呪術廻戦
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Andante
今年で30歳になる。
その頃には自分も母のように結婚して子供がいて…という未来が待っているものか思っていた。だが現実は違う。短大を卒業し社会人になり10年。分岐点はいくつかあったかも知れない。それらも見過ごしたままに人生で大きなイベントは起きず、働いて生活して日々は淡々と過ぎて行った。
就職氷河期の当時、やっと採用が決まった就職先――東京都立呪術高等専門学校の事務教員。そこが私が勤めてる職場で、今年で勤続10年目になる。
私立の事務教員ということもあり資格等は不要で、面談と適正検査のみだったので受かったのはラッキーだった。職場が都心から離れた山々に囲まれた場所、というのでエントリーが都心の会社より少なかったというのもあるだろう。
主な仕事はありとあらゆる学校の運営に携わる業務。備品調達、各種書類の作成など細々とした仕事から、入学手続き準備や高専所属の術師の管理なども業務の一環だ。
自分以外にも事務教員は数名いるが、何せ少人数のわりにやることが多く、常日頃忙しく働いていた。
ふとした瞬間に、自分の年齢が30歳であることに落胆する。季節は春の陽気に包まれているのに、心の中は暖かな季節とは遠い感覚。
よくある幸せの形を手に入れれば自分は満足なのか、それもよくわからないままなのに。
目覚ましのアラームをセットして眠りにつき、起きたら顔を洗い簡単に朝食を済ませて化粧をして――変わらない日常が始まる。
呪術高専は都内の奥地、莚山麓の山間にある。採用されて間もなくは高専の近くの教員用の社宅を利用していたが、間もなく免許をとって車通勤にし住処も変えたので、今はアパートで静かな一人暮らしだ。
安く住ませてもらっていたおかげで車を買うお金も貯めることが出来たし、車通勤はストレスがなく快適。世のサラリーマンたちのように満員電車に揺られることはないのが幸いだ。
扉の鍵を開けて一番乗りで教員室に入ると、珍しい人物がそこに。窓際に置かれたソファに、彼は退屈そうに足を組んで座っていた。なるほど、鍵がかかっていても入ってこれるわけだと納得した。
「こんな朝早くに五条くんがいるなんて、随分早起きですね」
「任務で徹夜明けだよ。琴音こそ早いねぇ」
「今日は道が空いてたので…。あ、コーヒーでも入れます?」
「うん、よろしく。角砂糖大盛りで」
目に包帯を巻いたいつもの姿なので表情の全ては解らないが、五条くんの声は眠そうだった。術師の任務において日を跨ぎ朝方までかかる事はよくあるそうだ。
相変わらずの甘党具合に小さく笑いながら、私はケトルに水を入れスイッチを押した。
湯が沸く間に自分のデスクの引き出しから一枚の学生証を取り出すと、私は五条くんに渡した。
「学生証、乙骨くんの出来てますよ。“特級”明記で合ってますよね?」
「そ、間違いないよ。彼は特級」
受け取りながら、ふあ、と欠伸をして五条くんはソファの背もたれに寄りかかる。相当疲れてるのだろう。
最強呪術師も任務が続けば体も疲労する。当たり前のことなのだが、五条くんは昔から疲れ知らずな印象があるから、眠たげな姿が珍しい。
ドリップコーヒーを丁寧に注ぎ、角砂糖を5個ほど入れる。足りるかな…心配でもう3つばかり足して、ティーソーサーにも3つ添えた。疲れてる時はかなり甘めのがいいと前に言ってたことを思い出す。
私も自分専用のマグカップにコーヒーを入れて、五条くんの向かいに座った。
最近は、この教員室に術師が来ることはほとんどないから稀な光景だが、彼が学生の頃はよくここにサボりに来ていたものだ。
五条くんが堂々とサボりに来ると、何故か他の教員たちはバツが悪そうにそそくさと出ていくため、いつも私がポツンと取り残されたものだ。学長からの説教があるとだいたいここに寄り道して愚痴を零していた。
そのおかげで、五条くんと仲良くなれたのものあるし、仕事内容は違うとはいえ、関係良好な職場仲間…だと一方的に思っている。
学生時代の五条くんは、不遜な性格丸出しでもっと尖っていた。二歳年上で事務教員として高専に来た私に対しても早々に「琴音」と呼び捨てになった。『先生』と呼ばれたのは初対面の日だけ。
汐見先生、汐見セン、汐見ちゃん、琴音ちゃん、琴音――と、呼ばれ方の履歴を辿るとこんな感じだ。
授業に携わっている“先生”とは別なので、先生という認識が薄くても仕方ないかと思いつつも、親近感の沸く呼び方は心地よかった。そんな彼が教師になるなんて驚いたけれど、今ではしっくり来ている。
「……染みる。琴音の淹れたコーヒー最高」
「ドリップコーヒー10個入398円、角砂糖どさどさスペシャルブレンドです」
「いいね、毎日飲みたい」
コーヒーを流し込んだ後、五条くんは大きく息をついてから口角を上げた。疲れてるときには甘いものでリラックスし、カフェインで頭がシャキッとさせる…これが一番だ。
このコーヒーなら毎日飲んでも1000円ちょっとだなと頭の中でぼんやり考えて、五条くんの冗談めかした口説きはスルーしておいた。
「君さ、明日ヒマ?」
「ちょうど代休なので洗濯と掃除を――」
「よしヒマだね。明日の夜、僕を銀座の寿司屋へ連れてってよ。もちろんご馳走するからさ。ハイ決定ね!」
この強引さは今に始まったことではないので慣れていた。時々、自分が食べたいもの、行きたい所へ気まぐれに唐突に誘ってくる。
もちろん、私の返事などはお構いなしだ。本当に外せない用事がある時だけは伝えるが、自分の生活の所用であればいいやとその誘いに乗るのが定番だ。
自分では到底食べに行けない高級店のお寿司…アッシーとして連れてかれるにしても、ご馳走してもらえるのは純粋に楽しみだ。
過去にも数度、送迎を条件にご馳走してもらえたが、口の中がとろけるとはまさにこのことだな、というほどに美味しかった。大トロを食べた時は美味しすぎてちょっと泣けた。
もともと下戸なので運転があるからお酒が飲めなくて残念と言うこともないし、久々のお寿司に心が躍る。
「明日、楽しみにしてますね」
ふふ、と笑みが零れて飲み切ったティーカップを下げようとソファから立ち上がり屈むと、五条くんがこちらを見ていた。
いつの間にか包帯を巻き直してる手が止まり、その隙間からアクアマリンの輝きをもった瞳が覗いていた。久々に見たけど、本当に宝石のみたいに綺麗だ。
ジッと見つめられたので意図がわからず小首を傾げると、首元を指さされた。
「屈むと見えるよ。ていうか見えた、水色」
「わっ」
「見せたのが僕でよかったね」
「……別に見せたかったわけじゃありません」
年齢的にも生娘からは遠ざかっているため赤面こそしないものの、反射的に両手で胸元を抑えて直立してしまった。襟が緩んでいたようだ。すると、五条くんは笑いだして、昔の私のドジ場面集ををつらつらと語りだした。
高専にやって来た初日、転んで眼鏡を落として自分で踏んで割ってたのを見た。どんくさい奴だなと思った、とか。眼鏡からハードコンタクトにしたらそれも落として、その時は僕も一緒に探してやったのに結局自分で踏んで割ってた、とか。自販機で炭酸買って飲もうとしたら顔に噴射して服がビショビショになり、悲しそうにベンチに座っててあれはウケた、とか。
ハキハキとしたトーンで楽しそうに告げる。悪意がないことはわかっているから特に嫌な気持ちにはならないが、度々ドジをやらかす自分でさえ忘れていた出来事をよく覚えててくれるものだと感心した。
「あれからレーシック手術を受けて数年前から裸眼なんです。あと炭酸よりコーヒー派になりました」
「……ふーん」
的外れな返答、と言わんばかりに私の頬をやんわりとつねってから五条くんは教員室を後にした。
数秒佇んで、コーヒーカップを洗いに給湯室へ移動しながら10年経っても自分が少しも変わっていないことにガッカリする。良い部分も悪い部分も含め、人はそうそう変われないと割り切れたらそれまでの話なのだが。
仕事は前よりはテキパキとこなせているはずだけれど、仕事以外での間抜けさや注意散漫なところはさほど変わっていない。
これでもっと若ければ、ドジも可愛さのひとつってことで済むはずなのに。中身は変わらず外見だけが変わってしまった。五条くんや家入さんのように美しさを保って綺麗に年を重ねていきたかったが、きっと私には程遠い理想のままだ。
□ □ □
呪術高専の敷地内にある社宅に五条くんは住んでいる。
以前は別で家を借りていたみたいだが、任務などで急な呼び出しも多いからと社宅に越してきたそうだ。
約束の時間より早めに到着したので、社宅の傍の駐車場に車を停めて運転席で待っていると、コンコンと窓を叩く音が聞こえた。
そこには手を振ってこちらを窓越しに覗き込む五条くん。任務の服装の時とは違って、丸い形のサングラスにラフなシャツ姿だ。シックな濃紺のシャツは、トータルコーデは恐らく私の月給の何倍かするのだろう。シンプルで高見えファッショならぬ、実際に高級品だ。
ドアロックを解除すると、彼は明るく挨拶をしながら素早く助手席に乗り込んできた。
「お迎えお疲れサマンサー!じゃ、運転よろしく」
「助手席でいいんですか?」
「ま、たまにはね」
後部座席でゆっくり寛いでくれても構わなかったのに。私服だとより五条くんのカッコよさが際立ってしまう。一流モデルを運ぶマネージャーのような気持ちで私はハンドルを握り、アクセルを踏んだ。
うちの事務所の宝で稼ぎ頭なんです、という心持ちでドライブスタートだ。
中央自動車道を通り首都高を抜けて銀座に到着するまでの間、ひたすら五条くんは上機嫌にしゃべり続けていた。
久々に美味しいものを食べれること、プライベートの時間があることに喜びが溢れてる感じだ。そもそも何日ぶりのオフなのだろう?
私みたいに土日祝休みが確約されていないし、想像以上に忙しいんだろうな。「ヒマ?」と聞かれて誘われたら二つ返事でOKしたらよかったのではと、今更反省した。
強く聡い術師を育てて、呪術界に変革を起こすこと――彼の成し遂げたいことに、先月転入してきた乙骨くんは大きく関わりがある。成就に一歩近づいた。上機嫌なのもそれが理由だろうか。
お店専用の駐車場に到着すると、五条くんは先に降りてぐっと背伸びをした。彼のような手足の長いモデル体型には、私の車は窮屈だったろう。帰りはせめて後部座席に乗ってもらうようお願いしよう。
でも、隣でお話してくれたおかげで運転時間も退屈じゃなかったから、彼なりの気遣いだったのかと都合よく解釈することにした。
運転しやすいスニーカーからヒールに履き替え、車を降りてドアロックをかけてから一歩踏み出したら、にんまりと薄笑いを浮かべて五条くんが腕組みをして待っていた。
「それデート服?」
レース素材が華やかなワントーンドレスを私が着てることが珍しいのだろう。自分でも久々に着たので何だか落ち着かない。着慣れてる教員制服の方がしっくり来る。
「銀座の一流店なので一応ドレスコードの方がいいのかと……」
「僕の為に着てきたって言ってよ」
「同行者に恥をかかせたくないという意味では、五条くんの為ですね」
「琴音ってば素直じゃないよねぇ」
今度は眉をひそめて不機嫌な声色になり、溜息をつかれた。冗談でからかわれるのはいつもの事なのに、時々彼の返事が変則的になるのは何故だろう。
それでも、慣れないヒールでゆっくり歩いてる私をエスコートするように手を優しく取ってくれた。こんなに大きな手だったろうか。触れた指先で感じる、手の平の皮の厚さ。ゴツゴツしている男の人の手だ。
見上げると長身の五条くんが、私の歩幅に合わせて歩いている。夢のような素敵なワンシーンに、惚けてしまう。これから美味しいものを味わうのだから、意識を味覚に集中させないといけないのに。
・・・
・・・・・
・・・・・・
私の舌は都合よく出来ている。高級寿司を食べた瞬間、一気に現実に戻ってきた。先程までの惚けはどこへやら。
舌先の味覚をフル回転させ、感動しながらお寿司を味わった。1つ1つのネタの完成度が高くて感動してしまう。大トロを食べたとき、美味しすぎてやはりちょっと泣けた。五条くんはたくさん頼んでよく食べていた。
横並びのカウンター席では大将がお寿司を握っている様子がよく見え、職人技を目の当たりにして感動した。周囲を見渡すと、客席にはテレビで見たことあるような顔ぶれもちらほらいる。こんな一流店は芸能人も御用達だろうし、いかにもなプロデューサーっぽい人もいる。皆一様にしみじみとお寿司を味わっていた。
会計してくるから店先で待っててとのことで、そのようにすることにした。本当は値段が気になるけど、見るのも怖いし恐縮してしまう。
店から出てきた五条くんにすかさずお辞儀をしてお礼を伝えた。
「ご馳走様でした。とっても美味しかったです。幸せ過ぎて寿命が延びました」
「オーバーに感謝すれば僕がまた連れてくと思ってるでしょ」
「いえいえ、そんなことは…でも、いつでもアッシーとして呼んでください」
「君もいい性格してるよね」
いえいえとかぶりを振ってみたけれど、最初に誘われた時に即了承しなかったのに、食べた後にこの反応では現金な奴だと思われても仕方ない。本気で軽蔑されてるわけではないから、気にすることもないのだけれど。
贅沢な時間の余韻を味わいながら駐車場へ向かうと、再び五条くんは私の手を取って歩き、運転席に先に座らせて自分は助手席に乗り込んだ。
“帰りは後部座席で――”と伝えようと私が声を発するより先に、彼から出た台詞は『東京タワーに行きたい』というリクエストだった。
港区にそびえ立つ真っ赤な東京のシンボル
“東京タワー”
国道409号を走らせ目的地まで15分で到着した。腹ごなしに散歩だろうかと考えて、安定して歩けるようにスニーカーのまま車から降りた。春の夜は肌寒いからカーディガンも羽織っておくことにした。タワーの麓までやって来て上を見上げれば、夜はライトアップされ群青の空を柔らかく照らしている。デートスポットとしても有名なので、周辺には手を繋いだカップルが何組か歩いていた。
かなり久々に来たけれど、夜の東京タワーは煌々として見とれてしまう。
「のぼろっか」
意気揚々と告げる五条くんに手を取られ、展望台に向かうのだと察した。
お寿司屋さんでの会計とは比べ物にならないけれど、展望台のチケットぐらいは払わせてもらおう……などと頭の片隅で考えていたら地面に着いていた足がふわっと浮き上がる。
コンマ数秒遅れて、五条くんに抱きかかられてることに気が付いた。手を取ってから宙に浮くまでの流れがあまりにもスムーズだったので、何が起きたか解らなかった。
――まさか、登るって、昇る?
五条くんが地面を軽く蹴った刹那、ヒュッと風の音が耳を掠めると同時に、東京タワーのてっぺんまで空を飛んで辿り着いた。時間にしたら数秒の出来事。都内の夜景が視界いっぱいに広がり、遠くで光るスカイツリーに焦点が合った時、上空まで連れて来られたことをやっと理解した。
ブツ、と自分の中にあるスイッチが切れた音がした。
「ほーら見てごらん。綺麗だろ?東京の夜景は人々の残業で出来てるんだよ」
「し……っ」
「はは、感動して声も出ない?」
「っ、おろ……死っ」
「好きな女と夜景見たいとか、僕も意外とロマンチストだよねぇ」
「………っ」
「あのさ――、……高いとこダメだった?」
『おろして、死ぬ!』ってそう叫びたかったのに、パニック状態で呂律も回らず声も張れないまま、突然視界が暗転した。もちろん五条くんが話してる内容は耳に届いていない。正確には、届いてはいるが“声”という認識のみで脳の処理が追い付かない。
空を飛んでいたって、五条くんが私を離すはずがないしそんなミスはしないと頭では理解している。しかし高所恐怖症とは、それが安全な場所であっても下に落ちてしまうのではないかという不安が生じる、自分ではコントール不可な発作なのだ。
意識が戻るまで抱えてくれてたようで、目を開けるとそこには五条くんの整った顔立ち。悪びれもなく、薄い唇が微笑んで私を見下ろしていた。
ゆっくりと地面に下ろされ、足の底が地面に着く感覚に胸を撫で下ろす。やはり地上が一番いい。
私が高所恐怖症だということは知らなかったのだろう。夜景を一望出来るようにてっぺんまで運んでくれたのは五条くんなりのサプライズだったとしたら、とても怒る気にはなれなかった。
しかし、抱きかかえられて地上333mまで急上昇するとは夢にも思わなかった。
「……っ、死ぬところでした」
「僕がいるから死なせないって。あんな取り乱す琴音初めて見た」
青ざめているであろう顔色で息を整えつつ告げると、彼は声を立てて笑った。高所恐怖症を伝える機会もなかったけど、伝えていたとしても空に連れて行かれた気がするが。
「高いところは昔から苦手なもので……。そういえば上空で何か話してましたか?」
「え、聞いてなかった?これから口説こうとしてたんだけど」
「くど…?まさか」
「いやーーー誤算すぎる!君ってホントなんていうか、なんだろうね?型破り?」
「……本気ですか?」
「結構本気だよ。琴音に関してはね」
サラリととんでもない事を告げられ心臓が早鐘を打ち出すが、『型破り』というワードが引っかかる。型破りの日本代表みたいな五条くんに言われるとなんだか腑に落ちない。
自分が失神している間に告白をした、と…何という貴重なタイミングの最中に気を失っていたのだろう。悔やみきれない。
いつから好きでいてくれたの?って、聞いてもきっと教えてくれない。それならば私も教えたりしない。正確には、自分自身もいつから五条くんを好きになったかなんて、覚えていない。大きなキッカケがあったわけでもない。そもそも頻繁に一緒に出掛けたりもしないし。時々教員室にコーヒーを飲みに来たり、用事ついでにサボりに来たり、教員同士の飲み会で話したりとその程度だ。
歩く速さのように、ゆっくりと好きになっていったのだと思う。
出会って10年――あの頃は一人称を「俺」と呼んでいた彼は今では「僕」と呼び、粗暴な口調もそれなりに丁寧なものに変わった。彼は卒業後は高専の教師になり、生徒を受け持つ立派な“先生”になった。
それに引き換え私は、外見以外ほとんど変わっていない。あの頃のドジなままだけどいいの?って、野暮な問いかけは自分の心の中に留めておくことにした。自分さえ忘れてるドジな出来事を覚えていてくれたぐらいだ。そんなことは百も承知だろう。
彼が選んでくれた自分に、自信を持ちたい。
「あの、今度は私から――」
意を決して…というよりは、お互いに決め打ちのような展開ならば滑稽だろう。だとしても告げずにはいられない。彼を真正面から見据え、一回り以上大きな手を取って自分の両手で包み込んだ。ひんやりとした温度に、自分の熱を少しつずつ伝えていくように、ゆっくりゆっくり。
「五条くんを特別大切に想っていてもいいですか?」
サングラスの奥で瞳の青色が揺れた。
へぇ、と珍しく感嘆の声を漏らすと、五条くんは承諾するかのように頷いた。東京タワーの赤いライトに照らされているから、熱を帯びる自分の頬色にも気づかれなくて済む。
「……もしかして照れてます?」
「僕が照れるわけないじゃん。照れてんのは君でしょ」
得意げな口調で返されるが、照れてないだけで嬉しそうな感じは伝わってくる。五条くんが動揺してる様なんて想像できないけれど、少しぐらいは彼の耳も赤らんでるといいなと願う。
「もっと若い頃に伝えてればよかったです。私、もう30になってしまいました」
「ま、お互い適したタイミングってもんがあるからいいんじゃない?それに人生100年時代、まだまだ前半戦だよ」
めちゃくちゃ生命力が高い五条くんなら、本当に100歳まで元気に長生きしそうだ。おじいちゃんになっても空を飛んだりしてるのかなって想像してクスクスと笑うと、彼は片手でサングラスを外して夜景にも劣らない美しい瞳を私に向けた。
キラキラ光る透明な海の色。宝石を散りばめたような星空の色。吸い込まれそうな宇宙の色。一瞬一瞬で変化していくその色は、どの比喩でも足りない。
「琴音は呪力ゼロだから、目隠しなしでも疲れないね」
微かに東京タワーの赤い光が反射して、瞳の中の青と混ざり紫になる。幻想的だなぁと魅入っていると、背を屈めて私を覗き込む五条くんの顔の影が重なり視界を遮った。
互いの鼻先が触れた後、目を閉じると瞼の裏側に煌めきの残像が浮かぶ。まるで星の海のように。
今年で30歳になる。
その頃には自分も母のように結婚して子供がいて…という未来が待っているものか思っていた。だが現実は違う。短大を卒業し社会人になり10年。分岐点はいくつかあったかも知れない。それらも見過ごしたままに人生で大きなイベントは起きず、働いて生活して日々は淡々と過ぎて行った。
就職氷河期の当時、やっと採用が決まった就職先――東京都立呪術高等専門学校の事務教員。そこが私が勤めてる職場で、今年で勤続10年目になる。
私立の事務教員ということもあり資格等は不要で、面談と適正検査のみだったので受かったのはラッキーだった。職場が都心から離れた山々に囲まれた場所、というのでエントリーが都心の会社より少なかったというのもあるだろう。
主な仕事はありとあらゆる学校の運営に携わる業務。備品調達、各種書類の作成など細々とした仕事から、入学手続き準備や高専所属の術師の管理なども業務の一環だ。
自分以外にも事務教員は数名いるが、何せ少人数のわりにやることが多く、常日頃忙しく働いていた。
ふとした瞬間に、自分の年齢が30歳であることに落胆する。季節は春の陽気に包まれているのに、心の中は暖かな季節とは遠い感覚。
よくある幸せの形を手に入れれば自分は満足なのか、それもよくわからないままなのに。
目覚ましのアラームをセットして眠りにつき、起きたら顔を洗い簡単に朝食を済ませて化粧をして――変わらない日常が始まる。
呪術高専は都内の奥地、莚山麓の山間にある。採用されて間もなくは高専の近くの教員用の社宅を利用していたが、間もなく免許をとって車通勤にし住処も変えたので、今はアパートで静かな一人暮らしだ。
安く住ませてもらっていたおかげで車を買うお金も貯めることが出来たし、車通勤はストレスがなく快適。世のサラリーマンたちのように満員電車に揺られることはないのが幸いだ。
扉の鍵を開けて一番乗りで教員室に入ると、珍しい人物がそこに。窓際に置かれたソファに、彼は退屈そうに足を組んで座っていた。なるほど、鍵がかかっていても入ってこれるわけだと納得した。
「こんな朝早くに五条くんがいるなんて、随分早起きですね」
「任務で徹夜明けだよ。琴音こそ早いねぇ」
「今日は道が空いてたので…。あ、コーヒーでも入れます?」
「うん、よろしく。角砂糖大盛りで」
目に包帯を巻いたいつもの姿なので表情の全ては解らないが、五条くんの声は眠そうだった。術師の任務において日を跨ぎ朝方までかかる事はよくあるそうだ。
相変わらずの甘党具合に小さく笑いながら、私はケトルに水を入れスイッチを押した。
湯が沸く間に自分のデスクの引き出しから一枚の学生証を取り出すと、私は五条くんに渡した。
「学生証、乙骨くんの出来てますよ。“特級”明記で合ってますよね?」
「そ、間違いないよ。彼は特級」
受け取りながら、ふあ、と欠伸をして五条くんはソファの背もたれに寄りかかる。相当疲れてるのだろう。
最強呪術師も任務が続けば体も疲労する。当たり前のことなのだが、五条くんは昔から疲れ知らずな印象があるから、眠たげな姿が珍しい。
ドリップコーヒーを丁寧に注ぎ、角砂糖を5個ほど入れる。足りるかな…心配でもう3つばかり足して、ティーソーサーにも3つ添えた。疲れてる時はかなり甘めのがいいと前に言ってたことを思い出す。
私も自分専用のマグカップにコーヒーを入れて、五条くんの向かいに座った。
最近は、この教員室に術師が来ることはほとんどないから稀な光景だが、彼が学生の頃はよくここにサボりに来ていたものだ。
五条くんが堂々とサボりに来ると、何故か他の教員たちはバツが悪そうにそそくさと出ていくため、いつも私がポツンと取り残されたものだ。学長からの説教があるとだいたいここに寄り道して愚痴を零していた。
そのおかげで、五条くんと仲良くなれたのものあるし、仕事内容は違うとはいえ、関係良好な職場仲間…だと一方的に思っている。
学生時代の五条くんは、不遜な性格丸出しでもっと尖っていた。二歳年上で事務教員として高専に来た私に対しても早々に「琴音」と呼び捨てになった。『先生』と呼ばれたのは初対面の日だけ。
汐見先生、汐見セン、汐見ちゃん、琴音ちゃん、琴音――と、呼ばれ方の履歴を辿るとこんな感じだ。
授業に携わっている“先生”とは別なので、先生という認識が薄くても仕方ないかと思いつつも、親近感の沸く呼び方は心地よかった。そんな彼が教師になるなんて驚いたけれど、今ではしっくり来ている。
「……染みる。琴音の淹れたコーヒー最高」
「ドリップコーヒー10個入398円、角砂糖どさどさスペシャルブレンドです」
「いいね、毎日飲みたい」
コーヒーを流し込んだ後、五条くんは大きく息をついてから口角を上げた。疲れてるときには甘いものでリラックスし、カフェインで頭がシャキッとさせる…これが一番だ。
このコーヒーなら毎日飲んでも1000円ちょっとだなと頭の中でぼんやり考えて、五条くんの冗談めかした口説きはスルーしておいた。
「君さ、明日ヒマ?」
「ちょうど代休なので洗濯と掃除を――」
「よしヒマだね。明日の夜、僕を銀座の寿司屋へ連れてってよ。もちろんご馳走するからさ。ハイ決定ね!」
この強引さは今に始まったことではないので慣れていた。時々、自分が食べたいもの、行きたい所へ気まぐれに唐突に誘ってくる。
もちろん、私の返事などはお構いなしだ。本当に外せない用事がある時だけは伝えるが、自分の生活の所用であればいいやとその誘いに乗るのが定番だ。
自分では到底食べに行けない高級店のお寿司…アッシーとして連れてかれるにしても、ご馳走してもらえるのは純粋に楽しみだ。
過去にも数度、送迎を条件にご馳走してもらえたが、口の中がとろけるとはまさにこのことだな、というほどに美味しかった。大トロを食べた時は美味しすぎてちょっと泣けた。
もともと下戸なので運転があるからお酒が飲めなくて残念と言うこともないし、久々のお寿司に心が躍る。
「明日、楽しみにしてますね」
ふふ、と笑みが零れて飲み切ったティーカップを下げようとソファから立ち上がり屈むと、五条くんがこちらを見ていた。
いつの間にか包帯を巻き直してる手が止まり、その隙間からアクアマリンの輝きをもった瞳が覗いていた。久々に見たけど、本当に宝石のみたいに綺麗だ。
ジッと見つめられたので意図がわからず小首を傾げると、首元を指さされた。
「屈むと見えるよ。ていうか見えた、水色」
「わっ」
「見せたのが僕でよかったね」
「……別に見せたかったわけじゃありません」
年齢的にも生娘からは遠ざかっているため赤面こそしないものの、反射的に両手で胸元を抑えて直立してしまった。襟が緩んでいたようだ。すると、五条くんは笑いだして、昔の私のドジ場面集ををつらつらと語りだした。
高専にやって来た初日、転んで眼鏡を落として自分で踏んで割ってたのを見た。どんくさい奴だなと思った、とか。眼鏡からハードコンタクトにしたらそれも落として、その時は僕も一緒に探してやったのに結局自分で踏んで割ってた、とか。自販機で炭酸買って飲もうとしたら顔に噴射して服がビショビショになり、悲しそうにベンチに座っててあれはウケた、とか。
ハキハキとしたトーンで楽しそうに告げる。悪意がないことはわかっているから特に嫌な気持ちにはならないが、度々ドジをやらかす自分でさえ忘れていた出来事をよく覚えててくれるものだと感心した。
「あれからレーシック手術を受けて数年前から裸眼なんです。あと炭酸よりコーヒー派になりました」
「……ふーん」
的外れな返答、と言わんばかりに私の頬をやんわりとつねってから五条くんは教員室を後にした。
数秒佇んで、コーヒーカップを洗いに給湯室へ移動しながら10年経っても自分が少しも変わっていないことにガッカリする。良い部分も悪い部分も含め、人はそうそう変われないと割り切れたらそれまでの話なのだが。
仕事は前よりはテキパキとこなせているはずだけれど、仕事以外での間抜けさや注意散漫なところはさほど変わっていない。
これでもっと若ければ、ドジも可愛さのひとつってことで済むはずなのに。中身は変わらず外見だけが変わってしまった。五条くんや家入さんのように美しさを保って綺麗に年を重ねていきたかったが、きっと私には程遠い理想のままだ。
□ □ □
呪術高専の敷地内にある社宅に五条くんは住んでいる。
以前は別で家を借りていたみたいだが、任務などで急な呼び出しも多いからと社宅に越してきたそうだ。
約束の時間より早めに到着したので、社宅の傍の駐車場に車を停めて運転席で待っていると、コンコンと窓を叩く音が聞こえた。
そこには手を振ってこちらを窓越しに覗き込む五条くん。任務の服装の時とは違って、丸い形のサングラスにラフなシャツ姿だ。シックな濃紺のシャツは、トータルコーデは恐らく私の月給の何倍かするのだろう。シンプルで高見えファッショならぬ、実際に高級品だ。
ドアロックを解除すると、彼は明るく挨拶をしながら素早く助手席に乗り込んできた。
「お迎えお疲れサマンサー!じゃ、運転よろしく」
「助手席でいいんですか?」
「ま、たまにはね」
後部座席でゆっくり寛いでくれても構わなかったのに。私服だとより五条くんのカッコよさが際立ってしまう。一流モデルを運ぶマネージャーのような気持ちで私はハンドルを握り、アクセルを踏んだ。
うちの事務所の宝で稼ぎ頭なんです、という心持ちでドライブスタートだ。
中央自動車道を通り首都高を抜けて銀座に到着するまでの間、ひたすら五条くんは上機嫌にしゃべり続けていた。
久々に美味しいものを食べれること、プライベートの時間があることに喜びが溢れてる感じだ。そもそも何日ぶりのオフなのだろう?
私みたいに土日祝休みが確約されていないし、想像以上に忙しいんだろうな。「ヒマ?」と聞かれて誘われたら二つ返事でOKしたらよかったのではと、今更反省した。
強く聡い術師を育てて、呪術界に変革を起こすこと――彼の成し遂げたいことに、先月転入してきた乙骨くんは大きく関わりがある。成就に一歩近づいた。上機嫌なのもそれが理由だろうか。
お店専用の駐車場に到着すると、五条くんは先に降りてぐっと背伸びをした。彼のような手足の長いモデル体型には、私の車は窮屈だったろう。帰りはせめて後部座席に乗ってもらうようお願いしよう。
でも、隣でお話してくれたおかげで運転時間も退屈じゃなかったから、彼なりの気遣いだったのかと都合よく解釈することにした。
運転しやすいスニーカーからヒールに履き替え、車を降りてドアロックをかけてから一歩踏み出したら、にんまりと薄笑いを浮かべて五条くんが腕組みをして待っていた。
「それデート服?」
レース素材が華やかなワントーンドレスを私が着てることが珍しいのだろう。自分でも久々に着たので何だか落ち着かない。着慣れてる教員制服の方がしっくり来る。
「銀座の一流店なので一応ドレスコードの方がいいのかと……」
「僕の為に着てきたって言ってよ」
「同行者に恥をかかせたくないという意味では、五条くんの為ですね」
「琴音ってば素直じゃないよねぇ」
今度は眉をひそめて不機嫌な声色になり、溜息をつかれた。冗談でからかわれるのはいつもの事なのに、時々彼の返事が変則的になるのは何故だろう。
それでも、慣れないヒールでゆっくり歩いてる私をエスコートするように手を優しく取ってくれた。こんなに大きな手だったろうか。触れた指先で感じる、手の平の皮の厚さ。ゴツゴツしている男の人の手だ。
見上げると長身の五条くんが、私の歩幅に合わせて歩いている。夢のような素敵なワンシーンに、惚けてしまう。これから美味しいものを味わうのだから、意識を味覚に集中させないといけないのに。
・・・
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私の舌は都合よく出来ている。高級寿司を食べた瞬間、一気に現実に戻ってきた。先程までの惚けはどこへやら。
舌先の味覚をフル回転させ、感動しながらお寿司を味わった。1つ1つのネタの完成度が高くて感動してしまう。大トロを食べたとき、美味しすぎてやはりちょっと泣けた。五条くんはたくさん頼んでよく食べていた。
横並びのカウンター席では大将がお寿司を握っている様子がよく見え、職人技を目の当たりにして感動した。周囲を見渡すと、客席にはテレビで見たことあるような顔ぶれもちらほらいる。こんな一流店は芸能人も御用達だろうし、いかにもなプロデューサーっぽい人もいる。皆一様にしみじみとお寿司を味わっていた。
会計してくるから店先で待っててとのことで、そのようにすることにした。本当は値段が気になるけど、見るのも怖いし恐縮してしまう。
店から出てきた五条くんにすかさずお辞儀をしてお礼を伝えた。
「ご馳走様でした。とっても美味しかったです。幸せ過ぎて寿命が延びました」
「オーバーに感謝すれば僕がまた連れてくと思ってるでしょ」
「いえいえ、そんなことは…でも、いつでもアッシーとして呼んでください」
「君もいい性格してるよね」
いえいえとかぶりを振ってみたけれど、最初に誘われた時に即了承しなかったのに、食べた後にこの反応では現金な奴だと思われても仕方ない。本気で軽蔑されてるわけではないから、気にすることもないのだけれど。
贅沢な時間の余韻を味わいながら駐車場へ向かうと、再び五条くんは私の手を取って歩き、運転席に先に座らせて自分は助手席に乗り込んだ。
“帰りは後部座席で――”と伝えようと私が声を発するより先に、彼から出た台詞は『東京タワーに行きたい』というリクエストだった。
港区にそびえ立つ真っ赤な東京のシンボル
“東京タワー”
国道409号を走らせ目的地まで15分で到着した。腹ごなしに散歩だろうかと考えて、安定して歩けるようにスニーカーのまま車から降りた。春の夜は肌寒いからカーディガンも羽織っておくことにした。タワーの麓までやって来て上を見上げれば、夜はライトアップされ群青の空を柔らかく照らしている。デートスポットとしても有名なので、周辺には手を繋いだカップルが何組か歩いていた。
かなり久々に来たけれど、夜の東京タワーは煌々として見とれてしまう。
「のぼろっか」
意気揚々と告げる五条くんに手を取られ、展望台に向かうのだと察した。
お寿司屋さんでの会計とは比べ物にならないけれど、展望台のチケットぐらいは払わせてもらおう……などと頭の片隅で考えていたら地面に着いていた足がふわっと浮き上がる。
コンマ数秒遅れて、五条くんに抱きかかられてることに気が付いた。手を取ってから宙に浮くまでの流れがあまりにもスムーズだったので、何が起きたか解らなかった。
――まさか、登るって、昇る?
五条くんが地面を軽く蹴った刹那、ヒュッと風の音が耳を掠めると同時に、東京タワーのてっぺんまで空を飛んで辿り着いた。時間にしたら数秒の出来事。都内の夜景が視界いっぱいに広がり、遠くで光るスカイツリーに焦点が合った時、上空まで連れて来られたことをやっと理解した。
ブツ、と自分の中にあるスイッチが切れた音がした。
「ほーら見てごらん。綺麗だろ?東京の夜景は人々の残業で出来てるんだよ」
「し……っ」
「はは、感動して声も出ない?」
「っ、おろ……死っ」
「好きな女と夜景見たいとか、僕も意外とロマンチストだよねぇ」
「………っ」
「あのさ――、……高いとこダメだった?」
『おろして、死ぬ!』ってそう叫びたかったのに、パニック状態で呂律も回らず声も張れないまま、突然視界が暗転した。もちろん五条くんが話してる内容は耳に届いていない。正確には、届いてはいるが“声”という認識のみで脳の処理が追い付かない。
空を飛んでいたって、五条くんが私を離すはずがないしそんなミスはしないと頭では理解している。しかし高所恐怖症とは、それが安全な場所であっても下に落ちてしまうのではないかという不安が生じる、自分ではコントール不可な発作なのだ。
意識が戻るまで抱えてくれてたようで、目を開けるとそこには五条くんの整った顔立ち。悪びれもなく、薄い唇が微笑んで私を見下ろしていた。
ゆっくりと地面に下ろされ、足の底が地面に着く感覚に胸を撫で下ろす。やはり地上が一番いい。
私が高所恐怖症だということは知らなかったのだろう。夜景を一望出来るようにてっぺんまで運んでくれたのは五条くんなりのサプライズだったとしたら、とても怒る気にはなれなかった。
しかし、抱きかかえられて地上333mまで急上昇するとは夢にも思わなかった。
「……っ、死ぬところでした」
「僕がいるから死なせないって。あんな取り乱す琴音初めて見た」
青ざめているであろう顔色で息を整えつつ告げると、彼は声を立てて笑った。高所恐怖症を伝える機会もなかったけど、伝えていたとしても空に連れて行かれた気がするが。
「高いところは昔から苦手なもので……。そういえば上空で何か話してましたか?」
「え、聞いてなかった?これから口説こうとしてたんだけど」
「くど…?まさか」
「いやーーー誤算すぎる!君ってホントなんていうか、なんだろうね?型破り?」
「……本気ですか?」
「結構本気だよ。琴音に関してはね」
サラリととんでもない事を告げられ心臓が早鐘を打ち出すが、『型破り』というワードが引っかかる。型破りの日本代表みたいな五条くんに言われるとなんだか腑に落ちない。
自分が失神している間に告白をした、と…何という貴重なタイミングの最中に気を失っていたのだろう。悔やみきれない。
いつから好きでいてくれたの?って、聞いてもきっと教えてくれない。それならば私も教えたりしない。正確には、自分自身もいつから五条くんを好きになったかなんて、覚えていない。大きなキッカケがあったわけでもない。そもそも頻繁に一緒に出掛けたりもしないし。時々教員室にコーヒーを飲みに来たり、用事ついでにサボりに来たり、教員同士の飲み会で話したりとその程度だ。
歩く速さのように、ゆっくりと好きになっていったのだと思う。
出会って10年――あの頃は一人称を「俺」と呼んでいた彼は今では「僕」と呼び、粗暴な口調もそれなりに丁寧なものに変わった。彼は卒業後は高専の教師になり、生徒を受け持つ立派な“先生”になった。
それに引き換え私は、外見以外ほとんど変わっていない。あの頃のドジなままだけどいいの?って、野暮な問いかけは自分の心の中に留めておくことにした。自分さえ忘れてるドジな出来事を覚えていてくれたぐらいだ。そんなことは百も承知だろう。
彼が選んでくれた自分に、自信を持ちたい。
「あの、今度は私から――」
意を決して…というよりは、お互いに決め打ちのような展開ならば滑稽だろう。だとしても告げずにはいられない。彼を真正面から見据え、一回り以上大きな手を取って自分の両手で包み込んだ。ひんやりとした温度に、自分の熱を少しつずつ伝えていくように、ゆっくりゆっくり。
「五条くんを特別大切に想っていてもいいですか?」
サングラスの奥で瞳の青色が揺れた。
へぇ、と珍しく感嘆の声を漏らすと、五条くんは承諾するかのように頷いた。東京タワーの赤いライトに照らされているから、熱を帯びる自分の頬色にも気づかれなくて済む。
「……もしかして照れてます?」
「僕が照れるわけないじゃん。照れてんのは君でしょ」
得意げな口調で返されるが、照れてないだけで嬉しそうな感じは伝わってくる。五条くんが動揺してる様なんて想像できないけれど、少しぐらいは彼の耳も赤らんでるといいなと願う。
「もっと若い頃に伝えてればよかったです。私、もう30になってしまいました」
「ま、お互い適したタイミングってもんがあるからいいんじゃない?それに人生100年時代、まだまだ前半戦だよ」
めちゃくちゃ生命力が高い五条くんなら、本当に100歳まで元気に長生きしそうだ。おじいちゃんになっても空を飛んだりしてるのかなって想像してクスクスと笑うと、彼は片手でサングラスを外して夜景にも劣らない美しい瞳を私に向けた。
キラキラ光る透明な海の色。宝石を散りばめたような星空の色。吸い込まれそうな宇宙の色。一瞬一瞬で変化していくその色は、どの比喩でも足りない。
「琴音は呪力ゼロだから、目隠しなしでも疲れないね」
微かに東京タワーの赤い光が反射して、瞳の中の青と混ざり紫になる。幻想的だなぁと魅入っていると、背を屈めて私を覗き込む五条くんの顔の影が重なり視界を遮った。
互いの鼻先が触れた後、目を閉じると瞼の裏側に煌めきの残像が浮かぶ。まるで星の海のように。