短編・中編
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燦然前夜
-4- ※東堂視点
旅館に戻って二人で土産売場へ寄ると、目的は決まっていたのか、琴音は寄木細工で出来た六角形のコースターを二つ手に取ってレジに持って行った。欲しいならば俺が買おうと前へ出ると、手でやんわりと制止された。ひとつは自分用に、もうひとつは俺にと手渡しされる。“寄木細工”――古くから伝わる箱根の伝統工芸品だ。鮮やかな幾何学模様が美しい。
コースターなら通年使えるからお揃いで持っていたい、と、優しい気遣いにじわりと心があたたかくなる。
それから、娯楽室にある卓球台でひとしきり遊んでから、館内の自販機でジュースを買ってラウンジへ移動した。座り心地の良いソファに並んで座ると、琴音は眉をひそめて大きく息をつき、缶を傾けて喉を鳴らして飲み始めた。珍しく、腑に落ちないといった様子だ。
自分は運動音痴だからと笑っていたが、卓球の腕はなかなかのものだった。勝たせてやりたくて少し手を抜いたら、すぐにバレてしまった。『手加減しないように!』と抗議を受けた後、試合は続行した。頬を膨らませて怒る様子が、幼気で可愛らしかった。
……しかし、負けたら負けたで肩を落としているものだから、悪いことをした気になる。
「何をやっても尽八くんには勝てないや。全部器用なんだもんなぁ」
背中を丸めて項垂れる。悔しがるというより、落ち込んでるようだ。腕に自信があったのだろう。しかし相手が悪かった。俺が幼少期から卓球の腕を磨いたのは、この旅館の娯楽室だ。昔からあの場所には、変わらず卓球台が置いてある。備品が古くなれば新調もするが、あの卓球台だけは長持ちで、俺が物心つく前から同じものが設置されていた。
“そうだろうか?”――とぼけて宥めるのは簡単だが、もとより何でもこなせてしまう器用な俺が言うと、逆に嫌味になってしまう。
「まぁ、何でもこなせてしまうのは否定できん」
「うーん……、じゃあスポーツ以外で!料理や掃除は?」
「どちらも嫌いじゃないな」
「ほら、もう、敵うものがないよ。どうして天は私に何も授けてくれなかったんだろう…」
「授かってるだろう?お前には数えきれない程いいところがある」
「ほんと?…例えば?」
「話し出せば一時間では済まないぞ」
「ふふっ、そんなにある?」
小さく笑って顔を上げた彼女に笑顔が戻る。やはり、笑っている顔が一番だ。機嫌を取りたくてそんな風に諭したんじゃない。偽りない本心だ。
「それと、ここには良縁もな」
並んで座った二人掛けのソファの上、手を重ねて閉じ込めるように握った。周囲には誰もいない。静かな空間の中、途端に二人きりの世界になる。
彼女澄んだ綺麗な目は、俺を真っ直ぐに捉えていた。血色の良い頬、口元を注視すれば、本能で吸い寄らせられそうになる。
空いてる方の手を顔に近づけ、人差し指で耳の横から流れる後れ毛を絡ませくるりと遊ぶと、琴音の唇は三日月の形を作ってフッと微笑んだ。
例えば、自転車の才も雄弁さも美しさも、元より備わってる者と差があるものの、絶えず惜しみなく努力をすれば追いつかないこともないだろう。
だが、人の縁や出会いは“運”だ。
もし一昨年の広島大会で例の落車の件がなければ、琴音は自転車競技にマネージャーとして途中入部していない。俺と彼女は、クラスや委員会でも三年間一度として同じにならなかった。接点は“部活”のみ。そもそも琴音とフクが幼馴染でなければ、自転車競技部とも関わりはなく、俺と出会う機会もなかった。
“もしも”が重なって、点と点が徐々に繋がり辿り着いた、貴重な良縁だと感じてる。登れる上にトークも切れ、さらにこの美形――加えて良縁。天は俺に四物を与えたのだ。
「……そうだね。一番大切なものをもらってた」
触れ合った手から愛情が伝わってきて、心臓がチクチクと切なくなる。会えない日々が続き、想いが募りに募っている自覚はあった。
同じく、俺は目を細めて微笑み返した。気持ちが溢れて幾分泣きたい気持ちになったが、決して表情には出さなかった。
・・・
・・・・・
・・・・・・
幼少期。旅館の敷地内でかくれんぼをしたら、隠れるのが上手すぎて夜まで見つからず、あわや警察沙汰になるところだった。
小学生になると、祖父が育ててる盆栽の手入れの手伝いをさせてもらった。美的センスがあるとたいそう褒められた。
中学校からはオシャレに興味を持ち、月初めに小遣いを貰っては小田原までよくショッピングに出かけた。
途中から友人の勧めでロードバイクをはじめ、すぐさま才能が頭角を現してからは自転車に夢中になった。高校の進路も、必然的に“強豪・箱根学園”を目指すようになる。
同時に、その頃から家業の手伝いもするようになり、もてなしの心や堂に入った所作は全て東堂庵で学んだ事だ。
――『私の出会う前の尽八くんの話をもっと聞かせて』
頼まれるまま話し始めたら、琴音は興味津々で聞き入っていた。
多分、これまでに話した覚えがあるようなエピソードにも、丁寧に頷いて耳を傾けていた。時折、談笑を交えつつ楽しい時間を過ごし、気付いたら夜の十時半を回っていた。
「もう夜も遅い。そろそろ部屋まで送ろう」
ラウンジの壁にかかる時計を一瞥して立ち上がると、琴音も浴衣の裾を整えソファから腰を上げた。
フロントの前を通り過ぎ直線の廊下を出来るだけゆっくり進んでも、間もなく部屋に到着してしまう。ここでいったん解散となると正直名残惜しいが、小声で別れの挨拶をしたら踵を返そうと決めていた。
廊下では声を潜めて静かに歩き、部屋の前に着くと琴音は手早く鍵を開けた。扉を開けて客室入口でスリッパを脱いだ後、彼女は手招きする仕草で俺を部屋の中へと誘ってきた。
扉が開いたままだと会話が廊下に響いてしまう。何か言い忘れたのかと、疑いもせず後ろ手で扉を閉めた隙に、すかさず琴音は手を伸ばして鍵をかけた。
そしてすぐに、俺の胸に頬を寄せて抱き着いてきた。突然のことで、肩に添える手が一瞬迷う。
「やっぱり日付が変わるまで一緒にいたい。どうしても一番に、尽八くんをお祝いしたいの」
しゅんとして縋る幼子のように弱々しく、そのくせ眼差しは熱を帯びていて、愛らしさに堪らなくなる。肩を抱き直し一度目を閉じて冷静に。ぐらりと揺れた理性を立て直した。
「ラウンジで言わなかったのは、断られると思ったからか?」
「うん。我儘言ってごめんなさい。去年は当日ギリギリだったから、今年こそは伝えたくて……」
「この部屋を案内した際に告げたことを、忘れたわけではあるまいな?」
「忘れてないよ!でも、尽八くんだって夕飯前、迎えに来てくれた時に抱きついたじゃない。おあいこだよ」
「……おあいこ、か」
双方の差が無い状態――“おあいこ”という言葉の意味を脳裏に巡らすも、しっくり来ない。男の俺からすれば差を感じて当たり前だ。
自制していたのに触れたい欲がじわじわと溢れて出す。測らずとも、琴音よりも俺の気持ちの方が遥かに上回っているのだから、互角じゃない。
困らせると理解していても、それでも日付が変わって一番にお祝いしたい――か。琴音の染まる頬色から、隠しようもなく恥じらいや迷いが滲んでいた。色々考えて迷った挙句、行動に至ったのだ。
……俺は、そんな彼女の勇気を無下に出来るのか?
不意に、ポケットの中で震えた携帯の振動が肌に伝わった。
震えた音が小さく響き、気付いた琴音も反射的に離れた。こんな時間に緊急の連絡かもしれないと、届いたメールを確認すれば送り主は母からだった。
《尽八へ。今日はお手伝いありがとう。助かりました。
たまにはうちの温泉に入って疲れを癒してきてください。
くれぐれも、琴音さんを一人にして寂しい思いをさせないようにね》
携帯の画面に映し出された文字を目で追いながら、彼女は目を丸くしてる俺を不安げな表情で覗き込んだ。
急に気恥ずかしさが込み上げ、ハァと情けない溜息が喉の奥から漏れた。東堂庵の嫡男として遠慮し、気を回していた事に気付かれていたとは――すべて、杞憂だった。
わざわざ後押しのメールを親から送られてるぐらいなら、最初からもっと堂々としていればよかった。勘ぐられたってさしたる問題じゃない。そもそも彼女と一緒に部屋に泊まるからと言って、俺の家族に後々冷やかすような野暮な真似をする者はいないだろう。ヨシさんあたりに知られたら『男を上げましたね!』…なんて、意気揚々と背中を叩かれそうだが、一時的に羞恥心を煽られる程度で済む。
「……母から、恋人を一人にするなというお達しだ」
「えっ?」
「万事、見透かされていたらしい」
「もしかして怒られた、とか?……落ち込んでる?」
「いや、落ち込んでるどころか――」
くしゃりと前髪をかき上げ、口元を綻ばせる。こうなっては自宅にも戻れないだろう。鉢合わせでもしたら旅館に戻れと追い返される。
上目遣いで見つめる彼女の瞳は知らない。
前日からこんなに浮かれ、気もそぞろで、紳士的な振舞いが今にも崩れそうで――触れたくて仕方がなかった胸の内など、知る由もない。泊まれないと誘いを断り、あまり煽るなと警告してこの有様。
表面張力で器から零れるのを防いでいたグラスの中の水の上、一滴が落とされる。そんな映像が浮かんだ。
「オレはたった今、絶好調になった!ってことだ!」
「……きゃっ!」
右手でグッと肩を抱き寄せ、左手は彼女の背中を滑らせて膝裏に添えたら力を込める。直後、琴音の体は横抱きの状態で俺に持ち上げられた。反射的に小さく悲鳴をあげるも、彼女の足は既に宙に浮いている。クライマーだが俺もそれなりに筋肉はあるからな。恋人の一人ぐらい軽々と抱き上げるのは容易い。
そのまま踏込でスリッパを脱ぎ、主室を通過して寝室に向かう。落っこちるのが怖いのか、琴音は咄嗟に腕を俺の首に絡め体を密着させてきた。
大事な宝物を落とすワケがあるまい――フッと漏れた、忍び笑いが聞こえてしまわないように唇を固く結ぶ。
「わ、ダメっッ!重いから!恥ずかしい…っ」
「ワッハッハ!重くもなければ恥ずかしくもないぞ。可愛くて柔らかくて良い香りだ」
「もうっ!」
ありのままを伝えると、琴音は照れくさそうに顔を俯かせた。実際、ゆっくりと一歩ずつ室内の廊下を進む度に、彼女の豊かな弾力が自身の胸板に押し付けられてるから、全部事実だ。
「気回しも葛藤も徒労に終わったよ。俺もこの部屋に一泊出来る事になった」
「それは、嬉しいけど……大丈夫?私が無理を言ったせい?」
「こうなっては、俺がもう無理だ、色々と」
「あの、会話になってな…」
「細かい事は気にするな!」
寝室に辿り着くとツインベッドが二つ。昔の寝具は布団だったが、寝室を増築して以来ベッドに変わった。バリアフリーを意識して数年前にリニューアルした部分のひとつだ。
廊下から離れた奥側の方へゆっくりと琴音を下ろす。部屋の明かりはベッド脇のサイドテーブル上のランプのスイッチだけ。二人の影がカーテンに映し出された。
手触りの良いシーツの上、ヘアクリップを外してやって仰向けに寝かせた。肘で自分の体重を支えながら押し倒し、恥じらいつつ伏し目になった彼女を見下ろす。過去三度、肌を重ねた記憶が鮮明に蘇ったのは俺ばかりじゃないはずだ。睫毛の隙間から覗く潤んだ瞳を見れば明確だった。
「――待って!」
柔らかい髪を指先に掬って耳にかけた瞬間、琴音は雰囲気とはそぐわない音声を発した。心臓の鼓動は速まりながら、魅力的な唇に顔を近づけていた最中だったので、反射的にピタリと動きが止まる。
どうした?と尋ねると、言葉を詰まらせながら“アレ…”と呟いた。察しの良い俺はすかさずポケットに手を入れて、人差し指と中指でスキンを挟んで見せた。念のためひとつじゃない。男のたしなみだ。
「用意して、たの…?」
「うむ。備えあれば憂いなしだ」
「じっ…、尽八くんのエッチ!」
「エッチで構わんよ。俺とて、万が一にも好機が目の前にあれば逃したくない。もしかしたら夕飯の後すぐに部屋に戻ったかも知れないではないか。お前に本気で誘惑されたら、俺の理性も瞬殺だからな」
「ゆ…っ、うわく!?しないよ?」
「いーや、してるぞ既に!無自覚なのだろうが、すげーしてたからな!?俺がどれほど我慢したと……そもそも泊まらないにしてもだな、言ったはずだぞ。手を出さん自信がないと」
「じゃあ…、私が引き止める事も予想してた?」
「いや、予想でなく希望的観測だよ」
あと数ミリで唇が重なりそうな距離まで顔を接近させながら、帯の結び目に指を引っかける。浴衣は上品でいて清楚で凛とした装いの反面、脱がすのはやけに楽だなと前々から頭にあった下世話な思考が過った。
今、とびきり優しい声で囁こう。そしたらきっと、俺の恋人は頬を赤らめながら静かに頷いてくれるはずだ。
「……覚悟を決めて祝ってくれるな?」
・・・・・・・・・
指を絡めて手を繋いだまま、熱い吐息が天井に登る。
心も体も満たす快感の波が寄せては返し、次第に自制は効かなくなっていく。シーツに皺を作って重なった身体は汗ばみ、夕飯前に風呂に入った事実など、とうに意味を無くしていた。
一度果てた後、横になって息を整えている最中に彼女がサイドテーブルに置いた巾着の中の携帯が振動した。音はすぐに止まったものだから、メールか何かだろうと思ったが、それは違った。
俺の腕に寄り添い、柔らかく微笑みながら告げられたのは、日付が変わって一番最初の“祝福”だった。
「尽八くん。お誕生日おめでとう。……来年もその次も、一緒にお祝いさせてね」
先ほどの携帯の振動は、0時ちょうどにセットしてあったアラームだ。俺はというと無我夢中の直後で、日付が変わる瞬間など忘れていた。琴音はいつ、どんな気持ちでアラームをセットしてくれていたのだろう。想像すると目の奥が熱くなった。
「……ああ、ありがとう」
昂ぶりで胸が詰まり、ありきたりな言葉しか返せなかった。幸せな誕生日のはじまりに、万感の思いがこみ上げる。
外はまだ暗い。しばらくしてまた、熱冷めやらぬ視線が通じ合い、どちらともなく唇が触れあって睦言を交わしながら再び深く繋がってゆく。会えなかった時間の欠落感は埋まり、募った恋しさは溶かされて甘い時間は過ぎていった。
共にシャワーを浴び、露天風呂にゆっくり浸かったのは夜明け前頃。箱根山の合間が薄く明るむ様子を眺めながら、二人で温泉を堪能した。こんな時間帯に入ったのは初めてだ。山の向こう側の燃えるような朝焼けが辺りを照らし、眩い光が目の前の景色に広がりはじめる。
すぐ隣で互いの存在を感じながら、心の中では彼女の祝福の言葉が反芻していた。得も言えぬ幸福感に包まれながら、十九歳になった今日に誓う。この光景も、傍にいるあたたかさも、惜しみない愛情も、くれた言葉ひとつひとつ。俺は一生、忘れることはないと。
end.
-4- ※東堂視点
旅館に戻って二人で土産売場へ寄ると、目的は決まっていたのか、琴音は寄木細工で出来た六角形のコースターを二つ手に取ってレジに持って行った。欲しいならば俺が買おうと前へ出ると、手でやんわりと制止された。ひとつは自分用に、もうひとつは俺にと手渡しされる。“寄木細工”――古くから伝わる箱根の伝統工芸品だ。鮮やかな幾何学模様が美しい。
コースターなら通年使えるからお揃いで持っていたい、と、優しい気遣いにじわりと心があたたかくなる。
それから、娯楽室にある卓球台でひとしきり遊んでから、館内の自販機でジュースを買ってラウンジへ移動した。座り心地の良いソファに並んで座ると、琴音は眉をひそめて大きく息をつき、缶を傾けて喉を鳴らして飲み始めた。珍しく、腑に落ちないといった様子だ。
自分は運動音痴だからと笑っていたが、卓球の腕はなかなかのものだった。勝たせてやりたくて少し手を抜いたら、すぐにバレてしまった。『手加減しないように!』と抗議を受けた後、試合は続行した。頬を膨らませて怒る様子が、幼気で可愛らしかった。
……しかし、負けたら負けたで肩を落としているものだから、悪いことをした気になる。
「何をやっても尽八くんには勝てないや。全部器用なんだもんなぁ」
背中を丸めて項垂れる。悔しがるというより、落ち込んでるようだ。腕に自信があったのだろう。しかし相手が悪かった。俺が幼少期から卓球の腕を磨いたのは、この旅館の娯楽室だ。昔からあの場所には、変わらず卓球台が置いてある。備品が古くなれば新調もするが、あの卓球台だけは長持ちで、俺が物心つく前から同じものが設置されていた。
“そうだろうか?”――とぼけて宥めるのは簡単だが、もとより何でもこなせてしまう器用な俺が言うと、逆に嫌味になってしまう。
「まぁ、何でもこなせてしまうのは否定できん」
「うーん……、じゃあスポーツ以外で!料理や掃除は?」
「どちらも嫌いじゃないな」
「ほら、もう、敵うものがないよ。どうして天は私に何も授けてくれなかったんだろう…」
「授かってるだろう?お前には数えきれない程いいところがある」
「ほんと?…例えば?」
「話し出せば一時間では済まないぞ」
「ふふっ、そんなにある?」
小さく笑って顔を上げた彼女に笑顔が戻る。やはり、笑っている顔が一番だ。機嫌を取りたくてそんな風に諭したんじゃない。偽りない本心だ。
「それと、ここには良縁もな」
並んで座った二人掛けのソファの上、手を重ねて閉じ込めるように握った。周囲には誰もいない。静かな空間の中、途端に二人きりの世界になる。
彼女澄んだ綺麗な目は、俺を真っ直ぐに捉えていた。血色の良い頬、口元を注視すれば、本能で吸い寄らせられそうになる。
空いてる方の手を顔に近づけ、人差し指で耳の横から流れる後れ毛を絡ませくるりと遊ぶと、琴音の唇は三日月の形を作ってフッと微笑んだ。
例えば、自転車の才も雄弁さも美しさも、元より備わってる者と差があるものの、絶えず惜しみなく努力をすれば追いつかないこともないだろう。
だが、人の縁や出会いは“運”だ。
もし一昨年の広島大会で例の落車の件がなければ、琴音は自転車競技にマネージャーとして途中入部していない。俺と彼女は、クラスや委員会でも三年間一度として同じにならなかった。接点は“部活”のみ。そもそも琴音とフクが幼馴染でなければ、自転車競技部とも関わりはなく、俺と出会う機会もなかった。
“もしも”が重なって、点と点が徐々に繋がり辿り着いた、貴重な良縁だと感じてる。登れる上にトークも切れ、さらにこの美形――加えて良縁。天は俺に四物を与えたのだ。
「……そうだね。一番大切なものをもらってた」
触れ合った手から愛情が伝わってきて、心臓がチクチクと切なくなる。会えない日々が続き、想いが募りに募っている自覚はあった。
同じく、俺は目を細めて微笑み返した。気持ちが溢れて幾分泣きたい気持ちになったが、決して表情には出さなかった。
・・・
・・・・・
・・・・・・
幼少期。旅館の敷地内でかくれんぼをしたら、隠れるのが上手すぎて夜まで見つからず、あわや警察沙汰になるところだった。
小学生になると、祖父が育ててる盆栽の手入れの手伝いをさせてもらった。美的センスがあるとたいそう褒められた。
中学校からはオシャレに興味を持ち、月初めに小遣いを貰っては小田原までよくショッピングに出かけた。
途中から友人の勧めでロードバイクをはじめ、すぐさま才能が頭角を現してからは自転車に夢中になった。高校の進路も、必然的に“強豪・箱根学園”を目指すようになる。
同時に、その頃から家業の手伝いもするようになり、もてなしの心や堂に入った所作は全て東堂庵で学んだ事だ。
――『私の出会う前の尽八くんの話をもっと聞かせて』
頼まれるまま話し始めたら、琴音は興味津々で聞き入っていた。
多分、これまでに話した覚えがあるようなエピソードにも、丁寧に頷いて耳を傾けていた。時折、談笑を交えつつ楽しい時間を過ごし、気付いたら夜の十時半を回っていた。
「もう夜も遅い。そろそろ部屋まで送ろう」
ラウンジの壁にかかる時計を一瞥して立ち上がると、琴音も浴衣の裾を整えソファから腰を上げた。
フロントの前を通り過ぎ直線の廊下を出来るだけゆっくり進んでも、間もなく部屋に到着してしまう。ここでいったん解散となると正直名残惜しいが、小声で別れの挨拶をしたら踵を返そうと決めていた。
廊下では声を潜めて静かに歩き、部屋の前に着くと琴音は手早く鍵を開けた。扉を開けて客室入口でスリッパを脱いだ後、彼女は手招きする仕草で俺を部屋の中へと誘ってきた。
扉が開いたままだと会話が廊下に響いてしまう。何か言い忘れたのかと、疑いもせず後ろ手で扉を閉めた隙に、すかさず琴音は手を伸ばして鍵をかけた。
そしてすぐに、俺の胸に頬を寄せて抱き着いてきた。突然のことで、肩に添える手が一瞬迷う。
「やっぱり日付が変わるまで一緒にいたい。どうしても一番に、尽八くんをお祝いしたいの」
しゅんとして縋る幼子のように弱々しく、そのくせ眼差しは熱を帯びていて、愛らしさに堪らなくなる。肩を抱き直し一度目を閉じて冷静に。ぐらりと揺れた理性を立て直した。
「ラウンジで言わなかったのは、断られると思ったからか?」
「うん。我儘言ってごめんなさい。去年は当日ギリギリだったから、今年こそは伝えたくて……」
「この部屋を案内した際に告げたことを、忘れたわけではあるまいな?」
「忘れてないよ!でも、尽八くんだって夕飯前、迎えに来てくれた時に抱きついたじゃない。おあいこだよ」
「……おあいこ、か」
双方の差が無い状態――“おあいこ”という言葉の意味を脳裏に巡らすも、しっくり来ない。男の俺からすれば差を感じて当たり前だ。
自制していたのに触れたい欲がじわじわと溢れて出す。測らずとも、琴音よりも俺の気持ちの方が遥かに上回っているのだから、互角じゃない。
困らせると理解していても、それでも日付が変わって一番にお祝いしたい――か。琴音の染まる頬色から、隠しようもなく恥じらいや迷いが滲んでいた。色々考えて迷った挙句、行動に至ったのだ。
……俺は、そんな彼女の勇気を無下に出来るのか?
不意に、ポケットの中で震えた携帯の振動が肌に伝わった。
震えた音が小さく響き、気付いた琴音も反射的に離れた。こんな時間に緊急の連絡かもしれないと、届いたメールを確認すれば送り主は母からだった。
《尽八へ。今日はお手伝いありがとう。助かりました。
たまにはうちの温泉に入って疲れを癒してきてください。
くれぐれも、琴音さんを一人にして寂しい思いをさせないようにね》
携帯の画面に映し出された文字を目で追いながら、彼女は目を丸くしてる俺を不安げな表情で覗き込んだ。
急に気恥ずかしさが込み上げ、ハァと情けない溜息が喉の奥から漏れた。東堂庵の嫡男として遠慮し、気を回していた事に気付かれていたとは――すべて、杞憂だった。
わざわざ後押しのメールを親から送られてるぐらいなら、最初からもっと堂々としていればよかった。勘ぐられたってさしたる問題じゃない。そもそも彼女と一緒に部屋に泊まるからと言って、俺の家族に後々冷やかすような野暮な真似をする者はいないだろう。ヨシさんあたりに知られたら『男を上げましたね!』…なんて、意気揚々と背中を叩かれそうだが、一時的に羞恥心を煽られる程度で済む。
「……母から、恋人を一人にするなというお達しだ」
「えっ?」
「万事、見透かされていたらしい」
「もしかして怒られた、とか?……落ち込んでる?」
「いや、落ち込んでるどころか――」
くしゃりと前髪をかき上げ、口元を綻ばせる。こうなっては自宅にも戻れないだろう。鉢合わせでもしたら旅館に戻れと追い返される。
上目遣いで見つめる彼女の瞳は知らない。
前日からこんなに浮かれ、気もそぞろで、紳士的な振舞いが今にも崩れそうで――触れたくて仕方がなかった胸の内など、知る由もない。泊まれないと誘いを断り、あまり煽るなと警告してこの有様。
表面張力で器から零れるのを防いでいたグラスの中の水の上、一滴が落とされる。そんな映像が浮かんだ。
「オレはたった今、絶好調になった!ってことだ!」
「……きゃっ!」
右手でグッと肩を抱き寄せ、左手は彼女の背中を滑らせて膝裏に添えたら力を込める。直後、琴音の体は横抱きの状態で俺に持ち上げられた。反射的に小さく悲鳴をあげるも、彼女の足は既に宙に浮いている。クライマーだが俺もそれなりに筋肉はあるからな。恋人の一人ぐらい軽々と抱き上げるのは容易い。
そのまま踏込でスリッパを脱ぎ、主室を通過して寝室に向かう。落っこちるのが怖いのか、琴音は咄嗟に腕を俺の首に絡め体を密着させてきた。
大事な宝物を落とすワケがあるまい――フッと漏れた、忍び笑いが聞こえてしまわないように唇を固く結ぶ。
「わ、ダメっッ!重いから!恥ずかしい…っ」
「ワッハッハ!重くもなければ恥ずかしくもないぞ。可愛くて柔らかくて良い香りだ」
「もうっ!」
ありのままを伝えると、琴音は照れくさそうに顔を俯かせた。実際、ゆっくりと一歩ずつ室内の廊下を進む度に、彼女の豊かな弾力が自身の胸板に押し付けられてるから、全部事実だ。
「気回しも葛藤も徒労に終わったよ。俺もこの部屋に一泊出来る事になった」
「それは、嬉しいけど……大丈夫?私が無理を言ったせい?」
「こうなっては、俺がもう無理だ、色々と」
「あの、会話になってな…」
「細かい事は気にするな!」
寝室に辿り着くとツインベッドが二つ。昔の寝具は布団だったが、寝室を増築して以来ベッドに変わった。バリアフリーを意識して数年前にリニューアルした部分のひとつだ。
廊下から離れた奥側の方へゆっくりと琴音を下ろす。部屋の明かりはベッド脇のサイドテーブル上のランプのスイッチだけ。二人の影がカーテンに映し出された。
手触りの良いシーツの上、ヘアクリップを外してやって仰向けに寝かせた。肘で自分の体重を支えながら押し倒し、恥じらいつつ伏し目になった彼女を見下ろす。過去三度、肌を重ねた記憶が鮮明に蘇ったのは俺ばかりじゃないはずだ。睫毛の隙間から覗く潤んだ瞳を見れば明確だった。
「――待って!」
柔らかい髪を指先に掬って耳にかけた瞬間、琴音は雰囲気とはそぐわない音声を発した。心臓の鼓動は速まりながら、魅力的な唇に顔を近づけていた最中だったので、反射的にピタリと動きが止まる。
どうした?と尋ねると、言葉を詰まらせながら“アレ…”と呟いた。察しの良い俺はすかさずポケットに手を入れて、人差し指と中指でスキンを挟んで見せた。念のためひとつじゃない。男のたしなみだ。
「用意して、たの…?」
「うむ。備えあれば憂いなしだ」
「じっ…、尽八くんのエッチ!」
「エッチで構わんよ。俺とて、万が一にも好機が目の前にあれば逃したくない。もしかしたら夕飯の後すぐに部屋に戻ったかも知れないではないか。お前に本気で誘惑されたら、俺の理性も瞬殺だからな」
「ゆ…っ、うわく!?しないよ?」
「いーや、してるぞ既に!無自覚なのだろうが、すげーしてたからな!?俺がどれほど我慢したと……そもそも泊まらないにしてもだな、言ったはずだぞ。手を出さん自信がないと」
「じゃあ…、私が引き止める事も予想してた?」
「いや、予想でなく希望的観測だよ」
あと数ミリで唇が重なりそうな距離まで顔を接近させながら、帯の結び目に指を引っかける。浴衣は上品でいて清楚で凛とした装いの反面、脱がすのはやけに楽だなと前々から頭にあった下世話な思考が過った。
今、とびきり優しい声で囁こう。そしたらきっと、俺の恋人は頬を赤らめながら静かに頷いてくれるはずだ。
「……覚悟を決めて祝ってくれるな?」
・・・・・・・・・
指を絡めて手を繋いだまま、熱い吐息が天井に登る。
心も体も満たす快感の波が寄せては返し、次第に自制は効かなくなっていく。シーツに皺を作って重なった身体は汗ばみ、夕飯前に風呂に入った事実など、とうに意味を無くしていた。
一度果てた後、横になって息を整えている最中に彼女がサイドテーブルに置いた巾着の中の携帯が振動した。音はすぐに止まったものだから、メールか何かだろうと思ったが、それは違った。
俺の腕に寄り添い、柔らかく微笑みながら告げられたのは、日付が変わって一番最初の“祝福”だった。
「尽八くん。お誕生日おめでとう。……来年もその次も、一緒にお祝いさせてね」
先ほどの携帯の振動は、0時ちょうどにセットしてあったアラームだ。俺はというと無我夢中の直後で、日付が変わる瞬間など忘れていた。琴音はいつ、どんな気持ちでアラームをセットしてくれていたのだろう。想像すると目の奥が熱くなった。
「……ああ、ありがとう」
昂ぶりで胸が詰まり、ありきたりな言葉しか返せなかった。幸せな誕生日のはじまりに、万感の思いがこみ上げる。
外はまだ暗い。しばらくしてまた、熱冷めやらぬ視線が通じ合い、どちらともなく唇が触れあって睦言を交わしながら再び深く繋がってゆく。会えなかった時間の欠落感は埋まり、募った恋しさは溶かされて甘い時間は過ぎていった。
共にシャワーを浴び、露天風呂にゆっくり浸かったのは夜明け前頃。箱根山の合間が薄く明るむ様子を眺めながら、二人で温泉を堪能した。こんな時間帯に入ったのは初めてだ。山の向こう側の燃えるような朝焼けが辺りを照らし、眩い光が目の前の景色に広がりはじめる。
すぐ隣で互いの存在を感じながら、心の中では彼女の祝福の言葉が反芻していた。得も言えぬ幸福感に包まれながら、十九歳になった今日に誓う。この光景も、傍にいるあたたかさも、惜しみない愛情も、くれた言葉ひとつひとつ。俺は一生、忘れることはないと。
end.