呪術廻戦
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願い事ひとつ
願い事はひとつだけ。
叶えることは難しいとしても、望まずにはいられない。
アパートの駐車場に車を停めて、私は自宅に帰ることなく最寄り駅方面まで歩き出した。クリスマスが近づくにつれてイルミネーションで華やぐ街並み。それは都心でなくとも起こる事象で、この小さな商店街もそれなりに飾られて賑わっていた。イベント事や年末休みがある師走、クリスマス商戦の準備に取り掛かっている頃だろう。
数年前に付き合っていた恋人とは、最初の年に数々の行事を二人で楽しんだ。春には桜の下を、夏は花火大会へ、秋は紅葉を眺めに、冬はちょうどこんな感じの煌めく街を手を繋いで歩いた。指先の温かさまでは、もう忘れてしまったけれど。
“呪術高専”という場所は特殊だ。日常の中に人の死を多く見ることになる。しかも自分より若い学生の死を。教員になりたての頃、心が疲れてメンタルがだいぶすり減った。前線に立つわけでもない自分が出来る事は、気丈に振舞う事だと言い聞かせ、出来るだけ生活リズムを崩さずに非日常の中で日常を送った。その中でも、恋人という存在は癒しだった。
彼が会社から地方への長期の転勤を命じられた時、一緒に暮らそううと告げられた。“結婚を見据えて”…という意味も含まれていることはすぐ理解出来た。ついて行く場合、私は呪術高専での仕事を離れることになる。転勤先は京都に近いわけでもなかったので、姉妹校で働ける可能性もゼロだった。
そこが、分岐点。
私は仕事を手放すことができず、彼とは別れることになった。特別長い交際期間ではなかったけれど、いつも優しく私を愛してくれた人。嫌い合ったわけじゃないのに、自分の意志を伝えてからは気まずい沈黙ばかり流れた。自分の中の“大切な事”を手放してまでは一緒にいられないという判断をした時点で、何を伝えても彼には言い訳にしか聞こえなかったんだろう。冷めた視線を向けられても仕方のない事だった。
だって手放せない。私にとって呪術高専は『就職氷河期の当時、やっと採用が決まった就職先』というだけだったはずなのに――長く働くうちに、自分の中で大切なものが増えていったのだから。
商店街を抜けた先の路地裏に、ひっそりと佇む小さなバー。
おひとり様でも気軽に飲める場所だ。この街に住み始めてから間もなく、ランチを食べれる店を探していたら偶然見つけた場所。昼は洋食屋を、夜はゆったりとしたジャズが流れるバーとなる。
店主とも顔見知りになり、下戸ということも知られているので作ってくれるのは主にノンアルカクテルだけど、決まって憂鬱なことがあった日には普通のカクテルを頼むことがある。酔いつぶれても歩いて帰れる距離なので、ここなら安心して飲める。
桜のチップで燻製されたチーズと、オリーブオイルがかかった生ハムの盛り合わせをつまみつつ、今夜があと数時間で終わるんだなぁと、カウンター奥にキレイに並べられたボトルを眺めた。
最後にここに来たのは、家入さんとだ。彼女は酒に強いだけに、度数の高い酒をロックで注文していた。雰囲気や料理も気に入ってもらえたみたいで、楽しい時間を過ごした事を思い出す。そこには珍しく、私と同じく下戸の五条くんも途中からやって来た。まだ付き合う前だったから、普段と変わらない距離感で接していた頃だ。
帰りがけ、私の地元なのにアパートまで送っていくと告げられ、断っても無駄だなと諦めてすっかり暗くなった商店街を並んで歩いた。どんなとこに住んでるか見たい、という好奇心が湧いたらしく、辿り着けば、『広さ犬小屋くらい?』とゲラゲラ笑っていた。確かに五条くんの実家の広さに比べたらその比喩は失礼ではあっても的確だ。思い返しても、高専時代の五条くんの性格はなかなか尖っていた。興味を持たれてる?――緊張で体が強張ったが、部屋に上がり込まれることはなく、二階のベランダから見送った後ろ姿に不意に胸が鼓動した。ハッキリと気持ちの正体を突き止めることはしなかったけど、あの時にはもう好きだったのかも知れない。
回想してるうちにシェイカーの音が止まり、手際よくブルーキュラソーのカクテルが私の目の前に置かれた。透き通った海の色は、五条くんの瞳の色を彷彿とさせる。いや、逆だ。五条くんを思い出したくて、今夜この場所に来て青いカクテルを頼んだんだ。
知り合って十年以上――過ごした記憶もそれなりにあるけれど、恋人として付き合い始めたのは今年の春。忙しい呪術高専の教師で現代最強呪術師の五条くんと、ごく普通の恋人同士の季節を過ごすことは難しい。会える時間も会える日も限られている。
今日は十二月七日。五条くんの誕生日。当日お祝いしたかったのに、今週は出張で都内にはいない。私も30になるいい大人だ。それぐらいで一喜一憂したくない。五条くんにしか出来ないことを彼は一身に請け負ってくれているのだ。会えなくて寂しいなんて感じることすら烏滸がましいのは理解してるし、気持ちを紛らわすために誰かと飲むのも違う気がする。だから一人で、今夜はここで過ごす事にしたんだ。
アルコールが喉を通って体が次第に熱くなっていき、飲み終わる頃には頭がぼうっとしてふわふわとした気分になっていた。どうか憂鬱さが吹き飛びますようにと、目を閉じて味わった。
一杯目にはアルコールが入っていた。二杯目からはマスターが私に合わせてノンアルにしてくれてる事に気付いてるけれど、お互いに何も言わない。静かな気遣いにも丁寧な料理にも、優しさがしみ込んで来て視界が滲んだ。
寂しくて恋しくなって、飲めないアルコールを求めてここに来た。ゆったりしたジャズが流れる店内で、共に過ごした時間に浸って隙間を埋めようとしていた。ほんの少しだけ酔った頭の中で、明日も仕事があるんだったと冷静さを取り戻した。いっそそんなことは忘れて、無理に酔いつぶれることが出来たらいいのに。ブレーキが得意な自分の癖が煩わしかった。
・・・
・・・・・
・・・・・・
22時――薄暗くなった商店街を抜けてアパートまで歩く途中、突然、ポケットの中の携帯が振動した。メールなら後で見ればいいかと、コツコツとヒール音を鳴らして気にせず歩き続ける。
今朝一番に五条くんにはお祝いのメールを送っておいた。『次のお休みにでもちゃんとお祝いしましょう』、と。それに対して珍しくすぐ返信が届いた。“サンキュ、よろしく”……、短い文だけど出張先からわざわざ送ってくれたのかと思うと嬉しくなった。だから、待ち人からのメールは既に貰っている。他にすぐに返信したいようなメールではないことは明らかだった――のに、携帯の振動は止まらない。
緊急の着信かな?と、ポケットから取り出してみるとそこには“五条くん”と、登録された名前が表示されていた。慌てて通話ボタンを押すと、明るい声が耳に響いた。
『やっと出た』
何となく動揺を悟られないように深呼吸してから、道の端に寄って立ち止まる。
「お疲れ様です。どうしたんですか?こんな時間に……」
『うん、ちょっと用事。今、家にいる?』
「いえ、家の近くには居ますが…、これから帰るとこです」
『そ。じゃあさ、帰ったらすぐ冷蔵庫の中見てみて。ちょっといいバターと、キッチン棚にはミックス粉とケーキシロップがあるから。それでパンケーキ焼いといて。あーお腹空いた。一時間後ぐらいにそっち行くから』
――は?一時間後?
目を丸くして驚きながらも、冷蔵庫に卵と牛乳があっただろうかと今週の買い物の記憶を辿る。うん、常備してるはず。
五条くんは東北方面の出張だと聞いていたけれど、任務が前倒しで終わったということだろうか。来れるということは、そういうことなのだろう。本来なら明後日戻って来る予定だったから、かなり無茶したんじゃないかとか、昨夜は徹夜任務で夜通し伊地知さんに運転させたんじゃないかとハラハラしてしまう。
「無理、してませんか?」
『さすがに疲れたよ』
「それなら休んだ方が……」
『疲れてるからこそ甘いものが欲しいわけ。こんな時間じゃ店も閉まってるだろうしさ』
「……うちはパンケーキ屋じゃありませんけど」
『拗ねてんの?』
「す、拗ねてません!」
反論したら自然と声を張ってしまい、歩いていた周囲の人の視線がこちらに向けられた。“じゃ、あとでね”…一方的に告げられ、通話を切られた後、止めていた足を一歩前に出し、アパートへ向かって走り出した。
今にはじまったことじゃないからもう慣れたけど、五条くんはいつだって急だ。こちらが準備する暇を与えてくれない。告白の時もそうだった。知り合って十年以上であのタイミングで東京タワー上空で告白され、自分の中に潜めていた気持ちを引き出された。
生徒だった彼はいつしか教師になり、大切な人に少しずつ変化していった。そうなることが当たり前だったみたいに、ごく自然に。
あと二時間で今日が終わるというのに、何という無茶ぶり。
これから私は部屋着に着替える間もなく、ジャケットだけ脱いでシャツ姿の上にエプロンを着て、パンケーキを焼きまくる。
ふふ、と口元が緩んだ。わざわざ誰でも作れるようなものを食べにくるなんて、会いに来たいと言ってるのと同じだ。しかも、わざわざ事前に材料まで買って置いておくなんて。時々かわいい一面が垣間見えて困惑しつつ、その周到さは相変わらずだなぁと感心したり。逸る気持ちを抑えながら、私はアパートに辿り着いて玄関のドアを開けたのだった。
・・・・・・
インターホンのチャイムが鳴った日付が変わる数分前。
少しだけ遅れてやって来た五条くんがカメラに映った。そのままドアを開けると、本当に五条くんが来た……と目の奥がジンとなる。出張に行く数日前にも高専で会っていたし、別に久々に会ったわけじゃない。今夜は私が勝手に寂しい気持ちになっていたから、会いたいと願っていたからか、いざ対面すると気持ちが浮ついて落ち着かない。
「お疲れ様です。どうぞ入ってさい。狭いとこですけど……」
「何度も来てるから知ってるよ」
「あ、あの洗面所に置いてあるタオル、使ってください」
「それも知ってる。今日、……何かあった?」
親指でぐっと目隠しを持ち上げて顔を覗き込まれ、先ほど飲んだブルーキュラソーの色より綺麗な青色の瞳に吸い込まれそうになる。どんなカクテルを作っても、似せる事は出来ても五条くんの瞳の美しさを再現するのは難しいだろう。
視界が青でいっぱいになるほどの顔を近づけられ、キスをされるのではと反射的に目とぎゅっと閉じた。しかし、互いの鼻先だけ触れ合っただけで唇が重なることなかった。五条くんは小さく笑って離れ、靴を脱いで上がるとそのまま洗面所で向かって行った。
……彼はいつも通り。私が、言われた通りヘンなんだ。
小さなダイニングテーブルと椅子が二脚。初めての一人暮らしの際に買ったものだ。私にとって座り慣れた椅子も、体格のいい男性が座ると随分小さく華奢な家具に見える。
ミルクパンで作った温かいハニーラテをマグカップに注ぎ、テーブルに置いた後、テキパキと焼いておいたパンケーキを三枚ずつ重ねたものを皿に乗せて五条くんの前に運んだ。バター、ケーキシロップと、カラトリーも忘れずに。お取り寄せの材料はパッケージからして明らかに高そうだった。
「どーしてもコレ食べたかったんだ」
目隠しを外し、皿に鼻を近づけてほんのり甘い香りを堪能してから、バターとシロップを丁寧にかけてパンケーキにナイフを入れ、三枚重ねにされた一片が口に運ばれた。
もぐもぐと咀嚼しながら幸せそうに頷く仕草に、白色の長い睫毛が震えている。
「美味い!沁みる!……もっとない?まだ全然食べれそう」
「ありますよ。フライパン二つとホットプレートで使って同時進行で全部焼きました」
「はは、豪快」
「時間があればちゃんと一枚一枚焼くんですよ?一時間後にって、急に電話してくるから……」
再びキッチンに戻って追加のパンケーキを皿に乗せてテーブルに戻って来ると、食べる手は止めずに五条くんは機嫌よさそうな口調で告げた。
「僕だって自分を甘やかしたいときだってあるさ。誕生日くらいはね」
――それで、私に会いに?
わざわざ確認するような野暮な言葉が出そうになったが、飲み込んだ。五条くんは、相手を喜ばせるための嘘なんて言わないと知っているから。未だに彼の一言一句に心が揺れる。慣れたはずが、また逆戻り。とうに忘れたはずの初心な気持ちが蘇るように、心臓が早鐘を打つ。知り合って十年経っても体の関係をもっても、互いを知り尽くしたとは到底思えない。それほど、彼の魅力は奥深い。
テーブルに向かい合わせに座って、私は自身の膝の上で手を固く握って五条くんを見つめた。
「二十八歳のお誕生日、おめでとうございます」
「うん。ありがと」
「これからもずっと健やかに幸せに、長生きしてくださいね」
「それおじいちゃんに言うやつでしょ。君こそ長生きしなよ」
声を立てて笑いながら、五条くんはパンケーキを小さめに切ると私の口元に近づけた。反射的にそのままパクッ食べると、溶けたバターの風味と甘いケーキシロップの味が口の中に広がっていく。スーパーで売ってるのと全然違う。美味しさに目を見開くと、五条くんはニンマリと微笑んだ。これがお取り寄せした材料のクオリティ……私が焼いてもちゃんと専門店の味になった。今後も冷蔵庫やキッチン棚に常備されてそうな予感がした。
よく食べる五条くんは厚焼きパンケーキを九枚、残すことなくぺろりと平らげた。コーヒーにも角砂糖をたくさん入れるほどの甘党は知っていたけども、食事も甘いものだけでも大丈夫なんだろうか。塩気がある食べ物を探すついでに、食べ終えた食器を片付けようと立ち上がろうとした時、ぐっと手を引かれて抱き寄せられた。
「あの、……しょっぱいもの要りますか?」
「今はいいや」
そのまま体を軽々と抱え上げられて、リビングにあるソファまで連れて行かれた。そっと耳たぶに指が触れられただけで、顔に朱が昇る。付き合い始めてから、何度触れられたか覚えていない。甘い空気が変わる瞬間だって何度でも味わった。
なのに今日は、ヘンだ。すべてが初めてみたいな感覚に、至近距離だと目を合わせることが出来ない。せめて本心は伝えようと、俯きながら私は消え入りそうな声を絞り出した。
「……今日、会えないと思ったら恋しくて、寂しかったです。任務で忙しい五条くんを前にこんなことを言うのは我儘だって分かってます。でも、会いたかったです。すごく。だから、会いに来てくれるって分かった時、嬉しくてそわそわして落ち着かなくなって」
らしくない自分に余計に羞恥心が襲う。ほんの微量のアコールのせいだと思いたい。
「ヘンなんです……。こんなこと言うの私らしくないですよね」
「逆行した初々しさがあって僕的には全然オッケー!だけど――……あ。もしかして飲んできた?下戸なのに」
「一杯だけです。でも充分なんですけど……寂しい気持ちを紛らわせたくて」
手を伸ばして白い頬に触れて、ふわふわと艶めく白色の髪を撫でる。恋しい気持ちが普段はできないことを後押ししてくれるなら、きっと今しかない。いつかそう呼べたらと望んで大事にしていた彼を示す“音”が、開いた唇から零れた。
「さとるくん」
一瞬、面食らった表情を見せた後、彼は私抱え直して向かい合わせに膝の上に座らせ――思い切り抱きしめられた。体格差がありすぎて、抱きしめていると言うより太い腕の中に閉じ込めらてるような図と言ったほうが正しいだろう。ぎゅうぎゅうと、離さない。まるでぬいぐるみになった気分だ。
私の首筋に顔を埋めながら、悟くんは深い息をついてから顔を上げた。視線が合うと吸い寄せられるように、ちゅ、と音を立てて唇が重なった。
生い立ちも性格も住む世界も、もともと違う私達は対極に在るのに惹かれ合う磁石のよう。
高専という繋がりがなければ、何も知らなかった。誰かが戦って身を粉にして守られてる平和も。最強呪術師である彼だけの苦労も。その人に、唯の女として愛される喜びも。柔らかさを確かめただけで離れた感触に、名残惜しさを覚えた。簡単な口付けが気恥ずかしい。
「……間接的に酔わせちゃいますね」
「別にいいよ。それよりもっと呼んで」
「悟くん」
「かなり新鮮」
「また今度、ちゃんとお祝いしましょうね」
「そうだね」
「悟くん?」
「はいはい」
「……どうかしましたか?」
うーん、と唸ってから口を噤んだ悟くんの様子がおかしい。
首を傾げて顔を覗き込めば、今度は優しく壊れ物を扱うようにゆっくりと背中に手が回された。大きな手は私の後頭部を支えて、慈しむように髪を丁寧に撫でた。指の感触が心地いい。
「君のことだから明日になったら呼び方戻っちゃうなーって。もうさ、“五条くん”って呼ばせないように琴音が五条になる?」
突然の問いかけを機にしばしの沈黙が訪れ、私の思考回路は一度停止する。言葉の意味は理解しているが、どういうつもりで告げたのかが読めない。冗談として流していいのか、本気にしていいのか、どう答えれば正解なのかがわからない。黙るしかない私の背中を、悟くんは抱きしめたままトントンと軽く叩いた。おーい、と声を掛けて、固まったロボット状態になってる私の再起動を促した。
仮に、本気の意味で受け取るとして――
「そ、れは…、かなり大ごとでは?」
「まーね。あ、僕が汐見になればいっか。汐見悟。超フツーだけど悪くないね」
「それもかなり、我が家的に大ごとかと……」
「色々面倒事が起こるのはどのみち避けられないとしても、僕が当主なんだから丸く収まるでしょ」
こちらの無難な受け答えに、笑いながらも具体的に返されたので、察した。彼は本気だ。名前を呼んだことで心が動いたのかは、不確かだけれど。ドラマでよあるシーンとも違う。高級レストランでもない。狭い1LDKでパンケーキをたくさん食べた後でなんて、直前まで予想出来なかった。
まるで、春の嵐みたいに。二人の関係が変わった日みたいに、いつだって運命の日は突然に訪れる。
「呪術師でいる限り普通の幸せとは程遠いし、誰かと生きるなんて考えたこともなかったな」
「……“人は死ぬときは独りだ”って、言ってましたよね」
「今でもそう思ってるよ。誰だって死に際は選べない。後悔があってもなくてもさ。だからこそ生ある限りは大切な人と、ね」
服越しにくっついた皮膚の奥で動く心臓のリズムが、いつもより早い。柔らかい声が、鼓膜で心地よく響いた。
「琴音。僕たち夫婦になろうか」
言葉は真っ直ぐに胸に届いて、傍に居られるだけでいいと思っていた控えめな気持ちの奥底を探り当てられる。もう、本心を誤魔化さなくていいんだ。
「っ、…………ず」
「ず?」
「ずるいです…!こんな急なのに、誕生日に言うとか、ことっ…断れるわけないじゃないですか」
「ずるいとは心外だな。ってゆーか、断る選択肢あるワケ?」
「ない、ないですよ、ないですけど!……もし冗談だったり、撤回したら、……の、呪いますから!」
「へー、呪力ゼロのくせに強がるねぇ」
抱きしめられていた手を解いて声を張り上げて眉間に皺を寄せても、どうしたって目から大粒の涙が零れてしまう。
目を細めて嬉しそうに見つめる彼の姿を、潤んだ視界で見ようにも滲んでぼやけていく。堪えても、瞬きをする度にしょっぱい涙はパタパタとシャツの襟元を濡らしていった。
最強呪術師――五条悟の恋人になることは、私の中でも結婚を諦めることでもあった。御三家の事も周囲からよく聞いている。そもそも呪力ゼロでごく一般家庭で育った私が、代々続く呪術師の家柄に嫁入りするなんて夢のまた夢で、もし正妻を娶ったら、自分は妾や愛人に成り下がる――なんてことも、悲しいけどほんの少しだけ考えたことがある。どうにもならない部分も承知の上で付き合うと決めたのは自分なのだから、その延長にどんな結果が…別れが待っていても、後悔はないはずだった。
なのに、実際にプロポーズされたら泣けるほど喜んで、安堵している自分が居る。口に出したこともない密かな願いが、唐突に静かに掬い上げられるなんて、思いも寄らなかった。
「お前にだけ、一生祓えないとびきり歪な呪いをあげるよ」
指で優しく私の涙を拭って、彼は嬉しそうにはにかんだ。『愛ほど歪んだ呪いはないよ』……以前、悟くんが持論だと告げた言葉が脳裏に浮かんだ。プロポーズの最中、“愛”を“呪い”に例える人なんて世界中探してもどこにもいないだろう。唯一人を除いては。
久々に“お前“と呼ばれ、学生時代の悟くんと重なって見えた。胸がグッと詰まる感覚に、あの頃から自分の心の中に彼が居たことにようやく気付いた。最初は、憧れだった。あまりにも私が関わって来た人達と違い過ぎた。稀に見る我の強さに気圧されつつも、自分に持ってない部分を魅力に感じた。傍若無人で我儘な性格、自由気ままな少年のあどけなさも愛おしく映った。自分は教員だという意識から知らず知らずに感情を押し留め、悪い癖がついて、そのまま蓋をしながら同僚となってからも関わりが続いた。
今なら分かる。想いが消えることなかったのは、この人が私にとって特別大切な存在になると本能的に察知していたからだ。
「……今生を懸けて受け止めます」
目を赤くしたまま、震える唇を引き結ぶ。泣きそうになるのを堪え、眉尻を下げたまま口角を上げて精一杯の笑顔を向けた。頷いた悟くんからのキスが、頬へ瞼へと降りてくる。喜びで目眩を起こしそうだ。やわらかな感触に恍惚としながら頭の中で響く福音は、病める時も健やかなる時も共に生きる道を選ぶことを決めた、二人の幸せの幕開けの音。
少しばかり歪な愛の中で、たったひとつの願い事は叶えられたのだった。
願い事はひとつだけ。
叶えることは難しいとしても、望まずにはいられない。
アパートの駐車場に車を停めて、私は自宅に帰ることなく最寄り駅方面まで歩き出した。クリスマスが近づくにつれてイルミネーションで華やぐ街並み。それは都心でなくとも起こる事象で、この小さな商店街もそれなりに飾られて賑わっていた。イベント事や年末休みがある師走、クリスマス商戦の準備に取り掛かっている頃だろう。
数年前に付き合っていた恋人とは、最初の年に数々の行事を二人で楽しんだ。春には桜の下を、夏は花火大会へ、秋は紅葉を眺めに、冬はちょうどこんな感じの煌めく街を手を繋いで歩いた。指先の温かさまでは、もう忘れてしまったけれど。
“呪術高専”という場所は特殊だ。日常の中に人の死を多く見ることになる。しかも自分より若い学生の死を。教員になりたての頃、心が疲れてメンタルがだいぶすり減った。前線に立つわけでもない自分が出来る事は、気丈に振舞う事だと言い聞かせ、出来るだけ生活リズムを崩さずに非日常の中で日常を送った。その中でも、恋人という存在は癒しだった。
彼が会社から地方への長期の転勤を命じられた時、一緒に暮らそううと告げられた。“結婚を見据えて”…という意味も含まれていることはすぐ理解出来た。ついて行く場合、私は呪術高専での仕事を離れることになる。転勤先は京都に近いわけでもなかったので、姉妹校で働ける可能性もゼロだった。
そこが、分岐点。
私は仕事を手放すことができず、彼とは別れることになった。特別長い交際期間ではなかったけれど、いつも優しく私を愛してくれた人。嫌い合ったわけじゃないのに、自分の意志を伝えてからは気まずい沈黙ばかり流れた。自分の中の“大切な事”を手放してまでは一緒にいられないという判断をした時点で、何を伝えても彼には言い訳にしか聞こえなかったんだろう。冷めた視線を向けられても仕方のない事だった。
だって手放せない。私にとって呪術高専は『就職氷河期の当時、やっと採用が決まった就職先』というだけだったはずなのに――長く働くうちに、自分の中で大切なものが増えていったのだから。
商店街を抜けた先の路地裏に、ひっそりと佇む小さなバー。
おひとり様でも気軽に飲める場所だ。この街に住み始めてから間もなく、ランチを食べれる店を探していたら偶然見つけた場所。昼は洋食屋を、夜はゆったりとしたジャズが流れるバーとなる。
店主とも顔見知りになり、下戸ということも知られているので作ってくれるのは主にノンアルカクテルだけど、決まって憂鬱なことがあった日には普通のカクテルを頼むことがある。酔いつぶれても歩いて帰れる距離なので、ここなら安心して飲める。
桜のチップで燻製されたチーズと、オリーブオイルがかかった生ハムの盛り合わせをつまみつつ、今夜があと数時間で終わるんだなぁと、カウンター奥にキレイに並べられたボトルを眺めた。
最後にここに来たのは、家入さんとだ。彼女は酒に強いだけに、度数の高い酒をロックで注文していた。雰囲気や料理も気に入ってもらえたみたいで、楽しい時間を過ごした事を思い出す。そこには珍しく、私と同じく下戸の五条くんも途中からやって来た。まだ付き合う前だったから、普段と変わらない距離感で接していた頃だ。
帰りがけ、私の地元なのにアパートまで送っていくと告げられ、断っても無駄だなと諦めてすっかり暗くなった商店街を並んで歩いた。どんなとこに住んでるか見たい、という好奇心が湧いたらしく、辿り着けば、『広さ犬小屋くらい?』とゲラゲラ笑っていた。確かに五条くんの実家の広さに比べたらその比喩は失礼ではあっても的確だ。思い返しても、高専時代の五条くんの性格はなかなか尖っていた。興味を持たれてる?――緊張で体が強張ったが、部屋に上がり込まれることはなく、二階のベランダから見送った後ろ姿に不意に胸が鼓動した。ハッキリと気持ちの正体を突き止めることはしなかったけど、あの時にはもう好きだったのかも知れない。
回想してるうちにシェイカーの音が止まり、手際よくブルーキュラソーのカクテルが私の目の前に置かれた。透き通った海の色は、五条くんの瞳の色を彷彿とさせる。いや、逆だ。五条くんを思い出したくて、今夜この場所に来て青いカクテルを頼んだんだ。
知り合って十年以上――過ごした記憶もそれなりにあるけれど、恋人として付き合い始めたのは今年の春。忙しい呪術高専の教師で現代最強呪術師の五条くんと、ごく普通の恋人同士の季節を過ごすことは難しい。会える時間も会える日も限られている。
今日は十二月七日。五条くんの誕生日。当日お祝いしたかったのに、今週は出張で都内にはいない。私も30になるいい大人だ。それぐらいで一喜一憂したくない。五条くんにしか出来ないことを彼は一身に請け負ってくれているのだ。会えなくて寂しいなんて感じることすら烏滸がましいのは理解してるし、気持ちを紛らわすために誰かと飲むのも違う気がする。だから一人で、今夜はここで過ごす事にしたんだ。
アルコールが喉を通って体が次第に熱くなっていき、飲み終わる頃には頭がぼうっとしてふわふわとした気分になっていた。どうか憂鬱さが吹き飛びますようにと、目を閉じて味わった。
一杯目にはアルコールが入っていた。二杯目からはマスターが私に合わせてノンアルにしてくれてる事に気付いてるけれど、お互いに何も言わない。静かな気遣いにも丁寧な料理にも、優しさがしみ込んで来て視界が滲んだ。
寂しくて恋しくなって、飲めないアルコールを求めてここに来た。ゆったりしたジャズが流れる店内で、共に過ごした時間に浸って隙間を埋めようとしていた。ほんの少しだけ酔った頭の中で、明日も仕事があるんだったと冷静さを取り戻した。いっそそんなことは忘れて、無理に酔いつぶれることが出来たらいいのに。ブレーキが得意な自分の癖が煩わしかった。
・・・
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22時――薄暗くなった商店街を抜けてアパートまで歩く途中、突然、ポケットの中の携帯が振動した。メールなら後で見ればいいかと、コツコツとヒール音を鳴らして気にせず歩き続ける。
今朝一番に五条くんにはお祝いのメールを送っておいた。『次のお休みにでもちゃんとお祝いしましょう』、と。それに対して珍しくすぐ返信が届いた。“サンキュ、よろしく”……、短い文だけど出張先からわざわざ送ってくれたのかと思うと嬉しくなった。だから、待ち人からのメールは既に貰っている。他にすぐに返信したいようなメールではないことは明らかだった――のに、携帯の振動は止まらない。
緊急の着信かな?と、ポケットから取り出してみるとそこには“五条くん”と、登録された名前が表示されていた。慌てて通話ボタンを押すと、明るい声が耳に響いた。
『やっと出た』
何となく動揺を悟られないように深呼吸してから、道の端に寄って立ち止まる。
「お疲れ様です。どうしたんですか?こんな時間に……」
『うん、ちょっと用事。今、家にいる?』
「いえ、家の近くには居ますが…、これから帰るとこです」
『そ。じゃあさ、帰ったらすぐ冷蔵庫の中見てみて。ちょっといいバターと、キッチン棚にはミックス粉とケーキシロップがあるから。それでパンケーキ焼いといて。あーお腹空いた。一時間後ぐらいにそっち行くから』
――は?一時間後?
目を丸くして驚きながらも、冷蔵庫に卵と牛乳があっただろうかと今週の買い物の記憶を辿る。うん、常備してるはず。
五条くんは東北方面の出張だと聞いていたけれど、任務が前倒しで終わったということだろうか。来れるということは、そういうことなのだろう。本来なら明後日戻って来る予定だったから、かなり無茶したんじゃないかとか、昨夜は徹夜任務で夜通し伊地知さんに運転させたんじゃないかとハラハラしてしまう。
「無理、してませんか?」
『さすがに疲れたよ』
「それなら休んだ方が……」
『疲れてるからこそ甘いものが欲しいわけ。こんな時間じゃ店も閉まってるだろうしさ』
「……うちはパンケーキ屋じゃありませんけど」
『拗ねてんの?』
「す、拗ねてません!」
反論したら自然と声を張ってしまい、歩いていた周囲の人の視線がこちらに向けられた。“じゃ、あとでね”…一方的に告げられ、通話を切られた後、止めていた足を一歩前に出し、アパートへ向かって走り出した。
今にはじまったことじゃないからもう慣れたけど、五条くんはいつだって急だ。こちらが準備する暇を与えてくれない。告白の時もそうだった。知り合って十年以上であのタイミングで東京タワー上空で告白され、自分の中に潜めていた気持ちを引き出された。
生徒だった彼はいつしか教師になり、大切な人に少しずつ変化していった。そうなることが当たり前だったみたいに、ごく自然に。
あと二時間で今日が終わるというのに、何という無茶ぶり。
これから私は部屋着に着替える間もなく、ジャケットだけ脱いでシャツ姿の上にエプロンを着て、パンケーキを焼きまくる。
ふふ、と口元が緩んだ。わざわざ誰でも作れるようなものを食べにくるなんて、会いに来たいと言ってるのと同じだ。しかも、わざわざ事前に材料まで買って置いておくなんて。時々かわいい一面が垣間見えて困惑しつつ、その周到さは相変わらずだなぁと感心したり。逸る気持ちを抑えながら、私はアパートに辿り着いて玄関のドアを開けたのだった。
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インターホンのチャイムが鳴った日付が変わる数分前。
少しだけ遅れてやって来た五条くんがカメラに映った。そのままドアを開けると、本当に五条くんが来た……と目の奥がジンとなる。出張に行く数日前にも高専で会っていたし、別に久々に会ったわけじゃない。今夜は私が勝手に寂しい気持ちになっていたから、会いたいと願っていたからか、いざ対面すると気持ちが浮ついて落ち着かない。
「お疲れ様です。どうぞ入ってさい。狭いとこですけど……」
「何度も来てるから知ってるよ」
「あ、あの洗面所に置いてあるタオル、使ってください」
「それも知ってる。今日、……何かあった?」
親指でぐっと目隠しを持ち上げて顔を覗き込まれ、先ほど飲んだブルーキュラソーの色より綺麗な青色の瞳に吸い込まれそうになる。どんなカクテルを作っても、似せる事は出来ても五条くんの瞳の美しさを再現するのは難しいだろう。
視界が青でいっぱいになるほどの顔を近づけられ、キスをされるのではと反射的に目とぎゅっと閉じた。しかし、互いの鼻先だけ触れ合っただけで唇が重なることなかった。五条くんは小さく笑って離れ、靴を脱いで上がるとそのまま洗面所で向かって行った。
……彼はいつも通り。私が、言われた通りヘンなんだ。
小さなダイニングテーブルと椅子が二脚。初めての一人暮らしの際に買ったものだ。私にとって座り慣れた椅子も、体格のいい男性が座ると随分小さく華奢な家具に見える。
ミルクパンで作った温かいハニーラテをマグカップに注ぎ、テーブルに置いた後、テキパキと焼いておいたパンケーキを三枚ずつ重ねたものを皿に乗せて五条くんの前に運んだ。バター、ケーキシロップと、カラトリーも忘れずに。お取り寄せの材料はパッケージからして明らかに高そうだった。
「どーしてもコレ食べたかったんだ」
目隠しを外し、皿に鼻を近づけてほんのり甘い香りを堪能してから、バターとシロップを丁寧にかけてパンケーキにナイフを入れ、三枚重ねにされた一片が口に運ばれた。
もぐもぐと咀嚼しながら幸せそうに頷く仕草に、白色の長い睫毛が震えている。
「美味い!沁みる!……もっとない?まだ全然食べれそう」
「ありますよ。フライパン二つとホットプレートで使って同時進行で全部焼きました」
「はは、豪快」
「時間があればちゃんと一枚一枚焼くんですよ?一時間後にって、急に電話してくるから……」
再びキッチンに戻って追加のパンケーキを皿に乗せてテーブルに戻って来ると、食べる手は止めずに五条くんは機嫌よさそうな口調で告げた。
「僕だって自分を甘やかしたいときだってあるさ。誕生日くらいはね」
――それで、私に会いに?
わざわざ確認するような野暮な言葉が出そうになったが、飲み込んだ。五条くんは、相手を喜ばせるための嘘なんて言わないと知っているから。未だに彼の一言一句に心が揺れる。慣れたはずが、また逆戻り。とうに忘れたはずの初心な気持ちが蘇るように、心臓が早鐘を打つ。知り合って十年経っても体の関係をもっても、互いを知り尽くしたとは到底思えない。それほど、彼の魅力は奥深い。
テーブルに向かい合わせに座って、私は自身の膝の上で手を固く握って五条くんを見つめた。
「二十八歳のお誕生日、おめでとうございます」
「うん。ありがと」
「これからもずっと健やかに幸せに、長生きしてくださいね」
「それおじいちゃんに言うやつでしょ。君こそ長生きしなよ」
声を立てて笑いながら、五条くんはパンケーキを小さめに切ると私の口元に近づけた。反射的にそのままパクッ食べると、溶けたバターの風味と甘いケーキシロップの味が口の中に広がっていく。スーパーで売ってるのと全然違う。美味しさに目を見開くと、五条くんはニンマリと微笑んだ。これがお取り寄せした材料のクオリティ……私が焼いてもちゃんと専門店の味になった。今後も冷蔵庫やキッチン棚に常備されてそうな予感がした。
よく食べる五条くんは厚焼きパンケーキを九枚、残すことなくぺろりと平らげた。コーヒーにも角砂糖をたくさん入れるほどの甘党は知っていたけども、食事も甘いものだけでも大丈夫なんだろうか。塩気がある食べ物を探すついでに、食べ終えた食器を片付けようと立ち上がろうとした時、ぐっと手を引かれて抱き寄せられた。
「あの、……しょっぱいもの要りますか?」
「今はいいや」
そのまま体を軽々と抱え上げられて、リビングにあるソファまで連れて行かれた。そっと耳たぶに指が触れられただけで、顔に朱が昇る。付き合い始めてから、何度触れられたか覚えていない。甘い空気が変わる瞬間だって何度でも味わった。
なのに今日は、ヘンだ。すべてが初めてみたいな感覚に、至近距離だと目を合わせることが出来ない。せめて本心は伝えようと、俯きながら私は消え入りそうな声を絞り出した。
「……今日、会えないと思ったら恋しくて、寂しかったです。任務で忙しい五条くんを前にこんなことを言うのは我儘だって分かってます。でも、会いたかったです。すごく。だから、会いに来てくれるって分かった時、嬉しくてそわそわして落ち着かなくなって」
らしくない自分に余計に羞恥心が襲う。ほんの微量のアコールのせいだと思いたい。
「ヘンなんです……。こんなこと言うの私らしくないですよね」
「逆行した初々しさがあって僕的には全然オッケー!だけど――……あ。もしかして飲んできた?下戸なのに」
「一杯だけです。でも充分なんですけど……寂しい気持ちを紛らわせたくて」
手を伸ばして白い頬に触れて、ふわふわと艶めく白色の髪を撫でる。恋しい気持ちが普段はできないことを後押ししてくれるなら、きっと今しかない。いつかそう呼べたらと望んで大事にしていた彼を示す“音”が、開いた唇から零れた。
「さとるくん」
一瞬、面食らった表情を見せた後、彼は私抱え直して向かい合わせに膝の上に座らせ――思い切り抱きしめられた。体格差がありすぎて、抱きしめていると言うより太い腕の中に閉じ込めらてるような図と言ったほうが正しいだろう。ぎゅうぎゅうと、離さない。まるでぬいぐるみになった気分だ。
私の首筋に顔を埋めながら、悟くんは深い息をついてから顔を上げた。視線が合うと吸い寄せられるように、ちゅ、と音を立てて唇が重なった。
生い立ちも性格も住む世界も、もともと違う私達は対極に在るのに惹かれ合う磁石のよう。
高専という繋がりがなければ、何も知らなかった。誰かが戦って身を粉にして守られてる平和も。最強呪術師である彼だけの苦労も。その人に、唯の女として愛される喜びも。柔らかさを確かめただけで離れた感触に、名残惜しさを覚えた。簡単な口付けが気恥ずかしい。
「……間接的に酔わせちゃいますね」
「別にいいよ。それよりもっと呼んで」
「悟くん」
「かなり新鮮」
「また今度、ちゃんとお祝いしましょうね」
「そうだね」
「悟くん?」
「はいはい」
「……どうかしましたか?」
うーん、と唸ってから口を噤んだ悟くんの様子がおかしい。
首を傾げて顔を覗き込めば、今度は優しく壊れ物を扱うようにゆっくりと背中に手が回された。大きな手は私の後頭部を支えて、慈しむように髪を丁寧に撫でた。指の感触が心地いい。
「君のことだから明日になったら呼び方戻っちゃうなーって。もうさ、“五条くん”って呼ばせないように琴音が五条になる?」
突然の問いかけを機にしばしの沈黙が訪れ、私の思考回路は一度停止する。言葉の意味は理解しているが、どういうつもりで告げたのかが読めない。冗談として流していいのか、本気にしていいのか、どう答えれば正解なのかがわからない。黙るしかない私の背中を、悟くんは抱きしめたままトントンと軽く叩いた。おーい、と声を掛けて、固まったロボット状態になってる私の再起動を促した。
仮に、本気の意味で受け取るとして――
「そ、れは…、かなり大ごとでは?」
「まーね。あ、僕が汐見になればいっか。汐見悟。超フツーだけど悪くないね」
「それもかなり、我が家的に大ごとかと……」
「色々面倒事が起こるのはどのみち避けられないとしても、僕が当主なんだから丸く収まるでしょ」
こちらの無難な受け答えに、笑いながらも具体的に返されたので、察した。彼は本気だ。名前を呼んだことで心が動いたのかは、不確かだけれど。ドラマでよあるシーンとも違う。高級レストランでもない。狭い1LDKでパンケーキをたくさん食べた後でなんて、直前まで予想出来なかった。
まるで、春の嵐みたいに。二人の関係が変わった日みたいに、いつだって運命の日は突然に訪れる。
「呪術師でいる限り普通の幸せとは程遠いし、誰かと生きるなんて考えたこともなかったな」
「……“人は死ぬときは独りだ”って、言ってましたよね」
「今でもそう思ってるよ。誰だって死に際は選べない。後悔があってもなくてもさ。だからこそ生ある限りは大切な人と、ね」
服越しにくっついた皮膚の奥で動く心臓のリズムが、いつもより早い。柔らかい声が、鼓膜で心地よく響いた。
「琴音。僕たち夫婦になろうか」
言葉は真っ直ぐに胸に届いて、傍に居られるだけでいいと思っていた控えめな気持ちの奥底を探り当てられる。もう、本心を誤魔化さなくていいんだ。
「っ、…………ず」
「ず?」
「ずるいです…!こんな急なのに、誕生日に言うとか、ことっ…断れるわけないじゃないですか」
「ずるいとは心外だな。ってゆーか、断る選択肢あるワケ?」
「ない、ないですよ、ないですけど!……もし冗談だったり、撤回したら、……の、呪いますから!」
「へー、呪力ゼロのくせに強がるねぇ」
抱きしめられていた手を解いて声を張り上げて眉間に皺を寄せても、どうしたって目から大粒の涙が零れてしまう。
目を細めて嬉しそうに見つめる彼の姿を、潤んだ視界で見ようにも滲んでぼやけていく。堪えても、瞬きをする度にしょっぱい涙はパタパタとシャツの襟元を濡らしていった。
最強呪術師――五条悟の恋人になることは、私の中でも結婚を諦めることでもあった。御三家の事も周囲からよく聞いている。そもそも呪力ゼロでごく一般家庭で育った私が、代々続く呪術師の家柄に嫁入りするなんて夢のまた夢で、もし正妻を娶ったら、自分は妾や愛人に成り下がる――なんてことも、悲しいけどほんの少しだけ考えたことがある。どうにもならない部分も承知の上で付き合うと決めたのは自分なのだから、その延長にどんな結果が…別れが待っていても、後悔はないはずだった。
なのに、実際にプロポーズされたら泣けるほど喜んで、安堵している自分が居る。口に出したこともない密かな願いが、唐突に静かに掬い上げられるなんて、思いも寄らなかった。
「お前にだけ、一生祓えないとびきり歪な呪いをあげるよ」
指で優しく私の涙を拭って、彼は嬉しそうにはにかんだ。『愛ほど歪んだ呪いはないよ』……以前、悟くんが持論だと告げた言葉が脳裏に浮かんだ。プロポーズの最中、“愛”を“呪い”に例える人なんて世界中探してもどこにもいないだろう。唯一人を除いては。
久々に“お前“と呼ばれ、学生時代の悟くんと重なって見えた。胸がグッと詰まる感覚に、あの頃から自分の心の中に彼が居たことにようやく気付いた。最初は、憧れだった。あまりにも私が関わって来た人達と違い過ぎた。稀に見る我の強さに気圧されつつも、自分に持ってない部分を魅力に感じた。傍若無人で我儘な性格、自由気ままな少年のあどけなさも愛おしく映った。自分は教員だという意識から知らず知らずに感情を押し留め、悪い癖がついて、そのまま蓋をしながら同僚となってからも関わりが続いた。
今なら分かる。想いが消えることなかったのは、この人が私にとって特別大切な存在になると本能的に察知していたからだ。
「……今生を懸けて受け止めます」
目を赤くしたまま、震える唇を引き結ぶ。泣きそうになるのを堪え、眉尻を下げたまま口角を上げて精一杯の笑顔を向けた。頷いた悟くんからのキスが、頬へ瞼へと降りてくる。喜びで目眩を起こしそうだ。やわらかな感触に恍惚としながら頭の中で響く福音は、病める時も健やかなる時も共に生きる道を選ぶことを決めた、二人の幸せの幕開けの音。
少しばかり歪な愛の中で、たったひとつの願い事は叶えられたのだった。