黒子くんと大学生マネージャー
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プールサイド・コーチ
「お願いがあるの、黒子くん…!」
一緒に並んで歩く帰り道、私は勇気を振り絞って頼み込んだ。いったい何をお願いしたのかというと――。
<カナヅチ>と、泳げない人のことをそう呼ぶ。
水の中で落としたら重くて沈んで浮いてこない金槌同様ということだろう。
私はそれだった。完全に泳げないわけではないが、とにかく泳ぐのが苦手で仕方なかった。
半身が沈む泳ぎ方しかできない。だから、自称カナヅチ。
学校といえば、初夏からはじまるプールの授業は避けて通れない。私にとってそれは地獄の特訓でしかなかった。
小学校、中学校、高校と続いたプール授業でまったく泳ぎが上手くなることはなく、息継ぎがうまく出来ず苦しくなってすぐに立ってしまう。
バタ足をしても浮かず、息継ぎの時には水を飲みこんでしまい、25mを一度も立たずに泳ぎ切ったことはない。
決まって1学期の体育の通信簿の評価はプールのせいで、格段に悪かった。運動神経ももともといい方じゃないのに、1学期は容赦なく評価が下がる。
あの時期は憂鬱だったなぁと思い返すけど、高校さえ卒業してしまえばもうプールはないんだ!と思うと、助かったという気持ちでいっぱいだった。
――のに、今、こんな頼みごとをしている。
「少しでも今より泳げるように特訓して欲しいの」
黒子くんに告げたら、彼は嫌がらずに頷いてくれた。
大学で仲良くなった友達から、この夏プールに行こうと誘われた事が特訓をしようと思ったキッカケだ。
遊びに行くだけだからプールには入るが本気で泳ぐわけではないと分かりつつも、新しくできた友達にカナヅチだと気づかれるわけにはいかなかった。カッコ悪いからとかいう理由ではなく、それを知られて気遣われるのが嫌なのだ。泳げないともう誘ってもらえないかも知れない。
泳げなくたって、楽しい施設に友達と行くのは想像するだけで楽しそうで心躍る。流れるプールとかウォータースライダーとか、波の出るプールとか聞いたことあるし、プール施設のホームページでも写真を見てみたけど、その遊びはまるで未知の世界だ。
なにせ、プールは学校の授業以外で行ったこともないのだから。
私が自称カナヅチだということも、特訓をしたい理由も黒子くんに正直に話したら、彼は真剣に聞いてくれた。
「1人で特訓できないならホントは遊びに行くのも諦めたほうがいいのはわかってるんだけど…」
ぽつりと呟いたら、泳ぎが不得意であることが悲しくなってきてしまって私は俯いた。
お願いしてみたものの、時間を割いて特訓につき合ってもらうわけだし、快く承諾してくれた黒子くんを前に感謝と申し訳ない気持ちも込み上げてくる。すると、察したように、黒子くんが私の肩を優しく叩いた。
「そんな顔しないで下さい。僕は琴音さんに頼りにされて嬉しいですよ」
「黒子くん、優しい、とってもとっても優しい…!」
下唇をかみしめて感動していると、大袈裟ですよ、と黒子くんは笑った。
大学の友人達とプールにいくのはまだ先だけど、早目に対策をしておくに越したことはない。
もちろん数時間の特訓で完璧に泳げるようになるなんて思っていない。最後にプールに入ったのは1年前の高校の授業以来だし、行く前に少しでも水に慣れておきたい。
リコちゃんには次のプールの休館日に少しだけ貸してもらえないかどうか聞いてみよう。
もちろん特訓は、バスケ部のみんなのプール練が終わった後から、午後練までの空いた時間で黒子くんにお願いすることにした。
泳げない人の特訓につき合うなんて面倒でしかないはずなのに、黒子くんの優しさに心から感謝したい。
「お礼はちゃんとするからね。バニラシェイクは奢るのはもちろん、それ以外にも考えておいてね」
バニラシェイクをたくさん奢るだけではお礼にもならない気がするし、他にもお礼をと伝えると黒子くんは遠慮して顔の前で手を横振った。
「お礼なんていいですよ。琴音さんにはいつも助けてもらっていますから」
「でもそれはマネージャーとしてだし、今回は個人的なお願いを黒子くんにしてるわけだから、ね?」
「…じゃあ、はい。考えておきます」
黒子くんは素直に頷いてくれた。お礼を受け取れと強要したみたいになってしまい少し恥ずかしい。
気になる人に泳ぎを教えてもらうというのはどうなんだろう。
自分の無様な姿を見せてしまうと思うと気が滅入るけれども、私が今バスケ部で一番仲がいいのも黒子くんなのだ。
帰り道を共にするようになってから一番話している時間が長いのも黒子くんだし、リコちゃんは女の子同士だけど常日頃忙しそうだし、どうしても部員達の中で頼むとなると彼になってしまう。
――いや、本当は、私が彼に頼みたかっただけなのかも知れない。
泳ぎが上達するのが目的だけど、…もっと、黒子くんと仲良くなりたいと心のどこかで願っていたのかも。
□ □ □
スポーツジムの休館日当日、誠凛バスケ部名物のプール練。
リコちゃんの笛の合図と共にプールの中でスクワットをする筋トレが行われていた。
1時間行った後、体を冷やしすぎないために一度プールから出てみんなが休んでいる時に、私はみんなにドリンクを渡しにいくと小金井くんが珍しいものでも見るような顔でこちらを見てきた。
「マネージャーがプール練に来るの珍しいよな。なんでパーカー脱がないの?」
「セクハラだぞ、ダアホ」
水着の上にパーカーを羽織っていることを指摘されたが、すかさず日向くんが横から小金井くんを小突いた。
大勢の前で水着姿を見せるのはさすがに恥ずかしいのでパーカーを着ていたけども、気づかれてしまったようだ。
プールに行ったこともない…となるとスクール水着以外持っていなかったので、さすがにそれを着ていくわけにはいかないと思い、黒地に白い水玉模様のホルターネックのビキニを買った。ショートパンツもセットなのにお買い得だし見た目も無難…という理由だけで買ったのだが、そんな理由で選んでしまうぐらいに水着に頓着がない自分の女子力のなさが悲しくなった。
無事にプール練が終わり皆が更衣室に戻っていくと、リコちゃんは私に「プール、1時ぐらいまでなら使えますよ」と教えてくれた。
リコちゃんの父親がこのスポーツジムの経営をしているのだ。貸してもらえるのは本当にありがたい。
午後練は2時で誠凛の体育館に集合。
あまり長い練習につき合わせて午後練もある黒子くんを疲れさせるわけにはいけないので、私はプールは1時間だけ!と決めることにした。
「…顔が引きつってますよ?大丈夫ですか?」
リコちゃんから耳打ちされて私は慌てて自分の頬を両手で触った。久々のプールに、自分が思っている以上に緊張しているみたいだ。
だいじょうぶだいじょうぶと自分に言い聞かせるように返事をすると、リコちゃんから心配そうな視線が返ってきた。
□ □ □
そして、皆が居なくなった後にだだっ広いプールに私と黒子くんだけ残る。二人きりになるとさらに広く感じた。
「琴音さん。まずは準備運動からですね」
「うん」
髪をゴムでまとめて、パーカーを脱ぐと黒子くんが「あっ」という声を出した。
「どうしたの?」
「あの…、水着、可愛いですね。すごく似合っています」
「…黒子くんてどこまでも紳士だね」
「僕は本当に思ったことしか言いません」
まじまじと見つめてくる黒子くん。照れ隠しに彼の腕をばしばし叩いて私は恥ずかしさを紛らわした。
お世辞でも嬉しくてにやにやしてしまう。こんなに気遣いがある青年なのだ。さぞ女の子にモテるんじゃないかなと思った。
二人きりのプールに会話が響き、私は何だか気恥ずかしくなって顔が熱くなりながら、準備運動をはじめた。
ドキドキ、と心臓がうるさいのは、プールに入ることへの緊張だけじゃない気がする。
とりあえず、私がどれぐらい泳げるか見てもらうために25mをとりあえず泳いで、それを見てもらうことにした。
まっすぐ泳ぐ事も出来ず、ゆらゆら揺れて25mを途中途中で立ちながら泳ぐも、ゴールするころには私は息を切らし疲弊していた。
バタ足をすると半身が沈み、上半身だけでは泳ぐ行き先をコントロールできず揺れてしまう。足がほぼ水中なので思い切りバタ足しても進みがものすごく遅かった。たった1回泳いだだけなのにすごく疲れてしまった。自覚はあるが無駄な動きが多いせいで余計に疲れているんだ。
プールサイドへ上がると黒子くんからタオルを渡された。
「上半身はきちんと出来てるんですが、バタ足の時に膝が曲がっているような気がします。あと、すごく力が入っているみたいです」
「確かに力んでるかも…だからちょっと泳ぐだけですごく疲れちゃうのかなぁ」
「力を抜けば浮きますし、バタ足にもコツがあるので、コツさえ掴めばすぐ泳げるようになりますよ」
柔らかい声に優しい口調で黒子くんが言うと、何だか本当に出来そうな気になる。
そういえば体育の時間、体育会系教師たちの教え方はビシビシと厳しいものだったなぁと嫌な記憶が蘇った。
最後の方は気が滅入って体育教師の言うことを聞くのも嫌になってきた気がする。
あの時、黒子くんみたいな穏やかな先生から教えてもらったのなら、私も泳ぎが上達したのかな。
「僕が琴音さんの手を引いて少しずつ進んでいきますから、ゆっくりバタ足してみてください」
黒子くんは先にプールに入って私を手招きする。私もプールサイドからゆっくり中へ入ると、彼の手の平の上に自分の手を重ねた。ゆらゆらとバタ足をはじめると黒子くんも少しずつ後ろ歩きで私の泳ぐペースに合わせて下がっていく。
最初は浮いていた足が徐々に下がっていくと、「力を抜いて」と頭の上から声がした。
「ゆっくり、ゆっくり足を伸ばして」と、穏やかな声で不思議と余計な力が抜けていくのが自分でも分かった。
すると、沈んでいた足がふわりと浮いてくる。…そっか、本当に力みすぎていただけなのかな。
そうして25mを行ったり来たりと何度か繰り返した後、今度は黒子くんの補助なしで泳いでみることに。
緊張しつつ泳いでみたら、今まで泳いでいたときよりもバタ足が楽で、バタ足がちゃんと出来ていると息継ぎも楽になり、なんと25mを一度も立たずに泳ぎ切ることができた。黒子くんの的確なアドバイスなおかげだった。
プールの壁にタッチして泳ぎ切ったと分かった時、思わず黒子くんを見て私はニッコリと笑った。
「やったよー!はじめて途中で立たずに泳げたよ!」
「おめでとうございます、琴音さん。バタ足もちゃんと出来てましたよ」
私がプールからプールサイドへ手を伸ばすと、黒子くんは腰をかがめてハイタッチしてくれた。
顔がにんまりして戻らない。小学校から高校の12年間、25mを一度も立たずに泳ぎ切ったことがなかったものだから、達成できて嬉しいという気持ちが溢れてきた。泳げる人から見たらなんて小さいことなのだと笑われるとしても、私にとっては大きな事だった。
「ほんと、黒子くんのおかげ――」
ひとまず休もうとプールサイドへ上がろうと手をついてグッと体をあげた時、右足をピンと張った感覚が襲った。
その拍子に手からも力が抜けてガクンと体が後方に揺れた。
――――足が攣った、
声が出る前に私はプールに後ろ向きで落ちた。下半身は水に浸かったまま、プールサイドにあがろうとした時に後方へ倒れたから大きな音はしなかったものの、静かに私の全身はプールへ沈む。
「琴音さん!」
遠くで聞こえる黒子くんの声、バシャンと大きな水音が聞こえたと思ったら、黒子くんは私を抱えてすぐに水面へ上がった。
プールへ飛び込んで助けてくれたんだと分かったのにすぐにお礼が言えなかった。代わりに口からは飲み込んだ水が咳き込んだ拍子に出てきた。口を開いたまま不意に落ちたので、口の中いっぱいに入ってしまったのだ。
「大丈夫ですか?」
咳き込みが落ち着くと黒子くんが顔を覗き込んできた。彼の焦りを含んだ声色も、表情もすごく心配そうだった。
「うん、大丈夫。ありがとう。足が攣っちゃって…ほんとドジだよね」
「そんなことありません。でも、治るまではしばらくこのままですね」
私の言葉を聞いて安心したようで、黒子くんは小さく笑った。
しばらくはこのまま、というのは、私は今、黒子くんに抱っこされているような状態だった。
助かった、という安心感でつい恥ずかしいのを忘れていたが、冷静になるとこの状態はとても恥ずかしい。
恥ずかしいというか、恥ずかしいというか、…恥ずかしい!
でも、足がつったときは安静にしていなければならないということ。それが治る最短の方法ならば私はこのままジッとしているしかないなと悟った。
「…お、重くない?」
「大丈夫ですよ。プールの中ですから、軽いぐらいです。力を抜いてもっと寄りかかってください。その方が早く治ります」
「う、うん」
言われるがままに寄りかかったら、黒子くんの肩に、私の頬がピタリとくっついた。もし、今誰かがプールに入ってきて見られたりでもしたら誤解されそうだ。私は誤解されてもいいが、黒子くんが私なんかと誤解されたら可哀想なので、それは困る。
黒子くんは両腕で私の体をしっかり支えてくれている。私はできるだけ力を抜く努力をしているが、水着でぴったりくっついてる状況でそんな努力は無駄な気もしてきた。自然と体が強ばってしまう。
「コツを掴んだから、琴音さんはきっともう泳げますね」
「うん、本当に、黒子くんのおかげ。ありがとう。黒子くんって教えるの上手だね」
頭の上から響く心地よい声に、私は思わず目を閉じた。互いに顔が見えないまま会話をしているものの、どんどん顔に熱を帯びていく私の頬が彼の肩にくっついているのだから、そこから伝わる体温で恥ずかしくて照れていることがバレてしまうだろう。
自称カナヅチから一歩前進、泳ぎがちょっと不得意…レベルまでは今日だけでも上がっただろうか。これなら、夏に、大学の友人達とプールに行けそうだ。
丁寧に教えてもらえたし、直接手を引いてレクチャーしてもらえたし、そして足がつったドジな私をこうして助けてくれているし、このお礼はもうバニラシェイクだけじゃ足りないのは当たり前だろう。
「…お礼考えといて、って言いましたよね?」
心の中を読まれたかのようなタイミングで、黒子くんは「お礼」というワードを出しきて、ドキッと心臓が高鳴る。
首を縦に振ると、黒子くんは「じゃあ…」と言い、それから少し沈黙したあと、こう告げてきた。
「せっかくなので、僕ともプールに行って下さい。お礼はそれがいいです」
バニラシェイクを奢るのはもちろん、それとプラスで何を言われても出来る限りのお礼はしたいと思っていたものの、まったく予想していなかった一言を告げられて私は思わず驚きの声をあげた。声をあげるばかりか、思わずくっつけていた顔をあげて黒子くんを見上げると、彼は少し目を細めて笑みを浮かべていた。
こんなに至近距離で顔を見るのははじめてで私はさらに気恥ずかしくなり慌てて下を向いた。
「…そんなことでいいの?」
「はい。コーチ冥利に尽きますよ」
何度も聞き返すと、黒子くんはその都度「ハイ」と返事をして、あまりにも私が慌てている様子がおかしかったのかクスクスと笑い出した。
何回聞くんだよって自分でも思ったけど、まったく謙遜しているわけでもなく、それじゃあまったくお礼になってないじゃないかと思ったのだ。
コーチをしてくれたことには心から感謝しているのに、そんなお礼にもならないお礼を提案されるまでに気遣いをさせてしまっていることが心苦しかった。でも何度聞いても同じ答えしか返さない黒子くんの意志は変わらないのだろう。
攣っていた足が回復したのを確認すると、彼は抱きかかえていた私をそのまま今度は抱き上げてプールサイドにゆっくりと座らせてくれた。
どこまでも紳士的な彼に驚くばかりだ。抱き上げた時、今度こそ私の体の重さを感じたはずだと思うと、せめて朝食ぐらい抜かせばよかったかなと後悔した。…いや、それで体重が変わるとは思えないけども気持ち的に何か違う気がする。
私の横で黒子くんがプールサイドから上がるとき、夏が楽しみですね、と一言、穏やかな声が耳に響いた。
改めて思う。こんなに優しく紳士的なコーチがいたのなら、カナヅチな女子生徒がコーチをして欲しさに殺到してしまうに違いない。
「お願いがあるの、黒子くん…!」
一緒に並んで歩く帰り道、私は勇気を振り絞って頼み込んだ。いったい何をお願いしたのかというと――。
<カナヅチ>と、泳げない人のことをそう呼ぶ。
水の中で落としたら重くて沈んで浮いてこない金槌同様ということだろう。
私はそれだった。完全に泳げないわけではないが、とにかく泳ぐのが苦手で仕方なかった。
半身が沈む泳ぎ方しかできない。だから、自称カナヅチ。
学校といえば、初夏からはじまるプールの授業は避けて通れない。私にとってそれは地獄の特訓でしかなかった。
小学校、中学校、高校と続いたプール授業でまったく泳ぎが上手くなることはなく、息継ぎがうまく出来ず苦しくなってすぐに立ってしまう。
バタ足をしても浮かず、息継ぎの時には水を飲みこんでしまい、25mを一度も立たずに泳ぎ切ったことはない。
決まって1学期の体育の通信簿の評価はプールのせいで、格段に悪かった。運動神経ももともといい方じゃないのに、1学期は容赦なく評価が下がる。
あの時期は憂鬱だったなぁと思い返すけど、高校さえ卒業してしまえばもうプールはないんだ!と思うと、助かったという気持ちでいっぱいだった。
――のに、今、こんな頼みごとをしている。
「少しでも今より泳げるように特訓して欲しいの」
黒子くんに告げたら、彼は嫌がらずに頷いてくれた。
大学で仲良くなった友達から、この夏プールに行こうと誘われた事が特訓をしようと思ったキッカケだ。
遊びに行くだけだからプールには入るが本気で泳ぐわけではないと分かりつつも、新しくできた友達にカナヅチだと気づかれるわけにはいかなかった。カッコ悪いからとかいう理由ではなく、それを知られて気遣われるのが嫌なのだ。泳げないともう誘ってもらえないかも知れない。
泳げなくたって、楽しい施設に友達と行くのは想像するだけで楽しそうで心躍る。流れるプールとかウォータースライダーとか、波の出るプールとか聞いたことあるし、プール施設のホームページでも写真を見てみたけど、その遊びはまるで未知の世界だ。
なにせ、プールは学校の授業以外で行ったこともないのだから。
私が自称カナヅチだということも、特訓をしたい理由も黒子くんに正直に話したら、彼は真剣に聞いてくれた。
「1人で特訓できないならホントは遊びに行くのも諦めたほうがいいのはわかってるんだけど…」
ぽつりと呟いたら、泳ぎが不得意であることが悲しくなってきてしまって私は俯いた。
お願いしてみたものの、時間を割いて特訓につき合ってもらうわけだし、快く承諾してくれた黒子くんを前に感謝と申し訳ない気持ちも込み上げてくる。すると、察したように、黒子くんが私の肩を優しく叩いた。
「そんな顔しないで下さい。僕は琴音さんに頼りにされて嬉しいですよ」
「黒子くん、優しい、とってもとっても優しい…!」
下唇をかみしめて感動していると、大袈裟ですよ、と黒子くんは笑った。
大学の友人達とプールにいくのはまだ先だけど、早目に対策をしておくに越したことはない。
もちろん数時間の特訓で完璧に泳げるようになるなんて思っていない。最後にプールに入ったのは1年前の高校の授業以来だし、行く前に少しでも水に慣れておきたい。
リコちゃんには次のプールの休館日に少しだけ貸してもらえないかどうか聞いてみよう。
もちろん特訓は、バスケ部のみんなのプール練が終わった後から、午後練までの空いた時間で黒子くんにお願いすることにした。
泳げない人の特訓につき合うなんて面倒でしかないはずなのに、黒子くんの優しさに心から感謝したい。
「お礼はちゃんとするからね。バニラシェイクは奢るのはもちろん、それ以外にも考えておいてね」
バニラシェイクをたくさん奢るだけではお礼にもならない気がするし、他にもお礼をと伝えると黒子くんは遠慮して顔の前で手を横振った。
「お礼なんていいですよ。琴音さんにはいつも助けてもらっていますから」
「でもそれはマネージャーとしてだし、今回は個人的なお願いを黒子くんにしてるわけだから、ね?」
「…じゃあ、はい。考えておきます」
黒子くんは素直に頷いてくれた。お礼を受け取れと強要したみたいになってしまい少し恥ずかしい。
気になる人に泳ぎを教えてもらうというのはどうなんだろう。
自分の無様な姿を見せてしまうと思うと気が滅入るけれども、私が今バスケ部で一番仲がいいのも黒子くんなのだ。
帰り道を共にするようになってから一番話している時間が長いのも黒子くんだし、リコちゃんは女の子同士だけど常日頃忙しそうだし、どうしても部員達の中で頼むとなると彼になってしまう。
――いや、本当は、私が彼に頼みたかっただけなのかも知れない。
泳ぎが上達するのが目的だけど、…もっと、黒子くんと仲良くなりたいと心のどこかで願っていたのかも。
□ □ □
スポーツジムの休館日当日、誠凛バスケ部名物のプール練。
リコちゃんの笛の合図と共にプールの中でスクワットをする筋トレが行われていた。
1時間行った後、体を冷やしすぎないために一度プールから出てみんなが休んでいる時に、私はみんなにドリンクを渡しにいくと小金井くんが珍しいものでも見るような顔でこちらを見てきた。
「マネージャーがプール練に来るの珍しいよな。なんでパーカー脱がないの?」
「セクハラだぞ、ダアホ」
水着の上にパーカーを羽織っていることを指摘されたが、すかさず日向くんが横から小金井くんを小突いた。
大勢の前で水着姿を見せるのはさすがに恥ずかしいのでパーカーを着ていたけども、気づかれてしまったようだ。
プールに行ったこともない…となるとスクール水着以外持っていなかったので、さすがにそれを着ていくわけにはいかないと思い、黒地に白い水玉模様のホルターネックのビキニを買った。ショートパンツもセットなのにお買い得だし見た目も無難…という理由だけで買ったのだが、そんな理由で選んでしまうぐらいに水着に頓着がない自分の女子力のなさが悲しくなった。
無事にプール練が終わり皆が更衣室に戻っていくと、リコちゃんは私に「プール、1時ぐらいまでなら使えますよ」と教えてくれた。
リコちゃんの父親がこのスポーツジムの経営をしているのだ。貸してもらえるのは本当にありがたい。
午後練は2時で誠凛の体育館に集合。
あまり長い練習につき合わせて午後練もある黒子くんを疲れさせるわけにはいけないので、私はプールは1時間だけ!と決めることにした。
「…顔が引きつってますよ?大丈夫ですか?」
リコちゃんから耳打ちされて私は慌てて自分の頬を両手で触った。久々のプールに、自分が思っている以上に緊張しているみたいだ。
だいじょうぶだいじょうぶと自分に言い聞かせるように返事をすると、リコちゃんから心配そうな視線が返ってきた。
□ □ □
そして、皆が居なくなった後にだだっ広いプールに私と黒子くんだけ残る。二人きりになるとさらに広く感じた。
「琴音さん。まずは準備運動からですね」
「うん」
髪をゴムでまとめて、パーカーを脱ぐと黒子くんが「あっ」という声を出した。
「どうしたの?」
「あの…、水着、可愛いですね。すごく似合っています」
「…黒子くんてどこまでも紳士だね」
「僕は本当に思ったことしか言いません」
まじまじと見つめてくる黒子くん。照れ隠しに彼の腕をばしばし叩いて私は恥ずかしさを紛らわした。
お世辞でも嬉しくてにやにやしてしまう。こんなに気遣いがある青年なのだ。さぞ女の子にモテるんじゃないかなと思った。
二人きりのプールに会話が響き、私は何だか気恥ずかしくなって顔が熱くなりながら、準備運動をはじめた。
ドキドキ、と心臓がうるさいのは、プールに入ることへの緊張だけじゃない気がする。
とりあえず、私がどれぐらい泳げるか見てもらうために25mをとりあえず泳いで、それを見てもらうことにした。
まっすぐ泳ぐ事も出来ず、ゆらゆら揺れて25mを途中途中で立ちながら泳ぐも、ゴールするころには私は息を切らし疲弊していた。
バタ足をすると半身が沈み、上半身だけでは泳ぐ行き先をコントロールできず揺れてしまう。足がほぼ水中なので思い切りバタ足しても進みがものすごく遅かった。たった1回泳いだだけなのにすごく疲れてしまった。自覚はあるが無駄な動きが多いせいで余計に疲れているんだ。
プールサイドへ上がると黒子くんからタオルを渡された。
「上半身はきちんと出来てるんですが、バタ足の時に膝が曲がっているような気がします。あと、すごく力が入っているみたいです」
「確かに力んでるかも…だからちょっと泳ぐだけですごく疲れちゃうのかなぁ」
「力を抜けば浮きますし、バタ足にもコツがあるので、コツさえ掴めばすぐ泳げるようになりますよ」
柔らかい声に優しい口調で黒子くんが言うと、何だか本当に出来そうな気になる。
そういえば体育の時間、体育会系教師たちの教え方はビシビシと厳しいものだったなぁと嫌な記憶が蘇った。
最後の方は気が滅入って体育教師の言うことを聞くのも嫌になってきた気がする。
あの時、黒子くんみたいな穏やかな先生から教えてもらったのなら、私も泳ぎが上達したのかな。
「僕が琴音さんの手を引いて少しずつ進んでいきますから、ゆっくりバタ足してみてください」
黒子くんは先にプールに入って私を手招きする。私もプールサイドからゆっくり中へ入ると、彼の手の平の上に自分の手を重ねた。ゆらゆらとバタ足をはじめると黒子くんも少しずつ後ろ歩きで私の泳ぐペースに合わせて下がっていく。
最初は浮いていた足が徐々に下がっていくと、「力を抜いて」と頭の上から声がした。
「ゆっくり、ゆっくり足を伸ばして」と、穏やかな声で不思議と余計な力が抜けていくのが自分でも分かった。
すると、沈んでいた足がふわりと浮いてくる。…そっか、本当に力みすぎていただけなのかな。
そうして25mを行ったり来たりと何度か繰り返した後、今度は黒子くんの補助なしで泳いでみることに。
緊張しつつ泳いでみたら、今まで泳いでいたときよりもバタ足が楽で、バタ足がちゃんと出来ていると息継ぎも楽になり、なんと25mを一度も立たずに泳ぎ切ることができた。黒子くんの的確なアドバイスなおかげだった。
プールの壁にタッチして泳ぎ切ったと分かった時、思わず黒子くんを見て私はニッコリと笑った。
「やったよー!はじめて途中で立たずに泳げたよ!」
「おめでとうございます、琴音さん。バタ足もちゃんと出来てましたよ」
私がプールからプールサイドへ手を伸ばすと、黒子くんは腰をかがめてハイタッチしてくれた。
顔がにんまりして戻らない。小学校から高校の12年間、25mを一度も立たずに泳ぎ切ったことがなかったものだから、達成できて嬉しいという気持ちが溢れてきた。泳げる人から見たらなんて小さいことなのだと笑われるとしても、私にとっては大きな事だった。
「ほんと、黒子くんのおかげ――」
ひとまず休もうとプールサイドへ上がろうと手をついてグッと体をあげた時、右足をピンと張った感覚が襲った。
その拍子に手からも力が抜けてガクンと体が後方に揺れた。
――――足が攣った、
声が出る前に私はプールに後ろ向きで落ちた。下半身は水に浸かったまま、プールサイドにあがろうとした時に後方へ倒れたから大きな音はしなかったものの、静かに私の全身はプールへ沈む。
「琴音さん!」
遠くで聞こえる黒子くんの声、バシャンと大きな水音が聞こえたと思ったら、黒子くんは私を抱えてすぐに水面へ上がった。
プールへ飛び込んで助けてくれたんだと分かったのにすぐにお礼が言えなかった。代わりに口からは飲み込んだ水が咳き込んだ拍子に出てきた。口を開いたまま不意に落ちたので、口の中いっぱいに入ってしまったのだ。
「大丈夫ですか?」
咳き込みが落ち着くと黒子くんが顔を覗き込んできた。彼の焦りを含んだ声色も、表情もすごく心配そうだった。
「うん、大丈夫。ありがとう。足が攣っちゃって…ほんとドジだよね」
「そんなことありません。でも、治るまではしばらくこのままですね」
私の言葉を聞いて安心したようで、黒子くんは小さく笑った。
しばらくはこのまま、というのは、私は今、黒子くんに抱っこされているような状態だった。
助かった、という安心感でつい恥ずかしいのを忘れていたが、冷静になるとこの状態はとても恥ずかしい。
恥ずかしいというか、恥ずかしいというか、…恥ずかしい!
でも、足がつったときは安静にしていなければならないということ。それが治る最短の方法ならば私はこのままジッとしているしかないなと悟った。
「…お、重くない?」
「大丈夫ですよ。プールの中ですから、軽いぐらいです。力を抜いてもっと寄りかかってください。その方が早く治ります」
「う、うん」
言われるがままに寄りかかったら、黒子くんの肩に、私の頬がピタリとくっついた。もし、今誰かがプールに入ってきて見られたりでもしたら誤解されそうだ。私は誤解されてもいいが、黒子くんが私なんかと誤解されたら可哀想なので、それは困る。
黒子くんは両腕で私の体をしっかり支えてくれている。私はできるだけ力を抜く努力をしているが、水着でぴったりくっついてる状況でそんな努力は無駄な気もしてきた。自然と体が強ばってしまう。
「コツを掴んだから、琴音さんはきっともう泳げますね」
「うん、本当に、黒子くんのおかげ。ありがとう。黒子くんって教えるの上手だね」
頭の上から響く心地よい声に、私は思わず目を閉じた。互いに顔が見えないまま会話をしているものの、どんどん顔に熱を帯びていく私の頬が彼の肩にくっついているのだから、そこから伝わる体温で恥ずかしくて照れていることがバレてしまうだろう。
自称カナヅチから一歩前進、泳ぎがちょっと不得意…レベルまでは今日だけでも上がっただろうか。これなら、夏に、大学の友人達とプールに行けそうだ。
丁寧に教えてもらえたし、直接手を引いてレクチャーしてもらえたし、そして足がつったドジな私をこうして助けてくれているし、このお礼はもうバニラシェイクだけじゃ足りないのは当たり前だろう。
「…お礼考えといて、って言いましたよね?」
心の中を読まれたかのようなタイミングで、黒子くんは「お礼」というワードを出しきて、ドキッと心臓が高鳴る。
首を縦に振ると、黒子くんは「じゃあ…」と言い、それから少し沈黙したあと、こう告げてきた。
「せっかくなので、僕ともプールに行って下さい。お礼はそれがいいです」
バニラシェイクを奢るのはもちろん、それとプラスで何を言われても出来る限りのお礼はしたいと思っていたものの、まったく予想していなかった一言を告げられて私は思わず驚きの声をあげた。声をあげるばかりか、思わずくっつけていた顔をあげて黒子くんを見上げると、彼は少し目を細めて笑みを浮かべていた。
こんなに至近距離で顔を見るのははじめてで私はさらに気恥ずかしくなり慌てて下を向いた。
「…そんなことでいいの?」
「はい。コーチ冥利に尽きますよ」
何度も聞き返すと、黒子くんはその都度「ハイ」と返事をして、あまりにも私が慌てている様子がおかしかったのかクスクスと笑い出した。
何回聞くんだよって自分でも思ったけど、まったく謙遜しているわけでもなく、それじゃあまったくお礼になってないじゃないかと思ったのだ。
コーチをしてくれたことには心から感謝しているのに、そんなお礼にもならないお礼を提案されるまでに気遣いをさせてしまっていることが心苦しかった。でも何度聞いても同じ答えしか返さない黒子くんの意志は変わらないのだろう。
攣っていた足が回復したのを確認すると、彼は抱きかかえていた私をそのまま今度は抱き上げてプールサイドにゆっくりと座らせてくれた。
どこまでも紳士的な彼に驚くばかりだ。抱き上げた時、今度こそ私の体の重さを感じたはずだと思うと、せめて朝食ぐらい抜かせばよかったかなと後悔した。…いや、それで体重が変わるとは思えないけども気持ち的に何か違う気がする。
私の横で黒子くんがプールサイドから上がるとき、夏が楽しみですね、と一言、穏やかな声が耳に響いた。
改めて思う。こんなに優しく紳士的なコーチがいたのなら、カナヅチな女子生徒がコーチをして欲しさに殺到してしまうに違いない。