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►黄瀬24歳(職業:モデル)・夢主27歳
『家に帰ったら“おかえり”と言って欲しい』
あと3年で三十路になる。現在、既にアラサーの仲間入り。
私にはもったいないぐらいの素敵な彼氏はいても、左手の薬指に光るものはなし。
――スマホのディスプレイを見れば、『深夜まで撮影になったっス…』と、しょんぼりした絵文字つきのメールが1通届いていた。
いつまでも眺めていても仕方ないので、私はサクッと短めに返信を返すとキッチンの方へ向かった。
小さなお鍋のフタを開けるとポトフのいい香りと、湯気が天井に登っていった。小さなため息と一緒に。
今夜は夕飯を家に食べに来る約束だったのだけれど、その約束は延期になりそうだ。
世間で『キセリョ』という愛称で呼ばれ最近ではバラエティ番組にも時々出演するようになった人気急上昇のモデルの本名は、黄瀬涼太。
驚くことに私の彼氏であり、交際は8年目になる。
再びメールの着信音がしたので読んでみると、私からのそっけない短いメールにハートマークびっしりで返ってきた。
…未だ信じられない時があるけれど、本当に付き合ってるんだよなぁ。
8年前、海常大学一年の私は先生の頼まれごとをキッカケに姉妹校の海常高校バスケ部と関わりをもつことになった。
そこで涼太くんと私は出会った。ミニゲームの最中でも黄色い歓声を浴びるほど彼のファンは大勢で体育館に来ていたのを見て、驚いたものだ。
スポーツ万能、おまけに現役モデルだなんてモテにない方がおかしいだろう。
ただ私は大学生で彼らよりもお姉さん。一歩引いたところで涼太くんを見いていたので高校生のようにキャアキャアとはならなかった。
その物珍しさが逆に彼の興味を引いてしまい――彼からの告白の末、付き合う返事をOKして今に至る。
はじめは何度もアプローチをスルーし続けていた。もちろん涼太くんほどの人に好意を向けられたら嫌だなんて女性はいないと思う。
ただ、安易にOKして付き合ってしまえば、それはいつか終わりがくるような気がした。
それなら今の関係で――追って追われて、追われて逃げて、なんて、そんな関係でいたほうがいいのでは、と不確かな恐れから私は彼を避けていた時期もあったけど。それでも涼太くんは私を諦めてはくれなかった。
…きっといつか飽きられる。その時捨てられるのは私だと、何度も何度も断る理由を考えたのだけど、結局わたしは折れたのだ。
いつしか追われているうちに私も涼太くんを好きになってしまっていたのだ。そもそも彼に狙われた時点で早々に降参すればよかったんだ。諦めることを知らない彼から逃れられるはずもない。
涼太くんは、海常高校卒業後は海常大学へ。
それまで姉妹校というだけで「センパイ」と呼ばれたいたけれど、正式に先輩・後輩となった。二人とも在学中の時に涼太くんはキャンパスデートを提案してきたが即・却下。
交際している事は他言無用のルールを提案した。私だって大学中の女子からのキツイ視線を浴びたくない。
涼太くんは大学でもバスケを続け、その傍らバイトになるからとモデルの仕事を続け、三年生の夏でバスケ部を引退した。
その後、本格的に現役大学生モデルとして活躍し、仕事も増やし、将来の仕事に繋がるように人脈も増やし、この頃の世間の注目度はなかなかだと思う。
大学卒業後は色んな伝手でスタイリストの知識を独学で学びつつ資格を取得、自身が所属しているモデル事務所が拡大して養成所が設立されたので、今現在は非常勤講師として勤めながらも現役モデルとしても活躍中。
――改めて見るとこの高いステータスたるや、私の平々凡々さが際立ってしまう。
私はというと、海常大学卒業後は上々のIT企業で経理を担当してる。普通のOL…だけど、普通が一番だ。
確かに平凡な私にはとっても贅沢で似つかわしくないスーパー彼氏。付き合い始めの頃は、彼に何かを望むのもおこがましいものだとさえ思っていたのに。
ここ最近、とある願望が私の中でむくむくと大きくなっている。周囲の結婚ラッシュに感化され、私の中にも「結婚願望」というものが芽生えてきた。
…果たして涼太くんに、その気があるんだかないんだか。
こんなとこ聞いたら『重い』って思われちゃうかな?
もちろん、心の内は言いだせないまま日々は過ぎていった――
□ □ □
『近くまで来てるからランチでもどうです?』という書き出しからはじまるメールを1通、森山くんは私に送ってきた。
彼は現在、大手企業の営業マンとして成績も好調。忙しくも楽しく仕事をしているようだ。
女の子を口説くための口八丁が営業でも役立っているなんて、彼にとって営業マンは天職だったのかもしれない。
元マネージャーでもないのに、未だにバスケ部の人たちとは関わりがある。バスケ部メンバーで飲み会がある時、涼太くんが欠席でも私は参加してることもしばしば。不思議な縁だなと思うけど、まぁ楽しいからいいけど…。
「やぁ、お疲れ様です」
森山くんが手をあげて私の会社の入口付近で待っていた。
社内外の待ち合わせ場所に使われるこのロビーはわりと広く、椅子やテーブルまで置いてある。
スーツ姿の彼を見るのは初めてではないが、とても似合っているなぁと見る度に思う。手足も長いし、顔立ちも整っていて贔屓目なしに見てもそこそこのイケメン。…なのに、
「相変わらず琴音さんの会社の受付嬢はきれいどころが揃ってるなァ」
…口を開けば残念。どうやら受付嬢見たさにロビーまで入ってきたらしい。行動も非常に残念。
一見、紳士的硬派に見えるのに実際の人物はその逆を行く。
「ならランチでも誘ってきたらどう?」
「いやいや、目の前のお姫様には敵いませんよ」
「アラサーの私に“お姫様”だなんて、そりゃどうも」
お互い小さく笑いながら、私たちは歩き出した。
久々に会っても相変わらずのこのやりとりが楽しくて心地よかった。
大通りに面した知る人ぞ知るこじんまりとした喫茶店。
窓際の席が空いていたので、通りの街路樹、行きかう人を見つつ、会話をしながら注文したものが出てくるのを待った。
ここのパスタと評判だという噂を耳にしたのはつい先月。その噂を聞きつけて行こうと思っていたのだが、最近になってテレビでも紹介されてしまったらしく、ランチタイムは行列が絶えなかったのだ。いくつかランチをするお店の目処はつけていたものの、今日は運よく本命のお店の席がとれてよかった。
仕事の話、昔の話、最近のみんなの話を森山くんと話した。
森山くんも本当のいい男になったと思う。彼のルックスでナンパされたらそりゃなびく子もいるわけだが、付き合っても今ひとつ長続きしないそうだ。
恋愛経験が豊富でない私はなんとアイドバイスしたらいいか解らなかったが、とりあえず森山くんのいいところをパスタを頬張りながら順番に話していったらすっかり彼はご機嫌になった。
「――黄瀬と、結婚とか考えてます?」
食後のコーヒーを飲みながら森山くんは静かなトーンで質問してきた。
『二人とも付き合い始めて長いですよね』、という話から「結婚」というワードに至るまですぐだったと思う。
私は、何ともハッキリしない相槌を打ちながら外の景色に視線を移した。お昼時、行き交う人々の様は多種多様。
その中でも手を繋いだり腕を組んだりして歩いているカップルを特に目で追ってしまう。
「…私はいつでも準備万端なんだけど、涼太くんのほうはどうなんだろう」
自分の気持ちを主張するのは大事だけれど、押しつけてしまうような気もして、私はどうすればいいか最近思い悩んでいた。
すぐにでも、じゃなくてもいい。私をお嫁にもらってくれるという約束を示してもらって、自分が安心したいだけなのかも。
思考をぐるぐると巡らせ、コーヒーカップを持ったまま黙り込んで私は下を向いた。
「彼女にこんな顔させるなんて…、黄瀬の奴、女性の扱いがなってないな」
森山くんは私の情けない様子を見て苦笑した。コーヒーカップの取っ手にかけている私の指をつついて、カップから手を引き離した。
テーブルの上に手を置くと、その上に一回り大きい森山くんの手が包み込むように乗せられる。しながやかで綺麗な長い指。骨ばった男の人の手の特徴がよく出ている。
「俺だったら琴音さんにそんな顔させないけど?」
「ずいぶん紳士的だね」
クス、と笑って私が相槌を打っても彼の真剣な眼差しは私を捉えたままだった。
いつもの森山くんの悪ふざけかと思っているのに、彼からは一切の微笑は消えていた。上に乗せられていた手はいつのまにか握られて、私の手の平は汗ばんでいる。
離してもらわなくちゃと森山くんを見るも、動揺して目が合わせられない。悪戯だってわかってるのに何故慌てる必要があるんだろう。
『セクハラだよ!』と笑ってしまえばそれで終わり、ってなるはずなのに。
何だか心の隙に付け入られてる感じがする。ただ、悪戯心を駆り立てる隙を作ってしまっているのはきっと他でもない私なのだろう。
「そ、そろそろ離し――」
て…、と言い終わる前に、私と森山くんの顔に影がかかった。
窓際の席で日当たりもいいはずなのにまるで急に曇天がやってきたような、影。お互いに目を合わせたまま瞬きを一回し、同時に窓の方をみるとそこにはガラスにべったり手をつけて貼りついて、ものすごい形相でこちらを見ている…涼太くんだった。その恨めしげな視線は森山くんの重なった手の部分に一点集中していた。
「…りょっ…!」
驚きのあまり名前を叫び出しそうになったけれど、何とか飲みこんで堪えた。
悲鳴でもあげたら何事かと店内を騒がせてしまう。しかしあの形相、決して現役モデルがしていい顔じゃなかった。
変装のつもりか伊達メガネをかけているがそのメガネ自体もズレて、目をひんむいて呪詛でもかけようかというような悪しき表情だった。こ、こわ…。
あっという間に涼太くんは店内に入って来て私の隣にドカッと座り、重なっていた森山くんの手を引っぺがした。
外から店内に入って来てそれをやるまでその間20秒も満たなかったと思う。
「何してるんスか!!」
「いや、お前があまりにも琴音さんほったらかしにしてるって聞いたから、つい」
それを聞いた涼太くんはショックで肩を震わせながら私の方を見たので、私が「そんなこと言ってない!」と首を横に振るとギロリと森山くんを睨んだ。
睨みながら、店員さんに新しいおしぼりを貰って森山くんに触れられた方の手を念入りに拭いだした。何もそこまでしなくても…。
しかしびっくりした。神出鬼没とはまさにこのこと。
たまたま早く撮影が終わって、ちょうど私の会社の近くのスタジオだったから都合があえばランチでも~と思っていたらしい。私はすでに森山君とランチに出掛けていたし、食事中は携帯も見てなかったのでメールや着信があったことすら気がつかなかった。
人の彼女に勝手に触らないで欲しいっス!とぎゃんぎゃん喚いて抗議する涼太くんはやっぱりワンコみたいで、森山くんは悪びれもなく適当に相槌を打つばかりだった。
涼太くんがさらにムッとした表情を見せたので、私がなだめるよう彼の頭を優しく撫でた。
「ほんとにふざけてただけだから大丈夫だよ?」
「琴音さんがそう言うなら…」
今一つ納得が言ってない様子だったけれど、涼太くんは落ち着いてくれたようだ。手を握られた程度なのにそんなに慌てるものなのかなぁ。
しかも相手は森山くんだし、握られてるのも私の手だし。相変わらずふざけているだけみたいだったし。たださっきはちょっと眼差しが真剣だったので、さすがに私も変な汗をかいてしまった。
森山君は人をおちょくるのが上手だなぁ。誉めるべき特技では決してないけど。
「さーて、邪魔者は仕事に戻りますかね。…黄瀬、もたもたしてるとスティールされちまうからな」
テーブルの上に二人分払ってもおつりがくるぐらいの御代を置いて喫茶店を後にする森山くんの後ろ姿を見送って私は「スティール」のことをぼんやり考えていた。
スティール?って確かバスケ用語だったような…。横目で涼太くんを見ると唇を尖らせて不機嫌な様子。
「んなこと誰がさせるかっての…」
独り言のようにぶつぶつ聞こえるけれど、昼休みももうじき終わるので気にしていられない。
とりあえず会計を済ませて外に出ようと私は慌てて席を立った。
しかし森山くんは本命以外の女にもご馳走してしまう余裕があるなんて、さすが上場企業の営業マンだ。お礼を伝え損ねてしまったので、後でちゃんとメールを送っておこう。そして、森山くんの何度目かのモテ期が近々やって来ることを切に願っておこう。
その私は会社へ戻り、涼太くんはまた次の仕事場へ移動していった。
本当はゆっくりお茶でも、と仕切り直したいところだが、まだ午後も仕事があるのでそういうわけにはいかなかった。
「ちょっとだけど会えてよかったっス」
去り際に、伊達メガネから覗く瞳ブラウンの瞳が私を見て微笑んだ。その言葉の後に、「森山センパイがいなければもっと」と付け足して、やはり唇を尖らせていた。
拗ねる表情もイケメンだし、ころころと変わるその表情に見入ってしまいそうになる。
さっきのこと、よくよく考えれば、森山くんがふざけてやったことだけど、きっと私が逆の立場でも嫌な思いをしただろう。
例えば私の友達が涼太くんの手を握るなんて、想像しただけで嫉妬してしまう。例え涼太くんに見られてなかったとしても、ああいう時は即座に手を払うべきだった。
ごめんね、と素直に謝ると彼は目を細めながら笑って、私の頭を優しく撫でた。さっきの喫茶店で私が涼太くんにしたのと同じように。
□ □ □
春といってもまだ朝晩の風は冷たい。私はストールを巻きなおしながら街灯が照らす夜道を歩いた。
今日は残業になってしまい、午後8時を回ったあたりでようやく地元駅についた。
家に材料はあったはずだからあり合わせのもので作って夕飯をすませよう――と、アパートの近くまできた時、自分の部屋の窓から明かりがついていることに気がついた。
あ、と声を出しそうになったと同時にその窓は開き、涼太くんが顔を覗かせ私に気づいて手を振った。
メールも留守電もなかったけど、今日は来てたんだ。
お互いのアパートの合鍵を渡してあるので彼が入っても何ら不都合はないのだが、残業だった上に特に今日はちゃんとしたご飯も用意してあげられないので申し訳ないなぁ。
「ただいまぁ」
「おかえりっス!」
ガチャリとドアをあけると涼太くんがお出迎えしてくれた。自分の部屋なのに何だか不思議な気分だ。
ふと、キッチンからいい香りが漂ってきてお腹が鳴りそうになった。もしかして…と、コンロの上の鍋に視線を移動させると、彼の方から「夕飯作って待ってたんスよ」と告げられた。
あぁ、すごく助かるなぁ。疲れてたしテキトーにすまそうと思っていた夕飯だけど今夜はご馳走だ。涼太くんの料理の腕がいいことを知っているので、食べるのがとても楽しみだ。
「お腹空いてるだろうけどちょっといい?そこ座って」
トレンチコートをハンガーにかけ終わったのを見計らって、彼は私の手を引いてソファに座らせた。
彼は絨毯の上に膝立ちになって対面しする姿勢になり、私より一回り以上大きな両手で手を握ってきた。
強い力ではないが、振りほどけないぐらいにはしっかりと握られた涼太くんの手の平は、汗が滲んでいるのが分かった。
緊張してるの…?
少しの沈黙のあと、ふう、と大きく息を吐いて彼が口を開いた。真剣な眼差しに至近距離で見つめられて何かを予感したように心臓が高鳴りはじめる。
こんな時に限って残業後で化粧もロクに直してないし髪ちょっとボサボサだし恥ずかしいなぁなんて頭の片隅で考えていたが、そんなことを笑って言える空気は今二人の間に流れていない。
「最初に言っておくけど、誰かに触発されたから言うわけじゃないよ?前々から『今日伝えたい』って俺が自分で決めてたことだから」
言葉の意味をちゃんとは理解できなかったけれど、私がゆっくりと頷いた。
それを確認すると涼太くんはフッと柔らかく笑った。カッコいいのに、かわいい笑顔。
世間ではキリッとしたイケメンモデルで通っているけど、こんな風にも笑えるんだ。
この笑顔は私の前だけがいい。私だけが知ってればいい。思わず守ってあげたくなるような笑顔だ。
そもそもずっと一緒に居たいと願ってしまうのも、こんなに涼太くんが魅力的なのが原因だ。欲張りが拍車がかる気持ちはもう止められないと私は腹を括った。
「家に帰ったら『おかえり』って言って欲しいっス。…この先、毎日」
再び、ふわりと微笑みながら涼太くんは真っ直ぐな気持ちを私に告げてくれた。
とびきりの甘い声は、私の鼓膜で響くと同時に、心の焦りも重りも全部溶かしていった。
伝えようと思ってくれてたの?
ちゃんと考えてくれてたの?
それが嬉しくて嬉しくて、私は泣きだしそうになったけれどグッと堪えた。
幸せに、心地よさに翻弄されてしまいそう。嬉しくて大声をあげてしまいそうな衝動を抑えて、私はわざとキョトンとした表情になると、
「おかえり。…これでOK?」
と、小声で返した。すると涼太くんの目が点になり、「えっ!」というショックな表情で固まった。
一瞬、石になったみたいに動かなくなったけれど、バリン!って、その石は数秒で割れて彼は両手を今度は私の両肩に移して詰め寄って来た。
「いやいやいや!今じゃなくて!そーゆー意味じゃなくて!あの…」
眉毛をハの字にして訴えてくるその姿はまるで主人に構ってもらえなくてしょんぼりしている大型犬のようで、愛くるしい。
私の人生、これから彼に翻弄されるのが大前提だとしたら、私だって逆に翻弄してやるぐらいの頑張りは見せないと。
「大丈夫、ちゃんとわかってるよ」
私がふふっと声を立てて笑ったことで、わざとからかわれたのだと察した彼が何か言おうとするより早く、私動いた。
両肩を掴まれていた大きな手からをするりと解いてソファから降り、彼のすぐ横の床に正座した。そして、出来るだけ凜とした姿勢で三つ指ついて私は深くお辞儀をした。
「本当はその言葉を待ってたんだよ?…だからその、不束者ですがどうぞ貰って下さい」
頭を下げながら、思わず口元がニンマリしてしまう。ずっと言いたかった言葉だったから。
プロポーズを受けた時の返しの言葉として大事にとっておいた台詞が、やっと伝えることができて、全身が喜びに満ちて痺れそうだ。
しかし、それに対してなかなか涼太くんからのリアクションがない。
笑ってもいいところだけど、笑い声も聞こえない。返事もない。そろそろ頭をあげて彼の様子を見てもいいかなぁと私が少し頭を挙げると同時に、グスッ、と鼻をすする音が頭上からハッキリと聞こえた。
――って、涼太くん、泣いてる!?
「ちょ、今、顔あげないで、っ…」
泣いてくれていた。
私が泣くよりも先に彼の方が。
愛おしさで胸がいっぱいになって、息が止まりそうになる。
何でもかんでもそつなくこなしてしまう涼太くんが、どれだけ勇気を出して私に告げてくれたんだろう。今すぐ抱きしめてあげたくなる衝動に駆られた。
はぁ、と私の口からため息が漏れた。それは数日前の重いため息とは全然違う。今は幸せに満ちたようなため息。
顔をあげないで、見ないで、と、鼻をすすりながらそう言われても、見ないわけにはいかない。
それが嬉し泣きなら尚更だ。これから夫婦になるんだから、お互い見せられない表情なんてもうないようにしないと。
今、彼の泣き顔をみたら私もつられて泣いてしまうだろう。それでもいい。嬉し泣きなら、つられたほうがいいんだ、きっと。
これからもっとたくさん泣いたり笑ったり、幸せな時間をたくさん涼太くんと過ごす未来が待っているなんて、楽しみすぎて眩暈がしそうだ。
『家に帰ったら“おかえり”と言って欲しい』
あと3年で三十路になる。現在、既にアラサーの仲間入り。
私にはもったいないぐらいの素敵な彼氏はいても、左手の薬指に光るものはなし。
――スマホのディスプレイを見れば、『深夜まで撮影になったっス…』と、しょんぼりした絵文字つきのメールが1通届いていた。
いつまでも眺めていても仕方ないので、私はサクッと短めに返信を返すとキッチンの方へ向かった。
小さなお鍋のフタを開けるとポトフのいい香りと、湯気が天井に登っていった。小さなため息と一緒に。
今夜は夕飯を家に食べに来る約束だったのだけれど、その約束は延期になりそうだ。
世間で『キセリョ』という愛称で呼ばれ最近ではバラエティ番組にも時々出演するようになった人気急上昇のモデルの本名は、黄瀬涼太。
驚くことに私の彼氏であり、交際は8年目になる。
再びメールの着信音がしたので読んでみると、私からのそっけない短いメールにハートマークびっしりで返ってきた。
…未だ信じられない時があるけれど、本当に付き合ってるんだよなぁ。
8年前、海常大学一年の私は先生の頼まれごとをキッカケに姉妹校の海常高校バスケ部と関わりをもつことになった。
そこで涼太くんと私は出会った。ミニゲームの最中でも黄色い歓声を浴びるほど彼のファンは大勢で体育館に来ていたのを見て、驚いたものだ。
スポーツ万能、おまけに現役モデルだなんてモテにない方がおかしいだろう。
ただ私は大学生で彼らよりもお姉さん。一歩引いたところで涼太くんを見いていたので高校生のようにキャアキャアとはならなかった。
その物珍しさが逆に彼の興味を引いてしまい――彼からの告白の末、付き合う返事をOKして今に至る。
はじめは何度もアプローチをスルーし続けていた。もちろん涼太くんほどの人に好意を向けられたら嫌だなんて女性はいないと思う。
ただ、安易にOKして付き合ってしまえば、それはいつか終わりがくるような気がした。
それなら今の関係で――追って追われて、追われて逃げて、なんて、そんな関係でいたほうがいいのでは、と不確かな恐れから私は彼を避けていた時期もあったけど。それでも涼太くんは私を諦めてはくれなかった。
…きっといつか飽きられる。その時捨てられるのは私だと、何度も何度も断る理由を考えたのだけど、結局わたしは折れたのだ。
いつしか追われているうちに私も涼太くんを好きになってしまっていたのだ。そもそも彼に狙われた時点で早々に降参すればよかったんだ。諦めることを知らない彼から逃れられるはずもない。
涼太くんは、海常高校卒業後は海常大学へ。
それまで姉妹校というだけで「センパイ」と呼ばれたいたけれど、正式に先輩・後輩となった。二人とも在学中の時に涼太くんはキャンパスデートを提案してきたが即・却下。
交際している事は他言無用のルールを提案した。私だって大学中の女子からのキツイ視線を浴びたくない。
涼太くんは大学でもバスケを続け、その傍らバイトになるからとモデルの仕事を続け、三年生の夏でバスケ部を引退した。
その後、本格的に現役大学生モデルとして活躍し、仕事も増やし、将来の仕事に繋がるように人脈も増やし、この頃の世間の注目度はなかなかだと思う。
大学卒業後は色んな伝手でスタイリストの知識を独学で学びつつ資格を取得、自身が所属しているモデル事務所が拡大して養成所が設立されたので、今現在は非常勤講師として勤めながらも現役モデルとしても活躍中。
――改めて見るとこの高いステータスたるや、私の平々凡々さが際立ってしまう。
私はというと、海常大学卒業後は上々のIT企業で経理を担当してる。普通のOL…だけど、普通が一番だ。
確かに平凡な私にはとっても贅沢で似つかわしくないスーパー彼氏。付き合い始めの頃は、彼に何かを望むのもおこがましいものだとさえ思っていたのに。
ここ最近、とある願望が私の中でむくむくと大きくなっている。周囲の結婚ラッシュに感化され、私の中にも「結婚願望」というものが芽生えてきた。
…果たして涼太くんに、その気があるんだかないんだか。
こんなとこ聞いたら『重い』って思われちゃうかな?
もちろん、心の内は言いだせないまま日々は過ぎていった――
□ □ □
『近くまで来てるからランチでもどうです?』という書き出しからはじまるメールを1通、森山くんは私に送ってきた。
彼は現在、大手企業の営業マンとして成績も好調。忙しくも楽しく仕事をしているようだ。
女の子を口説くための口八丁が営業でも役立っているなんて、彼にとって営業マンは天職だったのかもしれない。
元マネージャーでもないのに、未だにバスケ部の人たちとは関わりがある。バスケ部メンバーで飲み会がある時、涼太くんが欠席でも私は参加してることもしばしば。不思議な縁だなと思うけど、まぁ楽しいからいいけど…。
「やぁ、お疲れ様です」
森山くんが手をあげて私の会社の入口付近で待っていた。
社内外の待ち合わせ場所に使われるこのロビーはわりと広く、椅子やテーブルまで置いてある。
スーツ姿の彼を見るのは初めてではないが、とても似合っているなぁと見る度に思う。手足も長いし、顔立ちも整っていて贔屓目なしに見てもそこそこのイケメン。…なのに、
「相変わらず琴音さんの会社の受付嬢はきれいどころが揃ってるなァ」
…口を開けば残念。どうやら受付嬢見たさにロビーまで入ってきたらしい。行動も非常に残念。
一見、紳士的硬派に見えるのに実際の人物はその逆を行く。
「ならランチでも誘ってきたらどう?」
「いやいや、目の前のお姫様には敵いませんよ」
「アラサーの私に“お姫様”だなんて、そりゃどうも」
お互い小さく笑いながら、私たちは歩き出した。
久々に会っても相変わらずのこのやりとりが楽しくて心地よかった。
大通りに面した知る人ぞ知るこじんまりとした喫茶店。
窓際の席が空いていたので、通りの街路樹、行きかう人を見つつ、会話をしながら注文したものが出てくるのを待った。
ここのパスタと評判だという噂を耳にしたのはつい先月。その噂を聞きつけて行こうと思っていたのだが、最近になってテレビでも紹介されてしまったらしく、ランチタイムは行列が絶えなかったのだ。いくつかランチをするお店の目処はつけていたものの、今日は運よく本命のお店の席がとれてよかった。
仕事の話、昔の話、最近のみんなの話を森山くんと話した。
森山くんも本当のいい男になったと思う。彼のルックスでナンパされたらそりゃなびく子もいるわけだが、付き合っても今ひとつ長続きしないそうだ。
恋愛経験が豊富でない私はなんとアイドバイスしたらいいか解らなかったが、とりあえず森山くんのいいところをパスタを頬張りながら順番に話していったらすっかり彼はご機嫌になった。
「――黄瀬と、結婚とか考えてます?」
食後のコーヒーを飲みながら森山くんは静かなトーンで質問してきた。
『二人とも付き合い始めて長いですよね』、という話から「結婚」というワードに至るまですぐだったと思う。
私は、何ともハッキリしない相槌を打ちながら外の景色に視線を移した。お昼時、行き交う人々の様は多種多様。
その中でも手を繋いだり腕を組んだりして歩いているカップルを特に目で追ってしまう。
「…私はいつでも準備万端なんだけど、涼太くんのほうはどうなんだろう」
自分の気持ちを主張するのは大事だけれど、押しつけてしまうような気もして、私はどうすればいいか最近思い悩んでいた。
すぐにでも、じゃなくてもいい。私をお嫁にもらってくれるという約束を示してもらって、自分が安心したいだけなのかも。
思考をぐるぐると巡らせ、コーヒーカップを持ったまま黙り込んで私は下を向いた。
「彼女にこんな顔させるなんて…、黄瀬の奴、女性の扱いがなってないな」
森山くんは私の情けない様子を見て苦笑した。コーヒーカップの取っ手にかけている私の指をつついて、カップから手を引き離した。
テーブルの上に手を置くと、その上に一回り大きい森山くんの手が包み込むように乗せられる。しながやかで綺麗な長い指。骨ばった男の人の手の特徴がよく出ている。
「俺だったら琴音さんにそんな顔させないけど?」
「ずいぶん紳士的だね」
クス、と笑って私が相槌を打っても彼の真剣な眼差しは私を捉えたままだった。
いつもの森山くんの悪ふざけかと思っているのに、彼からは一切の微笑は消えていた。上に乗せられていた手はいつのまにか握られて、私の手の平は汗ばんでいる。
離してもらわなくちゃと森山くんを見るも、動揺して目が合わせられない。悪戯だってわかってるのに何故慌てる必要があるんだろう。
『セクハラだよ!』と笑ってしまえばそれで終わり、ってなるはずなのに。
何だか心の隙に付け入られてる感じがする。ただ、悪戯心を駆り立てる隙を作ってしまっているのはきっと他でもない私なのだろう。
「そ、そろそろ離し――」
て…、と言い終わる前に、私と森山くんの顔に影がかかった。
窓際の席で日当たりもいいはずなのにまるで急に曇天がやってきたような、影。お互いに目を合わせたまま瞬きを一回し、同時に窓の方をみるとそこにはガラスにべったり手をつけて貼りついて、ものすごい形相でこちらを見ている…涼太くんだった。その恨めしげな視線は森山くんの重なった手の部分に一点集中していた。
「…りょっ…!」
驚きのあまり名前を叫び出しそうになったけれど、何とか飲みこんで堪えた。
悲鳴でもあげたら何事かと店内を騒がせてしまう。しかしあの形相、決して現役モデルがしていい顔じゃなかった。
変装のつもりか伊達メガネをかけているがそのメガネ自体もズレて、目をひんむいて呪詛でもかけようかというような悪しき表情だった。こ、こわ…。
あっという間に涼太くんは店内に入って来て私の隣にドカッと座り、重なっていた森山くんの手を引っぺがした。
外から店内に入って来てそれをやるまでその間20秒も満たなかったと思う。
「何してるんスか!!」
「いや、お前があまりにも琴音さんほったらかしにしてるって聞いたから、つい」
それを聞いた涼太くんはショックで肩を震わせながら私の方を見たので、私が「そんなこと言ってない!」と首を横に振るとギロリと森山くんを睨んだ。
睨みながら、店員さんに新しいおしぼりを貰って森山くんに触れられた方の手を念入りに拭いだした。何もそこまでしなくても…。
しかしびっくりした。神出鬼没とはまさにこのこと。
たまたま早く撮影が終わって、ちょうど私の会社の近くのスタジオだったから都合があえばランチでも~と思っていたらしい。私はすでに森山君とランチに出掛けていたし、食事中は携帯も見てなかったのでメールや着信があったことすら気がつかなかった。
人の彼女に勝手に触らないで欲しいっス!とぎゃんぎゃん喚いて抗議する涼太くんはやっぱりワンコみたいで、森山くんは悪びれもなく適当に相槌を打つばかりだった。
涼太くんがさらにムッとした表情を見せたので、私がなだめるよう彼の頭を優しく撫でた。
「ほんとにふざけてただけだから大丈夫だよ?」
「琴音さんがそう言うなら…」
今一つ納得が言ってない様子だったけれど、涼太くんは落ち着いてくれたようだ。手を握られた程度なのにそんなに慌てるものなのかなぁ。
しかも相手は森山くんだし、握られてるのも私の手だし。相変わらずふざけているだけみたいだったし。たださっきはちょっと眼差しが真剣だったので、さすがに私も変な汗をかいてしまった。
森山君は人をおちょくるのが上手だなぁ。誉めるべき特技では決してないけど。
「さーて、邪魔者は仕事に戻りますかね。…黄瀬、もたもたしてるとスティールされちまうからな」
テーブルの上に二人分払ってもおつりがくるぐらいの御代を置いて喫茶店を後にする森山くんの後ろ姿を見送って私は「スティール」のことをぼんやり考えていた。
スティール?って確かバスケ用語だったような…。横目で涼太くんを見ると唇を尖らせて不機嫌な様子。
「んなこと誰がさせるかっての…」
独り言のようにぶつぶつ聞こえるけれど、昼休みももうじき終わるので気にしていられない。
とりあえず会計を済ませて外に出ようと私は慌てて席を立った。
しかし森山くんは本命以外の女にもご馳走してしまう余裕があるなんて、さすが上場企業の営業マンだ。お礼を伝え損ねてしまったので、後でちゃんとメールを送っておこう。そして、森山くんの何度目かのモテ期が近々やって来ることを切に願っておこう。
その私は会社へ戻り、涼太くんはまた次の仕事場へ移動していった。
本当はゆっくりお茶でも、と仕切り直したいところだが、まだ午後も仕事があるのでそういうわけにはいかなかった。
「ちょっとだけど会えてよかったっス」
去り際に、伊達メガネから覗く瞳ブラウンの瞳が私を見て微笑んだ。その言葉の後に、「森山センパイがいなければもっと」と付け足して、やはり唇を尖らせていた。
拗ねる表情もイケメンだし、ころころと変わるその表情に見入ってしまいそうになる。
さっきのこと、よくよく考えれば、森山くんがふざけてやったことだけど、きっと私が逆の立場でも嫌な思いをしただろう。
例えば私の友達が涼太くんの手を握るなんて、想像しただけで嫉妬してしまう。例え涼太くんに見られてなかったとしても、ああいう時は即座に手を払うべきだった。
ごめんね、と素直に謝ると彼は目を細めながら笑って、私の頭を優しく撫でた。さっきの喫茶店で私が涼太くんにしたのと同じように。
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春といってもまだ朝晩の風は冷たい。私はストールを巻きなおしながら街灯が照らす夜道を歩いた。
今日は残業になってしまい、午後8時を回ったあたりでようやく地元駅についた。
家に材料はあったはずだからあり合わせのもので作って夕飯をすませよう――と、アパートの近くまできた時、自分の部屋の窓から明かりがついていることに気がついた。
あ、と声を出しそうになったと同時にその窓は開き、涼太くんが顔を覗かせ私に気づいて手を振った。
メールも留守電もなかったけど、今日は来てたんだ。
お互いのアパートの合鍵を渡してあるので彼が入っても何ら不都合はないのだが、残業だった上に特に今日はちゃんとしたご飯も用意してあげられないので申し訳ないなぁ。
「ただいまぁ」
「おかえりっス!」
ガチャリとドアをあけると涼太くんがお出迎えしてくれた。自分の部屋なのに何だか不思議な気分だ。
ふと、キッチンからいい香りが漂ってきてお腹が鳴りそうになった。もしかして…と、コンロの上の鍋に視線を移動させると、彼の方から「夕飯作って待ってたんスよ」と告げられた。
あぁ、すごく助かるなぁ。疲れてたしテキトーにすまそうと思っていた夕飯だけど今夜はご馳走だ。涼太くんの料理の腕がいいことを知っているので、食べるのがとても楽しみだ。
「お腹空いてるだろうけどちょっといい?そこ座って」
トレンチコートをハンガーにかけ終わったのを見計らって、彼は私の手を引いてソファに座らせた。
彼は絨毯の上に膝立ちになって対面しする姿勢になり、私より一回り以上大きな両手で手を握ってきた。
強い力ではないが、振りほどけないぐらいにはしっかりと握られた涼太くんの手の平は、汗が滲んでいるのが分かった。
緊張してるの…?
少しの沈黙のあと、ふう、と大きく息を吐いて彼が口を開いた。真剣な眼差しに至近距離で見つめられて何かを予感したように心臓が高鳴りはじめる。
こんな時に限って残業後で化粧もロクに直してないし髪ちょっとボサボサだし恥ずかしいなぁなんて頭の片隅で考えていたが、そんなことを笑って言える空気は今二人の間に流れていない。
「最初に言っておくけど、誰かに触発されたから言うわけじゃないよ?前々から『今日伝えたい』って俺が自分で決めてたことだから」
言葉の意味をちゃんとは理解できなかったけれど、私がゆっくりと頷いた。
それを確認すると涼太くんはフッと柔らかく笑った。カッコいいのに、かわいい笑顔。
世間ではキリッとしたイケメンモデルで通っているけど、こんな風にも笑えるんだ。
この笑顔は私の前だけがいい。私だけが知ってればいい。思わず守ってあげたくなるような笑顔だ。
そもそもずっと一緒に居たいと願ってしまうのも、こんなに涼太くんが魅力的なのが原因だ。欲張りが拍車がかる気持ちはもう止められないと私は腹を括った。
「家に帰ったら『おかえり』って言って欲しいっス。…この先、毎日」
再び、ふわりと微笑みながら涼太くんは真っ直ぐな気持ちを私に告げてくれた。
とびきりの甘い声は、私の鼓膜で響くと同時に、心の焦りも重りも全部溶かしていった。
伝えようと思ってくれてたの?
ちゃんと考えてくれてたの?
それが嬉しくて嬉しくて、私は泣きだしそうになったけれどグッと堪えた。
幸せに、心地よさに翻弄されてしまいそう。嬉しくて大声をあげてしまいそうな衝動を抑えて、私はわざとキョトンとした表情になると、
「おかえり。…これでOK?」
と、小声で返した。すると涼太くんの目が点になり、「えっ!」というショックな表情で固まった。
一瞬、石になったみたいに動かなくなったけれど、バリン!って、その石は数秒で割れて彼は両手を今度は私の両肩に移して詰め寄って来た。
「いやいやいや!今じゃなくて!そーゆー意味じゃなくて!あの…」
眉毛をハの字にして訴えてくるその姿はまるで主人に構ってもらえなくてしょんぼりしている大型犬のようで、愛くるしい。
私の人生、これから彼に翻弄されるのが大前提だとしたら、私だって逆に翻弄してやるぐらいの頑張りは見せないと。
「大丈夫、ちゃんとわかってるよ」
私がふふっと声を立てて笑ったことで、わざとからかわれたのだと察した彼が何か言おうとするより早く、私動いた。
両肩を掴まれていた大きな手からをするりと解いてソファから降り、彼のすぐ横の床に正座した。そして、出来るだけ凜とした姿勢で三つ指ついて私は深くお辞儀をした。
「本当はその言葉を待ってたんだよ?…だからその、不束者ですがどうぞ貰って下さい」
頭を下げながら、思わず口元がニンマリしてしまう。ずっと言いたかった言葉だったから。
プロポーズを受けた時の返しの言葉として大事にとっておいた台詞が、やっと伝えることができて、全身が喜びに満ちて痺れそうだ。
しかし、それに対してなかなか涼太くんからのリアクションがない。
笑ってもいいところだけど、笑い声も聞こえない。返事もない。そろそろ頭をあげて彼の様子を見てもいいかなぁと私が少し頭を挙げると同時に、グスッ、と鼻をすする音が頭上からハッキリと聞こえた。
――って、涼太くん、泣いてる!?
「ちょ、今、顔あげないで、っ…」
泣いてくれていた。
私が泣くよりも先に彼の方が。
愛おしさで胸がいっぱいになって、息が止まりそうになる。
何でもかんでもそつなくこなしてしまう涼太くんが、どれだけ勇気を出して私に告げてくれたんだろう。今すぐ抱きしめてあげたくなる衝動に駆られた。
はぁ、と私の口からため息が漏れた。それは数日前の重いため息とは全然違う。今は幸せに満ちたようなため息。
顔をあげないで、見ないで、と、鼻をすすりながらそう言われても、見ないわけにはいかない。
それが嬉し泣きなら尚更だ。これから夫婦になるんだから、お互い見せられない表情なんてもうないようにしないと。
今、彼の泣き顔をみたら私もつられて泣いてしまうだろう。それでもいい。嬉し泣きなら、つられたほうがいいんだ、きっと。
これからもっとたくさん泣いたり笑ったり、幸せな時間をたくさん涼太くんと過ごす未来が待っているなんて、楽しみすぎて眩暈がしそうだ。