もあってアルバムは僕でいっぱいだった。
僕だけがたくさん見られたんじゃ不公平だ。帰ったら琴音さんの実家に二人で行って、僕も琴音さんのアルバムをたくさん見せて貰おう。
僕の初恋の“8歳の琴音さん”もそこには写っているだろう。
高校生の時に彼女に出会うよりもっと前に、僕たちは一度出会っていた――…僕が5歳で、琴音さんが8歳の時。
夏の暑い日、風で飛ばされて高い塀の上に乗っかってしまった帽子を琴音さんが取ってくれたんだ。
あの時の初恋の人に数年後再び出会い、恋をして、結婚をして僕のお嫁さんになるだなんて、本当に夢みたいな話だけれども、夢じゃないんだ。
自然に笑みがこぼれてしまう。心に火が灯ったみたいにあったかくなる。
『長い出張は寂しいけど…、幸い誕生日に重ならなくてよかったね。帰ってくるのちょうど1月31日だったよね。その日は遅くなりそう?』
「予定では夕飯の時間までには帰れそうです」
『じゃあ、お祝いできるね。張り切って夕飯作るからね!』
「はい、楽しみにしてます」
ひとしきり話終えた後、琴音さんが真剣味を帯びた声色を発した。
『――テツヤくん、あのね』
何か伝えたそうな事があるような…そんな感じだっただが、琴音さんは“誕生日に食べたいものがある?”と質問してきた。
咄嗟に、誤魔化したように思えたが、僕はすぐ質問に答えられなかった。
琴音さんが作ってくれるものならば何でもいい。何だって美味しい。
彼女の声色が変わったのは本当に一言だけだった。不思議に思いつつも、その夜は電話を切ってシャワーを浴びてすぐ寝床についた。
困っていることであればきっと相談してくるはずだ。だが、さっきの声は、喜びを含んだ感じだったから。
隣に感じる体温がないことでベッドがひんやりと感じる。それはただの錯覚。わかっているのに。
あと一日、あと一日、と、帰れる日を指折り数え、瞼を閉じてマンションで待つ彼女を思い浮かべた。
そして、眠りに落ちて薄れゆく意識の中で思う。気のせいだったか?と済ませてしまえばそれまでなのだが。
あの時、琴音さんが伝えたかったことは何だったんだろう――
□ □ □
待ちに待った、都内へ帰る日がやって来た。
午前中に保育園で無事退院してきた保育士の方へ引き継ぎをし、最後に挨拶をして回った。
その後は、先生方や生徒達が僕のためにお別れ会を開いてくれた。
本当に、有り難いことだ。ほんの短い間しかいなかったけど、皆さんと仲良くできたし、色々と勉強させてもらうことも多くいい経験になったと思う。
今回はゆっくり観光は出来なかったけれど、また改めて機会がを作って長崎に来たい。今度は、琴音さんと一緒に。
理事長の車で空港まで送ってもらった後は、順調に時間通りの飛行機にのり何事もなく都内へついた。
今頃、琴音さんはキッチンに立っているだろう。
羽田空港の人混みを抜けてモノレール乗り場へ足早に移動した。寄り道せずにまっすぐ自宅へ向かう。
もう少し、あと少しと、逢いたい気持ちばかりが急いている僕は、自分がホームシックになっていたことなどすっかり忘れていた。
誕生日の当日、予定通りの時間に帰れた事や仕事を一通り無事終えたことへの安心感で不安が掻き消されたんだ。
ようやく自宅に到着しインターホンを鳴らすも出てこない。
時間は午後6時。…もしかしてまだ買い物から戻ってきてない可能性がある。
とりあえず僕は鞄から自宅の鍵を取り出してドアを開けて、重たいトランクを玄関先の壁に沿って置いた。
玄関に琴音さんの靴もあるし、部屋の明かりもついていた。ふと、玄関先の空気も心なしかあたたかい。
リビングの方から夕飯のいい香りが鼻を掠めた。
…留守じゃない。
ドッと、一瞬嫌な予感が頭を過ぎり冷や汗がこめかみに滲み慌てて靴を脱いでリビングへ駆け込むと、――そこにはソファで座りながらうたた寝をしている琴音さんの姿。
近づいて寝息を立てているのを確認して、ほっと安堵の息をついた。
「よかった…」
僕の呟きで彼女の眠たそうな瞼はゆっくりと開く。
そしてパチリ、と開いて僕と目が合うと驚いた様子を見せた。
「琴音さん、ただいま。今帰りました」
「えっ…?あ、あ、てっ、テツヤくんおかえりなさい!わ、やだ、私寝ちゃってた…お出迎えもしないでごめんなさい」
「いいんですよ。…琴音さんがここにいるならそれで」
隣に座って肩を寄せ、ギュッと抱き締めて彼女の首に鼻先を近づけた。ずっと逢いたかった。
一日でも逢えないと寂しいなんて思うのは、唯一無二の君だからだ。
寂しかった時間を埋めるようにしばらく黙ったまま琴音さんの体温と鼓動を感じて、平常を取り戻す。ひとまずの充電完了、といったところだ。
体を離して彼女を見つめたら、へへ、とそこにはいつもの笑顔。照れくさそうに口元を緩ませているのがとても愛らしい。
ふと、琴音さんの膝の上に置いてあるアルバムが目に入った。そこには――幼少期の僕の写真がたくさんファイルしてあった。
首を傾げて僕が口を開く前に、琴音さんは『テツヤくんのお義母さんから借りてきたの』と、ニッコリと満足げに笑った。
「どの頃のテツヤくんもすごく可愛い。この赤ん坊の時なんて目がパッチリしてほっぺもまんまるしてて、天使みたいだね」
赤ん坊の頃の写真を指さして、目を細めて愛おしそうに見つめている琴音さん。
天使なんて、言い過ぎですよ、と、僕が彼女の手を握ろうとした時、琴音さんの手はアルバムから移動しておなかにピタリと触れた。
彼女自身のお腹に。
「この子もテツヤくんに似て可愛くなるだろうね」
手の平で優しく、円を描くように撫でるその仕草と、彼女の言葉が意味する事――辿り着く答えは1つ。
僕はすぐに言葉が出てこないかわりにそっと彼女の手の上越しにお腹に触れた。
喜びなんて通り越して、感動の波がぐっと押し寄せて、体温を上昇させた。
涙で視界が滲む、揺れる。鼻の奥がツンとする。君があの時伝えたかったのはこの事だったんだ。
「驚かせようと思って内緒にしてたの。私…すごく幸せだよ。テツヤくん、誕生日おめでとう」
夢の中にいるみたいに意識がふわりと飛んでいきそうだった僕を、微笑みと共に祝福してくれた琴音さんを再び抱きしめるのは、すぐだった。
優しく背中に手を回し壊れ物を扱うように彼女を腕の中にそっと閉じこめる。
熱いものが頬を伝って、琴音さんの首筋に当たると、それに気づいた彼女は小さく微笑んで僕の頭を撫でた。
おめでとう、テツヤくんおめでとう、と、何度も囁きながら髪に触れられる度に、鼓動が強くなっていく。
「最高の誕生日プレゼントです…。僕は世界一の幸せ者です」
涙が止まらないのも全部、全部、嬉しくて堪らないからだ。今にも叫び出しそうだ。
僕にまた、宝物が増える。
守りたいものが増えていく。愛する人が増えていく。
僕は君に幸せをもらってばかりでいいのかなって時々、思うんだ。
でもきっと僕には同じぐらい返すことなんて出来ないだろう。
だって僕には何も出来ないのだから。精一杯のこの愛を与え続ける事以外には、何も。
心の中でこんなことを思っていたと伝えたなら、きっと君は大袈裟だよって笑うんだろう。
――『運命の赤い糸を辿ってここまで来た』
…それは確信に変わり、糸はまた次の命をへと絆を紡いでいく。
僕に幸せの在処をくれた君へ、世界で一番大好きな君へ、心からありがとうを伝えたい。
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