呪術廻戦
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少しゆっくり起きた休日――、ポットで湯を沸かしマグカップに注いだそれを飲みながら、換気がてら窓を開ける。起き抜けに白湯を飲んで胃を温めるのは、二十代後半からのルーティンになっていた。
何の気なしにテレビをつけると巷で人気のパンケーキ専門店の特集が放送されていた。美味しそうな映像を見てお腹が鳴った。休日はどうも早く起きれずブランチになりがちだ。
食後のデザートにはあれを食べよう。昨晩、五条くんが持ってきてくれた喜久福の大福。とってもおいしい人気の仙台名物だ。
春先に私と五条くんは恋人という関係になったものの、自身の私生活はほとんど変化はない。
そもそも彼はオフの日も少なく、急に任務が入るような仕事柄、一日デートなんてこれまででも片手で数えるほどだろう。
呪術高専で働いてる以上、“呪術師”の仕事も理解しているから、もちろん世間のカップルようなデートの頻度は最初から期待していない。
デートの代わりに、五条くんは任務終わりに私のアパートまで土産を持って会いに来てくれる。だいたい出張帰りに来ることが多い。
日付が変わるぐらいの遅い時間に事前に連絡もなくインターホンが押されることもしばしばで、最初は『こんな時間に誰…』と警戒してカメラを確認しに行くのだが、時間帯もお構いなしに突然やって来るのは五条くんしかいない。
お土産を一緒に食べてそのまま泊まったり、車を待たせてるからと少しだけ寄って帰ったりとその時々だが、泊まるとなると翌日の朝、決まって彼の姿はない。
私が起きる前にいなくなっているのだ。この1LDKの寝室に置いてあるシングルベッドで眠る時は、窮屈そうにしつつも私をぬいぐるみように抱えて眠っているはずなのに。
情事に耽った後での疲労感と抱きしめられて眠っている安心感で私も深い眠りに落ちてしまうから、いつ五条くんが帰ったのもわかっていない。体力差がありすぎて私だけ時々気を失うこともしばしば。
きっと翌日も任務で忙しいのだろう。合間を縫って会いに来てくれたんだという嬉しさもあるが、目覚めたら一人になっているという寂しさに未だに慣れない。
――今朝もそんな感じで冷たい風が胸を通り抜ける。これから梅雨を経て、暑い季節になっていくというのに。
□ □ □
休み明けも変わりなく出勤して教員室のドアを開けると、見覚えのある綺麗な女性と鉢合せした。本来なら東京にはいない珍しい人物。
艶やかな黒髪に二尺袖の白い着物に赤い袴と巫女のような姿、凛とした眼差しが印象的な彼女は、京都校の教師の歌姫先生だ。
「歌姫さん、ご無沙汰してます」
「琴音!久しぶりね…っていうか余所余所しいじゃない、女子会した仲でしょ」
「敬語はクセみたいなものでして……」
誤魔化すように笑うと歌姫さんも苦笑していた。確かにこれが初対面ではない。
以前、京都校の新任の事務教員にレクチャーに行った際、歌姫さんが歓迎会に私も誘ってくれたのだ。
事務教員と呪術教師とで仕事内容は違うものの、同性で年も近いことから話が弾み、その時に『庵先生』から『歌姫さん』と呼ばせてもらえる仲になった。
話上手で美人な先輩の、酔って赤らんだ顔が可愛らしかったことを覚えている。
それからというもの、歌姫さんが都内に来る度に“女子会”と銘打った飲み会を時々開催していた。
今回も突発的な任務とのことで東京へ出張に来たらしい。夕方までには片付くからと、早速飲み会に誘われた。
「硝子も来るから三人で飲もうよ。それに、琴音には聞きたい事もあるし」
一瞬、歌姫さんは眉間に皺を寄せて虚空を睨みつけた表情になり、私は首を傾げた。嫌悪感がだだ漏れだ。
特に用事もなかったので参加したい意を伝えると、時間と場所だけ後で送ると言って歌姫さんは去って行った。
あの顔になる時、彼女からは非術師の私にもわかるようなドス黒いオーラが発生する。だいたい、五条くん絡みだろう。
・・・
・・・・・
・・・・・・
“女子会”と聞くとオシャレなラウンジのバーか、ワインの美味しいイタリアンか…それは少々お酒を嗜む程度ならばその場所で間違いはない。
しかし、歌姫さん・家入さんという酒豪二人を交えての飲み会となると大衆居酒屋がお決まりだ。以前も来たことがある食事も美味しいお店なので、下戸としても楽しみだ。
終業間際に急な問い合わせが入ってしまい遅れて店に向かうと、店員さんに奥の個室へ案内された。
右手をひらりと上げ、私を手招きしている女性は家入さん。彼女は呪術高専所属の医師だが、校舎が違うので校内で遭遇することは少ない。でもって「待ってたよぉ!」と声を上げ開始30分で既に出来上がっている歌姫さん。相変わらず楽しそうにお酒を飲む人だ。
「「「かんぱーい!」」」
席に着いて注文した飲み物が届いて改めて乾杯した途端、何となく予想はしていたが私は質問責めに合うのだった。
耳に入った経緯は謎だが、私が五条くんと恋人になった事が二人に知られていたの。自分から誰かに話したりしていないから、出所は五条くんで間違いないだろう。
ノンアルカクテルを飲みつつ食事をつまみながら、聞かれた事に対して当たり障りのない感じで話していくも、もともと五条くん心底嫌っている歌姫さんの表情が曇っていく。
隠してるわけじゃないので聞かれたことを答えていたら、最後に会ったのはいつか…等の流れから、昨日の朝のような出来事がよくあると話してしまった。
「それって、セ――」
「セフレですね」
「しょ、硝子…っ!いや、言い淀んででも琴音の為によくないわ。アイツ、ほんっとロクでもねぇな!」
「人間のクズな部分って一生変わりませんからねぇ」
顔色一つ変えず淡々と酒を飲みながら家入さんは告げた。高専の頃からこのクールな感じは変わっていない。当時のあどけなさは消え、今は大人の色気が際立っている。
クズ野郎!信じられない!わたしのかわいい後輩教員に手を出しやがって!と憤慨する歌姫さんは酒が回り頬赤く染まって、怒りで目が血走っている。家入さんとは逆に、歌姫さんは酔うとどこか子供っぽくなり愛嬌が増すようだ。……と、自分の恋人の話が話題の中心なのに、二人をまじまじと観察してしまった。
この数か月を振り返ってみると“セフレ”という3文字が頭に過らなかったワケじゃない。
恋人になったキッカケの出来事はあるが、面と向かって『付き合って』と言われた記憶がない。しかも最終的に私の方から告白したような気がする。
――にしても、わざわざ同じ学校の教員を選ぶか?後々面倒ではないか?いや、手近だからこそ関係構築の手間が省けていいとか?
二人に指摘されたからではないが、否定的な思考の反面、肯定的に考えてしまう自分もいる。
「だとしても、どうせならもっと美人でスタイルのいい女性を選ぶと思うんですが…」
「スタイルはあくまでステータス。相性含めしてみて初めて分かることもありますよ。例えば――」
「硝子ストップ、例えなくていいから!」
「違いますよ歌姫センパイ。医学的な説明を…」
「それがエグイって言ってんの」
歌姫さんに両手で耳を塞がれ数秒、医学的とは?と頭でハテナが浮かんだが、すぐにその手は離れた。静止された家入さんは具体的な説明を止めてくれたようだ。
五条なんか無視無視!合コンセッティングしたげる!と肩を組んでくる歌姫さんにたじろいだ。それを見て声を立てて家入さんが笑っていて、つられて私も苦笑いになる。
結局のところ、真実は五条くんしか知り得ない。セフレと認識されていたとして、芽生えてしまった好きという感情は割り切れるだろうか。きっとそれは難しい。ゆっくり時間をかけて好きになっていった分、断ち切るのも厄介だ。
傍にいられればどのような形だっていいのだと正直な気持ちで今は思える。冷静に考えてその結論になる自分が、どうかしてる。
恋愛感情でどうかしてしまうのは、何歳になっても避けられはしない。
ヒートアップする歌姫さんを宥めている最中、気を付けていたはずなのに表情が無意識に暗くなっていたのか、家入さんに眉間をトンと人差し指で押された。直ぐにぐっと顔を近づけて、互いの息がかかる距離まで間を詰められる。彼女が飲んでいる日本酒の香りが鼻をくすぐった。
「そんな奴よりさ、私としようよ。琴音センセ」
「えっ?」
「女同士はお嫌いですか?」
「……家入さん?」
艶やかな唇が誘惑的に動いて、睫毛の長い漆黒の瞳に見据えられた。冗談で告げてるに決まっているのに錯覚してして、心臓がバクバクと早鐘を打ち始める。
お酒を一滴も飲んでいないに、血液が沸騰したように熱くなった。途端に顔に朱色に染まり、耳が赤くなっていくのが鏡を見なくても分かった。
「やりすぎやりすぎ。琴音の顔色サングリアみたいに美味しそうになってるから」
「処女でもないのに初心な反応…、これはタチが悪いですねー。五条も大変だな」
「ねぇ、それモテの術式?」
「な、何ですかモテの術式って…」
火照りを冷めますようにパタパタを手を振って顔を扇いだ。家入さんが言うと冗談に聞こえないし美しさに魅入ってしまったのだから。
火照りを落ち着かせる為、店員さんが持ってきたばかりのノンアルカクテルをぐいっと飲み干すと、何だか甘味の足りないような味がした。すぐさま、間違えてアルコールで割られたのカクテルが運ばれていた事に気づくも、飲み干した分は戻せない。
「これお酒だったみたいです」
途端に目がトロンとして瞼が重くなる。くらりと頭が揺れたら歌姫さんが抱きとめてくれて、家入さんがお水を飲ませてくれた。二人の優しさに甘えながらぼんやりする意識の中で反省するも、その後の記憶はほとんどなくすことになる。
どのように自宅に辿りついたのか。どうやって化粧を落としてシャワーを浴びたのか。パジャマに着替えたのか――しかし、人の習慣とは恐ろしいもので。
その後、車を置いてタクシーに乗せられ帰らされた私は、記憶がないながらにいつもの“習慣”のようにそれらをこなし、ベッドで眠りについたのだった。
滅多に飲まないアルコールを摂取したときぐらいだらしなくソファに沈んで眠りたかったのに、体に染み付いたルーティンはそうはさせてくれないんだな。
融通が利かない自我にガッカリしながら眠りに落ちていった。
□ □ □
カーテン越しに差し込む柔らかい光が瞼を照らし、目を少しだけ開ける。微睡みの中、昨夜の飲み会帰りでもちゃんとシャワーまで浴びてベッドに入った事を思い出した。
眠る時は一人だったはずなのに、私の体を包み込む逞しい腕に違和感を覚える。ごつごつして重たい。
視線だけ上に向けるとそこには静かに寝息を立てて寝ている五条くんが、居た。目隠しも外した状態を改めて間近で見つめてみると、本当にスーパーモデルような美形で、彫刻のように整っている目鼻立ちに感嘆の息が漏れる。睫毛が長い。
ちゃんと黒のTシャツを着て寝ている。時々そのまま置いて帰るから、私が洗濯してクローゼットに仕舞っておいたものだろう。
「夢かぁ。これまたリアルな…」
冬の日差しがこの部屋を照らす時間帯には、彼はの姿はいつもないはずだ。目覚めたら一人、それがお決まりのパターンだから。
それならばこの状況は夢だ。視界に映る愛しい彼も、あったかい体温も、抱きしめられている腕の感触も、夢にしては随分生々しく感じる。
思い切り抱き着いてみようと、自分からも五条くんの大きな背中に手を伸ばし抱き締めた。
「例え恋人じゃなくても傍に居たいんです。時々こうして触れ合えるなら、充分」
胸板に鼻先をくっつけるといい香りがした。柑橘系の…うちで使ってる柔軟剤の香りだ。
小さな独り言は、夢の中だから声に出して言える。嘘をついてるわけでも意地を張ってるわけでもない。心からの本心。
20代だったなら、恋愛に盲目になって自分がセフレかもしれないという事に焦り、何か打開策を打っていただろう。人並に経験して大人になった今、若い頃と同じ行動も思考も出来ない。依存する恋愛や競争は心が疲れてすり減るばかりだから。
それに、私は五条くんに何かを求めているわけではない。貰わなくていい。与えたいだけ。
「すぐ自己完結して自己満足する琴音の癖はどうしたもんかなぁ」
気だるげな寝起き口調で耳元で声がすると同時に、抱きしめられている腕に力が込められた。思いがけずの強い圧がちょっと苦しい。
自由気ままで我儘でマイペース。夢の中でも彼の性格が変わることはない。現実でも同じように返してきそうだなと想像して笑みが零れた。
「ふふ、起こしちゃってごめんなさい」
「まぁ別にいーけど。あったかくてよく眠れたし」
背中に回されていた腕が解けて、五条くんの大きな手が私の頬をやんわりとつねった。微かに痛い。不機嫌な雰囲気が伝わってきて、いひゃいれふ、と抗議しても離してもらえる様子がなく、私は無抵抗で諦めることにした。じわじわと頬を抓る指先から体温が伝播する。幻想的な蒼色の瞳がこちらを覗き込んでいる。
「あのさ、僕と琴音ってセフレ?」
「いえ、違うと思いたいですが、多分……」
「冗談をマジに返すなって。寝惚けてんの?」
「――え?」
“夢じゃない”
刹那、夢だと思っていた“今”が現実だったと頭が理解して、息が止まりそうな程に驚愕した。私が起きる前に姿を消す彼が、朝になっても隣にいるというアンマッチ具合で、やはり夢じゃないかと混乱してしまう。
そして、譫言のような呟きを本人に聞かれてしまった羞恥心が一気に襲ってくる。胸がキリキリと痛み、脈が自然と速くなる。
背中から汗が伝うほど恥ずかしさが極まって、目を合わせられず私は両手で自分の顔を覆った。
下戸だけれども酒を飲んですべてを忘れたくなる瞬間というのは、こういう時のことを言うのかと自身に落胆した。耳まで紅潮してる私の顔を見て、五条くんがケタケタと遠慮なく笑った。
「い、家入さんが連絡を?」
手の平で顔を隠したまま消え入りそうな声で尋ねると、五条くんは相槌を打った。
「そ。ノンアルと間違えて持ってきた酒を一気飲みして潰れたって。タクシーで帰したとは聞いてたけど、一応ね」
「面目ないです」
「酔ってんのに恐ろしいほどキッチリこなしてから寝てたから感心したよ」
「自分の才能が怖い……」
「変なとこでポジティブだよね」
化粧を落とさず寝たら30代の肌は翌日ソッコーで荒れる!という歌姫さんからの教訓が、脳に深く刻まれてたおかげかな。
いつまでそうしてるんだとばかりに両手首を五条くんに捕まれ、無理やり視線を合わせてくる。狭いベッドでバタバタと抵抗しても私の力ではどうにも出来ない。珍しいものを見たとばかりに彼はニヤリと皮肉な笑みを浮かべていた。
ああ、沈黙が気まずい。黙っていると余計に恥ずかしくなってしまう。
「それでわざわざ家まで……?」
「だってほっとけないでしょ。君ってドジだし」
――その一言で突然、過去の記憶の学生だった頃の五条くんが脳裏に浮かぶ。
呪術高専の事務教員になってからしばらくしての出来事だ。渡り廊下でハードコンタクトを落としてしまい、床を這いつくばって慌てて探している私。一緒に探そうとしてくれる五条くんがぼんやりと見えて、申し訳なさと恥ずかしさで「一人で大丈夫ですから」と告げると、彼はぶっきらぼうに『ほっとけねーだろ』と言って一緒に探してくれた事があった。結局その甲斐なく、自分でレンズを踏んづけて割ってしまったことを思い出す。どんくさっ!と、ジト目を向けて大きなため息をついて去っていった青年。あれは17歳の五条くんだ。
今、目の前の27歳の五条くんが同じ言葉を、別の意味を含んで私に告げている。あの頃は恋人になるなんて想像もしてなかった。
じんわりと目頭が熱くなる。
“ほっとけない”がこんなに嬉しい言葉だなんて。好きな人に告げられると、こんなにも気持ちが高揚してしまうのだと初めて知った。
「ほっとけないって思うの、私にだけですか?」
夢の続きではないとわかっているのに、感情のまま声が出ていた。意図せず零れた本音にハッとして口を噤む。
貰わなくていい。与えたいだけ――なのに、内から溢れ出る欲深さに決意は早々に砕かれようとしている。私が一番だと思って欲しいという独占欲が掻き立てられる。自分でも知らない一面が曝け出され、一度湧いた渇望は消えてくれない。
すると、先ほどまでニヤついていた笑みが消え、眉間にシワが寄った。怒ってるそれとは違う少しだけ子供っぽさを彷彿とする。初めて見る五条くんの動揺した表情。これが照れている顔なのかと瞬時に察し、とても貴重なものをみた気分になる。
瞳に窓辺の光が反射し、アクアマリンを散りばめた海の色が揺れて綺麗だ。はぁ、と漏らした溜息が妙に色っぽい。
「……この状況で恋人の僕にそれ聞く?」
声色が動揺から焦燥感に変わった直後に強く抱きしめられた後、額に唇を優しく落とされた。同じタイミングで断続的にスマホから目覚ましアラームが鳴り出し、朝7時だということに咄嗟に気づくがもう遅い。非日常感で平日の朝だということをすっかり忘れていた。反射的にアラームを止めようと伸ばした手を絡め取られ、向かい合って横になっていた体勢からいとも簡単に押し倒される。いつもは薄暗いのに部屋が明るくて変な感じだ。
仰向けにされ、見慣れた白い天井と電球が視界に映る。アラーム代わりのオルゴールメロディが部屋に鳴り響く中で私に跨ったまま、五条くんは意地悪な笑みを浮かべた。
「今のはお前が悪いね」
おそらく無意識に、“君”から“お前”へと呼び方が変わり、ふと学生時代の五条くんみたいだと思った。彼の影が降りて来るも、朝日の所為でいつもと違う光景に心音が速さを増して高鳴り始めた。
身体のあちこちが熱を帯びて、惚けて麻痺してくる。そのうち没頭して全神経が波に攫われ、心まで溶けていく感覚は麻薬のようだ。
――もう、冷たい風が胸を通り抜ける朝は来ない。
少しゆっくり起きた休日――、ポットで湯を沸かしマグカップに注いだそれを飲みながら、換気がてら窓を開ける。起き抜けに白湯を飲んで胃を温めるのは、二十代後半からのルーティンになっていた。
何の気なしにテレビをつけると巷で人気のパンケーキ専門店の特集が放送されていた。美味しそうな映像を見てお腹が鳴った。休日はどうも早く起きれずブランチになりがちだ。
食後のデザートにはあれを食べよう。昨晩、五条くんが持ってきてくれた喜久福の大福。とってもおいしい人気の仙台名物だ。
春先に私と五条くんは恋人という関係になったものの、自身の私生活はほとんど変化はない。
そもそも彼はオフの日も少なく、急に任務が入るような仕事柄、一日デートなんてこれまででも片手で数えるほどだろう。
呪術高専で働いてる以上、“呪術師”の仕事も理解しているから、もちろん世間のカップルようなデートの頻度は最初から期待していない。
デートの代わりに、五条くんは任務終わりに私のアパートまで土産を持って会いに来てくれる。だいたい出張帰りに来ることが多い。
日付が変わるぐらいの遅い時間に事前に連絡もなくインターホンが押されることもしばしばで、最初は『こんな時間に誰…』と警戒してカメラを確認しに行くのだが、時間帯もお構いなしに突然やって来るのは五条くんしかいない。
お土産を一緒に食べてそのまま泊まったり、車を待たせてるからと少しだけ寄って帰ったりとその時々だが、泊まるとなると翌日の朝、決まって彼の姿はない。
私が起きる前にいなくなっているのだ。この1LDKの寝室に置いてあるシングルベッドで眠る時は、窮屈そうにしつつも私をぬいぐるみように抱えて眠っているはずなのに。
情事に耽った後での疲労感と抱きしめられて眠っている安心感で私も深い眠りに落ちてしまうから、いつ五条くんが帰ったのもわかっていない。体力差がありすぎて私だけ時々気を失うこともしばしば。
きっと翌日も任務で忙しいのだろう。合間を縫って会いに来てくれたんだという嬉しさもあるが、目覚めたら一人になっているという寂しさに未だに慣れない。
――今朝もそんな感じで冷たい風が胸を通り抜ける。これから梅雨を経て、暑い季節になっていくというのに。
□ □ □
休み明けも変わりなく出勤して教員室のドアを開けると、見覚えのある綺麗な女性と鉢合せした。本来なら東京にはいない珍しい人物。
艶やかな黒髪に二尺袖の白い着物に赤い袴と巫女のような姿、凛とした眼差しが印象的な彼女は、京都校の教師の歌姫先生だ。
「歌姫さん、ご無沙汰してます」
「琴音!久しぶりね…っていうか余所余所しいじゃない、女子会した仲でしょ」
「敬語はクセみたいなものでして……」
誤魔化すように笑うと歌姫さんも苦笑していた。確かにこれが初対面ではない。
以前、京都校の新任の事務教員にレクチャーに行った際、歌姫さんが歓迎会に私も誘ってくれたのだ。
事務教員と呪術教師とで仕事内容は違うものの、同性で年も近いことから話が弾み、その時に『庵先生』から『歌姫さん』と呼ばせてもらえる仲になった。
話上手で美人な先輩の、酔って赤らんだ顔が可愛らしかったことを覚えている。
それからというもの、歌姫さんが都内に来る度に“女子会”と銘打った飲み会を時々開催していた。
今回も突発的な任務とのことで東京へ出張に来たらしい。夕方までには片付くからと、早速飲み会に誘われた。
「硝子も来るから三人で飲もうよ。それに、琴音には聞きたい事もあるし」
一瞬、歌姫さんは眉間に皺を寄せて虚空を睨みつけた表情になり、私は首を傾げた。嫌悪感がだだ漏れだ。
特に用事もなかったので参加したい意を伝えると、時間と場所だけ後で送ると言って歌姫さんは去って行った。
あの顔になる時、彼女からは非術師の私にもわかるようなドス黒いオーラが発生する。だいたい、五条くん絡みだろう。
・・・
・・・・・
・・・・・・
“女子会”と聞くとオシャレなラウンジのバーか、ワインの美味しいイタリアンか…それは少々お酒を嗜む程度ならばその場所で間違いはない。
しかし、歌姫さん・家入さんという酒豪二人を交えての飲み会となると大衆居酒屋がお決まりだ。以前も来たことがある食事も美味しいお店なので、下戸としても楽しみだ。
終業間際に急な問い合わせが入ってしまい遅れて店に向かうと、店員さんに奥の個室へ案内された。
右手をひらりと上げ、私を手招きしている女性は家入さん。彼女は呪術高専所属の医師だが、校舎が違うので校内で遭遇することは少ない。でもって「待ってたよぉ!」と声を上げ開始30分で既に出来上がっている歌姫さん。相変わらず楽しそうにお酒を飲む人だ。
「「「かんぱーい!」」」
席に着いて注文した飲み物が届いて改めて乾杯した途端、何となく予想はしていたが私は質問責めに合うのだった。
耳に入った経緯は謎だが、私が五条くんと恋人になった事が二人に知られていたの。自分から誰かに話したりしていないから、出所は五条くんで間違いないだろう。
ノンアルカクテルを飲みつつ食事をつまみながら、聞かれた事に対して当たり障りのない感じで話していくも、もともと五条くん心底嫌っている歌姫さんの表情が曇っていく。
隠してるわけじゃないので聞かれたことを答えていたら、最後に会ったのはいつか…等の流れから、昨日の朝のような出来事がよくあると話してしまった。
「それって、セ――」
「セフレですね」
「しょ、硝子…っ!いや、言い淀んででも琴音の為によくないわ。アイツ、ほんっとロクでもねぇな!」
「人間のクズな部分って一生変わりませんからねぇ」
顔色一つ変えず淡々と酒を飲みながら家入さんは告げた。高専の頃からこのクールな感じは変わっていない。当時のあどけなさは消え、今は大人の色気が際立っている。
クズ野郎!信じられない!わたしのかわいい後輩教員に手を出しやがって!と憤慨する歌姫さんは酒が回り頬赤く染まって、怒りで目が血走っている。家入さんとは逆に、歌姫さんは酔うとどこか子供っぽくなり愛嬌が増すようだ。……と、自分の恋人の話が話題の中心なのに、二人をまじまじと観察してしまった。
この数か月を振り返ってみると“セフレ”という3文字が頭に過らなかったワケじゃない。
恋人になったキッカケの出来事はあるが、面と向かって『付き合って』と言われた記憶がない。しかも最終的に私の方から告白したような気がする。
――にしても、わざわざ同じ学校の教員を選ぶか?後々面倒ではないか?いや、手近だからこそ関係構築の手間が省けていいとか?
二人に指摘されたからではないが、否定的な思考の反面、肯定的に考えてしまう自分もいる。
「だとしても、どうせならもっと美人でスタイルのいい女性を選ぶと思うんですが…」
「スタイルはあくまでステータス。相性含めしてみて初めて分かることもありますよ。例えば――」
「硝子ストップ、例えなくていいから!」
「違いますよ歌姫センパイ。医学的な説明を…」
「それがエグイって言ってんの」
歌姫さんに両手で耳を塞がれ数秒、医学的とは?と頭でハテナが浮かんだが、すぐにその手は離れた。静止された家入さんは具体的な説明を止めてくれたようだ。
五条なんか無視無視!合コンセッティングしたげる!と肩を組んでくる歌姫さんにたじろいだ。それを見て声を立てて家入さんが笑っていて、つられて私も苦笑いになる。
結局のところ、真実は五条くんしか知り得ない。セフレと認識されていたとして、芽生えてしまった好きという感情は割り切れるだろうか。きっとそれは難しい。ゆっくり時間をかけて好きになっていった分、断ち切るのも厄介だ。
傍にいられればどのような形だっていいのだと正直な気持ちで今は思える。冷静に考えてその結論になる自分が、どうかしてる。
恋愛感情でどうかしてしまうのは、何歳になっても避けられはしない。
ヒートアップする歌姫さんを宥めている最中、気を付けていたはずなのに表情が無意識に暗くなっていたのか、家入さんに眉間をトンと人差し指で押された。直ぐにぐっと顔を近づけて、互いの息がかかる距離まで間を詰められる。彼女が飲んでいる日本酒の香りが鼻をくすぐった。
「そんな奴よりさ、私としようよ。琴音センセ」
「えっ?」
「女同士はお嫌いですか?」
「……家入さん?」
艶やかな唇が誘惑的に動いて、睫毛の長い漆黒の瞳に見据えられた。冗談で告げてるに決まっているのに錯覚してして、心臓がバクバクと早鐘を打ち始める。
お酒を一滴も飲んでいないに、血液が沸騰したように熱くなった。途端に顔に朱色に染まり、耳が赤くなっていくのが鏡を見なくても分かった。
「やりすぎやりすぎ。琴音の顔色サングリアみたいに美味しそうになってるから」
「処女でもないのに初心な反応…、これはタチが悪いですねー。五条も大変だな」
「ねぇ、それモテの術式?」
「な、何ですかモテの術式って…」
火照りを冷めますようにパタパタを手を振って顔を扇いだ。家入さんが言うと冗談に聞こえないし美しさに魅入ってしまったのだから。
火照りを落ち着かせる為、店員さんが持ってきたばかりのノンアルカクテルをぐいっと飲み干すと、何だか甘味の足りないような味がした。すぐさま、間違えてアルコールで割られたのカクテルが運ばれていた事に気づくも、飲み干した分は戻せない。
「これお酒だったみたいです」
途端に目がトロンとして瞼が重くなる。くらりと頭が揺れたら歌姫さんが抱きとめてくれて、家入さんがお水を飲ませてくれた。二人の優しさに甘えながらぼんやりする意識の中で反省するも、その後の記憶はほとんどなくすことになる。
どのように自宅に辿りついたのか。どうやって化粧を落としてシャワーを浴びたのか。パジャマに着替えたのか――しかし、人の習慣とは恐ろしいもので。
その後、車を置いてタクシーに乗せられ帰らされた私は、記憶がないながらにいつもの“習慣”のようにそれらをこなし、ベッドで眠りについたのだった。
滅多に飲まないアルコールを摂取したときぐらいだらしなくソファに沈んで眠りたかったのに、体に染み付いたルーティンはそうはさせてくれないんだな。
融通が利かない自我にガッカリしながら眠りに落ちていった。
□ □ □
カーテン越しに差し込む柔らかい光が瞼を照らし、目を少しだけ開ける。微睡みの中、昨夜の飲み会帰りでもちゃんとシャワーまで浴びてベッドに入った事を思い出した。
眠る時は一人だったはずなのに、私の体を包み込む逞しい腕に違和感を覚える。ごつごつして重たい。
視線だけ上に向けるとそこには静かに寝息を立てて寝ている五条くんが、居た。目隠しも外した状態を改めて間近で見つめてみると、本当にスーパーモデルような美形で、彫刻のように整っている目鼻立ちに感嘆の息が漏れる。睫毛が長い。
ちゃんと黒のTシャツを着て寝ている。時々そのまま置いて帰るから、私が洗濯してクローゼットに仕舞っておいたものだろう。
「夢かぁ。これまたリアルな…」
冬の日差しがこの部屋を照らす時間帯には、彼はの姿はいつもないはずだ。目覚めたら一人、それがお決まりのパターンだから。
それならばこの状況は夢だ。視界に映る愛しい彼も、あったかい体温も、抱きしめられている腕の感触も、夢にしては随分生々しく感じる。
思い切り抱き着いてみようと、自分からも五条くんの大きな背中に手を伸ばし抱き締めた。
「例え恋人じゃなくても傍に居たいんです。時々こうして触れ合えるなら、充分」
胸板に鼻先をくっつけるといい香りがした。柑橘系の…うちで使ってる柔軟剤の香りだ。
小さな独り言は、夢の中だから声に出して言える。嘘をついてるわけでも意地を張ってるわけでもない。心からの本心。
20代だったなら、恋愛に盲目になって自分がセフレかもしれないという事に焦り、何か打開策を打っていただろう。人並に経験して大人になった今、若い頃と同じ行動も思考も出来ない。依存する恋愛や競争は心が疲れてすり減るばかりだから。
それに、私は五条くんに何かを求めているわけではない。貰わなくていい。与えたいだけ。
「すぐ自己完結して自己満足する琴音の癖はどうしたもんかなぁ」
気だるげな寝起き口調で耳元で声がすると同時に、抱きしめられている腕に力が込められた。思いがけずの強い圧がちょっと苦しい。
自由気ままで我儘でマイペース。夢の中でも彼の性格が変わることはない。現実でも同じように返してきそうだなと想像して笑みが零れた。
「ふふ、起こしちゃってごめんなさい」
「まぁ別にいーけど。あったかくてよく眠れたし」
背中に回されていた腕が解けて、五条くんの大きな手が私の頬をやんわりとつねった。微かに痛い。不機嫌な雰囲気が伝わってきて、いひゃいれふ、と抗議しても離してもらえる様子がなく、私は無抵抗で諦めることにした。じわじわと頬を抓る指先から体温が伝播する。幻想的な蒼色の瞳がこちらを覗き込んでいる。
「あのさ、僕と琴音ってセフレ?」
「いえ、違うと思いたいですが、多分……」
「冗談をマジに返すなって。寝惚けてんの?」
「――え?」
“夢じゃない”
刹那、夢だと思っていた“今”が現実だったと頭が理解して、息が止まりそうな程に驚愕した。私が起きる前に姿を消す彼が、朝になっても隣にいるというアンマッチ具合で、やはり夢じゃないかと混乱してしまう。
そして、譫言のような呟きを本人に聞かれてしまった羞恥心が一気に襲ってくる。胸がキリキリと痛み、脈が自然と速くなる。
背中から汗が伝うほど恥ずかしさが極まって、目を合わせられず私は両手で自分の顔を覆った。
下戸だけれども酒を飲んですべてを忘れたくなる瞬間というのは、こういう時のことを言うのかと自身に落胆した。耳まで紅潮してる私の顔を見て、五条くんがケタケタと遠慮なく笑った。
「い、家入さんが連絡を?」
手の平で顔を隠したまま消え入りそうな声で尋ねると、五条くんは相槌を打った。
「そ。ノンアルと間違えて持ってきた酒を一気飲みして潰れたって。タクシーで帰したとは聞いてたけど、一応ね」
「面目ないです」
「酔ってんのに恐ろしいほどキッチリこなしてから寝てたから感心したよ」
「自分の才能が怖い……」
「変なとこでポジティブだよね」
化粧を落とさず寝たら30代の肌は翌日ソッコーで荒れる!という歌姫さんからの教訓が、脳に深く刻まれてたおかげかな。
いつまでそうしてるんだとばかりに両手首を五条くんに捕まれ、無理やり視線を合わせてくる。狭いベッドでバタバタと抵抗しても私の力ではどうにも出来ない。珍しいものを見たとばかりに彼はニヤリと皮肉な笑みを浮かべていた。
ああ、沈黙が気まずい。黙っていると余計に恥ずかしくなってしまう。
「それでわざわざ家まで……?」
「だってほっとけないでしょ。君ってドジだし」
――その一言で突然、過去の記憶の学生だった頃の五条くんが脳裏に浮かぶ。
呪術高専の事務教員になってからしばらくしての出来事だ。渡り廊下でハードコンタクトを落としてしまい、床を這いつくばって慌てて探している私。一緒に探そうとしてくれる五条くんがぼんやりと見えて、申し訳なさと恥ずかしさで「一人で大丈夫ですから」と告げると、彼はぶっきらぼうに『ほっとけねーだろ』と言って一緒に探してくれた事があった。結局その甲斐なく、自分でレンズを踏んづけて割ってしまったことを思い出す。どんくさっ!と、ジト目を向けて大きなため息をついて去っていった青年。あれは17歳の五条くんだ。
今、目の前の27歳の五条くんが同じ言葉を、別の意味を含んで私に告げている。あの頃は恋人になるなんて想像もしてなかった。
じんわりと目頭が熱くなる。
“ほっとけない”がこんなに嬉しい言葉だなんて。好きな人に告げられると、こんなにも気持ちが高揚してしまうのだと初めて知った。
「ほっとけないって思うの、私にだけですか?」
夢の続きではないとわかっているのに、感情のまま声が出ていた。意図せず零れた本音にハッとして口を噤む。
貰わなくていい。与えたいだけ――なのに、内から溢れ出る欲深さに決意は早々に砕かれようとしている。私が一番だと思って欲しいという独占欲が掻き立てられる。自分でも知らない一面が曝け出され、一度湧いた渇望は消えてくれない。
すると、先ほどまでニヤついていた笑みが消え、眉間にシワが寄った。怒ってるそれとは違う少しだけ子供っぽさを彷彿とする。初めて見る五条くんの動揺した表情。これが照れている顔なのかと瞬時に察し、とても貴重なものをみた気分になる。
瞳に窓辺の光が反射し、アクアマリンを散りばめた海の色が揺れて綺麗だ。はぁ、と漏らした溜息が妙に色っぽい。
「……この状況で恋人の僕にそれ聞く?」
声色が動揺から焦燥感に変わった直後に強く抱きしめられた後、額に唇を優しく落とされた。同じタイミングで断続的にスマホから目覚ましアラームが鳴り出し、朝7時だということに咄嗟に気づくがもう遅い。非日常感で平日の朝だということをすっかり忘れていた。反射的にアラームを止めようと伸ばした手を絡め取られ、向かい合って横になっていた体勢からいとも簡単に押し倒される。いつもは薄暗いのに部屋が明るくて変な感じだ。
仰向けにされ、見慣れた白い天井と電球が視界に映る。アラーム代わりのオルゴールメロディが部屋に鳴り響く中で私に跨ったまま、五条くんは意地悪な笑みを浮かべた。
「今のはお前が悪いね」
おそらく無意識に、“君”から“お前”へと呼び方が変わり、ふと学生時代の五条くんみたいだと思った。彼の影が降りて来るも、朝日の所為でいつもと違う光景に心音が速さを増して高鳴り始めた。
身体のあちこちが熱を帯びて、惚けて麻痺してくる。そのうち没頭して全神経が波に攫われ、心まで溶けていく感覚は麻薬のようだ。
――もう、冷たい風が胸を通り抜ける朝は来ない。