黒子くんと大学生マネージャー
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ホーム・スイート・ホーム
春から…一緒に暮らしませんか?、と、相変わらずの穏やかな声で彼は言った。
何かを隠すように握っていた手を開くと、そこには1つの鍵。キラキラと光るそれは私にとって宝石のように見えた。
無事に就職先を決め、あとは卒業を待つだけという時期にテツヤくんからそんなことを言われたのはちょうど半年前のことだった。
私を驚かすために部屋も探して鍵を入手していたのだ。本当にあの時は驚いた。
サプライズがしたくて水面下で準備を進めていたらしい。どういった間取りの部屋が好きかなど、『もし一緒に暮らすなら』という話題で色々話した日があったのはそういうことだったのか、と鍵を見たときに答え合わせが出来た。
いつか一緒に暮らせたらいいなとは願っていたものの、もっと先の話だと思っていた。
すでに部屋まで契約していたなんて、あそこで私がもし「NO」と言ったらどうしていたんだろう。
まぁ、そんなことは100%ないんだけど。こんなサプライズしてもらったことなかったから、思い返す度に胸が温かくなった。
――春からの甘い同棲生活を経て、今はちょうど9月の中頃。
夏を過ぎてもまだまだ残暑のせいで蒸し暑く、その上、仕事の忙しさも相まって私は鬱屈としていた。
テツヤくんとは歳が3つ離れているので、私は彼より三年早く就職し、そしてこの9月の中間決算という一年で二番目に忙しい時期にさしかかっていた。
会社によって繁忙期は異なるだろうけど、うちの会社の一番の繁忙期は3月、次いで9月だった。
忙しくて猫の手も借りたい。気が立つ。わけもなく声を張り上げる衝動がこみ上げる。これも忙しさのせいかもしれない。
だから、私は時々テツヤくんとの優しい思い出を思い返しては心を静めているのだ。
「琴音さん」、と名前を呼んで微笑むテツヤくんを想像するだけで尖った心が丸くなっていくようだ。
春から保父さんとして保育園に勤めている彼だが、ここ最近の私よりも帰りが早い。
行事がある時期は忙しいみたいだが、それ以外ではわりと帰る時間もわりと安定している職場みたいだ。
テツヤくんもきっと要領よく手早に仕事をこなしているんだろうなぁ。
子供にも丁寧言葉で話して、保護者たちにも人気の先生になっているに違いない。そんな姿が想像できた。
最近は、ごはんの支度や買い物も任せっきりで申し訳ない。私が帰る時間帯ではスーパーは既に品薄の時間帯だった。
繁忙期でなければ、ご飯を作ってあげたり色々とサポートしてあげたいのにな。私がこの時期忙しいことは分かりきっていたことだし、できれば就職1年目の彼の方が色々と大変だろうから、家事の面でもサポートしたかったのに…。
それができないのがもどかしかった。
早く忙しい時期が終わってくれればいいのにとそればかりずっと頭の中で繰り返していた。
しかし、今日は金曜日。
今日という日が終わったら祝日を含めて3連休だ。
忙しくて帰りが遅い日が続くとはいえ、お休みはカレンダー通りだから助かる。
連休を励みに仕事をある程度こなしてから切り上げ、私は日付が変わる3時間前に重い体を引きずって帰宅した。
「ただいまぁ」
ドアを開けるといい香りがリビングの方から漂ってきた。ホワイトシチューだ。
残業しながら食べたものといえばカロリーメイトぐらいで、今日はすごくお腹が減っている。
「琴音さんおかえりなさい。お疲れさまです」
玄関でパンプスを脱いでいるとリビングから移動してきてテツヤくんがお迎えしてくれた。
あぁ、この顔見ると安心するなぁ。やっときた週末に心がほっとしていくのを感じた。
「晩ご飯できてますよ。一緒に食べましょう」
「え?食べないで待っててくれたの?今日はいつもより遅かったのに…」
「はい。でも、週末くらいは一緒に食べたかったので」
俯いたテツヤくんは少し寂しそうだった。
大抵遅くなって夕飯の時間に帰れないときは「先に食べててね」とメールをしているのだが、今日は待っていてくれたみたいだ。
そういえば今週はずっと一緒に夕飯食べてないなぁ。寂しい思いをさせてしまった。繁忙期がよりいっそう憎くなった。
心苦しくて何と返していいか言葉がすぐに出てこないでいる私の手を一度だけギュ、と握ってから離した。
「シチュー、温めなおしてきますね」
そう言うとテツヤくんはリビングに戻っていった。いつも優しいテツヤくん。やわらかいその声に甘えてしまいたいと思った。
でも、毎年来る繁忙期の度に気持ちまで甘えてしまってはいけないとぐっと我慢する。
…気持ちを我慢したかわりに、直後、体は重ダルい感覚と眠気に襲われた。
あと少し、あと少しでいいから持ちこたえてと自分に言い聞かせるも疲れは変わなかった。
残業後で化粧も崩れているしきっと目の下のクマだってひどいはず。
真っ向から顔を見られたくないけど、向かい合って夕飯を食べるときに見られてしまうなんて憂鬱だな。
…学生の頃ならすぐに回復した体力も確実に衰えてしまっている。このままあっと言う間におばさんになっちゃうのかなぁ。
果たしてその時、テツヤくんは傍にいてくれるのだろうか。呆れられたりしないだろうか。
まだ先のことを想像しつつ、靴を揃えてから私もリビングに向かった。
□ □ □
得意料理はゆでたまご。
付き合って間もないころに聞いたことがあったが、ホワトシチューも得意料理にしていいよ!と思うほど、テツヤくんの作ったシチューは絶品だった。
自ら料理を覚えていき日々レベルアップしていく彼の師匠は火神くんだろうか?
数倍美味しくなるような隠し味が入ってる気がした。私が作れる料理のレパートリーの数も追い越してしまう日はそう遠くないなぁ。
「すごくおいしいよ。お店の味みたい」
「そう言ってもらえると作った甲斐があります」
素直な感想を伝えると照れたように彼は笑った。
ありがたいことに食後のフルーツまで用意してくれていたので、それを食べながら私は少しだけ仕事の話をした。
「来月の頭でこの忙しい期間、終わるからね。毎年のことなんだけど特に今年は新しくはじめた事業も多くて…毎晩遅くなっちゃってごめんね」
項垂れる私にテツヤくんは、顔を上げてください、と一言。
仕事だし仕方ない、謝るようなことじゃないと、きっとそんな意味もこめられているのだろうと一方的に解釈する。
もし逆の立場でも私も同じことを思だろう。
「僕も大きな行事がある時は帰りが遅くなってきっとあなたに頼ることもあります。だから、気に病まないでください」
テツヤくんが言っていることは正論だ。彼が大変なときは私を頼ってほしいし、サポートしたいと思っている。
誰も責めたりはしていないのだから謝る必要もないのかもしれない。ただ私の中で、申し訳ない気持ちが大きくなって謝りたくなっただけなのだ。
これ以上何か言ってもきっと押し問答になってしまうので、私がゆっくり頷くと、テツヤくんは優しく笑って「わかってもらえればいいです」と言ってくれたことが頼もしく感じた。
・・・
・・・・・
・・・・・・
食後にコーヒーを飲みながらふう、と一息ついている間にテツヤくんは食器を洗ってくれている。
結局、先ほどの会話の流れからテツヤくんに甘えさせてもらうことになってしまった。
夕飯も作ってもらったんだし後かたづけはせめて私がやりたかったんだけど、キッチンの前に立ったらぐいぐいと背中を押されてリビングへ追い出されてしまった。
きっとまた行っても追い出されちゃうんだろうな。ありがたくお言葉に甘えさせてもらうことにした。
私はソファに腰掛けながら右手に持っていたカップをテーブルの上に置いた。
後ろで水音と、カチャカチャと食器が重なる音が聞こえた。なんとなくテレビをつけてみるも、食器洗いの音のが耳に心地よい。
今日は週末で連休の前なので夜更かしするには絶好のチャンス。
映画のDVDをテツヤくんと見る約束をしているから、寝るわけにはいかないとコーヒーでなんとかならないかと思っているのだが…。
週末までに蓄積した疲労、睡眠不足の前ではカフェイン程度も効力を発揮することもなく、その上空腹も満たされたので抗えない眠気が襲ってきた。
ソファもふかふかしていて気持ちいい。
…寝ちゃだめなのに…まだお風呂も入ってないし。
うつらうつらと舟を漕ぎ、ついに私の瞼は閉じた瞬間、ふわりと、おでこにかかった前髪が撫でられた。
目を開けるとテツヤくんが顔を覗きこんでいた。
「あ…」
これがいつもの私だったら「わぁ!」と声をあげて驚いているところだが。
寝ぼけいたので、焦点が定まっていない瞳でテツヤくんを見つめて小さく声が出るだけだった。
「ここで寝ると風邪をひいてしまいますよ。お風呂も入れてあるので先にどうぞ。そしたらいつ寝ても大丈夫ですし…」
「じゃあ先に入らせてもらおうかな…。でも今日はDVD見るまで寝ないよ」
ゆっくりソファから立ち上がり私はのろのろとお風呂場へ向かった。瞼が重い。
歩きながらも目を閉じてしまいそうだったけれど、きっとシャワーを浴びれば少しは目がさめるだろう…と、思う。たぶん。
お風呂からあがると続いてテツヤくんが入り、ドライヤーを終えた私は再びソファに座っていた。
化粧水や乳液でお肌のケアしてから、DVDのパッケージを見ていた。
裏側にあらすじが書いていたので目を通す。群からはぐれてしまったイルカが冒険するお話だった。
テツヤくんが借りてきたのでてっきりミステリーかと思っていたのだが、違ったようだ。
表面のパッケージにもかわいイルカが載っていた。海もイルカも本物と見間違えるほどにリアルだが、すべてCGアニメーションみたい。
そのイルカと目が合う。心が和むついでに私の瞼がまた閉じかけた。
……ダメだ。眠い、寝そう。
浴槽に浸かって温められた体に、正直なほどにじんわりと疲労と眠気が伝わってくる。
…テツヤくんがお風呂からあがるまで寝ないように立ってウロウロして待ってるべきだったなぁ。
こてん、とソファに横になってしまって瞼が閉じた。意識が眠りへと落ちる直前、テツヤくんごめんね、と私は再び謝罪の言葉を彼に投げたのだった。
□ □ □
海の中にいるみたいな浮遊感。ゆらゆらと揺れている体が心地よい。私の隣にはイルカがいて私の頬にキスをした。
目を閉じてまた開けると、イルカはテツヤくんになっていた。
変身したのかな。人間に戻れたの?って聞いたら、彼はゆっくりと頷いた。ふふ、と笑うと彼の体は透けていく。
慌てて体に触ろうとしても手は彼の体をすり抜け触ることができなかった。
待って、どうして、せっかく人間に戻れたのに、――置いていかないで…!
ハッ、と目を覚ますと目の前にはテツヤくんの寝顔。数秒の間、夢から覚めたことに気づかず私は呆然としていた。
部屋は薄暗く、私はベッドの中にいた。枕元の時計をみると午前3時。…あ。え、え、さ、3時!?
結局、お風呂からでてくるテツヤくんを待っている間に寝てしまったのだ。ソファからテツヤくんがベッドまで運んでくれたんだろう。
DVDも私のせいで見れなかったし、その後悔が夢になって出てきたんだろう。
隣で眠っているテツヤくんにそっと寄り添う。鼻先が彼の腕にくっつくかくっつかないかの距離で動きを止めた。
起こしてしまったら可哀想だ。せっかくの週末だったのに夜更かしもできなかったなぁと思うと、ため息が漏れた。
明日は早起きして謝ろうと思い、私が瞼を閉じると同時に頬にあたたかい感触。
「琴音さん」
声に反応して目を開ければ、いつの間にこちらに体を向けて私を見ているテツヤくんがいた。
至近距離で目があってドキ、と心臓が跳ねる。
「ご、ごめん。起こしちゃった?」
「いえ、大丈夫ですよ。何となく寝付けなかっただけなので」
頬にピタリと触れている手から熱が伝わって、気持ちいい。心地よくてまた目を閉じそうになってしまった。
「あの、運んでくれたの?」
「はい」
「重くなかった?」
「余裕です」
「そ、か…。ありがとう」
お姫様だっこされて運んでくれたのかな…と想像すると、何だか照れくさくなって私はテツヤくんの胸に顔を寄せた。
鼻先が彼の鎖骨あたりに触れた。体温があったかい。
「今日はごめんね」
「…謝るのはもうなしですよ」
テツヤくんの手が背中に回り、子供をあやすような仕草で優しく叩いた。
照れくささに混ざって情けなさも感じてしまい、私は何も言わずに頷いた。これじゃあどっちが年上なんだか…。
いずれもし、結婚するとしても、今の時代共働きは必須だ。
少しぐらい忙しくても、家事も仕事もしっかり両立できるぐらいの体力を付けておかねばと私は肝に銘じた。
思い返せば――、私が「ごめんね」と言うと決まって彼は許してくれる。
許してくれなかったことなど一度もないだろう。
ましてや何かして怒られたことも、ない。彼が怒るといえば、テツヤくん以外の男の人と仲良さげに話しているように見えたときに焼き餅をやかれる…そのぐらいしか思いつかない。
私が彼に甘やかされていたのは今に始まったことではないんだと思うと、改めて心から幸せ者だなと実感した。
私にはもったいないぐらい、幸せ。
「琴音さん…?」
内心で色々と思いを巡らせていてしばらく無言のままフリーズしていた私にテツヤくんは呼びかけた。
慌てて、なあに?と返事をして私はまたテツヤくんにすり寄った。
テツヤくん、いい香りがするなぁ。同じボディソープを使っているはずなのに、何だか不思議。
「疲れ、少しはとれましたか?」
「うん、ちょっと寝たら楽になったよ」
イルカの夢をみたのはほんの少しだけで、その手前まで疲れのあまり短時間であるものの集中的にぐっする眠れた。
だから、あの帰宅直後の重いダルさが回復したのは嘘じゃなかった。
「そうですか。じゃあ……、こうします」
ふふ、と笑って返したものの、私は直後その笑った口角が張り付いたように固まったまま天井を見上げることになった。
――え?
それはほんの一瞬だったので、声も出なかった。
寄り添っていた体をいとも簡単にころんと傾けられ、私はテツヤくんに押し倒されてしまった。
私の顔の横に手をついて彼は真剣な眼差しを向けてきた。
少し力を抜いたなら、今にも覆い被さってくるような至近距離だ。
はじめてというわけでもないのに、こうされる度にはじめてのようなドキドキが体中を駆け巡る。
眠たいと体温が上昇するというが、その類のものとは別の要因で、顔がぼうっと熱くなった。
本音を言います、と、テツヤくんは囁くような声で話し出した。
「DVDを見たいと言ったのも、一緒に夜更かしをしたかった口実です。ここ最近忙しそうなのは分かってたんですが…やはり、寂しかったです」
素直に本音をぶつけられて、私は何とも複雑な気持ちになった。寂しい思いをさせて申し訳なさよりも、嬉しい気持ちのが上回っている。
テツヤくんも、相手に負担になるようなことかなと思うと言うのを我慢してしまうところがあるから…要は、すごく気遣いができるってことなんだけど。
テツヤくんが寂しがっていたのに嬉しいなんて意地悪かな…?
まとまりのない答えを頭の中で堂々巡りさせるも、『寂しかった』に対して、私から出てきた言葉は、変わらなかった。
「寂しい思いをさせて、ごめ」
最後の二文字の「ん」と「ね」が言えなかったのは、唇を塞がれたからだ。つい言ってしまったこのワードは、禁句だった。
先程、“謝るのはもうなし”だと言われていたのに。
一度だけ降りてきた柔らかい唇は静かに触れて離れていき、静かに見つめらた。薄倉闇の中なのに、テツヤくんの瞳の中に自分が見えるような気がする。
こんなにも近い。近くて、心も体もとても温かい。
「かまってもらってもいいですか?」
「て、テツヤくん…」
「琴音さんからも聞きたいです」
「……、テツヤくん、私もしたい」
彼の手が私の体のラインをなでるように上にあがっていき、寝間着のボタンに触った。
こうしていつもリードしてくれるなぁと思いつつ、私はこんな時のテツヤくんを普段以上に男の人なんだなと感じる。
時々、体を重ねる前のスタートの合図のように、声に出してと促されるから何だか恥ずかしくなってしまう。
「…よくできました」
クス、と微笑んで、テツヤくんは私の鎖骨にキスを落とした。今の彼の表情はかわいいというよりは、凛々しくてカッコいい。
それから、私の首筋に顔を埋めて耳元で何度か囁いた。首筋に唇が触れた途端、私は思わず目を閉じた。
直接囁かれた耳も、顔、手も、どこもかしこも熱くなる。忙しい日々を送っていた昨日までが嘘みたいに遠い世界に思える。
今この時間も夢のように思えた。いつまでも続けばいい、幸せな夢を見てるようだ。寂しい気持ちがどうか埋まっていきますように。
甘い時間が過ぎた後に伝えたい言葉が胸の中を過ぎっていった。同棲してから半年経つけど、これからもよろしくね、と。伝えた後、彼が笑顔を見せてくれるといいな。
春から…一緒に暮らしませんか?、と、相変わらずの穏やかな声で彼は言った。
何かを隠すように握っていた手を開くと、そこには1つの鍵。キラキラと光るそれは私にとって宝石のように見えた。
無事に就職先を決め、あとは卒業を待つだけという時期にテツヤくんからそんなことを言われたのはちょうど半年前のことだった。
私を驚かすために部屋も探して鍵を入手していたのだ。本当にあの時は驚いた。
サプライズがしたくて水面下で準備を進めていたらしい。どういった間取りの部屋が好きかなど、『もし一緒に暮らすなら』という話題で色々話した日があったのはそういうことだったのか、と鍵を見たときに答え合わせが出来た。
いつか一緒に暮らせたらいいなとは願っていたものの、もっと先の話だと思っていた。
すでに部屋まで契約していたなんて、あそこで私がもし「NO」と言ったらどうしていたんだろう。
まぁ、そんなことは100%ないんだけど。こんなサプライズしてもらったことなかったから、思い返す度に胸が温かくなった。
――春からの甘い同棲生活を経て、今はちょうど9月の中頃。
夏を過ぎてもまだまだ残暑のせいで蒸し暑く、その上、仕事の忙しさも相まって私は鬱屈としていた。
テツヤくんとは歳が3つ離れているので、私は彼より三年早く就職し、そしてこの9月の中間決算という一年で二番目に忙しい時期にさしかかっていた。
会社によって繁忙期は異なるだろうけど、うちの会社の一番の繁忙期は3月、次いで9月だった。
忙しくて猫の手も借りたい。気が立つ。わけもなく声を張り上げる衝動がこみ上げる。これも忙しさのせいかもしれない。
だから、私は時々テツヤくんとの優しい思い出を思い返しては心を静めているのだ。
「琴音さん」、と名前を呼んで微笑むテツヤくんを想像するだけで尖った心が丸くなっていくようだ。
春から保父さんとして保育園に勤めている彼だが、ここ最近の私よりも帰りが早い。
行事がある時期は忙しいみたいだが、それ以外ではわりと帰る時間もわりと安定している職場みたいだ。
テツヤくんもきっと要領よく手早に仕事をこなしているんだろうなぁ。
子供にも丁寧言葉で話して、保護者たちにも人気の先生になっているに違いない。そんな姿が想像できた。
最近は、ごはんの支度や買い物も任せっきりで申し訳ない。私が帰る時間帯ではスーパーは既に品薄の時間帯だった。
繁忙期でなければ、ご飯を作ってあげたり色々とサポートしてあげたいのにな。私がこの時期忙しいことは分かりきっていたことだし、できれば就職1年目の彼の方が色々と大変だろうから、家事の面でもサポートしたかったのに…。
それができないのがもどかしかった。
早く忙しい時期が終わってくれればいいのにとそればかりずっと頭の中で繰り返していた。
しかし、今日は金曜日。
今日という日が終わったら祝日を含めて3連休だ。
忙しくて帰りが遅い日が続くとはいえ、お休みはカレンダー通りだから助かる。
連休を励みに仕事をある程度こなしてから切り上げ、私は日付が変わる3時間前に重い体を引きずって帰宅した。
「ただいまぁ」
ドアを開けるといい香りがリビングの方から漂ってきた。ホワイトシチューだ。
残業しながら食べたものといえばカロリーメイトぐらいで、今日はすごくお腹が減っている。
「琴音さんおかえりなさい。お疲れさまです」
玄関でパンプスを脱いでいるとリビングから移動してきてテツヤくんがお迎えしてくれた。
あぁ、この顔見ると安心するなぁ。やっときた週末に心がほっとしていくのを感じた。
「晩ご飯できてますよ。一緒に食べましょう」
「え?食べないで待っててくれたの?今日はいつもより遅かったのに…」
「はい。でも、週末くらいは一緒に食べたかったので」
俯いたテツヤくんは少し寂しそうだった。
大抵遅くなって夕飯の時間に帰れないときは「先に食べててね」とメールをしているのだが、今日は待っていてくれたみたいだ。
そういえば今週はずっと一緒に夕飯食べてないなぁ。寂しい思いをさせてしまった。繁忙期がよりいっそう憎くなった。
心苦しくて何と返していいか言葉がすぐに出てこないでいる私の手を一度だけギュ、と握ってから離した。
「シチュー、温めなおしてきますね」
そう言うとテツヤくんはリビングに戻っていった。いつも優しいテツヤくん。やわらかいその声に甘えてしまいたいと思った。
でも、毎年来る繁忙期の度に気持ちまで甘えてしまってはいけないとぐっと我慢する。
…気持ちを我慢したかわりに、直後、体は重ダルい感覚と眠気に襲われた。
あと少し、あと少しでいいから持ちこたえてと自分に言い聞かせるも疲れは変わなかった。
残業後で化粧も崩れているしきっと目の下のクマだってひどいはず。
真っ向から顔を見られたくないけど、向かい合って夕飯を食べるときに見られてしまうなんて憂鬱だな。
…学生の頃ならすぐに回復した体力も確実に衰えてしまっている。このままあっと言う間におばさんになっちゃうのかなぁ。
果たしてその時、テツヤくんは傍にいてくれるのだろうか。呆れられたりしないだろうか。
まだ先のことを想像しつつ、靴を揃えてから私もリビングに向かった。
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得意料理はゆでたまご。
付き合って間もないころに聞いたことがあったが、ホワトシチューも得意料理にしていいよ!と思うほど、テツヤくんの作ったシチューは絶品だった。
自ら料理を覚えていき日々レベルアップしていく彼の師匠は火神くんだろうか?
数倍美味しくなるような隠し味が入ってる気がした。私が作れる料理のレパートリーの数も追い越してしまう日はそう遠くないなぁ。
「すごくおいしいよ。お店の味みたい」
「そう言ってもらえると作った甲斐があります」
素直な感想を伝えると照れたように彼は笑った。
ありがたいことに食後のフルーツまで用意してくれていたので、それを食べながら私は少しだけ仕事の話をした。
「来月の頭でこの忙しい期間、終わるからね。毎年のことなんだけど特に今年は新しくはじめた事業も多くて…毎晩遅くなっちゃってごめんね」
項垂れる私にテツヤくんは、顔を上げてください、と一言。
仕事だし仕方ない、謝るようなことじゃないと、きっとそんな意味もこめられているのだろうと一方的に解釈する。
もし逆の立場でも私も同じことを思だろう。
「僕も大きな行事がある時は帰りが遅くなってきっとあなたに頼ることもあります。だから、気に病まないでください」
テツヤくんが言っていることは正論だ。彼が大変なときは私を頼ってほしいし、サポートしたいと思っている。
誰も責めたりはしていないのだから謝る必要もないのかもしれない。ただ私の中で、申し訳ない気持ちが大きくなって謝りたくなっただけなのだ。
これ以上何か言ってもきっと押し問答になってしまうので、私がゆっくり頷くと、テツヤくんは優しく笑って「わかってもらえればいいです」と言ってくれたことが頼もしく感じた。
・・・
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・・・・・・
食後にコーヒーを飲みながらふう、と一息ついている間にテツヤくんは食器を洗ってくれている。
結局、先ほどの会話の流れからテツヤくんに甘えさせてもらうことになってしまった。
夕飯も作ってもらったんだし後かたづけはせめて私がやりたかったんだけど、キッチンの前に立ったらぐいぐいと背中を押されてリビングへ追い出されてしまった。
きっとまた行っても追い出されちゃうんだろうな。ありがたくお言葉に甘えさせてもらうことにした。
私はソファに腰掛けながら右手に持っていたカップをテーブルの上に置いた。
後ろで水音と、カチャカチャと食器が重なる音が聞こえた。なんとなくテレビをつけてみるも、食器洗いの音のが耳に心地よい。
今日は週末で連休の前なので夜更かしするには絶好のチャンス。
映画のDVDをテツヤくんと見る約束をしているから、寝るわけにはいかないとコーヒーでなんとかならないかと思っているのだが…。
週末までに蓄積した疲労、睡眠不足の前ではカフェイン程度も効力を発揮することもなく、その上空腹も満たされたので抗えない眠気が襲ってきた。
ソファもふかふかしていて気持ちいい。
…寝ちゃだめなのに…まだお風呂も入ってないし。
うつらうつらと舟を漕ぎ、ついに私の瞼は閉じた瞬間、ふわりと、おでこにかかった前髪が撫でられた。
目を開けるとテツヤくんが顔を覗きこんでいた。
「あ…」
これがいつもの私だったら「わぁ!」と声をあげて驚いているところだが。
寝ぼけいたので、焦点が定まっていない瞳でテツヤくんを見つめて小さく声が出るだけだった。
「ここで寝ると風邪をひいてしまいますよ。お風呂も入れてあるので先にどうぞ。そしたらいつ寝ても大丈夫ですし…」
「じゃあ先に入らせてもらおうかな…。でも今日はDVD見るまで寝ないよ」
ゆっくりソファから立ち上がり私はのろのろとお風呂場へ向かった。瞼が重い。
歩きながらも目を閉じてしまいそうだったけれど、きっとシャワーを浴びれば少しは目がさめるだろう…と、思う。たぶん。
お風呂からあがると続いてテツヤくんが入り、ドライヤーを終えた私は再びソファに座っていた。
化粧水や乳液でお肌のケアしてから、DVDのパッケージを見ていた。
裏側にあらすじが書いていたので目を通す。群からはぐれてしまったイルカが冒険するお話だった。
テツヤくんが借りてきたのでてっきりミステリーかと思っていたのだが、違ったようだ。
表面のパッケージにもかわいイルカが載っていた。海もイルカも本物と見間違えるほどにリアルだが、すべてCGアニメーションみたい。
そのイルカと目が合う。心が和むついでに私の瞼がまた閉じかけた。
……ダメだ。眠い、寝そう。
浴槽に浸かって温められた体に、正直なほどにじんわりと疲労と眠気が伝わってくる。
…テツヤくんがお風呂からあがるまで寝ないように立ってウロウロして待ってるべきだったなぁ。
こてん、とソファに横になってしまって瞼が閉じた。意識が眠りへと落ちる直前、テツヤくんごめんね、と私は再び謝罪の言葉を彼に投げたのだった。
□ □ □
海の中にいるみたいな浮遊感。ゆらゆらと揺れている体が心地よい。私の隣にはイルカがいて私の頬にキスをした。
目を閉じてまた開けると、イルカはテツヤくんになっていた。
変身したのかな。人間に戻れたの?って聞いたら、彼はゆっくりと頷いた。ふふ、と笑うと彼の体は透けていく。
慌てて体に触ろうとしても手は彼の体をすり抜け触ることができなかった。
待って、どうして、せっかく人間に戻れたのに、――置いていかないで…!
ハッ、と目を覚ますと目の前にはテツヤくんの寝顔。数秒の間、夢から覚めたことに気づかず私は呆然としていた。
部屋は薄暗く、私はベッドの中にいた。枕元の時計をみると午前3時。…あ。え、え、さ、3時!?
結局、お風呂からでてくるテツヤくんを待っている間に寝てしまったのだ。ソファからテツヤくんがベッドまで運んでくれたんだろう。
DVDも私のせいで見れなかったし、その後悔が夢になって出てきたんだろう。
隣で眠っているテツヤくんにそっと寄り添う。鼻先が彼の腕にくっつくかくっつかないかの距離で動きを止めた。
起こしてしまったら可哀想だ。せっかくの週末だったのに夜更かしもできなかったなぁと思うと、ため息が漏れた。
明日は早起きして謝ろうと思い、私が瞼を閉じると同時に頬にあたたかい感触。
「琴音さん」
声に反応して目を開ければ、いつの間にこちらに体を向けて私を見ているテツヤくんがいた。
至近距離で目があってドキ、と心臓が跳ねる。
「ご、ごめん。起こしちゃった?」
「いえ、大丈夫ですよ。何となく寝付けなかっただけなので」
頬にピタリと触れている手から熱が伝わって、気持ちいい。心地よくてまた目を閉じそうになってしまった。
「あの、運んでくれたの?」
「はい」
「重くなかった?」
「余裕です」
「そ、か…。ありがとう」
お姫様だっこされて運んでくれたのかな…と想像すると、何だか照れくさくなって私はテツヤくんの胸に顔を寄せた。
鼻先が彼の鎖骨あたりに触れた。体温があったかい。
「今日はごめんね」
「…謝るのはもうなしですよ」
テツヤくんの手が背中に回り、子供をあやすような仕草で優しく叩いた。
照れくささに混ざって情けなさも感じてしまい、私は何も言わずに頷いた。これじゃあどっちが年上なんだか…。
いずれもし、結婚するとしても、今の時代共働きは必須だ。
少しぐらい忙しくても、家事も仕事もしっかり両立できるぐらいの体力を付けておかねばと私は肝に銘じた。
思い返せば――、私が「ごめんね」と言うと決まって彼は許してくれる。
許してくれなかったことなど一度もないだろう。
ましてや何かして怒られたことも、ない。彼が怒るといえば、テツヤくん以外の男の人と仲良さげに話しているように見えたときに焼き餅をやかれる…そのぐらいしか思いつかない。
私が彼に甘やかされていたのは今に始まったことではないんだと思うと、改めて心から幸せ者だなと実感した。
私にはもったいないぐらい、幸せ。
「琴音さん…?」
内心で色々と思いを巡らせていてしばらく無言のままフリーズしていた私にテツヤくんは呼びかけた。
慌てて、なあに?と返事をして私はまたテツヤくんにすり寄った。
テツヤくん、いい香りがするなぁ。同じボディソープを使っているはずなのに、何だか不思議。
「疲れ、少しはとれましたか?」
「うん、ちょっと寝たら楽になったよ」
イルカの夢をみたのはほんの少しだけで、その手前まで疲れのあまり短時間であるものの集中的にぐっする眠れた。
だから、あの帰宅直後の重いダルさが回復したのは嘘じゃなかった。
「そうですか。じゃあ……、こうします」
ふふ、と笑って返したものの、私は直後その笑った口角が張り付いたように固まったまま天井を見上げることになった。
――え?
それはほんの一瞬だったので、声も出なかった。
寄り添っていた体をいとも簡単にころんと傾けられ、私はテツヤくんに押し倒されてしまった。
私の顔の横に手をついて彼は真剣な眼差しを向けてきた。
少し力を抜いたなら、今にも覆い被さってくるような至近距離だ。
はじめてというわけでもないのに、こうされる度にはじめてのようなドキドキが体中を駆け巡る。
眠たいと体温が上昇するというが、その類のものとは別の要因で、顔がぼうっと熱くなった。
本音を言います、と、テツヤくんは囁くような声で話し出した。
「DVDを見たいと言ったのも、一緒に夜更かしをしたかった口実です。ここ最近忙しそうなのは分かってたんですが…やはり、寂しかったです」
素直に本音をぶつけられて、私は何とも複雑な気持ちになった。寂しい思いをさせて申し訳なさよりも、嬉しい気持ちのが上回っている。
テツヤくんも、相手に負担になるようなことかなと思うと言うのを我慢してしまうところがあるから…要は、すごく気遣いができるってことなんだけど。
テツヤくんが寂しがっていたのに嬉しいなんて意地悪かな…?
まとまりのない答えを頭の中で堂々巡りさせるも、『寂しかった』に対して、私から出てきた言葉は、変わらなかった。
「寂しい思いをさせて、ごめ」
最後の二文字の「ん」と「ね」が言えなかったのは、唇を塞がれたからだ。つい言ってしまったこのワードは、禁句だった。
先程、“謝るのはもうなし”だと言われていたのに。
一度だけ降りてきた柔らかい唇は静かに触れて離れていき、静かに見つめらた。薄倉闇の中なのに、テツヤくんの瞳の中に自分が見えるような気がする。
こんなにも近い。近くて、心も体もとても温かい。
「かまってもらってもいいですか?」
「て、テツヤくん…」
「琴音さんからも聞きたいです」
「……、テツヤくん、私もしたい」
彼の手が私の体のラインをなでるように上にあがっていき、寝間着のボタンに触った。
こうしていつもリードしてくれるなぁと思いつつ、私はこんな時のテツヤくんを普段以上に男の人なんだなと感じる。
時々、体を重ねる前のスタートの合図のように、声に出してと促されるから何だか恥ずかしくなってしまう。
「…よくできました」
クス、と微笑んで、テツヤくんは私の鎖骨にキスを落とした。今の彼の表情はかわいいというよりは、凛々しくてカッコいい。
それから、私の首筋に顔を埋めて耳元で何度か囁いた。首筋に唇が触れた途端、私は思わず目を閉じた。
直接囁かれた耳も、顔、手も、どこもかしこも熱くなる。忙しい日々を送っていた昨日までが嘘みたいに遠い世界に思える。
今この時間も夢のように思えた。いつまでも続けばいい、幸せな夢を見てるようだ。寂しい気持ちがどうか埋まっていきますように。
甘い時間が過ぎた後に伝えたい言葉が胸の中を過ぎっていった。同棲してから半年経つけど、これからもよろしくね、と。伝えた後、彼が笑顔を見せてくれるといいな。