黒子くんと大学生マネージャー
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vivid color vision
臨時マネージャーとしてやって来た彼女は、一目見た時から僕を見失うことはなかったと言った。
現に、今だってそうだ。視線を感じた先を見れば、その人は笑って僕に手を振った。
いつからか、知らず知らずに待っていたその視線に不思議な感覚を覚えつつも確かに心が温かくなる。
『見失わない』というのは真実なのだと、ここ最近ではっきりと分かった。
ミスディレクションで自分の存在感を薄めたり人の視線を誘導する技も、彼女だけには効果がない。
――こういったことが数日連続で続き、気付いたことがある。
つい先日、おつかれさまと言いながらドリンクを渡してくれた琴音さんに無意識にそれを伝えてしまいそうになった。
「…琴音さんを見ていると、」
そこでハッとして口を噤んだら、どうやら声が小さすぎて聞こえてなかったようで彼女は首を傾げていた。
何て言ったのかと聞き返されたけれど僕は誤魔化したけれど、琴音さんはその後も他の部員にドリンクを配りながらも横目で僕のことを気にしながら、そわそわした様子だった。僕が何て言ったのかよほど気になっていたんだろう。
中途半端に声に出してしまったばかりに申し訳ないことをしたなと心の中で反省しつつ、無意識に伝えてしまいそうになった言葉を確認した。
“色が変わる”――と、そう言ってしまいそうになったんだ。
琴音さんが僕を見つけて、それに僕が気づいて、彼女が微笑むとその瞬間、見えていた景色が一段階明るく見える。
まるで魔法にかかったみたいに、ビジョンが鮮やさを増す。チカチカ、キラキラと細やかな星が彼女を縁取る。
去年の夏以降、しばらくモノクロームに見えた日々がまさか春からこんなにも変わるなんて、あの頃は想像できなかったことだ。
最初は、僕の視力に何かが起きているものかと思ったが、琴音さん以外を見ても特に何も起こらなかった。
この後、一週間経っても『魔法』の正体にはハッキリと解ることがなく、胸に霧がかかったみたいにもやもやとする。
答えは、出るんだろうか。
□ □ □
誰かと関わったり、話したり、何かを通じて分かち合ったり、そういうのは好きだ。
口数も少なく面白いことを言うのが得意でない僕にも、人並みに友人も居る。
中学から今も、熱心になっているのはバスケだからどうしても部活の仲間といる時間の長く、バスケを通じて仲が深まるのも早かった。
火神くんとは教室でも席が前後なので必然的に一緒にいる時間が長かった。
バスケ以外のことではあまり気の合うことは少ないが、火神くんは一緒にいて居心地がいい。
最近ではよく降旗くんが話しかけてくれるようになった。ちょうどロッカーも僕の隣だ。
今日も練習は特にキツく、汗を拭いながら部室へ戻ると、一足先に入っていた降旗くんと目が合った。
すいません、と会釈しながらロッカーを開け、僕はタオルを取り出して汗を拭った。
ふぅ、と大きく息をつくと、制服のシャツに袖を通しながら降旗くんが、「…いきなりだけどさ」と前置きをしてから質問してきた。
「黒子って好きな子いんの?」
動揺したわけではなかったが、思わず、汗を拭っていた手が止まってしまった。
いつもは今日の練習の話題から振ってくるのに、流石にこの手の質問は予想していなかった。
「今のところ、いませんが…多分」
「多分?」
僕の曖昧な返答に怪訝そうな面持ちでしばらく沈黙した後、降旗くんは「そっか」と言って着替えを再開した。
せっかく話題を振ってくれたのに盛り上がらなくて申し訳ないなと思ったが、嘘を言っても仕方ない。
「桃井って子は?」
「前にもお話しましたが、桃井さんは中学時代の仲間です」
「あんなかわいい子から好き好き言われてんのに振り向かないって、忍耐強いというか…黒子ってすごいなぁ」
気の抜けたため息をついて、降旗くんは首をすくめて小さく笑った。
そういえば彼には好きな子がいたはずだ。
入部の際、屋上から意思表明を叫べとカントクから命令された日の事を思い出した。
『好きな子が“何かで1番になったら付き合ってもいい”って言ってくれてる』と、だからバスケで日本一を目指すんだと、彼はまっすぐな目で宣言していた。その潔さを感心したのを覚えている。
降旗くんは制服に着替え終えると、椅子にドカッと座りと天井を仰いだ。真っ白な天井に何かを思い浮かべて見つめているような横顔だった。
「バスケ部の練習、思ってた以上にキツイじゃん?だからしんどくて倒れそうだな~って思ったら俺は好きな子のこと思い出して頑張るようにしてんだ」
好きな子のことを思い浮かべて照れくさそうに笑う降旗くんが微笑ましく、僕もつられて笑った。
同い年ながら、理屈じゃ得られないその正直さや純粋さを羨ましく思った。
「そんな風に誰かを想えるのは羨ましいですね」
率直な感想を告げると、降旗くんは驚いた顔をした後、照れを誤魔かすように頬を掻いた。
そんなこと言われたの初めてだよ、と言った彼の声が柔らかく部室に響いた。
バスケをやる理由は人それぞれでいい。10人いれば10通りの理由がある。
僕が誠凜を日本一にしたい理由――、それは、僕のバスケでキセキの世代の皆に、僕を認めさせること…だと、明確に気づいたのはごく最近だ。
そのために、キセキの世代に匹敵する才能を持つ火神くんを僕は利用しようとしている。
もし誰かにずるいと思われても弁解はしないし、そして誰かに言われるまでもなく、僕はキセキの世代に固執していた。
バスケで日本一を目指すとなれば、必ずどこかでキセキの世代と対峙するだろう。
あの時、彼らとすれ違った想いを、僕を、わかってもらうには言葉の代わりにやはりバスケで伝えるしかない。
それは――過去を断ち切るために?未来の自分のために?
…自問自答を幾度繰り返してもこの伝いたい気持ちはやはりエゴで、そうだとしても、伝えることには必ず意味があるのだと僕は信じている。
それから、ぽつりぽつりと会話しながら着替えつつ、先に部室を出ていこうとする降旗くんが手をドアノブにかけたままこちらを振り向いた。
「黒子も好きな子出来るといいな。じゃ、おつかれー」
口角を上げて、手をひらひらと振りながら降旗くんは部室を後にした。
僕は降旗くんの言葉の意味を考える。『好きな人が出来る』…?出来なければ、わざわざ作るものなんだろうか。
意図的に?そんなことができるのか、僕は試したことがないから分からない。彼の場合は、どうだったんだろう。
――ふと、琴音さんが頭を過った。
ここ最近の、彼女が笑った顔を見ると視界が明るくなり景色が鮮やかに見えるあの現象のことも。
そしてまだ、僕の心の霧は晴れていなかった。
彼女はいい人。明るくて、優しい、素直な人。彼女は大抵の人から好印象を持たれるだろう。
僕も好きだ。人柄が好き、尊敬できるという類の好きであることは間違いない。
ただこれが恋かどうかは解らない上に、それに基づく経験もほとんどしたことがない。
急に琴音さんとの距離が近づいたので思い違いを起こしているだけなのかもしれない。
春に僕たちは出会い、少し前まで他人で、各々知らない生活を送っていた。
過去に出会っていて、僕の初恋が彼女だとしても、あの頃の僕と今の僕とでは違う。
初恋だからといって、また同じ人に恋をするという確証もない。
シャツに袖を通してふと時計を見ると、想定外に時間が経過していた。急いで帰り支度をしなくては、彼女を待たせてしまう。
これから琴音さんと帰るというのに、余計なことを考えて過ぎてしまったことを後悔した。妙な意識が生まれてしまうからだ。
感情が顔に出ないように、表情から心を悟られないようにするのは得意なので、きっと悟られることはないだろう。
―――と、思っていたのに。
□ □ □
「何か悩みごと?」
帰り道、駅のホームで電車を待っているときに不意に告げられた琴音さんの言葉に、僕は珍しく心臓がドクン、と大きく鳴った。
前髪に隠れている額にじんわりと汗が滲む。
「どうしてですか?」
「何かいつもと様子が違うかなって思って、あ、でも勘違いだったらごめんね」
慌てた様子で付け足す琴音さんは、僕に気を遣って電車の線路に視線を落としていた。
あなたは何も悪いことをしていないし謝らなくていい。謝るべきは、気づかれてしまった僕の方だ。
悩んでることなど気付かれるわけがないと思い込んでいた。琴音さんはこんなにも、僅かな様子で僕の異変に気づいてくれたというのに。琴音さんの質問に対して、すぐに「いいえ」と答えればこの話はここで終わっていたはずなのに、僕は妙な沈黙で返してしまい、それが結果答えとなってしまった。
――傷つくかも知れないのに、わざわざ確かめるような事をしなくても。
そう思う反面、自分の中でも彼女だけ色が変わって見える理由を突き止めたい衝動が沸き上がり、気が付いたら言葉が零れていた。
「…琴音さんは今、お付き合いされている方はいますか?」
しっかりと彼女の顔を見てそう尋ねると、琴音さんは視線を線路から僕に移し声を空回りさせてしどろもどろになった。
突然こんな質問、動揺させてしまうのも無理はない。好きな人どころか彼氏だっていてもおかしくない。
何度も一緒に帰っているのに、その類の話はしたことがなかったから、琴音さんに彼氏がいるかどうかは聞いたことがなかったし、こんな話は普段しないから余計に慌てさせてしまった。
遠くで電車の音が聞こえる。ガタンゴトン、と近づいてくる。そろそろホームにやってくるだろう。
その音とリンクして僕の心の音も一緒になって揺れた。ガタン、ゴトン、ドクン、ドクン、と心音が高鳴る。
『間もなく電車が参ります』――、と、駅員のアナウンスが聞こえる頃には、僕と琴音さんの後ろにも電車に乗る人たちが列を作っていた。
少しの沈黙がが走った後、電車が進入してくる直前に彼女はか細い声で答えを告げたのを僕は聞き逃さなかった。
「いないよ」
琴音さんは視線を再び線路に落とし、一点を見つめながら言った。嘘を言っているようには見えなかったのに視線が泳いでいたのは、ただ気恥かしかっただけのように思う。電車が到着してホームに車輪とレースがこすれる音が響き、僕のため息はその音にかき消える。
そこで気付いた。自然と漏れた安堵の息こそが答えだった。
胸の中のもやがかる霧が晴れてていき、その正体が露になる。「…よかった」、と、声を出してしまいそうになったが堪えて、僕は琴音さんと電車に乗り込んだ。その後は琴音さんは急に今日の練習の話題を振ってきたので、その日はお互いが何かを質問することはなくいつも通りの帰り道となった。そして、僕が何故そんな質問をしたのかを聞き返してきたりはしなかったので、助かった。
彼女を見ると景色が変わったこと、不思議な魔法のように思っていたけど今ならば分かる。
僕はあなたに恋をしている。
キラキラしたものが彼女を纏い、視界が鮮やかに感じたのも、ただ一人、琴音さんだけが僕の中で特別だったからだ。
本当は、独りよがりで恋をする勇気がなく、日々大きくなる気持ちに気づかぬフリをしていたんだ、と、思う。
その方が傷つかなくて済むから、それでいいと安全な道を選ぶようにしていたつもりが、ついには心が視界にまで訴えかけてきたんだ。
キラキラ、チカチカと、琴音さんは、一番星のように眩しく映るんだ。
気持ちを伝えるのに一切の枷もない。
あとほんの少しの勇気で、僕は彼女に打ち明けるだろう。
臨時マネージャーとしてやって来た彼女は、一目見た時から僕を見失うことはなかったと言った。
現に、今だってそうだ。視線を感じた先を見れば、その人は笑って僕に手を振った。
いつからか、知らず知らずに待っていたその視線に不思議な感覚を覚えつつも確かに心が温かくなる。
『見失わない』というのは真実なのだと、ここ最近ではっきりと分かった。
ミスディレクションで自分の存在感を薄めたり人の視線を誘導する技も、彼女だけには効果がない。
――こういったことが数日連続で続き、気付いたことがある。
つい先日、おつかれさまと言いながらドリンクを渡してくれた琴音さんに無意識にそれを伝えてしまいそうになった。
「…琴音さんを見ていると、」
そこでハッとして口を噤んだら、どうやら声が小さすぎて聞こえてなかったようで彼女は首を傾げていた。
何て言ったのかと聞き返されたけれど僕は誤魔化したけれど、琴音さんはその後も他の部員にドリンクを配りながらも横目で僕のことを気にしながら、そわそわした様子だった。僕が何て言ったのかよほど気になっていたんだろう。
中途半端に声に出してしまったばかりに申し訳ないことをしたなと心の中で反省しつつ、無意識に伝えてしまいそうになった言葉を確認した。
“色が変わる”――と、そう言ってしまいそうになったんだ。
琴音さんが僕を見つけて、それに僕が気づいて、彼女が微笑むとその瞬間、見えていた景色が一段階明るく見える。
まるで魔法にかかったみたいに、ビジョンが鮮やさを増す。チカチカ、キラキラと細やかな星が彼女を縁取る。
去年の夏以降、しばらくモノクロームに見えた日々がまさか春からこんなにも変わるなんて、あの頃は想像できなかったことだ。
最初は、僕の視力に何かが起きているものかと思ったが、琴音さん以外を見ても特に何も起こらなかった。
この後、一週間経っても『魔法』の正体にはハッキリと解ることがなく、胸に霧がかかったみたいにもやもやとする。
答えは、出るんだろうか。
□ □ □
誰かと関わったり、話したり、何かを通じて分かち合ったり、そういうのは好きだ。
口数も少なく面白いことを言うのが得意でない僕にも、人並みに友人も居る。
中学から今も、熱心になっているのはバスケだからどうしても部活の仲間といる時間の長く、バスケを通じて仲が深まるのも早かった。
火神くんとは教室でも席が前後なので必然的に一緒にいる時間が長かった。
バスケ以外のことではあまり気の合うことは少ないが、火神くんは一緒にいて居心地がいい。
最近ではよく降旗くんが話しかけてくれるようになった。ちょうどロッカーも僕の隣だ。
今日も練習は特にキツく、汗を拭いながら部室へ戻ると、一足先に入っていた降旗くんと目が合った。
すいません、と会釈しながらロッカーを開け、僕はタオルを取り出して汗を拭った。
ふぅ、と大きく息をつくと、制服のシャツに袖を通しながら降旗くんが、「…いきなりだけどさ」と前置きをしてから質問してきた。
「黒子って好きな子いんの?」
動揺したわけではなかったが、思わず、汗を拭っていた手が止まってしまった。
いつもは今日の練習の話題から振ってくるのに、流石にこの手の質問は予想していなかった。
「今のところ、いませんが…多分」
「多分?」
僕の曖昧な返答に怪訝そうな面持ちでしばらく沈黙した後、降旗くんは「そっか」と言って着替えを再開した。
せっかく話題を振ってくれたのに盛り上がらなくて申し訳ないなと思ったが、嘘を言っても仕方ない。
「桃井って子は?」
「前にもお話しましたが、桃井さんは中学時代の仲間です」
「あんなかわいい子から好き好き言われてんのに振り向かないって、忍耐強いというか…黒子ってすごいなぁ」
気の抜けたため息をついて、降旗くんは首をすくめて小さく笑った。
そういえば彼には好きな子がいたはずだ。
入部の際、屋上から意思表明を叫べとカントクから命令された日の事を思い出した。
『好きな子が“何かで1番になったら付き合ってもいい”って言ってくれてる』と、だからバスケで日本一を目指すんだと、彼はまっすぐな目で宣言していた。その潔さを感心したのを覚えている。
降旗くんは制服に着替え終えると、椅子にドカッと座りと天井を仰いだ。真っ白な天井に何かを思い浮かべて見つめているような横顔だった。
「バスケ部の練習、思ってた以上にキツイじゃん?だからしんどくて倒れそうだな~って思ったら俺は好きな子のこと思い出して頑張るようにしてんだ」
好きな子のことを思い浮かべて照れくさそうに笑う降旗くんが微笑ましく、僕もつられて笑った。
同い年ながら、理屈じゃ得られないその正直さや純粋さを羨ましく思った。
「そんな風に誰かを想えるのは羨ましいですね」
率直な感想を告げると、降旗くんは驚いた顔をした後、照れを誤魔かすように頬を掻いた。
そんなこと言われたの初めてだよ、と言った彼の声が柔らかく部室に響いた。
バスケをやる理由は人それぞれでいい。10人いれば10通りの理由がある。
僕が誠凜を日本一にしたい理由――、それは、僕のバスケでキセキの世代の皆に、僕を認めさせること…だと、明確に気づいたのはごく最近だ。
そのために、キセキの世代に匹敵する才能を持つ火神くんを僕は利用しようとしている。
もし誰かにずるいと思われても弁解はしないし、そして誰かに言われるまでもなく、僕はキセキの世代に固執していた。
バスケで日本一を目指すとなれば、必ずどこかでキセキの世代と対峙するだろう。
あの時、彼らとすれ違った想いを、僕を、わかってもらうには言葉の代わりにやはりバスケで伝えるしかない。
それは――過去を断ち切るために?未来の自分のために?
…自問自答を幾度繰り返してもこの伝いたい気持ちはやはりエゴで、そうだとしても、伝えることには必ず意味があるのだと僕は信じている。
それから、ぽつりぽつりと会話しながら着替えつつ、先に部室を出ていこうとする降旗くんが手をドアノブにかけたままこちらを振り向いた。
「黒子も好きな子出来るといいな。じゃ、おつかれー」
口角を上げて、手をひらひらと振りながら降旗くんは部室を後にした。
僕は降旗くんの言葉の意味を考える。『好きな人が出来る』…?出来なければ、わざわざ作るものなんだろうか。
意図的に?そんなことができるのか、僕は試したことがないから分からない。彼の場合は、どうだったんだろう。
――ふと、琴音さんが頭を過った。
ここ最近の、彼女が笑った顔を見ると視界が明るくなり景色が鮮やかに見えるあの現象のことも。
そしてまだ、僕の心の霧は晴れていなかった。
彼女はいい人。明るくて、優しい、素直な人。彼女は大抵の人から好印象を持たれるだろう。
僕も好きだ。人柄が好き、尊敬できるという類の好きであることは間違いない。
ただこれが恋かどうかは解らない上に、それに基づく経験もほとんどしたことがない。
急に琴音さんとの距離が近づいたので思い違いを起こしているだけなのかもしれない。
春に僕たちは出会い、少し前まで他人で、各々知らない生活を送っていた。
過去に出会っていて、僕の初恋が彼女だとしても、あの頃の僕と今の僕とでは違う。
初恋だからといって、また同じ人に恋をするという確証もない。
シャツに袖を通してふと時計を見ると、想定外に時間が経過していた。急いで帰り支度をしなくては、彼女を待たせてしまう。
これから琴音さんと帰るというのに、余計なことを考えて過ぎてしまったことを後悔した。妙な意識が生まれてしまうからだ。
感情が顔に出ないように、表情から心を悟られないようにするのは得意なので、きっと悟られることはないだろう。
―――と、思っていたのに。
□ □ □
「何か悩みごと?」
帰り道、駅のホームで電車を待っているときに不意に告げられた琴音さんの言葉に、僕は珍しく心臓がドクン、と大きく鳴った。
前髪に隠れている額にじんわりと汗が滲む。
「どうしてですか?」
「何かいつもと様子が違うかなって思って、あ、でも勘違いだったらごめんね」
慌てた様子で付け足す琴音さんは、僕に気を遣って電車の線路に視線を落としていた。
あなたは何も悪いことをしていないし謝らなくていい。謝るべきは、気づかれてしまった僕の方だ。
悩んでることなど気付かれるわけがないと思い込んでいた。琴音さんはこんなにも、僅かな様子で僕の異変に気づいてくれたというのに。琴音さんの質問に対して、すぐに「いいえ」と答えればこの話はここで終わっていたはずなのに、僕は妙な沈黙で返してしまい、それが結果答えとなってしまった。
――傷つくかも知れないのに、わざわざ確かめるような事をしなくても。
そう思う反面、自分の中でも彼女だけ色が変わって見える理由を突き止めたい衝動が沸き上がり、気が付いたら言葉が零れていた。
「…琴音さんは今、お付き合いされている方はいますか?」
しっかりと彼女の顔を見てそう尋ねると、琴音さんは視線を線路から僕に移し声を空回りさせてしどろもどろになった。
突然こんな質問、動揺させてしまうのも無理はない。好きな人どころか彼氏だっていてもおかしくない。
何度も一緒に帰っているのに、その類の話はしたことがなかったから、琴音さんに彼氏がいるかどうかは聞いたことがなかったし、こんな話は普段しないから余計に慌てさせてしまった。
遠くで電車の音が聞こえる。ガタンゴトン、と近づいてくる。そろそろホームにやってくるだろう。
その音とリンクして僕の心の音も一緒になって揺れた。ガタン、ゴトン、ドクン、ドクン、と心音が高鳴る。
『間もなく電車が参ります』――、と、駅員のアナウンスが聞こえる頃には、僕と琴音さんの後ろにも電車に乗る人たちが列を作っていた。
少しの沈黙がが走った後、電車が進入してくる直前に彼女はか細い声で答えを告げたのを僕は聞き逃さなかった。
「いないよ」
琴音さんは視線を再び線路に落とし、一点を見つめながら言った。嘘を言っているようには見えなかったのに視線が泳いでいたのは、ただ気恥かしかっただけのように思う。電車が到着してホームに車輪とレースがこすれる音が響き、僕のため息はその音にかき消える。
そこで気付いた。自然と漏れた安堵の息こそが答えだった。
胸の中のもやがかる霧が晴れてていき、その正体が露になる。「…よかった」、と、声を出してしまいそうになったが堪えて、僕は琴音さんと電車に乗り込んだ。その後は琴音さんは急に今日の練習の話題を振ってきたので、その日はお互いが何かを質問することはなくいつも通りの帰り道となった。そして、僕が何故そんな質問をしたのかを聞き返してきたりはしなかったので、助かった。
彼女を見ると景色が変わったこと、不思議な魔法のように思っていたけど今ならば分かる。
僕はあなたに恋をしている。
キラキラしたものが彼女を纏い、視界が鮮やかに感じたのも、ただ一人、琴音さんだけが僕の中で特別だったからだ。
本当は、独りよがりで恋をする勇気がなく、日々大きくなる気持ちに気づかぬフリをしていたんだ、と、思う。
その方が傷つかなくて済むから、それでいいと安全な道を選ぶようにしていたつもりが、ついには心が視界にまで訴えかけてきたんだ。
キラキラ、チカチカと、琴音さんは、一番星のように眩しく映るんだ。
気持ちを伝えるのに一切の枷もない。
あとほんの少しの勇気で、僕は彼女に打ち明けるだろう。