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TENDERNESS
「私は二年だけど途中入部だから、黒田くんのが先輩だね。色々教えてもらえると嬉しいな」
琴音さんが入部当初、俺に向けたこの言葉は今でも忘れられない。去年の夏休み明けから入部してきた彼女は、一学年上だからといって威張ることもなく、屈託のない笑みを見せた。
キャプテンの福富さんからの言伝を頼まれて話しかけたのが最初のキッカケ。『汐見先輩』と呼んで話しかけたら「黒田くんのが先輩なんだから先輩って呼ばなくていいよ?」と言われ、今では名前で呼ばせてもらっている。
琴音さんは、いい意味で先輩らしくない、優しい人だ。
荒北さんとの初対面じゃ『クソエリートのニオイだ』とか言われて胸倉掴まれた記憶が鮮明に残っているのに対し、琴音さんとのファーストインプレッションは何とも和やかなことか。
ドリンクボトルを渡されれば心がこそばゆくなる感覚。マッサージをしてもらえば緊張のせいで心臓が鼓動する。この気持ちの正体は何なのかと突き止める前に、俺は二学年になった春先、衝撃の事実を知っちまうことになる。
部内にとある噂が流れる。そりゃもう、すごい速度で。
それを聞いたとき俺は誰かがデマを吹聴してるだけって思った。そう思いたかった。
片や怖くて粗暴な先輩、片や穏やかで優しい先輩――荒北さんと琴音さんが付き合ってるって噂。
嘘だろ?って、信じたくなかったが、火のないところに煙はたたない。事実かどうか周囲の部員に聞かれていた荒北さんはアッサリと認めてるところを、俺は見てしまった。
片思いかと自覚しかけた途中でで失恋するなんて悔しくてたまらないが、相手は俺が何度も勝負しても敵わなかったあの荒北さんだ。あの人は乱暴で意地が悪い。口も悪い。だけど自転車は、走りは本物だ。すぐ人を馬鹿にしやがるし、俺は荒北さんが大嫌いだったのだが、いつしかそれが憧れの感情に変わっていった。
いかに荒北さんが努力し続けて走ってきたかって事を勝負する度にひしひしと感じていたからだ。
俺もがむしゃらに練習して、嫌いだった相手をいつしか心から認めるようになり、憧れるようになり、今じゃ俺にとって荒北さんは尊敬すべき先輩になった。俺に強さを誇示してくれたことを感謝してる。そのおかげで俺も、前より速く走れるようになったし、自分ありきの考えから“チームのために”って考えて走れるようになったから。
…琴音さんと付き合っているのが荒北さんなら、俺に勝算はない。
告白する前にほのかな恋心は跡形もなく爆ぜちまった。
□ □ □
琴音さんの事はできるだけ考えないようにしようと、練習に打ち込んで過ごしていたら、あっという間に6月が過ぎ、7月になっていた。
その頃には、インハイメンバーをかけたレースで真波に負けた事も昔話にしちまえと頭を切り替えていたし、来年こそは絶対にインハイに出ると意気込んで、モチベーションはこの上なく上がっていた。過ぎたことを気にしていたらタイムだって縮まらなくなるだろうしな。今日は昨日より、ペダルを回す。0.1秒でもタイムを縮める。その事だけに集中するべきだ。
意気込んでは、部室に向かう足取りも軽くなっていた――これから俺に、予想だにしない事が起こるとも知らずに。
日直の仕事で部活に行くのが遅れ、部室のドアを開けると目の前に飛び込んできたのは琴音さんが脚立の上に立ってグラリと後方へ揺れる瞬間だった。
「わっ、わっ…!」
「――琴音さんっ!」
倒れる…!――そう思って俺は肩にかけていた鞄を投げ出して反射的に彼女に駆け寄った。ぐらりと揺れて床に向かって後ろから倒れた琴音さんを俺は間一髪で抱きとめる。ガシャンと大きな音を立てて脚立が横倒しになった。
「ってぇ…!」
抱きとめた時に俺もバランスを崩し尻餅をついて、情けない声が漏れてしまったが…彼女が無事でよかった。
床に頭でも打っていたら大変だった。きっとロッカーの上に置いてあった備品を、手を伸ばして取ろうとしてよろけたんだろう。
うまいこと俺が下敷きになって彼女に怪我をさせずに済んだことに安心して――自分の両手がガッシリと掴んでいるその不思議な感触に気づくのが一瞬、遅れた。
何だこれ、マシュマロみたいなふわふわした感触。
俺が後ろから抱きしめるように掴んでいたのは琴音さんの、胸…だった。
着やせするタイプ、だ、俺の手にジャストフィットでいやいやいやそれはそれ以上は考えるな、雪成!
Tシャツ越しに指先に伝わる感触がダイレクト過ぎて、ふわふわと柔らかいソレが胸だと解かった瞬間、顔も耳も全身がカッと暑くなる。俺は瞬間湯沸かし器か!
「すっ…スイマセン!咄嗟だったんで…!その、わ、わざとじゃない、です!」
慌てて手を離すと、振り返った琴音さんも顔を赤くして困ったような笑い顔を俺に見せた。この人、照れるとこんな可愛い顔すんのかって今、はじめて見た表情に心が動いちまう。
「ううん、大丈夫…!あ、あの、本当にありがとう。黒田くんが支えてくれなかったら私、大怪我――……」
途端、彼女の表情が固まって、そこから照れ笑いが消えたかと思うと、彼女は急に我に返ったみたいに目を見開くいて立ち上がった。尻餅をついた体勢のままの俺の方に手を差し出して、立ち上がるように促してきた。
「こっちに来て長椅子の方に座ってもらっていい?それで身体の力を抜いて足を伸ばして」
俺よりも小さな手に引かれ、俺は言われるがままに長椅子に座った。さっきの柔らかい感触がまだ指先に残ったままだが、キビキビと動き出す琴音さんを見て急に現実に引き戻された感じだ。
彼女は俺の制服のズボンの裾を膝まで捲りあげると、丁寧に足を触っていく。筋肉の動きを確かめるように、時折、親指にグッと力がこめられた。
「ここ押すと痛い?ここは違和感ある?」
時々質問をしながら琴音さんは足を重点的に、次は腕を、背中を、腰を、順番に点検のようなマッサージをしていった。押されて痛い箇所も違和感もなかったことがわかってから、彼女は安堵の息をついた。
あの…、と俺が声をかけると同時に、琴音さんは悲しそうに眉をハの字にして俺に謝ってきた。
「本当なら真っ先に黒田くんに怪我がないか確認しなくちゃいけなかったのに…。大事な選手を私のドジに巻き込んで怪我させちゃうところだった……本当にごめんなさい」
真剣に申し訳ないという気持ちが伝わってくる。肩を落とす彼女は出会った当初と変わらず、優しい。忘れよう、出来るだけ考えないようにしようと避けてきた感情が、一気に引き戻される。
…俺、やっぱりこの人が好きだ。
今年のインハイメンバーの枠を勝ち取ることが出来なかった俺にさえ“大事な選手”と言ってくれるなんて、俺にはそんな気遣い、勿体無さ過ぎるってのに。
「私はマネージャーだから怪我しても大丈夫だけど…、今後は他の人を巻き込まないようによく注意するね」
苦笑しつつ、そんな自虐的なことを言うもんだから俺は思わず琴音さんの両肩を掴んだ。
「俺が大丈夫じゃないッ!!」
自分から思ったより大きな声が出てしまい、二人きりしかいない部室の中に響いた。
「琴音さんに怪我されると俺が大丈夫じゃないんです心配なんです!…って、俺は心配性の彼氏か!荒北さんか!」
言っちまった。言っちまったぞ。荒北さんが心配性なのかどうかはわからないが、言っちまった。大きな目をぱちくりとさせて琴音さんは俺の方を見つめながら頬が徐々に赤らんでいった。
俺の顔も負けじと赤くなっているだろう。照れてるのはもうお互い様なので、仕方ない。
自分の口から出た“荒北さん”の名前のおかげで、掴んでいる両肩を引き寄せて抱きしめる…なんてコトをしでかさなくて済んでる。脅威の抑止力だな、“荒北さん”ってワード。
先輩だからといって威張りもせず、いつでも謙虚で、優しい彼女のことを見初めていたのはきっと荒北さんより俺のが早かったはずだ。琴音さんが荒北さんの彼女になる前に告白すればよかったんだ。俺はあなたが好きですと、早々に伝えればよかった。
勝てないとわかったから諦めようとした恋心は、消そうと思っても自力じゃ消えやしない。ずっと心の奥で燻っていたそれは、一瞬で、大きな炎に変わるんだ。ホラ、すぐだろ、カンタンだ、気持ちが復活するのなんて。
「…黒田くん、いつも優しいね。ありがとう」
それはアンタの方だろう。いつでも、いつも、優しいのは琴音さんの方だ。俺は好きな人にしか優しくできない――心の奥にある本音は、口にすることは出来なかった。
柔らかく微笑む彼女を前に、俺の心臓はギュッと掴まれる。
恋は勝ち負けだけじゃないって、もっと早く気づいていればよかったのにな。
手遅れか否か、砂粒程の可能性は残っているのだろうか。
「私は二年だけど途中入部だから、黒田くんのが先輩だね。色々教えてもらえると嬉しいな」
琴音さんが入部当初、俺に向けたこの言葉は今でも忘れられない。去年の夏休み明けから入部してきた彼女は、一学年上だからといって威張ることもなく、屈託のない笑みを見せた。
キャプテンの福富さんからの言伝を頼まれて話しかけたのが最初のキッカケ。『汐見先輩』と呼んで話しかけたら「黒田くんのが先輩なんだから先輩って呼ばなくていいよ?」と言われ、今では名前で呼ばせてもらっている。
琴音さんは、いい意味で先輩らしくない、優しい人だ。
荒北さんとの初対面じゃ『クソエリートのニオイだ』とか言われて胸倉掴まれた記憶が鮮明に残っているのに対し、琴音さんとのファーストインプレッションは何とも和やかなことか。
ドリンクボトルを渡されれば心がこそばゆくなる感覚。マッサージをしてもらえば緊張のせいで心臓が鼓動する。この気持ちの正体は何なのかと突き止める前に、俺は二学年になった春先、衝撃の事実を知っちまうことになる。
部内にとある噂が流れる。そりゃもう、すごい速度で。
それを聞いたとき俺は誰かがデマを吹聴してるだけって思った。そう思いたかった。
片や怖くて粗暴な先輩、片や穏やかで優しい先輩――荒北さんと琴音さんが付き合ってるって噂。
嘘だろ?って、信じたくなかったが、火のないところに煙はたたない。事実かどうか周囲の部員に聞かれていた荒北さんはアッサリと認めてるところを、俺は見てしまった。
片思いかと自覚しかけた途中でで失恋するなんて悔しくてたまらないが、相手は俺が何度も勝負しても敵わなかったあの荒北さんだ。あの人は乱暴で意地が悪い。口も悪い。だけど自転車は、走りは本物だ。すぐ人を馬鹿にしやがるし、俺は荒北さんが大嫌いだったのだが、いつしかそれが憧れの感情に変わっていった。
いかに荒北さんが努力し続けて走ってきたかって事を勝負する度にひしひしと感じていたからだ。
俺もがむしゃらに練習して、嫌いだった相手をいつしか心から認めるようになり、憧れるようになり、今じゃ俺にとって荒北さんは尊敬すべき先輩になった。俺に強さを誇示してくれたことを感謝してる。そのおかげで俺も、前より速く走れるようになったし、自分ありきの考えから“チームのために”って考えて走れるようになったから。
…琴音さんと付き合っているのが荒北さんなら、俺に勝算はない。
告白する前にほのかな恋心は跡形もなく爆ぜちまった。
□ □ □
琴音さんの事はできるだけ考えないようにしようと、練習に打ち込んで過ごしていたら、あっという間に6月が過ぎ、7月になっていた。
その頃には、インハイメンバーをかけたレースで真波に負けた事も昔話にしちまえと頭を切り替えていたし、来年こそは絶対にインハイに出ると意気込んで、モチベーションはこの上なく上がっていた。過ぎたことを気にしていたらタイムだって縮まらなくなるだろうしな。今日は昨日より、ペダルを回す。0.1秒でもタイムを縮める。その事だけに集中するべきだ。
意気込んでは、部室に向かう足取りも軽くなっていた――これから俺に、予想だにしない事が起こるとも知らずに。
日直の仕事で部活に行くのが遅れ、部室のドアを開けると目の前に飛び込んできたのは琴音さんが脚立の上に立ってグラリと後方へ揺れる瞬間だった。
「わっ、わっ…!」
「――琴音さんっ!」
倒れる…!――そう思って俺は肩にかけていた鞄を投げ出して反射的に彼女に駆け寄った。ぐらりと揺れて床に向かって後ろから倒れた琴音さんを俺は間一髪で抱きとめる。ガシャンと大きな音を立てて脚立が横倒しになった。
「ってぇ…!」
抱きとめた時に俺もバランスを崩し尻餅をついて、情けない声が漏れてしまったが…彼女が無事でよかった。
床に頭でも打っていたら大変だった。きっとロッカーの上に置いてあった備品を、手を伸ばして取ろうとしてよろけたんだろう。
うまいこと俺が下敷きになって彼女に怪我をさせずに済んだことに安心して――自分の両手がガッシリと掴んでいるその不思議な感触に気づくのが一瞬、遅れた。
何だこれ、マシュマロみたいなふわふわした感触。
俺が後ろから抱きしめるように掴んでいたのは琴音さんの、胸…だった。
着やせするタイプ、だ、俺の手にジャストフィットでいやいやいやそれはそれ以上は考えるな、雪成!
Tシャツ越しに指先に伝わる感触がダイレクト過ぎて、ふわふわと柔らかいソレが胸だと解かった瞬間、顔も耳も全身がカッと暑くなる。俺は瞬間湯沸かし器か!
「すっ…スイマセン!咄嗟だったんで…!その、わ、わざとじゃない、です!」
慌てて手を離すと、振り返った琴音さんも顔を赤くして困ったような笑い顔を俺に見せた。この人、照れるとこんな可愛い顔すんのかって今、はじめて見た表情に心が動いちまう。
「ううん、大丈夫…!あ、あの、本当にありがとう。黒田くんが支えてくれなかったら私、大怪我――……」
途端、彼女の表情が固まって、そこから照れ笑いが消えたかと思うと、彼女は急に我に返ったみたいに目を見開くいて立ち上がった。尻餅をついた体勢のままの俺の方に手を差し出して、立ち上がるように促してきた。
「こっちに来て長椅子の方に座ってもらっていい?それで身体の力を抜いて足を伸ばして」
俺よりも小さな手に引かれ、俺は言われるがままに長椅子に座った。さっきの柔らかい感触がまだ指先に残ったままだが、キビキビと動き出す琴音さんを見て急に現実に引き戻された感じだ。
彼女は俺の制服のズボンの裾を膝まで捲りあげると、丁寧に足を触っていく。筋肉の動きを確かめるように、時折、親指にグッと力がこめられた。
「ここ押すと痛い?ここは違和感ある?」
時々質問をしながら琴音さんは足を重点的に、次は腕を、背中を、腰を、順番に点検のようなマッサージをしていった。押されて痛い箇所も違和感もなかったことがわかってから、彼女は安堵の息をついた。
あの…、と俺が声をかけると同時に、琴音さんは悲しそうに眉をハの字にして俺に謝ってきた。
「本当なら真っ先に黒田くんに怪我がないか確認しなくちゃいけなかったのに…。大事な選手を私のドジに巻き込んで怪我させちゃうところだった……本当にごめんなさい」
真剣に申し訳ないという気持ちが伝わってくる。肩を落とす彼女は出会った当初と変わらず、優しい。忘れよう、出来るだけ考えないようにしようと避けてきた感情が、一気に引き戻される。
…俺、やっぱりこの人が好きだ。
今年のインハイメンバーの枠を勝ち取ることが出来なかった俺にさえ“大事な選手”と言ってくれるなんて、俺にはそんな気遣い、勿体無さ過ぎるってのに。
「私はマネージャーだから怪我しても大丈夫だけど…、今後は他の人を巻き込まないようによく注意するね」
苦笑しつつ、そんな自虐的なことを言うもんだから俺は思わず琴音さんの両肩を掴んだ。
「俺が大丈夫じゃないッ!!」
自分から思ったより大きな声が出てしまい、二人きりしかいない部室の中に響いた。
「琴音さんに怪我されると俺が大丈夫じゃないんです心配なんです!…って、俺は心配性の彼氏か!荒北さんか!」
言っちまった。言っちまったぞ。荒北さんが心配性なのかどうかはわからないが、言っちまった。大きな目をぱちくりとさせて琴音さんは俺の方を見つめながら頬が徐々に赤らんでいった。
俺の顔も負けじと赤くなっているだろう。照れてるのはもうお互い様なので、仕方ない。
自分の口から出た“荒北さん”の名前のおかげで、掴んでいる両肩を引き寄せて抱きしめる…なんてコトをしでかさなくて済んでる。脅威の抑止力だな、“荒北さん”ってワード。
先輩だからといって威張りもせず、いつでも謙虚で、優しい彼女のことを見初めていたのはきっと荒北さんより俺のが早かったはずだ。琴音さんが荒北さんの彼女になる前に告白すればよかったんだ。俺はあなたが好きですと、早々に伝えればよかった。
勝てないとわかったから諦めようとした恋心は、消そうと思っても自力じゃ消えやしない。ずっと心の奥で燻っていたそれは、一瞬で、大きな炎に変わるんだ。ホラ、すぐだろ、カンタンだ、気持ちが復活するのなんて。
「…黒田くん、いつも優しいね。ありがとう」
それはアンタの方だろう。いつでも、いつも、優しいのは琴音さんの方だ。俺は好きな人にしか優しくできない――心の奥にある本音は、口にすることは出来なかった。
柔らかく微笑む彼女を前に、俺の心臓はギュッと掴まれる。
恋は勝ち負けだけじゃないって、もっと早く気づいていればよかったのにな。
手遅れか否か、砂粒程の可能性は残っているのだろうか。