短編・中編
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燦然前夜
-3- ※東堂視点
日が落ちて群青色の空に月が登りはじめた頃、俺は旅館に隣接している自宅から移動し、琴音の居る客室の扉をコンコンと叩いた。
ちょうど夕飯直前の時間ピタリ。宿泊客で食事処が賑わう時間帯だ。
手伝いを切り上げた後で一度自宅に戻ってシャワーを浴び、ラフな服装に着替えてきた。荷運びの仕事で汗をかいたという理由もあるが、何より作務衣のままでは従業員と間違えられてしまう。ここからは琴音と食事を楽しむための時間だ。
はぁい、と弾む声。返事と共に足音が聞こえ、扉が開けば、髪をアップして大人っぽい浴衣姿の琴音に出迎えられた。耳朶にかかる後れ毛も色気を醸し出している。血色の良い桃色の唇が魅力的に映り、柔らかな頬につい触りたくなる。いつもと違う雰囲気に、途端、心臓が早鐘を打ちはじめた。
……これは、想像以上に。そそられる、と本能的に体が疼く。
内心で滾る欲求を気取られないよう、いつもの笑みと共に可愛い恋人を賞賛せねばと口角を上げた時、目を丸くしてぼうっとしている彼女に気が付いた。数秒眺めてから不思議に思って顔を覗き込むと、素早く琴音は後ずさった。
「どうした?」
「ち、近い…!」
「ははっ、近いな」
慌てる様子に心がくすぐったくなる。すっと髪に鼻を近づけると微かなシャンプーの香りに想像力が働いてしまい、胸が高鳴った。
実のところ、客室を案内した時から既に、キスしてぇー…ぐらいは考えてる。俺とて健全な男子だ、仕方ない。
好きな女と密室で二人になるシチュエーションというだけで、様々な感情が爆発しそうになるのは十代男子特有の病なのだから。否、年齢など関係ないか。
明日の誕生日当日は箱根の観光地巡りになる。去年のように口付けを交わすチャンスが巡ってくるとも限らない。
泊まれないならばせめて…!と、ふっくらした彼女の唇に密かに射るような眼差しを向ければ、刹那、頭の中に警鐘が鳴り響く。
――俺は、その先の感触を知ってる。触れるだけとは違う、快楽で脳が痺れる感覚を。初めてのキスとは違う、あどけないものじゃない。何も知らないままならこんなに葛藤しなかった。いくら女子が魅力的だろうと、俺は紳士的に対応することが出来る人間だったはず。だがそれは、たった一人の恋人の前ではそんな自信は思い上がりだと知る。
もう考えないように、した方がいい。……吹けば容易く吹き飛ぶ紙ぺら理性だと、伝えたのは自分ではないか。でもって紙が飛んでった先は、シュレッダーだ。暴走して幻滅されたくない。
俺の思惑など露知らず、琴音は細い指で俺の前髪をそっと撫でた。
「今日はカチューシャしてないんだね」
「髪を洗ってきたからな」
「後ろ髪を束ねてる姿、初めて見た。王子様みたいで見惚れちゃった」
「ワッハッハ!眠れる森の美形だからな!何をしても煌めきが溢れてしまうのはやむを得ん事だ」
「ホントだね。ずっと見てられるもん」
いつもの調子で返しても、素直に頷かれてしまう。
人生で数えきれない程、女子に褒められ慣れて来たはずなのに、どうして彼女に褒められるとこんなにこそばゆくなるのか――既に恋人同士の今、答えは出ているけれど。男女の関係を以ても尚、なかなかどうして初々しさを取っ払うのは難しい。付き合い始めて一年…、刺激が合って良い事には変わりないが、時に困り物だ。
「……汗を流してきたばかりだと言うのに」
聞き取れない程度の小さな声で独り言ちながら、大きく息を吐いた。気恥ずかしさで首筋が赤らんで汗が滲んでしまう。
小首を傾げた琴音は、俺の呟きを無理に聞き返そうとはせず、そのまま廊下に出て、俺に背を向け扉を施錠している。
なんて無防備な後ろ姿だ。滑らかな首筋が、まとめ上げた髪から見え隠れしている。
気が付けば、彼女の浴衣の帯の結び目に手を添えて、寄り添っていた。いや、体を密着させていたと表現した方が正しい。後ろから突然抱擁され、彼女の肩がピクリと震えた。
「浴衣、似合ってるな。それがうちの旅館のものなのだから、尚のこと嬉しいよ」
耳元に唇を寄せて囁けば、浴衣越しにもわかるほど琴音の体温が上がっていった。
「……尽八くん?ど、どしたの?」
「俺だけ照れるのは不公平だからな。お返しだ」
「えっ…、なんの話?私、なにかした?」
「いや、こっちの話だ」
露になったうなじに目が釘付けになる。結局、動揺させるはずが逆に自分へ跳ね返って来た気がした。シャンプーもボディソープも宿の備え付けのものを使ってるはず。俺にとってはすっかり慣れた香りだというのに、心が波立つ。
心臓の音が背中越しに伝わってしまうな――と頭の片隅に過った時、ちょうど隣の客室の扉が開く音がしてすぐに彼女から離れた。
さすがに他の客人に目撃されたら気まずい。私服に着替えたとは言え、小一時間前まで働いていた従業員だとバレるだろう。目立った行動は良くない。
「私たちも行こっか」
頬を赤くして振り向きざまに目細めて笑う琴音に頷いた。その紅潮は……お返し、してやったりか?
白く小さな手を取って、エスコートするように俺は半歩先を歩き出した。
・・・
・・・・・
・・・・・・
夕食時、前菜から始まる季節のコース料理に舌鼓を打ちながら、幸せな時間を堪能した。
料理長自慢の、和食中心の品々を食すのもかなり久々のことだった。温泉と同じく、従業員や経営陣はなかなか口にする機会がない。旅館の周年行事や、よほどの祝い事に限る。彩から盛り付けも美しく、味は濃すぎず素材の味を生かした繊細さは、口にする度に感動する。
温泉で疲れをとり、美味しいもので英気を養い、歴史ある趣深い創りのこの旅館で心地よさを最大限に感じて欲しい。
すべてが『東堂庵』の誇れる“もてなし”を、一番大切な恋人に体験して欲しいという願いが叶った。
琴音は、ひとつひとつに感動しながら丁寧に味わい、残さず食していた。料理長もこんなに美味しそうに食べている客がいると知れば喜ぶことだろう。俺も彼女もまだ二十前の学生で、コース料理を頂く機会があるとすれば親戚の結婚式ぐらいなものだ。食べた事がない料理が多いのも当然。反応も新鮮だ。
『美味しくて幸せ』と、左手で頬を抑えながら何度も繰り返す。いつかの未来、同じ食卓を囲むことができたなら毎日が賑やかになりそうだ。今の時代は男でも料理を作れるようにならなければ。きっと、俺が作ったものも喜んで食べてくれるだろう――
「尽八くん?どうしたの?箸が止まって…、おなかいっぱい?」
「いや、まだ余裕だが…」
「……考え事?」
「ずっとお前をここへ連れて来たかったからな。それが叶って、もうプレゼントを貰った気分だ」
箸を置き、琴音は顔の前で手を扇ぎ始めた。目をちぱちさせて動揺してる様子だ。
「こんなに素敵なプレゼントをもらってるの、私の方だから…っ!尽八くんへの贈り物はちゃんと別にあるから、明日渡すね」
「ああ、楽しみにしてるよ」
「……けど、フツーに売ってるものだから、あまり期待はしないでね?」
「お前が贈ってくれる事に意味がある。喜ばんわけがなかろう」
ほんとに?と、小首を傾げる仕草が愛らしい。本当に決まってる。一生懸命考えてプレゼントを選んでくれた時間さえも、俺にとっては尊いものだ。
大学に入学して間もなく、病院で開けたピアスホール。
ファーストピアスでしっかり穴を貫通させた後、真っ先に付けたのが去年のプレゼントの赤いピアス。今日もしっかりと両方の耳につけて、レッドジルコニアは特別な輝きを放っていた。大事に使っているお気に入りだ。遠く離れた場所にいても、彼女が傍で見守ってくれてるような気持ちになる。
照れくさそうにはにかむ表情も、浴衣姿も、湯上りの香りも全て記憶に焼き付けておきたい。
ゆっくり深々と呼吸をすれば、多幸感が胸いっぱいに満たされていく。瞬きを忘れ、俺は彼女を見つめ続けた。
もしもまた、うちの旅館に訪れる機会があるならば、離れの方の部屋をとって今度こそ一緒に泊まりたい。離れならよりプライベートな空間だし、希望があれば部屋食へも変更可能だ。
夫婦ならば、後ろ暗さもないだろう――と、…いかんな。
頭を振って、未来の過ぎた妄想を振り払う。今はこの瞬間を楽しまないと勿体ない。
間もなく締めのデザートが運ばれ、冷たいぜんざいの上で半分顔を見せている白玉がつやつやと光っている。幸せそうに頬張る彼女を惚れ惚れと眺めながら、小豆がの上品な甘みが口の中で広がっていった。
・・・・・・
食休みに散歩でもしようと外に出てみれば、空気は夏の夜特有の湿気を含んだままだった。しかし、日中より遥かに過ごしやすい気温だ。山や木々に囲まれたこの場所で夜に吹く風は、時々緑のにおいがして気が緩む。貸し出しの草履を履いて、いつもより慎重に歩く琴音と手を繋いで敷地内を回った。
館内からのあたたかな灯りがガラス戸越しに外を明るく照らしていた。歴史ある趣深い創りを保ってきたこの宿は、魅力的な外観だと改めて感慨に耽る。
正面玄関はライトアップされ、長い石段には和風なガーデンライトが等間隔に置かれている。石段だけでなく庭園の通路にも点々と続き、光の道を辿って行けば迷うことなく離れの方へ辿り着いた。
「こっちにも部屋があるんだね」
「“離れ”と言ってな。一棟貸しの平屋建ての部屋だ。無論、露天風呂もあるぞ」
星が瞬く夜空の下、ライトで照らされた夜の庭園はロマンチックな雰囲気に包まれていた。リンリン鳴く鈴虫の声に風情を感じる。
“求愛のため”に鳴いてるのだと、幼い頃に図鑑で調べて知った。
一棟ずつ間隔あけて並ぶ離れを前に、手を繋いだ二人の間に和やかな空気が流れた。つい気紛れに、先ほど過った妄想の話でもしてみるか…とわざとらしく咳払いすると、俺が切り出すより早く、彼女は屋根の方を見上げて穏やかに話し始めた。
「私もいつか両親にプレゼントしたいな。東堂庵の“おもてなし”。働いて稼ぐようになったら、…うん、初ボーナスが出た時の使い道が決まったかも」
屈託のない笑みを向け、口元を綻ばせながら親孝行をしたいと告げる。こんな優しい娘がいたのなら、俺が父親だったらその場で静かに号泣するところだ。滝のような涙がとめどなく溢れる己の様が目に浮かぶ。そして、はずみで自分の妄想話を聞かせなくてよかったと人知れず安堵していた。
“夫婦ならば”、とか――今、言わずとも、そのうち然るべき機は訪れるはずだ。
……あぁ、らしくもなくだいぶ浮かれてる。東堂庵に招き、彼女の喜ぶ顔を見て一番得をしてるのは、結局、俺なのだろうな。
-3- ※東堂視点
日が落ちて群青色の空に月が登りはじめた頃、俺は旅館に隣接している自宅から移動し、琴音の居る客室の扉をコンコンと叩いた。
ちょうど夕飯直前の時間ピタリ。宿泊客で食事処が賑わう時間帯だ。
手伝いを切り上げた後で一度自宅に戻ってシャワーを浴び、ラフな服装に着替えてきた。荷運びの仕事で汗をかいたという理由もあるが、何より作務衣のままでは従業員と間違えられてしまう。ここからは琴音と食事を楽しむための時間だ。
はぁい、と弾む声。返事と共に足音が聞こえ、扉が開けば、髪をアップして大人っぽい浴衣姿の琴音に出迎えられた。耳朶にかかる後れ毛も色気を醸し出している。血色の良い桃色の唇が魅力的に映り、柔らかな頬につい触りたくなる。いつもと違う雰囲気に、途端、心臓が早鐘を打ちはじめた。
……これは、想像以上に。そそられる、と本能的に体が疼く。
内心で滾る欲求を気取られないよう、いつもの笑みと共に可愛い恋人を賞賛せねばと口角を上げた時、目を丸くしてぼうっとしている彼女に気が付いた。数秒眺めてから不思議に思って顔を覗き込むと、素早く琴音は後ずさった。
「どうした?」
「ち、近い…!」
「ははっ、近いな」
慌てる様子に心がくすぐったくなる。すっと髪に鼻を近づけると微かなシャンプーの香りに想像力が働いてしまい、胸が高鳴った。
実のところ、客室を案内した時から既に、キスしてぇー…ぐらいは考えてる。俺とて健全な男子だ、仕方ない。
好きな女と密室で二人になるシチュエーションというだけで、様々な感情が爆発しそうになるのは十代男子特有の病なのだから。否、年齢など関係ないか。
明日の誕生日当日は箱根の観光地巡りになる。去年のように口付けを交わすチャンスが巡ってくるとも限らない。
泊まれないならばせめて…!と、ふっくらした彼女の唇に密かに射るような眼差しを向ければ、刹那、頭の中に警鐘が鳴り響く。
――俺は、その先の感触を知ってる。触れるだけとは違う、快楽で脳が痺れる感覚を。初めてのキスとは違う、あどけないものじゃない。何も知らないままならこんなに葛藤しなかった。いくら女子が魅力的だろうと、俺は紳士的に対応することが出来る人間だったはず。だがそれは、たった一人の恋人の前ではそんな自信は思い上がりだと知る。
もう考えないように、した方がいい。……吹けば容易く吹き飛ぶ紙ぺら理性だと、伝えたのは自分ではないか。でもって紙が飛んでった先は、シュレッダーだ。暴走して幻滅されたくない。
俺の思惑など露知らず、琴音は細い指で俺の前髪をそっと撫でた。
「今日はカチューシャしてないんだね」
「髪を洗ってきたからな」
「後ろ髪を束ねてる姿、初めて見た。王子様みたいで見惚れちゃった」
「ワッハッハ!眠れる森の美形だからな!何をしても煌めきが溢れてしまうのはやむを得ん事だ」
「ホントだね。ずっと見てられるもん」
いつもの調子で返しても、素直に頷かれてしまう。
人生で数えきれない程、女子に褒められ慣れて来たはずなのに、どうして彼女に褒められるとこんなにこそばゆくなるのか――既に恋人同士の今、答えは出ているけれど。男女の関係を以ても尚、なかなかどうして初々しさを取っ払うのは難しい。付き合い始めて一年…、刺激が合って良い事には変わりないが、時に困り物だ。
「……汗を流してきたばかりだと言うのに」
聞き取れない程度の小さな声で独り言ちながら、大きく息を吐いた。気恥ずかしさで首筋が赤らんで汗が滲んでしまう。
小首を傾げた琴音は、俺の呟きを無理に聞き返そうとはせず、そのまま廊下に出て、俺に背を向け扉を施錠している。
なんて無防備な後ろ姿だ。滑らかな首筋が、まとめ上げた髪から見え隠れしている。
気が付けば、彼女の浴衣の帯の結び目に手を添えて、寄り添っていた。いや、体を密着させていたと表現した方が正しい。後ろから突然抱擁され、彼女の肩がピクリと震えた。
「浴衣、似合ってるな。それがうちの旅館のものなのだから、尚のこと嬉しいよ」
耳元に唇を寄せて囁けば、浴衣越しにもわかるほど琴音の体温が上がっていった。
「……尽八くん?ど、どしたの?」
「俺だけ照れるのは不公平だからな。お返しだ」
「えっ…、なんの話?私、なにかした?」
「いや、こっちの話だ」
露になったうなじに目が釘付けになる。結局、動揺させるはずが逆に自分へ跳ね返って来た気がした。シャンプーもボディソープも宿の備え付けのものを使ってるはず。俺にとってはすっかり慣れた香りだというのに、心が波立つ。
心臓の音が背中越しに伝わってしまうな――と頭の片隅に過った時、ちょうど隣の客室の扉が開く音がしてすぐに彼女から離れた。
さすがに他の客人に目撃されたら気まずい。私服に着替えたとは言え、小一時間前まで働いていた従業員だとバレるだろう。目立った行動は良くない。
「私たちも行こっか」
頬を赤くして振り向きざまに目細めて笑う琴音に頷いた。その紅潮は……お返し、してやったりか?
白く小さな手を取って、エスコートするように俺は半歩先を歩き出した。
・・・
・・・・・
・・・・・・
夕食時、前菜から始まる季節のコース料理に舌鼓を打ちながら、幸せな時間を堪能した。
料理長自慢の、和食中心の品々を食すのもかなり久々のことだった。温泉と同じく、従業員や経営陣はなかなか口にする機会がない。旅館の周年行事や、よほどの祝い事に限る。彩から盛り付けも美しく、味は濃すぎず素材の味を生かした繊細さは、口にする度に感動する。
温泉で疲れをとり、美味しいもので英気を養い、歴史ある趣深い創りのこの旅館で心地よさを最大限に感じて欲しい。
すべてが『東堂庵』の誇れる“もてなし”を、一番大切な恋人に体験して欲しいという願いが叶った。
琴音は、ひとつひとつに感動しながら丁寧に味わい、残さず食していた。料理長もこんなに美味しそうに食べている客がいると知れば喜ぶことだろう。俺も彼女もまだ二十前の学生で、コース料理を頂く機会があるとすれば親戚の結婚式ぐらいなものだ。食べた事がない料理が多いのも当然。反応も新鮮だ。
『美味しくて幸せ』と、左手で頬を抑えながら何度も繰り返す。いつかの未来、同じ食卓を囲むことができたなら毎日が賑やかになりそうだ。今の時代は男でも料理を作れるようにならなければ。きっと、俺が作ったものも喜んで食べてくれるだろう――
「尽八くん?どうしたの?箸が止まって…、おなかいっぱい?」
「いや、まだ余裕だが…」
「……考え事?」
「ずっとお前をここへ連れて来たかったからな。それが叶って、もうプレゼントを貰った気分だ」
箸を置き、琴音は顔の前で手を扇ぎ始めた。目をちぱちさせて動揺してる様子だ。
「こんなに素敵なプレゼントをもらってるの、私の方だから…っ!尽八くんへの贈り物はちゃんと別にあるから、明日渡すね」
「ああ、楽しみにしてるよ」
「……けど、フツーに売ってるものだから、あまり期待はしないでね?」
「お前が贈ってくれる事に意味がある。喜ばんわけがなかろう」
ほんとに?と、小首を傾げる仕草が愛らしい。本当に決まってる。一生懸命考えてプレゼントを選んでくれた時間さえも、俺にとっては尊いものだ。
大学に入学して間もなく、病院で開けたピアスホール。
ファーストピアスでしっかり穴を貫通させた後、真っ先に付けたのが去年のプレゼントの赤いピアス。今日もしっかりと両方の耳につけて、レッドジルコニアは特別な輝きを放っていた。大事に使っているお気に入りだ。遠く離れた場所にいても、彼女が傍で見守ってくれてるような気持ちになる。
照れくさそうにはにかむ表情も、浴衣姿も、湯上りの香りも全て記憶に焼き付けておきたい。
ゆっくり深々と呼吸をすれば、多幸感が胸いっぱいに満たされていく。瞬きを忘れ、俺は彼女を見つめ続けた。
もしもまた、うちの旅館に訪れる機会があるならば、離れの方の部屋をとって今度こそ一緒に泊まりたい。離れならよりプライベートな空間だし、希望があれば部屋食へも変更可能だ。
夫婦ならば、後ろ暗さもないだろう――と、…いかんな。
頭を振って、未来の過ぎた妄想を振り払う。今はこの瞬間を楽しまないと勿体ない。
間もなく締めのデザートが運ばれ、冷たいぜんざいの上で半分顔を見せている白玉がつやつやと光っている。幸せそうに頬張る彼女を惚れ惚れと眺めながら、小豆がの上品な甘みが口の中で広がっていった。
・・・・・・
食休みに散歩でもしようと外に出てみれば、空気は夏の夜特有の湿気を含んだままだった。しかし、日中より遥かに過ごしやすい気温だ。山や木々に囲まれたこの場所で夜に吹く風は、時々緑のにおいがして気が緩む。貸し出しの草履を履いて、いつもより慎重に歩く琴音と手を繋いで敷地内を回った。
館内からのあたたかな灯りがガラス戸越しに外を明るく照らしていた。歴史ある趣深い創りを保ってきたこの宿は、魅力的な外観だと改めて感慨に耽る。
正面玄関はライトアップされ、長い石段には和風なガーデンライトが等間隔に置かれている。石段だけでなく庭園の通路にも点々と続き、光の道を辿って行けば迷うことなく離れの方へ辿り着いた。
「こっちにも部屋があるんだね」
「“離れ”と言ってな。一棟貸しの平屋建ての部屋だ。無論、露天風呂もあるぞ」
星が瞬く夜空の下、ライトで照らされた夜の庭園はロマンチックな雰囲気に包まれていた。リンリン鳴く鈴虫の声に風情を感じる。
“求愛のため”に鳴いてるのだと、幼い頃に図鑑で調べて知った。
一棟ずつ間隔あけて並ぶ離れを前に、手を繋いだ二人の間に和やかな空気が流れた。つい気紛れに、先ほど過った妄想の話でもしてみるか…とわざとらしく咳払いすると、俺が切り出すより早く、彼女は屋根の方を見上げて穏やかに話し始めた。
「私もいつか両親にプレゼントしたいな。東堂庵の“おもてなし”。働いて稼ぐようになったら、…うん、初ボーナスが出た時の使い道が決まったかも」
屈託のない笑みを向け、口元を綻ばせながら親孝行をしたいと告げる。こんな優しい娘がいたのなら、俺が父親だったらその場で静かに号泣するところだ。滝のような涙がとめどなく溢れる己の様が目に浮かぶ。そして、はずみで自分の妄想話を聞かせなくてよかったと人知れず安堵していた。
“夫婦ならば”、とか――今、言わずとも、そのうち然るべき機は訪れるはずだ。
……あぁ、らしくもなくだいぶ浮かれてる。東堂庵に招き、彼女の喜ぶ顔を見て一番得をしてるのは、結局、俺なのだろうな。